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台北市郷土教育センターの活動と「郷土」の意義

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台北市郷土教育センターの活動と「郷土」の意義

松 本 武 彦 はじめに

市民や子どもたちが暮らし活動する地域社会に関して、歴史や現状の特質とその背 景などについて学ぶ講座および体験活動などは、台湾においても、日本同様、多様な 学習者から熱心な支持を集めており、とくに地域社会に暮らし活動する人々自身の参 加が、顕著である。

大学や研究機関に所属している専門家による、学術的で科学的分析の紹介はもちろ ん、市民同士、地域住民同士のいわば学びあいとでも言うべき活動などがおこなわれ ている点でも、日本の生涯学習活動の実際と似通った部分が少なからずある。

しかし、同じ東アジアの民主社会における生涯学習活動ではあっても、日本とは異 なった、台湾の社会が歴史的に、あるいはその地政学的な位置によって、固有に備え た特質で規定された、さまざまな事象が存在することは、これまた言うまでもない。

たとえば「郷土観」あるいは「郷土」という語そのものの指示する内容の違いによ る、郷土学習のあり方もそのひとつである。台湾における郷土学習、とくに生涯学習 における郷土学習の具体的内容については、行論に従って明らかにすることとする が、そのことについて述べる前提として、ここでは、上述の、台湾における生涯学習 の特質が拠って立つ背景に関してだけ、触れておくことにしよう。

台湾の生涯学習が包持する特質の最も大きな背景は、台湾社会の均質性に関してこ れを証明すると考えられる現実やこれを主張する言説に対し、多数の支持や容認が得 られにくいことがある。つまり、台湾社会においては、その構成員に関して、居住地 域や所属する階層、祖先あるいは自身が台湾に移住してきた時期などを指標とする、

大きな分裂の存在が指摘されている。

政治面で言えば、4年に一度の総統の直接選挙という、ある意味で東アジアで最も 進んだ民主政治も、選挙という公正なルールのもとでの結果が、社会の団結に容易に つながらず、むしろ選挙後もその争点を引きずったまま、かえって人々の分断を固定 させている面もあるように思うのは、筆者だけだろうか。

そうした台湾社会での政治一般のありかた、すなわち選挙や議会での議論が、民主 的システムとして機能するばかりでなく、社会の分裂や対立にも手を貸しているが如 く見えることは、経済の部面にも、一定の影響を与えている。この点は、長く政権党 がオールマイティーな存在として在ったいわゆる党国体制と呼ばれる分析視覚によっ

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てしばしば説明される。政権党との距離が市民や企業の経済界、産業界における位 置、そしてひろく社会的地位をも規定してきた、とされる。

文化的な事象に関しても、事情はほぼ同じである。中国の王朝からもたらされたい わゆる漢族文化が台湾社会の中核と意識され、それ以外の要素は周縁に置かれた。と くに1949年以降においては、政権党がこの漢族文化の正統な体現者として文化的階層 のいわば三角錐の頂点に近い部分を独り占めしたから、儒学の権威もそれへの信仰 も、彼らの独占のもとに置かれ、そうでないものは正当性において排除されたり、好 奇の目の対象となったり、価値の無いものとして扱われた。

以上のような特質を総体として持つ台湾社会において、生涯学習の部面に現れた、

郷土観の一端を明らかにしようというのが、本稿の目的とするところである。

この目的を達成するために、2006年2月、台北市によって同市萬華区広州街101号 に設立された台北市郷土教育センター(「台北市郷土教育中心」)の設立にいたる経緯・

背景や活動内容を、事例的に検討する。その際、文献資料による検討と同時に、現地 調査によって得られた知見をも課題考察のための重要な資源として活用することとし た。

1 開設前史

現在、センターが所在している台北市萬華区広州街という地域は、剥皮寮地区とも 呼ばれ、歴史的には清朝時代の交通の要衝であり、淡水河沿岸に形成され後に台北と 言われるようになる地域と、その南方および東方の外縁部とを結節する台北防衛の軍 事的拠点のひとつであった。清の嘉慶四(1799)年、台湾北部における漢族の集住地 のひとつであった の民間契約文書には「福皮寮」の語がみえ、道光十八(1838)

年から清朝末期にかけては「福皮寮街」と呼ばれていた。

日清戦争の結果、台湾が日本の植民地になってからは、「福皮寮」の

南語発音が

「北皮寮」の音に近いことから「北皮寮街」と変化し、さらに、日本の敗戦によって 植民地支配から解放された1945年以降は、「広州街」、「康定路」の語で表されるよう になった。「剥皮寮」の語は、蘇省行が1953年に著した『 街名考源』でこの地域 を「剥皮寮」としたことが知られるようになった頃から始まり、以後、「剥皮寮」、「剥 皮寮街」が一般化したとされる(1)

また、現在の台北市の区名として使用されている「萬華」の語は、元来は、台湾海 峡から淡水河に沿って南下してきた漢族が、その移動の手段として船舶を使用したこ とを象徴する「 」の表記がなされており、日本統治下で改称された結果、「萬華」

とされることとなって、以降この語が継承されているのだという(2)

この剥皮寮地区は、もともとは、1999年6月に台北市の指定古跡ともなっている老 松小学校の校地であった(3)。日本統治時代の都市計画で学校用地に指定されていた

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が、1988年、土地取得とそれにともなう補償作業が開始され、1999年6月、台北市が

「剥皮寮の歴史的街並み保存再利用」計画を策定することで、文化資産の保護と学校 教育の両立を原則とした計画が進められた。2002年10月、都市計画審議会において

「剥皮寮歴史的街並東側(第1期)修復再利用工事」が承認され、翌年7月に着工し て、保存と再利用の具体化が始まった。さらにこれをうけて所管する台北市教育局 は、2003年8月、剥皮寮再利用の運営団体として、台北市郷土教育センターを発足さ せた。清代からの歴史的街並みに根ざした郷土教育活動によって、歴史的街並みの活 性化をおこなおうとしたものだった。同年9月中旬には、運営のためのセンター事務 局が設置され、9月24日研究員の着任によって、センター事務局の正式な活動が開始 された(4)

一方、これ以前の台北市教育局の活動として、2003年3月、隣接する老松小学校で

「剥皮寮老街修復再利用工程規画設計期末簡報」会議を開催して、剥皮寮の歴史的町 並みの修復によって生まれる新しい剥皮寮の管理運営組織について、老松小学校に検 討を指示し、7月には、老松小学校で、「台北市剥皮寮修復再利用曁郷土教学研究推 進」センター設置のための会議、8月には、同じく老松小学校で「台北市郷土教育」

センター設置のための会議を開催し、台北市の行政組織における所管部署としてのセ ンター設置のための諸問題が、段階的に検討された(5)

2003年11月、センターが収蔵すべき史資料を、いかに収集するかの検討会議が開催 され、翌2004年9月、センターから『剥皮寮歴史街区再利用規画研究』、10月には『剥 皮寮歴史街区口述歴史訪談』第1輯を刊行するなど主として研究活動にかかわる成果 が公開され始め、同10月から翌年2005年2月にかけては、センターのホームページを ネット上に公開する作業が進められた。そして、2006年2月23日、当時の馬英九台北 市市長はじめ市教育局長などが出席して開館式が挙行された(6)

この間、2005年と2006年には、たとえば、正式開館前のセンターの研究活動等の成 果を年次ごとに一書にまとめた『台北市郷土教育中心特刊』1号、2号や、センター の概要の紹介パンフレットである『台北市郷土教育中心簡介』が刊行されて(7)市民、

研究者、観光客などさまざまな来館者への対応の準備も整えられた。

2 センターの理念と活動の実際

センターは、老松小学校に隣接する剥皮寮歴史街区の一角に開設され、街区の他の スペースは清代の商店や倉庫などからなる歴史的建築物群で構成されている。

センター自体は全体として2階建ての建物になっており、教育館、医療館、故事館 の3部分から成る。

教育館は台湾の伝統教育とくに漢族社会におけるそれに関する展示がおこなわれて いる。専門的な情報を文字媒体によって展示することよりも、絵などの図版資料によ

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る直感的感覚的展示が中心となっており、年齢や性別、学歴や社会的地位の違いなど によって、展示の理解の内容におおきな違いが生じないような配慮がなされているよ うに、感じられた。

医療館は台湾における伝統医療、台湾医療史についての展示。ここでも専門的学術 的に踏み込んだ展示解説よりも、絵などによる感覚的で理解しやすい展示が心がけら れている。展示室に入ることによって、清代の台湾の薬種商の店先に立ったような感 覚が得られる展示がおこなわれている。

故事館では剥皮寮の歴史に関する展示がなされている。剥皮寮の古写真や剥皮寮時 代の民具や人力車、商家のさまざまな営業用の道具などが展示されていて、モノによ る展示、実物資料によって来館者の理解を援けようという、センターの意図が最も明 確に伝わる展示スペースとなっている。そのほか、日本による植民地時代、剥皮寮に 清末の革命家章炳麟が僑居していたことなどについても解説がある。ただしこれも専 門的な解説ではない。たとえば章炳麟という人物に関し、あるいは辛亥革命や清末の 東アジア情勢などについて、学術的な剥皮寮に関する史料的裏づけのあるレポートの ための素材をセンターで手に入れようという者には役立つが、剥皮寮の過去と現在を 構成する個々の事象に関心の無い者には極めて退屈な、そのような展示は、ほぼ一切 おこなわれていないように感じられた。

故事館の2階部分には、管理、研究部門の事務室などが置かれている(8)。センター の運営組織は、台北市の教育局長を長とする運営委員会のもとに、センター主任に よって統括された3つの部門すなわち行政部門、研究部門、展示部門が置かれてお り、これによってそれぞれの部門名に表された諸課題に関する実務がおこなわれてい るほか、外部から専門研究者とボランティアが参加している(9)

センター設置の目的として掲げられているのは以下の7点である。

1 郷土の史料を収集し郷土文化の伝承と創造という理念を確立する。

2 九年一貫課程(10)を定着させ、各校の特色に応じた課程を設置し、台北全市 の郷土教育のための資源を統合と共有をはかる。

3 郷土教育に資する多元的メディアを発展させ、ネット上にサイトを開き、郷 土教育と情報技術の融合をはかる。

4 剥皮寮の歴史的街並みの参観ガイドを整備して、台北市郷土教育課程に加 え、台北市の学童の台湾(「本土」)の歴史と文化に対する認識を深め、郷土愛

(「愛郷愛土」)を養う。

5 多分野にまたがる総合的方法を通じて、文学や歴史などに関する地域社会の 資源を結合し、剥皮寮の歴史的建築の再利用を推進し、地域住民の参加と創造 を促進する。

6 郷土教育にかかわる中核的教員とボランティアを養成し、文化保存の必要性

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を広く発信する。

7 剥皮寮歴史街区の永続的モデルを研究し、教育面と文化面の両面からの発展 を期す(11)

これらの目的達成のための活動によって、センターは、次の3点を目指すものとさ れた。

1 台北市における郷土学習のための素材を提供し、郷土教育の活動を活発化さ せる。

2 剥皮寮の歴史的街並みを活性化し、永く郷土教育のモデルとする。

3 剥皮寮の歴史的街並みの永続的な運営モデルを検討し、教育と文化の共存を はかる(12)

以上を要すれば、センターは、台北市における稀有な歴史遺産としての剥皮寮の街 並みを保存し、これを学校教育や生涯学習の場などでの教材等として活用していくた めの中核的組織として、機能させることを目指していると言うことができよう。

さらに、筆者のセンターおよび周辺地域を含む剥皮寮地区でのフィールドワークの 結果得られた知見および資料によって、センターの展示の内容や特質などを検討する と、そこには上掲のセンター自身による総括以外に、センターの役割ないし活動の目 標として、地域社会での生涯学習活動に対する協助という特質が、指摘できる。

たとえば、センター2階に設けられた特別展示室においては、2012年8月11日から 10月13日までの予定で、「走剥皮寮 看 萬華」展が開催されていた。センター が立地する剥皮寮地区の歴史を映像と実物で回顧しようとするものであった。 時 代すなわち清代の剥皮寮を映像で振り返り、さらに萬華時代すなわち日本によって植 民地として支配されていた時期の地区住民の生活を体験できるように工夫された、実 物の展示や解説文が掲出されていた。地域住民が自己の歴史的来源を確認し、剥皮寮 地区の住民としてのアイデンティティを確立するに当たって、重要な依拠すべき情報 の提供をおこなう展示となっていた。

加えて、「走剥皮寮 看 萬華」展と同時期に、同じセンター2階の特別展示 室で「 123事」と称する展示もおこなわれていた。地域の子どもによる、

に関係する工作や図画の作品が展示されており、こちらは、若年の地域住民が、自ら の歴史的背景に関し認識を深めるきっかけを提供する場になっていた。

また、「 親子新世代 熱鬧登場!」と称して、萬華コミュニティカレッジ(13)、 曁南国際大学生涯教育学系、老松小学校および台北市郷土教育センターの主催で、セ ンターを会場として、小学生中学生高校生とその保護者を対象に、親子で絵画の創作 や金属工作などをおこなう活動が、2012年8月26日、9月9日、10月7日の3日の予 定で開催された。必ずしも明確な限定はなされていなかったが、主催者から類推する と、やはり対象者は、地域住民、地域の子どもとその保護者と考えてよかろう。

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さらに、センターと老松小学校の共催で、「走進剥皮寮」写真コンテストの出品作 品の募集がおこなわれていた。2012年4月1日から9月15日までの間に、作品に解説 を添えて主催者に提出するもの(14)で、写真を取ることは、被写体となる剥皮寮を歩 きまわり、よく観察することにつながるから、この活動からは、単に写真技術の巧拙 といったことだけでなく、剥皮寮の現状への認識を深めることに意義を見出すことが 出来よう。

以上のような地域社会やそこに立地する学校などとの共催による、地域の生涯学習 活動への協力および援助は、実際にセンターを使用しておこなわれる活動として、セ ンター自体の活動の中で大きな比重を占めているものと思われる。

3 台湾における郷土教育

1953年9月24日公布の社会教育法によれば、台湾における社会教育の任務のひとつ として、歴史文物および名勝古跡の保護がうたわれている。公布の時期を考慮すれ ば、日本の植民地支配が終焉した後の台湾においては、社会教育の重要性に対する認 識、および歴史遺産に対する認識が確立していただけでなく、比較的早期に両者の関 係すなわち社会教育と歴史的建造物などの保護の関係が意識されていたものとみて良 かろう。

そうした一般的な社会情勢のもとで、歴史遺産、歴史的建造物だけでなく広く台湾 そのもの、台湾の現況に向けた人々の関心も、多様な観点から培われることとなっ た。

台湾における郷土教育は、1990年ころから盛行をみたとされるが、それは、歴史教 育の分野だけでなく、言語教 育 の 分 野 に お い て も お こ な わ れ て き た と さ れ て い る(15)。なぜなら、台湾においては歴史と言語の間に強い相関がみられる。もともと 先住民(「原住民」)が種族ごとに多様な言語を持っており、さらにそこに17、18世紀 の明清時代に、大陸から漢族の移住をみていわゆる

南文化や客家の文化がもたらさ れ、1895年からは日本の植民地支配のもとで日本語教育がおこなわれ、1945年以降は 今度は中国語が導入され、多文化多民族社会が形成された(16)

そして、1945年以降1987年までは、中国語教育、中国史教育がおこなわれて、教育 課程の中での台湾の諸言語や歴史の教育は、厳しく制限されてきた、という(17)

しかし、台湾社会の民主化の進展によって、台湾「本土」意識が高まり、1994年、

小学校で「郷土教学活動」、中高で「郷土芸術活動」、「認識台湾」が教科となり、さ らに2001年9月、小中学校への九年一貫課程の導入で、小学校1年から必修教科とし ていわゆる郷土言語(南語、客家語、台湾先住民諸語)がとりあげられることとなっ た(18)

郷土言語教育の重要性は、台湾の歴史と言語の間にみられる強い相関性によって形

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成された、台湾における郷土教育の特殊な一面を表現するものではあるが、近年にお いても、その重要性に対する認識はいささかも動揺していない(19)、という。

ただし、小学校中学校での九年一貫課程のなかでは、郷土教育は単独の科目ではな く、各学習領域(国語、数学、体育等)に組み込まれて、実施されることとなった(20)

こうした教育課程の改変に対応して、台北市郷土教育センターにおいては、小中一 貫教育において郷土教育をおこなうなかで、これにセンターの展示や資料を取り込む ことの重要性、有用性が主張され、また、その効果的な方法についての研究が進めら れている(21)

4 台湾における「郷土」

既に指摘されているように、台湾の郷土教育について検討することは、台湾各地域 における「郷土」観の内容を明確にすること無しには達成できないから、各地の郷土 教育の実態を解明することが重要となる(22)

そもそも台湾では「郷土」概念のあいまいさが指摘されており、とくに「郷土」と は、台湾そのものか身近な生活地域かで見解の対立がある(23)という。そして、ある 論者によれば、学校などの教育現場では、「郷土」を生活地域と考え、「郷土意識とし てのネーションをあまり意識の上にのせなかった」ことで、「郷土」が政治的争点と して浮上するのを回避したという(24)

そこで、台北市郷土教育センターにおける展示からは、どのような「郷土」概念が 理解できるだろうか。

まず指摘できるのは、身近な生活地域としての郷土である。そもそもこのセンター の基本的な使命に、剥皮寮という台北市内のきわめて狭い地域の歴史的町並みの保存 が掲げられていることは、まぎれも無く、センターの「郷土」が、身近な生活地域と しての剥皮寮をさしていることは間違いなかろう。そして、保存された剥皮寮の歴史 的町並みを、郷土教育の教材として利用し、郷土理解の助けとしていこうというのだ から、「郷土」すなわち身近な生活地域としての剥皮寮であると言えよう。

しかし、センターにとっての「郷土」は果たしてそれだけだろうか。既に検討した センターの展示やその他の活動からは、必ずしもそう言い切れない、いくつかの論点 が生ずる。

たとえば、センターの故事館部分で、剥皮寮に清朝末期の革命家章炳麟が僑居して いたことに関する展示が存在することである。台湾「本土」化の流れの中で、中国史 の学習ないし中国史の流れの中に台湾を位置づけようという歴史教育は、徐々に、台 湾固有の歴史に関する教育に移行してきた。ここでの問題に即せば、清朝やその後の 中華民国初期の歴史、あるいは辛亥革命史は、既に日本の植民地となり清朝治下でも 中華民国の一地域でもなかった台湾にとっては、台湾本来の歴史とは直接的関係性を

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有しない。剥皮寮の歴史的特質を説明するのには、革命家章炳麟の事跡よりも、より 適切なものが他にたくさんあったはずである。しかるに、章炳麟僑居の事実が展示さ れるのは(25)、ここでの「郷土」は国家すなわち具体的には「中華民国」だからでは あるまいか。ここでの「郷土」が「中華民国」であれば、この国を生み出した革命の 重要な登場人物「革命三尊」のひとり章炳麟が住まいしていたことを抜きにして、郷 土教育は成り立たないのである。

さらに、郷土教育センターが、萬華区の剥皮寮に置かれたことにも、「郷土」をネ イションと理解する立場の反映が指摘できるかもしれない。台北市に限らず、台湾全 土でおおむね1990年代以降、台湾「本土」化の影響や観光資源の発掘のために、古い 町並みの保存公開が盛んである。台北市では、台北市大同区の迪化街が日本で刊行さ れている観光案内にも載っているほど、清代や植民地時代の商店の復元保存が比較的 早く始まった地域として著名である。また、信義区の四四南村は、1945年以降に国民 党とともに大陸からやってきた人々いわゆる外省人たちの古い住居が現存するところ として知られている。以上のように台北市の各所に存在する歴史的町並みの中で、な ぜ剥皮寮にセンターは所在するのだろうか。

このことを考える時、そもそも剥皮寮という場所が、台北市にとって、どのような 意味を持つ地域かという問題に逢着する。

台北という街の成り立ちを振り返ると、現在の台北市の原型はいわゆる「三市 街」、即ち、政治行政の中心である台北城と商業地区である大稲

および であ り、なかでも は1820年代にはすでに台湾北部の経済、政治、軍事の中心地として 南部の台南、鹿港と鼎立して(26)、台北のみならず台湾全体の中心的都市のひとつで あった。つまり「三市街」の原型をさらに求めれば、それは なので あ る と い う(27)

が原台北、台北市を象徴する地区なのであれば、台北市の台湾全体における地 位、つまり政治経済文化などさまざまな部面での中心性という事実を勘案すること で、 の台湾全体における象徴的地位、すなわち台湾全体を象徴することが出来る という考えかたも、より強い説得性を持つことになろう。そうした意味で、かつ ての に残る歴史的町並み剥皮寮にセンターが所在することは、センターが追及す る「郷土」が、必ずしも地域名称としての剥皮寮の指す場所に限定されないことを、

含意していると言って良いのではないだろうか。

おわりに

台北市郷土教育センターがある台北市萬華区広州街は、地域名称を剥皮寮と言い、

清朝時代の交通の要であり、淡水河沿岸に形成され後に台北と言われるようになる地

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域と、その南方および東方の外縁部とを結節する台北防衛の軍事的拠点のひとつでも あり、現在の台北市の歴史的中心、台北の起源の地でもある に属している。

この剥皮寮において1988年以来進められてきた都市計画や町並み保存の運動に促さ れた動きとして、2006年2月23日、当時の馬英九台北市市長のもとで台北市教育局所 管の郷土教育センターが開設された。

教育館、医療館、故事館の3部分から成るセンターは、設置の目的として、郷土史 料を収集し郷土文化の伝承と創造という理念を確立すること、小中学校における九年 一貫課程を定着させ、台北市の郷土教育のための資源の統合と共有をはかること、郷 土教育と情報技術の融合をはかること、剥皮寮の歴史的街並みの参観ガイドを整備 し、台北市の学童の台湾の歴史と文化に対する認識を深め、郷土愛(「愛郷愛土」)を 養うこと、などを掲げた。

そして、総体として、台北市の歴史遺産である剥皮寮の街並み保存と、剥皮寮の歴 史的街並みを郷土学習の教材等として活用していくためのノウハウの蓄積、研究を目 指して活動している。

加えて、地域社会やそこに立地する学校などとの共催による、地域の生涯学習活動 への協力および援助が、センターを会場として展開されている。

台湾における郷土教育は、1990年ころから盛んになったが、歴史教育の分野だけで なく、言語教育の分野においてもおこなわれてきた点が、きわめて特徴的である。

多部族にわかれた先住民の諸言語、明清時代の漢族移住者によってもたらされた大 陸南部福建省や客家の言語、植民地支配者から強制された言語としての日本語、1945 年以降のいわゆる中国語。これらの諸言語が重層的に存在して形成された現在の台湾 の言語状況が、郷土教育においても言語教育の重要性必要性を高めたのであった。

1994年、小学校で「郷土教学活動」、中高で「郷土芸術活動」、「認識台湾」が教科と なり、さらに2001年9月、小中学校への九年一貫課程の導入によって小学校1年から 必修教科として

南語、客家語、台湾先住民諸語などの郷土言語が導入された。

その後、センターでは、教育課程の改変に対応して、センターの展示や資料を新し い教育課程に取り込むことの重要性、有用性が指摘され、研究が進められている。

台湾では従来から、「郷土」概念のあいまいさが指摘されており、とくに「郷土」

とは、台湾そのものか身近な生活地域かで見解の対立がある。

台北市郷土教育センターにおける展示からは、センターの「郷土」概念が、身近な 生活地域という内容に即したものになっていると言える。そもそもセンターの基本的 な使命に、剥皮寮という台北市内のきわめて狭い地域の歴史的町並みの保存が掲げら れていることは、まぎれも無く、センターの「郷土」が、身近な生活地域、具体的に は剥皮寮をさしていることを示している。

加えて、保存された剥皮寮の歴史的町並みを、郷土教育の教材としておおいに利用

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し、かつまた郷土理解の助けとしていこうというのだから、「郷土」が身近な生活地 域としての剥皮寮を指すことは確実である、と言って差し支えなかろう。

しかし、センターにとっての「郷土」はそれだけではない。

たとえば、センターの故事館で、短期間剥皮寮に僑居した清朝末期の革命家章炳麟 に触れているのは、「郷土」は国家すなわち具体的には「中華民国」という理解が背 景にあるからではないか。だからこそ、「中華民国」を生み出した革命である辛亥革 命の重要な主導者の一人章炳麟を敢えて登場させているのであろう。

郷土教育センターの立地が、萬華区の剥皮寮であることそのものにも、「郷土」を ネイションとする理解の影響が指摘できよう。剥皮寮は台北市を象徴する地区、原台 北である (萬華の旧称)の一部である。つまり は台湾全体を象徴する地域で もある。したがってその一部である剥皮寮についても、台湾全体を代表し象徴する地 域であるとすることが出来よう。センターが、萬華区の剥皮寮に所在するのは、その 地が台湾全体を代表する地であるという事実に依拠している、と言うことができる。

台北市郷土教育センターにおける「郷土」とは、単純に身近な地域であるとか台湾 全体であるとかというように、割り切ることのできない多義性を持っているのである。

郷土学習、郷土教育に限らず、学習プログラムの開発においては、生涯学習事業や グループ・サークル活動に参加した者ほど、学習プログラム開発への参加の度合いも 高いという(28)。今後、台北市郷土教育センターがさらに魅力的な展示や活動を維持 継続していくためには、すでにセンターが実施したさまざまな活動への参加者、本稿 では第2節で紹介した、センターの地域社会での生涯学習活動に対する協助プログラ ムに参加した市民や子どもたちの、センターの活動そのものに対する更なる理解と関 与をうながすことが、いっそう重要性を増すこととなろう。

以上の剥皮寮に関する説明は、台北市郷土教育中心編『台北市郷土教育中心簡介』台北 市郷土教育中心(2012年9月16日、台北市郷土教育中心にて収集)、参照。

荘永明『台北老街』時報文化出版、2012年。40頁。

同前、43、306頁。

張文編『剥皮見郷土 台北市郷土教育中心成長紀実』台北市郷土教育中心、2006年、

10頁。

同前。

同前、9、14〜30頁。

同前、37、39頁。

筆者は、2012年9月16日に現地調査をおこなった。その他、前掲『台北市郷土教育中心 簡介』、台北市郷土教育中心編『剥皮寮的故事』(2012年9月16日、台北市郷土教育中心 にて収集)、参照。

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前掲『剥皮見郷土 台北市郷土教育中心成長紀実』11頁。

2001年に導入された小学校6年間と中学校3年間の9年間一貫教育課程。張文編『台 北市郷土教育中心資源与九年一貫課程結合之分析』台北市郷土教育中心、2005年、参照。

前掲『剥皮見郷土 台北市郷土教育中心成長紀実』11頁。

同前。

2007年8月21日に発布された「台北市社区大学設置及管理弁法」で、学ぶ場についても 法的な整備の手が加えられ始めている。同弁法は、いわゆるコミュニティカレッジ設立 の目的について以下のように規定している。すなわち、台北市は18歳以上の居住者に生 涯学習の機会を提供し、教養と生活上の知識を高め、社会の健全な公民を育て、地域社 会の発展を促進するために、この法を定める、と。『台北市社会教育法規彙編』台北市政 府教育局、2009年、325〜326頁。

「走剥皮寮 看 萬華」展、「 123事」展、絵画および金工等創作活動、「走 進剥皮寮」写真コンテストの実施時期や内容などに関しては、上述現地調査の際収集し た参加者募集等のためのチラシ、パンフレットなどによる。

林初梅『「郷土」としての台湾 郷土教育の展開にみるアイデンティティの変容』東信 堂、2009年、6頁。

同前。

同前、7頁。

同前、7〜8頁。

林瑞栄編『郷土教育的理論与実践』五南図書、2011年、参照。

前掲『台北市郷土教育中心資源与九年一貫課程結合之分析』3〜17頁。

同前、3頁。

林初梅「一九九〇年代台湾の郷土教育の成立とその展開――台湾人アイデンティティの 再構築過程の一断面――」『東洋文化研究』5、2003年3月、94頁。

前掲『「郷土」としての台湾 郷土教育の展開にみるアイデンティティの変容』331頁。

同前、332頁。

このことは、展示以外にも、センター発行の以下のような印刷物に登場する。台北市郷 土教育中心編『剥皮寮歴史街区導覧地図』台北市郷土教育中心(2012年9月16日、台北 市郷土教育中心にて収集)。前掲『台北市郷土教育中心簡介』。これらによれば、章炳麟 が住んだ場所は、現在の広州街123号で、2003年2月に台北市によって「歴史的建築物」

に指定された。

前掲『台北老街』14〜15頁。

同前23頁。

金藤ふゆ子『生涯学習関連施設の学習プログラム開発過程に関する研究』風間書房、2012 年、265頁。

付記 本稿執筆のための資料収集にあたって、台北市郷土教育センターおよび同センター教 育推広組の陳岫琴女史より、突然の訪問にもかかわらず、懇切なご指導をいただいた。

衷心より感謝申し上げる。

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