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『日本仏教総合研究』 第11号 003時枝 務「古代東北の山寺と山林仏教」

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院 遺 跡 は、 考 古 学 の 立 場 か ら 仏 教 を 研 究 す る 際、 ほとんど寄与することができないまま現在に 射することができるとすれ ば 、そこに考古学における寺 院遺跡研究の意義があるといえよう。 本 稿 で は、 そ の よ う な 問 題 意 識 を も っ て、 文 献 史 料 の 少 な い 古 代 東 北 の 山 寺 の 実 態 に つ い て 迫 っ て み た い。 もっとも、考古学は遺構・遺物・出土状態からなる考古 資料を材料とし、物質資料によって歴史を解明する学問 である。そのため、具体的な器物の生産や消費について の研究は得意であるが、精神的な世界、まして宗教に関 する研究はもっとも不得手である。そうした方法的な限 界を持つが、宗教的な目的に供された建物や器物に注目 すれ ば 、それなりに宗教の実態に迫れることも確かであ

論 

古代東北の山寺と山林仏教

時 

枝   

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る。ここでは、福島県棚倉町流字東山に所在する流廃寺 を取り上げ、個別遺跡の分析から全体に迫るという方法 で、東北地方における古代の山寺の全体像に接近したい と思う。いわ ば インテンシブな研究法で考察しようとい う戦略である。 実は、筆者がこのような研究法を採用したのは、東北 地方の山寺の遺跡について全体を鳥瞰しつつおこなった 研究が、すでに窪田大介によって成し遂げられているか らである ︶ 1 ︵ 。窪田は、各地の山寺の遺跡について現段階で 知り得る限りの情報を集成し、九世紀における東北地方 の山寺の動向を解明しており、その精緻さは到底筆者の 及ぶところではない。 また、東北地方における山寺の個別的研究は近年著し く進展し、多くの報告や研究が発表されており ︶ 2 ︵ 、二〇一 一 年 十 月 一 日 に は 山 形 県 寒 河 江 市 に お い て﹁ 東 北 地 方 の﹃ 山 の 寺 ﹄﹂ と 題 し た シ ン ポ ジ ウ ム が 開 催 さ れ る ま で に至っている ︶ 3 ︵ 。ここでは、研究史に深入りしないが、地 元における研究の高まりが顕著であることだけを指摘し て置きたい。このような動向が生じた背景には、東北地 方における古代仏教の展開をトータルに捉えるためには、 文献史料以外の材料にも注目せざるを得ないという状況 があるとみられる。 一、流廃寺の伽藍の検討 流廃寺は、早くから﹁流の廃堂跡﹂として知られてい たが、一九七四年の発掘調査を嚆矢に、棚倉町教育委員 会によって九次にわたる発掘調査が実施され、その実態 が徐々に解明されてきた ︶ 4 ︵ 。ここでは、その調査成果に立 脚して遺跡の概要を紹介したのち、伽藍のあり方を検討 したいと思う。 流廃寺は、棚倉町の中心部から南東方向に約一 ㎞ 、西 側を久慈川によって開析された阿武隈山地西端の標高約 三〇〇 m 、平地からの比高約八〇 m の丘陵尾根と斜面に 所在している。山地のすぐ西側は久慈川を挟んで細長く 平地が延びており、松並平遺跡や上豊遺跡などの平安時 代の集落遺跡が確認されており、常陸国と陸奥国を結ぶ 官道の存在が推測されている。付近にはいずれも都々古 別神社を名乗る二つの古社が鎮座しており、鎮座地の地 名を冠して馬場都々古別神社・八槻都々古別神社と呼ん でいるが、両社ともに古墳時代、五~六世紀の祀りの痕

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第 1 図 流廃寺の伽藍(棚倉町教委 2011 一部改変)

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跡である建鉾山祭祀遺跡から遷座した神社であると縁起 において主張している。都々古別神社は式内社であるが、 両社いずれとも決し難く、近世以来の論社となっている。 流廃寺はいずれの神社とも約一 ㎞ の距離にあり、地域の 神仏関係への影響を考慮すれ ば 、到底無関係とは考えら れないが、関係を裏づける史料はない。 流廃寺は、山地地形を巧みに利用し、おもに山側を削 り、 谷 側 を 埋 め 立 て る 整 地 地 業 を と も な う 土 木 工 事 に よって平場を造作し、そこに建物などを配することで伽 藍を形成している。 その伽藍配置は、尾根上に直線的に建物を配置するも ので、方形区画のなかに堂塔をレイアウトした平地伽藍 と は ま っ た く 異 な る も の で あ る︵ 第 1図 ︶。 伽 藍 中 心 部 にある平場は西側から順に 1号から 13号まで確認できる が、そのうち 5号に S B 09 、 6号に S B 08 、 7号に S B 0 2 、 8号に S B 03 、 9号に S B 0 4 、 10号に S B 0 1 、 11号に S B 0 5 、 12号に S B 06 、 13号に S B 0 7 の礎石建物が存在している。発掘調査で検出された 礎石建物はこの九棟であるが、未発掘の 1号から 4号の 平場にも礎石建物が存在することがボーリングステッキ による探索であきらかになっており、将来的に建物数が 増加する可能性が高い。 礎石建物は、 S B 09 が桁行一間・梁行一間の特異な もの、 S B 08 が桁行七間・梁行二間の板床、 S B 0 2 が桁行九間・梁行三間の懸造、 S B 03 が桁行三間・梁 行 二 間 で 中 央 に 須 弥 壇 を も つ も の、 S B 0 4 が 桁 行 三 間・梁行二間で板床、 S B 0 1 が桁行五間・梁行四間の 前面に孫庇を付けたもの、 S B 0 5 が桁行三間・梁行二 間、 S B 06 が桁行三間・梁行二間で板床、 S B 0 7 が 桁行北二間・南三間・梁行西二間・東三間で土間である。 礎石建物は、大型の仏堂である S B 0 1 、長大な建物で ある S B 0 2 と S B 08 、小型の建物であるその他のも のに大別することができる。その他のものは、板床のも のもあれ ば 、土間のものもあることから知られるように、 そ の 機 能 は 多 岐 に わ た っ て い た と 考 え ら れ る。 し か し、 須弥壇をもつ S B 03 のように、仏堂であることが明白 な事例があるので、小さくても宗教的には重要な施設が 含まれていた可能性がある。 こ れ ら の う ち、 本 格 的 な 瓦 葺 建 物 は S B 0 1 の み で、 S B 0 5 ・ 06 ・ 0 7 が甍棟であったと考えられる。甍

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棟は、屋根全体を瓦で覆うのではなく、大棟のみに瓦を 葺いたものである。とすれ ば 、瓦葺建物は、伽藍中心部 の東側に、集中的に存在していたことになる。 浜島正士は、 S B 0 1 が金堂で、 S B 0 2 が講堂、 S B 08 が食堂、 S B 0 4 が鐘楼、 S B 0 7 が﹁最初に入 山 し た 開 山 僧 の 庵 室 ﹂、 S B 0 3 ・ S B 0 5 を 仏 堂 と 判 断し、金堂・講堂・食堂・鐘楼などからなる古代寺院で、 その伽藍類型は兵庫県の書写山円教寺と共通すると考え た ︶ 5 ︵ 。つまり、流廃寺は山寺であるが、伽藍を構成する堂 塔 は 基 本 的 に 平 地 伽 藍 と 共 通 し て い る と み た の で あ る。 浜島は、理念的には古代の平地寺院の伽藍類型であるが、 山地という地形ゆえに制約を余儀なくされた形態が流廃 寺であると考えたのである。この浜島説は、流廃寺に関 する公的な見解として承認され、現在では通説となって いる。 確かに、 S B 0 1 が金堂、すなわち本堂であることは、 そ の 大 き さ や 仏 堂 と し て の 形 態 か ら 疑 い な い。 し か し、 長大な建物である S B 0 2 を講堂、そのやや小ぶりな建 物である S B 08 を食堂と判断し、 S B 0 4 を鐘楼と推 測するに至っては、その可能性を否定するものではない にしても、どことなく違和感を覚えるのではなかろうか。 浜島が理念型として措定した伽藍類型は、基本的に顕教 のものであるが、流廃寺は、 S B 0 7 から発見された金 銀象嵌鉄剣が不動明王の破邪の剣と推測されている ︶ 6 ︵ こと からもわかるように、密教寺院であった可能性がきわめ て高い。とすれ ば 、顕教の伽藍ではなく、密教寺院のそ れを基本に考察を進めなけれ ば ならないはずである。そ の点において、公的な見解でもある浜島説は、今一度再 検討する必要があると考えられるのである。 では、どのように考えたらよいのか、着目すべき点を 掲げておこう。 第一に、 S B 0 1 の圧倒的な大きさであり、他の仏堂 に対する優越性である。第 1図をみれ ば あきらかなよう に、 S B 0 1 は大きさにおいて他の建物と比較にならな い威容を誇っていたことが知られる。 S B 0 1 は、須弥 壇の背後を開放している古代的な建物であるが、孫庇を 導入することで多人数による礼拝を可能とした点におい て新たな動向をみせている。こうした仏堂は、九世紀に 誕生し、その後普及したと推測されているが、遺例に乏 し い た め 十 分 に 実 証 さ れ て い る わ け で は な い。 む し ろ、

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本例が、今後の研究のためのまたとない格好の資料とな り、十世紀の典型例として扱われることになろうが、古 代の仏堂から中世仏堂への過程を示すものとして位置づ けられる点に今は注目しておこう。 第二に、 S B 0 1 の出現は、流廃寺における伽藍形成 の大きな転換点となった可能性が高いことである。辻秀 人によれ ば 、流廃寺の瓦は大きく三つのグループに分類 されるが、第一グループと第二グループが製作した工人 集団の差と考えられるのに対し、第三グループは時代的 に他の二つのグループよりも先行すると判断される ︶ 7 ︵ 。そ の第三グループの瓦は、 S B 06 ・ 0 7 でまとまって出 土する他、 S B 0 1 でわずかに確認できるので、 S B 0 6 ・ 0 7 の建設にあたっておもに使用された瓦で、 S B 0 1 の建設の際に一部が補助的に用いられたと考えてよ い。それに対して、 S B 0 1 では第一と第二のグループ の瓦が主体を占めており、それらが S B 0 1 の建設に際 して新たに生産された瓦であるとみられる。つまり、瓦 から、 S B 06 ・ 0 7 が、 S B 0 1 に先立って建設され たことが跡付けられるのである。 す で に 指 摘 し た よ う に、 流 廃 寺 に お け る 瓦 葺 建 物 は、 S B 0 1 よりも東側に集中しているが、 S B 06 ・ 0 7 が S B 0 1 に先行するとすれ ば 、流廃寺の伽藍形成はそ れ ら の 建 物 か ら 出 発 し た こ と に な る。 し か も、 浜 島 に よって﹁最初に入山した開山僧の庵室﹂と推定されてい る S B 0 7 は、出土した土器の年代観から十世紀初頭に 創建され、十世紀前半に廃絶したと推測されている。な お、創建時期は、九世紀後半に遡る可能性も大いにあろ う。これらの事実から、流廃寺は、九世紀後半から十世 紀初頭に S B 0 5 ・ 06 ・ 0 7 の三棟の建物から始まり、 その後 S B 0 1 が建設されて寺院としての形態を整えた と考えることができるのである。建物に瓦を葺いたのは S B 0 1 が最後で、その後はもっぱら板葺きなど植物質 の屋根材が用いられたのであり、瓦に象徴される古代的 なあり方は S B 0 1 で終ったのである。ちなみに、瓦の 焼成技術は基本的には官の管轄するところであって、官 か豪族の支援なしに瓦を葺くことは難しいと考えられる。 瓦葺から板葺などへの転換は、官から民へという図式の なかで理解できるものであり、流廃寺の経済的な基礎と も深く連動する動きであった。そうした、伽藍形成の画 期を体現するのが S B 0 1 であり、その評価は流廃寺を

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どう理解するかに直結することはいうまでもない。 第三に、 S B 0 1 に次ぐ規模の建物は S B 0 2 であり、 両者が深い関係にあったとみられることである。浜島は S B 0 2 を講堂に比定するが、規模の小さい S B 08 も 共通した形態をみせており、仏堂に対比できるような性 格であった可能性が高い。 S B 0 1 と S B 0 2 がセット をなすような関係を想定してもあながち誤りではなかろ う。機能を特定するには根拠が乏しいが、僧侶に関係す る領域であった可能性は多分にあり、その点では浜島説 にも一理があろう。仏の領域と僧の領域がセットになっ て、 S B 0 1 出現後の流廃寺が維持されたとみられ、古 代寺院としての機能の充実が図られたであろうことが推 測できるのである。もっとも、 S B 0 2 が、講堂として 狭いことは否めない。 S B 0 2 からは三九二点の土師器 が出土しており、限定された調査範囲にしては数が多く、 建物の性格を反映している可能性が考えられよう。 第四に、その他の建物はあまりにも小さく、 S B 0 1 や S B 0 2 と同列に扱うことができないことである。 S B 0 7 が﹁最初に入山した開山僧の庵室﹂であるとする なら ば 、他の建物の多くも庵室という評価が適当なよう に思われるが、いかがであろうか。 S B 0 7 は、護摩炉 と思しき配石遺構が検出され、しかも金銀象嵌鉄剣が出 土していることから、内部で密教の修法が執行されてい たと推測できる。床面が土間であるのは、護摩を焚くた めであると考えれ ば 、合理的に理解できる。須弥壇をも つ S B 03 が仏堂であることは確実であるが、僧衆に開 かれた仏堂とみなすには、あまりにも小規模である。や はり密教世界との関連を想定したい建物である。 S B 0 3 など S B 0 1 よりも西側にある建物は、いずれも板葺 など植物質の屋根材を用いたと考えられ、東側の建物群 のような瓦を重視する価値観に立脚した建物と一線を画 している。瓦を重視する古代的な価値観が濃厚であった 十世紀初期までの段階よりも新しい時期に、 S B 0 1 よ りも西側の建物群が建設されたのであるが、その時期も 十世紀前半に収まるとみられる。 S B 0 2 ・ 08 以外の 建物は、さまざまなバリエーションがみられるが、基本 的に本尊を祀る小さな仏堂であったと考えられる。それ は、僧衆によって儀礼が展開される顕教的な世界の施設 ではなく、個人的な関係を基軸に据えた密教世界の施設 であったように思える。規模の小ささは、そこに関与す

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る人数の少なさを反映したものであり、まさに密教的な あり方といえるのではなかろうか。 このように考えると、浜島の提示した伽藍理解は、見 直すべき余地が多分に残されているように思う。とりわ け、 S B 0 1 の傑出した姿は、古代の平地伽藍と同列に 扱うことができないことを如実に物語っているといえよ う。 結 論 を 先 取 り す れ ば 、 S B 0 1 成 立 後 の 流 廃 寺 は、 公的な仏堂である S B 0 1 を取り巻く私的な宗教施設群 として捉えたほうが実態に即しているのではないかとい うことである。それが、はたして寺院と呼べるのか、単 なる仏堂なのか、判断は難しいが、最初に整然とした寺 院ありきで遺跡を理解することは慎まね ば なるまい。確 実なことは、傑出した仏堂である S B 0 1 建築後、その 西方に多数の仏堂を含む建物群が営まれ、初期の段階と は ま っ た く 異 な っ た 景 観 を 呈 す る に 至 っ た こ と で あ る。 S B 0 1 は僧衆の結集の象徴ともいうべき仏堂であった とみられるが、それ以外の小規模な仏堂は私的な宗教活 動の場であった可能性が高く、同じ仏堂でもその性格は 大きく異なっていたとみてよい。 ところで、流廃寺から出土した土器は、大部分が十世 紀末を下ることはないが、ごく一部で十一世紀前期のも のが発見されている。九世紀後半に成立し、十世紀中頃 に隆盛を極めた流廃寺も、十世紀末には衰退し、十一世 紀前半には廃絶した。わずか一世紀余りの繁栄で終焉を 迎えたわけであるが、古代から中世へと飛躍できなかっ た要因が、どこかに孕まれていたと考えられる。本堂で ある S B 0 1 をみると、須弥壇の背後に空間が確保され ていることなど、古代的な要素を強く残しており、中世 仏堂に転化できなかった要因を指摘することは容易であ る。伽藍の古さが何に起因するものなのか、具体的に追 及し、流廃寺を支えた仏教の本質に迫る必要があろう。 最後に、指摘しておかね ば ならないのは、流廃寺の伽 藍は、決して最初から計画的に造営されたものではなく、 S B 0 1 の建設の前と後ではまったく異なる展開をした と考えられることである。初期の東側の伽藍の成立、 S B 0 1 の出現、西側の伽藍の形成と、少なくとも三段階 の 変 遷 を 想 定 す る 必 要 が あ る。 そ れ ぞ れ の 段 階 ご と に、 伽藍配置の意味するところが変わり、結果として残され たのが現在の遺跡であることを正しく認識しなけれ ば な らない。形態的には、流廃寺の伽藍は、群馬県高崎市黒

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熊中西遺跡や福島県磐梯町慧日寺観音寺地区の伽藍配置 と類似し、谷底に建物が線状に並ぶ山形市立石寺とも通 底するものがあるが、その相違点と共通点が意味すると ころを吟味せね ば なるまい。 以上、流廃寺の伽藍について検討してきたが、結論を 出すには資料的にも方法的にも、まったく不十分な現状 にある。それでも、将来の見通しを述べれ ば 、流廃寺の 伽藍は、大型の仏堂を中心とした小規模な宗教施設の集 積体であり、成立時に大きな影響力をもった官の力が弱 まった結果生まれた過渡期の山寺のあり方ではないかと 考える。しかも、そこでおこなわれていた仏教は、残さ れた遺物から密教と考えるのが妥当であろう。いずれに せよ、官の助力のもとに創建された小規模な初期伽藍が、 やはり官の援助のもと建設された S B 0 1 が出現して後、 そこに集った行者によって多数の仏堂などが建設された 結果、今日遺跡として残されたような広大な伽藍が出現 したと考えてよかろう。もちろん、実証することは難し いが、行者たちを引き寄せるような魅力をもった名もな い開山の僧侶が、ここにいたことは確かである。 二、流廃寺出土「銅製三鈷杵」の検討 さて、考古資料には、不動産である遺跡や遺構だけで はなく、動産である遺物がある。流廃寺からはさまざま な遺物が出土しており、たとえ ば 僧具である鉄鉢は僧侶 の托鉢の証拠であり、金銀象嵌鉄剣は仏堂の本尊とそこ でおこなわれた修法を物語る。それらの遺物についても、 議論すべき課題は多いが、今回は﹁銅製三鈷杵﹂につい て検討しておこう。 流廃寺から出土した﹁銅製三鈷杵﹂は、井上光一の貼 り込み帳に図だけが残るもので、実物を確認することが 現状ではできない遺物である。しかし、図は実物の輪郭 をなぞった正確なもので、遺物の特徴をよく示している。 井 上 國 雄 は、 流 廃 寺 の 考 古 学 的 研 究 を 振 り 返 る な か で、 ﹁井上光一によって作成された明治時代の貼り込み帳 ︵ス クラップブック︶ ﹂に収められた﹁三鈷杵︵または羯磨︶ の 破 片 ﹂ を 紹 介 し た ︶ 8 ︵ が、 そ こ に は﹁ 古 銅、 厚 サ 二 分 弱、 裏ハ峯高ナリ﹂と注記されているという。銅製の三鈷の 破片で、井上氏は三鈷杵か羯磨と推測したが、そのかた ち は 個 性 的 な も の で あ る︵ 第 2図 1︶。 三 鈷 は、 中 鈷 と 脇鈷からなるが、片方の脇鈷を欠失している。中鈷は二

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箇所の節をもち、脇鈷は外側に三箇所、内側に一箇所の 突出部を設ける。脇鈷の突出部は、一見嘴形を呈してい るようにもみえるが、山形と形容した方がよさそうな形 態である。脇鈷は、先端が内側に湾曲するが、全体的に 直線的である。中鈷の基部に黒い円形を描くが、破損箇 所の断面を表したものとみられ、三鈷の下に断面円形の 把が付いていたと推測できる。 さて、この仏具は、三鈷杵か羯磨と考えてよいのであ ろうか。現物が未確認なため、断定はできないが、一般 的な三鈷杵や羯磨とは異なる形態的特徴を指摘すること ができる。栃木県日光市男体山頂遺跡出土の三鈷杵︵第 2図 2︶をみると、鈷部に接して蓮弁帯が設けられてい るが、流廃寺例にはそれらしいものがみられない。中鈷 の節は、男体山例では一箇所であるのに対して、流廃寺 例は二箇所ある。脇鈷の外側の突出部は、男体山例では 一箇所であるのに対して、流廃寺例は三箇所ある。また、 男体山例では、断面が円形に近い形状を呈するのは蓮弁 帯よりも内側で、約条が巡る部分である。とすると、流 廃寺例に蓮弁帯と約条が残存していてもよさそうである が、その形跡はない。男体山例はごく一般的な三鈷杵で 第 2 図 三鈷杵と三鈷鐃 ( 1.流廃寺 2 ∼ 4.日光男体山頂遺跡、縮尺不同、出典:棚倉町教委 2011、日光二 荒山神社 1963)

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あり、流廃寺例が例外的なことはいうまでもない。 それでは、羯磨かというと、羯磨も鈷部の基部に蓮弁 帯を設けるので、基本的には三鈷杵の場合と同じことが いえる。細かい比較は省略する。 とすると、この仏具はいったい何かという問題になる が、 手 が か り は 蓮 弁 帯 を も た ず、 把 部 と の 境 界 で 折 れ、 断面が円形を呈するとみられるところにある。可能性は 二つある。一つは、三鈷鐃の鈷部で、鈷部が把部から遊 離した可能性である。三鈷鐃は、振り鳴らして用いる梵 音具で、鈷部 ・ 把部 ・ 鈴部からなる。男体山頂遺跡出土の 三鈷鐃︵第 2図 4︶をみると、鈷部の形が流廃寺例に類 似していることがわかるが、とりわけ中鈷と脇鈷の位置 関係が共通していることが注目される。男体山例の中鈷 は、銛状の鋭利な先端部をもち、その下に逆刺を設けて いるが、これが退化して流廃寺例の二つの節になったこ とが理解できる。同様に、男体山例の脇鈷につく逆刺が 退化して、流廃寺例の山形になったことが知られる。も う一つは、異形三鈷杵の破片である可能性で、やはり男 体 山 頂 遺 跡 で 出 土 例 が あ る︵ 第 2図 3︶。 一 見 中 鈷 の 形 態が流廃寺例に類似しているが、よくみると節は一箇所 のみであることがわかる。脇鈷も、むしろ一般的な三鈷 杵に近く、粗雑ではあるが三鈷杵の基本を踏まえている ことが看取される。把部の断面が円形を呈する点は、流 廃寺例と共通するが、鈷部の付け根に透かし孔をもつ点 で大きく異なる。この孔に別鋳の脇鈷を取り付けた五鈷 杵である可能性も否定しきれない。しかも、男体山例は 鉄製であるのに対して、流廃寺例は銅製であることも大 きな相違点である。このように比較してみると、流廃寺 例は、三鈷鐃の鈷部であると考えるのがもっとも妥当と 判断される。 ところで、三鈷鐃は現在の密教では使用しない仏具で、 いわゆる古密教で使用された仏具である。現在も使用さ れている例としては、東大寺二月堂の修二会 ︵お水取り︶ に用いられる堂司鈴︵三鈷鐃︶が知られるのみであるが、 二月堂のある上院地区が東大寺以前の山寺の一画である ことは三鈷鐃の性格を暗示して余りある。同地区には丸 山 西 遺 跡 や 天 地 院 跡 な ど の 山 寺 の 遺 跡 が 残 さ れ て お り、 春日山・御蓋山の山林仏教の拠点であったとみられ、三 鈷鐃が山林仏教と深い関係にあったことを物語っている。 栃木県日光市男体山頂遺跡からは、鉄製と銅製の多数

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の三鈷鐃が出土している ︶ 9 ︵ が、空海が著した﹃遍照発揮性 霊 集 ﹄ に 引 く と こ ろ の﹁ 沙 門 勝 道 歴 山 水 瑩 玄 珠 碑 并 序 ﹂ によれ ば 、天応二年︵七八二︶に勝道が山頂への登拝に 成功し、大同二年︵八〇七︶には旱魃に際して国司の依 頼を受けて山頂で雨乞いをおこなったところ豊かな雨を もたらしたと伝えられている。三鈷鐃が雨乞いに用いら れたことを示す直接的な史料はないが、石川県羽咋市福 水ヤシキ ダ 遺跡の井戸状遺構から三鈷鐃が錫杖や銅鋺な どとともに出土していることは、三鈷鐃が雨乞いに用い られた可能性を暗示しているといわね ば ならない。ちな みに、日光男体山頂遺跡からは馬形鉄製品が出土してい るが、馬形が雨乞いと密接な関係にあることはいうまで もない。 このような三鈷鐃の性格を踏まえて、流廃寺の性格を 考えると、流廃寺が山林修行の拠点であった可能性が推 測できよう。ここを拠点とする古密教の僧侶が、日光男 体山などの山岳へ登拝し、積極的に山林修行をおこなっ たことが想像できるのである。彼らが寺院と行場の双方 において神仏の祭祀・供養を執行したことは、それぞれ の場から三鈷鐃が出土していることで実証され、彼らに よって山麓の寺院と山頂の祭場が結び付けられていた状 況を知ることができる。山寺は、それのみで独立して存 在していたわけではなく、日光男体山などの聖地や行場 と深い関係に置かれていたのである。 また、三鈷鐃など古密教系仏具の分布をみると、東北 地 方 に お け る 古 密 教 の 動 向 を 知 る こ と が で き る。 仏 具 は、流通によって移動することもあるが、三鈷鐃の場合 は、むしろ使用者である僧侶が自ら携帯して移動した結 果、広域に分布するようになった可能性が高い。つまり、 三鈷鐃の分布をみることで、古密教の僧侶の活動の痕跡 があきらかになり、東北地方における古密教の伝播の一 端が解明できると期待されるのである。 そこで、三鈷鐃の出土地や伝世地を地図上に落として みたのが第 3図である。この図をみると、三鈷鐃の分布 地が、大きく四つのまとまりからなることがわかる。 第一の地域は畿内で、東大寺・法隆寺・法輪寺・松尾 寺などに伝来したことが知られ、九世紀から十三世紀ま での各時期に製作された銅製三鈷鐃が確認できる。東大 寺二月堂の堂司鈴は、弘安八年︵一二八五︶の紀年銘を もつが、三鈷鐃としての特色は平安時代前期に遡るもの

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第 3 図 三鈷鐃の分布 栃木県・日光男体山 岩手・山口館 福井・木部新保 石川・福水ヤシキダ 青森・五輪野

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と判断されるところから、施入時の後刻銘と考えるのが 妥当であろう。畿内では、遺跡からの出土例が確認され ていないが、伝世品の多さはこの地域で三鈷鐃が盛んに 使用された時期があったことを物語っている。三鈷鐃の 原型は中国に求められる可能性が高く、中国との交流の 機会を考慮すれ ば 、畿内が日本で最初に三鈷鐃を導入し た地域であったとみるのが自然であろう。 第 二 の 地 域 は 北 陸 地 方 で、 福 井 県 坂 井 町 木 部 新 保 遺 跡・石川県羽咋市寺家ヤシキ ダ 遺跡・同中能登町最勝講 から全形を知り得る資料が発見されており、石川県小松 市浄水寺跡出土の三鈷部も三鈷鐃の一部である可能性が ある。いずれも銅製三鈷鐃である。時期的には十世紀の ものが主体を占める。この地域では、三鈷鐃の他、やは り古密教の仏具と考えられ、金剛鈴のより原始的な姿と いえる鐘鈴が多数出土していることが注目される ︶ 10 ︵ 。鐘鈴 は、石川県白山市白山御前峰山頂遺跡・富山県富山市栃 谷南遺跡・同市任海宮田遺跡 S K 1 6 土坑・同県立山町 虚空蔵窟などで知られており、山岳宗教と関係深い遺跡 での発見が目立つ。北陸地方には、福井県越前町大谷寺 跡・石川県金沢市三小牛ハバ遺跡など多数の山寺の遺跡 が存在しており、山林仏教が九世紀から十世紀に盛行し たとみられる。 第三の地域は関東地方で、栃木県日光市男体山頂遺跡 から多数出土している他、千葉県銚子市円福寺・茨城県 鹿島市鹿島神宮の伝世品、同市鉢形遺跡・同県東海村小 沢野遺跡の出土品が知られている。流廃寺は福島県であ るが、実は茨城県の久慈川の上流にあたり、第三の地域 に含めて考えることができる。大部分は銅製三鈷鐃であ るが、日光男体山頂遺跡からは鉄製三鈷鐃も出土してお り、北東北との関係が予測される。いずれも、九世紀か ら 十 世 紀 に 製 作 さ れ た も の で あ る が、 形 態 的 に は バ リ エーションがみられる。さらに、群馬県前橋市御殿前遺 跡・茨城県新治村では三鈷鐃の鋳型が出土しており、地 元で生産されていたことが判明している。新治村のもの は十三世紀に下るとみられるが、御殿前遺跡のものは十 世紀と考えられ、関東地方出土の三鈷鐃のなかには地元 産のものが含まれている可能性が高い。御殿前遺跡は山 寺である宇通廃寺に隣接した場所にあり、寺院付属工房 であると考えられ、三鈷鐃の生産のあり方を知るうえで 重要な情報を提供してくれる。なお、関東地方でも、日

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光男体山頂遺跡と千葉県山武町野出山遺跡 3号住居跡で 鐘鈴の出土が確認されており、北陸地方と似た状況をみ ることができる。また、福島県磐梯町慧日寺に、古密教 の仏具である憤怒形三鈷杵が伝えられていることも見落 とせない。 第四の地域は東北地方北部で、秋田県大館市松峯寺出 土の銅製三鈷鐃、岩手県宮古市山口館遺跡と青森県田舎 館村五輪野遺跡から出土した鉄製三鈷鐃が知られている。 この地域では、鉄製品が主流を占めているが、鉄生産が 盛んであった地元で生産された結果かもしれない。松峯 寺のものは九世紀とみられるが、山口館遺跡と五輪野遺 跡のものは十世紀に製作されたものとみられ、後二者は 三 鈷 部 の 退 化 が 著 し い。 鉄 製 品 で あ る た め 表 現 が 難 し かった可能性もあるが、やはり本来の意義を十分に理解 しないまま製作した結果とみてよかろう。なお、山口館 遺跡と五輪野遺跡では鉄製鐘鈴が伴出しており、北陸地 方や関東地方と同じ様相をみせているところから、直接 的な影響関係を読み取ることができる。 流廃寺の事例は、第三の地域の北端であるが、関東地 方から陸奥への入口でもあり、第三の地域と第四の地域 を繋ぐ重要な位置ともいえる。関東地方の影響を多分に 受けながらも、領域的には陸奥であるこの地域は、いわ ば 一種の境界領域ともいえる。古密教が、陸路を通って 第四の地域へ伝播したとすれ ば 、流廃寺は陸路の要衝で あったと評価できよう。しかし、三鈷鐃の伝播ルートは、 陸路のみでなく、北陸地方から日本海に沿って北上する 海の道、関東地方から太平洋を通る海の道の存在も無視 できない。資料が少ないため、陸路と海路のいずれが主 流であったかを実証することはできないが、三鈷鐃の分 布 の 背 景 に 交 通 路 の 存 在 が あ る こ と だ け は 確 か で あ る。 しかも、三鈷鐃を携え、北上した古密教の担い手たちが いたことも、まず疑いのないところである。彼らがなぜ 北上したのか、そして北東北の地に伝播した古密教はど のような役割を果たしたのか、検討してみる必要があろ う。 そのためには、北東北の歴史の全体像のなかに古密教 を 位 置 づ け な け れ ば な ら な い が、 今 は そ の 準 備 が な い。 ただ、三鈷鐃の使用は、修二会・雨乞・悔過などの法会 を催すことに通じ、基本的には何らかの現世利益を追求 する宗教行為をおこなったと考えて大過ない。当然、そ

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うした行為を僧侶がおこなった背景には、現世利益を期 待する信者がいたわけで、山寺では意外と早く民衆が受 容者となっていた可能性がある。しかしながら、著名な 山寺である山形県山形市立石寺で九世紀の銅印﹁立石倉 印﹂が使用されていたことから推測すれ ば 、官が山寺の 創建に積極的に関与したと考えられ、山林仏教の場の確 保と官が深く関わっていた可能性が指摘できる。 もっとも、より広い目でみれ ば 、九世紀から十世紀は 畿内においてすでに真言密教などの純密が普及していた 段階であり、三鈷鐃の存在に象徴される古密教が盛行し ていた東北地方は、畿内に比して古い様相を留めていた といわざるを得ない。八世紀に畿内で始まった古密教の 山寺造営が、徐々に東日本に伝わり、やがては北東北ま で伝播したと考えてよいのではなかろうか。 しかし、こうした畿内からの視点とともに、北東北か ら三鈷鐃の意味を考えてみることが必要であることはい うまでもない。その際、手がかりになるのは、第四の地 域 に お け る 鉄 製 三 鈷 鐃 の 存 在 で あ ろ う。 鉄 製 三 鈷 鐃 は、 第一・第二の地域ではまったくみられず、第三の地域で も日光男体山頂遺跡においてわずか一点がみられるのみ である。このことから、鉄製三鈷鐃は、第四の地域を特 色づける遺物であり、濃厚な地域性をもつ遺物であると 断言してよい。銅製三鈷鐃と鉄製三鈷鐃は、その形態や 大きさが異なるのみでなく、おそらく音も違うであろう ことは容易に想像できる。儀礼の場における音の効果の 違 い を 無 視 し て ま で、 あ え て 鉄 製 を 導 入 し た と こ ろ に、 北東北固有の特性がある。第一から第三までの地域では 銅製三鈷鐃が基本で、形態や大きさ、あるいは音まで共 通していたはずである。ところが、第四の地域では、鉄 を素材とした三鈷鐃を導入するという新しい試みをおこ なったのであり、それは三鈷鐃の歴史にとって画期的な ことであった。その意味を評価することは難しいが、第 一から第三までの地域との異質性を指摘することは容易 で、今後北東北における山林仏教のあり方について考察 する際にはこの点に留意する必要があろう。 おわりに 以上、流廃寺の遺構と出土遺物を手がかりに、おもに 十世紀頃の東北地方における山林仏教のあり方について、 考古学の立場から考察を加えてきた。

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その結果、まず平地伽藍と異なった伽藍のあり方を確 認することができたが、伽藍配置の系譜関係などが十分 に解明できたわけではない。一般的に、瓦葺の平地伽藍 に対して、杮葺など植物質の屋根材を用いるのが山寺の 特色とされるが、山寺でありながら瓦葺の本堂をもつ流 廃寺は、平地伽藍の余韻を残しているともいえ、過渡期 のあり方と考えることができる。そのように捉えてよけ れ ば 、流廃寺に古密教の山寺としての特徴を見出す見解 も、あながち誤りとはいえないであろう。都々古別神社 など神祇との関係も射程に収めつつ、山寺の伽藍の特色 について、広域にわたる比較によって考察することも課 題となろう。 つ い で、 ﹁ 銅 製 三 鈷 杵 ﹂ を 三 鈷 鐃 と 判 断 し、 そ の 東 日 本における分布のなかで東北地方のあり方を論じた。三 鈷鐃を使用した流廃寺の住僧は山岳修行の徒であり、東 国から北へ向った験者でもあったとすれ ば 、流廃寺は関 東地方と東北地方を繋ぐ結節点ともいうべき重要性を帯 び て く る。 三 鈷 鐃 の 行 き 着 い た 先 は 北 東 北 の 地 で あ り、 そこでどのような宗教活動がおこなわれたのか、今後具 体的に吟味しなけれ ば なるまい。 本論は、流廃寺という個別寺院の考察を基軸にしつつ、 東北地方全体の山林仏教を考察しようとした試論である が、もとより不十分なものであり、先学諸氏のご教示を 期待してやまない。 ︵ 1︶窪田大介﹃古代東北仏教史研究﹄法蔵館 二〇一一年 ︵ 2︶ 膨大なので、代表的な遺跡に関する文献だけを掲げるが、 この多さから近年の山寺研究熱が感じられよう。国見山 廃寺については、沼山源喜治﹁国見山廃寺跡調査の現状 と 課 題 ﹂﹃ 岩 手 考 古 学 ﹄ 第 一 〇 号 岩 手 県 考 古 学 会 一 九 九 八 年、 北 上 市 教 育 委 員 会﹃ 国 見 山 廃 寺 跡 ﹄︵ 北 上 市 埋蔵文化財調査報告第五五集︶北上市教育委員会 二〇 〇 三 年、 杉 本 良﹁ 一 二 世 紀 の 国 見 山 廃 寺 ﹂﹃ 紀 要 ﹄ 第 三 号 北上市埋蔵文化財センター 二〇〇四年、同﹁国見 山 廃 寺 跡 S B 0 1 1 礎 石 建 物 と 下 層 建 物 跡 の 検 討 ﹂﹃ 岩 手考古学﹄第一六号 岩手県考古学会 二〇〇四年、同 ﹁ 霊 場 と し て の 国 見 山 廃 寺 ﹂﹃ 中 世 の 聖 地・ 霊 場 ﹄︵ 東 北 中世考古学叢書五︶高志書院 二〇〇六年、同﹁北上市 国見山廃寺跡︵岩手県︶ ﹂﹃仏教芸術﹄三一五号 毎日新 聞社 二〇一一年、山寺立石寺については、立石寺﹃名

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勝及び史跡山寺石積み崩落復旧工事報告書﹄立石寺 二 〇〇五年、須藤英之﹁山寺立石寺﹂ ﹃中世の聖地・霊場﹄ ︵ 東 北 中 世 考 古 学 叢 書 五 ︶ 高 志 書 院 二 〇 〇 六 年、 山 口 博 之﹁ 山 寺 立 石 寺 の 社 会 的 景 観 ﹂﹃ 考 古 学 ジ ャ ー ナ ル ﹄ 第五六一号 ニューサイエンス社 二〇〇七年、山形県 立博物館﹃山寺 ― 歴史と祈り ― ﹄山形県立博物館 二〇 〇九年、日本考古学協会二〇〇九年度山形大会実行委員 会﹃ 日 本 考 古 学 協 会 二 〇 〇 九 年 度 山 形 大 会 研 究 発 表 資 料 集 ﹄ 日 本 考 古 学 協 会 二 〇 〇 九 年 度 山 形 大 会 実 行 委 員 会 二〇〇九年、一般社団法人日本考古学協会﹃一般社 団 法 人 日 本 考 古 学 協 会 二 〇 〇 九 年 度 大 会 研 究 発 表 要 旨 ﹄ 一般社団法人日本考古学協会 二〇〇九年、山形県教育 委員会﹃名勝及び史跡山寺保存管理計画策定報告書﹄山 形県教育委員会 二〇一〇年、慧日寺跡については、磐 梯町教育委員会﹃史跡慧日寺跡保存修理 伝徳一廟保存 修理工事報告書﹄磐梯町教育委員会 一九八三年、磐梯 町教育委員会 ﹃慧日寺関連遺跡緊急調査 範囲確認調査﹄ 磐梯町教育委員会 一九八五年、磐梯町教育委員会﹃慧 日寺関連遺跡緊急調査 範囲確認調査﹄磐梯町教育委員 会 一九八六年、磐梯町教育委員会﹃福島県磐梯町史跡 慧日寺跡 Ⅰ ﹄磐梯町教育委員会 一九八六年、磐梯町教 育委員会﹃福島県磐梯町史跡慧日寺跡 Ⅱ ﹄磐梯町教育委 員会 一九八七年、磐梯町教育委員会﹃福島県磐梯町史 跡慧日寺跡 Ⅲ ﹄磐梯町教育委員会 一九八八年、磐梯町 教育委員会﹃福島県磐梯町史跡慧日寺跡 Ⅳ ﹄磐梯町教育 委員会 一九八九年、磐梯町教育委員会﹃福島県磐梯町 史跡慧日寺跡 Ⅴ ﹄磐梯町教育委員会 一九九〇年、磐梯 町教育委員会﹃福島県磐梯町史跡慧日寺跡 Ⅵ ﹄磐梯町教 育委員会 一九九一年、磐梯町教育委員会﹃福島県磐梯 町史跡慧日寺跡 Ⅶ ﹄磐梯町教育委員会 一九九二年、磐 梯町教育委員会﹃福島県磐梯町史跡慧日寺跡 Ⅷ ﹄磐梯町 教育委員会 一九九三年、磐梯山慧日寺資料館﹃慧日寺 を 掘 る 史 跡 慧 日 寺 跡 発 掘 調 査 展 ﹄ 磐 梯 町 慧 日 寺 資 料 館 一九九三年、磐梯町教育委員会﹃福島県磐梯町史跡 慧 日 寺 跡 Ⅸ ﹄ 磐 梯 町 教 育 委 員 会 一 九 九 四 年、 磐 梯 町 教育委員会﹃福島県磐梯町史跡慧日寺跡 Ⅹ ﹄磐梯町教育 委員会 一九九五年、磐梯町教育委員会﹃福島県磐梯町 史跡慧日寺跡 Ⅺ ﹄磐梯町教育委員会 一九九六年、磐梯 町教育委員会﹃福島県磐梯町史跡慧日寺跡 Ⅻ ﹄磐梯町教 育委員会 一九九七年、磐梯町教育委員会﹃福島県磐梯 町史跡慧日寺跡  ﹄磐梯町教育委員会 一九九八年、磐 梯町教育委員会﹃福島県磐梯町史跡慧日寺跡  ﹄ 磐梯 町教育委員会 一九九九年、磐梯町教育委員会﹃福島県 磐梯町史跡慧日寺跡  ﹄磐梯町教育委員会 二〇〇〇年、

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磐梯山慧日寺資料館﹃町制施行 40周年記念企画展 器に 書 か れ た 歴 史 慧 日 寺 跡 出 土 の 墨 書 土 器 を 中 心 と し て ﹄ 磐 梯 山 慧 日 寺 資 料 館 二 〇 〇 〇 年、 磐 梯 町 教 育 委 員 会 ﹃ 福 島 県 磐 梯 町 史 跡 慧 日 寺 跡 ⅩⅥ﹄ 磐 梯 町 教 育 委 員 会 二 〇〇一年、磐梯町教育委員会﹃福島県磐梯町史跡慧日寺 跡 ⅩⅦ﹄磐梯町教育委員会 二〇〇二年、磐梯山慧日寺資 料 館﹃ 企 画 展 石 に 込 め ら れ た 祈 り ― 礫 石 経 の 世 界 ― ﹄ 磐 梯 山 慧 日 寺 資 料 館 二 〇 〇 二 年、 磐 梯 町 教 育 委 員 会 ﹃ 福 島 県 磐 梯 町 史 跡 慧 日 寺 跡 ⅩⅧ﹄ 磐 梯 町 教 育 委 員 会 二 〇〇三年、磐梯町教育委員会﹃史跡慧日寺跡本寺地区遺 構確認調査報告書 平成 14年度史跡慧日寺跡現状変更許 可申請に係る試掘調査報告書﹄磐梯町教育委員会 二〇 〇 三 年、 白 岩 賢 一 郎﹁ ﹃ 絹 本 著 色 恵 日 寺 絵 図 ﹄ に 見 る 霊 地の風景﹂ ﹃中世の聖地・霊場﹄ ︵東北中世考古学叢書五︶ 高志書院 二〇〇六年、同 ﹁福島県磐梯町慧日寺跡﹂ ﹃平 安時代山岳伽藍の調査研究 ― 如意寺を中心として ― ﹄︵古 代学協会研究報告第 1輯︶財団法人古代学協会 二〇〇 七年、福島県立博物館﹃共同企画展会津磐梯山﹄福島県 立 博 物 館 二 〇 〇 八 年、 白 岩 賢 一 郎﹁ 陸 奥 国 の 山 岳 寺 院・史跡慧日寺跡の発掘調査︵福島県︶ ﹂﹃仏教芸術﹄三 一五号 毎日新聞社 二〇一一年などがある。 ︵ 3︶ ﹁山の寺﹂科研﹃東北地方の﹁山の寺﹂研究報告資料集﹄ ﹁山の寺﹂科研 二〇一一年 ︵ 4︶ 棚 倉 町 教 育 委 員 会﹃ 流 廃 寺 跡 Ⅰ ﹄︵ 棚 倉 町 埋 蔵 文 化 財 調 査報告 7︶棚倉町教育委員会 一九九四年、同﹃流廃寺 跡 Ⅱ ﹄︵ 棚 倉 町 埋 蔵 文 化 財 調 査 報 告 10︶ 棚 倉 町 教 育 委 員 会 一九九七年、同﹃流廃寺跡 Ⅲ 県指定史跡﹁流の廃 堂跡﹂ ︵ 10号平場︶の発掘調査﹄ ︵棚倉町埋蔵文化財調査 報告書 15︶同 二〇〇五年、同﹃流廃寺跡 Ⅳ  8号平場 の 発 掘 調 査 ﹄︵ 棚 倉 町 埋 蔵 文 化 財 調 査 報 告 書 16︶ 同 二 〇〇六年、同 ﹃流廃寺跡 Ⅴ  7号・ 11号平場の発掘調査﹄ ︵ 棚 倉 町 埋 蔵 文 化 財 調 査 報 告 書 18︶ 同 二 〇 〇 七 年、 同 ﹃流廃寺跡 Ⅵ  7号・ 12号平場の発掘調査﹄ ︵棚倉町埋蔵 文化財調査報告書 19︶同 二〇〇八年、同﹃流廃寺跡 Ⅶ 9号平場の発掘調査﹄ ︵棚倉町埋蔵文化財調査報告書 20︶ 同 二〇〇九年、同﹃流廃寺跡 Ⅷ  5号・ 6号平場の発 掘 調 査 ﹄︵ 棚 倉 町 埋 蔵 文 化 財 調 査 報 告 書 21︶ 同 二 〇 一 〇年、同﹃流廃寺跡﹄ ︵棚倉町埋蔵文化財調査報告書 22︶ 同 二〇一一年 ︵ 5︶ 浜島正士﹁流廃寺の建築と伽藍配置﹂ ﹃流廃寺跡﹄ ︵棚倉 町埋蔵文化財調査報告書 22︶棚倉町教育委員会 二〇一 一年 ︵ 6︶ 水野正好﹁流廃寺発見金銀象嵌鉄剣の性格 ― 梵字と火焔 文、所持像と堂 ― ﹂﹃流廃寺跡﹄ ︵棚倉町埋蔵文化財調査

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報告書 22︶棚倉町教育委員会 二〇一一年 ︵ 7︶辻秀人﹁瓦からみた流廃寺﹂ ﹃流廃寺跡﹄ ︵棚倉町埋蔵文 化財調査報告書 22︶棚倉町教育委員会 二〇一一年 ︵ 8︶井上國雄 ﹁流廃寺の研究史﹂ ﹃流廃寺跡 Ⅰ ﹄︵棚倉町埋 蔵文化財調査報告 7︶棚倉町教育委員会 一九九四年 ︵ 9︶ 日 光 二 荒 山 神 社﹃ 日 光 男 体 山 山 頂 遺 跡 発 掘 調 査 報 告 書﹄ 角川書店 一九六三年 ︵ 10︶ 鐘鈴については、時枝務﹁鐘鈴考﹂ ﹃王権と武器と信仰﹄ 同成社 二〇〇八年で説いているので、参照されたい。 ︻キーワード︼ 東北・山寺・山林仏教・伽藍配置・三鈷鐃

参照

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