369
分配の公正について
越 後 和 典
1
この小稿は,経済的効率性とともに,その実現が経済政策の二大目標の一つ であると考えられている分配の公正(equity of distribution)の理念につい て,若干の批判的考察を試みようとするものである。
分配の公正は,一般に公平な分配,分配的正義,あるいは社会正義などの同 義語ないし類似語として,使用されているように思おれるが,その意味内容は 頗る不明瞭である。これらの用語によって,論者が実際に主張しようとするも のは,しぼしぼ矛盾しており,正反対の内容を含むことすら稀ではないように
思う。
結論を先取りして述べると,私には,分配の公正への人びとの要求が,その 人の市場経済への不満ないし不信感の強さの反映であるように思われ,さらに 後者は,市場経済に対するその人の無理解ないし誤解と深く関係しているよう に思われるのである。それゆえ,ハイエク(Friedrich A. Hayek)の墾みに 1)
ならうならば,分配の公正とは,一つの幻想(mirage)にすぎないともいえよ
う。
いうまでもなく経済学は,経済政策の掲げる目標の倫理学的根拠を考究する ことを任務とするものではない。しかし政策目標として掲げられる命題は,一 つの倫理的価値を表現するものであり,後者は少くとも経済理論の教義と両立 可能なものでなければならない。すなわちそれは,経済理論の立場からも有意
1)・・イエクはその著しaw, Legislation and Libertyの第2巻を, The Mirage oゾ Social Justiceと題している。
2)
味かつ=有効でなければならない。この視点にたてば,分配の公正という理念の 有効性は,きわめて疑わしい。もっとも,このことは,人びとの間の財産と所 得分布の現状が,何等修正を必要としないものであるとか,現状を自由放任す べきものである,といったことを意味するものではない。
以下では,分配の公正をめぐるありうべき解釈の若干を示し,上記のような 結論に到達するにいたった所以を,新オーストリア学派の人たちの見解に依拠 しつつ明らかにするとともに,所得分配問題に関するこの学派の対応について も,簡潔に論及する予定である。
II
分配の公正についての,最も素朴かつ明快な解釈は,平等な所得分配こそが 公正であると主張する平等主義者(egalitarian)のそれであろう。彼等の解釈 では,公正(equity)とは平等(equality)を,不公正とは不平等を意味する。
この立場から彼等は,平等こそが再分配政策の理想ないし目標であらねばなら ない,と主張する。
この平等主義者の主張の反駁しがたい性質は,それが普遍的な人道主義的感 情に訴えることによって,人びとにある程度の共感を喚起する点に起因するよ 3)
うに思う。すなわち,人間はすべてこれ同胞・兄弟である。しかるに,現実に は日々のパソにすら窮し,飢餓に苦しむ者と,何等労することなく徒食し,高 価な浪費にふける者とが共存している。このような状態は道徳的に許されてよ いものであろうか。乏しきを憂えず等しからざるを憂えるとは,古来政治の要 諦ではないか。人びとの間の所得は,本来平等であることを理想とするもので あり,国家はこの理想の実現に向って,富める者から徴税して貧しい者へこれ を分配し,進んで,貧しい者たちの経済的自立を促進する有効な施策をも講じ るべきである,等の主張がこれである。いうまでもなく,20世紀における福祉 2)政策目標はこれを所与として取扱い,その経済学的吟味はこれを必要としないとい
う立場を,われわれはとらない。
3) Cf., A H. Shand, The CaPitalist Alternative, Wheatsheaf Book Ltd., 1984,
pp. 210−211.
分配の公正について 371 国家への駆動力をなし,開発途上国援助を先進国の道徳的な義務であるとする 通念を生んだのは,この哲学である。
このような思潮の中で,もし平等主義を不用意に批判し,不平等を支持する 人がいるならば,その人は人道主義に反する冷血漢として,非難にさらされる おそれがある。しかし,ひるがえって考えると,完全な平等が望ましくかつ実 現可能であるとする経済理論的根拠は,必ずしも明確ではない。
もっとも,古くから次のような説がある。①所得の限界効用は逓減するから,
富める者の貨幣の限界効用は貧しい者のそれよりも小さい。それゆえ政府が貨 幣を富める者から貧しい者へ再分配することによって,社会全体の貨幣所得の 効用は増大する。②また,富める者はその所得の殆んどを貯蓄するのに対し,
貧しい者はそれを殆んど消費する。消費性向は富める者ほど小であるから,再 分配政策は社会全体の消費性向を高め,資源の雇用を増大させ,経済成長を促 進する効果がある,等々。
もちろん,こうした説には理論的に難点がある。たとえば,限界効用の測定 可能性,それを個人間で比較することの問題,あるいは社会全体としての総効 4)
用という概念の有効性などは,古くから批判されてきた通りである。しかも,
かりに社会の総効用なるものが有効な概念であり,これが再分配政策により増 大したり,再分配政策が経済成長に促進効果をもつことを,ある程度推論しう ると假尽しても,その望ましい再分配政策の目標が,文字通りの平等の実現を 意味するとはいえないであろう。極端な:貧富の差ないし所得格差を多少とも縮 小することは,経済理論の側からも異議がないとしても,このことは,完全な 平等が理想であることを必ずしも含意しないように思う。
むしろ経済理論の常識は,極端な平等主義が成立しがたいことを教えている。
たとえばかりに,最大多数の最大幸福というベソサム(」.Bentham)的功利 4)これらの問題の最も徹底した批判的考察としては,以下の論文を参照されたい。
M.N. Rothbard, Towards a ReconstructionげUtility and VVelfare Economics,
The Center for Libertarian Studies Occasional Papers Series No,3,1977.な お,本書はM.Sennholz(ed.), On Freedom and Free Enterprise,1956,所収 論文を独立の冊子としたものである。
主義の立場から,社会全体にとっての最大幸福という概念を有効なものとして 是認するとしても,分配上の完全平等が正当化されうるのは,各人の効用享受 能力が等しい場合にかぎられる。もしそれが等しくなけれぽ,不平等な分配こ 5)
そが,社会全体にとっての最大幸福(効用)を可能にすることになる。
また富や所得の分配の平等が,かりに実現可能であるとしても,その場合,
経済資源の雇用や経済成長が果して促進されるかといえば,答えは否定的であ ろう。由ないし所得の平等が,いかなる場合でも保証されるのであれば,多く の人びとは労働よりもレジャーを選択するかもしれない。少くとも,労働への インセンチィヴは減退するであろう。また,市場的調整や経済発展に不可欠の 役割を果す個人の企業家的機敏性は,衰退せざるをえないであろう。こうした 結果,事態は経済成長促進どころか,その正反対の方向に進展することになろ う。かくて,平等主義者の公正の主張が,経済効率性の確保と矛盾することは 明白である。
さらにここには,より根本的な問題もある。それは,最大多数の最大幸福と いう功利主義の哲学に内在する少数者切捨ての思想である。ロスバード(Mur・
ray N. Rothbard)は,この点に関塗して,最大多数の最大幸福とか,社会 全体としての効用の極大化といった命題が,不可心的に少数者の権利を無視な 6)
いし軽視する差別の論理にほかならないと論じる。
新オーストリア学派の論客たち,とりわけ ハイエクも,分配の平等を実現し ようとすれば,個人を差別的に取扱うことが必至となり,それは強制による個 7)
人的自由の侵害を伴わざるをえないことを強調する。彼等の哲学では,自由こ そが最大至高の価値であり,平等はヒューマニズムの哲学というよりも,むし ろ羨望ないし嫉妬の情念の産物と考えられているように思える。なお彼等は,
5)この点についての証明は,厚生経済学の教科書に詳しい。たとえば,ハインツ・ケ ェラー著,保坂直達・矢野恵二訳『厚生と計画』トッパン,1969年,22−36ページ参照。
6) Cf., Rothbard, The Ethics of Liberty, Humanities Press, 1982, pp. 201−202.
7)ハイエクはこのことを彼の多くの著書で繰りかえし強調しているが,さしあたり,
『・・イニク全集5;気賀健三・古賀勝次郎訳,自由の条件』(春秋社1986年11月)第 6章を参照されたい。
分配の公正について 373 自由の下においてこそ,効率と進歩が最大限に実現すると信じているのである 8)
が,この点の考察は別稿にゆずりたい。
III
平等主義に対する批判論の中でも,その論鋒の鋭さと説得性の点で,ひとき わ精彩を放っているのは,ハイエクの進歩と不平等についての論説であり,そ れはここでやや詳しく紹介するに値するものと思う。彼は進歩と平等は両立し 9)
ないとして,概ね次のような内容の議論を展開している。
文明や世界平和は,高速度で継続する進歩に依存するのであるが,われわれ が期待するようになった急速な進歩は,実は主として不平等の結果であり,不 平等なしには実現しえないものである。なぜならば,進歩は社会の全員が同時 に前進するという形で実現するものではなく,一部が他の部分よりも遙に先ん
じるような梯形的形態(echelon fashion)で展開するからである。
知識は外部効果を生じるものであり,先に進んだ者の成果が後続者の前進を 容易にするから,進歩しつつある社会では,今日の一部の者の新知識は明日の 世間の常識であり,今日における一部の富める老の贅沢品は,明日の大衆の必 需品である。換言すれば,富める者の支出は,結果的には後に貧しい者に利用 されるようになる新しいものへの実験費用の支出という意味をもつことになる。
自動車の保有も飛行機旅行のサービスも,最初は高価で,ごく少数の富める 者を楽しませたにすぎなかったが,そのことによって,やがて大規模に安く生 産でき,低所得の者にも購入可能となった。もしも,よりよいものが全員に提 供されるようになるまで,全員が待たねぽならないならば,多くの場合,その 日は決してやってこないだろう。今日の貧しい者でさえ,実はその相対的幸福 を,遇去の不平等の結果に負っているのである。
ハイエクは以上のように論じ,先んじる人たちの集団の存在は,後続の人た 8)拙稿「新オーストリア学派の市場経済擁護論」彦根論叢第234,5合併号(1985年11
月)所収,を参照されたい。
9)前注7)の『ハイエク全集5』第3章参照。以下の本節は,この個所の要点を整理し たものである。
ちにとっても有利であること,西欧を豊かにした知識の外部効果によって,後 続の貧しい国々は利益を受けていること,それゆえ先頭に立つ者の進歩を妨害 するような平等化政策は,全体の進歩を阻害し,貧困を持続させるという負の 効果をもつこと,等を指摘した。
ハイエク説を解釈すれば,不平等は進歩の必然的随伴物であり,計画経済で も市場経済でも,この点に関しては同一である。事実,ハイエクは,計画経済 では,不平等が計画にもとつくと解説している。すなわち,計画経済では,先 んじる階層の選択が権威者によってなされるのに対し,自由社会では,その選 択が市場の没人格的な過程と,出生や運の偶然性によってなされることになる,
というのである。
IV
平等主義の論理的破綻に直面し,なお平等主義のもつ魅力にひかれる多くの 論意は,完全な平等主義でも,無条件の不平等擁護でもない,第三の道ないし 両極端の中間領域に,自己の安住の地を求めようとする。その典型的な方法は,
平等を分類し,その中から,ある種の望ましく,かつ実現性があると思われる 平等理念を抽出し,これを不可避的な不平等と組合わせ,その組合わせをもっ て公正と主張することである。視点をかえていえば,この方法は,不平等がど のようなケースないし条件の下でならば,公正の理念から是認されるかを明ら かにしょうとするものである,といってよい。熊谷尚夫教授の分配の公正をめ ぐる議論や,ロールズ(John Rowls)のいわゆる格差原理(the d近erence principle)ないしマキシミソ原則(the maximin principle)の思想は,こ 10)
れを例示するものといえよう。
これらの議論を取上げる前に,平等を結果の平等,機会の平等および入格的 平等に分類するフリードマン(Milton Friedman)の説について論及しておく
10)熊谷尚夫『厚生経済学』創文社,1978年3,月,第14章;同教授編『経済政策の目 標』日:本経済新聞社,1972年4月,第1章;ジョン・ロールズ「分配の公正」青木昌 彦編著rラディカルエコノミックス』中央公論社,1973年9月,所収の各論文を参照。
分配の公正について 375 11)
ことが便利である。
フリードマンによれば,人格的平等は,神の前における平等や,法の前にお ける平等として知られているものであって,この思想によれぽ,すべての人は それ自体として究極的な目的であり,誰かの手段であってはならない。だから 人は,個人として尊重されなければならず,その尊厳をなんびとによっても侵 されてはならない,ということになる。
他方,機会の平等とは,すべての人はその目的の追求に当り,その人自身の 能力を使用するのに,恣意的な障害によって妨げられてはならない,という思 想である。
フリードマンのいうには,この人格的平等と機会平等は,自由の理念と両立 するのみでなく,これらの平等を達成しようとする政策は,人びとの自由をも 促進する効果をもつ。これに対し,結果の平等は,すべての人の生活や所得の 水準は同一でなけれぽならないとか,経済活動の結果,人びとの得るところの 物質的なものは,同一水準に帰着すべきである,という主張であって,市場経 済やその駆動力となる競争と相容れず,自由の理念とも対立すると説く。
さきに平等主義として批判した平等理念は,ここでフリードマンのいう結果 の平等の思想を意味する,といい替えてもよい。この意味での平等の追求が,
自由の脅威となり,経済の非効率性と政府の巨大化をもたらしたことは,彼の 指摘する通りであろう。
そこで分配の公正を議論する場合には,是認されるべき平等理念から,結果 の平等を排除し,人格的平等と機会の平等(均等)だけを平等概念として承認 する立場が生まれる。なお人格的平等という概念は,ロールズのようにこれを 基本的自由と呼び替えたり,熊谷理論のように,これにミニマムの保障という ような経済的意味づけを与える場合もある。後者の場合,人格的平等の理念は,
おそらく,人間的尊厳を保持するに足る物質的ミニマムが,すべての馬入に保 障されるという形で,具体化されうると考えられているのではなかろうか。
11)M.&R.フリードマン著,西山千明訳r選択の自由』日本経済新聞社,1980年5月,
第5章を参照。
熊谷教授は現代社会における公正の観念の中には,分配の結果だけではなく,
分配のルールについての評価が含まれており,後者に関するかぎり,社会通念 上,かなりの程度合意が成立しうる余地がある,とされる。そして,そのよう な合意成立の可能性のある分配の公正についての基準として,以下の三条件を 12)
列挙されている。第1に,生存権の保障がなされること。第2に,機会の均等 が実現されること。第3に,以上の二条件,とりわけ,第2の条件がみたされ るかぎりにおいて,生産的貢献に応じた報酬が支払われること,がこれである。
なお第3の条件については,後に論及する。
さて,結果の平等を希求されるべき平等理念から排除するとしても,前述の 第三の道を求める者は,不平等それ自体が礼賛されるべき価値であると主張し ているわけではない。不平等は,それが経済的効率性への誘因となったり,経 済進歩が随伴する不可避的形態であったりするために,否認しがたいというの である。だから,不平等が積極的に肯定されるには,特別の条件が必要となる。
それはその不平等が平等化への条件である場合,換言すれば,その不平等によ って最もめぐまれない者の立場が最大に改善されるかぎりにおいてであるとい う。これはロールズ流のマキシミソの原則にほかならない。
13)
ロールズの公正の理論は,かなり周知されているので詳論を避けるが,要す るにそれは,嫉妬など他者への関心によって動揺しない合理的個人と,無知の ヴェールに包まれた原初状態の個人という方法論的仮構の下で,分配について の合意を保証するための一組の諸原則を明らかにしょうとするものである。具 体的には,それは次の二つの原則に要約することができるであろう。 「第1に,
各人は基礎的な自由に対する平等な権利をもち,この自由は,他人の同様な自 由と両立するかぎり,最も広範なものでなければならない。第2に,社会的な らびに経済的不平等は,それが④各人の利益になると合理的に予想でき,かっ
⑤すべてのひとに開かれた地位や職務にともなうように取り決められていなけ
12)熊谷編著,前掲書(1972年4月)16−18ページ参照。
13)ロールズのこの理論は他の論文でも述べられているが,
(1973年9月間を参照されたい。
さしあたり,前掲邦訳論文
分配の公正について 377 ればならない。」
上記の第1原則は平等の自由,第2原則の⑤は機会平等(均等)である。③ は範囲が広いために,さらに特定化され, 「最も運の悪い人の人生展望が最大 化される場合」とか,「最も貧しい状態にある人の代表的個人の利益になる場 14)
合」というように限定される。これが格差原理と呼ばれるものである。ロール ズは,この原理を含む彼のいう公正性の要求が,効率性と両立する性質の議論 であることを強調している。
v
前節でみたロールズや熊谷教授の見解は,分配の公正という理念を肯定的に 理解し,しかも,何等かのより具体的な形でこれを表現しようとする場合に,
われわれが終局的に落着くべき良識がどのようなものであるかを示していると もいえよう。われわれもこのような公正の理念を論駁することが容易でないこ とを知っている。しかし,これらの公正の理念の提示する条件ないし原則は,
よく考えてみると,依然として曖昧であり,問題を解決しているというよりも,
別の形で問題を新たに提起しているものと評することができるのではあるまい
か。
第1に,ミニマムの保障を個人の権利として認める熊谷教授の場合,ミニマ ムの範囲は必ずしも明確でない。人の生存に最低限必要なカロリーを定量的に 示すことは可能であろうが,同教授も適切に指摘されるように,「人はカロリ 15)
一のみによって生きるものではない」から,ミニマムのカロリー換算,さらに それの貨幣換算によって,ミニマムの貨幣額を示すことは妥当とはいえない。
ミニマムの解釈いかんでは,その貨幣額での表示は,文化的欲求をみたすかな り高度な水準のものとなり,事実上,平等な所得への要求を,権利としてのミ ニマムの実現の名において主張することになりかねない。
第2に,マキシミソの原則もその政策論的な有効性に疑問がある。なぜなら 14)以上のロールズ説の要約は熊谷前掲書(1978年3月)を参照した。
15)熊谷前掲書(1978年3月)331ページによる。
378 小倉榮一郎教授退官記念論文集(第255・256号)
ば,不平等を伴ういかなる方策が,最もめぐまれない者の地位改善に最も有利 であるかを判定するに必要な知識を,われわれはもっていないからである。ハ イエクがいうように,進歩という視点からは,先んじる集団の存在は後れた集 団にとっても有利である,という議論が成立するが,その不平等の程度と進歩 率を,定量的に関係づけるような作業が有意味なものとは思われない。進歩率 を規定する要因は多数で特定化困難であり,しかも,それぞれの要因が複雑に 結びついていると考えられるからである。
16)
政策論的有効性という点では,熊谷教授の生産的貢献に応じた報酬という条 件に対しても同様なことがいえる。純粋の資本主義的市場経済のモデルでは,
市場で価格が形成されるということは,自動的にそれぞれの要素の所有者の所 得が決定されることを意味する。そしてこのような所得が,限界生産性説に依 拠すれぽ,生産的貢献に応じる所得と理解される。もしこの理解に誤りがなけ れば,市場経済は本来,生産的貢献に応じる報酬を保障するシステムであるか ら.この条件は前述のロールズのマキシミンと同様に,不平等を道徳的にイク スキューズするものであって,積極的に分配の修正を求めるものではない。
第3に,より根本的な問題は,ロールズや熊谷教授をはじめ,おそらく大多 数の論者が強調される機会平等(均等)の理念である。この理念が人びとの選 択の自由を阻害している制度的要因の排除努力を意味するかぎり,これに反対 する者は皆無であろうし,その目標もかなりの程度に達成可能であろう。しか し,いわゆる差別的制度の廃止は,機会平等の要求のごく一部分にすぎない。
この理念の適用されるべき範囲は,はるかに広大である。したがって,ここに この理念の実現可能性についての疑間が発生する。
この問題を,もっとも鋭くつきつけているのは,筆者の知るかぎりロスバー
17)
ドである。彼は,人間が住んでいる揚所が,人によってすべて異っているかぎ 16)ハイエク的理解では,生産要素への「報酬」という概念はミスリーディングである。
けだし,要素所得は,過去のサービスに対する報酬というよりも,将来において最も 有利に利用されるような方向へその要素を誘導するシグナルの如きものと考えられる
から。Cf., Shand, op. cit., p.218.
17) Cf., M N. Rothbard, Power and Marhet, Sheed Andrews and McMeel, lnc.,
分配の公正について 379 り,機会平等とは所詮実現不可能な概念である,という。たとえば,ニューヨ ークに住む人と,インドに住む人とが,マンハッタン島を周航する機会,ある いは,ガンジス川で水浴する機会を,われわれはどうして平等化しうるのか,
と問う。
人生はゲームであり,ゲームがフェア(公正)であるためには,ゲーム参加 者は同じ出発点から出発することが必要であり,これが機会の平等の意味であ る,と論じる者がいるが,ロスバードによれぽ,この議論は基本的に誤謬であ る。第1に,人生はレースやゲームなどではなく,それぞれの人ができるだけ 18)
幸福であろうとする試み(努力)である。第2に,人はその人生を,他人と同 じ出発点からはじめることができない。世界はその人と同時に生まれたもので はないからである。人間の住む世界は多様であり,その細部においては,無限 の多様性・差異性がある。ある個人が,他の個人と異る場所に生まれたという そのたんなる事実が,必然的にその個人の生得の機会が他人のそれと同一であ りえないことを証明するものである。このことを無視して,平等化政策を推進 すれぽ,家族は崩壊するであろうが,かりにそのような代償を支払ったとして
も,平等の実現は不可能である。
ロスバードは以上のように論じ,そもそも平等が価値ある自明の理想である かのように考えられていること自体に問題がある,という。すなわち,すべて の個人は=ニークであること,人間は多種多様であり,個体化されており,そ の個体自体が価値を有すること,このことこそが人間の特徴である。このこと によって人は,たとえば画一的な蟻の群と異るのである。画一的平等ほど人間 の本性にもとるものはない,と論じる。
ロスバードによれぽ,平等主義は無意味な社会哲学であり,その唯一の有意 味な定式化を考えるとすれぽ,それは自由の平等という目標であるという。人 は自由において平等であらねばならない,という命題がこれである。そしてこ
1970, pp. 212−216.
18)人生を管理者の判定の下で勝敗を争うゲームのごときものとして理解することを批.
判しているのは,ロスバードだけではない。ミーゼスやハイエクもまた憤りである。
れはロールズのいう公正の第1原則にほぼ該当するものであるように見える。
しかし,Ptスバードはこの命題も実は適切ではない,という。彼のいうには,
平等という語は,固定の外延的単位をもった測定可能なものを含意している。
たとえば,等しい長さは,これを客観的に計測して確認することが可能なはず である。しかし人間行為の研究では,そのような量的な単位は存在せず,量的 に表現される平等はありえない。もし,人間はXにおいて平等であるべきだ,
ということを主張するのであれば,たんに人はXであるべきだ,あるいはXを 侵害されてはならない,と表現すべきである。すべての人間は自由であらねぽ ならず,自由を侵害されるべきではないという表現は正確であるが,自由にお いて平等でなければならないという表現は,失当である,というのである。
VI
分配の公正は,これをどのように肯定的に理解しようとしても,暖昧さを拭 い切れない概念であり,しかもこれを明確にしょうとする努力が殆んど成功し そうにないことは,上述した通りである。ハイエクは,社会正義の概念が,裸 の王様のごとく空虚で無内容であるにもかかわらず,そのことを指摘すること 19)
が琿かられる用語であり,それは一種の擬i似宗教的信念を具現している,と述 べているが,正にその通りである。ハイエクのいう社会正義は,ここでいう分 配の公正と同義語と解してよい。
ハイエクが社会正義を空虚で無内容と論断する根拠は,これを彼の市場経済 20)
観に求めることができる。それは以下の文脈においてである。
分配の公正の主張は,多くの場合,自由市場経済におけるその主張者の報酬 ないし財の取分が過少に失することに対する不満に発する。彼はその増額修正 を分配の公正という大義名分によって要求することになるのであるが,この場 合彼は,暗黙裡に,分配されるべき,たとえぽ国民的ケーキとでもいうべきも 19) 『ハイエク全集9;篠塚慎吾訳,法と立法と自由狂,社会正義の幻想』春秋社,
1987年10月,3−4ページ。
20)同上『・・イエク全集9』第9章;L.Mises, Human Action, Contemporary BQoks, Inc.,1949, Chap. XXXV,を参照。
分配の公正について 381 のがあり,そのケーキを切ることを任務とする社会と称する人が存在している 21)ことを前提しているように思う。この前提は,指令経済の場合には格別不都合 ではない。指令経済では,その組織の目的に照して,あらかじめ設定されてい
るケーキの切り方,すなわち,総生産物の分配基準があり,中央当局がその基 準に従って分配する。これに不満のある者が,当局に対してその分配基準の不 備の是正を訴えることは,意味がある。
しかし,市場経済は一定の目的の下に意識的に設計された指令経済のような 組織(organization)ではなく,自生的に形成された秩序(spontaneous order)
である。これは,すべての個人が彼自身の目的のために,彼の知識を使用する ことが自由な制度である,といってよい。ここでは,いかなる人も相対的所得 を決定することはできない。人びとの報酬の差異は,特定人による意識的決定 の結果ではないから,正義とか公正の問題として,これを有意味に論じること ができない。市場の没人格的過程による価格形成(所得決定)は,それがいか なる単一の個人または集団によっても,その全体性においては把握されえない 多数の事情に依存しているのであるから,ここでは社会正義とか公正といった 言葉は空虚であり,無内容とならざるをえない。ハイエクの説くところは,お およそ以上のごときものであろう。
ハイエクの説はこれを要するに,自由市場経済の下で,ある人の受取る報酬 の大きさは,メリット(merit),すなわちその人の努力,苦痛等の主観的貢献 22)
度によってきまるものではなく,価値によってきまる,ということである。価 値とは,市場における無数の他人の判断結果をいうのである。このことは一見,
不合理に思える。たとえぽ,さしたる努力なくしてなされた幸運な発明が,た またま大きい価値を有し,その発明者が巨額の収入をうるのに対し,長い歳月 をかけ財産を傾けて開発した製品が,市場で全く評価されず,その人が倒産す るというような例は,稀でない。このようにメリットと価値は常に一致するも
21)同上『・・イエク全集9』100ページ参照。
22)メリット対価値についてのハイエクの見解は,いくつかの個所でみられるが,たと えば前出『・・イエク全集9』130−131ページにも詳しい。
のではなく,そのギャップが大きいほど,人は分配の公正の名において,自己 の報酬の増額を要求しようとするだろう。この心情は容易に理解できる。
しかし,それではメリットによって分配すれぽ不満は生じないのか,といえ ばそうではない。第1に,そのメリットは必ずしも客観的にこれを測定できる ものではない。たとえぽ,偶然の幸運によって巨額の収入をあげえたと思われ ている個人は,人びとの見逃していた利得の機会に対して,企業家的機敏性を 発揮したからであろうが,その機敏性の発揮のために,その人は平素人知れず かくれた努力を払ってきたかもしれない。ただその努力の大きさを測定できな いから,他人には幸運とみえるだけである,というケースもあろう。 「天才は.
99パーセントまで努力の賜である」という,鈍才を激励するに好都合な俗説が あるが,果してそうであろうか。あるスポーツ競技での優勝が,何パーセント までその人の生得的体質によるものであり,何パーセントまで,メリット,す 23)
なわち訓練努力の賜として正確に識別できるものであろうか。おそらくその判 定は,なん人といえども,正確にはこれをなしえないものと思われる。
第2に,より重要なことは,そのメリットを誰が判定するのか,という問題 である。いうまでもなく,各個人の自己申告を中央管理当局がそのまま認めて.
申告通りに分配することは不可能である。それは過大申告者を利すことになる ぽかりではなく,個人の所得要:求額の前年度に対する増加分の合計額が,その 国の経済成長率相当額を上回わることを予想させるからである。おそらく,イ ンフレーションの発生が不可避的となり,経済は破綻するであろう。だから,
中央管理当局が独自の判断で個人の分配を決定する以外に方法はないが,この 場合,メリットを客観的に測定することは上述の通り不可能であるから,この 方法は結局,分配が中央管理当局の恣意にゆだねられることを意味する。
中央管理当局を構成する官僚の判断によって,人びとの所得が決定されると いう専制的官僚国家による支配が,個人の自由の侵害との関係で含意すること の重大性を考えるとき,上記のような分配方式の方が,市場における没人格的 な価値による所得決定方式にまさるとは,とうてい考えられない。市場の没人
23)この事例については,前出Shand(1984)を参照した。
分配の公正について 383 格的過程に所得の決定をゆだねる方式が,各人のメリットに酬いることを保証
しないという点で,市場方式を批判することは容易であるが,その代替方式は,
布場方式よりも遙に深刻な問題を惹起せずにはおかないであろう。
VII
所得がメリットによってではなく,価値によって決定される制度を受容する ことが,自由にとって必要なことは,上述したところがら推察できよう。そし て,このような認識にもとづき平等理念を批判する点に,新オーストリア学派 の基本的特徴がある,といってよい。ところで,この立場は,当然,現状の財 産の所有構造に,制度的・政策的変更を加えるべきではない,とする主張を含 24)
弔しているのであるが,この点に関し,誤解を避けるため,若干の補足的説明 を加えておく必要があるように思う。
第1に,この含意は現在の個人の財産が正義にかなった行為によって取得さ れていることを前提している,ということである。新オーストリア学派に近い 25)
見解をもっているとみなされるノージッタ(Robert Nozick)は,個人の財産 が正当に(justly)獲得されるか,あるいはそれを保有する権利のある者から,
正当に移転されたものであるかぎり,その個人にはそれを保有する権利がある,
と述べているが,問題はそれが正義にもとる行為や制度によって獲得された場 合である。ハイエクのいうには,以前に正義にもとる行為によって決定された 立場を修正することは,正義である。しかし,これには制約がある。ハイエク は,そのような不正義が明白で最近のものでないとすれば,一般にはそれを矯 26)
正するのは,実行不可能であろう,といっている。このような留保は,その財
24)富める者から徴税し,貧しい者へ分配するという平等化政策は,シャンドの表現を 借りるならば,それがロビン・フッドよりも道徳的に優越した行為である,と主張す る根拠は見出せない,というのが,新オーーストリア学派の立場であろう。Cf.,Shand,
oP. cit., p. 211.
25) CL, Robert Nozick, Anarclzy, State, and UtoPia, Basic Books, lnc., 1974,
Chap. 7 and 8.
26)前出『ハイエク全集9』182ページ参照。
産が取得された時点では,それが正義にかなったものとみなされていたとして も,現在の価値理念では,不正義と判断されるようなケースにも,適用される のであろうか。ここには,法の支配,さらには法概念との関連で究明されるべ き問題が残されているが,その考察は他日を期したい。
第2に,所得がメリットによってではなく,価値によって決定される市場方 式を支持することは,政府の平等化政策や,社会保障政策を干渉主義(inter−
ventionism)として排撃する立場に等しいが,この立場にたつことは,めぐ まれない老を放置すべしと主張することと同一ではない。この点に関し,新オ ーストリア学派の論客たちは,ニュアンスはあるものの,若干の主張をしてい
るQ
27)
ミーゼス(Ludwig von Mises)についていえぽ,彼が最:も貧しい者を救済 する最善の方法について具体的に説明しているようにはみえない。しかし災害
・疾病・老齢・児童教育・寡婦及び孤児等の援助に関し,彼は慈善と私的保険.
の組合わせをよし,としているように思う。もちろん,慈善行為によって提供 される資金は,問題解決にとって十分でないとする批判があるが,ミーゼスに よれぽ,資本主義が富を増大させる過程で,貧困に伴う問題は大いに減少しつ つあるのであって,政府干渉はむしろこの過程を妨害するだけである。
また,慈善はその提供者を独善的に,その受取人を受動的で卑屈にする,と いう批判に対し,彼はこれを一応認めつつも,内面の声に従い慈善行為に向う 個人の自発的行為よりも,官僚の自由裁量の方が,病人や老人の立場を確実に 28)
有利にするとはいえない,という反論をも提起している。
同じオーストリア学派に属するロスバードが,その無政府主義的立場から,
政府干渉の効果を否定的に見るのは理解できるとしても,一見妥協的と思われ 29)
るのはハイエクの次の主張である。ハイエクは政府がすべての国民にミニマム
27) Cf., Mises, oP. cit., pp. 837−8.
28) lbid., p. 840.
29)前出『ハイエク全集9』124ページ参照。
なおハイエクは周知の名著『隷従への道』 (一谷藤一郎訳,1954年5月,東京創元 社)第9章:「保障と自由」においても,有限の保障(ミニマムの保障)と絶対的保障
分配の公正について 385 所得,すなわち,いかなる人もそれ以下に落ちてはならない下限を保障すべき でない,という理由は存在しないという。彼はその理由として,極端な不運に 対するそうした保険に加入することは,当然全員の利益になること,また,自 助不可能な人びとを,組織化されたコミ=ニティ(organized community)
の範囲内で援助することは,おそらく全員の明確な道徳的義務と感じられだろ うからである,という。彼はこうした一様なミニマム保障が,市場外から提供 されることは,自由の制限に至らないし,法の支配とも対立することはない,
と説く。ハイエクが憂慮するのは,提供されたサービスに対する報酬が当局に よって決定され,個人の努力方向に指針を与える市場の没人格的メカニズムが 停止されることである。この点に心配がないかぎり,政府援助に問題はない,
というわけである。
ハイエクのこの見解の実質的な政策論的帰結は,既述のロールズや熊谷教授 30)
の分配の公正の議論のそれと酷似している。ハイエクが,組織化されたコミュ ニティの範囲内で援助することをそのコミュニティの成員の道徳的義務である と考えるとき,国家による若干の強制の存在が前提されなけれぽならないが,
それは彼の自由擁護の基本的立場と矛盾するおそれはないだろうか。この点に ついて,ハイエクの議論は首尾一貫性を欠いているかに見えるが,これをわれ われはどのように理解すべきなのであろうか。この問題に対する解答には,ハ イエクを含む新オーストリア学派の自由論および国家論の領域へ踏込んだ考察 が要求されるが,その仕事は別の機会にゆずりたい。
(特権的な特定所得の保障)の二種類の保障を区別し,自由に対する最大の脅威は後 者であって,前者は当然の要求であり,これが市場体制の外側から与えられるかぎり,
個人的自由の保持との間に原理的矛盾はない,と断言している。
30)前出『・・イエク全集9』5ページで,・・イエクは,自分の立場がロールズの正義論 と実質的に相違するものではなく,相違は言葉の上のものであるように思われる,と 述べている。