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言論の自由の価値と裁判所の役割(3)--リー・C. ボリンジャーの『寛容な社会』を素材として---香川大学学術情報リポジトリ

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第67巻 第2号 1994年10月 275-342

言論の自由の価値と裁判所の役割

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一一リー.c.ボリンジャーの『寛容な社台会』を素材として一一

はじめに 第一章 「寛容の一般理論」の内容 第一節 イントロダクション

池 端 忠 司

第二節 自由に囚われていないか (以上第63巻第4号) 第三節 「古典モデノレ」とその限界 第四節 「要塞モデル」とその限界 (以上第64巻第4号) 第五節寛容なマインドを求めて (1)問題の所在:二つのモデルの限界,魅力,融合の可能性 (2) 寛容の一般理論の構築 (3) なぜ言論を保護するのか (4) なぜ極端な言論を保護するのか (5) なぜ裁判所に言論の自由の解釈,執行を任せるのか (6) なぜ要塞モデルは失敗なのか (7) なぜ寛容の一般理論は隠されてきたか (以上本号) 第一章 「寛容の一般理論」の内容 第 五 節 寛 容 な マ イ ン ド を 求 め て 本稿が素材としたボリンジャーの著書『寛容な社会』は,ここで紹介する第 ( 0) BolIinger, The Tolerant Socie(y, Freedom 0]めeechand Extremist Speech in

America(New York: Oxford University Press, 1986), (以下本蓄を引用する場合には

本文中に頁数のみを記す。なお本稿の注は,ボリンジャー自身が本文中に引用したものの 他に原注の中で触れている文献の出典も参考のために載せた。)

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-276- 香川大学経済論叢 510 四章「寛容なマインドを求めて」から,その本論ともいうべきものがはじまる。 しかしすでに紹介したイントロダクションや各章においても,彼は,自分の意 見を所々に挿入しており,それどころか,かなり突っ込んだ議論を展開すると ころが随所に見られた。おそらしこのことが,ある論者によって本書が循環 論法に陥っていると評価される原因を作っているのではないかと私は思う。 確かに,これまでの彼の議論のすすめ方は,本論の前に当然踏まなければなら ない手続きを踏んでいるという印象よりは,強引に自説に引きつけて議論を展 開しているような印象を我々に与える。つまり本書の特徴は,本書全体が本論で あるようなイメージを与えることであろう。そのことは,自説を他者に説得す るためには決して好ましいことではないし,その結果,彼の理論の真価が過小 評価される危険も生まれてこよう。しかし,彼が循環論法に陥ることを回避す るために,一つの工夫を行っていることも確かである。彼は一貫して具体的な 事件にもどり,自己の見解の現実的な基礎を確認するという作業を行っている (ただこのことがさらに繰り返しが多いという印象を我々に与えてしまうが)。 ここまでの議論を振り返ると,つぎのようになろう。イントロダクションで は,言論の自由の議論のレトリックに着目し,これまでの議論と自説の相違を 説明した。第一章では,なぜ、過激派の言論を保護すべきかという中核的な問題 に真剣に取り組むために,過激派の言論を扱った具体的な事件とその法廷意見 を撤密に分析することによって,言論の自由の持つ意味の再定義の必要性とそ れを保障する裁判所の役割の見直しの必要性,さらには,自由一般に対する闇 雲なこだわりが持つ問題性を指摘した。そこで,第二章,第三章でもやはりそ の中核的な問題に導かれ,これまでのいわば伝統的な議論がその問題にどのよ うに答えるかを検討した。その際,この伝統的な議論を大きな範鴎として「古 典モデ、ノレ」と「要塞モデル」に分け,その提示する解答の意義と限界を論じた。 以上のように,ここまでは,過激派の言論の保護の理由とは何かという一つ のテーマに貫かれ,議論が展開してきたといえるが,つぎの第四章以下では, このこつのモデルの評価すべき仮説や前提を遺産として受け継ぎ,それらを組 み立て直すことによって,寛容の一般理論に到達することをめざしており,こ

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こで紹介する第四章「寛容なマインドを求めて」は,つぎの章の「寛容の精神 の弁証法的対立」と一組になるものであり,前章が,寛容の一般理論をまさに 説明するのに対して,後者は,その理論の萌芽を伝統的な議論にさぐる試みで あり,そういう意味で,寛容の一般理論は,彼の単なるひらめきとしてではな く,伝統的な議論からの必然的な産物として提示されている。そして,つぎに 続く,第六章と第七章は,裁判所の役割論に焦点を合わせ自説を展開している。 さて,ここで扱う章の議論の進め方をはじめに説明して

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くならば,つぎの ようになる。まずはじめに,寛容の一般理論を構築する作業を行う。それは, 先にも述べたように,すでに紹介した二つのモデルの意義と限界を踏まえたう えで(1),それに続く議論として展開される (2)。そして,その際に,とくに目立 ワ特徴として,言論自体の持つ価値に着目するよりも,言論(さらには行動) に対する対応に着目し,その特徴と考える過度な不寛容への衝動の正当な評価 を前提にしており,さらには,自由な言論(言論の自由)の社会全体に及ぼす 機能に着目し,自由な言論がその領域を越えた社会全体の問題にかかわるとい う前提に立っている。 彼は,寛容の一般理論を構築したのちに,その応用として,どんな言論の自 由論も取り組まなければならないと彼が考える三つの問題に答えている。第一 の問題は,行動のうちのなぜ言論だけを特別扱いし,憲法上の厚い保障を与え るのかという問題であり,なぜ他の行動ではなく I言論」を保護するのかとい う聞いである

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。第二の問題は,言論の保護の理由が明らかになったとしても, 言論のうちでも我々の常識から判断してあまりにも過激なあるいは極端な言論 になぜ憲法上の保障を与えなければならないかという聞いであり,つまり,な ぜ「極端な言論」を保護するのかという問題である(4)。最後のもう一つの問題 は,言論の自由を規定する憲法の条項を解釈し執行する機関としてなぜ裁判所 が好ましいのかである。逆に言えば,なぜ、財産権のように,立法機関にその保 障を任せないのかという問題である (5)。 彼は,寛容の一般理論の応用としてこれらの問題に答えたのちに,さらに, 自説が,現代もっとも説得力を持つ要塞モデルとの関係でどのような位置にあ

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-278ー 香川大学経済論叢 512 るのかを説明する

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。それは,要塞モデルの側からみれば,なぜ、要塞モデルで はだめなのか,要塞モデルはなぜ失敗なのかに答えることでもあろう。そして 最後に,まとめとして,寛容の一般理論の基本原理を提示しており,さらに, 以前に触れた問題との関係で論じ尽くしていない論点に答えたあとで,その理 論がなぜ、現在まで言論の自由の議論の表面にのぼって来なかったのかを説明し ている(7)。以下本書の議論の進め方にそって紹介する。

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問題の所在:二つのモデルの限界,魅力,融合の可能性 (必二つのモデルの限界 言論の自由の理論のうち議論の表面に常に登場しているという意味で光の部 分を代表する古典モデルも,また議論の前面にはでないが,古典モデルと組に なって近年の言論の自由の議論に常に暗黙の裡に影響を及ぼしていたという意 味で影の部分であった要塞モデルも,ボリンジャーはともに満足できるもので はないと理解した。ボリンジャーは,寛容の一般理論を構築するにあたり,すで にこつのモデルの検討のところで明らかになった意義と限界をつぎのように要 約している。「我々がこれまで検討してきたこつのモデルのどちらも自由な言論 の原理の現代的な適用を説明するには乏しい説得力しか持っていない。古典モ デルは,自由な言論に関する今日の論争において実際に出会う多くの問題には 適切さを欠き,それだけではなく,人間性の現代的な理解という光にてらすなら ば,非常に単純すぎる諸前提や諸仮定に依拠する。古典モデルがそうするよう に言論活動の主要な利益を生む利用を明らかにするという問題に焦点をあわせ るならば,古典モデノレは,価値がもっとも低い形でしか存在しないような,極端 な事例の言論保護について,必然的にほとんど言う言葉がない。さらに,言論 活動を社会が規制する力をひどく締めつけた結果としての言論による我々が被 る社会的害悪に関する古典モデルの評価は,よく言って素朴であり,いずれにせ よ,公正さを欠くほどに控えめに述べられているように思われる。J(1

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頁) さらに,要塞モデルについてもつぎのように要約する。「他方,要塞モデJレは, 一方で極端な事例について比較的よく説明できるが,他方で非常に問題をふく む社会現実に関する概念に依拠しがちな一つの術策

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を提示する。

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つまり,言論の法的抑制に対抗して法的障害物を建てるために,要塞モデルは, 市民が内面的に相互に仲たがいし,それだけでなく政府との関係でも仲たがい した一つの社会世界を自明のものとレて仮定しがちであり,そのうえ遺憾なが ら率直さを欠く,操作されやすい姿勢を誘導しがちである。また,要塞モデJレ がそのもとで求める限定的な目標のために有効な戦略を提示しているかどうか という点,あるいは,要塞モデノレが仮定する社会現実が実際に真実であるかど うかという点でも問題をはらんでいる。J (104-105頁) したがって,彼にすれば,それらの原始状態のままでは双方のパースペクテイ ブとも,ひどく不完全である。つまり,それらは,かなりの程度まで,自由な 言論の名において何が実際になされているかを説明できず,その名のもとで何 がなされるべきかについての得心のゆく概念を提示できない。(105頁) (B) 二つのモデルの魅力 だが,つづけて彼はその魅力についてもつぎのように記述している。「同時に, 双方のアプローチとも,魅了のある,正統にも人を引きつける多くのものを含 んでいる。向上心や積極的な励ましの陳述として,人聞社会がそれに向かつて 努力すべき一つの理想を掲げるものとして一一それが真理探求や合理性であろ うが個人の自己実現であろうが一一古典モデルは,比較的古いコードを用いて うまく我々の心を引きつける。我々は,自分の先祖たちが求めてきたものの意 味を再定義する過程で,彼らが得たものを我々がどこまで権利として主張でき なかったかを思い知らされる。他方で,要塞モデルの第一の強さは,人間の性 格

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に関する批判的考察を避けないことである。我々は,自分の美徳、 をほめたたえるというよりも,そのモデルの影響のもとで,進んで欠点を批判 し,さらに,その位置を見定める。J (105頁) (C) 二つのモデルの融合の可能性 最終的に,ボリンジャーは,この二つのモデルの融合の可能性を模索するこ とになる。「より好ましいことは,双方のアプローチの最良のもの,つまり古典 モデルの理想主義と要塞モデルの現実主義を,それらの限界の殻を自然に落と しながら,ブレンドすることであろう。それははたして可能なのか。もしも我々

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-280ー 香川大学経済論叢 514 が自由な言論の原理に関する今世紀のアメリカ合衆国の経験を考察するなら ば,それらの古典モデルと要塞モデルに向けられた異議申し立てに対して答え ることの可能な,姿を現しつつある自由な言論のある概念を確認することがで きるのだろうか。自由な言論はこれまで検討したものに加えて,もう一つの機 能を果たすのか。私は,果たしていると信じるし,果たしてきたとも信じる。 といっても,多くの原因によって,この機能はいままで自由な言論についての 我々の議論の表面にはのぼらなかったが。J (105頁)

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寛容の一般理論の構築 (必寛容の一般理論と二つのモデルの関係 以上のように,彼は二つのモデノレのブレンドから新しい概念を構成すること を試みるわけであるが,その作業にあたり,ニつのモデルの検討から導きだし た伝統的な議論の展開や道筋のどの部分を容認できるかを説明している。 ボリンジャーは,まず古典モデノレの主張に答えて,不寛容の背後に潜む欲求 が信念や人格に直接かかわるという意味で重要であることを指摘し,それをつ まらないものにしてはならないと主張した。さらに,要塞モデ、ノレが不寛容への 衝動によく気づいており,実際に法的な措置の必要性を説いたが,しかし逆に その衝動を誇張しすぎて,まったく見当違いな方向に理論が行ってしまうので はないかという疑問を提示した。また,別の領域でも同様の不寛容が生じるの であれば,単に言論の領域で法的な障害物を立てるだけでは無意味であり,そ れは,むしろ法的に保障されている話す権利すらも台無しにする危険があるの ではないかという主張も行った。彼は,以上の議論の展開を容認したうえで, 不寛容の衝動という現実のもとで,自由な言論の極めて重要な社会的役割を確 認できると述べている。 (105-106頁) (B) 法の機能変革の結果としての寛容の一般理論 そこで,彼は,これまで見過ごされてきた自由な言論の原理が果たす極めて 重要な社会的な役割を探求するために,まず法の機能の考え方の再検討が必要 であると考え,つぎのように主張している。「これを行う[自由な言論の原理が 果たす極めて重要な社会的役割の確認をする]ために,我々は,自由な言論の

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社会的役割に関する自らのヴィジョンを再び整理することから始めなければな らない。つまり,そのーっとしては,法が社会で果たすことのできる機能とは 何であり,実際に果たしている機能とは何であるかについての自らのヴィジョ ンを改めることから(要するに,言論活動の規制を許すための理由を展開した ときに,本書のはじめのほうで用いた法の機能についての概念を借りることか ら)始めなければならない。我々は,言論への過度の不寛容を用いてリアクショ ン す る 社 会 内 の 傾 向 に つ い て の 要 塞 モ デ ル の 性 格 づ け と さ ら に そ の う え (仰d),この傾向が自由な言論の文脈を完全に越えてその姿を現すことが避けら れないというその解答となる主張を(完全にというわけではないが,かなりの 程度)容認できるが,それにもかかわらず,自由な言論の原理がまさしく社会 がこのより広範囲に及ぶ問題を処理しようとするときに用いる一つの重要な手 段であるという理由によって,自由な言論の原理を価値のある大仕事(enter -prise)と理解できる。この考え方からすれば,もしかしたら隔離された言論活動 自体が,より広範囲に及ぶ問題をなんとか解決するかもしれないという希望を 付け加えることによって,自由な言論は,単に言論という特別な活動をあの悪 しき傾向から保護するための手段を提供することからではなく,至るところに ある社会の無力に本気で、取りかかるための手段を提供することから,その魅力 を引き出す。J(106-107貰) ([ ]内は引用者加筆) ここでは,言論の自由の原理という法あるいは法理の役割をどのように考え るべきかについて,法の機能とは何かというアプローチから議論している。要 塞モデノレの主張とは途中までは一緒であるが,少なくとも明示的に表明してい るという意味で途中から別の道をいくことを説明している。つまり,彼は,言 論に対する不寛容への衝動に傾く社会の傾向についての性格づけと,その傾向 が言論に限らず他の領域においても浸透していることの認識までは容認する が,それを越えて,要塞モデルのようにその傾向に対する社会一般の無力を帰 結せずに,むしろ言論の自由の法理がそれに対する何らかの処方筆となり得る ことを明示的に主張する。すでにこれは寛容の一般理論の内容を示唆するもの になっている。

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-282ー 香川大学経済論叢 516 さらにつづけて,ボリンジャーは,法(憲法)の通常の機能と考えられてい る自由な領域への介入の障害物の機能だけではなしさらに社会の知的性格を 作りだすことに役立つていることを主張し,つぎのように自由な言論の法理の 役割を見直す。「しかしながら,今日の段階では,我々は,その原理の背後にあ る目的が,言論を保護することではなしむしろ,一般に『過度の不寛容への 衝動』と呼んできた現象を処理することであると記述したほうがよいであろう。 たとえ,我々が言論活動という限定された文脈に限って普通では考えられない 寛容度を力説することによって,そうするとしても。自由な言論の役割は,単 に,社会での言論活動に対する法的抑制の適切なレベノレを管理すること

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よりも,はるかに重大な能力の開発に向けられる。その法原理は, より広範囲に及ぶ、争点に本気で取りかかるために,小さな活動範閤で,特別な やり方で,作動する。法(この場合は,憲法 (constitutionallaw))は,侵入を 阻むものとして使われるだけではなく,ほかならぬ社会の知的性格を作りあげ るための手助けにかかわる一つの主要なプロジェクトとして使われている。」 (107頁) ここで,ボリンジャーは,寛容の一般理論のスケッチをしたことになる。以 下では,この理論がどのような役割を果たすのか,そして,とくに今日の時代 に合った自由な言論の理論の発展をたえず悩ましてきた先に述べた三つの根本 的な争点の理解にこのヴィジョンがいかに役立ち得るかをみることになる。 しかしながら,彼は,その作業に入るまえに,それよりもこの理論の必要不 可欠な前提条件にさらにきちんと腰を据えるために,要塞モデノレの検討のとこ ろで展開した点,つまり「言論への過度の不寛容は社会行動においてより広く 行き渡った偏見の特異な現れにすぎない」という点までしばらく戻り,寛容の 一般理論の基礎固めを行っている。 この作業が明らかにしなければならないことは,第一に,言論の領域で生じ ている不寛容の衝動が本当に他の領域での不寛容の衝動と同じものであるかを 確かめることであり,ボリンジャーは,言論の領域と言論以外の行動の領域に 分け,どのようにその不寛容が生じているかを検討し,そこで生じている問題

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の共通性を確認している。第二に,不寛容の衝動に対応した工夫が行動処理の システムにおいて存在していること,さらに,そのコントロールの能力が社会 のほとんどの領域で欠かせない資質となっていることの確認である。以下順を 追ってボリンジャーのそれらの説明を紹介することにしよう。 (C) 寛容の一般理論の基礎固め ケ) 不寛容への衝動の探求がおろそかにされた理由 まず,ボリンジャーは,なぜ不寛容への衝動についての研究がこれほどおろ そかにされてきたのかを検討している。我々は,社会関係のさまざまな領域で しかもさまざまな形で,不寛容な行動をとっているが,それらの共通の根をつ ねに理解しているわけでない。ボリンジャーは,この原因が自由な言論の存在 理由にアプローチする伝統的な言論の自由の法理の考え方にあると理解する。 「我々は,多様な方法でかつ社会的相互行為の多様な場面で『不寛容』になる ことを承知している。しかし我々は不寛容な行動とみなすものの大半のその共 通の根をつねに理解しているわけではない。その一つの原因は,自由な言論の 存在理由に答える論理に我々がアプローチするときの方法にある。我々は,言 論がもたらし得るよいことを理由に言論に注目するのであって,言論が号│き起 こす害悪とか言論が呼び起こす対応を理由にではない。我々が第二章で見てき たように,自由な言論の原理のもとで言論に特別な保護を与えることを正当化 する伝統的な努力は,言論活動を通じて特に実現されると考えられるあの賞賛 すべき目標一一情報や思想の交換,個人の自己充実のような目標ーーを明らか にしようとレてきた。言論は,その追求に欠かせないものとして支持されるが, 他方,言論規制はそれらの実現にとって脅威である。もちろん,その一般的な ノfースペクティブはある程度まで正しいが,自由な言論という理念が果たし得 る社会的役割についての我々の認識を限定してしまうという遺憾な結論に至 る。J(108頁) さらに,言論の価値に着目し言論の存在理由を説明する立場は,言論の自由 の主張者たちに,言論が直接仕える価値を強調させ,それとは逆にそれ以外の 価値を軽視させる結果になった。これが,言論に対する人間の通常の対応の背

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284- 香川大学経済論叢 518 後にある考え方,論理に注目しない傾向を促進したことになる。このことはつ ぎのように説明される。 r(ウィグモアが指摘したように)そのパースペクティ フやは,両極端な目的で自由な言論の主唱者たちを登場させた。つまり一方はそ れらの人間の追求を過度に重視するために,他方はその他の重要な人間の目的 を無視するために。さらに重要なことに,自由な言論の社会的な正当性を明ら かにするために言論を通じて追求し得るそれらの諸活動に焦点をあわせること によって,我々は言論行為に対する人間の通常の対応の背後にあるその論理に 少しも注意を払わない傾向にある。我々は,その論理をただ退治すべき敵であ ると理解し,他方で,情報の取得のような他の目標を追い求める。我々は,つ ぎのような意味でその論理を放ったらかしにしておくことによって,つまり(望 ましい目標だけでなく望ましくない目標のためにも)その論理がどのぐらい広 い社会的相互行為を横切って進むのかを理解せず,その論理が誰にも問題のあ る感情(この感情が生じる文脈は人によって異なるが)をどれほど含んでいる かを理解しないことによって,今度は,その論理が持つ社会的な交渉を遮断す る傾向にある。したがって我々は検閲行為にときどき現れる偏見のその広がり

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に関するいくつかの基礎的な命題を調べることから始めるべきで ある。J

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頁) 以上のように,ボリンジャーは,不寛容への衝動がこれほど問題であるにも かかわらず,あまり議論されてこなかった原因を,自由な言論の存在理由を問 うアプローチの仕方に帰した。 付) 社会の言論検閲ネットワーク (a) 確立した多数派の手中にある社会の言論検閲ネットワーク そこで,つぎにボリンジャーは,本格的に基礎固めの作業に入ることになる。 まず彼は言論活動に対する対応あるいはリアクションの検討に向かう。しかも 我々が言論活動の法的抑制だけでなく,非法的な形態の抑制をするときでも, いかに過度に走る傾向があるかを確認する。また,彼は,法的な抑制だけでな く,非法的抑制を含め,言論に対する抑制を検閲行為と呼んでいる。それは, 言論活動を社会的にコントロールする広範囲に渡るネットワークの存在を意味

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し,この検閲の機能を果たすネットワークは,数限りない形態の検閲行為の集 まりであり,そのすべてが確立された多数派によって常に利用できるように なっていることをつぎのように説明する。「人間性の一つの傾向が,言論活動の 法的抑制に訴えるときに生じる過度のリアクションであるとするならば,我々 は同様に法的でトない強制という形でもこの傾向が姿を現すことを覚悟しなけれ ばならない。言論活動を社会的にコントロールする広範囲なネットワークが存 在することは,議論するまでもないことである。我々が信じているものを間違 いであると主張する者や,あるいは我々が不適切であり有害であると思う文脈 で,あるメッセージを伝達する者に対して,我々は対応すべきかどうか,どの ように対応すべきかを決定するという問題につねに向き合っている。我々は, 言論者とつき合うのを拒否し,ある種の宗教的コミュニティが絶大な効果を もってするような方法で,彼または彼女を避けるべきかどうか。我々は,言論 者をあざけり,彼または彼女を軽蔑し,そうすることによって損害を与え得る 言論の潜在能力を行使し,その行使の過程で自分が正しいことを示すのか(ま さに我々が第二章で議論したように)。その[検閲の]利用可能性は,我々が非 難の気持ちを表現する方法と同様に限定されていなしユ。我々の雇用機会,社会 生活,コミュニティの地位に影響を与える力のすべてが,確立した多数派の手 中にある。J (1

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頁) ([ ]内引用者加筆) (b) 言論の自由の法理も多数派の手中の言論検閲ネットワークを容認 また,彼は,意外にも,確立した多数派の手中にある言論検閲のネットワー クという現実を自由な言論の法理自体も前提にしていることを指摘する。「それ どころか,自由な言論の法理自体が,いくぶん後ろ向きではあるが,この現実 を認めている。というのも,自由な言論の法理が(いくらか変形を伴うが)こ れまで容認してきたコモン・ロー上の名誉鼓損の不法行為も,プライヴアシー の侵害も,ともに,ある信念を抱いたことゃあるいは擁護したことである人を 非難した者に対して,その非難された者が民事訴訟を提起することを許してい るからである。また,自由な言論の判例も,公開の討論や集会で匿名でいられ ( 1) Restatement (Second) of Torts, Sec 599 (1965); Id. Sec 652 D; Gertz v.. Robert

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-286- 香川大学経済論叢 520 る場所を州が排除できないと判示し,人々に自分のアイデンティティの公然の 開示を求めることが,社会的な汚名(stigma)の力によって多くの人々に自分の 意見を表現させないことになると認めた。これらの点で,修正第一条の法理は, 個人が,ある信念を抱いておりそれを擁護しているとコミュニティが信じある いは知った場合にときどき個人に降りかかり得る人身攻撃の惨たんたる結果に 気づいている。もしあなたがかつて共産主義のシンパ,ファシスト,無神論者 または嘘つきであったと言われたならば,そのことは,少なくとも社会の大方 の地区では,投獄され科料に処せられたも同然の衣食に事欠くほどに社会的に も経済的にも,あなたをのけものにすることができる。J(109-110頁) つまり,名誉駿損やプライヴァシー侵害の訴訟は,いわば,多数派の手中に ある言論検閲のネットワークに逆らってそれでも表現した言論者が,ふたたび そのネットワークに戻されることを意味し,集会での匿名の権利払多数派の 手中にある言論検閲のネットワークが存在するがゆえに,そこからの解放を意 味する匿名の権利があって,はじめて自由な表現が可能になることを意味する。 その威力は,法的な抑制と同様に,あるいはそれ以上に,我々の存在自体にか かわるものである。 (c) イギリス社会の言論検閲ネットワークの威力 ここで,ボリンジャーは,イギリス社会の多数派の手中にある言論検閲のネッ トワークが本来の法的な検閲よりもその威力がまさっていることを指摘するも のとして,ミノレの言葉を引用している。「人々が,自分たちが自由だと考える信 念を否定する他の人々に対して抱いている意見や,その宿る感情こそが,この 国を精神的自由の地としていないものなのである。これまでトの長いあいだ,法 的な刑罰から受けるいちばんの被害は,それによって社会的な汚名がたかまる ということである。実際に有効なのはこの汚名であって,それは非常に有効な ので,社会的に禁止されている意見がイギリスで公言されることは,他の多く の国々において,法的刑罰を受ける危険があるような意見が公言されるよりも, We1ch, Inc.., 418 U S 323 (1974) (2) Talley v.. California, 362U 3..60 (1960); NAACP v.. Alabama, 357 U. S引499(1958).

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はるかにすくないのである。J (110頁) (d) ともに過度に走る法的・非法的な制裁 こうして,ボリンジャーは,言論に対する不寛容の法的な制裁と非法的な制 裁が,相互に依存的な関係にあることを認めながら,過度に適用される傾向の あることをつぎのように指摘する。「法的でない制裁と法的な制裁のその互いに 他の存在なしでは独立に存在しない力にもかかわらず,我々は,法的な強制に ついて認め,同様に法的でない強制にも存在するにちがいないそれらの制裁を, 過度に適用する同様の傾向に合理的に気づくことができょう。法的な抑制や処 罰に対する人民の態度が,特別に自制がきかない傾向があると考えるのは,ほ とんど理由がないように思われる。J (110頁) (ウ) 言論以外の行動を支配する先入観 (a) 伝統的自由主義やミルの寛容論も行動について言論と同様 つぎに,ボリンジャーは言論以外の行動に対するリアクションについて検討 する。「言論以外の行動に対する我々のリアクションはどうであろうか。過剰に リアクションしたりあるいは不寛容にリアクションしたりする同様の傾向がそ こでも経験されるのか。もちろん,その答えはイエスである。人々との個人的 な出会いにおいても社会的な出会いにおいても,我々は,まさに何が他者に従 うことを求める信念または価値なのかを決定するという問題に常に向かい合っ ている。この選択において,言論行動による思想の表明が,不当なリアクショ ンを引き起こし得るような感情を我々に生じさせるならば,我々は,その他に よる,つまり言論でない行動によるマインドの表明も同じようになることを覚 悟すべきである。そして,もしも我々が伝統的自由主義のパースペクティブ 一一一すなわち言論が単に行動

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の前触れであることーーから言論行為を 考察するならば,我々は,言論によって生じた対応が,その行動自体によって 疑いもなく生じたのだと理解する覚悟をしなければならない。実際,このロジッ ( 3 ) Mi11, On Liber1Y, ed.C.V. Shields (N ew Y ork: Bobbs-Merri11, 1957) 38-39.. (J S ミル著・早坂忠訳「自由論Jrべンサム

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ミル』世界の名著49・中央公論社・ 1979年・ 250頁。)

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-288ー 香川大学経済論叢 522 クは,たとえ暗黙の裡だけでも,自由な言論の理念を支持する伝統的自由主義 者たちによって広く受け入れられている。たとえば,寛容を擁護するミノレの古 典的な主張は,つぎのような一般的なものであった。すなわち,その主張は, あらゆる種類の行動についての正統派的慣行 (orthodoxy)を確立したいという 基礎的な衝動を思い描いたのちに,行動のある種のカテゴリー(自尊的な行動 (self-regarding behavior)というミノレの理念)が,完全に近い寛容を受けるに 値すると言い得るための普遍的な原理を提供しようと試みた。言論は,単にこ のカテゴリーに属する一変種にすぎなかった。我々が行動の社会的コントロー ルに必要な適切な境界線を定義するために一般的な原理を最終的に引き出すこ とができるかについてのこのタイプの研究は,今日まで続いており,いまも主 として一一それは長い間そうであったようにー)性に関する行動の問題に焦点 をあわせている。J (110-111頁) このように,ボリンジャーは言論以外の行動に対するリアクションについて, 言論の場合と同様の過度の不寛容への傾向があると理解するが,伝統的な自由 主義の理論やミルの寛容論も,そのことを前提としていると指摘する。つまり, 伝統的な自由主義の理論は,言論を行動の前触れであるとし,言論は,その行 動と同視されたときにはじめて規制可能であると理解するが,これは,むしろ 行動に対する過度のリアクションを認めていることを意味するものである。ま た, ミルの寛容論のアプローチの仕方は,まず行動を導く基礎的な衝動を想定 し,つぎに守るべき行動類型が完全に近い寛容を受けるための線を求めるとい うものであるが,そこでは言論は特別扱いされず,行動の一変種として理解さ れているにすぎない点で,やはり言論以外の行動にも同様の傾向が存在するこ とを認めていることになる。 (b) 修正第一条の法理も行動について言論と同様 ( 4) Stephen, Liberty, Equali~y, Fraternuy(Cambridge: Cambridge University Press,

1967);Hart, Law, Liber~y, and Morali~y (Stanford, Calif: Stanford University Press1963);DeviIn, The Enlorce月~ent01 Morals(London: Oxford University Press

1965);H.L A Hart“,SociaI SoIidarity and the Enforcement of Morality,"in Essays in Jurisprudenιe and philoso#y(Oxford: Oxford University Press1983), 248

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さらに,ボリンジャーは,言論の自由や他の自由権を規定する修正第一条の 法理!も言論活動を越えた領域での不寛容への衝動に備える必要を強調するきざ しが存在することを指摘している。それは,一つには,信教の自由が,単にそ の内心の自由を意味するだけでなく,宗教行事,宗教的活動の自由までも包摂 することを意味し,もう一つは,思想、を伝達するが,本質的には言論ではない 行動を意味する象徴的言論と呼ばれる言論の一類型が,言論の自由の法理に よって保障されてきたことを指す。「修正第一条の法理自体のうちでさえも,言 論活動を越えた領域での不寛容への衝動に備える必要性を強調する徴候があ る。たとえば,宗教という点で,修正第一条によって与えられた保護は,宗教 的な見解や信念の擁護をカヴァーするだけではなく,同様に宗教的活動をもカ ヴァーする。我々が検討している衝動は,言論とその他の行為を区別しない。 すなわち,それとは逆に,その衝動は根底にある態度や信念のどんな表明にも かかわり,それゆえすべての文脈でそれに備えなければならない。さらに w象 徴的言論~(思想を伝達する本質的には言論でない行動一一我々が第六章でさら に詳しくとりあげるであろう修正第一条の一分野)と呼ばれる言論でない行動 の領域全体一ーは,言論活動をコントロールしようと狙う閉じ衝動から『象徴 的言論』を保護するために,修正第一条につぎ木されてきた。たとえば,服装 は,言論でない行動の一形態であるが,パジヨットが述べたように,迫害した いという欲求を刺激することがある。J (111頁) ( c) 言論を越えて働く不寛容への衝動(先入観) 以上の言論とそれ以外の行動の双方について確認した過度の不寛容への傾向 がなぜ、生じているのかをボリンジャーはつぎのように説明する。「したがって, 我々が直面する問題は,単に言論に関して我々の信念及び価値をあまりに強く 主張しようとする衝動をコントロールするという問題だけではない。すなわち, その衝動は,すべての行動に脅威を与えるのである。他人とは異なった存在と して,異なった価値や信念,異なった生き方に興味を持つものとして自分をと (5) 51

m

App 3d 279, 9 l1L Dec. 90, 366 N. E. 2d 347 (1977); 366 N.E..2d 357; 69Il12d 615

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-290- 香川大学経済論叢 524 らえるすべての人は,この衝動が過度になることによって潜在的な犠牲者とな る。宗教団体の信者以外で,そのような不寛容のもっとも一般的な犠牲者は, 人種や国籍の異なる人々である。我々は,この形態の不寛容を検閲』という よりも『先入観』と一般に呼んでいる。だが,その先入観は,その下に横たわ る同様の心理によってつねに刺激される。我々に不寛容をもってリアクション させているものは,典型的には,現に作動していると気づかれているマインド (mind)についての,つまり個人または多数者の論理の道筋についての懸念であ り(たとえ,それが政治的信念にしろ一般的な態度にしろ価値にしろ,あるい は人がそれを呼び得るどんなものにしろ),そして同様に重要なのは,この論理 の道筋が,それらの異なった信念,態度または価値を抱いている人またはそう 見える人々の行動によって本質的に伝達されるという事実についての懸念であ る。J(111-112頁) まとめとして,ボリンジャーは,言論を越えて過度に不寛容への衝動が働く ことが,宗教団体のメンバーや人種や国籍の違う人々を犠牲者にしてきたこと を指摘し,それは通常「検閲」による被害とは言わず r先入観」による被害と 呼ばれているが,しかし,そのこつは同様の心理によって動かされると理解す る。つまり,それは,現に作動しているのではないかという程度の他者のマイ ンド,ものの考え方,論理の道筋に対する懸念であり,また,それらが行動に よって伝達されることについての懸念である。 〈エ) 先入観と,行動の背後にあるマインドの関係が無視される理由 (a) 先入観の根拠の漠然性と憲法構造が強いる問題処理の手法 ここで,ボリンジャーは,この不寛容の基礎である先入観についてさらに詳 しく考察する。しかも,ボリンジャーは,現にいま有効に作動していると気づ かれている程度のマインドやものの考え方に対する懸念と,それが行動によっ て伝達されることの懸念が,検閲や先入観を刺激してきたという現実があるに もかかわらず,人種的な先入観について,その現実が正しく捉えられてこなかっ た理由を説明する。「それ[不寛容が先のニつの懸念に由来すること] は,イ デオロギー (ideology)という視点についての我々の考えを多少再考してみるよ

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うに求めるが,それは,政治的,宗教的,人種的集団,そして外国人やよそ者 に対する,つまり言論と言論でない行動に対する,それらの諸々の領域での不 寛容が,その犠牲者の行動(遺憾ながら,ある犠牲者には行動は単に行動だけ の意味しかないが)によって表明されたイデオロギーまたは論理の道筋に対す る懸念に多くの場合動機づけられると考えるうえで,有益であろう。我々は, 人種的先入観のようなものについて,この現実を見ない傾向にある。というの も,不寛容を引き起こす根拠として一般に利用される主張(肌の色)は,その 他の(たとえば「共産主義者」に対する)不寛容のために使われるものほど正 確でないからであり,存在すると気づかれており (perceived),厄介であると考 えられているイデオロギーは,不寛容を一般的に鼓舞する通常の政治的および 宗教的イデオロギー(ふたたび,より具体的な政治的イデオロギーの例として 役立ち得る共産主義と宗教的信念のシステムのカトリシズム)よりも漠然とし ており,それほど明確でないからである。おそらし我々がそれらを関連づけ ることに失敗したもう一つの源泉は,それらのさまざまな領域での過度の不寛 容という問題を別個に扱った連邦憲法自体の構造であり,その方法はまずはじ めにそれぞれ異なる諸原理を宣言し,つづいてそれらの諸問題を数の上で区別 されただけの諸カテゴリーに配置するというものである。それにもかかわらず, 結局,それらのさまざまな社会的な相互交換の諸領域で処理された不寛容な対 応が,その下に横たわる思想または動機の重要な統一体を生むという事実は変 わらない。この点では,Neierが,要塞モデルを根拠にスコーキ一事件でACLU の立場を弁護しようとしたときに,単に言論の権利の侵害だけではなく,反ユ グ、ヤ主義の先入観のあらゆる形態を巻き込むものとして,ユダヤ人に対する潜 在的な不寛容という亡霊を配したことを思、い出すことは,教訓的である。言論 に対する深刻な不寛容の歴史は,諸集団の成員たち,とりわけ外国人に対する 過度の不寛容と通常結びつけられる(その最も悪名高い検閲法は外国人及び扇 動法である))。」 (112-113頁) ([ ]内引用者加筆) ( 6 ) Chafee, Free Speeιh in the United States(Cambridge: Harvard University Press, 1941, rpt..New York: Oxford University Press, 1965)

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-292ー 香川大学経済論叢 526 ここでは,二点が,具体的に人種的な先入観の基礎にあるものについての理 解を妨げてきたことが指摘された。一つの理由は,先入観の根拠(肌の色)が 他と比較して正確でないζと,言い換えれば,存在すると気づかれているが, 厄介であると考えられているそのイデオロギーが漠然としていることであっ た。さらに,憲法の構造自体が問題の発生個別領域ごとの処理を要求し,それ にうまく入らないものは,ないものとして扱われて来たことが指摘された。 (b) 社会的コントロールの問題を扱うミル的伝統の手法 また,ボリンジャーは,憲法の構造が導く問題処理の手法とともに,もう一 つ,議論の立て方として,行動の社会的コントロールを問題にする場合に,特 定の問題に焦点をあわせてきたことをあげている。そして,そのことが,やは り先入観が気づかれているマインドの懸念によって刺激されている現実を見な い傾向を導いてきたと理解する。まず彼は行動の社会的コントロールに関する 議論で特種な問題にあわせてきたことの説明をつぎのように行っている。「この 点と並んで,言論という行為を(不当にも)検閲したいと我々に思わせる感情 が,言論でない行為に(ふたたび不当に)禁止または制裁を行いたいと我々に 思わせるかどうかを考えるときに,我々は,ある特種な問題に実際に焦点をあ わせてきた。すなわち,我々が嫌悪し非とする行動が,いったい (atall)制裁を 受けるべきか,あるいは禁止されるべきかを決定することであった。我々はこ れまで見てきたように,ある考えの言葉による表明が,不寛容へと駆り立てる ならば,我々は,ほとんど確実に同様の考えを反映しまたは実行する,言葉に よらない行動が同様に不寛容へと駆り立てるであろう。我々はすでに記したよ うに,多くの人々は, ミJレの跡に付いて行きながら,行動の社会的コントロー ルが適切となるその線を定義するという問題に悪戦苦闘してきた。人間の活動 のいくつかの領域(宗教のような)は,コミュニティの合法的なコントロール (少なくとも法的コントロール)を越えているものとして今日広く認められて いる一方で,社会規制の正当な範囲に関する広い不一致が存在すると思われる 活動の範囲(たとえば,性に関する実践)がある。したがって,道徳のための 合法的な社会的コントロールと私的自由の活動範囲との区切り線をどのように

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引くかという争点は,いまでも我々にとって非常に重要であり,明らかにあま り遠くない将来もやはりそうあり続けるであろう。J (113頁) つまり,先入観と行動の背後にあるマインドへの懸念の関係をみないように させているものとして,憲法の構造が導く問題処理の手法とともに,もう一つ の議論の立て方があった。それは,議論のある非常に特殊な領域において何を 禁止すべきかと言う問題を設定してきたことを指す。これは, ミノレからの伝統 的アプローチを踏襲するものであり,行動の社会的コントロールの一般理論と して現在でも重要な問題ではある。 (c) 何をだけでなく,どれだけ処罰するか そこで彼は,前述の問題の立て方との関連で,不寛容の反応が正当化できる だけでなく,どのようにその不寛容を表現することが正当かという問題も考慮 すべきことをつぎのように指摘する。「しかし,我々が過度の不寛容への衝動と 呼んできていたものに対処するという問題が何を禁止すべきかの決定だけであ ると考えることは,重大な誤りであろう。いっそう重要なことは,正確にいえ ば,ここで我々が展開している自由な言論の意味にとっていっそう重要なこと は,コミュニティのコントロールの範囲内に合法的に入る行動をどれだけ (how much)処罰するかを決めるという問題である。別の言い方をすれば,過度の不 寛容への衝動に関して我々が直面する問題は,何が制裁に値するかという争点 を解決することだけではなく,正当に処罰できるものをどのように処罰するか という問題に答えることである。J (113頁) (d) トロイ戦争,アメリカ大使館人質事件 なぜ,その問題を考慮することが重要なのか。彼は, トロイ戦争やイランで 起きたアメリカ大使館人質事件を例にあげてつぎのようにそれを説明してい る。「パリスがへレンを唆し, トロイ戦争に火を付けた(そしてアガメへノンが ハアキレスの妾を略奪することによって辱めた)ときから,我々は,どれほど 明らかに,不正行為が個人およびコミュニティのアイデンティティを脅かし挑 戦することができ,それに対応して取るべき行動の正当な道について彼らに最 も深刻な争点を提示することができたかについて書いてきたし,何でそこまで

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-294ー 香川大学経済論叢 528 するのか不思議でもあった。今日,我々は,いくつかの社会が政治犯とくにテ ロリストの行為をどのように処理するかという問題に悪戦苦闘するとき,それ らの社会に鮮明にそして繰り返し提示されたその問題を垣間みることができ る。この国での印象的な例は,数年前のイランにあるアメリカ大使館への攻撃 であり,その結果,アメリカ人の人質が長い間囚われた。すべてのゲリラやテ ロリストの攻撃と同じように,この例は一つの明示的な意識的なコミュニケー ティブな目的を持った暴力による宣伝行為であった。怒りの波が,この国にさっ と広まり,訪米中のイラン人に深刻な危険を提示し,そのイラン人たちは,遠 く離れた彼らの自国民の行動に対する報復として,ときどき暴力的な攻撃を受 けた。イラン政府に対するこの国の怒りは,明らかに正当化されたし,同様に, ある種の(some)不寛容な対応を明らかに正当化したが,その怒りは,また非常 に度を越してしまうリスクや罪のない個人に危害を加えてしまうリスクを官し た。J (113-114頁) つまり,パリスやアガメへノンや大使館に立てこもったイラン人やその他の テロリストたちにしても,その不正行為は,確かにそれを処罰することを正当 化し,他の法的でない態度において,ある種の不寛容を正当化するが,しかし それはその処罰の方法やその不寛容を表現する対応方法を選ばなくてもよいと いうわけでないということである。 以上,ここで,ボリンジャーは,不寛容への衝動が言論だけでなく言論以外 の行動にも生じていることを確認し,その双方の行為の背後にあるマインドへ の懸念が検閲と先入観を生んでいることがわかっているにもかかわらず,その 関係を我々にみないようにされていたものを明らかにした。そして,その原因 を作っているもの,とくに問題の立て方自体の問題性が指摘された。 (オ) 言論行動と非言論行動の共通点 (a) よい対応とは何かという争点の共有

(7) N.Y Times, 19 November 1979, A14, col.1, N Y Times, 10 November 1979,

A6, coI 4, N Y Times, 22 November 1979, A18, coL 1, N. Y Timι5, 3 December 1979, A12, coL 3, N Y Times, 6 December 1979, B2, coL 5, N. Y Times, 10

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つぎに,ボリンジャーは,言論にしろ言論以外の行動にしろ,いずれも同種 の心理的なジレンマが生じていることを指摘する。つまり,言論の領域におい て,ホームズが述べたように,自分の考えに一切の疑いがなければ,その考え を法に表現するという前提が働くところで,自分の信念に異議を唱える言論行 動に直面してそれを規制しないことが,自分の信念に対する自信のなさを暗に 表現してしまうという聞き手の状況や,スコーキ事件においてナチのデモ行進 によってユダヤ人やアメリカ社会全体が置かれた状況や,ナチのデモ行進を禁 止する行為によって言論の自由の提唱者たちが置かれた状況は,実はイランの アメリカ大使館人質事件においてアメリカ合衆国が置かれた立場と同種のもの であることが説明される。「我々の目的に照らしてもっとも重要な点は,この怒 りが,ホームズが言論に対する不寛容の(あるいは彼がそれを指していうとき は『迫害』の)土台を構成するとみなした,そして,我々が言論行為から生じ る潜在的な害悪の範闘を検討したとき,第二章で議論した,まさに同様の懸念 から生じたということである。イラン人の行為は,合衆国のアイデンティティ (identity)に対して,一つの挑戦を行った。それは,何が実際にこの国の価値な のか,さらに明白に言えば,その価値に基づき行動する勇気と力が合衆国にあ るかどうかという問題を提起した。それは,侮辱,威嚇,挑戦であり,つまり 言葉で表現され得るその類のすべてであった。そしてそれは,他者に一つの論 理の道筋を表現したし,他者に従うべき『手本を示す。』端的に言えば,その状 況は,イリノイ州のスコーキでナチの行進がユダヤ人やアメリカ社会一般に提 示した状況と同様の力学,あるいはそれどころか一一第七章でさらに十分展開 する予定であるが,第二・第三章からのもう一つの筋道を一貫されるために 一一ナチの行進を禁止しようとした企てが自由な言論の提唱者たちに提示した 状況と同様の力学を含んでいた。一方はff'言論という行為.D (だがつぎのよう に記すべきだろう。つまりその『言論』はプラカード,服装,歩く行為,歩調 のような,行動の様々な形態において表明された。)であったが,他方はff'暴 力という行為』であり,それはいくつかの目的にとって重要と思われる直接的 な物理的な害悪を内容としたが,双方の事例でも,その正しい対応を評価し,

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296ー 香川大学経済論叢ー 530 行為が原因で引き起こされた同様の重要な内面の感情に本気でとりかかり,コ ントロールするという根本的な争点が存在した現実は変わらない。明るみに なった態度あるいはイデオロギーに直面して,何かを行わなければという要求 とともに,まさに適切に行うべきものが何であるかを決定するという問題とが, 双方の事例において存在した。さらに別の具体例を示すならば,同じことは, もちろん,のちにオリンピック競技の参加のボイコットをうながしたロシアの アフガニスタン侵攻についても当てはまり,また,武力攻撃を促すことになっ たグラナダという小さな島での伝え聞くところのキューパの活動についても当 てはまった。(付言すれば,興味深いことにそれらはイラン人の犯罪の続編とし て理解され得る)oJ(114-115貰) つまり言論行動も非言論行動もつねに対応を迫るという潜在する害悪発生の 能力を有しており,双方とも,正しい対応とは何かを評価するとともに,その 行為によって生じる重要な内的葛藤を本気で処理し,コントロールするという 共通の争点が生じていることは変わらない。 (b) 解決困難なジレンマの共有 そして,さらにボリンジャーは,単に双方の行動がともに持つ潜在的な害悪 発生能力によって同じ争点を処理せざるを得ないという点だけでなく,そこに ジレンマの解決の難しさという共通点があることをつぎのように指摘してい る。「この点で,おそらく有益なのは,いったん立ちどまり,つぎのことを思い 出すことであろう。つまり,我々は実際に,第二章で,言論行為と言論でない 行為が観察者たちやそのコミュニティに提示する同様の困難について観察し, そこから得た所見をすでに述べていた。しかしながら,そこでの要点は,我々 が言論行為の害悪発生能力にいっそう敏感になることを説明する一つの弁解で あった。ここでは,この認識のうえに立ちながら,我々は,このような諸々の 行為が提示する諸々のジレンマ聞の類似性の中に,諸々のジレンマをうまく解 決することの共通する難しさを見ることができる。この観察結果から出発して, 我々は,ことが順調にいって,自由な言論の正当化根拠がわかってきたときに は,その観察結果が自由な言論の正当化根拠をどのように提供するかを理解す

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るであろう。J(115頁) (カ) まとめ:行動よりも行動の背後の思想を恐れる 最後にここまでのまとめとしてボリンジャーは言論であろうが非言論であろ うが,あるいは,どんなに不法であろうがなかろうが,行為自体には,それは 繰り返されるぞという暗黙のおどしが含意されていると理解する。したがって, 行為は真似されるという意味で,すべての人が従うべき手本でもあり,この点 で,どんな行為もメッセージの伝達手段であるということにもなる。さらに, 彼は,行為は単に伝達手段であるだけでなく,それ以上であり,行為者の論理, 考えをあばき,行為者とコミュニテイに先に述べたような争点を提示すると主 張する。また,なぜそうなっているかといえば,それは,我々が行為を行為自 体としてみることはむしろ稀であり,行為の背後にあるマインドを常に気にか けているからだと答え,我々が行動よりもその背後の思想を恐れていることを ト/レストイの言葉を借りてつぎのように説明している。「ここまで述べてきたド ラマチックな国際的な事件は,不当と思われる行動との対決において一つの重 要な共通要素に光をあてただけである。つまり,どんな不正行為も,その他の 行為やより不正な行為と閉じように,その行為が繰り返されるという暗黙の脅 しを含意し,ある意味では全ての人が従うべき手本であるということである。 それゆえ,この点ですべての行動は(言葉を使う行動も使わない行動も), wコ ミュニケイティブ』であり,あるいは,実際にそれ以上のものであるために, すべての行動は,その行為者の論理を明るみにだし,そのことは続いてコミュ ニティに行為者と同様の争点を提示する。というのも,我々は,究極的には, 行為が言論行動であろうと言論でない行動であろうと,その行為の背後にある マインド自体をつねに気にかけているからである。『邪悪な行為は,繰り返され るとはかぎらず,悔い改めることができる。』とトルストイは書き rしかし邪r 悪な思想、は,邪悪な行為を生む。』と続けた。他者のマインドに対するこのよう な懸念は,ある程度は道理に適っているが,その問題は,その懸念が,収拾が

(8) L Tolstoy, Resurrection, trans. Rosemary Edmunds (New York: Penguin Books,

(24)

-298- 香川大学経済論叢 532 つかなくなったり,望ましくない対応を生んだりするという継続的で深刻なリ スクを提示することである。J(115-116頁) ただ,ここで重要な点として,ボ、リンジャーは,行為の背後にある思想に対 する懸念自体,そして,それが導く過度の不寛容への衝動それ自体が不当であ るとは決して理解していないことである。どのような厄介な対応を迫ったり, 手におえないジレンマに我々を陥れあるいはコミュニティに提起するとして も,たとえ我々がおろおろさせられることがわかっていても,なくてはならな いものであり,我々の自己の信念やアイデンティティに直接かかわる重要な役 割を果たしていると理解していることである。 (キ) 過度の不寛容への衝動に対処するための法システムの工夫 (a) 正しく怒るための行動処理システムの工夫 以上,言論領域と非言論領域をまたがる不寛容への衝動にかかわる同種の問 題が存在することを確認したが,さらに寛容の一般理論のもう一つの重要な前 提は,言論行動と非言論行動の双方において普遍的に存在するやはり不寛容へ の衝動にかかわる資質を求める要求が存在することを確認することであった。 そこで,つぎにボリンジャーは,言論活動に適切な制限を設け,執行すると いう問題も,雷論でない行動に対する我々の対応も,同様の前述した人間性に とって基礎的な感情によって困難にさせられているという結論を導き,むしろ, それは言論よりも行動のほうに強く働くのではないかという予想も述べるが, ここでの当面の問題にかかわらないので,その点にはさらに言及せず、に,むし ろ,行動を処理するシステムが,過度の不寛容への衝動の背後にあるその人間 性にかかわる基礎的な感情に備えてどのような装置を発展させてきたかを検討 する。以上のことをつぎのように説明しているが,そこでさらにもう一点,つ まりいかに感情をコントロールし,正しい対応をすることが難しいかを言うた めに,アリストテレスの言葉を引用している。「そうだとすれば,その要点は実 際につぎのように単純化できる。つまり,社会内の言論活動に適切会制限を設 け,執行するという問題は,人間性にとって基礎的な感情(信念やアイデンティ ティを合意する)によって難しくなっているのと同じように,言論でない行動

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に対する我々の対応も同様の感情によって困難になっている。言論行動の規制 よりも,言論でない行動の規制の背後にさらに重大な社会的な正当化理由が存 在するかもしれず,あるいは社会のより強力なニーズが存在するかもしれない (おそらく,皮肉なことに,言論でないコミュニケーションの形態のより大き な効用のために一一我々が第六章で戻るつもりである点)ということは,現時 点では重要な争点ではない。現在の議論にとって真実であり,重要なものは, 言論でない行動を処理するシステムが,まさに言論の文脈で姿を現すのと同じ 過度の不寛容への傾向を計算に入れ,それをチェックし,そこからの保護を発 展させなければならないことである。アリストテレスは,はるか昔に,つぎの ように指摘した。『誰もが,円の中心をわかるわけではない一一一それには幾何学 者が必要だ。』と彼は言った。そうだとすれば,また,つぎのようにも述べるこ とができる。『かっと腹を立てることは容易であるけどんな人でも『そうする ことができる。』しかし『怒るべき人に怒り,正しい限度まで,正しい時に,正 しい対象に,正しい方法で,怒ることは容易ではなく,誰もがそれをできるわ けでない。~J (116頁) (b) 刑事裁判制度の「無罪の推定」と犯罪の「抑止」 円の中心を見つけることは,今日,幾何学者でなくともできるが,正しく怒 ることが難しいことはアリストテレスの時代と今日も変わらない。ただ違うと ころがあるとすれば,怒るという感情を制御する制度の発展ということになる。 ボリンジャーは過度の不寛容への衝動やその基礎たる感情に対して,行動処理 のシステムがどのような制度を発展させてきたかを検討している。まず,刑事 裁判制度をあげてつぎのように説明している。「同様に,たとえば,我々は, (ホー ムズの言葉でいえば)~.すべての反対者を一掃』しようとする衝動を敵視するさ まざまな保護を刑事裁判制度に見い出すはずである。法廷内の礼儀正しい作法, 無罪の推定,感情的に煽るような証拠提示・証拠開示を制限する証拠法の規則 (第二章で議論した),そして罰を与えることにかかわる警告のすべては,つぎ (9) The Ethκs 01 Aristotle, trans..J A. K Thompson (New York; Penguin Books,

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-300 香川大学経済論議 534 のことを意図したものである。つまり,少なくともその意図の一部は,社会が 悪だと認める論理の道筋を潜在的に行動に移してしまった者を過度に罰したい という人々の欲求に,はけ口を与えようとするさまざまな意思決定者の衝動を 抑制することである。というのも,その犯罪行為に本来備わっているものは, そのコミュニティがある程度まではその信念やそのアイデンティティへの挑戦 であると必ず感じるにちがいない,現に作動しているマインドだからである。 行為の背後にあるマインドは,それを知ってしまった者をある心理的なジレン マに陥れる。そのジレンマは,人種を侮辱する言葉とか違法行為の擁護とかが それを知った者を陥れる心理的なジレンマと同じものである。有罪判決や処罰 という行為は,社会のコミュニケイティブな対応であり,それはいまでは『検 閲』ではなく抑止』と名付けられている。J (116-117頁) このように,とくに反人道的,反社会的な信条をどうしても伝達してしまう 犯罪行為を処理する刑事裁判制度は,無罪の推定や証拠法や刑罰の執行方法に 関する禁止規定などを用いて,我々の感情に本気で取り組み,コントロールし, その感情に乗じて,意思決定者の恐意が混入されることを防止している。また, 有罪判決や犯罪の処罰は,それ自体は犯罪行為の発する思想、に社会がマイナス の評価を下したことを意味するいわば一つの検閲であるが,通常それは「抑止」 と呼ばれる。 (c) 法システムは感情を処理する一つのアリーナ また,ボリンジャーは,刑事だけでなく民事も含め,法システム全体がこの 感情を処理する一つの活動の場であるとし,それをつぎのように説明する。「過 度の不寛容への衝動の社会的な意義が途方もなく大きいので,民事法及び刑事 法システムは,実際には,過度の不寛容への衝動の背後にある感情が処理され るべき重要なー要素として現れる社会的相互行為の数あるアリーナのうちの一 つにすぎない。その衝動は,人々がそれぞれ異なる態度や価値や信念に基づい て擁護したり行動したりする場面で,どのように対応するかについての個人間 (10) 0..W Holmes, The Commo冗 Laω" ed. Mark DeWolfe Howe (Boston: Litt1e,

(27)

またはコミュニティ内部のほかでもないまさに内面的な対立を合意するので, 我々は,いま議論しているその感情がどれほど社会的相互行為に浸透している かを容易に理解する。J(117頁) (ク) 過度の不寛容への衝動に取り組む必要が痛感されている社会関係 以上のように,ボリンジャーは,刑事裁判制度や法システム全体にこの感情 をコントローノレする仕組みが備わっていることを説明したが,最後に,ボリン ジャーは,寛容の一般理論のさらにもう一つの前提であった不寛容への衝動に 対処する能力の開発が社会全体の普遍的な課題であることを確認する。社会生 活のほとんどを網羅する領域で,つまり我々の政治生活も,官僚機構も,会柾 組織も,その感情のコントロールに本気で取り組む必要が痛感されていること を説明する。 (a) 自己統治する政治社会 まず,彼は,自己統治する政治社会,つまり民主政治の下での我々の政治生 活において,この感情が生じなければならないし,同時にコントロールされな ければならないことをつぎのように説明する。「その感情は,妥協を進んで行い 全面敗北さえも進んで受け入れることが民主的人格の不可欠な要素であるとこ ろの自己統治する政治社会の基礎的な作用において生じなければならないし, コントロールされなければならない。民主主義は,文学と同様に,つぎのよう に言われる。信じようとしない一種宙ぶ、らりんの状態を要求すると。規範設定 の段階で,そして執行の段階ではもちろんのこと,既存のコミュニティの保持 という利益に自分の信念を混入させず抑えるという能力が決定的に重要であ る。人の信念へのコミットメントの性質を決定するという問題は,極めて複雑 である。自分たちの選択したものが実行されるのをみることのできる権力を有 する人々は,反対に直面して,前方へ押しのけて進むかどうかあるいはどれだ けそうするかを決定しなければならない。他方,マイノリティの人々は,おそ らし抵抗のさまざまな方法から一つの行動の道を選択したり,極端な場合に (11) Shiffrin,“Liberalism, Radicalism, and Legal Scholarship," 30 U. C L A L Rev 1103(1983)

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