• 検索結果がありません。

フッサールの現象学的還元がもつ教育的なもの

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "フッサールの現象学的還元がもつ教育的なもの"

Copied!
21
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

フッサールの現象学的還元がもつ教育的なもの

著者 島田 喜行

雑誌名 人文學

号 199

ページ 1‑19

発行年 2017‑03‑15

権利 同志社大学人文学会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000015578

(2)

フ ッ サ ー ル の 現 象 学 的 還 元 が も つ 教 育 的 な も の

島 田 喜 行

は じ め に 本

論の 目的 は︑ エト ムン ト・ フッ サー ル︵

Edmund Husserl, 1859-1938

︶の 超越 論的 現象 学 の 方法 で あ る現 象 学 的還 元を

﹁教 育﹂ とい う観 点か ら検 討す るこ とで ある

﹁現 象 学﹂ あ るい は

﹁現 象 学的

﹂と い う 語は

︑い ま や 哲 学だ け で なく

︑さ ま ざ まな 学 問 分 野 に お い て 散 見 さ れ る︒ 教育 学も また その 例外 では ない

︒だ が︑ 教育 学に おけ る﹁ 現象 学的

﹂研 究は

︑論 者が みる 限り

︑教 育現 象に つい ての フッ サー ルの

﹁超 越論 的現 象学

﹂的 な研 究で はな い

︒ なる ほど

︑こ うし た 研 究動 向 は︑ フ ッ サー ル 現 象学 を 何 らか の教 育問 題に 直接 適用 する こと に不 向き であ ると いう こと を示 して いる のか もし れな い︒ しか し︑ この こと は︑ 超越 論的 現象 学に は︑ 教育 と切 り結 ぶよ うな 論点 が何 もな いと いう こと を意 味し ない

︒と いう のも

︑フ ッサ ール は︑ 超越 論的 現象 学を わた した ちが より 善く 生き るた めの 手段 であ ると 考え てい たか らだ

︒フ ッサ ール は︑ 超越 論的 現象 学に よっ ては じめ て可 能に なる 吟味 の生 を︑

﹁ 恒常 的な 自己 監査 にお ける 自己 規律

︑自 己陶 冶︑ 自己 規制 化の 生﹂ とし て︑

― 1 ― フ

ッ サ ー ル の 現 象 学 的 還 元 が も つ 教 育 的 な も の

(3)

﹁ 不断 の自 己向 上﹂ にお いて 実現 され るべ き倫 理的 な生 と表 現す る︵

vgl., Hua XXVII, 39

︒ こ うし た脈 絡に おい て︑ フッ サー ルは 次の よ う に 述べ て い る︒ 現象 学 的 還元 は

︑超 越 論 的な 次 元 で︑

︿わ た し が自 覚的

・主 体的 に世 界の 見方 を学 び直 す﹀ た めの 方法 であ り︑ こ れが

﹁ 現象 学的 還元 がも つ教 育的 なも の

das E rzieherische

der phänomenologischen R eduktion

﹂︵

Hua IV, 179

︶ であ る︑ と︒ そ こで

︑本 論で は次 の二 つの 課題 に答 える

︒第 一の 課題 は︑ 現象 学的 還元 によ って はじ めて 可能 にな る︑ 超越 論的 現象 学が どの よう なタ イプ の教 育で ある かを 明ら かに する ため に︑ 超越 論的 現象 学の 学問 性格 を明 確に する こと であ る︒ 第二 の課 題は

︑超 越論 的現 象学 が︑ 教育 哲学 が取 り組 むべ き問 題に 対し て︑ どの よう な知 見を 提供 する こと がで きる のか を示 すこ とで ある

︒ 考 察の 手順 は次 の通 りで ある

︒ま ず︑ フッ サー ル の 超 越論 的 現 象学 の 課 題を 確 認 し︵ 第 一節

︶︑ そ の 課題 で あ る超 越論 的主 観性 の露 呈と 解明 を可 能に する 方法 で あ る 現象 学 的 還元 の 異 様さ を 明 ら かに す る︵ 第 二節

︶︒ 次 に︑ 独 特の 自己 省察 であ る超 越論 的現 象学 の実 践的 性格 とフ ッサ ール にお ける

﹁自 律﹂ 概念 との 関係 につ いて 考察 し︵ 第三 節︶

︑ ここ から 超越 論的 現象 学と 教育 とが いか なる 仕方 で切 り結 ぶの かを 指摘 し︑ 現象 学的 還元 がも つ﹁ 教育 的な もの

﹂を 提示 した い︵ 第四 節︶

︒ 第

一 節 フ ッ サー ル 超 越論 的 現 象学 の 課 題│

│﹁ 超 越論 的 主 観性

﹂ と は何 か

│ 本

論の 最初 の問 いは こう であ る︒ フッ サー ルの 超越 論的 現象 学と は何 のた めの 学な のか

︑フ ッサ ール にと って の哲

フ ッ サ ー ル の 現 象 学 的 還 元 が も つ 教 育 的 な も の

― 2 ―

(4)

学と は何 か︒ この 問い に答 える ため の手 がか りが

︑フ ッサ ール が行 った 超越 論的 現象 学に つい ての

︑最 初の まと まっ た講 義の 記録 であ る﹃ 現象 学の 理念

﹄︵ 一 九〇 七年

︶の 編者 ビー メル

Biemel, W .

︶に よる 序文 のな かに ある

︒ もし

わた しが 自ら を哲 学者 と呼 ぶこ とが 許さ れる とす れば

︑そ のと きわ たし が何 より も先 に挙 げる

︑自 分自 身の ため に解 決し なけ れば なら ない 一般 的な 課題

︑そ れは 理性 批判 であ ると 考え る︒ 論理 的理 性と 実践 理性

︑そ して 価値 づけ る理 性一 般の 批判 であ る︒ 一般 的な 特徴 にお いて

︑理 性批 判の 意味

︑本 質︑ 方法

︑主 要観 点を 明晰 なも のに する とい うこ とな しに

︑ま たそ の︹ 理性 批判 の︺ 一般 的構 想を 十分 に考 え︑ 企画 し︑ 論定 し︑ そし て基 礎づ ける こと なし に︑ わた しは 真に

︑そ して 本当 の意 味で 生 き るこ と が でき な い

Hua II, VIIf.

フ ッ サ ール に よ る一 九〇 六年 九月 二五 日付 けの 覚え 書き

︑︹

︺は 論者 によ る補 足を 示す

︶︒ フ

ッサ ール が︑ 超越 論的 現象 学を 創設 した 根本 動機 は 理 性 批判 で あ った

︒こ こ で 注意 し な け れば な ら ない こ と は︑ 論理 的理 性︵ 理論 理性

︶だ けで なく

︑実 践理 性と 価値 を判 断す る理 性も 含む

︑わ たし たち の生 のあ らゆ る場 面で 働い てい る理 性が 批判 され る︑ とい うこ とだ

︒こ の理 性批 判を 可能 にす る方 法が

︑﹁ 現 象学 的還 元﹂ であ る

︒ で は︑

﹁ 現象 学的 還元

﹂の 眼目 は何 か︒ それ は︑ わた し た ちの 日 常 の生 に お いて は

︑け っ し て気 づ か れる こ と なく 隠さ れて しま って いる

︑あ る独 特の 働き を露 呈す るこ とが でき るよ う に なる

︑と い う こ とで あ る

︒ そ の隠 れ た 働き が︑ フ ッサ ー ル に と っ て は

﹁理 性

﹂の 別 称 で も あ る﹁ 超 越 論 的 主 観 性﹂ で あ る

︒し か し

︑こ れ は い っ た い 何 な の か︒

― 3 ― フ

ッ サ ー ル の 現 象 学 的 還 元 が も つ 教 育 的 な も の

(5)

こ の問 いを 解く ため に︑ フッ サー ルに よ る﹁ 超 越 論的

﹂と い う 語の 定 義 を確 認 し た い︒ フッ サ ー ルは

︑﹃ ヨ ー ロッ パ諸 学の 危機 と超 越論 的現 象 学﹄

︵一 九 三 六 年︶ にお い て︑ こ う定 義 し てい る

︒﹁ 超 越 論的

﹂と は

︑﹁ す べて の 認 識形 成の 究極 的源 泉へ の遡 行的 問い とい う動 機︑ 認識 する 者に よ る 自 己自 身 と その 認 識 する 生 へ の 自己 省 察 とい う 動 機﹂

Hua V I, 100

︶を 表す もの であ る︑ と︒ この 定義 を踏 まえ るこ とに よっ て︑ 超越 論 的現 象 学 の 課題 が よ り明 確 な 仕方 で理 解さ れる

︒ わ たし たち は︑ 普通 に生 きて いる とき

︑自 己や 人間

︑世 界に つい ての 何ら かの 認識 をも って いる

︒し かし

︑日 常の 生に おい ては

︑そ うし た認 識が どの よう な仕 方で 形成 され るの か︑ その 真偽

︑妥 当性

︑正 当性 はど のよ うに 保証 され るの かと いっ た問 題に つい て無 頓着 であ る

︒ フ ッサ ール は︑ この よう なわ たし と世 界と の関 係 に つ いて

︵わ た し と他 者 と の関 係 を も 含め て

︶︑ 次 のよ う に 述べ てい る︒ それ

︹世 界︺ は︑ わた した ち人 間仲 間

Mitmenschheit

と いう 地平 の う ちに あ る 人 間と し て の︑ した が っ て︑ 他者 と 共に あ ら ゆ る顕 在 的 な結 合 関 係の う ち に ある 人 間 とし て の わ たし た ち みな に と っ て︑

﹁唯 一 の﹂ 世 界 と し て︑ 全員 に共 通の 世界 とし て︑ 自然 な仕 方で

︑あ らか じめ 与え られ てい る︒ この よう に︑ それ

︹世 界︺ は︑

⁝⁝

︹わ た した ち の 生 にと っ て の︺ 恒常 的 な 妥当 基 盤 で あり

︑⁝

⁝わ た し たち が 考 え るこ と な し に 要 求 す る よ う な

︹生 の︺ 自明 性

Selbstverständlichkeit

に つい ての

︑つ ねに 用意 され てい る源 泉な ので ある

Hua V I, 124

︶︒

フ ッ サ ー ル の 現 象 学 的 還 元 が も つ 教 育 的 な も の

― 4 ―

(6)

フ ッサ ール は︑ まさ にこ の自 明性 を問 題に する

︒こ うし た世 界理 解が 自明 なも のと して 受け 入れ られ てい る根 拠は 何か

︑と

︒フ ッサ ール は︑ わた した ちの 自然 な世 界認 識の うち に気 づか れる こと なく 付き 纏っ てい る﹁ 素朴 さ﹂ があ る ので は な い か︑ と問 い か ける

︒フ ッ サ ール は

︑こ の 問 いに 答 え るた め に︑ あ ら ゆる 認 識 の究 極 的 源 泉 へ と 立 ち 戻 り︑ 認識 の仕 組み を自 分の 目で 精査 する 必要 を説 いた ので ある

︒ 以 上の こと から

︑超 越論 的主 観性 とは 何か

︑と いう 問い に答 える こと がで きる

︒超 越論 的主 観性 とは

︑日 常の 生に おけ る認 識の うち に︑ 気づ かれ るこ とな く潜 んで いる かも しれ ない

﹁素 朴さ

﹂の 有無 を調 べる ため に︑ わた した ちが そこ へと 目を 向け なけ れば なら ない

︑わ たし の認 識の 究極 的源 泉の こと であ り︑ あら ゆる 認識 形成 の起 源と して のわ たし の﹁ 働き

Leistung

﹂そ のも のの こと であ る︑ と

︒ 第

二 節 超 越 論的 現 象 学に お け る﹁ 超 越 論的 構 成

﹂と い う 問題 構 制 し

かし

︑現 象学 的還 元と いう 方法 は︑ 日常 の生 を生 き て い る者 に と って き わ めて 異 様 な もの で あ る︒ とい う の も︑ 還元 は︑ わた した ちの 日常 的な 認識 の仕 組み を再 検討 する ため の非 日常 的な 手続 きだ から であ る︒ この 異様 さは

︑還 元を 遂行 する こと から 生じ てく る︑ 認識 につ いて の次 の二 つの 変更 を確 認す るこ とか ら理 解さ れる

︒そ れは

︑ 変更

① 普通 に生 きて いる 場合 に自 明な もの と さ れ てい る

︑わ た しと 世 界 との 関 係 に つい て の 認識

︵世 界 認 識︶ に対 する 徹底 的な 変更

― 5 ― フ

ッ サ ー ル の 現 象 学 的 還 元 が も つ 教 育 的 な も の

(7)

変更

② 普通 に生 きて いる 場合 に自 明な もの とさ れて いる

︑わ たし は一 人の 人間 であ ると いう 認識 に対 して

︑あ る特 別な わた しの あり 方︵ 自己 認識

︶を 追加 する とい う変 更 であ

る︒ この 変更 につ いて

︑フ ッサ ール は次 のよ うに 述べ てい る︒ エポ

ケー

︹現 象学 的還 元︺ とは

︑そ れを 通じ て︑ わた しが

︑自 らを 自我 とし て純 粋に 把握 し︑ しか も︑ それ 固有 の純 粋な 意識 生を とも なう 自我 とし て純 粋に 把握 する 根本 的で 普遍 的な 方法 であ る︒ この 純粋 な意 識生 とは

︑こ の︹ 意識 生の

︺な かで

︑そ して これ を通 じて

︑客 観的 世界 の全 体が わた しに とっ て存 在し

︑そ れが わた しに とっ てあ るが まま に存 在す るよ うに なる 意識 生の こと であ る︒ あら ゆる 世界 内的 なも の︑ あら ゆる 空間 時間 的な 存在 がわ たし にと って 存在 して いる とい うこ と︑ この こと は︹

⁝⁝

︺わ たし がそ れら を経 験し

︑知 覚し

︑想 起し

︑何 らか の仕 方で 思考 し︑ 判断 し︑ 価値 づけ

︑欲 求す る等 々と いう こと を意 味し てい る︒ 周知 のよ うに

︑こ うし たこ とす べて をデ カル トは 我思

cogito

と 名づ けた ので あ る︒

︹⁝

⁝︺ そ れ︹ 世 界︺ は︑ その 意 味 全体 を

︑そ の 普遍 的な 意味 と特 殊な 意味 をも っぱ らそ のよ うな 我思 う

cogitationes

か ら手 に入 れる ので ある

Hua I, 60

︶︒ こ

の引 用を 踏ま えつ つ︑ 変更

①を 一言 で表 現す れ ば こ うで あ る︒ わ たし と 世 界と は

︑常 識 的 な認 識 が 示す よ う な︑ 互い に独 立し た関 係に ある ので はな い︒ わた しと 世界 とは

︑デ カル トが コギ トと 呼ん だ意 識の 志向 性に よっ て架 橋さ れた

︑不 断の

﹁志 向的 相関 関係

﹂の うち にあ る︑ と︒ 変更

②を 端的 に表 現す れば こう であ る︒ わた しは

︑世 界の なか

フ ッ サ ー ル の 現 象 学 的 還 元 が も つ 教 育 的 な も の

― 6 ―

(8)

の一 人の 人間 とし て存 在す るだ けで はな い︒ 同時 に わ た しは

︑世 界 に 対し て は︑

︿ わた し が そ のな か で 多く の 他 者と 共に 生き てい る現 に存 在す る世 界﹀ とい う意 味 を︑ 自 己 に対 し て は︑

︿世 界 の なか で 生 き てい る 一 人の 人 間︵ 人 間的 自我

︶﹀ と いう 意味 を与 える

﹁純 粋 な 意識 生

﹂を と もな う

﹁自 我﹂ と して も 存 在 する

︑と

︵フ ッ サ ール は

︑こ の 純粋 な意 識生 の自 我を 人間 的自 我と 区別 して

﹁純 粋自 我﹂

Hua III/1, 67

︶と 呼ぶ

︶︒ フ ッサ ール は︑ 変更

①に おけ る

﹁志 向 的 相関 関 係﹂ と 変更

②に お け る﹁ 純粋 な 意 識 生﹂

︵超 越 論 的な 次 元︶ で の意 味付 与

Sinngebung

︵ ある いは 意味 形成

Sinnbildung

︶ の働 きを

﹁超 越 論 的構 成

﹂︵

Hua III/1, 352

︶と い う タイ ト ル で表 現す る︒ 超越 論的 主観 性と は︑ この

﹁超 越論 的構 成﹂ が生 じて いる 現場 のこ とで あり

︑ま さに それ が働 いて いる 領野 のこ とで ある

︵フ ッサ ール は︑ この 超越 論的 主観 性に よる 構成 の仕 組み を解 明 す るこ と が 自 らの 課 題 であ る と いう こと を明 確に する ため に︑ 現象 学を

﹁構 成的 現象 学﹂ とも 呼ん でい る︵

vgl., Hua III/1, §151-153

︶︶

︒ し かし

︑こ こで 直ち に指 摘し てお かな けれ ば な ら ない こ と があ る

︒そ れ は︑ 現象 学 的 自 己省 察 に は︑

﹁途 方 も ない 困難

﹂が 待ち 受け てい ると いう こと であ る︵

vgl., Hua V I, 265

︶︒ その

﹁困 難﹂ とは

︑わ たし が世 界の な かの 人 間 的主 観性 であ るだ けで な く︑ 常 に 同時 に

︑︿ 世 界﹀ や︿ 人間

﹀と い う 意味 を

﹁構 成 す る︹ 超越 論 的︺ 主 観性

﹂で も あ ると いう こと を︑ わた した ちは 簡単 には 理解 する こと がで きな い︑ とい うこ とだ

vgl, H ua VI, 266

︒ わ たし たち は︑ 日常 の生 につ いて の認 識を あま りに も自 明な もの とみ なし てい るた めに

︑還 元の 遂行 によ って 引き 起こ され る変 更を 異様 なも のと 感じ ずに はい られ ない

︒そ れだ けで はな い︒ 還元 を遂 行し たか らと いっ て︑ その 変更 の意 味が 直ち に理 解さ れる とい うわ け で も ない

︒と い う のも

︑還 元 は︑

﹁ 超越 論 的 構 成﹂ とい う

︑日 常 の生 の な かで は完 全に 隠さ れて しま って いる 問題 構制 につ いて の探 究の 端緒 を与 える にす ぎな いか らだ

― 7 ― フ

ッ サ ー ル の 現 象 学 的 還 元 が も つ 教 育 的 な も の

(9)

エポ ケー の空 虚な 一般 性︹

現 象学 的還 元を ただ 遂行 する とい うだ けの こと

︺は

︑何 一つ 解明 しな い︒ それ

︹エ ポケ ー︺ は

︑そ こを 通過 する こと によ って

︑純 粋 な主 観性 によ る新 たな 世界 が露 呈さ れる

︑た んな る表 門

Eingang-

stor

にす ぎな い︵

Hua V I, 260

︶︒ 超

越 論的 主 観 性 の﹁ 実際 の 露 呈は

︑極 度 に 厄介 で 細 分 化さ れ た︑ 具 体的 な 作 業の 事 柄

﹂︵

ibid.

︶ であ り

︑そ こ には さま ざま な困 難が 待ち 受け てい る︒ もっ とも

︑そ う言 える のは

︑フ ッサ ール が︑ 自ら 超越 論的 現象 学を 行っ たか らで ある

︒こ こに

︑あ らゆ る認 識の 究極 的源 泉へ と遡 行す る現 象学 的自 己省 察の 実践 的性 格が 明確 に姿 を現 す︒ 超越 論的 現象 学は

︑フ ッサ ール

︵や その 後継 者た ち︶ によ る自 己省 察の 成果 を︑ 学問 的に 保証 され た知 識と して 学べ ば済 むと いう もの では ない

︒そ うし た知 識を 手引 とし て︑ わた した ち一 人ひ とり が還 元を 遂行 し︑ あら ゆる 認識 の究 極的 源泉 とし ての

︿わ たし

﹀の 超越 論的 主観 性の 探究 を実 践し なけ れば なら ない

︒ 第

三 節 超 越 論的 現 象 学に お け る﹁ 自 律

﹂ フ

ッサ ール は︑ この 自己 省察 を﹁ 自己 責任

﹂お よび

﹁自 律﹂ の概 念と 重ね 合わ せて いる

︒こ の点 に超 越論 的現 象学 のも う一 つの 学問 性格 があ る︒ 人

間の 人格 的な 生は

︑自 己省 察と 自己 責任 の諸 段階 を経 過す る︒ この 個別 で︑ 偶然 的な 作用 から 普遍 的な 自己

フ ッ サ ー ル の 現 象 学 的 還 元 が も つ 教 育 的 な も の

― 8 ―

(10)

省察 と普 遍的 な自 己責 任の 段階 へと

︑あ るい は︑ 自律 とい う理 念を 意識 的に 把握 する 段階

︑己 れの 人格 的な 生全 体を 普遍 的な 自己 責任 にお ける 生の 綜合 的統 一へ と形 態化 する 意志 決断 とい う理 念を 意識 的に 把握 する 段階 へと 経過 する

︒こ れと 相関 的に

︑︹ 人 間の 人格 的 な 生を 生 き る自 我 は︺ 自 分自 身 を 真 なる 自 我 へと

︑自 由 で︑ 自 律的 な自 我へ と形 態化 する

︒そ れ︹ 真な る 自 我︺ は︑ 生 来の 理 性 を現 実 化 する こ と︻ を 望 み︼

︑自 分 自 身に 忠 実 であ ると いう 努力

︑理 性的

│自 我と して

︑自 分自 身と 同一 であ り続 ける とい う努 力を 現実 化す るこ と︻ を望 む︼ 自我 であ る︒ しか し︑ こう した こと を︑ 個々 の人 格と 共同 体と の不 可分 の相 関関 係の うち で︹ その 自我 は現 実化 する こと を望 む︺

Hua V I, 272 f.

︼は 編者 によ る補 足を 示す

︶︒ こ

の引 用で

︑﹁ 普 遍的 な自 己省 察﹂ と表 現 さ れて い る もの が

︑現 象 学的 自 己 省 察で あ る︒ こ れが

﹁普 遍 的﹂ と 形容 され るの は︑ この 省察 が︑ わた した ちの あら ゆる 認識 の究 極的 源泉 へと 遡行 しよ うと する もの だか らで ある

︒フ ッサ ール は︑ この 自己 省察 を︑ 理性 をも つ者 に課 せら れた 責任 であ る と 考え る

︒こ こ か らフ ッ サ ール の

﹁自 律﹂ 概 念が 規定 され る︒ すな わち

︑理 性的 存在 者で ある とい う自 覚と 責任 にお いて

︑理 性的

│自 我で あり 続け よう とす るわ たし の個 人的 な努 力で ある とい うこ と︑ しか も︑ 個々 の人 格と 共同 体と の不 可分 の相 関関 係の なか での 個人 的努 力で ある とい うこ と︑ これ がフ ッサ ール の﹁ 自律

﹂で ある

︒ フ ッサ ール の自 律が

︑理 性批 判と して 進行 して いく こと は明 白で ある

︒し かし

︑こ こで 注目 しな けれ ばな らな いこ とは

︑こ の理 性批 判が

︑理 性を もつ 個人 の自 己責 任︵ わた しの 責任

︶と 結び つけ られ るだ けで なく

︑最 終的 には 全人 類に まで 及ぶ 普遍 的な 自己 責任 とも 結び つけ られ る︑ とい うこ とだ

︵フ ッサ ール は︑ この よう な︑ わた した ちの 生全

― 9 ― フ

ッ サ ー ル の 現 象 学 的 還 元 が も つ 教 育 的 な も の

(11)

体 に関 わ る 理 性の 全 般 的批 判 を 通じ て

︑最 終 的 に は 人 類 の 刷 新

Erneuerung

を 目 指 す 動 機 を﹁ 認 識 倫 理 的﹂

XXXV,

314

︶ と表 現す る︶ 第 ︒

四 節 超 越 論的 現 象 学に お け る﹁ 教 育 的な も の

﹂ し

か し︑ こ れ まで に 明 らか に し た学 問 性 格 に依 拠 し て︑ 超越 論 的 現象 学 は ひ たす ら わ たし に 定 位し た 独 我 論 で あ り︑ 独り よが りの 独断 論で はな いか

︑と い う 批 判が 考 え られ よ う︒ そ こで

︑こ の 批 判 につ い て︑

﹁ 教育

﹂を 念 頭 に置 きな がら 考え てい きた い

︒ こ こで 重要 な手 引き とな るも のが

︑﹁ そ れ︹ 世界

︺は

︑そ の意 味全 体を

︑︹

⁝⁝

︺も っぱ らそ のよ うな 我思 うか ら手 に入 れる

﹂と いう 上述 の引 用文 であ る︒ 還元 の遂 行と とも に︑ 世界 は︑ わた しの 超越 論的 主観 性の 意味 付与 によ って 構成 され るも のへ と変 更さ れた ので あっ た︒ 問題 は︑ この 意味 付与 の働 きが いっ たい どの よう なも のか

︑と いう こと であ る︒ も し意 味付 与が

︑超 越論 的な わた し一 人に よる 手前 勝手 な世 界創 造で あっ たな らば

︑現 象学 的自 己省 察は

︑わ たし によ るわ たし の創 造す る働 きに つい ての 精査 でし かな いの だか ら︑ 現象 学は 独我 論で ある こと にな る︒ しか し︑ 意味 付与 は︑ その よう なも ので はな い︒ とい うの も︑ 意味 付与 によ る世 界構 成は

︑わ たし と他 者と の超 越論 的な 次元 での 共働 にお いて 生起 する もの だか らで ある

︒い っそ う正 確に 表現 しよ う︒ もち ろん

︑世 界構 成は

︑わ たし の超 越論 的主 観性 の働 きに よる もの であ る︒ しか し︑ わた しの 超越 論的 主観 性の 働き のな かに は︑ つね にす でに わた しで はな い他

フ ッ サ ー ル の 現 象 学 的 還 元 が も つ 教 育 的 な も の

― 10 ―

(12)

なる 者に 由来 する 超越 論的 な働 き︵ 超越 論的 意識

︶が 独特 の仕 方で 入り 込ん でい るの であ る︒ フッ サー ルは

︑わ たし の超 越論 的主 観性 への

︑他 なる 者の 超越 論的 意識 の混 入を 可能 にす るこ の独 特の 仕方 を﹁ 移入

Einfühlung

﹂ と呼 ぶ︒ 誰

の心 であ れ心 はす べて

︑そ の純 粋な 内 面性 へ と 還 元さ れ て︑

⁝⁝

︺そ の 本源 的 に 固 有独 自 の 生を 持 っ てい る︒ けれ ども

︑そ れ︹ 心︺ には

︑原 本的 に固 有独 自の 仕方 で︑ その 時々 の世 界意 識を もつ とい うこ とも 属し てい る︒ しか も︑ それ

︹心

︺が 移入 経験 をも つこ とに よっ て︑ 世界

︑そ れも

︹わ たし と︺ 同一 の世 界を 所有 する もの とし ての 他者 につ いて 経験 する 意識 をも つこ とに よっ て︑ 換言 すれ ば︑ それ ぞれ に固 有独 自の 統覚 にお いて

︹世 界を

︺統 覚す る他 者に つい て経 験す る意 識を もつ こと によ って

︑そ の時 々の 世界 意識 をも つと いう こと が属 して いる

Hua V I, 258

︶︒ 世

界が わた し に 立ち 現 れ てく る

﹁世 界 統 覚

Weltapperzeption

﹂ が起 こ っ たと き

︑そ の 世 界は

︑わ た し だけ に 妥 当す るも のと して 立ち 現れ てく るの では ない

︒そ の際

︑世 界を 共に 構成 する 他者 が︑ わた した ちに とっ て﹁ 一つ の共 通の 世 界統 覚 の た めの 複 数 主観 と し て前 提 さ れ てい る

﹂︒ わ たし の 世 界統 覚 は

︑﹁ 志 向的 連 結

intentionaler K onnex

と い う 間接 性の なか で﹂

︑ つね に他 者の 世界 統覚 との 交 錯 関係 の う ちで 生 起 する

︒そ れ ゆ え︑ わ たし の 世 界統 覚 は︑ 前 提さ れ る複 数 主 観 に対 応 す る仕 方 で︑

﹁ つね に 双 方 向的 に 修 正し あ う 変化 で も あ るよ う な︑ た えず 流 れ ゆく 変 化 の な か﹂ で生 起す るも のな ので ある

vgl., Hua V I, 258

︶︒ こ こに 明確 に示 され てい るよ うに

︑フ ッサ ール の 意味 付 与 は︑ 超越 論的 なわ たし によ る手 前勝 手な 世界 創造 では なく

︑他 なる 者と の相 互修 正と いう 契機 をも つ共 働な ので ある

― 11 ― フ

ッ サ ー ル の 現 象 学 的 還 元 が も つ 教 育 的 な も の

(13)

フ ッサ ール は︑ 世界 構成 に関 与す る︑

﹁ わた しの 世 界 を共 に 構 成す る 者﹂

Hua XV, 162

︶ と して の 他 なる 者 の 超越 論的 意識 のこ とを

﹁超 越論 的相 互主 観性

﹂︵

Hua V I, 266

︶ と呼 ぶ︒ 現象 学は

︑わ た しの 超 越 論 的主 観 性 を精 査 す ると き︑ 必 然的 に こ の 超越 論 的 相互 主 観 性も 精 査 す るこ と に なる

︒論 者 は︑ こ こ にフ ッ サ ー ル 現 象 学 が 教 育│

│と く に

﹁ 教育 関係 論の 問題 構制

﹂│

│ と切 り結 ぶ場 があ ると 考え る

︒ それ は︑ わた しに とっ ても っと もな じみ 深い 世 界 統覚 が︑

﹁ わた しの もっ とも 身近 な日 常的 な環 境 世界 の 他 の人 々

﹂︵

Hua XV, 170

︶ と の関 係

││ 多 くの 場 合 は母 子 関 係で あろ う│

│か ら獲 得さ れた

﹁一 般的 な類 型群

allgemeine Typik

﹂︵

Hua XV, 197

︶に 基づ いて 生起 する

︑と いう こと だ︒ 人

間 に とっ て の

名称

Namen

︒ 幼 児は

︑母 親 に よっ て 話 さ れる 音 声 を名 づ け られ た も の へと 誘 導 する 指 示 や記 号と して 理解 する こと を学 ぶ︹

⁝⁝

︺︒

/︺ とも かく 名称 とい うも のは

︑そ の前 提︻ に︼ 客観 的世 界を もっ てい る︒ 幼児 は︑ 母親 や父 親な どを 名づ ける こと を理 解す るこ とを 学び

︑そ れら が指 示す るも のと 同じ もの を名 づけ るこ とを 理解 する こと を学 ぶ︵

Hua XV, 606

︼ は編 者に よる 補足 を示 す︶

︒ 幼

児は

︑親 子関 係の なか で名 称や 名づ けを 学ぶ だけ でな く︑ この 学び を通 じて

︑客 観的 世界 のあ り方 につ いて も学 ぶの であ る

︒ わた した ちは

︑﹁ 両 親の 子と して

︑⁝

⁝彼 ら︹ 両親

︺や そ れ なり の 仕 方 で成 熟 し︑

︹ 大人 に

︺成 長 した コ ミュ ニ ケ ー ショ ン を 取り 合 う 共主 観 に よ る教 育 か ら

aus E rziehung

﹂︵

Hua XV, 178

︶大 人 に なっ て い く

︒こ こ で の 大人 にな ると いう こと は︑ わた しに とっ ても っと も身 近な 他者 と日 常生 活の 大部 にか んし て不 調和 を感 じる こと なく 生き るこ とが でき るよ うに なる とい うこ とだ

︵言 い換 えれ ば︑ その よう な他 者と わた しは 同じ 一つ の世 界を 生き てい

フ ッ サ ー ル の 現 象 学 的 還 元 が も つ 教 育 的 な も の

― 12 ―

(14)

ると いう こと が当 たり 前の こと とし て感 じら れる 世界 を構 成す るこ とが でき るよ うに なる とい うこ とで ある

︒ わ たし たち が︑ 日常 生活 をそ れな りに 送る こと がで きる よう にな るた めに は︑ まず 他者 から 教え を受 け︑ 他者 に学 び︑ 他者 によ って 育ま れる とい うこ とが なけ れば なら ない

︒わ たし たち は︑ 他者 から 世界 の見 方を 学ば なけ れば

︑こ の世 界の なか で他 者と 共に 生き る者 にな るこ とが でき ない

︒こ の事 態を 超越 論的 な次 元か らみ れば こう だ︒ わた しは まず

︑こ の世 界が 誰︵ 超越 論的 な他 者︶ と共 に構 成 さ れ るべ き な のか に つ いて 教 わ り︑ 学 ばな け れ ばな ら な い︑ と︒ この よう な超 越論 的な 次元 での 学び を通 じて

︑教 授さ れる 構成 の相 関者 とし ての 世界

││ その 具体 的な 内実 は多 様な もの であ ろう

││ は︑ わた しが 大人 にな ると とも に︑ ほと んど 意識 の前 景に 現れ るこ とが ない ほど にま で︑ わた しに とっ てな じみ 深い

︑自 然な

︑日 常の 生の 世界 とな る︒ 現象 学が 問う のは

︑こ の普 通は ほと んど 意識 され るこ とが ない まま に生 きら れて いる 自然 な世 界と その 見方 のな かに 潜ん でい る︵ かも しれ ない

︶素 朴さ に他 なら ない

︒こ こに

︑わ たし たち は他 の人 々と 共に しか 生き てい けな い存 在者 であ ると いう 教育 関係 論に 関わ る根 本テ ーゼ につ いて の︑ 超越 論的 相互 主観 性を 基軸 とし た新 たな 解釈 が示 され る

︒ 以 上の こと から

︑本 節で の二 つの 批判 に対 して 反論 する こと がで きる

︒ 独 我論 に対 する 反論 はこ うだ

︒現 象学 は︑ わた しと 他者 との 関係 を︑ わた しの 超越 論的 主観 性と

︑そ のな かで 共働 して いる 超越 論的 相互 主観 性と の関 係と して 問い 直す もの であ ると いう 点に おい て︑ 独我 論で はな い︑ と︒ 独 断論 に対 する 反論 はこ うだ

︒な るほ ど︑ 現象 学が 行う 理性 批判 は︑ わた しが 理性 的で あろ うと する 個人 的な 努力 であ る︒ しか し︑ この 努力 は︑ 個々 の人 格と 共同 体と の不 可分 の相 関関 係の なか での 努力 であ り︑ その 限り で︑ わた しと 共に 共同 体を 構成 する 他者 によ って 批判 され うる とい う可 能性 がつ ねに 担保 され てい る個 人的 努力 であ る︒ この

― 13 ― フ

ッ サ ー ル の 現 象 学 的 還 元 が も つ 教 育 的 な も の

(15)

点に おい て︑ 超越 論的 現象 学は

︑独 りよ がり の独 断論 と一 線を 画す る︒ さ らに

︑超 越論 的現 象学 は︑ わた しの 理性

︵わ たし の超 越論 的主 観性

︶に つい ての 自己 省察 とい う仕 方で 実践 され る独 特の 個人 的な 自己 教育 活動 であ るだ けで はな い︒ それ は︑ わた した ち人 間に 与え られ ては いた けれ ども

︑こ れま で気 づか れな いま まに 隠さ れて いた 理性 批判 の新 たな 一形 態を 提示 した とい う意 味で

︑理 性批 判に かか わる 人類 の潜 在能 力を 引き 出す こと を助 ける 教育 活動 でも ある のだ

︑と

︒ お

わ り に 本

論 は︑ 第 一 に︑ 超越 論 的 現象 学 が︑ 日 常の 生 に お ける 世 界 経験 と そ の理 解

︵世 界 の 見 方

︑こ の 世 界 を 生 き る こ と︶ を︑ その 究 極 的源 泉 に 立 ち戻 る こ とに よ っ て精 査 し よ うと す る 自己 省 察 であ る こ と を明 ら か にし た

︒第 二 に︑ 日常 の生 にお いて は気 づか れる こと なく 機能 しつ つ︑ それ を成 立さ せて いる

︿わ たし

│世 界│ 他者

﹀の 超越 論的 な次 元で の独 特の 相関 関係 を明 らか にし た︒ そし て第 三に

︑独 我論 批判 に答 える なか で︑ 超越 論的 構成 を可 能に する ため の︑ わた しに 対す る他 者か らの 教授 と学 びが ある こと を明 らか にし

︑こ の点 で︑ 超越 論的 現象 学が 教育 関係 論の 問題 構 制に 対 し て 新た な 知 見を 提 供 する こ と が でき る と いう こ と を 指摘 し た︒ こ れが

︑現 象 学 的還 元 が も つ

︑一 つ 目 の

﹁ 教育 的な もの

﹂で ある

︒そ して 第四 に︑ 独断 論批 判 に 答え る な かで

︑現 象 学 的自 己 省 察 が︑ 自己 教 育 活動 で あ るの み なら ず

︑理 性 批 判に か か わる 人 類 の潜 在 能 力 を引 き 出 すこ と を 助 ける 教 育 活動 で も ある と い う こと を 明 らか に し た

︒ これ が︑ 現象 学的 還元 がも つ︑ 二つ 目の

﹁教 育的 なも の﹂ であ る︒

フ ッ サ ー ル の 現 象 学 的 還 元 が も つ 教 育 的 な も の

― 14 ―

(16)

註 フ ッ サ ー ル 全 集

︵f/r,ingeprSr/uweKljhofHusNiinusartMiana,rlse1950-

︶ か ら の 引 用 は

︑Hua と 略 記 し

︑ 巻 数 を ロ ー マ 数 字 で

︑ 頁 数 を ア ラ ビ ア 数 字 で 表 記 す る

⑴ 教 育 学 に お い て 使 用 さ れ て い る

﹁ 現 象 学

﹂ は

︑ 一 人 称 パ ー ス ペ ク テ ィ ヴ か ら 経 験 さ れ る も の と し て の 教 育 現 象 に つ い て の 研 究 に 対 す る 名 称

︑ 教 育 に 関 す る 具 体 的 な 経 験 の 本 質 的 特 徴 と は 何 か に つ い て の 研 究

︑ わ た し た ち の 意 識 の 与 件 を 直 接 吟 味 す る こ と に よ っ て 識 別 可 能 で あ る

︑ 内 観 に よ っ て ア ク セ ス 可 能 な 特 徴 に つ い て の 研 究 に 対 す る 名 称 で あ る 場 合 が 多 い よ う に 思 わ れ る

︒ も ち ろ ん

︑ フ ッ サ ー ル 現 象 学 に 依 拠 し て さ ま ざ ま な 教 育 現 象 の 事 象 そ の も の を 問 い た だ す 研 究 も 数 多 く 存 在 す る

︒ 例 え ば

︑ 中 田 基 昭

﹃ 現 象 学 か ら 授 業 の 世 界 へ

│ 対 話 に お け る 教 師 と 子 ど も の 生 の 解 明

﹄ 東 京 大 学 出 版 会

︑ 一 九 九 七 年

︒ こ れ 以 外 に も

︑ 以 下 の 論 考 は

︑ フ ッ サ ー ル の 思 考 に 根 ざ し て

﹁ 子 ど も そ の も の に 準 拠 す る

﹂ と い う 視 点 か ら

︑ ラ ン ゲ フ ェ ル ド

︵Langeveld,M.J.

︶ の 教 育 学 を 手 引 き に し て 子 ど も の 現 象 学 を 展 開 し て い る

︒ 渡 辺 英 之

﹁ 第 7 章 子 ど も の 現 象 学 に お け る 道 徳 教 育 の 視 点

﹂︵ 佐 野 安 仁

・ 荒 木 紀 幸 編 著

﹃ 道 徳 教 育 の 視 点 第 3 版

﹄ 晃 洋 書 房

︑ 二

〇 一 二 年

︑ 一 七 八

│ 一 九 六 頁

︶︒ さ ら に

︑atiUnderstandingEducon,anin:Denton,D.dogyCha.,mberlin,J.DPheethodolnomenologicalME.

︵ed.

︶:Existentialismand

PhenomenologyinEducation,TeachersCollegePress,1974

︵ D

・ E

・ デ ン ト ン 編

﹃ 教 育 に お け る 実 存 主 義 と 現 象 学

﹄ 菊 池 陽 次 郎

・ 他 訳

︑ 晃 洋 書 房

︑ 一 九 八 九 年

︶.

⑵ こ こ で の フ ッ サ ー ル の 見 解 は

︑ 教 育 に 関 す る 以 下 の デ ュ ー イ

︵Dewey,J.

︶ の 定 義 と 大 い に 重 な る だ ろ う

︒﹁ 教 育 の 過 程 は 連

続 的 な 再 編 成

︑ 改 造

︑ 変 形 の 過 程 な の だ

﹂︵ デ ュ ー イ

﹃ 民 主 主 義 と 教 育

︵ 上

︶﹄ 松 野 安 男 訳

︑ 岩 波 書 店

︑ 一 九 七 五 年

︑ 八 七 頁

︶︒

⑶ フ ッ サ ー ル は

︑ 超 越 論 的 現 象 学 が 扱 う 問 題 を 端 的 に

﹁ 理 性 の 問 題

﹂︵HuaVI,7

︶ と 表 現 し て い る

︒ フ ッ サ ー ル の

﹁ 理 性

﹂ 観 は

︑ 次 の 一 文 に 集 約 さ れ て い る

︒﹁ 明 ら か に そ れ

︹ 理 性

︺ は

︑ 認 識

︵ す な わ ち

︑ 真 か つ 真 正 の 認 識

︑ 理 性 的 認 識

︶ に つ い て の 学 問 分 野 の テ ー マ で あ り

︑ 真 か つ 真 正 の 価 値 づ け

︵ 理 性 の 価 値 と し て の 真 正 の 価 値

︶ に つ い て の

︑ 倫 理 的 な 行 為

︵ 真 に 善 い 行 為

︑ 実 践 理 性 か ら の 行 為

︶ に つ い て の 学 問 分 野 の テ ー マ で あ る

﹂︵ibid.

︶︑ と

― 15 ― フ

ッ サ ー ル の 現 象 学 的 還 元 が も つ 教 育 的 な も の

(17)

も ち ろ ん

︑ フ ッ サ ー ル は

︑ こ の 理 性 批 判 が 途 方 も な い 企 て で あ る こ と を 自 覚 し て い た

︒ 彼 は 上 述 の 覚 え 書 き の 続 き に こ う 記 し て い る

︒﹁ そ こ

︹ 理 性 批 判

︺ で は

︑ と て も 大 変 な こ と が 問 題 に な っ て い る の を わ た し は 承 知 し て い る し

︑︹ 哲 学 の 歴 史 の な か で

︺ 偉 大 な 天 才 た ち が そ こ で 挫 折 し た こ と も 知 っ て い る

︒ だ か ら か り に も 自 分 を 彼 ら に 比 肩 し よ う な ど と す れ ば

︑ わ た し は 最 初 か ら 絶 望 せ ざ る を え な い

﹂︵HuaII,VIII

︶︑ と

⑷ メ ル ロ ー= ポ ン テ ィ は

︑ こ の 現 象 学 的 還 元 と は 何 か

︑ と い う 問 い こ そ

︑ フ ッ サ ー ル を も っ と も 悩 ま せ た 問 題 で あ っ た と 述 べ て い る

︒﹁ お そ ら く

︑ 彼

︹ フ ッ サ ー ル

︺ が 自 分 の 言 い た い と こ ろ を 自 分 で よ く 納 得 す る の に こ れ 以 上 時 間 を か け た 問 題 は ほ か に な い わ け だ し

︑ 彼 が こ れ 以 上 し ば し ば た ち 帰 っ て 論 じ た 問 題 も ほ か に な い

noméerPlaedeoginolPhéM.,My,ontPu-eaerl-

ception,Gallimard,1945,p.11.,

・ メ ル ロ ー= ポ ン テ ィ

﹃ 知 覚 の 現 象 学 1

﹄ 竹 内 芳 郎

・ 小 木 貞 孝 訳

︑ み す ず 書 房

︑ 一 九 六 七 年

︑ 八 頁

︶︑ と

Staiti

︑ 現 象 学 的 還 元 の 役 割 に つ い て こ う 述 べ て い る

︒﹁ 現 象 学 的 還 元 の 機 能

﹂ は﹁ 自 然 的 で 人 間 的 な 自 己

│ 諒 解self-appre-

hension

を 突 破 し

︑ 超 越 論 的 次 元 に あ る 主 観 性 を 露 呈 す る と い う 自 己

│ 理 解self-understanding

の 可 能 性 を 開 示 す る

﹂ も の で あ る

︒ 換 言 す れ ば

︑ 現 象 学 的 還 元 は

︑﹁ 根 本 的 に 新 し い 態 度

︑︹ す な わ ち

︺ 自 然 的 態 度 と い う 枠 組 み の な か で の 一 人 称 パ ー ス ペ ク テ ィ ヴ と 混 同 さ れ る べ き で は な い 現 象 学 的 態 度 を 開 示 す る

﹂ も の で あ る

︑ と

︵Staiti,A.,SystematischeÜberlegungenzu

HusserlsEinstellungslehre,in:HusserlStudies25,Springer,2009,cf.p.219

︶︒

⑹ フ ッ サ ー ル は

﹁ 超 越 論 的 主 観 性

﹂ を

﹁ 恒 常 的 に 隠 れ た 仕 方 で 機 能 す る 理 性

﹂︵HuaVI,97

︶ と 表 現 し て い る

⑺ 日 常 の 生 に お い て

︑ わ た し は

︑ こ の 世 界 に 生 き て い る 一 人 の 人 間 で あ る と 思 っ て い る

︒ そ の 際

︑ わ た し は

︑ 世 界 を

︑ 空 間 的 に

︑ そ し て 時 間 的 に 果 て し な く

﹁ 生 成 し つ つ ま た 生 成 し て き た 一 つ の 世 界

﹂ で あ る と 思 っ て い る

︒ わ た し は

︑ こ の よ う な 世 界 を

﹁ 現 に そ こ に 存 在 す る も の

﹂ で あ り

︑ わ た し に よ っ て 経 験 さ れ る も の で あ る と 思 っ て い る

︒ も ち ろ ん

︑ わ た し は

︑ こ の 世 界 の な か で

︑ わ た し 以 外 の 多 く の 人 が 今 ま さ に 生 き て い る こ と を 知 っ て い る

︵vgl.,HuaIII/1,56f.

︶︒ さ ら に

︑ わ た し は

︑ こ の 世 界 に は か つ て 多 く の 人 が 生 き て い た と い う こ と も 知 っ て い る し

︑ ま た

︑ こ れ か ら 多 く の 人 が 生 ま れ て く る で あ ろ う と 思 っ て 生 き て い る

︒ わ た し は

︑ こ の 世 界 を

︑ わ た し が 生 を 受 け る

︵ 存 在 す る

︶ よ り 前 に す で に 存 在 し て お り

︑ わ た し が 生 を 終 え た

︵ 存 在 し な く な っ た

︶ 後 に も 存 在 す る で あ ろ う と 思 っ て い る

︒ こ の 意 味 に お い て

︑ わ た し は

︑ こ の 世 界 を わ た し の 存 在 と は 独 立 の も の だ と 理 解 し て い る

︒ 別 様 に 言 え ば こ う だ

︒ 普 通 に 生 き て い る 場 合

︑ わ た し が 存 在 す る た め に は 世 界 の 存 在

フ ッ サ ー ル の 現 象 学 的 還 元 が も つ 教 育 的 な も の

― 16 ―

(18)

が 必 要 で あ る が

︑ 世 界 の 存 在 に と っ て わ た し の 存 在 は 必 要 と い う わ け で は な い

︑ と わ た し は 考 え て い る

︑ と

⑻ ル フ ト は

︑ こ の 素 朴 さ に つ い て 次 の よ う に 指 摘 す る

︒﹁ 自 然 的 態 度 の 素 朴 性 は

︑ 自 然 的 態 度 の う ち に 存 在 し て い る か ぎ り わ た し は そ の う ち に 存 在 し て い る こ と に つ い て 一 切 知 る こ と が な い

︑ と い う 事 実 の う ち に あ る と い う だ け で な く

︑ 一 つ の 態 度 と し て そ れ に つ い て わ た し は 知 る こ と が な い の で

︑ わ た し は そ れ が 唯 一 可 能 な

﹃ 生 の 様 式

﹄ で あ る と い う 信 念 の も と に 生 き て い る と い う 事 実 の う ち に も あ る

﹂︵ralattitude,in:CotinnentalPhilosonatuethphLuft,S.,Husserl’senofomenologicaldiscovery-

phyReview31,Springer,1998,p.159

︶︑ と

⑼ フ ッ サ ー ル の

﹁ 超 越 論 的 主 観 性

﹂ の 解 釈 に 関 し て

︑ こ こ で 提 示 し た も の と は 異 な る 解 釈 も 存 在 す る と い う こ と を 付 言 し て お き た い

ogiDerWegderPhänomenole,inGütersloherVerlagshaus:,Vglrls.,Landgrebe,L.,HusseAusbschiedvonCartesianism,

1963,S.163-206.

⑽ フ ッ サ ー ル は

︑ 現 象 学 的 還 元 に よ る 変 更 を こ う 表 現 し て い る

︒ 超 越 論 的 構 成 の 次 元 に ま で 踏 み 込 ん だ

﹁ 認 識 に し た が え ば

︑ わ た し た ち 人 間 に と っ て は

︑ 自 分 自 身 の 存 在 が 世 界 の 存 在 に 先 行 す る と い う こ と も 真 で あ る

﹂︵HuaVI,266

︶︑ と

⑾ フ ッ サ ー ル は

︑ こ の

﹁ 困 難

﹂ を

﹁ 人 間 的 主 観 性 の パ ラ ド ク ス

﹂︵HuaVI,182

︶ と 呼 ん で い る

⑿ ラ ン ト グ レ ー ベ は

︑ 超 越 論 的 自 我 が 負 う べ き 責 任 を 明 確 に 主 張 し

︑ こ の 責 任 の 主 体 で あ る 超 越 論 的 自 我 を

﹁ 人 倫 的 自 我

﹂ と 呼 ぶ

︵Landgrebe,L.,op.cit.,S.196

︶︒

⒀ 本 論 に お け る

﹁ 教 育

﹂ の 定 義 は

︑ 相 澤 伸 幸 の 以 下 の 指 摘 に 基 づ く

︒﹁

﹃ 教

﹄ と い う 漢 字 の 意 味 は

︑ 軽 く た た い て 習 わ せ る と い う の が そ も そ も の 意 味 で あ り

︑ そ こ か ら

︑ 子 ど も を 良 い 方 向 へ と 導 く

︑ 知 識 を 授 け る と い う 意 味 が 形 成 さ れ て き た と い う

︒ つ ま り こ の 教 と い う 漢 字 一 文 字 だ け で

︑ 大 人 が 子 ど も に 教 え 導 く

︑ あ る い は 子 ど も は 大 人 か ら 習 う と い う 関 係 性 が 表 現 さ れ て い る こ と に な る

﹂︒

﹁ 䎹 と 月 の 合 字 で あ る

﹃ 育

﹄ と い う 漢 字 の 意 味 は

︑ 赤 子 が 母 親 か ら 生 ま れ て く る 様 子 を 表 し て お り

︑ そ れ に 加 え て

﹃ そ だ つ

﹄﹃ は ぐ く む

﹄ と い っ た 今 日 で も 用 い ら れ る 意 味 が 形 成 さ れ た

︒ こ の よ う に

︑ 育 は 母 親 と 子 ど も と の つ な が り を 表 し た 漢 字 で あ る

﹂︒

﹁ ド イ ツ 語 の エ ア ツ ィ ー ウ ン グ

︵Erziehung

︶ も 同 様 で

︑er

﹃ 内 か ら 外 へ

﹄+ziehen

﹃ 引 き 出 す

﹄ と い う の が 基 本 と な っ て い る

︒ つ ま りeducation

を 始 め と し た

﹃ 教 育

﹄ を 表 す 欧 米 語 の も と も と の 意 味 は

︑ 人 間

︵ こ れ は 生 徒 で も よ い し

︑ 自 分 以 外 の 者 全 体 を 指 す

︶ の 能 力 を 引 き 出 す こ と を 助 け る こ と で あ り

︑ そ れ が 教 育 の 原 義 で あ り

︑ そ れ は 教 育 学 を 学 ぶ 上 で 忘 れ て は い け な い こ と の 一 つ で あ る

﹂︵ 相 澤 伸 幸

﹃ 教 育 学 の 基 礎 と 展 開 第 二 版

﹄ ナ カ ニ シ ヤ 出 版

︑ 二

― 17 ― フ

ッ サ ー ル の 現 象 学 的 還 元 が も つ 教 育 的 な も の

(19)

七 年

︑ 七

│ 八 頁 参 照

︶︒

﹁ 認 識 主 観 と し て の わ た し

︑ わ た し は 他 の 人 々 の 助 け に よ っ て 認 識 し

︑ も ろ も ろ の 認 識 の 働 き

︵ 認 識 形 成

︶ を 遂 行 す る が

︑ こ れ ら

︹ 認 識 の 働 き

︺ は

︑ 存 続 す る も の と し て

︑﹃ 世 界

﹄ と

︑ 存 在 地 平 と 一 つ と な っ て

︑ わ た し の 共 同 研 究 者 に と っ て 接 近 可 能 な も の と な り

︑ 彼 ら に と っ て 規 定 さ れ た も の と な る

﹂︵HuaXV,200f.

︶︒

⒂ 渡 邊 隆 信 は

︑ 教 育 関 係 論 に つ い て こ う 述 べ て い る

︒﹁ 教 育 関 係 論 の 主 要 な 目 的 と 意 義

﹂ は

﹁ 子 ど も や 大 人 の 人 間 形 成 の 可 能 性 を よ り 多 様 で 開 か れ た

﹃ 関 係

﹄ の な か に 見 出 す こ と に あ る

﹂︒ と い う の も

︑﹁ 私 た ち は

︑ 直 接 的 で あ れ 間 接 的 で あ れ

︑﹃ 関 係

﹄ を ま っ た く 介 さ な い よ う な 教 育 を

︑ 想 定 す る こ と は で き な い

﹂ か ら で あ る

︑ と

︒ 渡 邊 は

︑ 教 育 関 係 論 の 主 要 な 目 的 と 課 題 を こ の よ う に 規 定 し た う え で

︑ さ ら に

﹁﹃ 教 育

﹄ 概 念

﹂ を

﹁﹃ 共 同 体 に お け る 多 様 な 関 係 を 前 提 に し た 子 ど も や 大 人 の 人 間 形 成

﹄ と い う よ う に

︑ 修 正 す る こ と が 可 能 か も し れ な い

﹂ と 提 言 し つ つ

︑﹁ 教 育 関 係 論 と は

︑﹃ 教 育

﹄ 全 体 の イ メ ー ジ を 膨 ら ま せ

︑ よ り 豊 か に す る

︑ 発 見 的 で 創 造 的 な 研 究 領 域 で あ る

﹂ と 述 べ て い る

︵ 渡 邊 隆 信

﹁ 教 育 関 係 論 の 問 題 構 制

﹂ 教 育 哲 学 会 編

﹃ 教 育 哲 学 研 究 共 号 記 念 特 別 号 教 育 哲 学 研 究 の 現 在

・ 過 去

・ 未 来

﹄ 教 育 学 術 新 聞 社

︑ 二

〇 九 年

︑ 一 七 四

│ 一 九

〇 頁 参 照

︶︒

﹁ 客 観 的

﹂ と は

︑﹁ わ た し が 経 験 可 能 な も の と し て も つ も の と

︑ 誰 で あ れ 他 者 が 経 験 可 能 な も の と し て も つ も の と が 同 じ も の で あ る

﹂︵HuaXV,489

︶ と わ た し に 意 識 さ れ て い る と い う 事 態 を 指 す 語 で あ る

⒄ フ ッ サ ー ル は

︑ 超 越 論 的 相 互 主 観 性 を め ぐ る 問 題 群

︵ 移 入 の 働 き

︑ 人 間 の 成 長 と 世 界 構 成 と の 関 係

︑ 世 界 構 成 に 関 す る 正 常 性 と 異 常 性 の 問 題 な ど

︶ に つ い て

︑ 安 易 な 結 論 を 提 示 す る こ と を 極 力 避 け る た め に

︑ 繰 り 返 し 慎 重 な 分 析 を 重 ね て い る

︒ し か し

︑ 本 論 で は

︑ そ う し た 分 析 に 言 及 す る こ と は で き な い

⒅ 超 越 論 的 な 次 元

︵ 超 越 論 的 主 観 性 の 次 元

︶ で の

︿ 他 者 か ら の 教 授 と 学 び

﹀ と 自 然 的 な 次 元

︵ 人 間 的 主 観 性 の 次 元

︶ で の

︿ 他 者 か ら の 教 授 と 学 び

﹀ と の 差 異 に つ い て は

︑ 本 論 で は 明 確 に す る こ と が で き な か っ た

︒ こ の 問 題 を 考 え る 場 合

︑ 人 間 的 主 観 性 の 次 元 と 超 越 論 的 主 観 性 の 次 元 と の 相 互 関 係 で あ る﹁ 流 入

﹂が 一 つ の 手 引 き に な る と い う こ と を 指 摘 し お き た ,VI§32,§59 い︵vgl.,Hua

︶︒

⒆ メ ル ロ ー= ポ ン テ ィ は

︑ こ う 述 べ て い る

︒ 超 越 論 的 現 象 学 と は

︑﹁ 世 界 を 見 る こ と を 学 び 直 す こ と cit.,p.21., ﹂︵Merleau-Ponty,M.,op.

・ メ ル ロ ー= ポ ン テ ィ

﹃ 知 覚 の 現 象 学 1

﹄ 竹 内 芳 郎

・ 小 木 貞 孝 訳

︑ み す ず 書 房

︑ 一 九 六 七 年

︑ 二 四 頁

︶ で あ る

フ ッ サ ー ル の 現 象 学 的 還 元 が も つ 教 育 的 な も の

― 18 ―

(20)

⒇ フ ッ サ ー ル が 問 い 直 し た 世 界 経 験 と は

︑ わ た し た ち の さ ま ざ ま な 生 の

﹁ 目 的 に 適 っ た 形 態 化 と し て の 世 界 の 取 り 扱 い

﹂ に つ い て の 経 験 で あ る

︒ し か も

︑ こ の

﹁ 世 界 の 取 り 扱 い

﹂ は

︑﹁ そ の な か で 統 覚 シ ス テ ム が 変 更 さ れ

︑ そ え ゆ え

︑ す べ て の 他 者 に と っ て も そ れ が 変 化 す る よ う な

︹ わ た し の 世 界

︺ 統 覚 の 変 転

﹂ と 連 動 す る も の で あ る

︵vgl.,HuaXV,601

︶︒ も ち ろ ん

︑ こ う し た 世 界 経 験 を 解 明 す る 超 越 論 的 現 象 学 の 探 究 は

︑﹁ な お 多 く の 謎 を と も な う

﹂ も の で あ る

︒ 超 越 論 的 現 象 学 は

︑ こ の よ う な 多 く の 謎 を と も な う 探 究 を 通 じ て

︑﹁ わ た し た ち 人 間 を 理 解 し

︑ 世 界 を よ り 深 く 理 解 す る こ と

﹂︵Hua

XV,150

︶ を 目 指 す 学 的 営 為 で あ り

︑ そ の 遂 行 は

︑ 徹 頭 徹 尾

︑﹁ わ た し た ち は

︑ 自 分 自 身 と 人 間 と し て の わ た し た ち の 世 界 生 を い ま だ 理 解 し て は い な い

﹂︵ibid.

︶ と い う 根 本 洞 察 に よ っ て 規 定 さ れ て い る

― 19 ― フ

ッ サ ー ル の 現 象 学 的 還 元 が も つ 教 育 的 な も の

(21)

参照

関連したドキュメント

Lévinas, “Intentionalité et métaphysique,” in: En découvrant l’ existence avec Husserl et Heidegger, Librairie

[r]

しかし、 意志の規定根拠に関するフッサールのこの志向的基づけ関係図式はカントの 「純 粋理性からの動機づけ」

Klaus Held zu dem zweiten Band von Edm,und Husserl: Ausgewahlte Texte (I: Die Phdnomenologische Methode, II:1. Phdnomenologie der Lebenswelt,

[r]

[r]

[r]

されたと言える。