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三国時代の金銅仏の復元的研究

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Academic year: 2021

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三国時代の金銅仏の復元的研究

郭東錫

小形金銅仏は、一定の図像形式と様式伝播において、何よりも重要な媒介体であり、

先駆的な役割を果たした。ゆえに古代東アジアの仏教文化の交流様相を究明する意 義深い分析対象である。本論文においては、まず、6、7世紀の韓半島三国時代にお ける小形金銅仏細部形式と制作技法の特徴を分析し、その原型を復元した。そして、

これまで様式的な編年設定と制作地の推定にとどまっていた韓国古代彫刻史の研究 方法論を再定立することを目指した。さらに、韓半島三国と飛鳥時代の仏教彫刻との 影響関係を体系的かつ実証的に論究した。特に、近年中国の南京と山東地域から発 見された金銅一光三尊仏と百済の類似事例を巨視的な視角から再評価して、山東半 島から百済、飛鳥までつながる古代金銅仏の伝播ルートを実証的に復元し、関連分 野の研究に対し一定の方向性を示した点に意義を有すると考える。

本稿は、五つの章立てと一つの補論からなる。

第一章では、三国時代彫刻史の初期に当たる5~6世紀の金銅仏の展開様相を禅 定印如来坐像と紀年銘金銅仏を中心に考察した。まず、ソウル纛島(トゥクソム)出土の 金銅禅定印如来坐像の制作地問題を再検討した。現在までこの金銅仏は中国から伝 来した渡来仏とみなされてきたが、東京芸大所蔵の金銅仏坐像と比較した結果、縮小 された寸法や無垢式鋳造、相好と身体造形の相異性などにおいて、格段の相違点が 発見された。これにより、この金銅仏は5世紀前半(446年以前)に中国の仏像を模倣し て韓国で制作されたものと考えられ、三国の中でも高句麗である可能性が高いと見受 けられる。これは、高句麗の古墳壁画の中に同一形式の禅定印如来坐像が表現され た作例(長川一号墳前室後壁、5世紀末~6世紀初)があり、また6世紀には高句麗を中 心に裳懸座禅定印如來坐像が特に流行したためでもある。特に、このような裳懸座禅 定印如来坐像は、中国と日本では見受けられない韓国的な図像の一つである可能性 が大きい。

次に、三国時代初期の彫刻史の基準作である6世紀紀年銘金銅仏の特徴を調べた。

延嘉七年銘金銅如来立像は、銘文内容の検討と様式の比較考察により、539年高句

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麗で千仏像の一つとして造像後、新羅地域に伝来された韓国的な造形感覚が発揮さ れた最初の仏像として規定された。癸未銘金銅三尊仏は563年に制作された一光三 尊仏の典型で、その制作地は高句麗と推定され、魚子文の使用と共に仏身と台座の 結合方式において新しい技術が駆使されたことが目立つ。同一形式の紀年銘一光三 尊仏である辛卯銘金銅三尊仏は、571年に造像された高句麗金銅仏として、銘文によ り尊名が無量寿三尊仏と確認される三国時代最初の例として注目された。二つの三尊 仏は無垢式の延嘉銘金銅仏とは異なり、各部分を別途に鋳造してから結合する方式 であり、より繊細な彫刻が可能であったことが分かる。さらに、金銅仏の造形性と鋳造 技法の密接な関連性を垣間見ることができる。

第二章では、三国時代金銅仏の主要形式である一光三尊仏と半跏思惟像を中心 に制作技法上の類型別の特徴と典型形式、そして使用された鋳造技法の諸様相を検 討し原形を推定することで、今日までの断片的な考察にとどまっていた三国時代の彫 刻史の全体相と時代別の変化相を探った。まず、6世紀に定型を成し、大いに流行し た金銅製一光三尊仏の類型別の特徴と制作技法を検討した。金銅一光三尊仏は制 作技法上、「一鋳式」と「中尊別鋳結合式」、「三尊別鋳結合式」に分類される。一鋳式 は東京国立博物館の小倉コレクション金銅三尊仏坐像を除き中尊はすべて立像であ り、全身の高さはすべて10センチ前後で中尊別鋳結合式一光三尊仏の縮小版のよう な印象を与える。よって全般的に線彫が多く、細部の表現も形式化されたものが多い。

中尊別鋳結合式は蓮弁形光背と両脇侍菩薩を一鋳し、中尊は別鋳して光背用枘とし て互いに結合した形式をいい、前章で見た癸未銘金銅三尊仏と辛卯銘金銅無量寿 三尊仏が代表的な例である。三尊別鋳結合式は、大光背と三尊、台座をそれぞれ別 鋳した後に結合した形式であり、現在韓国国内にはこの類型の完形は一点も見当たら ない。ただし、法隆寺献納宝物第143号金銅三尊仏に見られる構造的特徴を基準に 逆類推し、多数の単独金銅仏の中に一光三尊仏の中尊や脇侍として造像された可能 性のある作例が相当含まれていることを確認した。原形の復元過程と全体的な様相、

および様式上の制作地の推定については第三章で詳しく述べた。

一方、墩子-反花-台脚(下框)-足座と構成される国立中央博物館蔵方形台座金銅

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半跏思惟像を半跏思惟像台座形式の典型と捉え、これと同一の下部構造の作例を確 認することができた。特に、この金銅仏は鋳継と鋳懸、別制の宝冠と装飾の組立て方 法など、三国時代金銅仏に使われた鋳造法のすべての様相を見せている点に注目で き、後頭部側の識別できる穏やかな気泡の跡を鑑みると、この部分が鋳口であることが 認められた。その反面、大部分の金銅半跏思惟像は、台座部分を上にして溶銅を注 入した可能性が高い。これは、気泡孔が背面に集中している例が多く、特に平川里出 土の金銅半跏像のように底面に湯口と思われる痕跡がある作例も存在するためである。

一般的に金銅半跏思惟像は、鋳造の失敗を避けるため台座の部分にだけ中型を設 置する。しかし、伝公州出土の金銅半跏思惟像(東京国立博物館小倉コレクション)は、

内部空洞式でありながらも型持を使用せず、代わりに背面に方形で幅置をおき鋳造し た後、銅板を嵌入し補填する点が特徴である。このような幅置の跡は、橫城出土の金 銅如来立像や三星美術館Leeumの金銅如来立像のような7世紀半ばに流行した内部 空洞式金銅仏から多く発見されている。一方、鋳造した後、鋳造欠陥を補修した例とし て国立中央博物館の口髭が線刻された金銅半跏思惟像があるが、右膝上面に鎔銅 がよく流れないためにできた欠陥部分に再度蜜蝋を塗り成形し、鎔銅を注いで鋳掛け した跡が見受けられた。鋳造後の仕上げ作業としては、方形台脚半跏像のように枘を 用いて別制の宝冠をつける場合もあり、口髭の線刻された半跏思惟像にあるように冠 帯の端の透孔装飾にある輪を通し、別制の冠帯垂飾を付した類例も確認することがで きた。

三国時代の金銅仏制作技法の時代的な変化過程を明確に把握するのは難しいが、

三国時代末期の7世紀半ばに入ると際立った変化が起こる。つまり、完全な内部空洞 式鋳造法の登場、中型と外型を固定する背面幅置の使用、付属装置の完全な別鋳結 合方式の採用、完成度高い鋳造と鋳造後の線彫りの増加などがそれである。特に三 国時代の空洞式金銅仏には飛鳥時代金銅仏に見受けられる型持を使用した例が発 見できず、代わりにいくつかの銅鋲あるいは鉄釘を型持用として使用したものと推定さ れるが、これはもっぱら三国時代の金銅仏だけに見られる特徴の一つである。

第三章では、前章で検討を行った金銅一光三尊仏の制作技法上のいくつかの特

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徴を根拠に原形を復元し、このような三国時代特有の金銅三尊仏形式が、いつ、どこ を起源とし、どのように展開したのかを明らかにしようとした。

まず、法隆寺献納宝物第143号金銅一光三尊仏の構造的特徴を基準に三尊別鋳 結合式一光三尊仏の中尊や脇侍と推定される作例をまとめた。中尊の場合、光背結 合用枘は背面中央に上下に二つが吊り下がり、像全体と蓮肉部までを一鋳とし、中尊 の両足の間は透彫りされている場合が多い。脇侍菩薩の背面は蓮華座までを含み全 体を縦に半切したように片仏化しており、光背結合用枘は中央から脱し中尊側に偏っ て配置された点が特徴的である。このような構造的特徴を基準に単独仏として知られ ている九体の金銅仏を精査した結果、これらは本来、三尊別鋳結合式金銅一光三尊 仏の中尊や脇侍菩薩であったことが認められた。中尊では、すでに知られている扶余 錦城山建物跡(佳塔里)出土の金銅如来立像を含み、瑞山普願寺跡出土金銅如来立 像、国立中央博物館蔵金銅菩薩立像、国立中央博物館東垣寄贈金銅菩薩立像、日 本の六万寺金銅如来立像など、五体が確認された。特にこの中の二体は菩薩像であ るが、三尊仏の中尊として造像されたことが確認され、6世紀には伝春川出土金銅菩 薩三尊像のような菩薩三尊形式も多数造られて流行したことがわかった。また、扶余 軍守里木塔跡で出土した金銅菩薩立像、湖林博物館蔵金銅菩薩立像、扶余新里出 土金銅菩薩立像、日本の船形山神社金銅菩薩立像も一光三尊仏に由来する脇侍菩 薩と推定した。光背結合用枘の位置に照らし合わせると、前の二体は右脇侍、後の二 体は左脇侍に造られた可能性が高い。

現存する三国時代の金銅一光三尊仏は、新たに復元した九件の作例を含めると全 部で21件数えられるが、既存の編年観と筆者の様式分析を組み合わせ検討した結果、

量的な面では高句麗と百済がほぼ同じような割合を見せているが、造形的には東魏 様式を基にした高句麗様式が反映されている例がより多いことが明らかになった。

今日まで三国時代の金銅一光三尊仏の原型は、正光様式の中心地でもあり韓中 文化交涉の拠所であった山東地域に求める見解が一般的であった。しかし、近年南 京市で6世紀初めに造像されたものと思われる一連の金銅仏の発見により、原型と系 譜の推定に新たな手掛かりを提供することとなった。特に四体に及んでいる同一形式

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の一鋳式一光三尊仏の中でも、一体には「大通元年(527)」の造像記が刻まれ、これら は南朝仏敎美術の全盛期であった梁武帝代に造像され、南朝金銅一光三尊仏の典 型であることを物語っている。これらはすべて一鋳式鋳造、通肩・通印の中尊形式、鷄 冠形態の宝冠を備えた合掌菩薩像、蓮華座上に上半身のみ表現した合掌三化仏表 現、化仏を除いた火㷔文と頭・身光部のすべてを線彫りで処理した彫刻技法、反花の 蓮弁形を線刻した円錐形台座形式などで三国時代一鋳式金銅三尊仏と区別がつき にくいほどの類似性を見せている。

特に大通元年銘金銅三尊仏は、百済作といわれている鄭智遠銘金銅三尊仏の制 作地の推定に貴重な手がかりを提供してくれる点で大変重要である。二つの三尊仏は、

細部形式がかなり類似している。ふっくらしてやや四角形の顔の表情と素髮の頭に肉 髻を球形で表現した点、上下垂直にまっすぐ上げ下げした通印と衣の裾が左右に広 がった大衣の表現、鷄冠形態の宝髻を備え合掌している脇侍菩薩像の形式、蓮華座 上に上半身だけを呈した合掌化仏坐像の表現、化仏を除く火㷔文と頭・身光部のす べてを鋳造後に線彫りで刻んだ点、線彫りで蓮弁の輪郭線のみ描写した円錐形台座 形式など、二つの三尊仏は版で押したように形式が同じである。また、核心部分のみ 簡潔に刻み込んだ銘文表記方式も互いに一致している。つまり、中国人と推定されて いる鄭智遠が妻のために発願したこの金銅三尊仏は、百済、さらには三国時代に一 つの定型を成し展開した金銅一光三尊仏が、当時文化的に百済と密接な関係にあっ た南朝梁武帝代に造像された一連の金銅一光三尊仏に由来したことを証明する資料 であると考えられる。造像時期も今日まで一光三尊仏の退嬰様式とみなし、6世紀末な いし7世紀初と考えてきたが初期的抽象性を備えていることから6世紀前半期と修正し なければならない。

一方、三国時代の金銅一光三尊仏の対外交渉と関連し重視されてきた山東地域の 類例は、南朝のそれよりもはるかに進展した様相を見せていることに注目できる。諸城 県、曲阜市、博興県などで発見された一連の金銅製一光三尊仏は、南京地域とはか なりの相違点を見せている。第一に、一鋳式がなくすべて中尊別鋳結合式、または三 尊別鋳結合式であり、像の規模と制作技法面において南京地域の一光三尊仏とは異

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なる。また、一部では、典型的な北魏式の几形四角台の上に安置された形式もあり、

台座に博山炉と獅子が刻まれたものもある。このような南朝三尊仏との相違点にもかか わらず全体的な像の形式は、むしろ韓半島の典型と近い。特に東魏様式を表している 諸城県出土の金銅三尊仏と博興県龍華寺出土の金銅三尊仏は、大光背の意匠とS 字形虺龍文系火㷔文の様式はもちろん、中尊と脇侍菩薩像の形式が癸未銘金銅三 尊仏や辛卯銘金銅三尊仏と識別が難しいほど類似しており、その影響関係を推量す るに余りある。山東地域の金銅三尊仏は上記の小数の遺例を除いては北魏式の几形 台座形式三尊仏が主流を成しており、南朝の影響と共に韓半島からの影響も想定で きる。

以上の事実に照らし合わせると、中国南朝を起源とする金銅一光三尊仏という三尊 仏の一形式が部分的な変形と組合わせを経て三国時代に韓半島に及び、一つの定 型を形成した後に展開して行ったと捉えられる。よって、三国時代金銅一光三尊仏の 系譜は、つぎのようなㇽ ーツの仮説を提案した。中国国内での具体的な展開過程は、

今後の新資料の発見に期待したいと思う。

第四章では、高句麗仏像様式が日本の古代彫刻に与えた影響について比較様式 的な方法論の観点から考察を行った。高句麗仏と飛鳥仏も様式的に明らかに区別で きる異質的な性格が強いが、形式的な面では同じ系譜に属するいくつかの要素が見 受けられ、究極的に文化の受容と伝播という側面で始原的な形式の重要性に注目し なければならない。つまり、高句麗彫刻のいくつかの要素は直接日本へ伝わったが、

場合によっては百済を通し間接的に伝わっており、同一形式の始原的な様相を高句 麗仏に見出せる点で飛鳥文化に及ぼした高句麗の仏教文化の影響はかなりのもので あったと考えられる。さらに高句麗の仏教は六世紀末から道教隆盛の影響で衰え始め るが、大和王朝での高句麗仏敎文化は、むしろこの時期から尊敬の対象となり僧侶の

南朝南京地域(梁, 6 世紀前半)

山東地域 (6世紀後半) 韓半島(百済と高句麗) 日本

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交流も一層増した事実に推し、当時の道敎に押され気味であった高句麗の仏教文化 は衰退したのではなく、百済と新羅、ひいては海を越え日本へ渡り、その活路を見出 そうとした可能性が高い。『日本書紀』に登場する恵便と恵慈、恵観などの高句麗僧の 活躍、高句麗技術者の派遣、「高麗館」の設置、当時の日本の支配層が維持していた 新文物供給の場としての対高句麗観を通じ、活発な文化交流の背景を理解すること ができる。

第五章では、虺龍文系火㷔光背の形式と法隆寺献納宝物第143号金銅三尊像の 制作地問題、そして法隆寺金堂釈迦三尊像を中心とした日本の古代彫刻と百済彫刻 の交流問題について検討を行った。まず、百済式火㷔光背の形式的特徴をまとめた。

三国時代6世紀代の火㷔光背は中国の虺龍文系火㷔文の形式を取り入れているが、

龍門石窟の典型形式をともなう例がなく、当時は一定した形が確立されていなかった ものと考えられる。しかし、7世紀前半百済に入ると、中国でもその例を見つけることが できない独特な形式の意匠化された虺龍文系火㷔文に変貌しながらその定型を生み 出し、これがさらに法隆寺金堂釈迦三尊像のような日本の古代彫刻に影響を及ぼすよ うになった。百済で定型を成した虺龍文系火㷔光背の形式的特徴は、第一に火㷔は 先端が細く三つに分かれており、それぞれが一定の間隔を維持する。第二に各単位 火焔の火焔頭には S 字形に巻いた瘤節が上下二カ所または三カ所で表現されてい る。第三に 光背頂上に配置された火焔は左右面の火焔と連続しない独立した単位火 焔を形成している。第四に各単位の火㷔は構図と形態のすべてが厳格に左右対称の 形式を維持しており、最後の第五には虺龍文特有のC字形曲線は省略されたり簡略 化されている。

次に、法隆寺献納宝物第143号金銅三尊仏の造形感覚と様式的特徴、金銅製一光 三尊仏の独特な構造と制作技法上の特徴、そして大光背に刻まれた虺龍文系火㷔文 の形式を三国時代の彫刻と比較した。まず、造形感覚面ではほとんどの止利様式小 金銅仏の顔が無表情であり、長方形の造形にとらわれ平面性を脱皮できない反面、こ の三尊仏は温和な表情と立体的な身体造形性、服制と衣文形式などで百済彫刻と近 似していることが見受けられる。制作技法についても韓半島の金銅仏、特に百済金銅

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仏と密接な関連がある。法隆寺献納宝物第143号金銅三尊仏と同一構造の、いわゆる 三尊別鋳結合式金銅一光三尊仏の脇侍が百済仏のみで発見された点、明るく重厚な 鍍金、鋳造後に鏨で眉を線彫りした点、中尊の足を裳裾の內側から彫り出した点、型 持の代わりに小さな銅鋲を多く使用した点、そして上半身に気泡が多く集中している 点などがそれである。光背意匠にも百済的な要素が強く反映されているが、中尊の頭 光の中心部に刻まれた光線文と忍冬唐草の茎の上に化仏を置く手法は、百済彫刻の みに現れる特徴の一つである。また、火焔が三つに分かれ、その下方左右に蕨手模 様の瘤節が重ねられ、まるで版で押したように整った虺龍文系火㷔文形式は、典型的 な百済式である。このような事実は、法隆寺献納宝物第143号金銅三尊仏が当時の日 本の金銅仏とは全く異なる条件と環境、つまり百済で鋳造され日本に伝わった可能性 を裏付けているのである。

最後に、法隆寺金堂釈迦三尊像に見受けられる百済的要素を百済一光三尊仏関 連の新資料と, 癸酉銘阿弥陀仏碑像と比較検討した。近年発見された百済仏像のい くつかの資料は、少ない量ではあるが、百済彫刻の多様性を示すという点において大 変重要な意味をもつ。扶余陵寺で発見された金銅光背片は、日本の法隆寺金堂釈迦 三尊像の光背と直接比較できる百済最大の金銅光背であり、さらに小形金銅板仏は 百済での一光三尊仏の流行の事実を裏付け、扶蘇山城出土の金銅光背は百済彫金 技術の真髄を見せると共に法隆寺献納宝物透彫光背の原形の推定に貴重な資料で ある。さらに付け加えると、官北里出土の金銅光背は韓半島で出土した唯一の北魏正 光期の光背として、百済彫刻が中国南朝はもちろん北魏彫刻も共に受け入れ自ら発 展させて行ったことをあらわす資料である点で意味が大きい。

一方、統一新羅初期の六七三年に造像された癸酉銘阿弥陀三尊仏碑像はいくつ かの側面にて法隆寺金堂釈迦三尊像と比較することができる。中尊の場合、裳懸座 形式はもちろん通印の手印、左手首を覆う大衣の着衣法、下端に蓮弁が配置された 方形台座形式などが互い酷似している。さらには頭部と肩、膝の外側が一直線につな がり全体的に正確な二等辺三角形を成し、この線をのばすと裳懸の外側面に至り、両 者はあらかじめ計算された一定の造形枠の中で彫刻されたものと考えられる。咲き誇

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る蓮の花の上に脇侍菩薩を配置した方法も互いに一致し、特に左手を上にあげ右手 を腰の近くに下げている手印とハート状の光背形態は、同一流派の作品である癸酉 銘三尊千仏碑像のそれと同じである。大光背の周縁に奏楽天を配置した点、外側に 幅広い縁を置き、その内部に再度連珠文を置く頭光形式、頭光頂部に蓮華座上の宝 珠を配置した点、そして化仏と火㷔文の構成など、二つの像は大光背の形式もよく類 似し、互いに密接な関連があることを把握できるのである。

また、中尊裳懸部の特徴的な衣文表現は百済彫刻にあらわれる形式であり、注目さ れる。すなわち中尊の大衣の下段の各衣文の間にまるで蓮弁のような裾が突き出てい る形式がそれで、これは法隆寺戊子銘銅製釈迦三尊像にも同じようにあり、忠南靑陽 出土の陶製台座と同じ百済彫刻にだけ見られる特徴の一つである。以上の事実を踏 まえ、法隆寺金堂釈迦三尊像に代表される日本飛鳥時代の裳懸座如来坐像形式一 光三尊仏の原型を、時間的な間隙が大きい中国北魏または南朝彫刻に求めるよりも、

三国時代彫刻の影響を受け自主的な変形を経て日本式に確立したものと解釈したい。

補論では、法隆寺金堂釈迦三尊像に代表される裳懸座如来坐像形式一光三尊仏の 原形をとどめている、いわゆる「燕岐派」仏碑像の特徴について具体的に考察した。総 七体の燕岐地域仏碑像は銘文によりそれぞれ統一新羅初期である673年、678年、68 9年に造像されるが、興味深くも百済系の復古様式を携えながら既存の百済彫刻史で は目にすることができなかった新しい要素をも含んでおり、大変重要な資料であるとい える。裳懸座形式一光三尊仏の継承、阿弥陀極楽淨土の具象化、三尊仏と結合した 千仏の造像、彫像と共にする空間、あるいは装飾的付随物へと変貌した光背の性格、

装飾的モチーフとして採用された双樹と仏龕の柱の出現、蓮の花と結合した香炉の配 置、欄干の透視法的表現、仏門荘厳の存在でその性格が変わった獅子、仏教彫刻と 龍の結合などがそれである。特に第五章で見たように癸酉銘阿弥陀三尊仏碑像と法 隆寺金堂釈迦三尊仏は、光背形式と三尊仏の表現形式と事前に計画された造形枠 において構成されたという点が同じである。

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結 語

6、7世紀東アジア仏教文化の交流様相を究明するのに移動可能な小金銅仏ほど、

より直接的で主導的な役割を担ったものは作例を見つけにくい。しかし、既存の三国 時代彫刻史研究では、具体的な資料や根拠を提示しないまま研究される傾向があっ た。したがって、本稿では、三国時代小形金銅仏の制作技法的特徴とこれを通した原 形の復元、彫刻相互関係に注目した。その結果、今日まで様式的編年と制作地の推 定にとどまっていた三国時代小金銅仏の位相を東アジア彫刻史交流の核心的な位置 に再確立することができた。三国時代彫刻には多様な系統の文化的な根が共存して いる。特に高句麗と百済の彫刻は、中国の南朝や北朝との交渉はもちろん、相互間の 交涉を通じ多様な文化的要素を融合し、それらを自ら定型化し、周辺国家へ伝授する ほどの高い国際性があった。日本の初期彫刻に見られる新しい文化要素を通じ、逆に 三国時代内部の変化相を類推できるのも、まさにこのような理由があるからである。

しかし、まだ三国時代彫刻の展開過程に大きな影響を及ぼした中国の南朝と山東 地域、または7世紀高句麗彫刻についての情報が極めて不足しているのが現実である。

したがって今後、周辺地域の新しい情報や研究によって本稿の修正も不可避であろう。

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