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1930年代台湾文学における言語問題について : 郷土文学論争から『台湾文芸』へ

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(1)1930年代台湾文学における言語問題について 一郷土文学論争から『台湾文芸』へ一. 垂水千恵 【キーワード】郷土文学論争、 『台湾文芸』、台湾話文、中国白話文、.        リテラシー. 1.はじめに  1934年5月6日、台中市において第1回台湾全島文芸大会が開かれ、台湾文. 芸連盟が成立した。11Eには機関誌『台湾文芸』の創刊号が刊行され、30 年代台湾新文学は一つの頂点を迎える。 「第1回台湾全島文芸大会記録」に よれば、 「機関雑誌案」が準備委員会(欝委会)によって提案され満場一 致で可決されている他、「文芸大衆化案」も同様に提案・可決されている1。. 従来、30年8月以来繰り広げられてきた1930年代郷土文学/台湾話文論争 (以下、郷土文学論争)終結の時期が34年4A末とされてきたことは、台湾. 文芸連盟の成立および「文芸大衆化案」の可決をもって論争は一応終息し たとの見方を示すものであろう2。しかし、論争の終息が必ずしも、それに 先立つ議論におけるアポリアの解決を意味するわけではない。.  本稿は郷土文学論争が一応の終息を見たとされる34年5月の台湾文芸連盟. 成立以降の台湾人作家の言説に注目することで、郷土文学論争では顕現し なかった30年代台湾文学における言語的問題についての再考を試みるもの である。. 2. 「郷土文学論争」における争点と第1回台湾全島文芸大会  34年5月以降の台湾人作家の言説分析に先立ち、まずはその前提となる郷 土文学論争にっいて簡単に述べておく。  郷:}二文学論争とは1930年8.月『伍人報』において黄石輝が「惹様不提侶. 郷土文学」 (何故郷土文学を提唱しないのか)3を提唱したことに始まる. とされる。中島利郎は、黄石輝に郭秋生、林克夫、朱点人等が加わり「台. 一21一.

(2) 湾の特殊性の上にいかに郷土文学を成立させ大衆化させるか等にっいて 論争した。しかし、郷土文学をいかに建設するかという命題よりも、使用 言語を台湾語にするのかあるいは中国白話文にするのか、台湾語の場合に はその表記をいかにするのかという論争が中心となってしまった。」とし た上で33年の『台湾新民報』の発見により「それまで32年で終ったと思わ れていたこの論争が、34年まで続いていたことが確認された」と説明して いる4。また、陳淑容は中島利郎、松永正義等の先行研究を踏まえっつ、. 郷土文学論争を第一次(1930∼32)、第二次(1933∼34)に分けた上で、 各論者の言説を詳細に分析している5。そしてこれらの議論は1)定義や創 作上の具体的問題を含んだ「郷土文学」に関する議論、2)文学言語をめ ぐる台湾話文か中国白話文か、の議論、3)台湾話文の建設と実践をめぐ る議論、の三層に分かれること。またこれらの議論は台湾/祖国(中国). をめぐる1930年代台湾人のアイデンティ意識が反映したものであったと まとめている。.  が、いずれも郷土文学論争を34年4月までとする点、また文学言語につい ては台湾話文か中国白話文か、という議論であり、そこには日本語による 創作の可能性は考慮されていないことにおいては共通していることを確認 しておきたい。.  一方、前述のように1934年5月6日、台中市において開かれた第1回台湾全 島文芸大会の様子の一部は、『台湾文芸』2巻1号に掲載された「第1回台湾 全島文芸大会記録」によってうかがい知ることができる。それによれぱ「文 芸大衆化案」は、準備委員会(欝委会)によって提案された7項目の提案の. 一っであり、その理由としては「台湾義務教育猶未普及、一般大衆智識尚 低、作品與読者宜立在不即不離之間方能普遍」 (台湾は義務教育がまだ発. 達していないので、一般大衆の知識レベルはまだ低い。そのため、作品と 読者は不即不離の関係にあるべき。さもなければその作品が普及していか ない。)、方法としては「一、描写與大衆生活有密接関係之作品 一、文 体與文字宜用一般読者容易理解程度 一、対一般大衆喚醒他椚的芸術趣味」.  ←、大衆生活が密接な関係にある作品を描くこと 一一、文体と文字が一. 般読者にも容易に理解できるレベルであること 一、一般大衆の芸術趣味 を喚起すること)の3点が挙げられている。この提案が満場一致で可決され. たわけだが、しかし「一、文体與文字宜用一般読者容易理解程度」とはあ. 一22−一.

(3) るその言語が何』であるかには言及されていない。また、この時付則「B 地. 方提案」として「漢宇音改読案」が呉宗敬によって提案されたが、これに 関しては審議委員会においては「不能実現」として否決、また大会審議時 においても否決されている。.  つまり郷土文学における文学言語をめぐる台湾話文か中国白話文か、の 議論や、その具体的方法にっいては棚上げされ、問題未解決のままの「文 芸大衆化案」の可決であり、「論争」は終息しても依然アポリアは残り続 けたということになる。. 3.巫永福「吾々の創作問題」の提起する問題  では次に、34年5月以降、文学言語をめぐる問題は如何に変化していった. か、ということを考察していこう。そのためには、できるだけ多岐にわた る当時の言説を分析する必要があるが、本稿では紙数の関係から、『台湾 文芸』創刊号に掲載された巫永福の「吾々の創作問題」および日本のプロ レタリア系文学雑誌『文学評論』に掲載された楊蓬の「台湾文壇の近情」 の2点の評論に絞って論じることにする6。  台湾文芸連盟の機関誌として34年11月に刊行された『台湾文芸』創刊号は 言語によって「第一部(白話文)」、 「第二部(和文)」に分けられてお. り、その「第二部(和文)」の冒頭に掲載されているのが「吾々の創作問 題」であった。この時すでに日本語によ1る小説、戯曲、詩を発表していた 日本語作家である巫は、同評論の中で以下のように述べている7。.  此処に吾々は注目しなければならないことがある。それは吾々の環境 と時代に依って作られる吾々の屈折である。.  吾々は吾々の歴史を振返つて見ようではないか。吾々の歴史は吾々の 環境と吾々の時代を決定する。更に吾々は言語、宗教と同時に菩々に残 された摸詩文学が喜々の血液と精神に共通を見出して、これら先人達の. 何だかのものが吾々に結びつけられて居ること等を考へなければなら ない。.  台湾人は生蕃人を如何に感化したであらうか。異文明だった日本文化. は吾々を如何変形したであらうか。更に日本文化と同時に西洋文明は. 一23−一.

(4) 吾々に如何なるものを齋したであらうか。更に吾々が持つてゐる在来の 姿がこれら後来の姿とは如何に相もつれて居るであらうか。更にまたか. つて吾々が母国と呼んだところの中華民国の諸動性が台湾人に及ぼす 影響は如何なるものであらうか。(中略)吾々の活動形式、習慣、言語、. 吾々の能力、吾々の食物と呼吸は常に外的な印象を受けて反復して居る。. っまり吾々は遺伝的な諸傾向と同時に根強い後天性を持って居ること を考へなければならない。.  吾々の言語は今では本島語と日本語との錯雑である。吾々の時代と環 境と吾々が台湾人なるが故にこの情態に立ち至ったのだ。吾々は留意し. なければならないe吾々はあらゆる影響下にあることを。吾々が台湾人 風に行為し感覚してゐる。これは自然なことなのだ。これは大いに注意 すべきことなのだ。この理論から派生する時吾々の郷土文学を持つ。  この巫の言説は以下の2点において注目すべきものである。. まず第1点としては、これは巫による「郷土文学」宣言であり、かつ巫が. ここで使用している「錯雑」という概念が、現在のポストコロニアル理論 におけるハイブリディティ(異種混交性/雑種性・ Hybridity)に繋がるもの. であることである。台湾原住民族に漢民族の移民が加わって形成されてい た台湾が、日本の植民地統治を受け始めたのが1895年。日本文化および主 として日本による近代教育を通して齎された西洋文明の影響の結果として の文化的ハイブリディティを肯定することこそが「吾々の郷土文学」なの である、という巫の発言は、現在にまで続く「台湾文学」とは何か、とい う問いに対する一つの明確な回答であり、それが『台湾文芸』創刊号にお いて提示されていた、ということは注目すべき点であろう。. 第2点としては、同評論には「言語の問題に関して」という「追記」が付 されており、そこでは「吾々は言語に困つて居る。そしてこの言語に依る 文体に困つて居る。吾々は漢文なると和文なると吾の描写表現力が不完全 であるために、減殺されて居る。」という「漢文/和文」の問題が論じら れ始めたことである。 「本島語と日本語との錯雑」を「自然なこと」と肯. 定し、「吾々の郷土文学」の出発点とする一方で、「漢文/和文jの「減 殺」問題を日本語作家の立場から論じる、という視点は34年5月以前の郷土 文学論争にはなかった新しい観点である。. 一24 一一.

(5)  総じていえば、『台湾文芸』に巫のような日本語作家が参入した結果、i台. 湾/祖国(中国)」アイデンティティおよび台湾話文/中国白話文をめぐ っての論争であった郷土文学言説に、日本および日本語の問題が大きな比 重で加わり、言説がより複雑化していったことを「吾々の創作問題」は示 しているのである。. 4.楊達「台湾文学の近情」の提起する問題  周知のように、34∼35年にかけて楊達(1905∼85)は精力的な評論活動を. 行っている。今回取り上げる「台湾文学の近情」は日本のプロレタリア系 雑誌『文学評論』の求めに応じて執筆されたものであり、楊達の視点から 見た郷土文学論争に対する要約がなされている意味で興味深い。同評論に おいて楊連は以下のように述べる8。.  日本プロ文壇で文学大衆化の論争が三回も繰り返されたと同じやう に、台湾に於いてもこの問題は幾度も重ねられたeこの問題に関連して 言語問題(即ち日本語に依るべきか中国語に依るべきか又は台湾の方言 に依るべきかにっいて)に迄発展したが未だ明確な解決は得て居ない。. 併し、台湾の大衆を対象とする以上自分の言葉を使ふべきであることは 当然の帰結であり、反対論者の論拠も自分の言葉を使つてはいけないと. 言ふのではなくて、台湾語を現す適当な文宇がないことにあるから、賛 成派は今コツコツと台湾語文の建設に動き出して居る。民謡、伝説、故. 事の蒐集整理はその一つの目標であり李献璋氏の努力に依つて近くそ の収獲が「台湾民間文学集」として台湾文芸協会から発行されることに なってゐる。.  この評論において注目すべき点は3点ある。まず、郷土文学論争を日本の プロレタリア文壇における文学大衆化との関連で捉えていること。次に、. 郷土文学論争において「日本語に依るべきか中国語に依るべきか又は台湾 の方言に依るべきかにっいて」の議論があったとしていること。最後に、 「自分の言葉を使ふべきであることは当然の帰結」であると、台湾話文派 支持の立場を表明していること、の3点である。. 一25一.

(6)  1、3にっいては別稿で考察した9ため、本稿では2について考察してみる。. まず言えることは、巫の「吾々の創作問題」と同じく、34年以降活発化し ていく日本語作家の台湾文壇への参与によって、郷土文学論争においては さほど顕在化しなかった日本語の問題が再提起されている、という点であ る。.  ここで思い起こすべきは、確かに郷土文学論争の多くは台湾話文/中国白. 話文をめぐる応酬であったが、その論争の出発点においては植民地台湾に おける日本語教育の浸透への危機感があったことであろう。陳培豊は「識 字・書写・閲読與認同二重新審視1930年代郷土文学論戦的意義一」におい て郭秋生「建設「台湾話文」一提案」および黄石輝「解剖明弘君的愚論」. が受けた検閲による伏宇に注目することで、この二人の台湾話文派が論争 に参与した本当の動機は日本の植民地教育による「国語(日本語)同化」 が漢文教育を圧迫し、文盲を生むことにあった、と指摘している10。  しかし、それならば何故、『台湾文芸』の和文欄の設置に関しては、ほと. んど議論らしい議論が行われることなく認められたのだろうか。前述の「第 1回台湾全島文芸大会記録(以下、記録)」を見る限りにおいて、意見が紛. 糾した様子はみられない。記録には準備委員会(欝委会)の提案した「機 関雑誌案」はr u五、編輯…公選和漢文編輯委員各一名」を含み満場可決、 とあるだけで、特にその意図も示されていないLl。’.  準備委員会の一人である張深切は戦後発表した『里程碑』において台湾文. 芸連盟成立当時のことをかなり詳しく回想しているが、和文欄設置の意図 については触れていない12。っいでにいうならば、台湾全島文芸大会では 「漢文」とされていたのが、『台湾文芸』では「白話文」になった経緯に. ついても明かされていない。ただ、「創刊当初の計画では中国語(原文は 「中文」)中心の雑誌とするっもりで、ヰ国語を前面に出した。当初は中. 国語・日本語を半分ずつにするものの次第に日本語を減らし、中国語雑誌 にするつもりだった。しかし、中国語作家は少なく、質量ともに日本語作 家にかなわない上、読者の要求や時流の影響もあって、日本語に重心が移 っていった」と説明しているのみであり、この「中文」が何を指すのかは わからない。もっとも、台湾文芸連盟が分裂の危機に瀕した際にその擁護 に回ったのが、呉天賞、劉捷、張文環、巫永福の四人の日本語作家であり、. この4人の実力が日本語反対派の動きを抑制し、組織を安定させた、という. 一一. Q6一.

(7) ことについて触れていることから、和文欄の設置に対して何らかの反対の 動きがあったことは確かであろう。.  1932年1月の『台湾新民報』の文芸欄設置や、それに伴う日本語長編小説 の登場、或いは33年7月の『フォルモサ』の創刊、34年10月の楊達「新聞配. 達夫」入選など、日本語教育の浸透とともに台頭する日本語文学の流れの 中で「自明」のこととして受け取られがちな『台湾文芸』の白話文/和文 の並置ではあるが、その実、さまざまな問題を含んだ事項であり、再検討 の必要があることを「台湾文壇の近情」は示唆していると言えるだろう13。. 5.まとめ  以上、34年5月の郷土文学論争終息以降発表された二つの評論に注目する. ことで、郷土文学論争においては顕在化することがなかったものの、常に そこには日本語の問題が存在していたのだということを明らかにしてきた。 最後に、郷土文学論争を底支えしていたとも言える日本語への抵抗が、『台. 湾文芸』においては漢文/和文欄の併置、言わばバイリンガルの容認とい う形で解消したのは何故か、という問題についていくつかの推論を述べる ことによって、今後の研究課題を整理しておきたい。.  まず陳培豊は前述論文において30年代台湾文学における文学の近代化お よび中央文壇への志向が、台湾話文による文盲救済という本来の目的を放 棄させたのである、という見解を示している14。また李承機がメディア史 研究において示した日本語による「知」の回路の「横領」という概念も注 目に値する1㌔李はメディア使用言語における不均衡が、日本語による「知」. の回路の「横領Jを招き、 「民衆」に対する台湾人エリートの動員力の低 下を齎したこと。さらには30年代後半に出現した台湾人「大衆」による「大. 衆文化」の消費が、日本語への無抵抗な受け入れに繋がったことを指摘し ている]6。前述の張深切の回想にもあったように、当初の意図に相異して、. 『台湾文芸』が日本語に傾いていった要因を考える上では、日本語教育の. 普及とそれに伴う日本語作家の台頭という時代背景と併せ、それぞれに重 要な示唆を与えてくれる17。.  しかし、和文欄の設置自体に拘ってより直接的要因を求めた場合、その鍵 は台湾全島文芸大会において「機関雑誌案」を提案した頼明弘(1915∼58). 一27−一.

(8) の存在にあるのではないだろうか。郷土文学論争においては中国白話文派 として活躍した頼ではあるが、日本への留学経験を持ち、工931年6月には井. 出勲、藤原泉三郎等とともにナップ系組織「台湾文芸作家協会」を結成、. その機関誌『台湾文学』に日本語による評論「俺達の文学の誕生にっいて. 一つの提議」を発表している18。また、36年には日本語小説「夏1を発表 するなどのバイリンガル作家であった19eまた、このようなケースは頼だ けに当てはまるわけではない。今後は、郷土文学論争に参与した台湾人作 家たちの個々の中国語/日本語リテラシーに注目することで、30年代台湾 文学における文学言語の問題をより詳細に分析していきたい2°。. 注 荏 頼明弘・林越峰・江賜金「第1回台湾全島文芸大会記録」『台湾文芸』2巻1  号、 1934. 12、 pp.2−7ロ. 2 目下のところ、最もまとまった郷土文学論争に関ずる研究書は陳淑容『一九.  三〇年代郷土文学/台湾話文論争及其余波』台南1台南市立図書館、2004で   あるが、同書においても郷土文学論争終結の時期を34年4月としており、本  稿でもこの立場を取る。 1 和訳に際してはお茶の水女子大学人間文化研究科博士課程の楊智景氏のこ協  力を得た。ここに記してF£憶を表す。 4 中島利郎編・著『日本統治期台湾文学小事典』東京:緑蔭書房、2005、p.68。.  郷土文学論争の具体的な内容については中島利郎編『1930年代台湾郷土文学.  論戦資料彙編1高雄1春暉出版社、2003を参照。なお、台湾語と中国白話文  の差異について、言語学者の黄宣範は村上嘉英編1現代闘南語詞典』(1981)  をもとに60.2%については台湾語・北京語ともに通用する通用宇、23%が北  京語ではすでに使用しないが台湾語では使用する本宇、14.・3%は対応する字.  が確定できない単音である、という統計を示している。黄宣範『語言、社会  與族群意識一一一一一台湾i語言社会学的研究』台北1文鶴出版有限公司、ユ993、p.38. 5 前掲陳淑容『一九三〇年代郷土文学/台湾話文論争及其余波』pp.84−209。.  前掲r中島利郎編1『1930年代台湾郷土文学論戦資料彙編』e松永正義「郷土文  学論争(1930∼32)にっいて」『一橋論叢』第101号第3号、1989. 3spp 352  −−370。. 一28一.

(9) 6. 巫永福「吾々の創作問題」『台湾文芸』1巻1号、1934年1月、pp.54−57。. 7. 巫永福は1913年に台湾中部の捕里に生まれ、29年に渡日、日本で教育を受 けた。]933年7月東京で創刊された台湾人留学生による日本諦i匡誌『フォル モサ』に参加、「吾々の創作問題」以前に「首と劉 (小説)『フォルモサ』 自」刊号、1933.7、 「乞食」 「故郷よ」 (詩)、 「紅綱賊」 (戯曲)『フオル. モサ』2号、1933.12、「黒龍1(小説)『フォルモサ』第3号、1934. 6を発. 表していた。但し、戦前に執筆した評論に関しては「吾々の創作問題と田 子浩名で執筆した「陳夫人について」『台湾文学』創刊号.1941.5以外}こは. 確認されておらず、『巫永福全集1全15巻、台北:伝神福音、1995にも収 録されていない。なお、『フォルモサ』については下村作次郎『台湾近代文 学の諸相一1920年から1949年一』関西大学審査学位論文、2004. 9、張文蕪 「1930年代台湾i文i芸界発言権争奪一《福爾摩沙》再定位」『台湾文学研究集 刊』創刊号、2006. 2、pp. 105−124参照。 8. 楊達「台湾文壇の近情」『文学評論』2巻12号、1935.11、引用は『楊達全集1 第9巻、台南:国立文化資産保存研究中心欝備盧、2001、PP. 400−408によ る。. 9. 垂水千恵「為了裏澱普羅大衆文学的確立一楊蓬的一個嘗試」柳書琴・邸貴芥 主編『後殖民的東亜在地化思考』台南:国家台湾文学E轍盧、2006、pp. 113 −・・’. @1 30。. 陳培豊「識宇・書写・閲読與認同一重新審視1930年代郷土文学論戦的意義「」. 行政院文化建設委員会・台湾清華大学・東亜現代中文文学国際学会主催「台 湾文学與跨文化流動:第五回東亜学者現代中文文学国際研討会」配布論文、 2006.10.26−28、 p.120 11. 前掲頼明弘・林越峰:・江賜金「第1回台湾全島文芸大会記録」。. 12. 張深切『張深切全集巻2 里程碑「又名:黒色的太陽(下)』台北1文経社、 1998、pp. 601−642。初出は1961年、台中聖工出版紘. 13. 河原功『台湾新文学運動の展開 日本文学との接閣東京:研文出版、1997、 pp.207−222においても、同人の17%が日本人であること、「号を重ねるにっ. れ、台湾人作家の間にも日文欄に筆を執る者が多くなってい」ったこと、の 指摘はあるが、何故日文欄が設置されたか、という疑問は呈されていない。. 和文欄の設置が日本人同人と関連していることは明らかであるが、では何故. 一29一.

(10)  そうした日本人同人の参与を認めたのか、またそれぞれの日本人同人はどの   ような背景を持った作家たちなのかも再考していく必要がある。 14. O掲陳培豊「識宇・書写・閲読與認洞一重新審視1930年代郷土文学論戦的意.  義■」P,24。 IS. 寶闃. 「植民地期台湾人の「知」’的体系一日本語に「横瀬」された「知」の.  回路」古川ちかし・林珠雪・川口隆折『台湾・韓国・沖縄で日本語は何をした  のか一言語支配のもたらすもの』東京:三元社、2007、pp. 40−57。 16. 苡續J子「国民大衆雑誌『キング』の台湾・朝鮮人読者の考察」『日本女子大.  学史学研究会』46、2005.11、pp.232−247において、台湾人の『キング』浸.  透率が朝鮮人以上に高いことを指摘しているe 17. R田あき子「日本統治時代の台湾における「日本語」の普及度一統計資料に.  基づく推定■」『東京国際大学商学部論叢編』59号、1999、pp.57−71は34  年における日本語普及率を男子14. 42”’36.37%、女子3. 12・“−IL 70e/o(数字.   の下限は公学校卒業者人口比、上限は公学校入学者人口比)、李承機「一・一一九三.  〇年代台湾における「読者大衆」の出現「新闘市場の競争化から考える植民.  地のモダニティ」呉密察・黄英哲・垂水千恵編『記臆する台湾帝国との相  剋』東京:東京大学出版会、2005、pp.245−279は18.68∼27.05%(下限は.  公学校で正規学校教育を受けた人口比、上限にはそれに国語普及施設を加え   たもの。男女別のデータはなし)と算定している。 18. O掲中島利郎『日本統治期台湾文学小事典』p.108。明弘「俺達の文学の誕生.   にっいて 一つの提議」『台湾文学』2−1、pp,2−4、引用は中島利郎・河原   功・下村作次郎『日本統治期台湾文学文芸評論集』第一巻、東京1緑蔭書房、   2001、pp.156−158による。 19. 竃セ弘「夏」『台湾文学』1巻2号、1936.3、pp.16−26。. 2°. {稿は2006年中の調査をもとに執筆したものであるが、2007年9月に本稿.   脱稿後、査読期間中の2007年12 Eに台湾に調査iに赴き、中央研究院助研究   員・陳培豊氏および清華大学助理教授・柳書琴氏のご協力により、陳培豊「由   叙事、対話的文体分裂現象来観察郷土文学 翻訳、文体與近代文学的自主性」.   陳芳明編『台湾文学的東亜思考』台北:行政院文化建設委員会、2007、柳書   琴「文化遺産與知識門争一戦争期漢文現代文学雑誌《南国文芸》的創刊」『台   湾文学研究学報il 2007.10等の新資料を入手した。ここに記して謝意を表すb. 一30一.

(11) 〈参考文献〉 河原功『台湾新文学運動の展開 日本文学との接点』東京1研文出版、1997. 下村作次郎『台湾近代文学の諸相一1920年から1949年一』関西大学審査学    位論文、2004.9 垂水千恵「為了塞溝普羅大衆文学的確立一楊達的一個嘗試」柳書琴・邸貴    芥主編『後殖民的東亜在地化思考』台南:国家台湾文学館欝備庭、    2006、 pp.113−130. 陳淑容『一九三〇年代郷土文学/台湾話文論争及其余波』台南:台南市立.    図書館、2004 張文蕪「1930年代台湾文芸界発言権争奪一くく福爾摩沙》再定位」 『台湾文    学研究集干1」』創刊号、2006.2、pp.105−124. 陳培豊「識字・書写・閲読與認同一重新審視1930年代郷土文学論戦的意義    一」行政院文化建設委員会・台湾清華大学・東亜現代中文文学国際.    学会主催「台湾文学與跨文化流動1第五回東亜学者現代中文文学国    際研討会」配布論文、2006.10.26−28 中島利郎編『1930年代台湾郷土文学論戦資料彙編』高雄:春暉出版社、2003 中島利郎編・著『日本統治期台湾文学小事典』東京:緑蔭:書房、2005. 松永正義「郷土文学論争(1930∼32)について」 『一橋論叢』第101号第3    号、 1989.3、 pp.352−370. 李承機「植民地期台湾人の「知」的体系一日本語に「横領」された「知」     の回路」古川ちかし・林珠雪・川口隆行『台湾・韓国・沖縄で日本    語は何をしたのか一言語支配のもたらすもの』東京:三元社、2007、    pp.40−57。. 一31一.

(12) 試論1930年代台湾文学中的語言問題 一従郷土文学論戦到く<台灘文ge>>一. 垂水 千恵 [関鍵詞]. 郷土文学論戦、(〈台避文藝》、台湾話文、中国白話文、識宇閲読能力. [摘要]. 1934年5月6日在台中市召開了第1回台灘全島文藝大會。而経由く<台避文藝》. 2巻1號中刊登的(第1回台灘全島文藝大會紀録〉我椚可以窺見這場大會之進 行状況。 在那當中由簿備委員會(籍委會)提案的七個項目之含了「機関雑誌. 案」和「文藝大撤化案」而獲得全場一致的表決通過。1930年8月以黄石輝襲 表於くく伍人報》雑誌上的一篇文章〈忽様不提侶郷土文学〉為契機,襲生了. 台溝話文提侶派與中國白話文提椙派的論事展,所謂的「郷土文学論戦」,. 也就此結束了。但論戦的結束決不等於説難題的解決。本文透過巫永福襲表 於1934年IL目創刊くく台潜文藝》雑誌上的一篇文章〈我{門的創作問題〉和楊. 逡襲表於《文学評論》的〈台湾文壇的近情〉論述分析,指出未解決的1930 年代台湾文学中的語言問題的存在。. 一144一.

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