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鎌倉時代の馬上三物と武士に影響を与えたと考えられる仏教思想の研究

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(1)Title. 鎌倉時代の馬上三物と武士に影響を与えたと考えられる仏教思想の研究. Author(s). 藤井, 英嘉. Citation. 北海道教育大学紀要. 第二部. C, 家庭,体育編, 20(1): 6-17. Issue Date. 1969-09. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/6526. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 第20巻. ・ i 北海道教育大学紀要.(第二部C). 第1号. 昭和44年9月. 鎌倉時代の馬上三物と武士に影響を 与えたと考えられる仏教思想の研究 藤. 英. 井. 嘉. 北海道教育大学釧路分校体育学研究室. Hideyoshi FUJII: A Study on Ba io sanmono (some kind of sports used bow ch had 工n日uence sm Thought whi seback) and Buddhi and arrows on hor l i on Bu r orc ass) in Kamakura Era shi (war f Educat i i l d i do Uni t on i s i I Educat ver i ( a anch yo ro Br The DePar on tmentof Phys ca , Ho , Kush ,. l .. は. じ. め. に. 鎌倉時代は, 武士が旧貴族に 代わ って政治の実権を把握する時代であり, 武士が独自の文化をつ くりあげて行く時代でもある. その中で, とくに盛行 した武芸即ち馬上三物と呼ばれる騎射につい て, それ がもつ要素を 当時の社会背景と合わせて考察 してみたい, 現在日本武道はその ス ポ ー 、ッ ぅ このょ 性, 文化性を一層高め, 学校教育の中でも体育教材と して重要な位置を占めつつある. ・ な 代に盛 し た笠 して鎌倉時 期的現象と 行 形式化される初 ・ 現状の中で, 日本武道がスポーツ化され, 懸,流鏑馬,犬 追物 (馬上三物) について考察 し当時の武士独自の道徳規範 (人間形成の理念) を. 新仏教の影響の中でみていくことは体育史研究上意義あるものと思う. 今回は, 鎌 倉武士に影響を 与えたと考え られる仏教 思想について中心的に触れてみたい. 昔の武人特 有の道徳規範を 示すこと ばとしての 「武士道」 はもはや日本人の特性を表わすこと ばとさえ考え られる場合があるが, スポ. ーツ界においても, これが極度に美化さ れて受けと られたり, スポーツ精神の起源をそのまま武士 道に求めたりする 一面 もみ られるのである ,が, 私は, この武士道なるものが形成される初期の過程 プ として鎌倉時 代を考え, 近世武士道(江戸時代) , そ して現 代のスポーツマ ンシッ との間に どんな ・たと考えら 影響を与え 関連があるものかを知りたいのである. 今回はその手初めと して鎌倉武士に れる仏教思想について考察することに したのであ る. 序. 順 1 . 2 .. は 概. じ. め. に 観. ,. .. 2 ) 鎌倉新仏教の誕生 1 ( ) 時代観 ( . 3 , 鎌倉時代の武道 (馬上三物) 3 ) 犬追物 2 ( ( ) 流鏑馬 1 ( ) 笠 懸 4 . 武士 道 の 形 成 1 ( ) 武士道の意味. 2 ) 鎌倉武士の武士道 (. 3 ( ) 中世騎士との比較. 5 , 鎌倉武士に 影響を与えたと考えられる仏教思想 4) 栄 西 ( 3 ( ) 日 蓮 2 ) 親 轡 ( (1 ) 法 然 6 . 結. 語. 5 ( ) 道 元.

(3) . 1 , . ・ 1 1 1 ・ 1 .. 鎌倉時代の馬上三物と武士に影響を与えたと考えられる仏教思想の研究. 2.. 1 ( ) 時. 代. 棚. 観. 観. 遣晴使を試みた日本において, 土地人民私有の撤廃を中心とした班田制度を基盤に して中央集権 的政権の確立を意図 したことは当然と言えよう. このことと閥族政治の打倒を目指して行なわれた. 64 5)は, 日本に初の律令国家をつくりあげたのである. 大化改新( rしか し, 政府の新 しい官僚や, 特別保護を受けた寺社, 即ち改新の推進者達は自らの権力を利用 して逆に土地の私有を強行してい った. 中でも藤原氏と奈良東大寺は著 しかった. 本来, 土地開墾奨励を目的と して公布された 「三 72 3) や 「墾田永代私有令」( 743 世一身の法」 ( ) は結果的には一部の貴族や寺社の土地私有化に拍. 車をかけることになり, 事実上公地公民による班田制度は改新後わずか百年に して崩壊 す る に 及 ぶ. このように して成長 した私有地は荘園と呼ばれ, やがて不輸・不入の権が認められ一層拡大さ. れる. とくに不入権の確立によって荘園内の統制や外部か らの侵入に対する自衛手段と して武装す , る階級が生じる. このような荘園の発達は社会の体制を一変させた. 荘園内部の統制のシステムは 荘園領主の保護とそれに対する 「奉仕」 であり, そこに新しい主従関係が生まれる. この主従関係 と武装専業の中に武士の発生がある. このように して発生した武士は, 荘園の最高支配者である中. 央貴族の内部抗争に利用されているうちに, 貴族達の無力さを認知 し自 らの実力を確認するように なる. この最大たる出来事が保元・平治の乱であり, これを治めた武家の棟梁平清盛は政治の実権. を掌中にする. しかし, 平氏の政権は真に武士達を満足させるものとはなり得ずむ しろ武士の貴族 化ということで終止符を打つことになる. 関東武家の棟梁源頼朝は 1180 年平氏追討の命を受けこ れを壇の浦に滅ぼし鎌倉に幕府を開設し, 武家政治遂行の中心機関とするのである. 頼朝の開いた この鎌倉政権は, 貴族の完全なる失脚の下で確立されたものではなく, 貴族階級や寺院の勢力が依 然と して自己主張をする中で開かれたものであり, 鎌倉時代は, 武士がこのような中で自らの政権 過程であると言えよう. 又, 一方農業技術の進歩は手工業者と農民の分 離 を 促 進 を主張 していくラ し, 座の結成や交換の発達に伴う地方市場の成立, 商人の活躍な ど, 社会生活における活動の主人. 公が庶民階級に下移 してきた時代であるとも言えよう. 文化の面でも, 次第に武士階級がそ の形成 . 者に加わってくることになる. 又, 保元・平治の乱以後引き続いて起こる戦乱, 飢趣等で不安に う ちひしがれた人々は仏教の説く 「末法到来」 の感を深く した. このことが鎌倉新仏教が誕生する背 景 と な う て い る.. 2 ( ) 鎌倉新仏教の誕生. ・ 保元・平治以後, 農民は重い年貢と苦役の強要や飢錘による収穫の減少等で不安はつのる一方で あった. それに貴族階級は, 政治の実権を武士階級に奪われたこととそれによる経済的没落という 不安があった. 又, 武士階級は, 旧勢力の中で政権を担当するための変化に迫られることや戦いを 専業とする精神的動揺という不安をかかえていた. このような各階級のもつ不安感が当時の天変地. 異と結 びついて社会不安は実に深刻であり, 無常観とつながっていくのである. このことは 「方丈 記」 の 「去ぬる安元三年四月廿八日かとよ……いぬ時許みやこの東南より火いできて””・ ・一夜のう ちに塵灰となりにき」(安元の大火) 「身をそこない, 片輪ずける人かずを知らず」 (治承の大風) 「二年があひだ世中飢渇 して, あさましきこと侍りき……五穀ことごとくならず」 (養和の飢鐘)-. 「そのさま世の常ならず, 山はくずれて……」(元暦の大地震)(『中世初期仏教教育思想の研究 (唐 沢富太郎著)』)という記事か ら窺し 知れる. かく して, 平家物語や愚管抄, 方丈記にみられる無常. 観, 末法観が生まれることになる. このような社会状勢の中で仏教の説く末法到来の思想は深く各 階層の心底に焼きついていくj , この末法思想は, 釈迦誕生以降の世の 中を正法,,像法三末法の三世 (7). 1. 一 1 ・ . ● : ● . ・ ー ー . r ..

(4) . 藤. 井. 英. 嘉. に分け平安中期以降は末法の・ 世に入 ったとする考え方で, この末法の世は人類破滅の世であり, こ れを正法に戻すこ とが実に仏教の任務であるとする考え方である. 一般に 鎌倉新仏教は末法の時効 に 関 す るイ ンス ピ レー シ ョ ンに よ る 末 法 仏 教 で あ り, こ のイ ンス ピ レー シ ョ ンの 相 違 が 各 宗 派 と な. ったと考えられる. この社会不安と末 法思想に加えて, この時代の僧界の堕落は著 しか った. 即ち平安末期の仏教は 貴族の享楽的生活に迎合 した祈祷万能の仏教となり, 寺院の法会, 僧侶の読経はすべて貴族の官能. を悦 ばすためのものとなり, その思想は概念化, 形式化, 化石化され真に人民を救済するものとは なり得なか った. 又一方, 寺院は貴族にへつらい多くの荘園を貯え, それを維持拡大させるための 手段と して武装僧 (僧兵) を置いた. この僧兵達の暴状は目に余るものがあった.. さ らに, 仙覚な どの万葉集研究や宗教界における聖徳太子信仰など復古的傾向も新仏教誕生の一 要因となっている. 以上のような背景をもって誕生した新仏教は, 法然÷親徽の念仏宗, 栄西・道 元の禅宗, 日蓮の法華宗などに代表されるいくつかの宗派となってあ らわれた,・いずれも当時の各 階層との交渉をもってい ったのであるが, とくに平安期に比して庶民階級に及ぼす影響力が著 しく 増大したことは特徴的事象と言えよ う.. この新仏教の中で, 禅宗は当時の武士階級の要求にマ ッチ して深く結びついて いく. 禅宗が日本 53年に元興寺の道昭が伝えた法がそのはじめとされおり相当古くにさかのぼ に入ってきたのは, 6. る. しかし, その多くは兼修であ った. 前述のような鎌倉時代 の世相を背景と して臨済禅を伝えた 1141~12 15 のが栄西 ( ) である. 栄西は戒律を重視 した. 栄西の禅は天台, 真言, 念仏の色彩 をも. 00~1254 又含んでいた. 栄西の後曹洞禅を伝えた道元 ( 12 ) は栄西とは異り純粋な禅を伝えた. 即 ち, 世俗的傾向をもちなが ら密教的祈とうを主要事と し政治権力と結びついて教団の発展を願った. 栄西に比べて道元はそれらを 一切否定 して, 政治や名利か ら一切離れることを身をもっ て 実 践 し た. 又道元は日本における僧堂教育の創始者と しても注目 しなければな らない.. 3 . 鎌 倉時代の武道 (馬上 三物) 鎌倉時代は前述の如く武士が新 しい政権担当者として旧勢力の中に ・確固たる地位を主張 していく. 時代であり, 元来地方政治の主人公だった武士が中央貴族に対抗する最 もよい方法は武力の誇示で あ ったと考える. 当時の戦争は主と して騎馬戦であり武力の代表的な表現形式は騎射であった. こ ーなっていたもの や狩猟の擬射と して行な っ の騎射は, は じめ戦場における馬上の射の稽古と してキ ラ. ていたものを朝廷の行事と して形式化されたものであるが, 頼朝が幕府 を開設するに及んでこの行 事をとくに奨励 したことは,「吾妻鏡」に当時の馬上三物と呼ばれる笠懸, 流鏑馬, 犬追物の条々が 多く記されていることか らも窺い知れる. 以下馬上三物についてその概略を記す, 1 懸 ( ) 笠 a. 内. 容. 墓目の矢を用いて, 疏 (さくり) という馬場の中の直線走路 (上 2尺, 下1尺8寸, 深さ 5~6 寸, 長 さ 60 間で両端が扇形) に馬を馳せなが ら馬上より的と して懸けた笠を射るものであり 的 ,. までの距離の大小によって遠笠懸, 小笠懸がある. 後にはその方法によ って, く じ笠懸, 神 社 笠 懸, 百番笠懸, 七夕笠懸な どがあ らわれた( 『図説世界体育史』) . b 起源 (縁起) (a) 神武天皇東国退治の時, 筑紫箱 崎の浦にて笠のなりに皮をもって張らせこれを射させられ. た. こ れ を 笠 懸 の は じ め と す る.. (b) 源頼朝が上野国新田庄で流鏑馬の的を射ているときに, 流鏑馬はその儀礼的色彩が強く, (8).

(5) . 鎌倉時代の馬上三物と武士に影響を与えたと考えられる仏教思想の研究. 犬追物は大射 である, 他にこれに代わる手軽な騎射はないものかと嘆き, 流鏑馬の儀式を略用 して 的に笠をあてた のを笠懸のはじめとする.. (c) 源頼朝が上野国新田庄で弓射を ご覧になっ ているときに射手の中の一人が笠を風で飛ばさ れた. それを見た頼朝は面白く思い, その笠を射るべ しと言った. これを笠懸のはじめとする . 以上 『日本武道全集第三巻, 小笠原家蔵 「笠懸之書」 』 より. 以上の伝書から推察するに, やはり 狩などの時 の余興的なものから発生したものであろう. 形. c. 式. 化. 以上のように して発生 した笠懸は, 当初儀礼的色彩を離れて手軽に行なえるものと して盛行した が, 次第に形式化され, 馬場も流鏑馬のような形 に整備され 的も笠か ら革張りのもの に 改 め ら , れ, 装束も整えられ将軍の興を満足させるものえと変化していき, 入退場などについても一定の作 法 (ルール) が つくられ, 流鏑馬や犬追物の代用 品と してではなく独自の武道と して形式化される. に及んだものと考える. 2 ( ) 流 a. 鏑. 内. 馬 容. 2~3 町の馬場に4 0間間隔の3個の的を立て, これを疾駆しながら騎射するものであり 流鏑馬 , は厳粛なる儀式であり射手は身の不浄を誠め数日間神聖を保ったと言われている . b 起源 (縁起) (a) 禁裏の馬場殿において競馬 (く らべうま) の手番が終わった後に 左近右近の射手が騎射 , を行ない, 騎射が全部終わって結番の勝 った方が楽舞を奏す儀式を行なったがこの儀式が非常に厳 重で容易に用い られなかったので武家はこれを簡略化 した騎射を行なった これを流鏑馬のは じめ . とする(『日本武道全集第三巻, 小笠原家蔵 「流鏑馬之書」 ) 』 . (b) 欽明天皇が豊前国宇佐の霊前においてこれを 初められた 亦は 天武天皇が霊夢によって . , 自ら射られた. 爾来武芸の練習と祭事の重要な儀式となったものであり決 して武士の作法として起. こったものではない(『日本武道全集第三巻, 武田 家蔵 「流鏑馬之書」 ) 』 . (c) 野外の狩猟などで小休止の際 立木 布切れな どを的にして戯射 したのが次第に形式化さ , ,. れたものであろう(『図説世界体育史』 ) .. いずれにして も, その発生は宮廷貴族の儀式と して起こったものであろう 頼朝の京都憧憶など . か ら考え合わせると, 当代の武家は貴族階級と全くかけ離れた儀式はも ち得なかったものと推察さ れ る.. 形. 式. 化. 文 献上 で は, 1096 年 4 月 29 日, 白河上皇が鳥羽殿でご覧になったのが最も古く. , 1484 年から 1725年の間中断している. この中断の理由と しては 形式化されるにつれて規模が大きくなり 規 , , 則が繁雑になって執行が困難であったこと, 応仁の乱後戦乱の絶え間がなかったことが挙げられて いる. 方式は流派によって異なるが, 馬場長では, 小笠原流が2町 武田流が3町 的間では 小 , , , 0間, 武田流が60間であ った. 笠原流が4 3 ( ) 犬 a. 内. 追. 物 容. 0間四方の馬場の中央に縄で大小二つの同心円をつくる 射手は 36騎 これ 竹矢来で囲まれた7 . , が二手に分かれる. 犬を小さい円の中央で放つ. 犬が大きい円を越そうとする時これを騎射する . 犬 は 一 匹 づ つ入 れ る. 12 人 で 10 匹 を 射 る 1 組 5 回 行 な う の で 延 べ180 人 で 150 匹 の 大 を射 るこ .. とになる. 検見は射手の矢の 当たり具合い (矢所) を点検 して優劣を決める , (9). ー ,ー ・ 一.

(6) . 藤. 井. 英. 嘉. b 起源 (縁起) (a) 近衛院の御字, 玉藻の前という婦人がいた が, 人を惑わすこと甚しく, 自ら鳳開に住むこ とを得ず, 本騨の白狐と化 し下野国那須野に住み往 来の人に害を与えた, この白狐を駆殺 したのを き っ か け に, そ の 稽 古 と して 犬 を 追 い こ れ を 射 る こ と を した. こ れ を 犬 追 物の は じめ と す る,. (b) 犬追物は牛追物より 起こ ったものである. 牛追物の起こりは判然と しないが犬追物よりは . ) 』 . るかに古くか ら行なわれていた( 『日本武道全集第三巻, 小笠原家蔵 「犬追物之書」 ろう て騎射したものであ . いずれに しても, 狩猟などの際に 野獣類の逃走するのを追っ c. 形. 式. 化. 記 録 上 の 初 見 は, 1207 年 6月 10 日, 後鳥羽上皇が内野仮屋で催されたもの (明月記) である.. 程 元来この騎射は狩猟の 遊戯化されたものであり, 野外の狩猟に事欠かない鎌倉武士の間にはそれ 見れ のあらわれと 興味のあるものとは 考えられないのに, これが盛行 したのは武士階級の貴族趣味 よう. 鎌倉・室町を通じて, 将軍や執権の野外狩猟の記録 が極く少ないことか ら考えるとき, この 犬追物によって狩猟的興味を満足させていたと推察さ れる. 犬追物は鎌倉馬上三物のうちでも最も 多くの人々の 人気を呼んだと言われている. 以上, 鎌倉時代に盛行した馬上三物は, その性質に おいて種々の要素を包含 していたと考える. 即ち①政権担当者たる権力 (武力) の誇示の手 段として. ②武士独特の儀 式, 神事, 祭事として. 々 が挙 ③ 武 士 の 教 養 と して. ④ レク リ ェ ー シ ョ ナ ル ス ポ ー ツ と して. ⑤ 身 体 鍛 練 の 手 段 と して. 等. げられよう. 中でもス ポーツ的要素は濃厚であ ったと考える. このことについて肥後和男氏は 「平 安末期の混乱の中から武士が集団と して活動す ることになり, やがて武家政権が成立し, ここに旧 貴族に代わって日本の政治を担当す るとともに, 文化の面でも新 しし・色彩を加えていく こ と に な る. その中で著 しいものは 武芸が一つの文化としての地位を高めて行くことであ る. その中心は弓 『東教大体育学部 紀要, 中 世 の 射 馬であ った. それは確かにス ポーツと しての条 件に優れている( て 芸』), と 述 べ られ, さ らに, レ ジ ャ 【 ク ラ ス の 出 現 は 相 当 古 く 射 芸 も こ の ク ラ ス の 出 現に よ っ ス. ポーツ化が促進されたとさ れている. 又,「体育学研究, 第 2巻7号」において,-丸山哲郎氏は, 犬 ポ 追物のスポーツ化について 「建武年間記」 の言己事を引用 して説明さ れており, 鎌倉馬上三物のス 武士 ー ツ 性 は 一 般 的 に 認 め られ て い る と こ ろ で あ る. しか し, こ の ス ポ ー ツ 性 の 中 心 は, や は り,. が政権担当者と して他の階級より 優れていなけれ ばならない要素は何と言 っても武力であり, その ろ ための身体鍛練にあったと見たい. 私は,rこ の 馬 上 三 物 を ス ポ ー ツ と して だ け で な く 他の い ろ い な要素をもっ たものとして受けとめたい.. 4 . 武士道 の形 成 1 ( ) 武士道の意味 現在 「武士道」 という言葉は, 昔の武人の 道を表現す るものと して最も広く 使用されているが, その意味を, 新世紀大辞典でみると 「武士の成長とともに生まれた実 践道徳, 中世では弓馬の道な どと呼 ばれ, 江戸時代には儒教思想と結 びついて理念化され, 忠義・礼儀・名誉・武勇な どが重ん じられた.」 となっている. 又, 古川哲央著 『武士道の思想とその周 辺』 には, 「昔の武人 の 道を あ らわす言葉と しては, 今ではきまりきって 「武士道」 が使用されている が, むかしもそうであっ ,・や た の か と い う に, 決 して そ う で は な か っ た. も っ と も 古 く は 「も の の ふ の 道」 「ます らを の 道」. 「 や降 っては 「兵の道」 「武者の習」 「弓矢とる身の習」「弓矢の道」 , 更に降っては 「侍道」 武士の 道」「武士道」「土道」 な どが用いられ, そう して明治以降は 「武士道」 の使用が圧倒的になったと いうのが, むかしの武人の道をあらわす言葉の概略の歴史 である.」 とあり, 武士道という言葉が.

(7) . ー. 1. 鎌倉時代の馬上三物と武士に影響を与えたと考えられる仏教思想の研究. 一般的に使用されたのは明治以降で実に新 しいものであるが, いろいろな言葉で表現されている昔 の武人の道徳規範 (或は人間形成の理念) はそれぞれの時代背景に強く影響されて形成されたもの と考える. ここでは, 昔の武人の道徳規範を表現する現代用語として 「武士道」 を使用することに した. そ して, これが形成される初期の過程として鎌倉時代を考察してみたい. 平安末期に地方で発生 した武士階級が政権担当者と しての階層へと成長していく訳だが, その過 程において, 武士階級は独自の道徳規範をもつ必要があった. それは, ①政権維持の不安. ②きら びやかな貴族文化に対する劣等感. ③戦場における死との対決. ④武士階級内部の 下池上, 肉親の 闘争という悲劇. ⑤所領の維持拡大のための固い主従関係. 等々当時の武士階級は多くの問題をか かえていたか らであった. それに源氏の政権は安定したものではなかったのでその必要性は 一層強 かった. かく して, 武士は自らの道徳規範を形成する必要に迫られ, その支柱を新仏教に求める. とくに禅宗の教えは, 武士の戦闘精神と一致する面をもっており, その修業も戒律も武士の面目を 保持昂揚させるのに役立ったので武士はこの禅の教えを熱心に乞うた. 2 ( ) 鎌倉武士の武士道 鎌倉時代の武士の人間形成の目的と した理念は, ① 主君に忠誠をつくす (主従関係 の絶対化) . ) を惜 しむ 生命よりも家名や名 ( ③名を挙げる , ②武功をたてる (実力によって立身出世をする) . . ④困苦欠乏に堪え, 質素を重んじる (娘難汝を玉にするとい う理念) . である. 従 って, 平素武芸 ‐備えると言う所謂弓馬の道に励んだのである続橋少一氏稿 『 百般に亘る鍛練を重ねて, 一朝有事に 北教大紀要. 倫理的方向に移行しつつある体育』 このような理念は, 当時の武士の道徳規範を代表 するものであったと考えるが, これらが生み出された 背景について少しく考察してみ た い. 今 回 は, 一応以下四項目について考えてみた. a. 主従関係. 荘園の発達とともに, 武士の発生があった訳だが, その過程の中で 「御恩」 と 「奉公」 の関係も 次第に発展 してきたが, このような武士階級内部の慣行と して生まれてきた関係が, やがて, 国家 的な政治制度と して整備されることになる. これが鎌倉殿 (頼朝) と御家人の関係である. 鎌倉殿. は御家人とその所領を安堵してやる. その代わりに御家人は鎌倉殿に 対して奉公の義務を負うので . 鎌倉時代は 為政者にと っては政治経済の基盤である荘園を自らの権力の基礎と して安堵す ある, , るためにはこの主従関係が社会秩序と して強力に存在する必要があ ったし, このことは同時に 源氏 の勢力が末だ固定されたものではなか ったことを物語るものである. 武士の道徳規範と してこの主. 従関係を確立することは源氏の勢力を安泰にするものに直結 していくのであった. 頼朝は, 独自の 政治手腕を発 揮 しなが ら, うまく朝廷の権力を利用 して, この主従関係と, 忠君・忠誠の道を浸 透 - させていったのであった. 又, この主従関係は, 家永三郎氏によると, 連帯意識の 下に将軍に仕え たの で は な く, 全 く 個 人 的 に 奉 仕 して い た と さ れ て い る.. b. 仏教信仰. 当代の武士階 級にとって, 新仏教はその独自の道徳規範をつくり出すうえに重要な支えとなった と考える. 即ち, 常に戦場において死と対決せね ばならない彼等の不安は非常に深刻であった. こ. の不安を克服 して真に武士と してたくま しく生きるためには どう しても何か心の支柱となるものが 必要であり, それを新仏教に求めたのである. 平安期の貴族のアクセサリー的存在の仏教から面目 を 新した新仏教は武士階 級の要求に応えてくれる要素を多く有 していたと考える. このように 当. 代の武士にと っ てこの仏教を信仰すること自体が一つの武士の道徳規範となるのである. 鎌倉・室 ・微塵なる信仰であった家永三 町時 代の武士の思想が江戸のそれと根本的に異なるのは宗教に対する ・ 郎氏著 『日本道 徳思想史』 と言われる程この仏教信仰は当時の武士の思想の中心をな していたと考 (ヱヱ). .●.

(8) . 藤. 井. 英. 嘉. えられる. c 所領の維持拡大 当時の武士にとって, その所領は実に彼等の生命ともいうべ きものであ った. だから, 武士の道 (弓矢の習) もこの土地所有の維持拡大に最重点を置いた. む しろ, 武士道のす べての要素はこの. 所領の維持拡大に発 していると言っても過言ではない. 功名を挙げることも実はこの所領の拡大と. いう利益を目指 しているものである. 武士にとって現在知行 している所領を没収されることは, 何 ●の土地の相続については 実に厳 しく, 相 にも増 して弓矢の道にはずれることになる. そこで, こ , 続するにふさわしい器量人をもってこれに当てた. (単なる世襲ではなく) それ程土地によって一 族は拘束されていたと言える. 武士道の発端をこの所領の維持拡大に求める所以である. d. ・ 武 道 の 盛行. 武士は, 戦闘を専業とする者であり, 戦闘に勝つことが彼等の日常生活における信条であったと 思う. そのためには, 身体の鍛練と戦闘技術の訓練は欠かす事の出来ないものであった. 前述の如. く, 所領の拡大を目指 して名を大切にするということは, 武勇をもって名をあげること に 他 な ら ず, この面に武士が精魂を傾注 したことは至極当然のことであろう. 武勇に秀で名を挙げるために 武芸の練習に 専念することになる. 当時の武芸の代表的なものは, 馬上三物と呼ばれている, ①笠 懸, ②流鏑馬, ③犬追物であった. 彼等は, これらによって, 身体鍛練をしたと同時に, この射芸 に秀でることによって功名を挙げんと努力したものと考える. 3 ( ) 中世騎土との比較. ヨーロ ッパ の中世騎士について べネ ッ ト著 『体育の世界史』(加藤橘夫訳)では次のように述べて いる. ①神聖な儀式において, 大望を抱く若者達は主君や神や淑女に仕え, 服従を誓い, 武勇を誇 りと名誉の徳をもって主君のために闘い忠誠をちぎるのである. ②騎士道においては, 若者達は宗. 教的献身を誓い, 教会や弱者や しいたげられた者を保護し, 悪をこ らし, 邪悪を除去 し, キリス ト 教の理念を昂揚し, 宗教儀式を執行する. ③騎士の武勇についての規範は婦人をいたわり, 寡婦や 孤児を守り, 淑女のために闘うことを誓わせる. そのような奉仕のための前提条件と しての徳は, 礼儀・謙遜・情深さ・善行などである. 以上のことから見ると, ①所領に基盤を置いた主従関係を. 強調 した鎌倉武士に対 し, 中世騎士の忠誠心は, 王とキリスト教に基盤があると考える. ②鎌倉武 士は, 政権獲得者たる野心と, 肉親の闘争といった殺伐と したものであ ったのに対 し, 中世騎士に は, 政権の野心や肉親の闘争な どは見られない. ③宗教に対しては両者とも非常に敬度であるが,. その趣は多小異なっていると考える.. 5 . 鎌倉武士に影響を与えたと考えられる仏教思想 鎌倉時イヒにおける武士道の形成にあたって新仏教が多大の影響を与えたことは容易に 想 像 出 来 る. この新仏教は, 平安期の概念的な仏教に比 して, 具体性, 身体性をもっており, 宗教界におけ る一大革新であり, これに武士が自らの人間形成の理念を求めたのも当然だっ たであ ろ う. 今 回 は, 当代の新仏教の思想を代表する, ①法然, ②親鞘, ③日蓮, ④栄西, ⑤道元について, その生 いたち, 思想, 教化などを武士道形成への影響という観点から考えてみたい. 1 然 ( ) 法 法然は 1133 年, 美作国 (岡山県) 久米南条の稲岡庄で, 父漆間時国, 母奏氏出目の子として生 まれ, 幼名を勢至丸と言った. 父時国は, 久米郡の押領便であって, 地方豪族即ち武士であった. 勢至丸9歳の時, 明石定明の夜襲を受け, 父母と死別 し菩提寺に入る. 13歳に して, 比叡山に登. り, 15歳で出家受戒の本願を遂げる. 18歳 の時, 比叡山西塔の黒谷の叡空の室に入り, 名を源空.

(9) . 鎌倉時代の馬上三物と武士に影響を与えたと考えられる仏教思想の研究. という. 117 5年, 43歳の時, 「観経疎」 を読み 「一心に専ら弥陀の名号を念じて 行往座臥に時 , , 節の久近 を問わず, 念々に捨てざる者, これを正定の業と名づく 皮の仏の願順ずるが故に」 の一 , 句に遭偶 し, 精神の懲明を体験 した田村円澄氏著 『法然』 このことによって 法然は 専修念仏 . , , による衆生救済の浄土教を日本に初めて開くことになる. 彼が何故この本願念仏を選択せねばなら なかったかについて, 唐沢富太郎氏は, 「第一に, 念仏が殊勝な功徳 (無上の功徳) をもち…… , 第二には, その念仏が行じ易く, 如何に愚癖なるものと難も いずれも容易に称えることができる , ……」 と述べられている. 法然の宗教教義の中核は, 凡夫の救済であり そのためには 教化に当 , , たっては, 教義は簡易化され, 実践も易行が必要であ り 専修念仏の形 をとったものと考える 法 , . 然の教化は, 親鷺のそれに比 して, 貴族・武士階級が中心であった 鎌倉武士の熊谷直実が 法然 . , の教えに接 し即座に弟子入り した話は有名であり, その他に も 大胡実秀 津戸為守な どの武士も , , 弟子入り していることからみても当時の武士階級に強い心の支柱をもたらしたものと想像できる . この法然の思想は親鷺に至 って, さ らに発展をみるのである . 2 ( 駕 ) 親 173年, 父日野有範 (藤原氏の一流) の子と して生まれる 118 親数は1 1年, 9歳に して出家し, . 2 0年間 ( 9歳まで) 比叡山延暦寺で修業をするが 妻帯の問題 を契機と して山を降りる 12 2 , . 01年, 法然の弟子となり, 専修念仏の教えによって, 悟りへの突破口を開くのであ る この間 専修念仏 . , は他の教団との間に争いを生じ, ついに, 120 7年に朝廷は念仏停止の富旨を下し 法然は四国に , , 親欝は越後にそれぞれ流罪となる. 頼朝は宗教心厚く 妻政子も四人の実子を次々と失く し 法然 , , の教えに関心をもっていたのだが, 頼家は, 念仏僧の黒衣を感覚的に嫌ったので 次第に念仏僧迫 , 害へと傾いていった. かく して, 越後に流された親鷲は再び師法然と会 うことはなか った 親鷺の . 思想について,家永三郎氏著 『中世仏教思想史研究』 によって見たい. 親鷺は 法然の悪人救済の , 精神に立脚 しつつ, 悪人正機の立場をとり, それが後世物語の中で, はっきりと した悪人正機説と して 確 立 さ れ る. こ のこ と は, 「善 人 な を も て 往 生 を と ぐ, い は ん や 悪 人 を や . しか る を 世 の ひ と. つねにいはく, 悪人なを往生す, いかにいはんや善人をや. この条一旦そのいはれあるににた れど も, 本願他力の意趣にそむけり, ……願をおこしたまふ本意, 悪人成仏のためなれば 他力をたの , みたてまつる悪人もとも往生の正因なり」 という歎異抄の一節が直裁に表現している しか し こ . , の悪人救済の思想については, 平安朝に編纂された往生伝に見 られるように (例えば 前伊予守源 , 頼義・出二累葉武勇之家「 一生以二殺生‐業為.) 相当古い時代か ら日本仏教の歴史を貫通する有力 な潮流となっていた, 又, 唐沢氏によれば, 親鷲は, 自己を徹底 して悪人と自覚 し 自 ら を 愚 禿 , (ぐとく) 親鷺と呼び, その愚禿なる自己 が弥陀の慈悲によ って光明を与えられることを説いたの. であるとされている. このような悪人正機説は, 罪深い当時の武士階級にと っては まさにこの上 , もない心の支えとな ったものと考える. 親錆は越後流罪の刑を終えて, 関東 (常陸‐国) に赴き 農 , 民階級を中心に教化を行な っているが, 教化対象には, 地方の豪族, 名主層も含まれており 当時 , の下級武士には 多大の影響を与えたものと考える. (3). 日. 蓮. ‐. 日蓮は, 1222年, 安房国 (千葉県) の漁夫の子と して生まれた. 当時, 親驚は50歳で関東教化 にあり, 道元は 23 歳で入宋の一年前にあたる. 彼は幼少の頃か ら信仰心厚く 念仏の信者であっ , た. 12歳の時, 人生における二つの疑問を抱く. その一つは, 寿永の変における安徳天皇の水没 . 承久の変における後鳥羽・土御門・順徳の三上皇の流罪は, 朝廷を最高権威者とする日本国におい て 一 体 どう した こ と な の か. と い う こ と で あ り, い ま 一 つ は, 仏 と 言 え ば釈 尊 一 人で あ る の に ど , う して 多く の 宗 派 が あ る の か. と い う も の で あ っ た. こ の よ う な 疑 問 を 抱 い て 1233 年 5 月 , , 安.

(10) . 藤. 井. 英-. 嘉. 房国清澄山に入山 し, 道善阿闇梨の門に 入り, 名を薬王丸とい った. ここで四年間修業 し,「日本一 の智者となさ しめ給え」 という大願をたてて,16歳の時出家し名を蓮長と ,いい鎌倉に赴いた. ここ .この中で念仏を鋭 42年, 帰山して 「戒体即身成仏義」 を著 し, で, 浄土宗や禅宗な どを勉学し,12 1歳に して比叡山に登り, 天台の教 く批判 し, 法華経こそ真の釈尊の教えであることを強調 した.2 学を学ぶ, この間, 真実の仏法は法華経であり, 南無妙法蓮華経の題目が釈尊の本懐であるとの結 論に達 し, 幼少の頃抱いた二つの疑問を解決するに至 る, かく して日蓮は, この正法を日本全国に 広める使命感にかり立 てられ山を下りる. 彼の思想の特徴を家永氏は次のように指摘し て お ら れ. る. ①日蓮の宗教の特徴 は先ず旧仏法の要素が多い. ②彼の思想の根底には未法観が流れており, 末法の今こそ法華経弘道の真の時であると した. ③劣機救済, 悪人救済の信仰であったことf 悪人 ′殺 往生は, 鎌倉仏教 が時代の深刻な罪業観を出 発点としているのであるが, このことは, 闘 争, どをその傘下に包含 漁人な したと言え 人, 狩猟, . 漁獲の如き殺生の罪業を生計とする武士,.屠夫, る. 日蓮の門 弟に, 富木入道など. 武士が多いのはこのことを物語 っている〆④題目称名という易 しば武士 行であったこと, これは凡夫救済の方法として念仏とその趣を同じうする. ⑤彼は, しば, とか 「 命 弟子思 師代命 ば 君捨 郎従思 」 例え し, し の精神の比峨 をかりて表 現したこと. し , 「親父は , 武士なり しか どもあながちに法華経を尊給 しかば臨終正念なり」 な どの表現を用いている. ⑥女人. 救済. ⑦念仏,禅宗の個人主義に対して団体主義であり国家主義であったこと. 即ち, 「法華経を 以って国土を 祈らば上一人より下万民に至るまで悉く悦 び栄へ給べ き鎮護国家の 大白法也」 と述べ ている. さ らに, 唐沢氏に よると, 法華経は折伏の教理でもあり, また戦いの哲学でもある. 法華 には 「我是世尊使処 衆無 所 畏」 と 示 さ れ て お り, 日 蓮 は 「詮 ス ル トコ ロ ハ 天 モ ス テ 給 へ 諸 難 ニ モアヘ身命ヲ期 トセソ」 と述べて, 自己の一身を法華経の中に捨離 した. 日蓮は, 「我 し日本ノ柱 . トナ ラ ソ, 我 し日 本 の 眼 目 トナ ラ ソ, 我 し日 本 の 大 船 トナ ラ ソ」 「日 蓮 ニ ョ リ テ 日 本 国 ノ 有 無 ハ ア ル ベ シ, 日 蓮ノ・日 本 国 ノ 魂 也」 な どの 自 己 主 張 を 行 な っ て い る. こ の よ う な 日 蓮 の 思 想 は, そ,の 教. 化と, 元趨の予言による 「立正安国論」 の信頼度の深まりとがあいまって当時の幕府をはじめとす る武士階 級には多 大の影響を与えたと考える. 4 ( ) 栄. 西. 1歳で安養寺の静 栄西は, 1141年, 備中 (岡山県) に生まれ, 賀陽氏 (詞官の家柄) の出身. 1 187 年に再度波 心に師事 し, 14歳で剃髪 し比叡山に登り受戒した. 1168年渡宋 し天台山で修業. 1 98年に 「興禅 191年帰国し筑前 (福岡県) の香椎に日本初の禅寺 (建久報恩寺) を開く. 11 宋. 1 02年, 鎌倉に寿福寺, 京都に建仁寺を開くが, これは, 禅の専修寺とはなり得 護国論」,を著す. 12 1 4年には僧正 06年 には東大寺の大勧進職, 12 ず, 真言・止観・禅の三宗の兼修道場となった. 12 「 背振山に植え 日本に茶を広めた . 喫茶養生記」 となった. 彼は宋から茶 の種を持ち帰り, 佐賀の , がある. 栄西の思想について, 唐沢氏によれば 「彼の考えの根 本は, 厳格な生活行動に 基づいた戒 律主義, 持戒持律主 義であった. 彼の 禅風は, 「戒律, 天台, 真言なんど相兼ねて」 (沙石集) と評 せ られた如く, 禅一宗を行なうことに はな らなかった. それは, 当時の仏教 界の状勢と, 彼が幼少 の頃より真言を志 し, 天台との 接触を余儀なくされていたことか らも想像できる」 とされて いる, . 栄西の思想の根本を成 している戒律について, 古田紹欽氏は, その著 『日本仏教思想史の諸問 又, 題』 の中で次のように述 べている. 「彼は, 「戒律は是れ令法久住の法なり, 今此の禅宗は,.戒律を もって宗と為す」 と主張 し, 自らが唱える 「此の禅宗」 は戒律を根本とするものであると し 「此の 宗は戒をもって先と為す」 ものであることをま ず強く力説している.」 こ れは, 彼が, 如何に戒律 を重 んじたか, 又, 禅宗の出発点を 戒律に求めている点を物語るものであろう. 彼の戒律の具体 的 な内容は, 衣食と行儀が挙 げられているが, とくに食事については, 彼が在宋中見聞 した大宋国禅.

(11) . 鎌倉時代の馬上三物と武士に影響を与えたと考えられる仏教思想の研究. 院の食法に基づいて厳格に行なわれなければならないと しており, 喫飯の作法について細部に亘 っ て規定している. 又, 斎戒勧進文によれば, 「夫れ斎とは,- 非時に食せざるなり, 戒とは菩薩戒 な. り」 といってこの斎戒を勧めている. 末法観との関係について, 栄西は,「末代は一戒をも軽んずべ からず」 と しており, 末法末代であればこそ, 持戒持律を軽んじてはな らないとしたのである. 栄. 99年に鎌倉に赴き, 武家社会にこの新宗を伝えた. 棒喝を振るう激 しい禅風が簡素な鎌倉 西は,11 武士の気風にマ ッチして, 数年の間で, 彼の臨済禅は関東を風摩する ものとなっていった 殊に . , 将軍頗家や頼朝の妻政子の帰依を受けて, 鎌倉武士の間には不動の基盤を置くことになったので 、あ る. 栄西の臨済禅は, 五山制度とともに, 当時の思想界に有力な位置を占めるようになったが と , くに, 武家社会との深い関係が特徴的であった. 禅宗は, 道元の曹洞禅に至っては, それが庶民階 級に入りこんでいき, 政治的色彩を離れた純粋な禅と して発展することになr る. 禅宗と武士道の関 係は, 栄西の鎌倉 教化から, 現代社会における, 禅と武 道, 或は, 禅とスポーツの関係まで, 幾多 , の経過をた どりなが らもその脈絡を見ることができよう. 5 ( ) 道. 冗. 00年, 京都東南の郊タ 道元は,12 ト木幡の山荘において, 父源通親, 母藤原基房の三女伊子の間に 生まれた. 父通親は村上源氏の系統で, 多くの文才を輩出している 家系であ った 7歳の時に慈母 .. を失い, 世の無常観を痛切に味わい, 13歳に して, 比叡山天台座主公円について剃髪出家を した. 3年に入宋 し, 天童山の如浄の下で修学に励み, 2 122 6歳に して 「身心脱落」 の境地を体得して帰 国した. 道元の伝えた曹洞禅は, 彼の教化の範囲が庶民中心であり, 栄西が, 時の権力者である武 士に教化 したのと趣を異に している. 道元の思想について, まずその身体性に触れてみたい これ . について, 唐沢氏は,「身体行動に対 して道元ほ ど深い精神的意義を与えた例はない 彼の身心学道 ,. によれば 「仏道を学道するに しばらくふたつあり, いはゆる心をもて学 し, 身をもて学するなり.」 「身学道といふは, 身にて学道するなり. 赤肉団の学道なり. 身は学道よりきたり 学道よりきた , れるは, ともに身なり.」 とあり, 知と行は本来一致 していると考えた, 僧堂における日常の労作 が自他ともに仏道を成じょ うとする道心から発するものでなければならないことを訓えた 」 と 述 . べておられる. 又, 彼の生死観について, 増永霊鳳著の 『永平正法眼蔵』 では次のようである 「禅 . 師の生死観は大別して, 略を宝二つとなる. 一つは, 一般仏教の見解に従 って, 因果を説き 三世を , 認め, 三時業を明らかに したもの. 二は全く禅師独自の見解であり, ①生死即 浬繋の問題 ②生即 , 死の問題, ③生は生, 死は死の問題, ④生死全機現の問題, ⑤ 生死仏命の問題に分類される.」 こ の中で, 彼は, 生死の問題は, それを悟りの中で一体化してこそ生死から離れることができると し ている. 道元は執権時頼の招請によって鎌倉教化に赴いたと言われているが, それは7 カ月 間 と い う短い期間であり, その間武士階級の教化に失望して, 永平寺に引きこもることになる. 元来, 道 元は, 政治との接触を極度に嫌っており, 当時の武士には直接的影響は薄かったとも考えられるが 「正法眼蔵」 な どに見る彼の身体観や生死観は, 間接的には, 当時の武士に対して相当の影響力を もったと想像する.. 以上のように, 鎌倉時代の仏教思想を代表する五人の高僧について, 考えてみた訳だが,「鎌倉仏 教は僧侶の創唱したものではあったが, その教義的内容は種々の点で武士の精神的傾向とよく契合. するものがあり, それ故にこそ武士の時代において重要な地位をかち得ることができたことを忘れ てはならぬ, 又, 新仏教の特色の最も注目すべ きものに悪人往生, 悪人成仏の教えがあるが, 悪人 往生 (成仏) の社会的基盤は, まさしく武士にあると言える」 と家永氏が述べてお られるように, 当時の新仏教の教義が, 武士の思想の中心となっていたこと, 又, 新仏教も当時の権力者たる武士 ・ の保護を受けて発展 したことが容易に考えられるところである,. 1 1 ● ● 1 ーー 1 ・.

(12) . 井 ・ 英・. 藤. 6.. 嘉. 緒. 語. 馬上三物については次のように まとめてみた.. 甑) 実 用 的 で な い ル ー ル な どを 設 け た点 か らみ る と ス ポ ー ツ と して の 要 素 が つ よ い.. 2 { } 武士の身体鍛練には恰好の手段であった. 圏 武士階級が他の階級に対 して自らの特徴を示す手段と して行なった, 圏 武士独自の儀式として発展した. )・武勇を身につけるための精神訓練の手段とした. 5 {. 6 { } これによい成績を収めることによって功名を挙げようとした. ( 7 1 幕府の政策と して保護奨励した.. 以上のような要素が, 相互に混り合って, 未分化の状態における武家スポーツとして, 当代大い に発展するのである. 次に仏教思想については, 1 { ) 新仏教が当時の武士に多大の影響をもったこと, { 2 ) 武士は自らの不安解消を新仏教に求めたこと.. 武士の不安の最たるものは死であり, 仏教の教えはこれに答えてくれた. 悪人救済の基盤は武士にあ ったこと, ( 5 ) 易行であり, 武士に接し易かったこと, 圏. 盤. ( 6 ) 教義が, 武士の戦闘精神を支えるものであ ったこと. m 厳 しい修業による意志の強化は, 武士に尊ばれたこと,. ( ) 質素を旨とする教えは, 武士に清らかなものとして受け入れられたこと, 8 { 9 ) 新仏教の身体性は仏教を刷新した. 回. 回 団. 団体主義, 国家主義が芽生え, これが武士階級に影響をもったこと. 仏教信仰が, 当時の武士の教養として大きな要素を 占めていた. 新仏教と武士は相互扶助のような形であ った.. 一応以上のようにまとめてみた,. あ. と. が. き. 今回は, 武士道形成に鎌倉新仏教が影響をもった点だけを指摘するに留まり, その内容まで触れ ることが, できなかった. 仏教の教義は 奥深く, 書物か ら読みとるのには大変困難なものがある, 今後, 近世武士と儒教の関係や, 現代スポーツと禅について考察を試みたいと考えている. 引 1 . 2 . 3 . 4 . 5 . 6 . 7 ‘ 8 ,. 用. 文. 献. 963 赤松俊秀, 1 , 親書, 吉川弘文館, 3~34頁. 5 7 古川哲史, 19 , 武士道の思想とその周辺, 福村書店, 2頁. 0頁. 9 6 1 4 古田紹欽, , 日本仏教思想史の諸問題, 春秋社, 2 2 96 3 東教大体育学部紀要 肥後和男, 1 中世の射芸 , 頁, , , 2 1 5頁, 7 ~ 94 法蔵館 中世仏教思想史研究 家永三郎, 1 , , , 2 8 5 7 954 ~ 頁. 岩波書店 日本道徳思想史 家永三郎, 1 , , , 8~446頁. 1 9 6 6 第三巻 人物往来社 日本武道全集 今村嘉雄, , 39 , , , ) ヴァンダーレソ・ミッチェル・ベネット (加藤橋夫 (訳) , 体育の世界史, ベースボールマガジン社. , 1963.

(13) 鎌倉時代の馬上三物と武士に影響を与えたと 考え られ る仏教 9 . 1 0 , 11 . 12 , 1 3 . 1 4 , 1 5 , 1 6 .. 思想の研究. 108頁,. 唐沢富太郎, 1 95 4 , 中世初期仏教教育思想の研究, 東洋館出 版社, 43~4 6 5頁, 増永霊鳳, 19 6 5 41~1 4 8頁. , 永平正法眼蔵, 春秋社, 1 丸山哲郎, 1 9 5 7 , 日本武術におけるスポーッ性について--犬 追物競技-- 体 育 学研究,第 2 , 大野達之助, 1 9 63 , 日蓮, 吉川弘文館, 1~25頁. 東教大体育史研究室, 1 9 64 , 図説世界体育史, 新思潮社, 210~217頁. 竹内道雄, 1 9 6 2 道元 68頁. , , 吉川 弘文館, 1~1 続橋少一, 1 9 6 7 , 倫理的方向に移行しつつある体育, 北教大 紀要第 一 部c 34 , . 9 田村円澄, 1 63 1 5頁, , 親簿, 吉川弘文館, 1~1. 6 7頁. 巻…7号, 1.

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