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日本統治時代における台湾の郷土教育 とその多文化教育的考察

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日本統治時代における台湾の郷土教育 とその多文化教育的考察

論文概要書

鄭  任智

(2)

目次

序論---4

注釈(序論)---12

第一章  日本内地と台湾本島における郷土教育運動の形成と推進に関する考察---14

  序---14

  第一節  日本内地における郷土教育運動の展開---15

    第一項  明治期から大正期の郷土教育運動     第二項  昭和初期の郷土教育運動   第二節  台湾本島における郷土教育運動の展開---21

    第一項  台湾郷土教育運動を形成する諸背景     第二項  初等教育における郷土教育の推進     第三項  臺中州教育會の教育實際化運動とその背景     第四項  社会教育における郷土教育の展開   結---30

  注釈(第一章)---33

第二章  初等教育の國語教科書における郷土教育的要素の考察---36

序   第一節  台湾における近代化教育の始まり---36

    第一項  國語傳習所の設置とその教授趣旨     第二項  公學校の設置とその教授趣旨     第三項  國民學校の成立とその教授趣旨 第二節  國語教科の出現とその教授要旨---40

  第三節  全5期の國語教科書---41

  第四節  第1期國語教科書『臺灣教科用書國民讀本』の分析---43

  第五節  第2期國語教科書『公學校用國民讀本』の分析---48

  第六節  第3期國語教科書『公學校用國民讀本』の分析---53

  第七節  第4期國語教科書『公學校用國語讀本(第一種)』の分析---60

  第八節  第5期國語教科書『コクゴ』・『こくご』・『初等科國語』の分析---65

結---71

  注釈(第二章)---75

第三章  初等教育の修身科とその他の教科における郷土教育的要素の考察---79

  序   第一節  修身教科書における郷土教育的要素の分析---80     第一項  全教科における修身科の役割

    第二項  修身教科書の内容分析

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    第三項  臺中州の修身科補助教材について

  第二節  歴史教科書における郷土教育的要素の分析---87     第一項  歴史教科書の分期と内容分析

    第二項  臺中州の國史補助教材について

  第三節  地理教科書における郷土教育的要素の分析---92     第一項  地理教科書の分期と内容分析

    第二項  臺中州の地理補助教材について

  第四節  その他の教科における郷土教育的要素の分析---96     第一項  理科の教育實際化と補助教材の分析

    第二項  實科(農業科・工業科・商業科)の教育實際化と補助教材の分析     第三項  圖畫科(手工及圖畫科)の教育實際化と補助教材の分析

    第四項  裁縫及家事科(裁縫科)の教育實際化と補助教材の分析

  結---104   注釈(第三章)---108

第四章  社会教育における郷土教育的要素の考察---112   序

  第一節  台湾における社会教育の濫觴から1920年代の勃興期---114     第一項  日本統治時代初期の社会教育団体

    第二項  日本人移民村による青年団体の引き入れとその発展     第三項  社会教育団体の扶植を受けた青年団体

    第四項  臺灣文化協會の主導する青年団体     第五項  政府による介入・統制

第二節  1930年代以降の官製青年團---120     第一項  1930年代の情勢変化と社会教育団体の変遷

第二項  青年團の組織について

    第三項  対内活動としての補習教育と國語試験     第四項  対外活動としての國語推進と郷土産業の振興

  第三節  理想的郷土の建設を提唱する部落振興會---133     第一項  部落振興會の形成背景について

第二項  部落振興會の根本精神と活動目標     第三項  部落振興會の組織

    第四項  部落振興會の教育内容

  第四節  郷土文化の発展に関わる一般社会教育---141     第一項  通俗教育としての歌謡曲

    第二項  方誌の編纂と史料・史蹟の調査事業     第三項  郷土文物の展示と博覧会の開催

  第五節  第五節  戦時体制下の社会教育体系---147     第一項  1940年代前後の青年團の役割変質

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    第二項  皇民奉公會の成立と部落振興會の改編     第三項  皇民奉公會傘下の青年團とその活動内容

結---152

  注釈(第四章)---156

第五章  映画による教育の郷土教育的要素の考察---162

  序   第一節  「活動寫真」としての草創期から宣撫時期---162

    第一項  台湾における映画の濫觴と教育との結びつき     第二項  映画の媒体機能と映画による教育事業の展開   第二節  同化方針と反植民運動としての映画教育活動---164

    第一項  臺灣總督府各部署による映画制作     第二項  臺灣文化協會と美臺團     第三項  映画検閲制の開始と『日本統治下の臺灣』   第三節  政府側による映画の全面的統制---166

    第一項  映画の輸出入制限と「映畫法」の施行     第二項  映画とメディア全般に対する「積極的行政」     第三項  戦時体制下の映画情勢   第四節  映画と郷土教育との関係分析---169

    第一項  宣撫時期における臺灣教育會の教育映画制作     第二項  「日臺共學」方針下の教育映画     第三項  時局変化と共に変化する映画教育の位置づけ 結---173

  注釈(第五章)---174

第六章  台湾文学運動における郷土教育的要素の考察---177

  序 第一節  「古今対決」構図の新旧文学論戦---177

第二節  様々な面貌を呈した郷土文学論戦---179

第三節  戦争時局下の皇民文学論戦---182

結---184

  注釈(第六章)---186

結論---189

(5)

本論文は日本統治時代における「郷土教育」に対する研究とその多文化教育的考察を行うものである。

本論文で扱う「郷土教育」というのは、学校教育や社会教育など学校の児童生徒や社会の一般大衆を対 象に行う教育体系ではなく、主にこれらの教育を行う際に用いられる一つの教授法であり、一種の教育 的理念でもある。教育というのは近代の国民国家を成立させる重要な制度の一つであり、国民の質や経 済発展、ナショナリズムの構築、道徳教育などに幅広く関わっている。20世紀開幕前後において近代国 家と看做される国々は国民への教育を重視しており、様々な資源を注いで初等教育ないしその上の教育 を推進している。こうした中、郷土教育は最初一つの教授法として 19 世紀末に興り始め、第一次世界 大戦と第二次世界大戦の間に興っていた世界的な教育改革の風潮の中で広まっていった。日本では明治 維新後、日本では「學制」の発布によって近代の初等学校教育制度が発足し、ヨーロッパからJ・H・ペ スタロッチ(Johann Heinrich Pestalozzi)の提唱した直観教育法と実物教育法の影響で 1881(明治 14)年に制定された「小學校教則綱領」において地理科教育と理科教育の初歩として採用されたのがそ の始まりである1。当時の郷土教育というのは、主に日常生活の中から、または身近なところから教材を 見つけ、それを授業に利用するという教授法であり、いわば「郷土の教材化」である。こうした実物教 育や直観教育の理論が初等教育の教授法として導入されてきたのは、明治期の教育界で提唱されたいわ ゆる「脱亜思想」や「実学主義」の影響であると考えられ、例えば福澤諭吉が述べた一節「我輩の多年た ね ん 唱 導

しやうだう

する所は文明ぶんめいの實學じつがくにして支那 の虚文空論きよぶんくうろんに非ず」2が挙げられる。しかし、1900年代の初等教育 関連規則の改正と教科書の国定化などによって郷土教育が教則から外され、初等教育における教育内容 も全国的に画一化されることになった。こうして一時的に下火になった郷土教育運動は民間における郷 土研究だけが進み、後の大正時代に流行していた児童中心教育と融合されるようになり、一大風潮とな ったのである。またその同時にこうした郷土教育運動の高まりは日本の植民地である台湾にも伝わり、

第一次世界大戦後に高唱されている「民族自決」思想や民主主義、自由民権、社会主義、マルクス主義 などの新思潮と共に一緒に台湾社会で現われるようになり、大いに発展していったのである。こうした 運動として、また教育活動としての郷土教育は、その後の1930 年代と 1940 年代においてまた少しず つ変貌していき、終戦まで様々な形で台湾の初等学校教育や社会教育において現われていた。

  1、研究動機

戦後の台湾教育については本論文では論及しないが、本論文を執筆するに当たって重要なモチベーシ ョンとなっている。第二次世界大戦後、中国から来て台湾を軍事的接収することになった國民黨政権は、

台湾を効率的に統治するため、真っ先に推進したのは北京語という「國語」を言語同化の手段とした「國 語運動」政策である3。あたかも終戦する直前まで台湾の統治国であった日本がかつて推進した國語普及 活動を彷彿とさせる(ただし、日本統治時代の「國語」というのは日本語であった)。その後、國民黨 が台湾へ撤退してきた前後に発布された戒厳令により、台湾では強力な思想統制と独裁的・抑圧的統治 体制が布かれ、「中国人に同化させる」という同化政策の一環として言語政策では「國語独尊」が採ら れていた。これにより「國語」と呼ばれる北京語の言語教育、また北京語による教育だけが許され、他 のエスニック・グループの福佬族4の母語(mother tongue)である福佬語、客家族5の母語である客家 語、原住民の各族の母語などは全て方言として扱われ、それらの言語に対しては何ら施策が行われない ばかりか、逆にそれらの言語教育を行うことを禁止した。こうした抑圧的な言語政策を採った目的は、

かつての公用語の一つである日本語及び日本的思想の排除6やより円滑な植民統治の他、國民黨と共に台 湾へやってきた外省人7の社会的地位の優遇を目的としたことなどが考えられる。こうした國語運動政策

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の推進によって 1999年の調査結果では、原住民と客家族の大学生が自分の母語を理解・使用できない 割合はそれぞれ40%、22%を超え、また客家語は毎年5%という速度で失われつつある8と報告されてい る。1980 年代に初等教育と中等教育を受けていた筆者は福佬語話者としてこうした強力な同化要請で ある國語運動による母語の消失、またそれに伴う文化(母語による文化または郷土文化)の消失に憂慮 をしていた。

  しかし、こうした抑圧的な同化政策は1987年の戒厳令解除と共に緩和され、政治的解禁と伴って民 衆は自由に団体や政党を結成できるようになり、社会において様々なエネルギーが至るところから様々 な形で噴出した。教育においては台湾の本土文化振興ブームが起こり、それまでの強制同化が多元化・

多文化化する方向へと向かうようになったため、母語教育政策の客観的環境が形成され、最終的に「郷 土言語」という名の下に母語教育政策の制定・実施にまで漕ぎ着くことになった。具体的な例として、

1994年に正規の教科目として小學校に「郷土教學活動」、中學校に「郷土藝術活動」と「認識台灣」の 3教科が導入されたことが挙げられ、それらを当時の新聞紙上では「母語失傳一甲子、郷土教育再出發

(母語の教育・伝承が 60 年間途絶え、これからは郷土教育として再出発する)」9と報道された。この 報道により母語の教育・伝承としての郷土教育が 60 年間途絶えていた、すなわち國民黨政府が台湾に 来る前には行われていたことが判別でき、言い換えれば郷土教育は日本統治時代には行われていたとい うことである。従って、母語による文化ないし郷土文化の消失に憂慮していた筆者は、こうした台湾で 行われた郷土教育の起源を遡りたく、日本統治時代の郷土教育について研究し始めたのである。

日本統治時代における郷土教育を研究するに当たって筆者にとってもう一つのモチベーションは多 文化教育に対する関心である。それは一本の映画の鑑賞から始められた。1994年公開された『多桑』10 という映画を鑑賞した際に感じた衝撃は、現在でも鮮明に覚えている。10代まで日本時代を生きた主人 公・清科(「セイカ」は福佬語訛りで「セガ」と呼ばれた)は、ある日(時代は80年代前半だと推定さ れる)子どもたちと一緒にスポーツ観戦をしていた際、子どもの「中華隊加油!(中華チーム頑張れ!)」

の声援に「日本に勝てるわけがない。(日本は)オリンピックにも出ているんだぞ」と言い、子どもが

「多桑(父さん)は漢奸走狗11だ!」と言い返されるシーンがある。そこにいたのは、戦前の日本式教 育を受けて日本人としての誇り・アイデンティティを保持する(或いは引きずる)清科と、戦後の國民 黨史観による反日教育を受けた子どもである。また別のシーンでは、子どもが国旗を描きなさいという 学校の宿題でなかなか上手く描けずに悩んでいたところを清科が代わりに国旗を描いた。その結果、こ れは違う国旗だと先生に叱られた子どもが清科に泣きつきながら「多桑が悪かったんだよ。これは国旗 じゃない。国旗の太陽は白いんだよ」とわめいて文句を言ったのに対し、清科は「太陽は赤いもんだ ろ?!白い太陽って見たことあるか!」と言い返したのである。このシーンでは、国旗について無知な

(または無関心な)子どもに学校の先生は中華民國の「青天白日旗」12が「正しい」国旗であると教え たのだが、清科にとっての国旗、つまり国家のシンボルというのは日本の旭日旗であった。こうした場 面は決して珍しくなく、同時代に多くの台湾家庭で実際に起こっていたと考えられる。別の角度から見 ると、それは戦前の日本政権と戦後の国民党政権の社会教育を含む教育全般に対する統制によって生ま れてきた皮肉である。子どもに「漢奸走狗」と呼ばれた後、清科が「二人の台湾人が外省人の子を産ん だものだ」と嘆いた台詞は、清科が代表する戦前の「皇国史観」教育だけでなく、戦後から1980年代 までの「中国史観(Sinocentrism)」教育方針に対する痛切な批判的メッセージであると考えられる。

更に皮肉なのは、『多桑』が公開された1994年は台湾の民主化・自由化が急速に進展していた時期であ り、従来軽視されてきた各エスニック・グループの特有文化の保存やエンパワメント、また多文化社会

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や多文化教育の理論や発展が構築されようとした時期でもある。つまり、台湾はこうした民主的・自由 的・多文化的社会にならなければ、『多桑』のような映画が制作・公開できなかったと考えられるので ある。

  2、研究目的と研究方法

  こうして母語を含めて各エスニック・グループの文化(または郷土文化)の保存やエンパワメント、

文化間差別、多文化共生社会などを研究するに当たって、先に「郷土教育」とは何かを明らかにしなけ ればならないと筆者は考えるため、台湾における郷土教育の原点である日本統治時代に焦点を当て、そ れらに内包されている諸要素の分析・考察を行うことにした。従って、本論文は台湾の日本統治時代に おける郷土教育運動に対する考察を皮切りに、近代教育制度の濫觴としての初等教育の各教科の教科書 の内容、同じく社会教育体制の濫觴としての青年団体や部落振興會が推進していた教育活動、日本統治 時代と共に始められた映画による教育活動、社会教育の一環として見られる台湾文学運動などに内包さ れている郷土教育的要素を抽出して分析し、更にそれらの郷土教育的要素に対して多文化教育的考察を 行うことを目的とする。

研究方法と材料について、本論文は歴史研究という方向性であるため、主に初等教育の教科書や関連 書籍、新聞紙、雑誌などの史料(場合によってDVDもある)を以って分析する手法を採る。なお、章 節によって主に取り扱う研究材料が異なる場合がある。例えば第二章では殆ど初等教育の國語教科書を 用いてその内容に対する分析を行うが、第四章では殆ど社会教育に関する史料(書籍、新聞紙など)を 取り扱う。

  3、先行研究

本論文の先行研究として詹茜如の「日據時期臺灣的郷土教育運動」(國立臺灣師範大學歴史研究所修 士論文、1992 年)、伊藤純郎が著した『増補  郷土教育運動の研究』(思文閣、1998 初版、2008 年増 補版)、林初梅の「台湾における郷土教育思潮とアイデンティティー形成−郷土観・歴史観・言語観の 模索」(一橋大学博士論文、2007年)などが挙げられる。詹茜如は郷土教育が一つの教授法として台湾 に導入されてきた後に、日本統治時代における台湾郷土教育運動と活動を学校と社会という二大領域に 分け、つまり学校郷土教育と社会郷土教育という用語で論を進めた。詹論文における郷土教育の論述は 大方1930年代前後に重点を置いているのに対し、本論文が扱う時代的範囲は日本統治時代全般(1895

(明治28)年〜1945(昭和20)年)である。伊藤純郎の著書である『増補  郷土教育運動の研究』は

戦前の日本で起きた郷土教育運動の全般を詳しく研究・分析したもので、日本における郷土教育運動か ら大きな影響をもたらされた台湾の郷土教育運動を理解する前に読んでおかなければならないもので あるため、本論文の執筆方向に対して多大な助力になっている。林初梅は主に戦後台湾の1970 年代に 起きた「郷土」に関する理論の模索から1990年代以降の郷土教育関連政策の成立と実施について論述 しており、日本統治時代における郷土教育がその前置的な位置づけとなっている。

  4、研究角度1:郷土教育の定義

  考察するための視点について本論文は台湾の日本統治時代における郷土教育の分析とそれの多文化 教育的考察を行うものであるため、郷土教育が帯びている諸側面と多文化教育的考察を行う際に必要な 諸視点を先に定義しておかなければならない。従って、以下は郷土教育に対する定義から始める。

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「郷土」という言葉は、ドイツ語の「Heimat」と同義であり、その研究範囲は英語の「Folklore」、

フランス語の「Ethnologie」と「Ethnographie」、ドイツ語の「Volkerkunde」13と近似している。ま た、「郷土」に対する定義や範囲は学者や論説、法令によって様々である。例えば日本内地で1891(明 治24)年11月に制定された「小學校教則大綱」では「郷土」という用語を法令用語として初めて使用 し、その第6条で地理科の教授について「日本地理ヲ加フルトキハ郷土ノ地形方位等兒童ノ日常目撃セ ル事物ニ就キテ端緒ヲ開キ」と規定している。その文言から「郷土」の範囲とは「兒童ノ日常目撃セル 事物」に及ぶと考えられる。また同規定の第 8 条(理科の教授について)では、「郷土」という用語の 代わりに「學校所在ノ地方」や「通常兒童ノ目撃シ得ル」という表現が使用されていることから「郷土」

の定義として「學校所在ノ地方」の周辺を範囲として捉えられていると考えられる。1921(大正 10)

年に発布された府令第75號「臺灣公學校規則改正」の第14条によると、地理科の教授について「本邦 及本島ト直接ノ關係ヲ有スル地方ノ自然及人文ニ關スル知識ノ一般ヲ得シメ…<中略>…本島ノ地勢、

氣候、區劃、都會、産物、交通等ヨリ始メ漸次本邦ニ及ホシ…<中略>…成ルヘク實地ノ觀察ニ基キ又 地球儀、地圖、標本、寫真等ヲ示シテ確實ナル知識ヲ得シメムコトヲ要ス」14と規定している。当該文 言に「郷土」という言葉の代わりに「本邦及本島ト直接ノ關係ヲ有スル地方」と表現がなされ、その範 囲は「實地」や「地方」という郷土(または地方)から「本島」、つまり台湾、更に「本邦」すなわち 日本までであると考えられる。こうした郷土を近いところから遠いところまで、つまり「内から外」と いう同心円的な考え方は当時の臺中州の豐原公學校教員である張崑山も「兒童の家庭より學校まで延長 せられた生活領域は郷土の中核として、兒童の成長發達と共に漸次擴大して豐原街及其の郊外を包括し、

進んで豐原郡・臺中盆地一圓・竝に近邊に及ぶ=全一態を吾が郷土とする」15と述べている。言い換え れば、「郷土」の範囲は可変的なものであり、直視できる範囲から生活している環境や政治的区画まで

「郷土」と言えるのである。

その他の学者による言説として、千葉命吉の「郷土即ち兒童が日常生活の中で接觸できる自然的社會 的環境」16や岡崎義雄の「郷土観念の範圍を國家にまで擴充すべきこと」17、船越源一の「郷土とは生 まれ育つ故郷」、「郷土とは都會と相對的名詞」、「郷土即ち國土」18、武部欽一の「郷土とは故郷の土地 である」19などが挙げられる。また、臺南州の花園尋常小學校は「郷土」の中核を「兒童は現在自己の 住む土地」20としている。以上の様々な言説や法令上の規定を総括すれば、「郷土」に対する定義は以下 のような3つの解釈ができる。

①個人の出生地或いは育った土地、居住地などといった個人的な直観的範囲に限定されるところである。

②都会と田舎の発展上における差異であり、すなわち農村という意味である。

③同心円的な考え方で解釈すれば、直観的範囲を指す小さな「郷土」を中核として同心円的に拡大した 場合、大きな郷土である「国土」となるため、個人の郷土意識は國民教育を通して国家意識まで拡大で きるのである。つまり、広い意味で言うと「郷土」は「国土」と同義となる。

以上の解釈から、「郷土教育」というのは人々の日常生活や自然環境、具体的な街庄社会から教材と なるものを探し出して直観教育や実物観察・比較などの教授方法を通し、子どもに生まれ育った郷土や 周辺環境、行政的区画などを理解させることであり、一歩進んで郷土を愛する感情の養成も図られるの である。またそれらの範囲を拡大すれば大きな郷土、言い換えれば国家にまで広げられ、すなわち郷土 意識の養成が愛国心の育成につながるのである。従って、「郷土」の定義としては地方、農村、国家と いう3つの面が含まれているため、郷土教育の内容は地方文化教育、農村教育、愛国教育に分けること ができると考えられる。また、「日本統治時代における台湾」という時代的・地域的要素があるため、

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本論文では地方文化教育を地方文化の保全と伝承を意味するものとして取り扱い、農村教育を農村文化 の保存と伝承の他に農作業の進歩や農村経済の改善など農村の振興を含む意味としての教育活動と定 義する。また、愛国教育というのは、日本という国はもちろん、時代によっては天皇に尽忠することす なわち「忠君愛国」としての意味もあるため、愛国教育の「国」というのは日本という「国」と天皇と いう「君」両方の意味を持ち合わせている。

5、研究角度2:多文化教育的視点の定義

次に多文化教育的考察を行う際に、考えなければならない視点である。「多文化教育」という用語は 学者や研究者によって定義が多かれ少なかれ違いがあり、文化的多元主義(cultural pluralism)や文 化相対主義(cultural relativism)、多文化主義(multiculturalism)など出発点も違い、また国家によ ってその変遷や進展も異なっている。すなわち「ずばり多文化教育とは」という一定の標準はないとい うことである。そのため、本論文では多文化主義や文化相対主義などの言説や運動から如何に多文化教 育に形成したかについて論及はせず、多文化教育のみを指す様々な定義から、本論文における多文化教 育の定義をしてみることにする。

  C・I・ベネット(C. I. Bennett)によると、多文化教育は「民主主義的価値観と信念に基づいて構築

された教授的理論であり、その教授的理論を通して多文化社会における各種の文化の主体性を追及する ことは多文化教育の趣旨」21である。

  バンクス(J. A. Banks & C. A. M. Banks)によると、多文化教育は「人々が同じ学習する機会を有 する教育的概念であり、教育改革の過程の一種でもある。学校行政の政策や教授法、カリキュラム、ク ラス経営などマクロ的・ミクロ的状況を包括しており、異なる社会階級、性別、種族、文化的グループ からの出身の児童・生徒が同じく学習することを体験できることである。従って、多文化教育は単なる カリキュラムを改めるだけでなく、学校全体や教育的環境をも含むのである。こうした教育のプロセス が継続すると、多文化教育が理想の目標としている教育機会の均等や社会正義、人類の自由などの実現 につながるの」22である。

  J・リンチ(J. Lynch)は多文化教育について「多元的社会では文化的多様性の機会がないと必然的

に不満や疎外、革命さえ生じる可能性もある。従って、多文化教育の目的は、多文化社会の目的である 社会的結合の維持と文化的多様性の促進を調整することで、またそれに基づいて子どもを教育する機能 を果たすことである」23と述べており、また「多文化教育は、民主主義的文化的多元主義に特有の教育 である」24と主張している。

  溝上智恵子・堀智子は「多文化主義の考え方に基づいて、教育の場で展開される政策やカリキュラム などを総称したものが、多文化教育と呼ばれるもの」25と述べており、その多文化主義の考えについて、

第1次世界大戦後にアメリカ大統領ウィルソンが唱えた民族自決主義からユネスコを中心とした文化相 対主義という考え方の出現、文化相対主義への反省として多文化主義の登場へと続くと主張している。

また、こうした多文化主義に基づいて1970年以降のカナダとオーストラリアでは具体的政策として国 内の各民族の言語的・文化的権利を保障する政策が採用されたことが挙げられる。また、フランスでは

「相違への権利」と訳された多文化主義の考えは、移民やマイノリティが自己の文化や言語を保持する 権利を保障すべきだとする考えである26

  松尾知明によると、「多文化教育は、マイノリティの視点から、多文化社会における公正や平等を実 現していくための教育改革運動であり教育実践である」27と定義され、アメリカにおける黒人の公民権

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運動とサラダボウル論をその前提として提起されている。

  佐藤実芳・小口功はイギリスの多文化教育の形成背景から考察し、「「スワンレポート」と呼ばれるイ ギリス教育科学省教育審議会の最終報告書によってイギリスが文化的に多元的社会であることを認め、

多様な文化をもつことの価値を子どもに理解させることが重要である。人種差別の解消を求めて反人種 差別教育が行われ、これらを総合的に取り組んで学力向上を目的とする多文化教育が実践されるように なった」28と述べている。つまり「多様な文化をもつことの価値」と「人種差別の解消」が多文化教育 の土台となるということである。

  翁幸瑜は「台湾における多文化教育は、「社会正義」・「公平」・「教育機会の均等」などの原則に基づ いて実践していく教育的理念である。その理念は人間の価値を肯定することにあり、自分の属するエス ニック・グループの文化を大事にするのみならず、他のエスニック・グループや世界中の様々な文化を 理解・重視することである。…<中略>…文化という基礎がない教育は、アイデンティティによるエン パワメントが形成されない他、エスニック・グループ間の対立や国家アイデンティティの欠落を招く恐 れがある。そのため、台湾の多文化教育理念はエスニック・グループの核心的文化的価値の構築に対し て教育的省察の角度を提供している」29と述べている。

  朝倉征夫は「多文化教育とは、文化的多元主義に基づく社会、即ち、いかなる、人種、民族集団も固 有の文化を持ち、従って、その人種、民族集団に属する人々の文化、民族性に関する権利を認め、その 存在を許容する社会、そのような社会のあり方を前提にして、教育におけるカリキュラム、組織、活動 等を多文化的視点から修正、あるいは再組織化することによって進められる一つの教育であるというこ とができる」30と定義しており、また「多文化教育を考える上で文化的多元主義(cultural pluralism)

を除くことはできない。この場合の文化的多元主義は当該社会のマイノリティの文化を認め尊重すると ころに基盤を置くのであるから、民主主義に立脚している。従って、民主主義的文化的多元主義

(democratic cultural pluralism)と述べた方がより正確である」31と主張している。この主張は前述 したベネットの定義やリンチの主張と呼応している。

  従って、以上の様々な言説や定義、主張を踏まえて、本論文における多文化教育的視点を以下の3点 に帰納してみた。

①全ての文化は平等である。本論文の時代背景に置き換えると、統治者側の日本文化も、原住民文化を 含む被統治者側の台湾文化も、皆平等でなければならないのである。

②言語を含むマイノリティ文化の保全、またそれを教育カリキュラムに反映し、文化の伝承を図ること である。本論文の時代背景に置き換えると、初等教育教科書またはそれに相当するもの(例えば郷土誌 や文芸誌)において、政治的マイノリティである原住民を含む台湾人の言語・文化は保持されなければ ならず、またそれが教科書の中で反映されなければならないのである。

③言語を含む文化の保全とその伝承という範疇や視野を政治的に拡大すると、一つのエスニック・グル ープないし民族が自らのアイデンティティを保持する権利につながるため、「民族自決(The Right of Nations to Self-Determination)」という局面になるのである。

  従って、本論文は多文化教育的考察を行う際に、上述した「文化の平等(多くの場面では日台文化の 平等を指す)」、「マイノリティ文化の保全かつカリキュラムへの反映(多くの場面ではカリキュラムと は初等教育教科書を指す)」、「民族自決」の3つの局面から考察する。

  6、章節配置とその配置理由

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  本論文の第一章では、日本統治時代の台湾で推進されていた郷土教育の全体像を把握するため、郷土 教育が如何に運動として形成されたか、また日台における郷土教育運動の関連性やそれぞれの方向性に ついて関連法令や書籍などの史料を素材に考察する。第一節では日本内地において、大別すれば①明治 期から大正期(1880年代〜1920年代)と②昭和初期(1930年代〜1940年代)の2回が起きた郷土教 育運動の推移や官民間の郷土教育に対する視点の違いなどについて考察する。第二節では台湾本島にお ける郷土教育運動の形成背景、初等学校教育領域や社会教育領域において郷土教育運動がどのように推 進されたか、また地方政府の一例として臺中州を取り上げて地方政府が郷土教育運動を如何に推進した かなどについて日本内地の郷土教育運動との関連性に注目しつつ、その中身を考察する。

  第二章と第三章は共に初等教育の教科における郷土教育的要素の考察とその多文化教育的考察を行 うが、第二章では臺灣總督府が最も重視し、初等教育においても最も重い比重(授業時間)を占めてい る國語科を中心に分析し、第三章では全教科の教授目的をカバー・リードする教科である修身科と歴史 科や地理科、理科、實科などのその他の教科を順次に分析していく。この二章において関連法令や書籍 の他に、当時発行されていた教科書と補助教材を主な研究材料として考察する。

第二章では國語科を取り上げた主な理由は、前述した初等教育において最も重い比重を占めている教 科である他、近代国民国家として成立した日本の統治によって「國語」ないし標準語という概念が始め て台湾に導入されたことである。日本が台湾を領有するまで、極少数の人には「官話」32を学習する必 要がある他、一般の庶民はそれぞれの属するエスニック・グループ言語や地方言語、つまり各郷土言語 を使っていた。言い換えれば、近代国民国家となった日本の統治によって、台湾に国語という概念がも たらされてきて、それが台湾の人々にとって全く新しい体験となったのである。また、官話を使う目的 はコミュニケーションを取ることにあり、互いに意思の疎通ができれば良いため、標準・不標準という 問題は存在しなかった。しかし、国語が性質上官話と異なっており、全国の国民が学ばなければならな い標準の言語であるため、方言ないし郷土言語に対する強い排他性を有する33。しかし、それだけに注 目すると国語教育の多面性を見失う恐れもある。それを明らかにするには、国語教育を推進するシステ ムや組織、教科書の内容などから分析しなければならない。また、國語教科書の内容分析に当たっては、

それに内包されている郷土教育的要素の全貌を明らかにするために全5期発行された國語教科書を素材 に分析しなければならない。従って本章の第一節では、台湾における近代化教育の始まりという題名を 冠し、歴史の順を追って國語教育を専ら行う國語傳習所から近代初等教育施設の始まりとなった公學校 の成立、戦時体制下の國民學校への改編までの初等教育施設の成立目的や教授趣旨を考察する。第二節 ではこうした初等教育施設における「國語」という教科の成立の経緯とその教授趣旨を考察する。第三 節ではこうした國語科が教授される際に使用されている府定の教科書の各改版(各期)の使用年間や改 版の背景について考察する。第四節から第八節まではこうして分期された各期の國語教科書を研究材料 として用いて各課の内容の分類と分析を行い、最後に各期の國語教科書に内包されている郷土教育的要 素を明らかにすると共に多文化教育的視点から考察する。

  第三章では國語科以外の初等教育教科における郷土教育的・多文化教育的考察を行う。これらの教科 は國語科と比べると授業比重が軽いものの、初等教育における全教科目の教授趣旨と位置づけできる修 身科と、歴史科(時期によっては國史科)や地理科、理科などの他教科、實科(農業科・工業科・商業 科)や圖畫科(または手工及圖畫科)、裁縫及家事科(または裁縫科)などの実学関連教科を中心に論 を進める。節の配置に関しては第一節では修身科を、第二節では歴史科を、第三節では地理科を、第四 節ではその他の教科を中心に分析していく。研究材料として修身科は1928(昭和3)年に発行された修

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身教科書を取り上げ、その教科書に内包されている郷土教育的要素を抽出して郷土教育的・多文化教育 的考察を行う。その他の教科の研究材料について、歴史科は1923(大正12)年以降に発行され始め、

歴史教科書の内容の基本形が成立した第1期教科書(しかし1935(昭和 10)年に発行された第13版 と第 14 版を使用する。その理由は本文にて説明する)を中心に論を進め、地理科は修身・歴史科と同 様に1930年代前半に発行された第2期地理教科書を取り上げて教科書の内容分析を行う。その他の理 科や實科、圖畫科、裁縫及家事科などの教科については、現存する教科書は殆どが欠落しているため、

主に日本統治時代において最も郷土教育運動に力を注いだ臺中州が発行した『臺中州教育』やその他の 補助教材に対する分析を通して、それらの教科における郷土教育的要素と多文化教育的視点からの考察 を行う。

  第四章では社会教育領域における郷土教育的・多文化教育的考察を行う。社会教育体系は初等学校教 育制度よりやや発足が遅れているが、1920 年代中盤以降植民政府によって大いに推進されるようにな った。考察方法として主に社会教育組織や団体、法規の変遷に沿って論じていく。節の配置について、

第一節では日本統治時代初期における社会教育の変遷や概況について、1920年代において勃興する様々 な台湾青年団体設立の背景や目的、その発展などを中心に考察しつつ、民間の社会教育団体が青年団体 の設立に協力した理由や青年団体に対して消極的な姿勢を採りつつあった政府側がそれを積極的に推 進するようになった理由などをも分析する。第二節と第三節では第一節で述べた政府の介入・統制によ って「郷土の振興」や「理想的郷土の建設」を高唱した官製青年團及び部落振興會の形成や組織、教育 内容、活動内容などを中心に分析していく。特に青年團の行った教育活動の補習教育と國語普及の2方 面の活動内容から考察を加えたい。第四節では通俗教育としての歌謡曲や郷土誌の編纂、史料・史蹟の 調査事業、郷土文物の展示、博覧会の開催などといった郷土文化の発展に関わる一般社会教育を考察す る。第五節では 1930年代後半、いわゆる皇民化政策時期に入った後の社会教育の総括的組織である皇 民奉公會とその傘下に加えられた青年團と部落振興會について考察する。従って、本章では以上の5方 面から台湾の日本統治時代にける社会教育を考察し、その中に内包されている郷土教育的要素の分析と 多文化教育的考察を行うことを目的とする。

  第五章では映画による教育活動について、関連法令や書籍、映画を素材にそれに内包されている郷土 教育的・多文化教育的考察を行う。映画による教育というのは、一般的に社会教育分野に属されている イメージが強いため、一般社会教育の一種として前章に入れる項目であるべきだとも考えられるが、本 章は何故社会教育の分野の一つではなく、映画による教育、つまり映画のみを独立して取り上げたかと 言うと、映画が発明されたのはちょうど台湾の日本統治時代の始まり(1895(明治 28)年)前後に相 当していることと、その後新しい娯楽として台湾に導入されたが、いつの間にか社会教育のツールに留 まらず、学校教育の教材としても利用されていたことが判明したため、つまり専ら社会教育分野のもの ではないということから本章を立ち上げたのである。本章は第一節から第三節まで主に台湾における映 画の歴史変遷に沿って映画による教育や映画に対する法令制限を考察していき、第四節では映画と郷土 教育との関係分析を行う。第一節では「活動寫真」として台湾で登場した映画の草創期から宣撫時期に おいて映画の媒体機能と映画による教育事業の展開を考察する。第二節では1920年代において政府側 の同化方針と民間側の反植民運動として展開された映画教育活動から 1930年代以降の映画検閲制の施 行まで考察する。第三節では映画における検閲制という「消極的行政」から国策映画の制作が励行され る「積極的行政」までの動き、つまり政府側による映画の全面的統制の推移を中心に考察する。第四節 では前述した様々な面貌を呈している映画教育の中で郷土教育とはどのような関係を有しているのか

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について同時期の教科書と比較しながら考察し、また多文化教育的考察を行う。

第六章では日本統治時代における台湾文学運動について、文芸誌や関連新聞紙における3つの主な論 戦を素材に郷土教育的・多文化教育的考察を行う。しかし、こうした一般社会教育分野だと見られる内 容を何故第四章の第四節に入れなかったかと言うと、日本統治時代の文芸誌における3つの主な論戦が 台湾の大衆にとって「郷土」という概念を模索し始めた動きの一つであり、植民政府が推進する國語普 及活動すなわち言語による同化政策に対する反抗意識の現れの一つとして、つまり民間による郷土教育 として大きな意味をもたらしたと考えられるため、本章を立ち上げたのである。臺灣總督府の同化政策 に対抗するため、1921(大正 10)年に設立された臺灣文化協會は植民地下における台湾人の自己意識 の覚醒を図ろうと文化啓発運動や台湾自治運動を推進していた。こうした運動の推進にあたって、新聞 紙や雑誌が思想伝播の重要なルートの一つとなった。しかし、文章で台湾の一般大衆の自覚を啓発しよ うとする知識層が直面した問題は、どのような文字や体裁で新思想を引き入れ、またそれを一般大衆に 理解してもらうかということである。そこで1920年代前半に「新旧文学論戦」、1920年代後半から1930 年代前半にわたって「郷土文学論戦」が繰り広げられていた。激しい論争を通して、台湾文学の文字表 現からあり方まで様々な意見が飛び交った結果、知識層だけでなく一般大衆の台湾文学に対する意識改 革にも様々な影響を与えることになった。1930 年代後半に勃発した日中戦争の影響で台湾は皇民化時 期に入り、新聞紙の漢文欄が全面廃止された後、「皇民文学論戦」が繰り広げられていた。こうして日 本統治時代における台湾文学運動は少なくとも「新旧文学」、「郷土文学」、「皇民文学」と3つの論戦が 起きていた。公教育体系に組み込まれていない台湾文学運動は、社会教育ないし郷土教育の一環として 台湾大衆を啓発する意味も含まれているため、本章は第一節では文言文学と白話文学による新旧文学論 戦を中心に、第二節では台湾郷土文学だけでなく臺灣話文の建設までも提起された郷土文学論戦を中心 に、第三節では皇国史観本位の皇民文学派と台湾郷土本位のリアリズム文学派による皇民文学論戦を中 心に、それぞれの「郷土」の含意と内包されている郷土教育的要素を分析し、多文化教育的考察を行う。

  結論では以上の本文全六章の分析と考察を通して得られた結果を総括的にまとめることにする。

  こうして前述した様々な分野や領域において様々な研究素材を用いて分析・考察をした結果について、

以下、全体的鳥瞰から各章、総括的結論まで順次に述べていく。

7、考察結果の全体的鳥瞰

  本論文は台湾の日本統治時代における郷土教育についての多文化教育的考察を行った。研究の範囲は 初等学校教育領域における各教科の内容と教授法、社会教育領域における青年団体と地域団体、一般社 会教育、映画による教育、文学運動などに及んだ。本論文で扱う「郷土教育」というのは、学校教育や 社会教育など児童生徒や社会の一般大衆を対象に行う教育体系ではなく、主にこれらの教育を行う際に 用いられる直観教育や実物教育などといった教授法のことであり、郷土文化の保存や伝承などを含める 一種の教育的理念でもある。教授法としての郷土教育は、教科書の内容と実地で観察した結果と比較・

対照を通して教科書の内容がただの活字ではなく、実際に目の前にあるという「一般教材の實際化・郷 土化」と、身近で日常生活に関わる事物を教材として取り上げる「郷土の教材化」の二つの教授法を意 味する。教育的理念としての郷土教育は、こうした教授法としての郷土教育を成立させるため、郷土の 人文的・歴史的事物の伝承、つまり郷土誌の編纂・活用や史蹟の保存・展示事業を重視しなければなら ないことを意味する。本論文ではこうした郷土教育が初等学校教育や社会教育、映画による教育、文芸 誌などの各領域においてどのような意味が内包され、如何に推進されたかについて初等教育教科書や関

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連法令、書籍、雑誌、映画などを素材に包括的に考察した。

本論文の第一章では、戦前の日本内地における郷土教育運動に関する考察を皮切りに、その影響によ って生じた台湾における初等学校教育領域・社会教育領域における郷土教育運動の展開について論じた。

第二章では近代教育制度の濫觴としての初等教育における教科、また全教科の中で最も重い比重(授 業時間)を占めている國語科を中心に、全5期発行された國語教科書を素材に郷土教育的要素の分析と その多文化教育的考察を行った。國語科を本章に取り上げた理由として、國語とは台湾を含めて全国民 が学ばなければならない標準語であり、郷土ないし地方の言語に対しては強力な同化性質を有するため、

國語教科書を考察することによって言語による同化政策が如何に初等教育領域で推進されたかが分か るのである。

第三章では前章に続き、初等学校教育の中で全教科の教授目的をカバー・リードする教科である修身 科と、歴史科や地理科、理科などの他教科、實科(工業科・農業科・商業科)や圖畫科、裁縫科などの 実学関連教科を中心に、それらの教科書や地方政府が出版した補助教材を素材に郷土教育的・多文化教 育的考察を行った。

第四章では、台湾における社会教育体制の濫觴としての青年団体の導入・展開とその教育内容、1930 年代前後に成立した「郷土の振興」を掲げた部落振興會が推進している活動内容、郷土文化の保存や伝 承に関わる一般社会教育の活動内容などを素材に郷土教育的・多文化教育的考察を行った。

第五章では、日本統治時代と共に登場した映画の変遷とそれによる教育活動を素材に郷土教育的・多 文化教育的考察を行った。映画による教育を取り上げた理由として、映画が発明された後に新しい娯楽 として台湾に導入されたが、社会教育のツールに留まらず、学校教育の教材としても利用されていたた め、映画による教育活動を中心に考察したのである。

第六章では日本統治時代の台湾文学運動について、文芸誌や関連新聞紙における「新旧文学」・「郷土 文学」・「皇民文学」の3つの主な論戦を素材に郷土教育的・多文化教育的考察を行った。台湾文学運動 を取り上げた理由として、3つの主な論戦が台湾の大衆にとって「郷土」という概念を模索し始めた動 きの一つであり、植民政府が推進する國語普及活動すなわち言語による同化政策に対する反抗意識の現 れの一つとして、つまり民間による郷土教育の一つとして大きな意味をもたらしたのである。

  以下、各章において明らかになった事柄をまとめた。

8、第一章の考察結果

第一章では日本と台湾における郷土教育運動の展開について論じた。また、台湾の初等教育と社会教 育、台湾地方政府の臺中州における郷土教育運動の展開とその内容について考察した。日本は明治末期 において日清・日露戦争に勝利したものの、国内では外債の償却や国家財政の膨張、地方財源の減少な どといった厳しい戦後恐慌に陥り、失業者や小作農などによる暴動が続いていた。こうした中、日本で は1920年代前後にかけて、「地方化」と「實際化」を目指した児童中心の新教育が次第に重視されるよ うになっていった。その背景の一つとして1919(大正8)年に第一次世界大戦が終結した後、ドイツの 基礎学校で「郷土科(Heimat-Kunde)」が設置されたことからの影響が挙げられる。こうした大正時代 の新教育運動が高唱した児童中心教育主義は、子どもの生活経験の拡充・深化を目的としたものであり、

本来郷土教育が目指したものと少し異なるが、実際子どもの生活の舞台は目で直視できる郷土であり、

こうした郷土を主観的・体験的に捉える教育が子どもに最も近づいた児童本位の教育であると見受けら れる。従って、1900 年代から教科書が国定制になった時に一時軽視された郷土教育が、大正期におい て再燃し得たのは、いわゆる大正デモクラシーの下に画一化した教育の打破を目指し、児童を中心とし

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た新教育運動の推進理念と結び付いたからである。こうして再起した郷土教育は、民間における郷土研 究風潮と相まって初等教育の各教科の教授法に影響を与え、例えば郷土資料の使用や郷土に対する理解 の深化、郷土愛の喚起、郷土の発展などが強調されていた。これらの郷土資料の使用や郷土に対する理 解の深化、郷土愛の喚起、郷土の発展などの理念や目標は、昭和初頭に起きた第2回郷土教育運動のも とになった。郷土愛の喚起を目的とした郷土教育が初めて世に出たのはこの時期であった。

2回目の郷土教育運動の高まりは昭和初頭すなわち 1920 年代後半の政友會政権の誕生に端を発した が、それまで民間で行われてきた郷土研究や郷土調査活動と相まって郷土教育運動が勃興するようにな った。その要因として、1つに画一化した国定教科書制度が実施して以来、一貫してその打破を目指し、

教育改革を望む民間からの声と、明治以降の日本社会において大きな変化があったことが考えられる。

明治維新以降、資本主義が日本に流入し、伝統的な手工業から機械工業への転換や貨幣経済の浸透によ って従来の自給的農村経済が破綻したことから農村では「向都離村熱」が起こり、また交通手段の進歩 によって地方間ないし郷土間の思想交流が盛んになったため、各地方・郷土の特質が逆に薄れるように なり、地方文化も都会文化に傾きつつあったのである。それに加えて 1930年代の世界的経済恐慌によ って農村の凋落が更に加速し、工場が生産を緊縮し、失業者や自殺者、犯罪者数が急激に増え、労資紛 糾や小作農問題も絶えなくなった。こうした地方経済の萎縮により、農民の自己防衛意識が高まり、自 然的・環境的条件に左右される地方産業に対する束縛からの解放や、一元化経営から多元化経営への変 貌などの変化を渇望していた。そのため、当時民間で推進されていた郷土教育・研究は、客観的事実と しての郷土を対象に郷土観念の啓培を目的とした「科学的郷土教育」であり、特に農村経済の改善を主 な目標としていた。一方、日本政府は同じく経済不振・農村疲弊という状況に対して、「理想的郷土の 建設」や「郷土の振興」を旗印に「郷土教育」政策を打ち出していたが、民間が推進している方向と食 い違っていたと見られる。1920 年代後半、経済不況が続く中、社会主義やマルクス主義などの左翼思 想が日本社会に浸透し、労資紛糾や小作農問題が絶えず、やがて地方分権が声高に叫ばれるようになっ た。それに対し、中央政府は1932(昭和7)年8月に「國民精神文化研究所」を設置し、しばしば教育 関連規程に出ている「國體ノ明徴」や「國民タルノ精神」などの原理の闡明、国民文化の発揚、外来思 想の批判などの理論体系の構築を目指した。同年9月に経済不況に疲弊した農村の経済問題、また農村 青年の「向都離村熱」の抑制・解決を図ろうと「理想的郷土の建設」と「郷土の振興」をキャッチフレ ーズとした「農山漁村經濟更生運動方案」が実施された。こうした政府側の動きを見ると、「郷土の振 興」を旗印にした郷土教育運動は、疲弊した農村が自らの力で立て直す、つまり自力更生できる精神力 を喚起させる運動であったと考えられる。

  以上の日本内地における郷土教育運動を総括的に見ると、第1期の明治期から大正期までにおいても、

第2期の昭和初期においても中央政府は常に保守的・反動的な立場に立ち続けていたと見られる。教科 書が国定制になるまでは1881(明治14)年の「小學校教則綱領」に見られる地理科の直観教育に関す る規則制定や1927(昭和2)年の政友會内閣が打ち出した「教育改善案」に見られる教育實際化などが あったが、大部分の時間においては郷土教育に対してはほぼ保守的な姿勢を保っていた。それに対し、

民間では明治末期に「郷土研究會」、昭和初期に「郷土教育聯盟」が成立するなど、郷土教育に関して 常に革新的に動いている印象が強かった。こうした郷土教育の高まりが大正時代に普及していた児童中 心主義教育と教育手法的に一致していたため、大いに発展した。しかし、郷土教育に関して保守的な官 僚側と革新的な民間側は、1920 年代後半において意外にも同時に郷土教育を推進しようとした。1930 年代の長期的経済不況と社会的構造の質的変化によって疲弊した農村経済に対し、民間側は農民の自己

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防衛意識の向上や自然的・環境的条件に左右される地方産業に対する束縛からの解放、多元化経営への 変貌など農村経済の改善を主要たる重点とした「科学的郷土教育」を推進した。一方、同じく農村経済 の改善を目標にしている政府側は、「郷土の振興」を旗印にして疲弊した農村が自らの力で立て直す、

つまり自力更生できる精神力を喚起させる傍らに、地方分権を目指した左翼思想を抑制しようと、愛郷 心の涵養を主な目的とした郷土教育運動を推進していた。つまり、政府が推進していた郷土教育運動は、

愛郷心の涵養を通して愛国心の育成へと発展させることを目指した「主観的心情的郷土教育」であった のである。

台湾における郷土教育運動の高まりは、日本内地における2回目の郷土教育運動(昭和初頭)と時期 が重なって発生し、その教育理論は殆ど日本内地のものを踏襲するものである。1920 年代の台湾は既 に日本の統治下で 20 年が過ぎ、武装抗日運動の終息や台湾社会全体の近代化、衛生条件の整備、公共 習慣の養成、近代的初等教育の普及、伝統的宿命観の転換などによって近代社会へと変貌しつつあった。

また、第一次世界大戦後に「民族自決」や自由民権、社会主義、「白話文運動」などといった斬新な思 想が、台湾に大きな影響をもたらした。それらの思潮によって「台湾意識(または郷土意識)」が強く なった台湾新知識青年は、政治的・文化的に植民地からの離脱を目標とし、様々な現代的な政治的・文 化的・社会的運動を展開していた。しかし、台湾新知識青年の視点で見た「郷土」は、地方分権的・地 方自治的意味を含む日本本土との分離を標榜するようなイデオロギーであり、日本政府本来の植民地政 策と相反し、結果として「國民タルノ精神」や「皇国史観」意識の養成を妨げる要因とされ、日本政府 に「有害思想」であると看做されてしまったのである。こうした「有害思想」の流布を緩和させようと 臺灣總督府は台湾教育界が引き入れた郷土教育を支持するようになり、その方針に沿って初等教育にお ける郷土教育的要素の増加や社会教育における青年團の統一や部落振興會の設置など様々な政策を主 導して推進していた。その目的は郷土教育によって「思想善導」を行い、反「郷土(ここでは国家の意 味も入る)」行為の防止や愛郷心愛国心の養成である。初等教育面では例えば臺中州が推進した郷土實 際化・郷土化運動は「教室から教室へ」や「兒童から兒童へ」というキャッチフレーズからも見られる ように、大正時代に主流となっていた児童中心主義の教育思想が反映されていると考えられる。児童中 心の教育であるため、必然的に子どもの生活の中心である郷土にスポットライトが当てられ、郷土教育 の教授法が重視されていた最大の原因であると言える。人間が小さい頃から自らの郷土に対する「正確 な認識」を持っていれば、郷土意識と郷土愛が深く養成され、街庄への愛着から市、郡、州へと移り、

更に進んで全体的社会や国家への愛として拡大できると統治当局は考えていたと見受けられる。こうし た同心円的な考え方が十分に反映されたのは社会教育領域であり、1930(昭和5)年に発布された「臺 灣青年團訓令」によって台湾全島における青年団体が一括して青年團(いわゆる官製青年團)と改称さ れ、その指導要領も統一されることになった。こうした青年團や部落振興會などの社会教育組織を通し て部落を最小単位にして社会教育活動を行った結果、地方産業の振興や青年の動員、統治政策の徹底、

反殖民思想の撲滅などに成功した。

こうした愛郷心愛国心の涵養を目的とした政府版の郷土教育的要素を初等教育と社会教育に取り入 れた郷土教育運動によって、1930 年代以降台湾島内における抗日運動左派の活動終息と共に、郷土教 育が次第に愛国教育としての側面を帯びるようになった。学校教育領域と社会教育領域における郷土教 育・郷土振興運動の「官民対立」の構図も 1930年代以降、皮肉にも「官民協力(しかし官が民を指導 する)」という構図に変化するようになった。1930年代後半、国際情勢が緊迫していく中、日本の社会 が戦時体制へと移行しつつあり、純粋に地方文化の保存や伝承を目的とした地方文化教育と農村文化の

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伝承や農業近代化に伴う農村経済の改善などを目的とした農村教育を主張する郷土教育は抑えられて いき、代わりに「忠君愛国」の精神を強調する愛国教育的側面が主流的な教育方向となっていった。こ うして1920年代以来の郷土教育運動によって培われてきた愛郷心愛国心は、1937(昭和12)年に勃発 した日中戦争以降の戦時体制に対し、社会動員ネットワークを提供する機能として利用されることにな った。

9-1、第二章の考察結果その一

第二章では台湾における近代教育制度の伝来や初等教育施設の変遷、「國語」教科の出現、國語教科 書における郷土教育的要素の分析及び多文化教育的考察を行った。この章では全5期の國語教科書を素 材に各課の内容に対して分類を行った後、各期の國語教科書における郷土教育的側面の分析と多文化教 育的考察を行った。全5期の國語教科書を対象に取り上げたのは、各期の編纂方針や課の内容が帯びる 郷土教育的意味が異なるため、それぞれの期において詳しく考察する必要があるからである。

明治維新後、近代国家として成立した日本では「学制」の発布によって近代初等教育制度が発足し、

その後の1895(明治28)年に台湾が日本の植民地になり、植民地政府である臺灣總督府が日本内地の

教育システムを倣って台湾において「國語傳習所」を設置すること、つまり国語(日本語)の普及から 植民地教育を始めたのである。国語というのは、近代国民国家において全国民が学ばなければならない 標準語であるため、強い正統性・画一性・均質性を有しており、国家における様々な郷土ないし地方の 言語に対しては強力な排他性と同化性を持っているのである。そのため、日本本土における小學校の教 科書が検定制から国定制に軌道変更した時から、国語という言語上の同化政策が始まったと言える。そ の後の植民地台湾において臺灣總督府による府定の國語教科書の登場も、日本内地と同じく同化政策の 重要な一環となったのである。そのため、台湾における第1期の府定國語教科書は日本内地の第1期国 定教科書より発行・使用がやや早かったものの、第2期以降は、台湾が日本内地より遅く出版されるよ うになり、日本内地の国語教科書からの影響がもたらされるようになったのである。その顕著な例は母 親の第二人称が東京山の手地域に住む中間層の「オカアサン」になることや「忠君愛国」を強調する「水 兵の母(2-10-14)」がそのまま移植されてきたことなどが挙げられる。

第1期國語教科書『臺灣教科用書國民讀本』は 1901〜1903(明治34〜36)年間に出版され、約11 年間使用されていた。第 1 期の特徴は、「実業教育・実学知識」項目と「道徳教育」項目が両者共に重 い比重を占めていることにある。それは「公學校規則」第1章第1条で明言されている「公學校ハ本島 人ノ子弟ニ徳教ヲ施シ實學ヲ授ケ以テ國民タル性格ヲ養成シ同時ニ國語ニ精通セシムル」という本旨に よるものであるため、戦争時期になるまでの台湾公學校教育において最も重視されていた科目は「実業 教育・実学知識」と「道徳教育」の2項目であることが分かる。この時期の「台湾事物・郷土教育」項 目は「道徳教育」項目とほぼ同じ比重を占めていると見られるが、実際の生活から言語を学習すべきだ という編纂方式を取り入れ、また当時の統治状況が未だ不安定な時期であるため、「旧慣依存」の方針 として巻1の最初から日本語の50 音字だけでなく、台湾語の「8聲符號」をも提示し、課の本文の後 ろにも台湾語での読み方の「土語讀方」が付加されているのである。しかし、その「土語讀方」は本文 より遥かに短く、また本文の内容と乖離するところが多いため、郷土言語の補助教材としての機能が乏 しい一方、國語の正統性と通用性が強調されることにもなったのである。また、第1期に地方文化の伝 承として 1 課しか挙げられない「ペエリォンツヌ(1-7-15)」でも、伝統的行事に日の丸を加えたこと によって、台湾の伝統的習慣の保存はするが日本とも関連し、國語教科書において台湾を日本と結び付 けるという姿勢の現れとなった。こうした「日台連結」の方針で編纂された課は日本人の血を引く「鄭

参照

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26) 佐藤によれば、このような教育の急速な近

人間性をいかなるものとして理解するか,いい かえると教育の対象たる人間をいかなる存在と

る「同化」政策の手段としての「国語」教育の側面と、いかに効率的に日本語を教えるか という日本語教育の側面が同時に存在しているということである。これを現代の日本語教 育及び国語教育と対照して整理すると、次の〈表1−2>のようになる。 <表1−2>公学校の「国語」教育と現代日本の日本語教育と国語教育の対照比較 日本語教育 国語教育 植民地期台湾の公学校

また,当時のラジオ番組には日本語による番組の他,台湾の郷土芸術に関する番組も多く放送され

 このうち郷土教育運動については、海後宗 臣・飯田晁三・伏見猛弥『我國に於ける鄕土敎 育と其施設』(1932年、目黒書店刊)を取り上

柳 論文の論旨は 以下の通りであ る。 1937 年に盧溝橋事件が 勃発して以来、 台 湾では漢文による

 文部省は,1929 年(昭和 4

1) 台湾総督府が発行した『職員録』の本籍欄をもとに、沖縄出身教員(正教員、非正教員一千百余名)、中等教育機関・高等教育機関関係教 員を漏れなく抽出して、