「事象 その もの」への問い
―― フ ッサールの知 覚の現象学――
高 階 勝 義
(昭和62年5月19日受理)
l―l は じめに
〈事象その ものへ〉(Zu den sachen selbst)と ぃ ぅ現象学的運動の合言葉の うちには
,ま
った く新たな仕方で究極的に基底づ けられた厳密学 としての哲学 を再建 しようとす る
,現
象学の創始者 フ ッサール自身の理論革命への並々 な らぬ思いが こめ られている。 フッサールは「現象学宣言」とも目されている,中
期の画期的論文「厳密学 としての哲学甲におい て,19世
紀以降の哲学思想の動向が,
とりわ けヘーゲル以後の動向が,あ
らゆる学問的認識 にその 究極の意味 を与 える「普遍学」 としての哲学 という,ギ
リシア以来の伝統的な哲学の理念 を「弱体 化」 し,あ
るいは「歪 曲化」す る方向に進んでいると指摘 し,さ
らに世紀末か ら今世紀初頭の思想 界において支配的に流行 していた自然主義的哲学 と歴史主義,あ
るいはそれに もとづ く世界観哲学 を姐上 にのせて,そ
のいずれ もが もはや哲学の伝統的な学問的理念 を放棄 したえせ哲学であると断 罪 し,そ
して まさにその ような客観主義的実証主義 あるいは懐疑主義の思潮か ら解放 された「厳密 学 としての哲学」,つまり絶対的明証性の原理 によって基底づ けられた,ま った く新たな普遍学 を確 立 し,そ
の ことによって伝統的な哲学の理念 を復興 させ ることにこそ自らの現象学の歴史的使命が あると主張す るのである。 〈事象その ものへ〉 という現象学的運動のスローガンは,そ
の ようなまった く新たな「厳密学 と しての哲学Jを基底 づ けるにふ さわ しい根源的明証性 の原理 としての「真 に根源的に存在す るもの」 への帰還の要請である。 もとよりこの「根源的なもの」 はここではもはや伝統的な形而上学に見 ら れるような,な
ん らかの実体概念のごときものに求め られているのではない。「いかなる偏見 にもと らわれることな く,事
物 その ものがいっさいの性急な解釈 によって変造 され る手前で何であるか, それが どのように存在するかを語 ること」?そ
してそうすることによって「物事そのものをそれが本 源的に与えられているがままの究極的様態において,直接的に直観 し,洞察すること甲を何 よりも肝 要なこととする,フッサールにとってはその「真に根源的に存在するもの」としての〈事象そのもの〉 の方法論的原型 は自明のこととして,知
覚的経験 において直接的に直観的に与えられる事物 に求め局 られているのである。 とい うの も知覚的経験 において こそ
,事
物 は自己 をそれ 自身 として,直
接的 に本源的に呈示す ると考 えられ るか らである。「わた しは知覚 しつつ,知
覚 された もの を存在するも の として,つ
まりそれ 自身が現実 にそこにあ り,そ
こに与 えられているもの として確信 している。 知覚 とは 〈事象その もの〉についての意識 にほかな らない。Υ したが って 〈事象 その ものへ〉という 合言葉 によって遡 るべ き途 は,フ
ッサールに とってはさしあたっては知覚への帰還 として予示 され ているのである。 しか もそれはそ こにおいては 〈事象その もの〉に帰属 しない,い
っさいの ものが 徹底的に排去 されているような,純
粋知覚への帰還 として予示 されているのである伊 ところでわれわれが 自然的経験 において出会 うすべての物事 はすでに伝統的哲学の思弁概念やカ テゴ リーあるいは科学理論 の様々な概念 によって幾重 にもおおい尽 され,あ
るいはそれ らによって 複雑 に加工 されているのであって,物
事 をそれが知覚的経験 において直接的に本源的に与 えられて いるが ままに,純
粋 に記述するというような ことは素朴 な自然的経験 においては容易 になしうるこ とではない。 したが って く事象その ものへ〉 とい う現象学的運動の呼びか けはまずなによ りも自然 的経験 において素朴 に使用 されている,そ
のような伝来の学問的術語 をその根源的意味 に基づいて 批判的に検討 し直す という,い
わば徹底 した解体作業 を要求 しているのであ り,そ
うす る ことによ って「物事 その ものの もとに直接的に居合す こと」の可能性 を拓 こうとす るのであるP
しか し く事象その もの〉への途 は伝来の術語のそのような批判的吟味 と解体作業 を とお して直 ち に拓 らかれて くる とい うわ けではない。すなわち自然的経験 において出会 う知覚的事物 をおおって いる,学
問的概念や理論的解釈のすべてを徹底 的にはぎとり,そ
れをいわば「論理的に裸の状態」 にしてしまえば,直
ちに事物がその「完全な自己所与性」 において,生
身の ままにそれ 自身 として 本源的に現出 して くるとい うわ けではないのである。知覚事物 をそれが本源的に与 えられ るがまま の究極的様態 において記述することをめざす,現
象学的な純粋記述の方法 に とっての本質的なよ り 深刻な問題性 はむ しろ空間的対象 としての知覚事物 その ものの固有の所与様式の うちに内在 してい るアポ リアにあるのである。た しかに事物知覚 は「当の事物 と現 にいま向 きあってお り,当
の事物 自身をその生身の ままの現在 (leibhaftige Gegenwart)に おいて把握 している?と
いう本源的意識 で ある。 しか しそれは「事物知覚に固有の意味」 にしたがって,す
なわちそれ はそのつ どの特定の パ ースペクティヴにおいて「射映す る知覚 (abschattende Wahrnehmung)」 であるとい う, 事物 知覚固有の本質的意味 にしたがってそういわれているだけの ことであって,そ
のつ どの顕在的知覚 において当の事物 がその完全 な,全
面的所与性 において,そ
れ自身 として生身の ままに直接的に呈 示 されているといわれているのではないのである。 た とえばわれわれがある知覚事物 の「純粋記述Jを
試みるとき,わ
れわれ はまずわれわれが見て いるのはその事物 の単 なる一つの側面で しかない とい うことを意識 している。 そして この ことはわ れわれがその一側面 をそれだけで単独 に知覚 しているのではな く,そ
れ をその地平 において知覚 し 義 階「事 象その ものJへの問 い ているとい うこと
,す
なわちわれわれはただ単 にその一側面だけを見ているのではな く,ま
さにそ の対象の限 りな く多 くの可能的諸側面の うちの 1つ の側面 を見ているとい うことを意味す る。つま り特定のパースペティヴにおいて現実的に呈示 されている側面の現出がすでにそれ自身 において本 質必然的に,他
のパースペ クティヴや方位 において射映的に現出するであろう,他
の可能的な多 く の部分契機 を,し
たが ってその知覚系列の全体系 としてのその事物 その ものの全体 を指示 している とい うことなのである伊) ところで 〈事象その もの〉 を,す
なわち「事物 をそれが本源的に直接的に与 え られ るが ままに」 純粋 に記述することをさしあたっての主要な課題 とす る現象学的方法に とって,
ここで特 に注 目す べ きことは「当の対象 をそれ自身 としてその生身のままの現在において直接的に把握 している」 と いう,事
物知覚の本源的意識の うちには,す
なわち一見する限 りでは非常 に確固 とした構造 におい て成 り立 っていると思われ る,そ
の本源的意識の うちには,実
はある種 の裂 け目があるということ である。外的知覚の本源的意識 というのは,厳
密 にいえば「射映する知覚」 とい うその固有の意味 の上か ら本質必然的にそのつ どのパースペ クティヴにおいて顕在的に自己所与的 に呈示 され る側面 についての本来的な現実的な本源的意識 と本源的には呈示 されていない他の側面 についての非本来 的な共意識 という二重の契機 を内蔵 しているということであるPす
なわち外的知覚の明証性 はたしか に「対象それ 自身の もとに居合せている」 という本源的意識の明証性ではあるが,
しか しそれは同 時につねにそれ 自身の うちに必然的に他の可能的知覚の果て しない過程 を指示す る相対的で不十全 な明証性で しかない という意識 も内蔵 しているとい うことなのであるよのそういう意味でフッサール は「外的知覚 は,そ
れがその固有の本質の上か らはな しえないことをなす とす るたえざる要求であ る」1)というのである。しかし彼 はそう論定することで,外的知覚のそのような本源的 自己能与(origindre Selbstgebung)の意識が「自己錯誤」の意識 であるとか,あ
るいはそれはなんの償還の保証 もない 「白地手形取引 き」のような ものであるな どと言お うとしているのではないよりむ しろ彼が ここで主 張 しようとしているのは,外
的知覚 はその本質的構造の上 か らつねに「非本来的 な未規定的な」意 味契機 を内蔵せ ざるをえないにもかかわ らず,そ
れがつねにその固有のパースペ クテ ィヴ的現出の 多様性 を超 え出て,対
象それ自身 をその「完全な自己所与性」において把握 しようとす る目的論的 志向性 の意識 によって導びかれているということなのであるよ0そ れではそのようにその本質構造の 上か らつねに不十全で しかあ りえない外的知覚が,ま
さにそのつ どの顕在的知覚 においては「対象 それ自身の もとに居合せる」 という本源的 自己能与 を要求するのは何故なのか。 そ もそ も外的知覚 のその ような要求 を動機づけているものは何 なのか。 本稿の目的はさしあた リー方ではつねに「本源的 自己能与」を要求 しなが ら,他
方で はつねに「)F 本来的な,非
自己所与 的な」意味契機 を内蔵せ ざるをえない とい う,外
的知覚の うちに内在 してい るアポ リアの意味 をフッサールの事物知覚の射映的現出の志向的構造の分析 をもとに して明 らかに勝 し
,次
にパースペ クティヴ的経験 としての事物知覚のその射映的現出の非本来的所与性 の指示体系 を目的論的 に動機 づけている志向性の連関 をた どりなが ら,そ
の目的論的動機づ け連関 において究 極的にめざされている「完全な自己所与性」の様態 における対象それ自身,す
なわちその意味での (事象その もの〉 とは何であるのか とい うことを,主
として『イデーン』第一巻お よび『受動的総 合の分析』 をもとにして明 らかにす ることにある。 働 知覚の射映的現出 とその指示体 系 ―― 見 えるもの と見 えないもの 一― すべての顕在的な事物知覚 は「当の事4/J自身 にまさにその生身の ままの様態 において現 にいま向 きあっている」 とい う本源的意識である。 しか しその際われわれ はわれわれが現実的に知覚 してい るのはあれ これの側面か ら見 られた当の対象の一側面であって,そ
れは知覚 している主観 の観点 に 対応 してその ような相貌の下で現出 しているのであるとい うことも意識 している。すなわち事物 は 知覚 している主観の観点 に相関 して近 くにあるもの として,あ
るいは遠 くにあるもの として現出 し ているのであるとい うこと,そ
してさらには知覚 され る事物 は明 るい太陽の光の下で見 られ ること もあれば,人
工の照明の下で見 られ ることもあ りうるのであって,し
たがってそれはその ときどき の状況や制約の下でそのつ ど別様 に現出するものであるということも意識 されている。 この ことは 決 して視覚的知覚 に限定 されることではない。「 ヴァイオ リンの或 る音 はその客観的同一性 を保 ちな が らも射映 を通 して与 えられる。わた しがそのヴ ァイオ リンに近づ くかあるいはそれか ら遠 ざか る かにしたが って,あ
るいはわた しが演奏会場 その ものの中にいるか,そ
れ とも閉 ざされた扉 ごしに それを聴 いているか等々 にしたがってそのつどその音の現出様式は別様の もの となる。」°つまり個別 的知覚 において知覚 される事物 は,そ
れが視覚的対象であれ,聴
覚的対象であれ,す
べては特定 の 側面か らあるいは特定の相貌の下でのみ射映的 に呈示 され るのであるということである。 ところですべての顕在的知覚において知覚 されているものがつねにこのように特定のパースペ ク ティヴの下での一面的現出においてのみ呈示 されているのであるという意識 は同時 にそれが他のパ ースペ クテ ィヴにおいては別様の相貌において知覚 されるものであるという意識 も随伴 していると いうことである。すなわち知覚 している主観 に とっては,そ
のつ ど顕在的知覚 において現実的に呈 示 されているのは当の対象の一側面だけである として も,意
識の上では現実には直接的には呈示 さ れていない,そ
の対象の他の可能的な部分契機 も共 に現在 しているもの として一緒 に思念 されてい るということなのである。 したがってすべての宍日覚的経験 においては,知
覚 している主観 に とって は現実に見 られている以上の ものが存在 しているとい うことなのである。すなわちわれわれが或 る 事物 を知覚するとき,そ
の知覚現出はそのつ どの固有の直観的な感覚的経験 において本源的に呈示 され るもの以上の もの を内蔵 しているとい うことなのである。た とえばわた しが或 る事物 を特定の「事象その もの」への問い 側面か ら
,特
定 のパースペ クテ ィヴにおいて見 るとき,わ
た しにとってはその事物のわた しに向け られている側面 とその視覚的規定だけが与 えられているのではない とい うことである。 む しろ「見 る」 という知覚作用の固有の意味で言 えば,わ
た しはその さいその対象の別の側面 も別の感覚的経 験の規定 も見ているのである。すなわちメ ッレが言 うように,た
とえばわた しが眼前 にあるこの ト マ トを見 るとき,わ
た しはここか ら見 えるこの トマ トの表面の一部 とその視覚的性質 としての赤 い 色だけを見ているので はな く,そ
の トマ トの表面のなめ らか さもそ してその中味の果肉のおい しさ も一緒に見 ているのであ り,同
様 にして木の堅 さも水の冷た さも見ているのである!9 そのさいわた しに とって本源的に自己所与的に呈示 されているのは見 るという感覚的経験 におい て直接的に与 えられている,そ
の トマ トの特定の側面 とその固有の性質的規定 としての赤 い色やつ ややかさ等だけであって,そ
の表面のなめ らか さやその果 肉のおいしさとい うような触覚的性質や 味覚的性質 は もちろん直接的に本源的に呈示 されてい るのではな く,そ
れ らは現実的に本源的に呈 示 されているその表面の赤い色やつややか さによって指示 されているだけの未規定的な,そ
の意味 で空虚な性 質的規定で しかない。 しか し一方現実的に本源的 に呈示 されている性質的規定 としての その トマ トの赤い色やつややか さというのはまさになめ らかな表面 をした,お
いしい トマ トの赤や つややかさとして現出 しているのであって,た
とえばみがかれた赤い鉄の球の赤やつややか さとし て現出 しているのではない。すなわち「本来的に現実的 に呈示 されているもの」 はそれ をつねに取 り囲んでいる,あ
るいはそれを内的に貫ぬいている未規定的な契機 と一緒 になってはじめて まさに そのような もの として現出 しうるということなのである。「現実的に呈示 されているものの核 は非本 来的な共所与性,すなわち多少 とも未規定性の地平 によって取 り囲 まれている。」°そういう意味でギ ュルヴィッチ もこう言 うのである。「見 られているものは見 えないものの光の中で現出する。そ して 見 られているもの と見 られていないものの全体が知覚の意味 を形成するのである。」°したが ってこの ような観点か ら言 えば,「本来的に与 えられているもの」とい うのはもともとそれだけで単独で知覚 の対象 として存在 しているというような ものではな く,そ
れ 自身は全体的な統一的意味 としての対 象の単なる構造契機で しかないのであって,
したが ってそれはそれ と共 に与 えられてい る非本来的 所与性 との連関 な しにはなにもので もない ということなのである。そ もそ も知覚のノエマにおいて は「本来的 に与 えられているもの」というのはその対象の別のノエマ的現出においては,「単 に共 に 与 えられている もの」 にす ぎないものなのであるtЮ) しか しそれでは顕在的な知覚経験 において「本来的に与 えられているもの」 と「単 に共 に与 えら れているもの」の所与様式 はどこで区別 され るのであろうか。 これ までの考察で明 らかになった こ とはわれわれが或 る事物 をある側面か ら知覚す るとき,そ
の事物がその本来的に与 えられている側 面の規定 を超 えて有 しているあ らゆる規定がわれわれに とって端的に共 に与 えられてい るとい うこ とである。 もとよ りここで注意 しなければな らない ことは知覚経験の現象学的考察 において主題 に勝 なる「共 に与 えられているもの」 というのは
,あ
くまで も知覚のノエマにおいて,す
なわち特定の パースペ クティヴの下 に,特
定の相貌の下 に現出 している「現実的に呈示 されているもの」によっ て志向的に,構
造的に指示 されている「共 に与 えられてい るもの」であって,事
物 の実在的規定 と してのそれではない とい うことである。た とえばわた しがある実在的事物 をある側面か ら,あ
るパ ースペクティヴか ら知覚するとき,本
来的に与 えられている側面の実在的規定 を超 えて,わ
た しが これまで知 らなか った し,ま
た これか らも知 ることがないであろうような,そ
の事物 の実在的規定 もつねに「共 に与 えられている」。た とえばその事物 の原子構造のような もの もつねに「共 に与 えら れている」。 しか し現象学が問題 にす る事物知覚 における「共 に与 えられているもの」 というのは, まずなによ りも事物 のその ような実在的規定のいっさいを徹底的に排除す ることによって開示 され て くる知覚のノエマの構造契機 としてのそれであ り,
したがってそれが「共 に与 えられているものJ といわれるのは ここではそれが知覚のノエマにおいて「本来的に現出 しているもの」 を超 え出て, 「共に意識 されている」 という意味でそういわれているのである。 しか し知覚のノエマにおいて「共 に与 えられているもの」はすべて同 じ仕方で「共 に意識 されて いる」わけではない。すべての知覚事物が一方ではそれがそのつ どの顕在的知覚 において経験 され, 主題化 され うる部分契機 の全体であるという限 りで,そ
のつ どのパースペ クティヴにおいては現実 には見えない部分や側面 としての内的地平 をもっていると同時 に,他
方ではすべての知覚的経験の 対象は,そ
れがつねによ り包括的な連関の部分契機 として も主題化 され うるとい う限 りで,そ
れは 外的地平の うちに存在 するもの として も,す
なわち他の対象 との絡 み合 いの うちに存在するもの と して も意識 されている。 したが って事物知覚 における「共 に与 えられている ものJに
関 して言えば さしあた り当の知覚の主題的対象に内属 してい る規定 としての 「内的地平」 とその対象の空間, 時間的周域 に帰属す る規定 としての「外的地平」を区別 しなければな らない とい うことになるので あるが,こ
こでは とりあえず「外的地平」にはこれ以上立ち入 ることな く,
もっぱ ら主題 的対象の ノエマ的概念の構造契機 としての「内的地平」だけに関心 をむけることにする。 それではこの「内 的地平Jの
連関 においては「非本来的に共 に与 えられているものJと
い うのは何 を意味 しているの か。 この場合で も「共 に与 えられているもの」 はすべて同 じ仕方で「共 に意識 されてい る」のでは ない。われわれはある空間的対象を特定のパースペ クティヴか ら現 る とき,わ
れわれはその対象の 現にわれわれに向 けられている,本
来的に呈示 されている「側面Jに
対 して,こ
こか らは見 えない が,そ
の一面的現出によって本質必然的に指示 されている「共 に与 え られているものJと
してのそ の対象の他の「諸側面」 を主題的に考察することがで きる。 この意味での「側面Jと
い うのは,文
字通 りの意味でいえば,空
間的対象 としての事物 をおおっている表面の一部分 として理解 されてい るものであ りぅしたが って この場合の「共 に与 えられているもの」 としての他の「諸側面」 という のは,本
来的に与 えられている側面 と相補的にその事物の全表面 をおおっている部分契機 として指「事象その もの」 への問 い 示 されているものであるということ
,し
たが って この意味での「側面Jは
それだ けでは自立的に存 在 しうるものではな く,つ
ねに他の「諸側面」 を指示 している対象の抽象的 な部分契機 を意味 して いるということは明 らかである!9 しか し空間的事物の この ような抽象的部分契機 としての「側面」だけが事物 を構成す る意味契機 として存在 しているわけではない。われわれが空間的対象 としての或 る事物 について語 るとき,た
とえばわれわれが或 る事物 を木あるいは トマ トとして語 ろうとするとき,わ
た しはすでにそれに特 定の色やなめ らか さやおい しさや重 さや堅 さも付加 して語 っている。すなわちわれわれ はその事物 の現実には見 えない表面的部分 としての「側面」 について語 っているだけでな く,本
来的には呈示 されていない,未
規定的な感覚的諸性質 をも付力日して語 っているということなのであるV° それでは このような「本来的には呈示 されていない」諸性質 はいかにして与 えられているのか。9
「見 えない もの」の所与様式 と類型的予料 ギュルヴィッチは知覚のノエマの志向的構造 のゲ シュタル ト的解釈 を試みている大著 『意識野』 において,「ただ見 られているだけで もちあげ られな くて も,物体がその純粋 な視覚的現出において 重かった り,軽
かった りして見 えることもあ りうるYう という事態 を取 り上 げ,事
物知覚 においては 多 くの場合,直
接的な感覚的経験 において直接的 に本来的に与 えられ るものの意味契機 と直接的に 本来的には与 えられない ものの意味契機 とがそれぞれ別 の意味領域 に属 している とい うこと,
しか しそれにもかかわ らずその さい本来的に与 えられてい るものが まさにそれ とは別の意味領域 に属す る非本来的所与性 によって構造的に本質的に規定 されてお り,そ
のお蔭でのみそれが まさにそのよ うな事物の現出 としての機能 を果た しうるのである とい うことを明示 している。 見 られているだけで もちあげられていない4/J体の知覚 における「重 さ」や「軽 さ」への指示 はた しかに見 られていない部分契機 としての「諸側面」への指示の ような,そ
の事物 の視覚的現出の本 質的構造要素ではない。 というの も現実 には見 えない「諸側面」への指示 を含 まない ような,い
か なる空間的事物 の視覚的現出 もあ りえないが,「重 さJや
「軽 さ」への指示 を含 まない実在的事物 の 視覚的現出はあ りうるか らである。 しか し「重 さ」や「軽 さ」への指示がその視覚的現出の うちに 含 まれてい るとすれば,そ
の場合 はその指示 を動機 づけている構造的根拠がその視覚的現出その も のの指示連関の うちに確認 されなければな らない。実際 にもってみることによってはじめて本源的に経験されうる物休の「重さ」や「軽さ」への指示が「ただ見られているだけの物体」の視覚的現
出のうちに内蔵されているというのはどういうことなのか。そこにどのような構造的な指示連関が
あるというのか。
ギュルヴィッチの知覚 ノエマのゲシュタル ト的解釈 によれば,本
来的に与 えられてい る もの と非勝 階 本来的に与 えられてい るもの とはひ とつの機能的連関 を形成 しているのであ り
,し
たが って直接的 な感覚的経験 によって本来的に与 えられる与件がただ一方的に非本来的に与 えられてい る与件 を指 示 しているとい うのではな く,む
しろ本来的に与 えられてい るものはその現象的性質 をまさにその 「共 に与 えられているもの」との連関 によってのみ有 しているのであるという『りた とえばわた しが 黒光 りしている鉄 の球 を見ているとい う場合,そ
の「見 る」 という直接的な感覚的経験 において, わた しの眼の中に とび こんで くるその球体 の表面 をおおっている「黒光 り」の現出が まさに直接的 に直観的に「鉄の球塊」 を現出させているのであ り,そ
してそれによってわた しが過去 においてこ の種 の対象の性質 として経験 して きたいっさいの ものがひそかに指示 されているのである。すなわ ちわた しはわた しに直接的に呈示 されているその球体 の「黒光 り」か らその物体 の「重 さ」 も「堅 さ」 も「冷たさ」 もそ してなによ りもそれがその ような諸性質 を有する「鉄の球塊」であることを 直接的に見 て とっているのである。 しか し一方本来的に見 られているその物体 の「黒光 り」 その も のはそれだけで単独でそのように現出 しているのではな く,ま
さに「重い」「堅 い」「冷たい」鉄の 球の「黒光 り」 として現出 しているのであって,
したがってそれはそのような非本来的所与性 との 連関な しにはそ もそ もその ような もの として現出 しえない ということなのである。 ところで この 本うな視覚の対象にも触覚の対象にもな りうる空間的事物の所与性 に対 して,
もっ ぱ ら聴覚的対象 として しか現出 しえない音響的所与性 については他の固有の感覚 によって本来的に 与 えられ る「共 に与 え られているもの」 について語 ることは意味 をなさないが,こ
の場合 で も別 の 意味で直接的な感覚的所与性 はそれ とは別の意味領域 に属す る「共 に与 えられているもの」 をみず か らの固有の意味 をよ り本質的に規定するもの として指示 している。た とえばわれわれが「 自動車 の音」や「人間の声」 を聞 きわ↓夕る場合 について考 えてみ ると,わ
れわれの聴覚 に直接的 に与 えら れているのはある騒音や ざわめきだけであるに もかかわ らず,わ
れわれは直接的な本来的 な音響的 所与性 としてのそれ らの騒音やざわめ きをただそれだけ として単独 に知覚 しているのではな く,そ
れ らをつねに直接的に「自動車の音」や「人間の声」 として聞いている。すなわち「特別 の音楽的 態度 を別 にすれば,わ
れわれ は直接的な音響的所与性 をそれだけで対象か ら切 り離 された純粋 な性 質 としては知覚 しないのであ り,つねにその音源 を指示 しているもの として知覚 しているV働 とい う ことなのである。音響的所与性 は,それがつねに特定の対象か ら発する所与性であるとい う限 りにお いて,意識の上で はそれに不可分的に内属 しているその固有の対象的意味 を指示 しているのである。 しか もそれはただ単 に固有の直接的な感覚的経験 において呈示 されていないとい うだけでな く,音
響的領域 とは別の意味領域 に属する所与性 をその音響的経験 その ものを本質的に規定 す る契機 とし て指示 しているとい うことである。同様の ことはや は りつねに特定の対象から発する嗅覚的所与性 について も妥当す るであろう。 それでは直接的な感覚的経験 において「本来的 に呈示 され るもの」の意味領域 に属す る もの と「)F「事 象その もの」への問い 本来的に共 に与 えられているもの」の意味領域 に属す るものはそ もそも何 によって区別 され るのか。 問題 を単純 にす るために空間的対象 としての事物 に限定 していえば
,本
来的に呈示 される視覚的現 出に属す る規定性 と非本来的にしか呈示 されない触覚的現出の規定性 とにはその所与性の明瞭性 の 点において大 きな差異があるということは明 らかである。た とえばわた しの眼の中に とび こんで く る物体の表面の「黒光 り」 はわた しが直接的に見 ている特定の,す
なわちこの「鉄の球」 の「黒光 り」であるのに対 して,そ
のさいわた しに とって「共 に見 られている」その物体 の「重 さ」 はこの 種の物体の単 に一般的な性格 として見 られているのであって,特
定の「重 さ」 として本源的に経験 されているわ けではない。 その種 の物体の一般的性格 として見 られているだけのその物体 の「重 さ」 はわた しが それ を実際 にもってみることによってはじめて本源的に直観的に経験 されるのであって, したがってそれには,そ
れが非本来的所与性 に とどまる限 りで本質必然的に未規定性が帰属 してい るのである。 したがって知覚 ノエマにおける「本来的に与 えられているもの」 と「非本来的に共 に 与 えられてい るもの」 との相違 はさしあた り本来的所与性 の直接的所与性 と非本来的所与性 の一般 的未規定的所与性 の違 い として見 ることもで きるように思われる。 しか しこの限 りでの両者の差異 は,メ
ッレが指摘するように,所
与性 の明瞭性の程度すなわち未 規定性の程度 にかかわ る程度的差異であって原理的差異で はない。そのつ どの顕在的知覚 において 現実的に直接的 に呈示 されているものが「本源的に本来的 に与 えられている」 といわれ るのは,そ
れがその絶対的な,完
全 な自己所与性 において純粋 に知覚 されているという意味でそういわれてい るのではない。知覚のノエマの構造契機 としての「本来的に与 えられているもの」 はそれが何であ れつねに特定 のパースペ クテ ィヴや制約の もとで まさにその ように「射映的に現出 している」ので あって,し
たが ってそれはそれ 自身 において他のパースペ クティヴや制約の下では別様 に現出する ものであるとい うことを指示 しているのである。すなわ ちその限 りで顕在的知覚 にお ける「核」 と しての「本来的に与 えられ るもの」 その ものの うちに もつねに未規定的意味契機が内蔵 されている ということなのである。そうい う意味でフッサール は外的知覚のパースペ クテ ィヴ的現出において 「本 来的に自己所与的に現出するもの」 はすべてつね に志向的な「空虚な地平」 によって取 り囲 ま れて いるというのであるV° しか しフッサールが外的知覚 における未規定的一般性 において指示 されている地平 を「空虚 な も の」と呼ぶのは,そ
れが感覚的充実 をまった く欠いているとい う意味 においてではな く,「充実 され るべ き空虚」すなわち「あ らか じめ予料的に規定 されてい る充実 されるべ き空虚」 とい う意味 にお いてなのであ り,し
たがってその限 りでそれはつねにすでに相対的に部分的に充実 されている空虚 という意味でそう言われているということなのである。 フッサールはこの意味での「空虚 な もの」 への指示 とい う,外
的知覚 のパ ー スペ クテ ィヴ的指 示 の現 象 を記述 す るた め に,「下 図 を描 く (Vorzeichnung)」 といウ独特の表現 を用いるのであるが,彼
はこれによって「つねに予料的に規定勝 階 されてお り
,し
たがってその線 にそって本来的に直観的に充実 され るべ き未規定的一般性」への指 示 としての外的知覚のパースペクティヴ的指示の特性 を表示 しようとしているのであるV9 た とえば見 られているだけで実際 にもたれていない物体 の「重 さ」 も見 られ ることがあ りうると いわれ るときに,そ
の「非本来的に共 に与 えられているもの」 としての「重 さJは
どの ように して 見 られているのか。 その「重 さ」は実際にもたれることによって,本
源的に経験 され るのであって, その限 りで見 られているだけの「重 さJは
まだ未規定的所与性で しかない。 しか しその場合で もそ の未規定的な「重 さ」 は当てずっぽうに,恣
意的に見 られているのではない。 それ は未規定的では あるがやは り規定可能 な もの として,す
なわちわた しがそれ をもつ ことがで きて,そ
して実際にも ってみればその「重 さ」が そのようなもの として本源的に直観的に経験 され うるもの として予料的 に見 られているということなのである。 それでは事物知覚 における未規定的な規定可能的一般性の そのような予料(Antizipation)を動機づけているものは何か といえば,フ
ッサールはそれ はわれわ れが経験的に身 につけて きた一般的類型であるとい うのである6 彼 は後期 の『経験 と判断』において,わ
れわれの日常的経験 における類型的予料の機能 を主題的に とりあげ,わ
れわれが出会 うすべての事物 はつねに未規定的な契機 を内蔵 しているとして も,そ
れ は「つねに同定で きるアプ リオ リな類型の一般性 としてひ とつの既知性 をもっているJ未
規定性で あるということ,す
なわち可能的経験の統一的意味 としてのすべての対象の うちには,そ
れが何で あれ,「完全 に空虚 な ものであるとか,ど
んな意味 ももたない何 らかの所与 であるとか,あ
るいは絶 対的な未知の所与 な どとい うものは存在 しない とい うこと,む
しろ未知 はいつで も既知の一様態な のであるY° とい うことを強調 している。た しかにわれわれが まった く未知の対象 を知覚す るとい う 場合には,わ
れわれにはそれが何であるか知 られない し,そ
れが他の観点か らはどの ように見 える のかも知 られない し,他
の制約の下ではどの ように現出す るのか も知 られないのであ り,し
たが っ てこのような場合 には現在の知覚 を超 えて,非
本来的に共 に与 えられている他の相貌や呈示様式 を 指示するいかなる もの も存在 しないように思われる。 しか しその場合で もその対象が知覚 された空 間的事物 としてまさに一面的に,射
映的に現出 しているものであるという限 りで,す
なわちそれが ともか くも他の観点や他の相貌の下で も知覚 され うるもの として存在 している とい うこと,す
なわ ちそれが立体的形態 を有するもの として呈示 されているということは指示 されてい るのである。 し か しさらにいえばた とえばはじめて見 られた外国産の果物 の中味が どのような構造 をしているのか, 真ん中に堅 い殻の種子があるのか どうか等々 については,現
在の この見ているだけの知覚 はいかな る指示 も与 えない。 けれ どもその場合で もそれが ともか くも何 らかの中味 を有するもの として,何
らかの味 を有するもの として知覚 されているということは確かなのである。 その限 りで空間的事物 の現出様式 においてはまった く未知の対象 というものは見出 しえない ということなのである。すな わち知覚的事物の未規定性 はそれが どんなに広範におよぼ うとも,決
して他の知覚可能性 への指示「事象その もの」への問 い
11
についてのいかなる予料 もあ りえない というような,全
面的未規定性 な どで はあ りえない というこ となのである。「事物 はそれがそこにおいて現 に現出 している側面 においてある形状,色
合 い,な
め らかさあるいはで こぼ こ等々の諸性質 を明示 している。その事物 は,そ
れが まだ知覚 されていない 側面 においてはどのような形態,ど
のような色彩的性質,ど
のような触覚的性質 を呈示す るか とい うことは規定 されていない として も,そ
れがその見 られていない側面 において もそれが何 らかの形 態,何
らかの色,何
らかの触覚的性質 を有 している ということは規定 されている。Yり そういう意味でギュルヴィッチは知覚の経験 の場 の中での既知の対象 と未知の対象,馴
じみの対 象 と馴 じみでない対象の相違 というような もの も本質的相違 というよりもむ しろ程度的相違で しか ない というのである。子働 あまり馴 じみでない事物 を知覚する場合 には,本
来的には与 えられていない他の諸側面やその諸 性質への指示が未規定的であるとい うことは当然の こととして理解 されているが,ま
った く馴 じみ の事物 を知覚するとい う場合で も,そ
のつ どの顕在的知覚がその事物 を,そ
れが現出 しうるあ らゆ る相貌の下で一挙 に全面的に呈示す るとい うような ことは原理的にお こりうることではないのであ って,し
たが ってその場合で も「非本来的に共 に与 えられる」未規定的契機が本質必然的に指示 さ れているのである。 しか しそのつ どの顕在的知覚 における未規定的契機 とい うの は,そ
れが どのよ うな ものであれ,ま
った く空虚 な未知の所与 とい うような ものではな く,少
な くとも一般的類型 に おいては構造的に規定 されているものであって,
したがってそれはその限 りで規定可能な地平 とし てすでにあ らか じめ知 られているものであるということについてはすでにみておいた ことであるがΥ9 それでは日常的経験の場の中でのわれわれに とっての馴 じみの対象 と馴 じみでない対象の現出を規 定するものは何であるか といえば,ギ
ュルヴィッチはそれはそれぞれの予料 された規定可能性 とし ての未規定的地平が類型的前馴 じみ性 と既知性 によって どの程度細か く規定 されているか という, その類型的予料の程度的差異 によるのであるとい うのである『°た とえばあまり馴 じみでない建物 も われわれに とってはただ単 に空間的事物 として現出 しているのではな く,そ
れ はまさに人間 によっ て造 られ,人
間にとって何 らかの役 に立つ もの として現出 しているのであ り,し
か もそれはさらに 特定の類型の建物 として,た
とえば工場 としてあるいは住居 として知覚 されているのである。その さいそれが工場 として知覚 されるか住居 として知覚 されるかはその建物の内部への指示が どのよう な類型的規定 によって どの程度組織化 され,特
殊化 されているかによるのであって,
したがってそ れがあまり馴 じみでない対象 として現出するとい うのはその類型的組織化が もっぱ ら一般的類型 に 関 して規定 されているだけであって,そ
の詳細 に関 してはまだ何 も規定 されていないか らであると いうのである『うしか しあまり馴 じみでない対象の未規定性 というのはまさに個別的特殊性に関 して の未規定性 であって,す
なわち特定の類型がそ こで現実化 される「特殊 な様式」 にかかわ る未規定 性であって甲9類
型 その ものはわれわれに とってはあ らか じめ馴 じみの ものであ り,すでに知 られて義 いるものなのである。 したがってその未規定性 はつねにそれが少な くとも一般的類型 において適合 しなければな らない という程度 には規定 されているということなのである『, これに対 してわれわれが まった く馴 じみの家 を見 ている とい うときには
,そ
の知覚的現出の系列 はその家の内部の組織化への指示 を内蔵 してお り,
しか もその内部への指示があ まり馴 じみでない 家の場合 に比べてはるかに詳細 に分節化 されてい るということは明 らかである。 しか しこの場合で もその内的組織化が全面的に規定 されている指示 な どとい うものはあ りえないのであって,つ
ねに 未規定的契機 を残 さざるをえないのである。 その意味で馴 じみの対象 と馴 じみでない対象の所与様 式の相違 も一般的類型の下での指示連関の分節化 の程度的差異で しかない といわれ るのである。 しか しいずれにせ よこのように空間的対象 としての事物 の知覚の どのような局面 において も,つ
ねに未規定的な空虚 な契機が内蔵 されてお り,
したが ってそこには「究極的に十全 に本源的に与 え られているもの」な どがなにひ とつない とすれば,「対象 を生身の ままに直接的に把握 している」と いう知覚の固有の本源的意識 というのは何 を意味す るのであろうか。 lml 知覚的所与の本質的不十全性 と動機 づけ られた知覚可能性 空間的対象 としての知覚事物の生身の ままの呈示の本源性 とい うのは,そ
れが意味 として統覚 さ れた対象の所与性 の本源性であるという限 りにおいて,本
質必然的に現実的に充実 された意味契機 と現実 にはまだ充実 されていない意味契機の二重の構造 を内蔵せ ざるをえない とい うこと,す
なわ ち超越的な もの としての実在的対象の知覚の本源性 は,そ
れがただ一般的構造の上か ら下図的に描 かれているだけの,未
規定的な開 られた可能性 としてであれ,あ
るいはすでに細かに特殊化 され, 組織化 された下図によって明確 に描かれている可能性 としてであれ,い
ずれに して もそれ はまだ充 実 されていない意味契機 を内蔵せ ざるをえない とい う事情 についてはすでにみてきた ことであるが, フッサールは本源的意識体験 としての顕在的知覚 においてつねに体験 される,ま
さにその未規定的 な開 らかれた可能性 としての他の可能的知覚系列への諸指示の うちに,認
識努力 としての事物知覚 の本質的な一面性 と限界性が告知 されているということを強調するよ。しかし彼 は事物知覚の本源性 の地平的志向性 の分析か ら明 らかになって くる知覚のその ような「一面的射映性」 とい う事実 を, すなわちそれがつねに未規定的地平への諸指示 を内蔵せ ざるをえない という事実 を「単 なる偶然的 事実」 として理解 してはならない とい う。つ ま りこの事実 はた とえば人間的知性 の不完全性 に基因 す る偶然性 であって,わ
れわれ人間の知性 よ りもよ り高級 な,よ
り完全な知性 な ら,た
とえば神の 知性 な らそれ を克服 しうるというような偶然的不十全性 とみてはならない とい う。 そのつ どの顕在 的知覚が本質必然的に内蔵せざるをえない未規定性 とい うのは,す
でにみたように少 な くとも一般 的類型の上か らは規定可能なもの として予料 されている意味契機 なのであって,
したが ってそれ 自「事象 その もの」への問 い
13
身 はあらか じめすでに可能的知覚の多様性 を指示 しているのであ り,そ
してさらにその多様性が連 続 的に相互 に融合 してひ とつの知覚の統一へ と結 び合 って行 く,そ
の道筋 もそこではすでに下図的 に描かれているのであるよ°その さいその知覚の統一において連続的に持続 して現出する事物 はその つ どそのつ どの新 しい射映系列の中でつねに新 しい「側面」 を呈示 して くるのであるが,そ
の知覚 の多様性の連続 的な統合の過程 は非本来的に共 に把握 されていた事物の諸契機が「現実的所与性」 へ と導びかれ,未
規定性が よ り細 か く規定 され,そ
のように して次第 にそれ 自身が明瞭 な所与性ヘ と変化 してゆ く過程である と同時 に,一
方ではそれは逆の方向に,今
まで明瞭だった ものが再 び不 羽瞭なものへ と移行 し,「本来的に呈示 されていた もの」が「非本来的に呈示 され るもの」へ と消 え てゆ く過程 で もあるのである『9 この ことは本源的意味能与 としての外的知覚 というのは,そ
れが どの ような ものであれ本質必然 的につねに対象の流動的な不完全 な規定 を与 えるだけの完結 しえない能作 なのである とい うことを 意味する。すなわち外的知覚の能作の本質的意味 はただ単 にあらか じめすでに出来あがっているも の として下図的 に描かれている意味の「側面」 をそのつ どそのつど新たに直観化するとい うような ところにあるので はな くて,む
しろ知覚 によって能与 され る事物 の意味 とい うのは本来的にたえま ない変転の うちで形成 されつづ けているのであ り,
したが ってそれはつねに新たな変貌の可能性 を 開いているものなのであるということを意味 してい る『°そしてフッサールは,外
的知覚が この よう に果て しな く不完全である とい うことは「射映的知覚」 としてのそれに本質必然的に帰属する,取
り除 き難い事実であって,「この点 に関 してはいかなる神 といえどもいささかの変更 も加 えることが で きない」 とい うのであるよつ しか しフ ッサールは事物知覚の このような本質的一面性 と限界性を強調することで,人
間の知覚 は事物 その ものに近づ くことがで きないなどと言お うとしているのではない。むしろ彼 は「事物 そ の ものはそれ 自体で存在 し,そ
の自体存在 においてはわれわれには与 えられない ものである」 とす る,カ
ン ト的哲学の思想 は原理的 に誤謬であ り甲働「われわれが見ている空間的事物 は,そ
れがいか に超越 した ものであって も,や
は り知覚 され るものであ り,そ
の生身の ままの様態 において意識 に 対 して与 え られ るものである!働 と考 えているのである。フッサールは,「自体的に存在す る対象」で あれ,他
の どの ような種類の超越 であれ,そ れが環境世界の中の事物であるという限 りにおいては, われわれの意識や意識 自我 にまった くかかわ りな く,そ
れ 自体 で存在するな どとい うことは決 して あ りえないのであって,
したが って実在的な もの としてのそれはやは りつね に原理的に与 えられる ものであ り,そ
の ような もの として経験可能な ものである,と
主張 しているのである。 しか し「知 覚 は事物その ものに近づかない…… というのは原理的誤謬である」という,『イデー ン』第一巻第四 三節の フッサールの論述の主要な意図はあ くまで も,「原理的に一面的な感性的射映 をとお して不十 全 にしか与 え られない」実在的な超越的存在の所与様式 と「十全な明証性 において与 えられる」意階 一 局 識 の内在的存在 の所与様式の絶対的差異 を強調す ることにあるのであ り
,し
たが って ここでは実在 的 なものは絶対的 に存在 するもので もなければ,絶
対的に与 えられ るもので もない とい うことが強 調 されているのであって,そ
れでは実在的存在物がその ような本質必然的な不十全的所与性 にもか かわ らず,い
かに してそれ自身 として生身の ままに矢日覚 され うるというのか とい うことについては ここでは積極的 には何 も語 られていないのである。 フッサールは超越的な もの としての実在的存在の知覚可能性 をめ ぐるこの問題 をやは り『イデー ン』第一巻の四七節 において再 び主題的に取 り上 げ,
ここではさらに一歩踏 み こんで「(実在的存在 物の)経
験可能性 とい うのは空虚 な可能性 とい う意味ではな く,経
験連関において動機 づけられた 可能性 という意味である雪ωとして,実
在的存在の概念のよ り積極的な規定の可能性 の方途 を示唆 し ている。 ここで さしあた り注 目すべ きことは,実
在的な ものの「経験可能性」が単 なる空虚な可能 性ではな く,「動機づ け られた可能性」である言われていることの意味である。彼が ここで「空虚な 可能性」 といっているの は,た
とえばここにあるこの書 きもの机が現実 には四本の脚 を もっている のに,い
ま見 えていないその底面 に十本の脚 をもっているであろうと推測 され るような可能性であ るよりすなわち現在の知覚 その ものの意味能与か らはまった く無関係 に,た
だ論理的にあ りうるとい う程度 に推測 され る可能性 であって,
したがつてその意味で当の知覚 においてはいかなる下図 も描 かれていないような可能性 であるより これに対 して「動機 づ けられた可含〕隆」 とい うのは,い
ま現 に遂行 されている知覚の経験連関に おいて動機づ けられている可能性 とい う意味であって,フ
ッサールによればそれ は二重の意味で動 機づけられている とい う。すなわちひ とつはその知覚 において未規定的に下図的 に描かれている意 味あるいは内容 その もの (たとえば四本 とい う数)が
可能的な もの として動機づけ られているとい うことであ り,
もうひ とつはそれ と同時 にその知覚の意味 によって未規定的に下図的に描かれてい るものが,そ
こで顕在的現在 に移行 され うる (そしてそこで充実 され うる)知
覚系列が可能的な も の として動機づ けられているとい うこと,す
なわち知覚する主観がその知覚状況の うちに内在 して いる動機づけに従 うとい う限 りで,顕
在的現在 に移行 され うる「知覚系列」が可能的な もの として 動機づけられているとい うのである。 しか もその さいその可能性 はただ単 に一般的に下図的に描か れているとい うのではな く,そ
れが理性的に立証 され うるもの として下図的に描かれているとい う こと,す
なわちその可能性 はただ単 に矛盾 な く考 えられ うるとい うような,空
虚 な論理的可能性 と してではな く,そ
の定立が直観的に立証 され うるもの として理性的に動機づけられている可能性で あるというのである甘°したがって このような知覚的経験連関 における「動機づ けられた可能性Jと いうのはもはや「たぶん」 とか「おそらく」 と言 うような程度の低 い存在確実性やあるいは「論理 的にあ りうる」 とい うような空虚 な可能性 を意味 しているのではな く,そ
れは経験主観 としてのわ た しに とって可能的であるとい うこと,す
なわち「未規定的に下図的に描かれているもの」(たとえ「事 象その もの
Jへ
の問い ば机の脚の四本 とい う数)を
それがそこにおいて顕在的現在において呈示 され る知覚系列 に移行 さ せ,そ
うすることによってそれ を直観的充実に もた らす ということ (その机 の底面 をのぞきこんで それ を実際 に確かめるとい うこと)が
,「わた しにで きる (ich kann)」 とい うことを意味 している ということは引 らかである子°したがって「経験連関において動機づけられた可能性」としてのすべ ての実在 的存在物 の経験 可能性 の意 味 とい うの は究極 的 には知覚的 に経験 す る主観性 の能為 (Vermёglichkeit)の うちに基底づけられねばな らないということなのである。 lll 実在的存在の原理的知覚可能性 と運動感覚的動機 づ け この「動機づけ られた可能性」 としての実在的存在物の知覚可能性の問題 については,フ
ッサー ルはすでに引用 した後期の 『受動的総合の分析』 において主題化 してお り,そ
こではその可能性 の意味 は「運動感覚的動機 づけ (kinasthetische Mot atiOn)Jの 概念規定 との関連 において解明 され ている子° ここでは「運動感覚 (Kinasthese)」 というの は対象 を構成する知覚 と運動の共働 として理解 され てお り
,そ
して知覚その ものは身体的 ―精神的主観の自由な運動可能性の体系 として規定 されてい る。 したが って知覚 にお ける対象のすべての現出様式 には必然的に身体的運動が相関的に対応 して いるということが主張 されているのであるが,こ
こで注 目すべ きことは知覚 においてはそのつ どの 身体的運動 に相関 して現出系列がただ単 に並行的に経過 しているとい うことが言われているのでは な くて,知
覚 その ものがそれ 自身の可能性の制約 としてつねに身体的主観の 自由な運動可能性 を指 示 しているということ,
しか もそれ自身 は対象の特定の現出系列 をいつで も意の ままに経過 させ る ことができるとい う,運
動感覚的主観の体系 としてみなされているということである。 そのさい フッサールは運動感覚的可能性 の体 系 として理解 された知覚の意味 を解明す るにあたっ て,す
べての知覚作用 においてはつねに「従属変数」 と「独立変数」の二重の働 きが構成的に機能 しているということを強調する!°知覚 におけるそのつ どの現出系列の経過 はつねにそのつどの身体 の運動 と並行 して起 る。 しか しそれ は偶然にそうなっているのではない。身体 はつねにまさに知覚 の器官 として機能 しているのであ り,し
たがってそのつ どの運動感覚的系列 と知覚の現出系列 はつ ねに不可分的に,相
互 に関連 しあって経過 してい るのである。わた しがある対象 に限差 しを向 ける とき,わ
た しはその ときの眼の位置 を意識 していると同時 に空虚 な地平においてではあるが,わ
た しの意のままになる可能的な眼の位置の全体系 を も意識 している。すなわちわた しは,わ
た しが眼 をあれ これの方向に向 けるな らば,そ
れにしたが ってあれ これの視覚的現出が経過す るであろうと いうこと,そ
してわた しがあれ これの別 の方向に眼 を向けるな らば,そ
れに本辟関 して別 の期待 され る視覚的現出系列が経過す るであろうということも意識 しているのである。義 そのさい運動感覚のすべての系列 はわた しの自由に意の ままにな りうるもの として
,す
なわちそ れを自由に抑制 した り,自
由に再開 した りす ることので きる主観性の自由の体系 として経過す るの に対 して,下
図的に描かれている多様 な現出系列の体系は「わた しは意の ままにな しうる」 とい う 運動感覚的主観の自由の体系に従属す る体系 として経過す る。 そしてフッサールによれ ば,知
覚の 多様 な現出の経過がつねにこの ように運動感覚的に動機づ けられているということによってのみ, すなわちその諸現出がそれをいつで も本源的現出 として意の ままに経過 させ ることが 自由にで きる という,運
動感覚的主観の能為の体系に従属す るということによってのみ,ま
さにそれ らは連続的 に融合 し合 い,ひ
とつの対象的意味の統一 を構成す ることがで きるのであるとい うのであ る。う ま り「独立変数」 としての「わた しは自由にな しうる」 とい う運動感覚の主観の自由の体 系 と「従属 変数」 としての対象的現出の可能性の体系が共働す ることによってのみ,知
覚 において多様 に現出 するものが超越 的対象 として統合 されてゆ くとい うことが可能 になるとい うことなのであ るよう そこでい まやわれわれは『イデーン』第一巻 において,「実在的存在物 はそれがいかに超越的な も のであれ,原
理的に知覚可能な ものであ り,し
か もそれは空虚 な論理的可能性 ではな く,経
験連関 において動機づ け られた可能性である」 と言われていることの意味が この「運動感覚的動機づ け」 の概念 との連関 において どのように基底づ けられ るのか ということをみなければな らない。 ラング はこの問題連関 において,「われわれの自然的生活 においては知覚 においては視野の外 にある事物 も 視野の内にある事物 に劣 らず存在 しているもの として確信 されている」 という素朴 な存在確信の意 味の現象学的解明 にさしむけられている,『イデー ン』第一巻四五節の論述 に注 目し,そ
こではノエ マ としての実在的存在物の現存 (Dasein)の意味が「運動感覚的動機づけ」の概念 によって基づけ られていると指摘 しているよ9フ ッサールはそ こで「知覚 されていない事物 も現 に存在 している」と いうことの意味 をこう説明 している。「現実的に現出 している背景野 を随伴 した顕在的知覚 か ら出発 して,連
続的に調和的 に動機づけられた,可
能的知覚系列が進行 してゆ く。 その さいその知覚系列 にもたえず新 しい事物領野が (注意 されない背景 として)随
伴するのであるが,そ
の知覚系列の進 行 は遂 にまさにその注意 されていない事物が現出 し,把
握 され うるような知覚連関 に達 す るまでに 進んで行 く。」9ラ ングはここで言われている「連続的に調和的に動機づけられた可能的知覚系列が進 行 し,そ
して最後には知覚されていない,す
なわち注意 されていない事物が現出 し,把
握 されうる ような知覚連関に達する」 という事態に注目し,こ
の「動機づけられた知覚系列の進行」がまさに 運動感覚的に動機づけられた進行であること,
したがってここに記述されている知覚過程の進行様 式そのものが必然的にそのような知覚系列を顕在的に経過 させ,知覚されていない事物 を現出させ, それを生身のままにそれ自身 として把握することができるという,運
動感覚的主観の潜在的能為 を 志向的に指示 しているとみるのであるよωしたがってこの連関で考えるならば,ノエマ としての実在 的存在の現存 というのは,それがどんなに超越的なものであれ,現象学的には「可能的現前(mogliChe「事象その ものJへの問 い