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日本時代の台湾文壇と大政翼賛運動に関する一考察

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Academic year: 2021

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(1)日本時代の台湾文壇と 大政翼賛運動に 関する一考察 垂. 水. 千. 恵. [ キーワードコ. 大政翼賛運動、 『台湾文学』、 地方文化の振興、 『文芸台湾』、 西川 満 はじめに. 1994 年 11月 25 日から. 3. 日間にわたり、 台湾・新竹の 国立清華大学で「 頼和及. 共同時代的作家」と 題した初めての 日本時代の台湾文学に 関する国際学術会議 が 開かれた。. 発表者は総勢 39 名に及ぶ大規模な 会議であ ったが、 本稿では会議. 最終日に行われた 柳書琴の 「戦争 与 文壇一事変後台湾文学活動的便. 甦 」と題す. 6 発表に焦点を 絞り、 柳の発表をめぐる 会場での質疑応答をもとに、 大政翼賛 運動が台湾文壇に 与えた影響に 関する 拙 見を述べてみたい。. 1 . 柳 論文の論旨及びその 評価. 柳 論文の論旨は 以下の通りであ る。 1937 年に盧溝橋事件が 勃発して以来、 台 湾では漢文による 執筆活動が禁止される 等の要因により、 台湾人の文学活動は 低迷期に入った。 ところが 1940 年に入ると、 『文芸台湾』を 皮切りに. F 台湾』. 『台湾芸術』『台湾文学』等の 雑誌が次々に 創刊され、 台湾文壇は復興の 兆し を 見せてきた。. 柳はその復興の 原因を主として 大政翼賛運動との 関連において. 解明しょうとする。 柳は 、 大政翼賛運動は 壷溝橋事件以降の 抑圧的な文化政策を 修正し、 文化及 び文学活動復興を 促す 働 ぎがあ ったと論じる。 その影響は台湾にも 波及し 、 台. 湾 総督府情報部は 機関誌『台湾時報 ロの 文芸欄の拡大、 「台湾文学賞」の 創設. 一. 102. 一.

(2) 等 、 文芸活動を奨励する 動ぎを見せた。 また、 大政翼賛会文化部のとった「地 方文化振興」政策は、 「地方」であ る台湾における 文学活動に格好の 口実を提 供した。 こうした外的条件を 文学者が巧妙に 利用した結果、 台湾文壇の復興は 成し遂げられたのであ る、 というのが 柳 論文の骨子であ る。 従来、 『文芸台湾』と『台湾文学』の 対立の下でのみ 捕らえられがちであ. っ. た 1940 年代の台湾文壇の 様相を、 「復興」という 統合した観点から 捕らえたこ. と、 及び大政翼賛運動との 影響関係に注目した 点などが 柳 論文の功績であ ろう。 しかし、 コメ ソテータ一の 中島利郎は、 台湾文芸協会の 成立とそれに 伴. 『文芸台湾』の 発刊が 1940 年 円. 1. う. 月であ るに対して、 大政翼賛会の 発足は同年 10. であ ることを理由に、 柳 論文に対して 批判的な見解を 示した。 中島の指摘は 尤もであ るが、 文芸台湾刀と 大政翼賛運動の 関係を直接の 影 下. 響 関係として捕らえるのではなく、. T 台湾文学. コの 創刊を挟んでの 間接的影響. 関係と捕らえ 直せば、 柳 論文の視点は 依然有効であ ると筆者は考える。 以下、 大政翼賛運動が 台湾文壇に与えた 影響に関する 筆者の見解を 概説した いと 居、. 2.. ぅ. 。. F 台湾文学』の. 創刊. 1940 年代の台湾文壇を 考える上で忘れてはならないのは『文芸台湾』と『. 台. 湾 文学』の 二 誌の存在であ る。 西川満を中心に 多くの日本人作家を 擁した『文 芸台湾』、 張文 環を中心に台湾人作家の. 拠点となった『台湾文学』は 、 いろい. ろな意味で対照的な 雑誌であ る。 戦後の台湾では『台湾文学』だけを うとする傾向があ るが、 1940 年代の台湾文学はやはりこの. 評価しょ. 二 誌の拮抗の上に 花. 開いた、 と捕らえるべきであ ろう。 『台湾文学』の 創刊は 1941 年. 5 月. 打所としている。 雷文社とは張が. 27 日、 張 文 環を編集・発行人、 啓友社を発. 7 台湾文学. コ. 発行のために 玉 井泉、 陳 逸松 、. 中山 佑 、 買得時等と結成した 組織であ り、 販売 権 は蒋 滑川経営の日光堂が 握っ ていた。. 一. 103. 一.

(3) 張文環は 1933 年に東京で雑誌『フォルモサ 台湾文学. T. 澗 主催の『文芸台湾. であ った。 『文芸台湾. 山. 最初の本格的日本語文芸誌であ た 作家たちも皆、. を創刊して以来、 様々な形で文. 創刊の直双まで 張が所属していたのは 西川. 学に関わっていたが、. コ. コ. ] は. 1940 年. 1. 月に創刊された 台湾. る。 張をはじめ、 前述の中 m 佑 、 黄得 時といっ. 当初は『文芸台湾』の 同人であ った。 しかし、 張文環 によれ. ぼ 、 主催者の西川の 独裁ぶりに反感を 持った多くの 台湾人作家、 及び少数の 「人道主義的」日本人作家が『文芸台湾』を. 抜け出し、. F 台湾文学』を. 創刊す. るに至ったという (1) 。. しかし、 ここに大政翼賛運動の 影響という一つのファクターを 置いて見た場 合 、 西川の独裁ぶりを 強調し、 『文芸台湾コニファッ シ , 的. ・. 人道主義的、 という単純な 図式を描こ. う. う. とする張の言説をも. 要 があ るのではないか。 そして、 その鍵は 1941 年 に 掲載された 黄得 時の「台湾文壇建設論」にあ. 9. 『台湾文学』. =. 一度洗い直す 必. 月、 T 台湾文学. ョ. 1. 巻. 2. 号. るように思われる。. では、 以下 黄の 「台湾文壇建設論」の 内容を読んでいこう。. 3.. 「台湾文壇建設論」と 大政翼賛会の 関連 「台湾文壇建設論」は 8000 字あ まりの評論で、 全体は. 1. 7. 章に分かれている。. 章では「大東亜共栄圏の 確立と高度防衛国家の 建設」のため「文化機構の 再. 編成」が必要であ り、 そのためには 地方文化を確立しなければならない。. そこ. で 「地方文化の 一翼であ る台湾文壇の 新しき建設を 提唱したい」と 説いている。 2. 章では台湾の 文学者を中央文壇志向型と、. 台湾文壇建設型に 分け、 地方文化. の確立のためには 後者が重要であ ることを説いている。. 3. 、. 4. 章では、 文壇の. 確立のためには 良い作品を生むこと、 その方法論として 台湾研究、 及び批評精 神の必要性を 強調する。 詣 し、. 6. 5. 章では文学団体に. 対する当局、. 及び社会の援助を 要. 章では島内の 新聞・雑誌が 地元作家に執筆のチャ ソス を与えるよ. 張している。 最後の. 7. う. 主. 章では、 台湾文壇の建設のため、 『台湾文学』に 集合す. ることを作家たちに 呼び掛けている。. 一. 104. 一.

(4) いわば創刊まもない. T 台湾文学. コ. のためのアジテーショ ソ といってもよいわ. けだが、 この中で黄の 強調している 地方文化としての 台湾生の強調は、 その後 も「リアリズム」と 表現を変えながらも. T 台湾文学. ロの 理論的支柱となって し. くだげに、 詳しく吟味する 必要があ る。 ここで先ず確認しておかねばならないことは、 再編成のための 地方文化確立」とし. ぅ. 1. 章で黄が説く「文化機構の. 主張は 、 決して 黄 独自のものではない、. ということであ る。 その背後には 1940 年 10 月発足の大政翼賛会の 方針が存在し ている。 例えば 1941 年 理念とその方策」と. 3. 月 25 日号の『日本学芸新聞』は「地方文化建設の. 根本. 題する大政翼賛会企画局文化部の 方針を掲載しているが、. 「高度防衛国家完成の 不可欠な要件」として「文化機構の. 再編成」が要請され. た 、 と説明しており 黄 論文の典拠であ ることが明白に 指摘でき る 。 さらに「 消. 費 的、 享楽的であ り、 且つまた個人的、 非公共的」であ った従来の文化を「 生 産面 にふれた新しき 文化」として 行かねばならず、 そのために「地方文化の 振 興の意義と使命」を 説いている点も、 叢論文はほぼ 正しく踏襲しているといっ てよい。. しかし、 何故「地方文化」が 高度防衛国家完成を 目的とした新体制に 関係し てくるのか、 という肝心の 点に付いては、 「地方文化建設の 根本理念とその 方 策」ではかなり 詳細に説明されているにもかかわらず、. 黄 論文はその点に 触れ. ず 、 論旨を中央集権 志向批判へと 移している。 では、 叢論文から脱落した「地方文化」と. 新体制の関連について、. 「地方文. 化 建設の根本理念とその 方策」ではどのように 説かれているのであ ろうか。 少 し 長くなるが、. 関係箇所を引用しておこう。. 思ふに過去に 示されたるがごとぎ 政治上の大改革は 何れも国家の 伝統を 明徴にすることによって 行われたことを 想起するならば、 今日の新体制 確 立 もまた、 光輝あ る伝統の自覚によって 現代の事実に 立脚する精神の 更生 を必要とする。 こュ にい ふ 伝統の自覚とは、 過去における 特定の時代あ る. ひは 特殊の歴史的事実にかへる 単なる復古に 非ずして、 何千年来皇室を 中. 一. 105. 一.

(5) 心として生成発展し 乗 った我が国文化の 本質に 塞 いて、 新しい時代の 文化 を創造する維新にあ ることを銘記しなけれ ば ならぬ。 かくのごとき 日本文 化の正しき伝統は 外来文化の影響の 下に発達した 中央文化のうちよりも、. 特に今日に於ては 地方文化の中に 存し、 この健全なる 発達なくして 新しき 国民文化の標識を 樹立することは 不可能ともい ふ べきであ る。 地方文化の 意義と使命はこ. ム. にあ るのであ る。. 以上の引用箇所に 明らかなよ. う. に、 「地方文化」は 外来文化の影響を 受ける. こと無く「日本文化の 正しき伝統」を 温存しているが 故に、 高度防衛国家完成. を目的とした 新体制の指標となり 得るのであ る。 こうした「地方文化」の 捕ら え方は 、 恐らく池島重信が「地方文化の 出路」の中で 指摘しているよ. 「郷土といふものに 何らの愛着ももたぬコスモポリタリズム」を. う. に、. 排撃するナチ. スの 文化政策の流れを 組むものであ ろう (2)0. しかし、 前述のように、 黄 論文からは「日本文化の 正しき伝統」に 繋がる 「地方文化」という 論点はすっぽりと 抜け落ちている。 というよりも、. 『台湾. 文学』の拠って 立つ「地方文化」とは 台湾文化という 異文化に他ならない 訳で であ るから、 「日本文化の 正しき伝統」云々を めるようなもので、 絶対に回避すべ た. き 点であ. 口にすることは、 自らの首を絞 ったといえよ. う. 。 黄 論文はこうし. 「日本文化の 正しき伝統」に 繋がる「地方文化」という、 『台湾文学』にとっ. ては致命的な 論点を巧妙に 避げっ っ 、 「地方文化の 振興」という 大政翼賛会の. 方針の一部だけを 強調することで、 『台湾文学』創刊の 大義名分として 利用し たのであ. る (3)0. 4. 「地方文化」という 大義名分による『文芸台湾』批判. ら に 黄 論文において. さ. 注目すべきことは、 その 4 章において「台湾の 生活に. 根を下ろした」作品を 書く必要を力説しながら、 その一方で、 今までの作品は 「エキゾチックなもの、 例へば 紅い色をした 廟の屋根とか、 城哩 爺の祭りとか、. 一. 106. 一.

(6) 嫡 祖の祭典とか、 いふや うなものを多く 素材に選んだため、 見た目には非常に 美しく珍しいが、. ぐ つと胸を打つて. 来る底力が比較的少ない」と、. 西川 満 批判. とも読める発言をしている ,点であ る。 つまり黄は「地方文化の 振興」とし ロ. ぅ. 大政翼賛会企画局文化部の. 方針を盾に. 台湾文学』創刊の 意義を説くと 同時に 、 返す刀で『文芸台湾』批判を. 行って. いる、 ということであ ろう。. こうした傾向は、 台中で発行されていたⅠ台湾新聞. コめ 文芸部長の田中保男. の 文章にも見られる。 田中は『台湾新文学』の 同人でもあ り、 極めて暢達にも. 近い人物であ ると同時に、 西川とは対立関係にあ ったとされている 人物であ る。 その田中が 1942 年. 2. 月発行の. T. 台湾文学. コ. 2. 巻. 1. 号掲載「中部文芸懇談会につ. いて」と題する 文章の中で次の 下線部のような 西川批判を匂わせる 発言をして いることは、 大変興味深い。. 昭和 16 年度の台湾文学界は 、 伺 って真摯な歩みが る 台湾の文化財を. こ %. 数年来の活況を 呈し、 台湾文学建設に. 続 げられた。 ( 中略 ) 斯 ふした現象を 通じて、 豊富な. 正当に発展させ、 時局の要請に 沿ふた台湾文学の 花を咲. かせること、 今日より急務なるはない。. 由来芸術文化に 携 る 故に 我れ 一人. 高しとし、 孤高の境地に 低 個 する独善は赦されないのであ. 田中はさらに 同年. 7. 月発行の『台湾文学』. 2. 巻. 3. る。. 号掲載の「南郷雑記」では、. 「台湾をことさらに 華麗 島 と呼称し、 或は、 晦渋と不透明なる 小説を 、 詩を 、 本島の風土的現実のごとく 幻想する一連の 作品は、 何等の発展も 飛躍もない単. なる自慰でしかない。 」と、 よりはっきりと 西川批判を行っている。 また、 台北帝国大学教授・ 中村 哲は 1942 年. 2. 月発行の『台湾文学. コ. 2 巻1 号. 掲載の「昨今の 台湾文学について」と 題する評論の 中で、 西川の「嘆美的な 幻. 想 的な持ち味」を 一応は評価しながらも、 「覚地文学の 生誕 期 においてなによ りも必要なものはリアリズムの 精神であ. ェクゾ テイクな情緒を 狙. う. 」. り. 、 「文学作品の 創作意図のうちに. といふことは 外地文学の邪道であ る」として、 結局. 一- Ⅰ 07 一.

(7) は 西川及び『文芸台湾. の方向を否定している。. コ. 以上のように、 1941 年 5 月の『台湾文学』の 創刊以来、 複数の作家が 繰り返 し 西川満の耽美的傾向を. 批判し、 またその批判の 理論的背景となっているのが 大政翼賛会企画局文化部の 方針であ ることは、 注目す. 「地方文化」建設という. べ. き 事実であ. る。. 黄を始め、 田中、 中村にしても 本音として大政翼賛運動に 如何ほどの共感を 寄せていたのか、 その真意のほどはわからないが、. 1937 年. 6. 少なくとも. T 台湾文学. コが. 月の『台湾新文学 コの 廃刊以来とぎれていた 郷土リアリズム 文学の伝. 統を復活する 上で、 その大義名分を 最大限に利用したことだけは 確かなよ. う. で. る。. あ. 5.. 『文芸台湾』の 方向転換. ではこうした『台湾文学』同人の. 動ぎは、 西川を中心とする『文芸台湾』に. 如何なる影響を 与えたのであ ろうか。 ここで、 少々『文芸台湾』とし. ぅ. 雑誌の. 性格を振り返っておこう。 Ⅱ文芸台湾 コの 創刊は 1940 年 しい小説といえば 龍瑛宗の. 「. 1. 月であ るが、 創刊時の内容といえば、 小説ら. 村娘 みまかりぬ」一篇のみで、 そのほとんどは 詩. 作品という、 文芸誌としては 特異なものであ った。 これは『文芸台湾』の 創刊 時の発行 所 となっていた 台湾文芸協会が、 台湾詩人協会を 改組合流して 作られ たものであ り、 名前こそ変わったものの、. 協会の機関誌. T 華麗島口の性格を. T 文芸台湾コ. 継承していたためであ. は 実質的には台湾詩人. ろう (4)0 しかも、 『華. 麗鳥コⅡ文芸台湾コ 掲載の詩の多くは、 西川 満 に代表されるような「南国情緒、 異国趣味」と「 仏 南西趣味と漢詩趣味」に 満ちた高踏派的な 詩風であ った (5) 。. 『文芸台湾』はその 後も『華麗 島 』の 残 津を長く引き 摺 るが、 派の批判の対象となったのは、. 『台湾文学』. こうした『華麗 島 』以来の異国趣味に 基づく芸. 術至上主義的傾向であ ろう。 そんな. T 文芸台湾口に. 方向変換の兆しが 見え始めるのは、 1941 年 9 月発行の. 一. 108. 一.

(8) 2. 巻. 6. 号からであ る。 この号は志願兵をテーマとした 小説、 周金波の「志願兵」、. 川合三良の「出生」のほか、. 戦争 詩 特集を組むなど、 戦時色を強く 打ち出した. 編集となっている。 これは編集後記にも 言及されているよ に 閣議決定した. う. に、 同年. 6 月 20 日. 志願兵制度の 導入を意識しての 編集方針の転換であ ろうが、. 同. 時に編集後記で「台湾唯一の 月刊文芸総合雑誌として、 本誌の使命重五大なる を 痛感する」と. 強調しているところから 見て、 やはり. 5. 月に. T 台湾文学コ. が創. 刊されたことを 強く意識しているのではないだろうか。 また西川 満 自身も 、 徐々にその作風は 方向転換の軌跡を 描. き 始める。. 1941 年. 後半頃 から、 赤嵌 攻略の歌」「セレベスに 敵前上陸」等の 戦争詩を執筆してい 「. る他、 日本軍台北入城を 扱った脚本「城門開く」、. 「二人の濁遊人技師」、. 「. そして代表作「台湾縦貫鉄道」と. 採 流記」「台湾の. 汽車」. 台湾開拓 史を テーマ. とした作品が 増えてくる。 西川満の作品の 分析から作風の 変化を検証していく 作業は、 西川の作品量が 膨大であ るだげに、 また稿を改めて 論じるとするが、 西川自身に「芸術至上主義を. 脱去 口. しょう」という 意識があ ったことだけは 確か. であ ろう (6)0. 従来は、 こうしたⅠ文芸台湾. コ. 及び西川満の 変化は「時局の 緊迫」によるも. のと説明されてきた (7)0 もちろん大枠に 於 いてはその通りであ るが、 その「 時 局 」とは何であ るかをもっと 詳細に見ていくならば、 本稿において 論証してき た大政翼賛運動に 大義名分を借りたⅡ台湾文学. コ. 派の西川攻撃等の 直接的要因. が 浮かび上がってくるのではないだろうか。. まとめ. 以上、 大政翼賛運動の 一環であ る「地方文化の 振興」の方針は、 が. F 台湾文学』. 『文芸台湾』から 独立して行く 際の大義名分として 十二分に利用されたこと、. またその際の『台湾文学』派の『文芸台湾』批判は、. 『文芸台湾』の 方向変換. に 影響を与えたことを 論じてきた。. 今後は、 黄 、 田中等の台湾新文学運動の 流れを引く作家たちが、 果たして 大 一. 109. 一.

(9) 義 名分としてのみ 大政翼賛運動を 利用したのか、 それともそこに 1930 年代のプ ロレタリア文学との 血脈を見ようとしていたのか、. という問題についても 転向. の問題と関連させながら 考察していきたい。. ︶. 1. 註 ︵. 「雑誌『台湾文学 ロの 誕生」仙台湾近現代史研究』. 号、 1979 年. 2. 8. 月、. 23. ︶︶ ︵︵. 180 頁 ) 『新潮』. 1941 年 1U 月 号、 13 頁. 1946 年 m1 月 23 日の『台湾新民報』 の特殊事情を. 1. 面には「独自の 立場に 於 いて台湾. 考慮に入れ」るという、 台湾大政翼賛会に. 対する総督府. の 見解が示されている。 また大政翼賛会文化部長の 岸田圃十も「覚地. 文化の諸問題」 (1941 年 8 月 28 日のⅠ台湾日日新報. コ. 4. 面 ) の中で、. 「台湾なら台湾、 朝鮮なら朝鮮の 特殊性」に立っことを 表明しており、 「日本文化の 正しき伝統」に 繋がる「地方文化」という 論点の脱落は、 黄得時 個人の問題というよりは、 台湾全体が必要としたレトリックで あ. (4). ったかも知れない。. 『文芸台湾』成立の 経緯については、 河原動「中国雑誌解題『文芸台 186 、 1975 年. 湾』」 ( 『アジア経済資料月報 コ. 2. 月、. 一 18 頁 ) に詳しい。. 1. また『華麗 島 』の作風については 拙著『台湾の 日本語文学』 ︶. 5. ︵. 院、 1995 年. 1 月). 2. 章を参照。. 矢野峰入「『 嫡 祝祭』礼讃」. 67. ︶︶ ︵︵. 2. ( 五柳書. ( 『西川. 月、 667 頁 ) 。 但し初出は『 馬祖 』. 西川 満 『台湾縦貫鉄道』あ とが. ぎ. 河原 功 「中国雑誌解題『文芸台湾』」. --@. Ⅰ. 10. ---. 6. 満 全詩集』人間の 星社、 1982 年 号、 1935 年. ( 人間の星社、 (註 4. 9. 月。. 1979 年. に同じ. ). 2. 月、 404 頁 ).

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