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人士の詩作における四言優勢の

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(1)

一、序

代の詩作 況について、梁・劉

の中で以下のように言う。 は『文心雕龍』明詩篇 初四言、韋孟首唱、匡諫之義、繼軌

人。……至

、品 三百餘篇、章國采、亦云

備。而辭人

莫見五言。 翰、

以李陵班

〔 、見疑於後代也。

初の四言、韋孟首めて唱へ、匡諫の義、軌を

に繼ぐ。…… 人

に至り、三百餘篇を品

采、亦た云に し、章・國 備す。而れども辭人の

る莫し。李陵・班 翰に、五言を見 、後代に疑はるる

『先秦 以なり。〕 魏晉南北詩』(

欽立輯校、中

に、 を手がかり書局)

の詩作

況を して氣づくことは、

において てみた場合、確かに劉 していたということである。ただ、詩形を四言と五言に限っ は句中や句末に「兮」の字を含む、いわゆる「楚歌」が流行

の指摘する

は韋孟の「諷諫詩」「在鄒詩」、韋玄 り、四言の詩について 詩」などが確 の「自劾詩」「戒子孫

されるが、

では、後 たらない。 名な人士による五言の詩は見あ して作られているが、 においてはどうか。「楚歌」については依然と

言詩が に比べると、四言や五言などの齊 辭など、そのほとんどが作 え始める。ただし、五言については、古詩や樂府古

不明のものである。一方、

はり な人士の詩作については、五言の詩もないことはないが、や 名 ね四言を

としていたと思われる。再び『先秦

南北詩』を手がかりに、後 魏晉

の四言詩と五言詩について、

人士の詩作における四言優勢の

因について

矢田

(2)

作 名が記されているものを

げてみると、以下の

白狼王・ 【四言詩】 る。 りとな 「 夷樂 歌」「

夷 歌」「

夷懷

東 歌」、

王劉

「武

「與劉伯宗朱穆、「怨詩」「歌」 、「歌」張衡、「贊賈逵詩」劉珍志詩」「傅毅、「靈臺詩」 「辟雍詩」「明堂詩」班固、歌詩」

交詩」、桓

應季先「美嚴王思詩」、秦嘉「 「答客詩」、 婚詩」「

詩」、蔡

「答對元式詩」「答卜元嗣詩」「酸棗令劉熊

「詩」首」、王粲「 岐「歌」、孔融「離合作郡姓名字詩」、仲長統「見志詩二 詩三首」趙

蔡子篤詩」「

士孫文始詩」「

班固「詠史詩」、石 【五言詩】 良詩」 文叔 「費鳳別

、「詩」 詩」、張衡「同聲歌」

炎「詩二首」、侯瑾「歌詩」「

「 志詩」、秦嘉 詩三首」「詩」、趙壹「秦客詩」「魯生歌」、蔡

「飮馬長

窟行」「

鳥詩」、孔融「臨

詩」、辛

年「

」、宋子侯「董嬌饒」、蔡「悲

(張衡系の作「同聲歌」、蔡 まず、【五言詩】の方から見ると、その傾向として、樂府 詩」

「飮馬長

窟行」、辛 (1)

年「

」、 、宋子侯「董嬌饒」)

女と關わりの深い詩(秦嘉「

は妻に 詩三首」

った詩、蔡

「悲 詩」は蔡

という女性の作)、任官を んだ在野の人士の作(趙壹「秦客詩」「魯生歌」、

「歌詩」侯瑾「 炎「詩二首」、 一方、【四言詩】の方は、①後 くであろう。 志詩」)、などが多く含まれていることに氣づ (2)

い詩(白狼王・ の儀禮と關わりの深 「 夷樂 歌」「

夷 歌」「

夷懷

東 歌」、

王劉「武

の士人、③)「美嚴王思詩」季先 ②ある特定の人士を讃美するための詩、應「贊賈逵詩」(劉珍 )「靈臺詩」」「辟雍詩」詩堂明固「、班歌詩」、

!でやりとりされる

答詩(蔡 「答對元式詩」や王粲の「

など、儀禮蔡子篤詩」ほか)

"

#

素および

$交

"

#素の から、後 %い詩が多くを占めている。このこと が公に

あったことを、また、後 &めていた詩形は五言ではなく四言で 人士が

$交

"

#素の 際には優先 %い詩を作る

"に四言を

本稿では、こうした後 できるであろう。 '擇していたことを、窺い知ることが た 人士の詩作における四言優勢といっ (況について、その

#因を、四言と五言に對する後

の 人士

&識という

)點から考えてみたい。 中國詩文論叢第二十七集

(3)

二、後

人士の四言詩

まず初めに、後

人士の四言詩について、その特

の【四言詩】①②③に分けて

體例を

げながら確

こう。 してお

【①後

《白狼王・ の儀禮と關わりの深い詩】

「 夷樂 歌」「

夷 歌」「

夷懷

『後 歌」》

書』卷二「明

紀」に永

「西南夷哀牢・ 十七年のこととして、

耳・

僥・槃木・白狼・動黏

種、

義貢獻。〔西南夷の哀牢・

耳・

僥・槃木・白狼・動黏の 種、

後して義を

白狼や ひ貢獻す。〕」とある。これらの詩は、

などの西南の

民族が後

に歸順する際に、後

を讃えるために彼らが作った三章の詩を、

輔が言 州刺史の朱 の分かる田恭という

譯させたうえで、

獻上したものである。『後 に 永 に以下のようにある。 書』卷八十六「南蠻西南夷列傳」

中、

州刺史梁國朱輔、……在州數

、宣示

威懷 、

夷。……白狼・槃木・

貢、稱爲臣僕。輔上疏曰、「臣聞、詩云『彼徂 等百餘國、……舉種奉

岐、有 夷之行』、傳曰『岐

雖僻、而人不

符驗。今白狼王 』。詩人誦詠、以爲 等 歸義、作詩三章。……有

郡掾田恭、與之 爲 辭語。……昔在 狎、頗曉其言。臣輒令訊其風俗、譯其 、四夷之樂。今之

!上、庶備其一」。

嘉之、事下史官、

〔永 "其歌焉。

中、

州刺史・梁國の朱輔、……州に在ること數 、 の を宣示し、威もて

槃木・ 夷を懷けしむ。……白狼・ なつ

( 臣僕と爲す。輔疏を上りて曰はく、「臣聞く、詩 等の百餘國、……種を舉げて奉貢し、稱して り』と云ひ、傳に『岐の #頌・天作)に『彼の徂くは岐にして、夷らかなる行有 たいみち

は は僻なりと雖も、而れども人 す。今白狼王・ しとせず』と曰ふを。詩人の誦詠、以って符驗と爲

を こと三章なり。…… ひ義に歸し、詩を作る れと 爲郡の掾の田恭なるもの有り、之 風俗を訊き、其の辭語を譯せしむ。……昔在 狎たりて、頗る其の言に曉かなり。臣輒ち其の あきら

夷の樂をふ。今の上る 、四 とを」と。 !、庶はくは其の一に備へんこ 之れを嘉し、事史官に下し、其の歌を なお、白狼王・ "せしむ。〕

の詩を獻上する際の朱輔の上奏文に、

後漢人士の詩作における四言優勢の要因について(矢田)

3

(4)

『詩經』の句が引用されている點は、

わりにおいて、 の考察との關 三章のうちの「 目すべき點として指摘しておきたい。詩は 夷 歌」を以下にげておく。後

義を

い、長く險しい

のりをものともせず、後

蠻夷 る旨を詠う。 に歸順す

處、日入之部、

義向

、歸日出

、 深恩、與人富厚、

多霜

、 多和雨、

、部人多有、

危 險、不

去俗歸 萬里、

、心歸

〔蠻夷處る 母。

、日入るるの部なり、義を

ひ かひ、日出づるの に向 に歸す、

深き恩あり、人に富厚を與ふ、

に霜

多く、

に和雨多く、

時に

ひ、部人有つこと多し、危きを たも

り險しきを

るも、萬里を

しとせず、俗を去り

心 に歸すること、

母に歸するがごとし。〕

《東

王劉

「武

東 歌詩」》

王劉

は、光武

の子で明

の同母弟にあたる。明

の信任が厚く、公卿とともに後

の校正などに從事した。「武 の禮制の整備や五經の章句 歌詩」は劉

が光武

の武 功を讃え、その廟で用いる

『後 歌として作ったものである。

書』卷二「明

紀」には、「(永

三年)

十 、 武廟、初奏文始・五行・武 祭光 之 。〔(永 三年)

武廟に 、光

祭し、初めて文始・五行・武

の 於穆世廟、肅雍顯 る。 を奏す。〕」とあ 、俊乂、秉文之

越序上 !、

、駿

"來 章明圖讖、放 #、建立三雍、封禪泰山、

$之文、休矣惟

〔於穆しき世廟、肅雍にして顯 ああうるわ 本支百世、永保厥功。 、罔射協同、

り、文を秉りて之れ たり、俊乂た

!る、越に上 ここ

に序ずるに、駿

"

して來たりて

章明なる圖讖、放 #んず、三雍を建立し、泰山に封禪す、

$之れ文あり、休いなるかな惟 おお

光武 〕功を保たん。 、協同に射はるる罔し、本支百世、永へに厥の いと

下にげる『詩經』 の廟で用いる歌ということもあってか、明らかに以

%頌・

於穆 廟の句を意識していよう。

廟、肅

&顯相、濟濟多士、秉文之

對越在天、駿 、

〔於穆しき ああ "走在廟、不顯不承、無射於人斯。

廟、肅

&たる顯相、濟濟たる多士、文を 中國詩文論叢第二十七集

(5)

秉りて之れ

あり、對せられて越に天に在り、駿く はいここ

走して廟に在り、顯はれざらんや承けざらんや、人に射 いとはるる無し。〕このように『詩經』

頌・

山で封禪の儀式を行ったこと、光武 明堂・辟雍・靈臺のいわゆる「三雍宮」を建立したこと、泰 廟の句を踏まえつつ、さらに て明らかにされていること、後 の正統性は圖讖によっ が堯(放

ぐ王であること、などを (3) の後を受け繼) げ、光武

である。 の功績を讃えるの

《班固「明堂詩」「辟雍詩」「靈臺詩」》班固の「兩

政が子、天」は堂明「 「白雉詩」の二篇は楚歌體の作である。「寶鼎詩」 の三篇が四言の作で、「靈臺詩」「辟雍詩」「明堂詩」ちの 「白雉詩」という五篇の詩が付されている。そのう「寶鼎詩」 賦」「靈臺詩」「辟雍詩」明堂詩」「の末尾には

を行う場

設けた大學。「靈臺」は、天子が天文などを 。「辟雍」は、天子が

あわせて「三雍宮」とも呼ばれ、中元元年に光武 察する高臺。

建設された。因みに、光武 によって は明 の永 二年春正

が建てた明堂に宗祀されることになる。そのことについては に自ら 班固も「明堂詩」の中で、

於昭明堂、明堂孔陽、 のように詠う。

上 皇宗祀、穆穆煌煌、

宴饗、五位時序、誰其配之、世

普天 光武、

土、各以其職、猗歟緝煕、允懷多

〔於昭らかなる明堂、明堂孔だ陽らかなり、 ああはなはあき

宗祀、穆穆たり煌煌たり、上 皇の に序ず、誰か其れ之れに配する、世 宴饗し、五位時

光武なり、普天

に多允 まこと 土、各おの其の職を以ってす、猗歟緝煕にして、 ああ

」り〕(大 この詩においても、なお、「於昭于天〔於天に昭らかな ああ を懷す。〕 きた

( 、「我朱孔陽〔我が朱孔だ陽らかなり〕」・文王)

風・七 )、「穆穆皇皇〔穆穆たり皇皇たり〕」(大

、「普天之下、莫非王土、樂) ・假 下、王の土に非ざる莫く、 土之濱、莫非王臣。〔普天の

(小 土の濱、王の臣に非ざる莫し。〕」

、「於緝煕〔於緝煕にして〕」・北山)( ああ

頌・昊天有

「聿懷多 、命)

〔聿に多

を懷す〕」(大

の句が明らかに踏まえられていよう。 ・大明)など、『詩經』

【②ある特定の人士を讃美するための詩】《劉珍「贊賈逵詩」》

後漢人士の詩作における四言優勢の要因について(矢田)

5

(6)

劉珍の詩は、賈逵を讃美したもので、四句のみ今に傳わる。

〔 揚暉、如山如雲、世有令聞、以迄于君。

を 劉珍は、安 令聞有り、以って君に迄ぶ。〕 およ き暉きを揚ぐること、山の如く雲の如し、世に かがや

の永初四年に五經

士とともに宮中の經

校勘を命じられた人物として知られる(『後 の 書』卷五「安

紀」)。贊美の對象とされた賈逵もまた、後世の人々から

と稱された後 儒

を代表する學の一人。

氏傳』および五經の本文を諳んじることができ、白虎 冠にして『春秋左

においては『春秋左氏傳』が他の二傳に優ることをつぶさに 會議

いた。その

す の經傳・義詁および論

は百數十

言に び、さらに詩・頌・誄・

珠なども作ったと言う(『後

書』卷三十六「賈逵傳」)。「

としての詩は、賈逵の學 」は、文章を作ること。劉珍 に優れた點を讃えたものと

斷される。

《應季先「美嚴王思詩」》應季先の詩は、常に惠愛をもって民に接し、民から父母のように

われた揚州刺史の嚴王思を襃め稱えたもの。『

國志』巴志に、 陽 巴郡嚴王思爲揚州刺史、惠愛在民。

當 路攀轅。詔遂留之。居官十八年卒。百姓 官、吏民塞

喪考妣。義

、齎錢百萬、欲以贍王思家。其子徐州刺史、不受。

吏義崇不

、乃散以爲

、 を 〔巴郡の嚴王思揚州刺史と爲り、惠愛民に在り。官 季先善而美之、乃作詩曰、…… 行客。巴郡太守汝南應

されんとするに當たる

に、吏民路を塞ぎ轅に攀 ふさ

じる。詔ありて遂に之れを留めしむ。官に居ること十八年にして卒す。百姓考妣を喪ふが

し。義もて

の子は徐州刺史にして、受けず。 錢を齎すこと百萬、以って王思の家に贍へんと欲す。其 もたらあた る、 ち 吏義は崇くして持 たか

るに

びず、乃ち散じて以って

と爲し、行客に

らはしむ。巴郡太守・汝南の應季先善しとして之れを美 めて、乃ち詩を作りて曰はく、……〕とあり、その詩に以下のように詠う。乘彼西

、潭潭其淵、君子

悌、作民二親、

〔彼の西 世愛、式鏡後人。

に乘ず、潭潭たる其の淵、君子は

民の二親と作る、世に 悌にして、

鏡らす。〕 して愛をし、式って後人を 中國詩文論叢第二十七集

(7)

三・四句目は、明らかに『詩經』大

・ 毛傳の「美刺 よう。また、詩によって人を「美む」という行爲は、『詩經』 民之父母。〔豈弟の君子は、民の父母なり。〕」を踏まえてい の「豈弟君子、

」との關

が指摘できよう。

【③人士の

でやりとりされる

後の 答詩】

答詩は、秦嘉と徐淑の夫

のに五言と楚歌體の詩が見られる以外は、 でやりとりされたも

る。このことより後においては、人士の (4) て四言の作であ での詩の

は、四言で行うのが 答 例であったと考えられる。以下、桓

の「答客詩」と蔡

の「答對元式詩」「答卜元嗣詩」を

その特 げ、

を確 してみたい。なお、王粲の四言

ては、第五 答詩につい において考察する。

《桓

桓 「答客詩」》 桓 う。 (5) の詩については、張隲の『文士傳』に以下のように言 字元鳳。伯父焉知名、官至太尉。

三四、在焉坐。有宿年客。焉 察好學、年十 之曰、「吾此弟子、頗有 才。今已

獵書傳、殊能作詩賦。君試爲口賦、試與之」。 客乃爲詩曰、「……」。

〔桓 答曰、「……」。 至る。 字は元鳳。伯父の焉名を知られ、官は太尉に 坐に在り。宿客有り。焉之れに 察にして學を好み、年十三四なるとき、焉の

が此の弟子、頗る げて曰はく、「吾 才有り。今已に書傳を

と。 之れに與へん」と。客乃ち詩を爲りて曰はく、「……」 殊に能く詩賦を作る。君試みに口賦を爲し、試みに 獵し、

ここに見える桓焉とは、桓 ち答へて曰はく、「……」と。〕

の伯父で順

の永和年

尉にまで至った人である。桓焉の家は、 に太

書を家學とし、

父の桓榮の頃より代々皇

に經學を授ける「

桓焉の家で催された宴席でのこと。同席していた當時十三 。)十七「桓榮傳」 その家には常に多くの門徒が集まったと言う(『後書』卷三 師」の家柄で、

か十四

であった桓

から詩を が、彼の詩の才能を試そうとした客 られたところ、すぐさま詩を作って

う。詩はそれぞれ以下の 答したと言 參差等蹤、 甘羅十二、楊烏九齡、昔有二子、今則桓生、 りである。

〔甘羅は十二、楊烏は九齡、昔は二子有り、今は則ち桓 世齊名。

後漢人士の詩作における四言優勢の要因について(矢田)

7

(8)

生あり、參差として蹤を等しくし、世を

を齊しくす。〕 にするも名

矣甘羅、超等

嗟予蠢 倫、伊彼楊烏、命世稱賢、

、殊才

年、仰慙二子、俯

〔 言。

かなるかな甘羅、等を超え倫を はる

ありて賢と稱せらる、嗟烏、世に命予の蠢 ああ つ、伊れ彼の楊

才を殊にし年を こと なる、

にす、仰ぎて二子に慙ぢ、俯して こと

言に

甘羅は、十二の時に秦の始皇 づ。〕

趙王を の使いとして趙に赴き、

して五

を 物(『史記』卷七十一「樗里子甘 讓させ、上卿に封ぜられたという人 。楊烏は、列傳」)

おそらくは桓焉の學問を客 の子。九で父の楊雄と學問について議論したと言う。 (6) の楊雄 の一人であろうが詩によって、桓 ってその門を訪ねた門徒 の人物に の才能をこれら二人 敵するものと讃えたのに對して、桓

よって、自らの才能がこれら二人の人物には もまた詩に く 答えた、というもの。 ばないと

《蔡

蔡 「答對元式詩」「答卜元嗣詩」》 は、熹

四年に靈

の詔により、五經の文字を校訂し て石

に刻し太學門外に建てたことでも知られる後

する學 を代表

の一人。彼の「答對元式詩」は、

頭二句の

ら、詳細は不明であるが、蔡 容か の 立ちを

る 對元式という人物から 別の宴席で 伊余有行、爰茲邦、先 られた詩に答えたものと思われる。

!"學、同

濟濟羣 #$從、

%、如雲如龍、君子

"文、貽我

&

辭之集矣、穆如 '、

〔伊れ余行く有り、爰に茲の邦にる、先 (風。

!は して、同 "學に

#は

$從す、濟濟たる羣

し、君子 %、雲の如く龍の如

"文にして、我れに

&

しきことれり、穆 うるわ 'を貽る、辭の集ま おく

「濟濟羣 (風の如し。〕

%」の句は、『詩經』大

は、同じく「大 〔濟濟たる多士〕」の句を踏まえていよう。また、末尾の四句 )・文王の「濟濟多士 )・

*民」の「吉甫作誦、穆如

永懷、以慰其心。〔吉甫誦を作り、穆しきこと (風、仲山甫

「大よう。 仲山甫永へに懷ひ、以って其の心を慰む。〕」を意識してい (風の如し、

)・ 吉甫が *民」は、齊に赴くことになった仲山甫に尹 った詩。すなわち、詩を

元式の詩を讃えるとともに、感謝の意を表しているのであろ 甫に、「邦にる」自らを仲山甫にそれぞれなぞらえて、對 ってくれた對元式を尹吉 中國詩文論叢第二十七集

(9)

う。「答卜元嗣詩」もまた、おそらく「答對元式詩」と同時同座の作かと思われる。詩によって

分な襃め言

を れた卜元嗣に、 ってく 斌斌碩人、貽我以文、辱此休辭、非余 う。 縮しつつ感謝の意を表して以下のように言

なる辭、余の希ふ 〔斌斌たる碩人、我れに貽るに文を以ってす、此の休い ひんぴんおくおお 敢不酬答、賦誦以歸。 希、

んや、誦を賦して以って歸す。〕 に非ざるを辱づ、敢へて酬答せざら

以上、後

の り上げてみた。すでに指摘した二點、「後 名な人士の四言詩の中から、なものを取

に が公

めていた詩形は四言であったと

斷されること」、「後

人士が

交 素の

い詩を作る際に優先

に は四言であったと 擇した詩形 斷されること」に加え、本

後 では、

の 名な人士の四言詩には、『詩經』からの影

に が多分

められるという點を確

しておきたい。 (7)

三、四言と五言に對する後

人士の 識

においては、

方が優勢であった。では、それはなぜか。本 名な人士の詩作は、五言よりも四言の

では、その

因を考えていくうえでの有效な手續きとして、四言と五言という詩形に對して、當時の人士がどのような

識を たのか、という點について、西晉・摯 いてい の 確 識を手がかりに

摯 してみたい。

は『文章流別論』の中で、「古詩 (8)

詩は 以四言爲體。〔古 ね四言を以って體と爲す。〕」や「

〔 之韻、四言爲正。

「古詩」いてはすなわち『詩經』に由來し、典 (9) の韻は、四言を正と爲す。〕」と言うように、四言につ

ては、「五言 備え持つ「正體」とも言える詩形と捉え、一方の五言につい な趣きを 、……於俳諧倡樂多用之。〔五言なる

樂人などが多用する俗樂と關わりの深い 俳諧倡樂に於いて多く之れを用ふ。〕」と言うように、俳優・ 、……

俗 た 四言詩の由來を『詩經』に求めることについては、おおか ている。 な詩形と捉え

論がないであろう。實際、後

からの影 人士の四言詩にも『詩經』

が多分に見られた。このことから後

人士もまた、

後漢人士の詩作における四言優勢の要因について(矢田)

9

(10)

四言については摯

と同樣の

識を あろう。では、五言詩について後 いていたと見てよいで 關わりにおいて捉える摯 ていたのだろうか。この點について、五言詩を俳諧倡樂との の人士はどのように捉え の

識は、やはり

確 のと思われる。以下、五言詩と俳諧倡樂との關わりについて、 目に値するも

してみたい。

先行 )《俗樂・樂府と五言詩との關わり》

側では、王瑤『中國詩歌發展 關わりの深いものとの指摘がなされている。たとえば、中國 究によれば、五言詩はもともと樂府をはじめ俗樂に

話』(中國

年出版 本由樂府詩而來、它正式 八二年、初版は一九五六年)の「魏晉五言詩」に、「五言詩體 、一九 上 立在二・三世紀之交、就是文學史 謂 建安時代。」とあり、余冠

『古代文學雜論』(中 書局、一九八七年)

收「

魏六 詩 言」にも、「

府民歌原來句式 樂 有一定、……後來却趨向整齊

文人 五言詩體。

作樂府、興趣

于五言、到了

末便形

五言詩特別

日本側では、岡村 氣象。」とある。

論文「五言詩の文學

定 の

(『中國學會報』第十七卷、一九七一年)が、五言詩の文學とし 」 て定

していく

を詳しく論じている。その

點を筆

りに整理すれば、以下のようになる。①五言の歌 な は、楚の地域を中心に少なくとも のリズム がっていた。② の初期に定型が出來上 初期に楚人が大量に關中に

、宮 いて以

!を中心に長安

"邊で流行し、宮

府で歌われるようになり、さらに 人、一般の民衆によって愛好された。③やがて俗樂を掌る樂 !の女性や佞幸の樂 #の頃に宮

の !樂府や貴戚

$で輕佻

%&な

'樂を愛好する風

(がはびこると、本質

に輕俗な

)べを持つ五言の歌

うになった。④上 がいっそう好んで歌われるよ

*階 +による俗樂愛好の風

(は、後

ても受け繼がれ、五言という輕巧で垢ぬけした貴族 に入っ また、柳川順子論文「 に魅せられた文人によっても、作られるようになった。 リズム 文學論集』三十六號、二〇〇七年)は、岡村論文を承けて、 代五言詩歌と死後の世界」(『中國

代の五言「古詩」について、詩群としての

立は、後

初頭、洛陽の王侯貴顯たちが 時代 れるが、「古詩」の中でも男女の離別の ,催する宴席においてと推測さ

-を る、原初 ,テーマとす

と思われる

.篇については、

の後宮

"邊で /

生し、宴席に悲哀の感

-を提供する文

の見方を示し、また、「古詩」に死後の世界に言 0として行われた、と

1するもの 中國詩文論叢第二十七集

(11)

が少なくないことに

目し、その

因を、皇

園陵に配され生 の死後、その

と同じように皇

に仕えることを

れ、死 た後宮の女性たちの存在に求める。そしてさらに、宴席であ いられ の眠る陵

さらに、松岡榮志論文「李年と樂府」(『學 ることを指摘する。 俗樂であること、五言詩型が俗樂との親和性の高いものであ の側であれ、そこで演奏されていたのは

第十九號、一九八四年)には、「樂府は 國語國文學』

の上林

宮女たちが にあって、

き臥しする未央宮

の後宮に

の指摘が見られる。 と、樂府と後宮の宮女および俳優・樂人との關わりについて する倡優や樂人たちの數は夥しいものであったと思われる。」 の後宮には女樂の專任職員もいたので、このあたりに出入り かった。これら

れば、樂府や貴戚・富豪の 五言詩が樂府をはじめ俗樂に關わりの深いものであるとす )《樂府・俗樂と俳諧倡樂との關わり》

などと呼ばれる人たちではなかったか、と思われる。その點 論文の指摘にも見られるように、「俳諧倡樂」「倡俳」「倡優」 いたのは、いったい誰であったのか。おそらくそれは、松岡 催する宴會などで俗樂を擔って については、さらに以下の

〈イ〉召信臣字 料が裏付けとなろう。

卿、九江壽春人也。……竟

中、

府、列於九卿、……又奏省樂府 爲少 門倡優

〔召信臣字は 戲、……。

卿、九江壽春の人なり。……竟

中、

た奏すらく、樂府 されて少府と爲り、九卿に列せられ、……又

門の倡優

/『 戲を省き、……と。

〈ロ〉至 書』卷八十九「循吏傳」〕 時、……是時、鄭聲尤甚。

武之屬富顯於世、貴戚・五侯・定陵・富 門名倡丙彊・景 家、淫侈 ・外戚之 度、至與人

爭女樂。哀

〔 疾之、……其罷樂府官。 自爲定陶王時 の時に至り、……是の時、鄭聲尤も甚し。

貴戚・五侯・定陵・富 門の名倡たる丙彊・景武の屬世に富顯にして、

・外戚の家、淫侈度を

ぎ、人

と女樂を爭ふに至る。哀

/『 時より之れを疾み、……其の樂府の官を罷めしむ。 定陶王たりし

〈ハ〉冀乃大 書』卷二十二「禮樂志」〕 張 第舍、而壽亦對街爲宅。……冀壽共乘輦車、

蓋、

酣謳竟路。 以金銀、游觀第、多從倡伎、鳴鍾吹管、

後漢人士の詩作における四言優勢の要因について(矢田)

11

(12)

〔冀は乃ち大いに第舍を

に對して宅を爲る。……冀と壽共に輦車に乘り、 こし、而して壽も亦た街

蓋を張り、

多く倡伎を從ひ、鍾を鳴らし管を吹かしめ、謳を酣 たけなわ るに金銀を以ってし、觀第に游び、

にして路に竟 つらなる。/『後

〈ニ〉豪人之室、 書』卷三十四「梁冀傳」〕 棟數百、……妖童美妾、

〔豪人の室、棟を 謳伎樂、列乎深堂。 乎綺室、倡 綺室を ぬること數百、……妖童・美妾、

め、倡謳・伎樂、深堂に列なる。/『後

書』卷四十九「仲長統傳」〕〈ホ〉盧植、……少與鄭玄倶事馬融。……融外戚豪家、多列女倡、歌

融は外戚の豪家にして、多く女倡を列ね、に歌 〔盧植、……少くして鄭玄と倶に馬融に事ふ。…… 於。

せしむ。/『後

〈イ〉の記 書』卷六十四「盧植傳」〕 より、

・元

の竟

年 府の ればならないほど多くの「倡優」と稱される樂人や俳優が樂 には、省かなけ 門に

屬していたこと、〈ロ〉の記

より、續く

の頃にはますますその勢力が

し、王侯貴戚の

でも輕佻

な 樂が蔓

したため、哀

位と同時に樂府を廢止し たこと、などが確

される。また、〈ハ〉から〈ホ〉の記

より、後

の貴戚・富豪の家での宴席で歌

樂人や俳優の存在が確 曲を披露する 入り 樂人・俳優たちの多くが生活の場を求めて貴戚・富豪の家へ される。おそらく、樂府の廢止後、

んだものと思われる。

さらに )《俳諧倡樂と五言詩との關わり》

魏の五言詩には、こうした貴戚・富豪が

宴席で歌 催する

曲を披露する樂人や俳優の

を れる。以下に いた詩が見ら

〈イ〉 げる〈イ〉〈ロ〉〈ハ〉の例がそれである。

〔 金爲君門、白玉爲君堂、堂上置樽酒、作使邯鄲倡。

卷三十四「相和歌辭・ 上に樽酒を置き、邯鄲の倡を作使す。/『樂府詩集』 金もて君が門と爲し、白玉もて君が堂と爲す、堂

曲」

〈ロ〉齊倡發東 行」〕 收の樂府古辭「相逢

、秦箏奏西

〔齊倡東 。

を發し、秦箏西

〈ハ〉比坐高閣下、 「善哉行二首」其二〕 を奏す。/魏・曹丕

作名倡、絃歌隨風

!、吐 含

"

〔比びて高閣の下に坐し、を #。

きて名倡を作さしむ、 中國詩文論叢第二十七集

(13)

絃歌風に隨ひて

し、

を吐きて

曹丕「 を含む。/魏・

また、以下の〈ニ〉のように、倡家出身の李 日詩」〕

年が

武 の

に妹の李夫人を

めた時の詩もまた

ね五言を基

ており、〈ホ〉のように倡家の女を とし

〈ニ〉北方有佳人、 の詩も存在する。 人公として詠んだ五言

世而獨立、一

傾人 、再 傾人國、

不知傾

與傾國、佳人

〔北方に佳人有り、 再得。

世にして獨立す、一

の すれば人

を傾け、再

すれば人の國を傾く、

ざらん傾 くんぞ知ら と傾國とを、佳人は再びは得ること

/『書』卷九十七上「外戚傳」 し。

收の李

〈ホ〉昔爲倡家女、今爲蕩子 年の歌〕

、蕩子行不歸、空牀

〔昔は倡家の女たり、今は蕩子の 獨守。

きて歸らず、空牀獨り守ること と爲る、蕩子は行

し。/『文

二十九 』卷

收「古詩十九首」其二〕

以上、(

)(

)(

)を總合

に く、五言詩に對する摯 と俳諧倡樂との關わりは極めて深いものであったと言ってよ 斷した場合、五言詩

の先の指摘もまた、魏における詩 因みに、興膳宏氏の考察によれば、摯 作の實態をかなり正確に反映したものであると考えられる。

は『文章流別集』

び『文章流別論』を

二大原則を設けていた、とのことである とし、②時代は兩を中心に魏初を以て下限とする、という 集するにあたって、①有韻の文を對象

。だとすれば、摯

の指摘が魏の實態にしたものであった可能性は、ますます高いものとなろう。後の人士もまた、摯

五言詩を俳優・樂人などが多用する俗樂と關わりの深い と同じように、

!俗 な詩形と

"識していたのではないかと思われるのである。

ところで、このように五言詩との關わりの深さが

る俳諧倡樂であるが、彼らはその技 "められ

#によって爲政

入り、爲政 $に媚び

$を奢侈に

%き政治を怠らせる

&

うる。それゆえ孔子は、彼らに對して '(因ともなり )惡の 齊有司趨而 家」に以下のようにある。 その存在自體を明確に否定した。『史記』卷四十七「孔子世 *を露わにし、

曰、「

+奏宮中之樂」。景公曰、「

倡侏儒爲戲而 ,」。優 。孔子趨而

、……曰、「

-夫而營惑

.

$當誅。

+命有司」。有司加法焉、手足

〔齊の有司趨りて /處。

みて曰はく、「宮中の樂を奏せん

後漢人士の詩作における四言優勢の要因について(矢田)

13

(14)

ことを

ふ」と。景公曰はく、「

戲れを爲して 」と。優倡侏儒 む。孔子趨りて

「 み、……曰はく、

夫にして

侯を營惑する

司に命ぜんことを は當に誅すべし。有 公が魯の定公を 魯の定公と齊の景公が夾谷で行った會盟でのこと。齊の景 處をにす。〕 ふ」と。有司法を加へ、手足

たちが戲れながら 樂でもてなそうとしたところ、俳優や樂人 て、定公に同行していた孔子が「 み出てきた。その俳優や樂人たちに對し

夫にして

侯を營惑する

は當に誅すべし」と、齊の景公にそれらを誅

後 めたのである。「俳諧倡樂」に對する孔子のこうした態度は、 するよう求 方が優勢であった 人士の詩作のありよう、すなわち五言詩よりも四言詩の

るものと思われる。 因を考えるうえで、大きな手掛かりにな

四、後

人士の詩作における四言優勢の

では、後

方が優勢であったのはなぜか。その 人士の詩作活動において五言詩よりも四言詩の

考えられることは、儒 因として、まず第一に 一 の後

においては、儒

の一つである『詩經』由來の四言が「正體」として の經典

重され た、ということである。光武

が 學を設置し、 位してまもなく洛陽に太 年には明堂・靈臺・辟雍を建設するなど儒

を奬

したこと、政治面においても儒

の圖讖を重

と、章 したこ

が白虎

會議において儒

を後

思想として承 國家における正統 も儒 したこと、さらには、人材登用の面において の 目が重

備され學 されたこと、地方における學校制度が整 境が充實したこと

、などもあって、後

いては儒 にお

が各地に

し、まさに儒

一 の樣相を

に至った する

。こうした

況の下、儒

作るにあたって、儒 を信奉する人士が詩を 言を の經典の一つである『詩經』由來の四 重し、優先にそれを

ことではなかったか。實際、後 !擇することは、極めて當然の からの影 人士の四言詩には、『詩經』

四言が儒 うに考えてよいものと思われる。 "が多分に見受けられることからも、まずはそのよ その「俳諧倡樂」は、以下の〈イ〉〈ロ〉〈ハ〉の記 る俳優・樂人との關わりが大いに指摘される詩形であった。 な詩形であるのに對して、五言は「俳諧倡樂」などと稱され の經典の一つである『詩經』に由來する正統

窺えるように、 #からも

まれていた。 $のある人士からは、下賤なものとして蔑 中國詩文論叢第二十七集

(15)

〈イ〉古

以天下奉一

一后而

、今貴人大賈屋壁得爲 、賈

優倡下賤

〔古は天下一 子得爲后。 一后を奉ずるを以って

は 今は貴人・大賈の屋壁 ふも、

を爲るを得、賈

優倡・下賤の ・

子后のを爲るを得たり。/

賈誼『新書』卷三「 ・

〈ロ〉文史星 子」〕 乎卜

之 。固 上 流俗之 戲弄。倡優畜之、

〔文史星 輕也。

は卜 の に

し。固より

上の戲弄する

なり。倡優之れを畜ふるは、流俗の輕んずる

なり。/『

書』卷六十二「司馬

〈ハ〉皋不 傳」〕 經 、詼笑

如相如。又言爲賦乃俳、見 俳倡。……皋賦辭中自言爲賦不

如倡。自

〔皋經 倡也。

に ぜず、詼笑すること俳倡に

と言ふ。又た賦を爲るは乃ち俳なれば、 皋賦の辭中にて自ら賦を爲ること相如に如かず しょうじょ たり。…… と倡の如しと言ふ。自ら倡に らるるこ

せらるるを

り。/『 ゆるな

〈イ〉の記 書』卷五十一「枚皋傳」〕 からは「優倡」が「賈

( 賤 」や「下人の妻)

子(奴隸の生んだ子)」と同列に

われる下賤な身分とさ れていることが、〈ロ〉の記

在であったことが、〈ハ〉の記 からは世俗に輕んじられる存 からは「俳倡」と同一

れることは人士にとって甚だ不名 さ それぞれ確 なことであったことが、

されるであろう。いずれも

「俳倡」「倡優」に對するこのような捉え方は後 の例ではあるが、

については、 ても同樣であったと思われる。また、そもそも「俳諧倡樂」 人士におい

において確

した に對して り、すでに孔子が彼ら 惡の 儒わりの深いものであるとすれば、 下賤なものとして蔑まれてきた「俳諧倡樂」と五言詩とが關 確に否定していた。はたして孔子がその存在を否定して以來、 を露わにし、その存在自體を惡として明

!を信奉する後

とりわけ 人士が、

"交の場などで、自らの名を

れを公表するということは、儒 #して五言詩を作りそ

!$價値

なってしまうだけに、心理 %と抵觸することに いだろうか $にかなり抵抗があったのではな

。後 &

において四言詩が優勢であった

'因、

(

に言えば五言詩が振るわなかった

指摘できるのではないかと思われるのである。 '因として、こうした點も

※なお、

においては、劉

)も指摘する

り、

な人士による五言詩が見あたらないことから、五言詩 *名

後漢人士の詩作における四言優勢の要因について(矢田)

15

(16)

が く振るわなかったことが確

についても韋孟の「諷諫詩」「在鄒詩」と韋玄 されるが、實は四言

「自劾詩」「戒子孫詩」が確 の される

めて少ない。 度でその數は極 であった。楚歌については、後 において最も流行していたのは楚歌

の勢力を保っていた。このように においてもある一定 代を

流行した因として、 じて楚歌が の高

であったことから、あるいは楚歌は の「大風歌」が楚歌

における傳統

なスタイルとして

られるかもしれない 知されていた、という點が考え

。また、

が後 においては四言詩 ほどには振るわなかった因として、儒

だ後 がま

ほどには

國各地に

考えられよう。從來、儒 していなかったことが

については

の武

董仲舒の對策により五經 期に 士が置かれたことを

國 機に

となったと言われてきた。しかし、この

はだ疑わしいことについては、すでに がはな 井重 て明らかにされている 氏によっ

。儒

て普 が國家の支配理念とし し始めるのは、早くても

末期の元

とと見るのが穩當のようである。實際、儒家官僚が 期のこ するのもこの時期のこととされる。ただし、公卿

に占める儒家官僚の比

はなおも三

に滿たず

でに建國初期の時點で八 、す

くを占めていた後

代に比べれば、儒 の時 一

!というには

"い

た。 #態にあっ

代における楚歌の流行、および

後 の四言詩が

點を指摘しておきたい。 えなければならない課題であるが、ひとまずは以上の ほどには振るわなかった因については改めて考

五、王粲の四言

答詩と 「 荊州學」

ところで、王粲については、一般には曹操

の一人として捉えられるが、彼の四言の $下の建安七子

〈イ〉〈ロ〉〈ハ〉の記 %答詩は、以下の とんどが曹操に歸順する以 &からも明らかなように、實はそのほ ていた時期の作である。 の、荊州の劉表の許に身を寄せ

'

〈イ〉蔡子篤爲

(書、仲宣與之爲友。同

)*荊州。子篤

+

會稽、仲宣於

〔蔡子篤 %之。

(書と爲り、仲宣之れと友たり。同に

*

を荊州に

)く。子篤會稽に

ここに於いて之れに +らんとするに、仲宣

%る。/『文

,』卷二十三

「 -收

%蔡子篤詩」に對する呂向

.〕 中國詩文論叢第二十七集

(17)

〈ロ〉『三輔決

』趙 曰、士孫

王允必敗、京師不可居、乃命 字文始、……父瑞知

……與山陽王粲善。 將家屬至荊州依劉表。

當就國、粲等各作詩以

〔『三輔決 。

』の趙

に曰はく、士孫

からざるを知り、乃ち 始、……父の瑞王允の必らず敗れ、京師は居るべ 字は文 に至り劉表に依らしむ。……山陽の王粲と善し。 に命じて家屬を將ゐて荊州

國に就くに當たり、粲等各おの詩を作りて以って

る、と。/『文

』卷二十三

收「

始詩」に對する李善 士孫文

〈ハ〉干寶『 〕 記』曰、文頴字叔良、南陽人。

〔干寶の『 云、爲荊州從事文叔良作移零陵文。 欽集又 の人なり、と。 記』に曰はく、文頴字は叔良、南陽 叔良の爲に零陵に移すの文を作る、と。/『文 欽の集に又た云ふ、荊州從事の文

卷二十三 』

收「

文叔良詩」に對する李善

後 〕

末の戰亂の中で、劉表が支配する荊州は比較

あったため、多くの學 穩で

や人士が移

表は儒 したと言う。また、劉 を保 し、學校を建て、學

たちに經典の解釋を

めさせるなどしたため、そこには「荊州學」と呼ばれる新た な儒

が興ったと言う

。『後

關西・ に、 書』卷七十四下「劉表傳」

・豫學士歸

、蓋有千數。表安慰賑贍、皆得 。遂 立學校、

求儒

。 母

〔關西・ 經章句、謂之後定。 ・宋忠等、撰立五 ・豫の學士の歸する

り。表安慰し賑贍して、皆な しんせん 、蓋し千もて數ふる有 に學校を きを得たり。遂 立し、

く儒 を求む。

母 有荊州牧劉君。……乃命五業從事宋衷新作文學、 とあり、王粲の「荊州文學記官志」にも、以下のようにある。 五經章句を撰立し、之れを後定と謂ふ。〕 ・宋忠等、

徒焉。……耆 朋

故老

母 等負書 、自

!而至 て新たに文學と作し、朋徒を 〔荊州の牧劉君有り。……乃ち五業從事の宋衷に命じ 百有餘人。 、三

かしむ。……耆 まね

きと故老の

母 等書を負ひを

ひて、

!きより至る

王粲の四言による 三百有餘人。〕 、 る新たな儒 答詩は、こうした「荊州學」と呼ばれ の活動が

"んに繰り廣げられていた

で作られたものであった。そして、その際に彼が四言を #境のもと 擇

後漢人士の詩作における四言優勢の要因について(矢田)

17

(18)

したのは、やはり儒

を の經典の『詩經』に由來するスタイル 重したからであろう

。事實、王粲の四言

れにも、『詩經』を意識した表現が隨 答詩のいず その點を「 に見られる。因みに、

士孫文始詩」の第四章を例に確

の すれば、以下

惟彼南、君子居之、悠悠我心、 りとなる。

言 人亦有言、靡日不思、矧伊 之、

晨風夕 婉、胡不悽而、

心、 〔彼の南を惟ふに、君子は之れに居る、悠悠たる我が 、託與之期。

か言に之れを

て思はざるは靡しと、矧んや伊の ふ、人も亦た言ふ有り、日とし

たらざらん、晨風夕べに はやぶさ 婉をや、胡ぞ悽而 すでに と期するをもってせん。〕 かんとす、託するに之れ ( 20)

「悠悠我心」の句は鄭風・子衿からの、「人亦有言」の句は大 の龜山論文にも指摘されているように、

の蕩や抑などからの、「靡日不思」の句は

の、そのままの形での引用であり、「矧伊 風・泉水から 婉」の句は小

伐木の「矧伊人矣」と ・ ることは明らかである。また「晨風夕 風・新臺の「燕婉之求」とを踏まえ

風」は秦風の篇名の一つであり、「 」の句に見える「晨 言

之」の句に見える 「

に 言」や「胡不悽而」の句に見える「胡不」なども『詩經』

出する表現である。

六、結語

以上、後

においては、

名な人士の詩作は

ね四言を

としていた。とりわけ儀禮

素および

交 素の においては、優先 い詩 に四言が

擇されていた。こうした後

人士の詩作における四言優勢の

一に、儒 因として、本稿ではまず第 を國家の正統思想とした後

の および儒

信奉する後 を

の人士にとって、儒

經』由來の四言こそが正統な詩形として の經典の一つである『詩 識され という點を指摘した。實際、後 重された、

の影 人士の詩には『詩經』から が多分に

おかた められることからも、この點についてはお 一方、五言は、西晉の摯の言 論のないところと思われる。

諧倡樂などと呼ばれる俳優・樂人との關わりが指摘される !にも見られるように、俳

な詩形であった。その技

"によって爲政

諧倡樂は、いつの世においても爲政 #に媚び入る俳

#を奢侈に

らせる $き政治を怠

%&

因となりうる。それゆえ孔子は、彼らに對して '惡の

(を露わにし、その存在自體を明確に否定した。以來、 中國詩文論叢第二十七集

(19)

俳諧倡樂は、

のある人士、とりわけ儒

からは下賤なものとして蔑まれるようになった。はたして を信奉する人士

代に登場した五言という詩形が、このような俳諧倡樂と關わりの深いものであったとするならば、儒

を信奉する後

士が、とりわけ 人 交の場などで自らの名を

公表するということは、儒 してそれを作り 價値 になるだけに、心理 と抵觸してしまうこと 後 にかなり抵抗があったのではないか。

人士の詩作における四言優勢の因、

四言ほどには振るわなかった因として、こうした に言えば五言が 五言詩の地位が向上し、四言詩と同樣に の指摘もまた可能ではないかと思われるのである。 點から を意欲 らせ、自らもまた五言をはじめ俗樂に由來する樂府系の作品 て作られるようになるには、その傍らに常に俳諧・倡優を侍 名な人士によっ

持ち、やはり五言詩の創作に意欲 に創作した曹操、その息子で倡家出身の卞氏を母に

弟、などの出現を待たなければならなかったのである であった曹丕・曹植の兄

(1)『玉臺新詠』卷一には蔡 】

『文 の作として收められているが、

』卷二十七には作

不明の古辭として收められている。 (2)いずれも『後

書』卷八十下「文

趙壹……而恃才倨傲、爲 ぞれ以下のようにある。 傳」に傳があり、それ 黨 擯。……後

友人救得 抵罪、幾至死、

。……光和元年、舉郡上計到京師。……州郡爭

禮命、十辟公府、竝不就、

於家。初袁逢使善相

「仕不 相壹、云 なれば、 郡吏」。竟如其言。〔趙壹……而して才を恃みて倨傲 黨の擯くる しりぞ

と爲る。……後ち

幾ど死に至らんとするも、友人救ひて ほとん しば罪に抵たり、 しば て禮命を 光和元年、郡の上計に舉げられ京師に到る。……州郡爭ひ るるを得たり。……

し、十たび公府に辟すも、竝びに就かず、家に

はる。初め袁逢相を善くする

「仕ふるも郡吏に をして壹を相しむ、云ふ

ぎず」と。竟に其の言の如し。〕 炎……靈

時、州郡辟命、皆不就。……炎後風病

性至孝、 忽。

母憂、病甚發動。妻始

而 死、妻家訟之。收

獄。炎病不能理對、熹

六年、遂死獄中、時年二十八。〔

炎……靈

後ち風病にして の時、州郡辟命するも、皆な就かず。……炎 忽たり。性至孝なれば、母の憂ひに

て、病甚だ發動す。妻始めて ひ するも

妻の家之れを訟ふ。收められて獄に きて死すれば、

理もて對ふる能はず、熹 がる。炎病なれば 侯瑾……少孤貧、依宗人居。性篤學、恆傭作爲、 十八なり。〕 六年、遂に獄中に死す、時に年二

!"輒

#柴以讀書。……州郡累召、公車有

$%、竝稱疾不到。……

後漢人士の詩作における四言優勢の要因について(矢田)

19

(20)

而徙入山中、覃思

貧、宗人の居に依る。性は篤學、恆に傭作して 。以莫知于世。〔侯瑾……少くして孤

と爲し、

れに

れば輒ち柴を

りに召し、公車有 やして以って書を讀む。……州郡累

……而して徙りて山中に入り、覃かに しず もてすも、竝びに疾と稱して到らず。

(3)光武 に知らるること莫し。〕 を思ふ。以って世 の 兵・

位・封禪など、皇

・王

にとって重

とされる出來事が

て よび 書によって決定されていること、お 堯後 と 火 については、

井重 『 代儒

の史

究』(汲古書院、二〇〇五年)第三篇「班固『

の 書』

(4)木齋論文「初論古詩十九首 究」を參照。

形 生在建安曹魏時代―從五言詩 角度 探 ―」(『山西大學學報』哲學

第二十八卷第二期、二〇〇五年)は、 會科學版、

の秦嘉と徐淑の

山剛一 詩については、後世の僞作の可能性が高いとする。また、 答 の可能性を指摘する(「西晉における秦嘉・徐淑の !氏は、使用されている語彙の面から、西晉期の僞作

第七回六 答詩」

"學會大會、二〇〇三年十一

#三日、於斯文會

(5)〈イ〉『藝文 $%堂)。

&聚』卷三十一「人部十五

『太 答」、〈ロ〉

'御覽』卷三八五「人事部二六幼智下」、〈ハ〉『太

'

御覽』卷五一二「宗親部二伯叔」に引く。それぞれ文字の

(同がある。ここでは〈ハ〉に引く記

)げた。なお、文 (6)『法言』卷四「問 客」に作る。 中にある「宿年客」の「年」は衍字であろう。〈ロ〉は「宿

*篇」に、「育而不

九齡而與我立文。〔育ちて +,、吾家之童烏乎。

+ならざる

(7)因みに、傅毅「 ならんか。九齡にして我れと文を立つ〕」とある。 ,は、吾が家の童烏 という「小 -志詩」にも、「秩秩大猷〔秩秩たる大猷〕」 ・巧言」の句が、張衡「怨詩」にも、「之子之 .〔之の子之き

.ざかる〕」という「小

・白

(8)拙論「摯 それぞれそのまま用いられている。 /」の句が、

0の「四言正統

」について」(『立命

五九八號、二〇〇七年)、拙論「四言詩と五言詩の特質と $文學』第

1

衰について」(『中國詩文論叢』第二十六集、二〇〇七年)を參照。(9)摯

「古詩三言ば 0がここで言う「古詩」が『詩經』を指すことは、例え

る ,、振振鷺、鷺於飛之屬是也。〔古詩の三言な ,は、「振振鷺、鷺於飛」(魯頌・有

て『詩經』の句を 例と言うように、三言・五言・六言・七言・九言の句のとし 2)の屬是れなり。〕」

兩「 「班固のとして、例稱していると古詩」指してを』經『詩 げていることからもた、まらかである。明 3賦」序の「賦

,、古詩之流也。……抑亦

た古詩の亦そも抑……れなり。流は、賦〔 頌。也亞之 を 頌の亞なり。〕」

( げることができよう。

10)興膳宏論文「摯

0『中、論』理文國の文學」(攷志論別流章 中國詩文論叢第二十七集

(21)

筑 書 、一九八八年。初出は『入矢

授・小川

授 念中國文學語學論集』、京 休記

( 大學、一九七四年)。 11) の

の時、王莽によって郡國には學、縣には校、

には庠、聚には序が、それぞれ置かれ、地方の學校制度が整備され、後

に入るとさらにこれらに加えて私學も

り、地方における學 んにな 境がますます充實した。

代の 制度については、東晉 育 『後

時代の政治と

屋大學出版會、一九九五年)の第三章「儒學の普 會』(名古 と知識階 の形 」に詳しい。東氏の

を基に、當時の

育課 理すると、まず八 を整 から十四

頃にかけて

經』と『論語』を學 里において『孝 した後、十五

頃から

郡國學・私學などに 生として太學・

學し、五經を學

學 したとのこと。また、

にも一定の順序があったようで、まず最初に『詩』を學 し、

て に『書』と『春秋』、『易』と『禮』はやや高年となっ 得されるのが普

二 であったとのことである。因みに、第 で確 した桓

は、

學年齡の十五

以 を にすでに書傳

( たことが窺える。 獵し、詩賦を作ることもでき、極めて早熟な少年であっ 12)渡邉義

氏は、『後

國家の支配と儒

九九五年)の「序論」において、「儒 』(雄山閣出版、一 めには變質・ 正當するための政治思想であり、國家の支配の正當のた 」を「國家の支配を

その定義を基礎として、「①政治思想として國家を正當す !從をも辭さない國家の支配理念」と定義し、 る「儒

」が、國家の支配理念として承

儒 され、②こうした が官僚

"潤するばかりでなく、③支配の

#體 にも出現し、④そうした支配を $な場 容された國家」を「儒 %&する在地勢力によって受 國家」と定義する。そして後

が「儒 こそ

( の各章において實證する。 國家」と呼ぶにふさわしい國家であることを、同書 13)儒

を信奉する人士に對する孔子の影

能性は高いと '力からも、その可 景公との會盟において、孔子が「優倡侏儒」の誅 (斷される。因みに、夾谷での魯の定公と齊の

公に )を齊の景

*求した事件については、後

せていたようである。永 人士もまた高い關心を寄 +二年正

,、 -國の王が獻上した

.

樂を宮中にて演奏させた安

に對して、陳禪が諌めた言

しむ。〕」(『後 侏儒の樂を作すに、仲尼夾谷の會を爲す。齊之れを誅せ 「昔齊魯爲夾谷之會。齊作侏儒之樂、仲尼誅之。〔昔齊と魯 /に、

書』卷五十一「陳禪傳」)とある。後

に對する孔子の影 人士

'力および後

人士が孔子の言動を自らの

( (斷基準としていたことを示す例と見なせよう。

14)もしそうだとすれば、班固の「兩

も、こうした 寶鼎體であったの楚歌が詩」白雉「詩」の「ちの詩のう篇五 賦」のされた付に末尾

( 0點から理解することができよう。

15) 1井重

2『 代儒 の史

( 年)。 $3究』(汲古書院、二〇〇五

16)井正士論文「

代に於ける儒家官僚の公卿

への

"潤」

後漢人士の詩作における四言優勢の要因について(矢田)

21

(22)

(酒井忠夫先生古稀

賀記念論集『

史における民衆と文

國書刊行會、一九八二年)は、公卿 』 に占める儒家官僚の比 を 査し、武

宣 期では一・九パーセントにぎなかったが、

期では十八・二パーセント、元

セントと比 期では二十六・七パー

( が高まると指摘する。

17)渡邉義

『後

國家の支配と儒

( 九五年)の第二章「官僚」を參照。 』(雄山閣出版、一九 18)荊州期の王粲と蔡睦(字は子篤)・士孫

(叔良)との交流については、伊 (文始)・文頴

(『建安詩人とその傳統』創文 正文論文「王粲傳論」

、二〇〇二年、

( 收)を參照。

19)荊州學については、加賀榮治

(勁 『中國古典解釋史魏晉篇』

書 、一九八八年、初版は一九六四年)、汪惠

國時代之經學 『三 究』(

京文

( を參照。 事業有限公司、一九八一年)

20)王粲の四言

答詩については、龜山

る 論文「建安詩人によ 別の

ば「 一九八九年)に詳しい作品分析が見られる。龜山氏は、例え 答詩について」(『日本中國學會報』第四十一集、

士孫文始詩」について、「この詩は、公開の

い。」とし、「この詩が四言の詩型をとり、なかんずく『詩經』 において發表されるために作られたものと見なければならな 別の場 表現を多用し〈

た現實 〉のスタイルを襲っているのは、そうし な 求を滿たすために作

がとった意識

あったに な手法で

いない。」と指摘する。 (

21)拙論「魏における五言詩流行の

論叢』第二十五集、中國詩文 因について」(『中國詩文

究會、二〇〇六年)を參照。 中國詩文論叢第二十七集

参照

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