133 聞きがき
村 山 筆
子
一村山知義の直弟子による−一
山 崎
怜私は村山寿子について知る友人,仲間,同志,家族から聞きがきをこころみ,
それを長くあたためてきた。伺ってきた話し手はおよそ・以下のように分類できる。
(1)女学校時代の友人 (2)自由学園時代の友人(3)夫君,知義の直弟子たち(演出面,演技面)
(4)作家同盟時代の同志と友人(5)『少年戦旗』にかかわる友人,同志
(6)晩年の周囲の人たちと主治医(7)家族(知義,亜土,清洲すみ子)
(8)実家の兄弟,妹たち
(9)慕わしく愛した人このうち,(1)については主たる分はすでに公表したが,ここに発表するの
は(3)のうち,演出面の直弟子あるいは愛弟子によるものである。(6)にも関
連がある。松尾哲次も障ノ内 鋸も文筆家であった。やまさきは若干のものを除き,そ
れらの文章を十分によみえていないので,このおふたりに逢って以下のような
聞きがきをこころみてはいるが,かれらを十分に理解しているとはいえないっ
聞きちがいや誤解もあるであろう。しかし,かれらが静子の狭い個人的な友二人
ではなく,知義の弟子として昭和新劇の生き証人であったために,聞きがきの
内容は寺子論を越えて新劇史の側面も語っている。このことにも留意していた
だきたい。そうして,こうしたアングルの全風景の中に知義の妻,寺子がどのように位
山 崎 怜 134
置づけられているかに注意を払ってほしいとおもう。たんなる個人的友人とこ
となる人たちの視点による村山寿子像にこそ・,かの女の社会的で人間的な姿容
をたしかめる真実があるからだ。
私がこのおふたりに面談を申し込んだとき,なんの留保もわだかまりもなく,
これをうけ入れ,無条件に協力を惜しまれなかった事実をかきとめておきたい。
同時に私が面談を終えて帰宅したのちにも,いいのこしたこと二,あれはこう
だったとこいう風に私に追っかけるように手紙を寄せられ,さらにまた,こうい
うことがあるのではないかとか,自分はかねがねこういうことに疑問があった
が,どう考えるかというように折にふれて連絡をうけたことが想いだされる。
とくに陣ノ内はそうであった。命をかけて新劇をつくってきたこのおふたりの証言の,寿子研究上の意義は
いくら強調しても強調し切れないものがある。 晩年の松尾は劇団民整に籍をおきながらも鎌倉に住んで丸山定夫を偲ぶ会の会長をつづけ,みずからの人生と体験の思索に時をすごされた。陣ノ内は逗子
の海岸脇の,ひなびた丘にある樹間に住まわれ,小さな会場で美術の講義をこ
ころみつつ,日本の民主主義の行方と芸術運動の将来をみすえられたのである。
(鎌倉市内にて)話し手 松 尾 哲 次 (第1回)
(前言) 松尾哲次氏は,陣ノ内 鋸とならんで,村山知義の直弟子のひとり
である。知義の弟子には大きく二種類があり,第一・は演出とか振付面,第二は
演技者であり,後者には宇野重曹,松本寛平,滝沢 修,原 泉など多士済々
である。前者には知義の性格によるのか,その資質のせいかは十分に検討に催
するが,陣ノ内と松尾のふたりがあり,しかも演出面で最後まで頑張ったのは
松尾のみであって陣ノ内は演劇運動家として知義を継いだ人であった。これは,
とくに新協劇団時代,久保 桑が演出家として活躍,知義と相剋のうちに,し
のぎを削ったことが関係しているであろう。松尾にしても久保に対tて一億の
敬意をもっていたし,トムさんに反撥した人はすべて久保のほうに軍配を挙げ
村 山 寺 子 135 たと思われる。 同時に宇野にしても滝沢にしても人生の後半では演出をこころみ,また劇団 運営に汗を流すなかで,知轟から吸収した積極面は活かしてきたので,知義の 影響を単純に二分して−はならない。松本も演劇史の研究家となり,文筆家に なった。またかれらが久保からえたものもきわめで大きいであろう。 このような事情から,松尾の回想は貴畳な少数派の証言であり,やまさきは とくに大切にしたいのである。松尾は戦後,そ・の位置としては民贅の側にあり, また,『久保粂研究』に筆者とこして登場したりしつつも,村山知義を評価し, その妻,寿子への親近感を抱いた門弟であった。そ・の気質がトムさんや寿子と は異質であることが,かれらから一一・方的に遠ざかることを避けさせ,こういう 「聞きがき」を可能としたように思われる。 M 〔松尾は電話連絡ずみの陣ノ内 鋸のことについて,すでに住所,電話番 号などを記入した紙片せさしだされて〕これをどうぞ〔といわれ〕,こ としも陣ノ内氏は丸山定夫の記念祭に出席するといわれたのに,結局は
こられなかった。丸山の碑が鎌倉にあるのです。自分が氏にさいきん
逢ったのは村山さんの葬式のときでありまして,そのとききりでした。 陣ノ内さんは,それほど忙しくないとおもわれますが,少し病気がちで, さいきん退院されたときいています。 陣ノ内氏の住んでいる所は逗子・の田舎で,バスで行くのにも1時間位か かり,行った人の話では,大変へんぴで,バスの発着間隔も長く,行け ば半日はツプレルということでした。自分は行ったことはありません。 Y 貴子に逢われた晩年の思い出をお教え下さい。 M 自分は昭和20年8月に妻の郷.里である北海道に疎開することになりまし た。韓子さんは翌9月に小田急沿線の柿生(かきお)という所に住んで おられましたね。何故だか分かりませんが,多分,おわかれに逢いに 行ったような気がするのです。 Y それはツルカワではありませんか? M いや,柿生です。ツルカワのことは知りません〔とくりかえしいわれた〕。山 崎 怜 136 9月でなくて−10月だったかも知れませんが,おそくとも10月のはじめで 大変暑い日だった。かの女はひとりでおられて,そ・こは−・軒家で1階建 だったとおもいます。床(とこ)を敷いて寝たり起きたりの生活である とみうけられました。かの女は,体がはかばかしくないのだといってお られました。また,われわれは終戦直後の人々の表情について語りあっ たのです。 Y そのあとはどうなったのでしょうか? M 自分は北海道に疎開して,かの女に逢うことはなく,昭和21年5月に鎌 倉に帰ったのです。それは,北海道に疎開し,急性肺炎になって生きる か死ぬかの塞症となり,漸く治って鎌倉に帰るということになったので すが,丁度そのとき,陣ノ内,宇野,村山の3家族が同居していたので した。昭和20年9月か10月のはじめから,翌年の5月までの,かの女を 直接には知らないのです。要するに,7∼8カ月ぶりにみる寿子さんは 大変病気が塞くなったという印象で,これはもう治らないという思いが 走りました。 Y 先の−二軒家とか1階建はたしかでしょうか? M 自分の記憶では一軒家で2階建ではありませんでした。 Y 火事の原因は何でしたか? M そのときは自分は鎌倉にいなかったのでよくは知りませんが,きく所では 風呂場の残り火のようだというこ.とでした。この件は,陣ノ内氏によく きいてほしい。ただ自分にとって口惜しくおもったことは大事にしてお いた本,文学書,美術書の類で大冊の大型本もありました。演劇の本で はありません。それらが火事で全部やられた。鎌倉の陣ノ内氏の住んで おられた家は戦災にもあわず,他の事故もないと判断して,かれにおあ ずけしたのです。それが遇わるく逆になったのです。 Y 陣ノ内さんがそこに住まわれた年をご存知でしょうか?
M 戦争中の昭和19年だとおもう。自分は,昭和18年4月に鎌倉に移ってき
て世帯をもったのです。それはアパ・−トです−。そして自分は,昭和19年 4月に北海道へ最初の疎開をしたのです。村 山 簿 子 137 宇野貴書は3月の空襲で焼けだされ〔松尾氏はこの空襲を3月だといわ れ,寿子が焼けだされたのもこの3月だとこいわれたが,3月は江東区の 大空襲であり,束京の西部は5月とされている。宇野のうけた大空襲は どちらであろうか。確認の要。〕,たしか家族は兄さんの家にあずけ, 宇野自身は兵役にしたがい,21年3月に引き揚げて家族と合流し,鎌倉 へきたのです。 鎌倉にやってきたのには,長田秀雄,久枚栄二郎,猪俣(いのまた)が いたからということもありましょう。 自分が21年5月に鎌倉に引き揚げたときは,さきにもいいましたよう に寿子さんの病気は塞かった。かの女は自分がきたのを大変よろこんで くれました。それからは,時々,長話はせず,時候の挨拶程度だったけ
れども,逢いました。会うたびに衰弱されているようにみえました。見
舞のときは短い時間ではありましたが,自由にお見舞はできました。別 に断わられた覚えはありません。また,すでに本人は死を覚悟していた ようにおもわれました。 お見舞に上がるとき,自分はときに息子せ連れて行ったのですが,かの 女は「こんな可■愛い赤ちゃん,みたことないわ」といったことをはっき りおぼえています。 Y その息子さんはいつお生まれですか? M 昭和20年2月です。 Y そうします−と今は何歳くらいでしょうか? M 33歳です。 Y お逢いのとき,挨拶以外にどんなお話をなさったのでしょうか? M その頃は文学などの話はしなかった。 そうして,やがてある日,猪俣がやってきて,辞子さんが夕方に亡くな られたと知らせてくれました。自分はトムさんの弟子だったので,死亡 届のことや火葬場のこと,その他の手続きやら手伝いやらをしましたし, 弔間者の応接など,いろいろ手伝いました。 Y 話題を変えて,時代をがらりと元に戻し,寺子の印象からお話をうけたま山 崎 怜 138 わりたいのです。村山夫人としての若い寿子せどうおもわれましたか? M 自分は圧倒されました。かの女は逢うたびに「あんた,これよんだ,よま なきゃ,だめよ」とロぐせのようにいいました。それは全く単刀直入に, はきはきといったものです。そういう口ぐせが鎌倉で逢った昭和21年5 月以降の見舞時分には全くなくなっていて淋しかった。病気のゆえでし た。 Y 失礼ですが,先生はいつおうまれでしょうか? M1908年7月30日です。村山・一家とは左翼劇場時代から知り合いました。 〔松尾はここで積極的に自分からいわれる〕これは,自分が寺子さんか ら直接きいたことでお伝えしたいのは,小林多喜二の命日に,おもて だって会をすることはできないので,寿子さんの発案で,多事このお母 さんをなぐさめるために,毎年,神田の中華料理店で多喜このお母さん, 弟の三吾,原 泉子および寿子・の4人で食事をするということだった。 〔いかにも寺子さんらしい発案であるようにおもう,と松尾がいってお られるように,やまさきはきいた。〕 自分は,文学と演劇というちがいもあって,多喜二と直接に話したこ はありませんが,親しみの感情はもっていました。1度だけ,新宿の本 屋で本を立ちよみしていた多喜こと挨拶をかわしたことがあります。 Y ほかにも想い出がありましょうか? M そうです。寺子さんが自分に「小林さんは行儀正しい人よ。オリメ正しい 人で,萩原さんに逢ってもヒザをくずさないのよ」といったことがあり ます。そ・れは昭和9年頃の話だったが〔しかし,多喜.二の死は昭和8年 の2月だから,昭和9年はまちがいであろうーやまさき注〕,そのと き,ハハ,寿子さんはモグっている人の連絡係〔いわゆるレポのこと〕 をしているのだな一つと胸のうちでおもったのです。かれらはモグって いる人たちであったはずだからです。〔多喜二は,当時は小林または小 林さんと呼ばれた。簿子は萩原宛の手紙の中でも小林さんとかいている。 多喜こというのは,とくに第2次大戦後にかれを偲ぶことがつみ重ねら れての呼称である。〕
村 山 草 子 139 Y 村山知義との関係,その初期のことを教えで下さい。 M 自分は,村山知義の下っぱで働いたのです。当跡ま,こちらは村山をよく 知ってはいましたが,個人的にはあまりつきあいはありませんでした。 いわゆる大同団結以後につきあいがふかまり,自分は村山家に入りびた りという状態になりました。 また,その頃,獄中の自分は転向のことで悩んでいました。知義と寺子 さんのふたりがいっしょにさし入れに刑務所にやってこられ,「天皇制 は認めます。政治運動はしません」とかいて出てきなさいと忠告したの です。そうのべたのはトムさんです−。 Y その入獄とはどんな事情ですか?
M 昭和7年4月の4日から5EIに知義さんがつかまり,4月15日に自分は
沢村貞子さんらと同日につかまったのです−。5月の末に豊多摩におくられまして,昭和9年5月に−それは丁度「斬られの仙太」の舞台げい
このときです一保釈ででたのです。自分のばあいは2年間の未決拘留
でして,既決ではありません。 Y 簿子・にさいしょに逢ったのはいつでしょうか? また,そのときの状況は どんなことでしょうか? M それは分からないのです。何しろ,昭和5年頃は,こちらは全くの研究生 上がりにすぎず,下っ端でもあり,知義民はじつにこわい存在でした。 よりつきがたかったのです。 但し,自分のほうは17,8歳の頃から,新聞などで,知義のこと,そ の棄,寺子さんのことは知っておりました。 昭和6年か7年の頃のこととおもいますが,劇団の使い走りで,1,2度, 玄関で寿子さんとちょっとロをきいたことがあります。 Y そうしたときの寿子の第一・印象をおきかせ下さい。 M おかっぱ頭で,ハキハキ物をいう人だということです。いくらか,とっつ きがわるいとか,感じが固いという印象はありますが,同時にさっぱり したという印象があります。〔とっつきがわるいとか,感じが固いとい うのは〕きついという印象でもありますが,すっきりしたという印象の山 崎 怜 ほうが適切です。 例の大同団結以後は月に10E】くらいトムさん宅に泊り,月に20日はト ムさん宅でメシを食べました。そ・れがかれこれ1年くらいはつづいたの です。新協劇団ができたのちにも,月に5日は泊ったのです。そんなと き,トムさんがいないとき,帰宅していないときとか,別室にいるとき, 華子さんと居間でストーヴにあたりながら,よく話をしました。かの女 は編み物をしょっちゅうしていました。編みながら,本をよんでいまし
た。また話をするときも編み物の手を休めなかった。そばでみていて,
あれで編み目をまちがわないものだ,と不思議におもえたのです。 そ・の頃の寺子さんはトムさんのお母さんと仲がわるかった。かの女は 「あのお母さんはイケマセン」とびしゃりといいました。全く動じない 風に。寒い風のある晩に,かの女は編み物をしながら,かたわらの雑誌 を指して,「ここから童話のネタをとるのよ」といったものです。また, かの女は,トムさんのお母さんへの姿勢も反映して,キリスト教やクリ スチャンにはかたくなな姿勢をとっておられ,「亜」土ちゃんがその影響 をうけねばいいが・‥」と心配気にいわれました。これははっきりおぼえています。かの女は,「お母さんはこ蛮人格よ。偽善者よ」といっ
ていました。 じつは,自分も父が死んだあと,しばしば教会に行ったことがあります。 熱心だったのですが,だんだん教会内の様子がわかってくると,派閥の あることや献金の多少などが教会への影響のあることを知って,じつに 不愉快になったことがあります。そういう思いでかの女のそうした意見 をきいていました。 と同時に,寺子さんにそのようにいわれている自分は,また,同じ家の 中でお母さんからも話しかけられる立場にあり,トムさんと韓子さんが 別室へ行き,アドちゃんが寝たあと,お母さんは,じつに間接的ないい 方ながら,トムさんがそうしたことにならないように寺子さんが妻とし てやってくれればよいのに,と遠回しに自分にいったのです。それは全 くえんきょくないい廻しでありまして,はじめは何をいっているのかよ 140村 山 輝 子 141 くわからないくらいで,よくよく考えてみて,あとで「そうだったの か」と気がつくくらいに遠回しのいい方だった。お母さんは,寺子さん とはちがって,寿子さん自身については直接には何もいわなかった。す べて神様のなさることといっていました。 Y それはいつ頃のことでしょうか?
M 昭和9年のおわりか,10年かであり,冬だったとおもいます。このとき
がお母さんと話したはじめだった。 その後は,自分は章子さんとうちとけてよく知りあったようにおもいま す。また,お母さんには,大丈夫ですよ〔トムさんが牢屋に行くような ことにならないこと〕,といっておきましたが,腹の中では,また,あ るかも知れない,とおもっていました。 Y お母さんは社会主義について何かをいわれましたか? M 社会主義をのろうようなことは何もいわれなかったが,息子のことが大変 心配だったらしい。しかし,何事も神様のなさることという考えが基底 にあったから,のろうようなことはいわれなかったのだろうとおもう。 それでおもいだすのは,当時,亜土ちゃんが監獄の家を画き,ここにお 父さんがいるというと舞子さんがウンウンうなずいていたことがありました。亜土ちゃんが5,6歳のときだから,昭和5年の1回目の入獄の
ときだろう。こんな絵でした。 しかし,あの頃,子供は差し入れに同道できたのであろうか。また,面 会室の面会の位置は非常に高く,子供では中を覗けないだろうから, じっさいに見たことを画いたのか,あるいは想像で画いたのか,自分に はよくわかりません。 Y そ・れは亜土さん本人にもたしかめてみる必要があります。 M 〔ここであらためておもいだすように松尾氏は話題を変えて,積極的にい山 崎 怜 142
われる〕寺子さんは,じつに読書家だったですね。ヨーロッパの古典か
ら現代までほとんどよくよんでいるとおもわれました。だから,逢うた
んびに,「あんた,あれよんだ,これよんだ?」〔よまなきゃ,だめ
じゃないよ,という態度で〕ときいてくるのです。
Y かの女はとこくに何をよんでいたのですか?M ロシヤの作家のものはすべてよんでいました。ゴーリキー・,トルストイ,
プ−シキンなど・‥ 。またイギリスとアメリカのものもよくよんでい ました。よわね かの女は弱音をはかなかった。「わたしダメヨ」といってはいたのです
が,そ・れは冗談めいたいい方でした。自分が寺子さんになやまされたのは,自分がこのように痩せているので,
アメリカから健康増進の機器とか食事方法の知識を待ては,「あんたは
これやりなさいよ,アメリカで人気のある方法なのよ‥・」としきり
に押しつけ的にすすめるのです■。これに弱りました。
Y かの女の好きなことで,ほかに何かありましたか?
M 映画が好きでした。東和商事から招待状がおくられてくるのだが,知義宛
のものだけでなく,かの女宛のものももらっていて,2,3度誘われた
ことがあります。このことからも,かの女の映画好きはわかります。
かの女に誘われて行ったことに,萩原さんの公判の傍聴につれられて
行ったことがあります。昭和10年のことです。そのとき,はじめて戒原
さんのお父さん,お母さんにお目にかかって挨拶をしました。寺子さん
はすでによく知っているらしかった。 Y いっしょに同道されたのはどんな方ですか?M 傍聴に同道したのは,薮原さんの一濠と簿子さんと自分だけであります。
萩原さんは深編み笠をぬぎ,座りながら,一寸,斜めうしろを向いて,
こちらにお辞儀をしました。そのとき,戒原さんが両親と韓子さんを確
認したことはまちがいありません。その席で萩原さんは非転向の意思を
表明したのです。そのときの公判は,なんでも強姦か泥棒か,何かの破
れん恥罪と同席で,その方の弁倭士が情状酌量をのべたてました。戒原
村 山 寿 子 143
さんの場合には,検事の求刑でおわりました。
帰りの途で,寺子さんが「ああいう破れん恥罪と同席とは何事ですか」
と大変,怒っていたのです。Y これはいままで知られていることではないのですが,かの女の映画好きと
も関連しますけれども,岩崎 組氏とかの女との交流が大事であると考
えています。岩崎さんをご存知ですか?M 特高は,自分に対七て岩崎さんは人格者であるといったことがあります0
特高というのは,多くの思想犯を取調べていますので,それなりに人間
をみぬく力をもっているのです。そ・の特高が人格者だからといったのは,
岩崎さんの人柄を証して余りあるのです。岩崎さんは其の意味で,イン
テリゲンチャというべき人でした。寺子さんはそういう人には好意を
もっていたのでしょう。萩原さんも同様だとこおもう。
Y 村山夫婦についてはどうおもわれますか?M 葛藤の激しかった夫婦ではないか,とおもいます。意気投合は−儲のこと
で,すぐにそれは崩れるということではなかったろうか?両方の欲望
が食いちがっていて,寺子さんは萩原さんや岩崎さんに,トムさんとは
別の異性にという方向に傾いたのではないか‥・。野上ちゃんは,子
はカスガイということではなしに,お互いに人間として認吟あった上で
の関係として,やはり意味が大きかったとおもいます。
韓子さんから「あの人はSなんかにいかれてしまって¢‥」といって いたのをきいたことがあります。Y 帝子はトムさんへの批評がきびしかったと何っています。どんなことで
あったか,お教え下さい。M そうです・。帝子さんのトムさんへの批評はじつに痛烈でありまして,しか
も,トムさんはそれを気にしていたであろうと推察されます。あるとき,
韓子さんは自分に「あんた,どうおもいますか?あの人〔トムさんの
こと〕は第一傲の芸術家にはなれません。あの人はどうあがいても・一億
にはなれませんよ」といったのです。トムさんは,この批評に一食なや
みつづけたのではないか,とおもいます。帝子さんは知的レヴェルでは
山 崎 怜 144 当時の一−・級品であり,その人からの批評は知義にはこたえたであろうと おもいます。 Y 静子・の人生全体について不幸だったか,幸福だったかと質問をたてれば, 答えはどうでしょうか? M しあわせだったというべきです■。とくに戦争前では・・・。しかし,あそ・ こであの時期に死んだのは最大の不幸だったでしょう。 Y 韓子は晩年,早く死んでしまいたいといっていました。それは,かの女自 身の不幸観からか,あるいは当時の健康悪化からか,そのいずれである とおもわれますか? M それは健康の悪化から,とおもいます。 〔ここで時間がやまさきの都合でなくなり,喫茶店を出て道路を歩いて長 谷駅から鎌倉までの江ノ電の車中,鎌倉駅の構内,プラットホーム上な ど,やまさきの電車の発車まで同道されて話を伺う。松尾氏が積極的に いわれたことでもある。〕 戦争中だったとおもうが,浩子さんは「日本は戦争に負けるわよ。きっ と負ける。だって,まるで技術水準がちがうのだから」といっていまし た。これはかの女が外国の雑誌をよくよんでいたから,こういうことの 判断ができたのです。こうした話は,当時だれかれにす−るわけにはいか ず,いいはばかられたのですが,信用のおける人にはこういう話ができ たのです。 但し,その頃は,われわれが簡単に逢うことさえできず,芝居の公演の ときなどに,偶然に鉢あわせをしたようなふりをして逢ったものです。 だから,お互いに訪問したり,会合したり,そんなことは遠慮していた のでした。 Y 貴子の家に訪ねることはしなかったのですか? M そうです・。人を訪ねることはありませんでした。とくに新協劇団解散後は
そうだった。〔ここで,別の話題に移る。知義の女道楽について伺った
ときは,ふれることを避けた松尾がやまさきとの別れのときが近づい て〕これはひとつの重要なエビソ・−ドかも知れませんが,先の玉の井の村 山 寿 子 145 話だが〔この話は松尾が無言であったので記録していない部分〕,自分 も知義と遊興したことがあります。〔松尾自身いくらかはにかんで〕そ・ ういうとき,トムさんは朝がえりで家について,ぼくにいっしょに来て くれないかといい,行くと寿子さんの前で,トムさんが滝沢 修の家に 泊まったような顔をして,あの家では子供が小さいので,障子ヤフスマ が破れて無茶苦茶だね,とお互いにいいあったのです。自分はそ・の証人 だったわけです。〔松尾は明音されなかったが,トムさんが松尾を誘っ て仲間うちをつくり,こういう芝居を打つ相手にさせられたのではない か,そういう性格をもつエピソードでもあったとおもわれる。〕これは 唯の1回で,あとは,2,3回,別のときに証人になったことがありま す。つまり,あのときは,だれそれ君の家にいた,という風に。 Y そういうとき,静子・は純粋にそれを信じて■いたのですか? M そうです。かの女はうたがうような態度をとりませんでした。 Y 久板栄二郎さんのことですが,久板は病床時の帝子からいろいろときいて いると伺ったことがあるため,それを知りたいのに結局,逢えずじまい で残念におもっています・・・。 M あの人は戦後われわれからずっと経れてしまった。遠い所へ行ってしまっ たのです。〔と松尾は嘆かれ,それ以上のことは何もいわれず沈黙され たのは印象的であった。〕 Y これも別事ですが,いまは民薮とはどんな関係にあるのでしょうか? M いまの自分は民聾に籍があるだけで,別に何もしていません。ときどき公 演のあるときに,みるだけです。 Y 民蛮は宇野さんがとりし切っているのでしょうか? M 今は,宇野,滝沢,大河内の3人という創立メンバ1−でやっています。清 水(将夫)やもうひとりの,ふたりが死んでしまって,5人の創立メン バ・−が3人になったのです。 Y 鎌倉の海辺に宇野さんが韓子を背負って出かけて尊子の好きな海を眺めた とか,海水を汲んで来て匂いをかいだということは事実でしょうか? これを関係者にいつもたしかめることにしています。
山 崎 怜 146 M 宇野さんが否定されるのなら,それがただしいのではないか。自分はそう いう事実は知りません。 自分は,高校へは20年前に芝居の公演か,あるいは講習会みたいなと きかに行ったことがあります。そのとき,宮内フサさんの人形を貰いま した。当時,79歳とかいてあったとおもいます。その人は今も元気です か? Y 存知ませんが,さきにお正月のお年玉年賀ハガキのデザインに採用された とき,ラジオやテレビに出演されました。もう少しお若いのではないか, とおもわれます。 〔鎌倉駅のホームに立って〕 M 自分は寺子さんのお墓に行きたいとおもいつつも,市内での座談会その他 に時間をとられて,高松市に伺っても,お墓にはいつも行けないでいま す。 Y 宇野さんはお墓にこられています。 〔電車がホームにつき,さようなら,今日はありがとうございましたと いって別れを告げた。〕 (この日の印象から) 帝子を村山の内弟子の側から知る松尾から長時間にこ のようにお話をうけたまわって,やまさきとして−は感動にひたることになった。 松尾は私に語ったあと,簿子の住んだ家が今も残っているので案内すべく準備 されていたのであるが,やまさきに時間がないことと,すでにやまさきがそこ に行ったことこもあると申し上げて遠慮した。しかし,時間の余裕があっていっ つ)ヽ しょに終の家に同道しておれば,また数々の話,長田や久枚やの住んでいた場 所なども確認でき,有益なことを伺いえたであろうとおもい,残念なことで あった。 それにしても松尾の親切さが身に染みた。帰りも鎌倉駅まで見送っていただ き,ホームまでこられて電車の発車間際までたたずんでくれたのである。お顔 は小さく,全身ほっそりとして,おだやかながらも釈迦如来のような,いって みれば修行僧のような風貌をもち,困難な時代の命やゞけの活動を経た人間の味
村 山 寺 子 147 わいをただよわせておられた。今日は時間がないので寺子・の家に行くことがで きないとやまさきがお断りしたときの,かなしそうな,そして■残念そうなお顔 が忘れられない。それが貴子・の他界した鎌倉の秋の夕もやの中であっただけに, やまさきとしては心を傷めた。
話し手 松 尾 哲 次(第2回)
(鎌倉市内にて) (前言) これは前回の1年彼の秋に,鎌倉市小町の喫茶店および妙隆寺(丸 山定夫の墓),抄本寺境内,角喜,鎌倉駅にて何った聞きがきである。今度は 初対面でないため,松尾氏(以下,敬称略)もやまさきもくつろいでやりとり しえたから,松尾の口調もかなり自然腰であって,一\人称も多くは「ぼく」に 変わり,「自分」が減少したし,お顔つきも笑顔がふえ,陽性にみえた。前回 は病後のためか,緊張のためか,きびしさが目立ち,陰影がつよく刻まれたよ うにおもう。 質問事項にも同工異曲のものがあるのに,お答えはかならずしも同・−ではな く,いずれが正確であるかをたしかめることは,避けることにした。やまさき はいずれをも真実として処理しており,今回も記録は記録としてそのまましる すことにする。 Y 久しぶりです。お元気ですか? M はい,元気です。〔前のときより,ずいぶん元気にみえた。〕 あのね,千金丹の宣伝の歌(うた),ありましたね。あれ,貴子さんが うたってくれたことがあります。 Y 華子は歌が好きでした。それ以外にもあるのではありませんか? M いや,あの人がぼくにうたってくれたのはあのうたが唯・−です。どうした ものか,あれ以外のうたはきいたことがないのですよ。 Y 知義は舞子さんの音楽好きを十分理解しなかったのではないのですか? M いや,トムさんも音楽は好きだった。音感もわるくはなかったはずです。山 崎 怜 148 ドイツ時代も音楽会やオペラに通ったのではありませんか? あるとき, 藤原歌劇団をみて,イミテーションは気の毒だといっていました。それ は自分がドイツでみたオペラとの比較だったようにおもいます。 トムさんはね,辻 久子の大変なフアンだった。ホレて−いたんではない かとおもう。〔毎日の生活の中でラジオからの音楽放送をつけっばなし で聞く寺子・と,そ・のスウィッチを切ろうとする知義との対立は,音楽を めぐる争いではなく,生活時間をめぐる意見の相違なのであろうか。本 当の音楽好きとトムさんの音楽好きとの不同なのか。しかし,やまさき は異論をはさまず。〕 Y 芝居なんかでも随分,音楽は使うし,第一・,セリフも音楽に似たところが ありますから,音感がわるくては演出はできませんね。 M ベー・トーヴュンなんかもトムさんは晩年,芝居にしましたね。例の若いと きのダンスにしてもね。〔しかし,あれはリズム中心の気もすると,や まさきはおもう。〕 Y 寿子とコンサ−トに行ったことはないのでしょうか? M 記憶にありません。映画の試写会に行ったことがあります。 Y その題名は? M 2,3回行きましたが,おぼえているのは「暗黒街の弾痕」というもの。 なんとかいう著名な女優がでていました。いっしょに音楽会に行ったこ とはありませんね。 Y トムさんの家に下宿か居候はしたことはないのですか? M ありません。泊ったうちの8割は,酔っぱらったトムさんをかかえて行っ
て泊ったことです。それはね,証人なんです。どこで飲んでいたかって
いうね。 Y 話題が変わります。元子さんを知っている人がもう少なくなって,元子と 寺子の関係をきくことができないのですが,再度,このふたりの関係に ついて伺います。元子さんはどういう方でしたか?M 元子さんはキリスト教徒で,淳子さんにも,じっと我慢していましたね。
ところが寺子さんのほうは元子を全くうけつけないのです。キライとい村 山 # 子 149 う態度が徹底していましたね。 あのね,例えば,どんなに仰がよくない嫁と姑とでも,時には,今晩の オカズを何にしようかとか,今はどこそこの品物が安いとか程度の話は するものですが,あのおふたりは全くそういうところがなかった。寺子 さんが徹底しで元子さんを敬遠していたのです。 探し物ひとつでも元子さんはオズオズして寿子さんにきき,寿子さんが そっけなく答えるという始末でしたね。暑いさなかでも,真冬のかんじ でした。両名の関係は。 双方が裸でぶっつかるということでなかったのです。寺子さんは自分が まっとうだから,さばいたり,ほぐしたり,適当に処理することができ ないのですね。例の㌻少年戦旗』の編集長にして−も自分でやめたか,あ るいはやめさせられたか。ともかく,自分の考えをまげなかったとおも いますね。すんなりやめたのではないとおもいます。頑固な所のある人 ですから。 ところでね,これは大事なことですが〔ここで松尾は身をのりだして〕, 他言しないで下さい,また,かかないで下さいよ,ただ,ぼくはこれを だれかにいっておく必要があるんです,自分でも記録だけはしておきた いんです。例の杉本良書が越境したとき,あの頃は,ぼくはトムさんを よく訪ねたものです。ぼくらは,杉本の越境で特高にねらわれつづけた のでした。新協劇団の仲間だから・・・。 あるとき,トムさんは机に向かってかきものをしていました。寺子さん は編み物か何かをしていてほくに向かってね,「あんた,杉本の越境に
ついてどうおもう? あれはナンセンスよ,あんたもそうおもうで
しょ」といいました。これはよく覚えているんですよ。 〔このあと,松尾はこのことについて当時のことをややくわしくのべられ たし,越境についての意見もまじえて述懐されたが,今回は省略す る。〕 特高のほうは,新協劇団,つぎに新築地劇団をつぶし,さいごに唯物論 研究会をつぶすという目的があって,わざと新協劇団をおいておいたら山 崎 怜 150 しいのです。ぼくは20年くらい前の『文学』(岩波昏店)に杉本にふれ で一寸かいたことがあるんです。当時の想い出の記です。 村山はね,「あんたはアンナ・カレーニナの演出はできない」と杉本を 痛烈にやっつけたんです。そ・のとき,酒は飲んでいたが,酒の上でのこ とではなかった。トムさんのあんな痛烈な批判はきいたことがない。そ して,ぼくはズバっといって貰えて杉本はありがたい人だな,とおもっ た位です。自分は,トムさんからアメばかりしゃぶらされたほうです−。 しかし,杉本のほうは大変コタユタはずで,そういうとき,杉本には 〔中略〕はあったかとおもうけれども,芸術的失意におちいっていたと おもいます。杉本は越境するにあたって,新協劇団をやめず,それに相 棒の岡田嘉子さんは井上演劇道場の人なんだ。双方の関係者への迷惑を かんがえたら,事前に杉本はやめてもよかったのではないか,とおもう。 杉本自身は,ぼくらにアキラメを感じていたにちがいないのです。岡田 素子さんのほうは純粋に演劇にあこがれていたのです。こういうふたり の男女がモスクワの演劇にあこがれたとされていますが,30すぎの男と それと同じか,一寸上の美女がふたり連れというのはゲスのかんぐりに なるけれど,何が異実とかんがえたらよいのか‥・。 寺子さんだって,杉本からソ連行きを事前に,きいていたかも知れませ んね。昔話のように。あの頃のぼくらは−・般に,だれかれなくソ連にあ こがれていたんですから‥・ 。なんということはない。 Y 杉本は,じっさいに行くときは誰にもいわなかったのでしょう? M そうです。いわれたら,みんな,ひきとめるでしょうね。ひきとめられた ら困るので,杉本はいわなかった。〔後略〕 Y 話は変わりますが,村山と久保 粂の双方の関係というか,双方,相手を どうみていたかを敢えていただきたいのですが・‥。村山は久保を批 判していたようにおもいますが‥・。 M いや,トムさんは久保を評価したはずです。久保も村山を才能人と評価し ていた。トムさんほ久保のやり方を建築的にガッチリしていたとみたん ではないか。例の「夜明け前」ですが,トムさんは半歳の内面的葛藤中
村 山 摩 子 151 心にみるけれど,久保はその葛藤をうむ環境を重視したんですね。です から,久保は豪壮な舞台を必婁とするんです。トムさんが演出をやって おれば,あれだけ,あの舞台が有名になったかどうかわからない。 久保はリアリスティックだが,トムさんはシャガールみたいなところが ある。あとでは,シヤか−ル的なものに批判的になりましたがね。 「火山灰地」のようなものはトムさんにはかけなかったし,かけないと トムさんはおもっていたはずです。しかし,トムさんはトムさんで,オ レはオレのものがかけるという自負があった。同質のものだったら,ど ちらかが倒されて−いたでしょう。また,トムさんは政治力が久保よりは 上だった。こんどの『悲劇喜劇』(12月号)にぼくは久保についてかき ました。〔中略〕久保は理想家ハダで,ひとに好かれないところがあっ たが,トムさんは久保にかなわない部分がありながら,人から好かれる ところがあるんですね。 滝沢 修,小澤栄太郎,宇野重曹は,このふたりの演出家から,とるべ きところをとった仕合わせ者だ。 村山の伝統は民蛮,滝沢,宇野の民聾に生かされて−行ったんです。フジ タや佐野 横もそうですね。 Y 松尾さんは戦後のトムさんとはどうなるのですか? M トムさんは新協劇団,自分は自立演劇でした。わかれてしまいました。戦 後,疎開先の北海道から鎌倉の材木座にうつってきたのです。ぼくは東 京出身ですが,妻が函館の出身で戦時中に北海道に疎開したんです。 材木座には1946年5月にうつったのですが,子供ふたりと家内とで寿 子さんの家に行ったことがあります。そのとき,舞子さんは重病でした ね。そのあと,数カ月で亡くなられたのではないかとおもいますが‥ O Y そうです。亡くなられたのは8月4日ですから,3カ月後になるでしょう か。 ところで,トムさんとはそれっきり,わかれたのでしょうか? M いいえ,その後,第2次新協劇団のときに,来てくれと呼びに来ましたの
山 崎 怜 152
で行きましたが,そ・れは劇団がつぶれかかったときで,いわば火中の栗
を拾いに行ったようなものでした。ぼくは毎日,金策ばかりに走ったの
ですよ。それとは別ですがね,共産党が合法的となり,解放気分になったとき,
簿子さんは全くはずんでいなかった。死を予期していたからでしょう。
かわいそうなひとでした。Y 戦時中の寿子は日本の敗戦を確信していたとのことですが,もう一度おっ
しゃって下さい。M 「勝てるわけは絶対ないわよ」と寿子さんはいっていた。かの女は向うの
雑誌や本をよんで,アメリカの経済力を具体的に知っていたからです。
科学的に知っていたからで,信じていたというより,正確な知識をもっ
ていたというほうが適切です。Y 簿子の亜土への教育について,あるいは育児法について教えていただけま
せんか?M ぼくがはじめてトムさん宅へ行ったとき,亜土ちゃんはおばあさん(元
子)と寝ていました。小学校へはいるかはいらないか,という頃です。
三角の家の2階です。そ・れから新築してのちのことは記憶がありません。
記憶は三角の家ばかりですね。
但し,さきの杉本の越境の話をきいたのは,あたらしいほうの家だった。
それはトムさんがタタミに腰かけて,座ってでなく,仕事をするという
感じで・・・。 Y それは堀コタツなのですか?M いや,堀コタツでなく,一段上にあがった感じです。その下がイロリだっ
たかどうかは不明ですね。Yトムさんの家に,はじめて行かれたのはいつでしょうか?
M 昭和4年8月です。夏季講習会があってね,トムさんの家でね,それで
行ったのがはじめです。あそこは左翼劇場の事務所であり,ケイコ場
(ば)でありました。そうして二度の検挙ののちは,トムさんの家に
なったのでした。村 山 簿 子 153 Y トムさんの劇団とわかれるときは,どんな事情でしたか? M トムさんに,民糞に移るとき,挨拶に行きました。1950年か51年です。 あそこの劇団では喰えなかったのです。ぼくは生活の苦しみをのべまし
た。自分も涙を流し,トムさんも涙をながしたのです。いくらあがいて
も新協ではメシが喰えず,芝居ができないのです。 Y それより以前の,トムさんとのわかれは?例えば太平洋戦争になる直前 の頃のことです。 M 昭和16年暮からはお互いに逢いにくくなりました。トムさんが監獄から でてきて逢いに行ったのですが,どうしてやってきたんだときかれた。 それからはちょくちょく行きました。われわれは監視つきなので不自由 なんですよ。そんな中でお互いの動静をたしかめあったんです。トムさ んは菊田−・夫の演出をしたり,井上正夫とゆききをしたりしましたね。 寺子さんが日本の敗北を予言したのはその頃のことです。 Y 舞子がツルカワにいた頃はご存知でありませんか? M 戟災で辱子さんがツルカワにいた頃は自分は北海道にいました。そうして 戦後になって,さっき申したように鎌倉で逢ったわけです。 Y 8月4日の死去とお葬式のことはご記憶にありますか? いのまたときのり M あります。翌8月5日は大変天気のよい日で,猪俣時範が朝やってきて, 寺子さんが亡くなったと知らせてくれました。ぼくはとんで行きました。 Y その猪保というひとは何をしていた人ですか? M 演劇人協会に関係していたとおもう。しかし,芝居のほうに関係していた のではないとおもわれます。ぼくはトムさんに頼まれて,メ指という葬儀屋さんに行ったり,いろい
ろと世話をしました。 Y その名前は葬儀屋らしくありませんが,今もあるのですか? M あります。あとでそこへ行きましょう。様子は以前とはちがっていますが ね。 Y そうですか。いろいろ,ありがたいことです。 小壷という焼却場はありましょうか?山 崎 怜 154
M それは遠海の火葬場ではないかとおもう。
Y それじゃ,トムさんのかいている小壷はまちがいでしょうか? M いや,地名としてはそうかも知れませんね。しかし,一−・般にはそこは名越 というところのはずです’よ。〔あとで,松尾と小壷のある山を遠望した。 丁度,角喜のところから・・・。〕 Y あのとき,そ・の火葬場に行かれたのでしょうか? M いいえ,行きません。自分は,トムさんのところで留守番をしてお骨がか えってくるのを待っていました。受付は小倉正夫君がしました。このひ とは画家でして,〔中略〕鎌倉で市議をしました。2期はしたと思いま す。〔中略〕3年位前に亡くなられました。 ぼくは寺子さんの8月9日の葬儀(告別式)にも行きました。あの保険 協会の講堂に。あの折,告別式の通知状をぼくは何枚も何枚もかいた記 憶があります。 Y そうです−。あれは宛名だけでなく,文面もみんな手わけをして肉筆でかい たのです。そのうちの何枚かが村山家にのこって−います。 〔このあと,鎌倉小町の喫茶店をあとにして,松尾はやまさきを案内して,妙 隆寺へ行き,丸山定夫の墓につく。基には本郷 新の彫ったアルパゴンにふん する丸山の顔があり,やまさきは神妙に頭を下げた。この寺の本堂で毎年丸山 を語る会をやるという。この年もすでにやり,金子洋文が話をしたと松尾はい う。この妙隆寺を出て,妙本寺に登り,夕焼けの鎌倉を眺めた。この日は快晴 で西におちる夕陽がはっきり望め,周囲の山の静けさとあいまってじつに幽幻 なたたずまいとなった。鎌倉の夕暮のよさを感じた。いつもは明るいうちに東 京に帰るのでこういう時間にひたりえないと思われた。この寺を下っで西方に向かい,町々を歩いて≠捲に案内された。当時の木造
の家とはちがうようだが,場所は同一・という。このあと,鎌倉駅まで歩き, ホ・−ムでまたもや,やまさきを見送ってくれた。 松尾の,物静かだが,情熱的な態度,精博さを秘めつつ,心あたたまる態度 に感銘をうける。 鎌倉の夕暮を背景に歩きながら語ったことに宇野重吉のことがある。松尾は村 山 寿 子 155 宇野をほめ,あの人は下積みの仕事をしながら,何事をも摂取し,今日を得た。 しかも現在でも走り使いをするんだといって称賛した。苦労をコヤシにしたと でもいいたげであった。そうして,宇野はトムさんのいいところをとりながら, 俳優としても,演出家としても,さらに経営者としてもじつに見事だとほめ上 げた。そ・こには松尾にとって宇野がどんなに大事な人であったかがわかる。そ してさらに,今日でもおごることのない宇野,おさまってしまわない宇野は偉 いということになった。そこへ行くと,トムさ ということである。やまさきは〔中略〕もエリ1−トのところがありますね,と いうと,松尾はそ・れを骨定した。 別れぎわに,また,舞子さんについて,いろいろと想いだすべく努める,努 力したいといって,別れた。松尾は今,自分の体験を資料としてかきとめてい るそうである。前のときもそういわれた。しかし,発表する気持はないそうで ある。やまさきはそういう体験が埋もれたまま風化してゆくことは残念である とくりかえし松尾にのべた。 この人はじつにふかい情熱をかんじさせる人である。顔形は小さいけれども, 不思議にいい顔である。苦労を経て風雪にたえたいい顔である。〕 (あとがきに代えて) 松尾の印象はやまさきにとってじつに忘れがたい。それは自分の弱さをかく さず,また他人についてはつねに同情的にいわれ,その中で歴史の動きと人の 人生をしづかに語られたからである。 やまさきが少し調べただけでも松尾はつぎのように文章をかいている。 (1)戦前の新協劇団の活動一俳優座ゼミナールに於ける講座−『劇作』 25,’49.7. (2)久板栄二郎について−その作品と足跡−『日本演劇』第7巻第9号 (3)ある想い出 『文学』第23巻第2号,’55.2. (4)中国での回想から一戦中の日本新劇 『文学』第29巻第8号,’61.8. (5)提出された問題一自立劇団コンクール特集3 『テアトロ』第10巻
山 崎 怜 156
第10号,’48.11.
(6)久保集落書 『悲劇喜劇』第34巻第12号,’81.12. (7)栄ちゃんの青春 『悲劇喜劇』第36巻第6号,’83.6. (8)素敵な紅茶 『悲劇喜劇』第37巻第1号,’84.1. (9)陶酔と友情と 『悲劇喜劇』第37巻第7号,’84.7. (10ト一九三八年の断片 『久保 螢研究』第1号,’59.11. (11)保護観察所のこと 『久保 条研究』第11号,’88.11. (1)は知義の自伝や回想とことなった新協劇団の活動記録として貴重,(3) は杉本良書の越境のころの「想い出」,(4)は知義の朝鮮行の事実をふくんで 重安である。 松尾は1986年10月11日,伊勢原市の東海大病院で78歳の生涯を終えた。そ の死去を各紙が報じたが,そこには久保 発作「火山灰地」の演出家であり, 「丸山定夫を偲ぶ会」の代表責任者であったことがしるされている。丸山は 「新劇の団十郎」の異名をとった俳優であり,桜隊として広島の旅興行の途次, 原爆によって非業の死を遂げた。この「偲ぶ会」の代表をつとめることに松尾 の新劇人として戦後の生き方のひとつが示されている。心から松尾のご冥福を いのりたい。 おさむ じん ラち 話し手 陣ノ内 鋸 (横須賀市声名のご自宅にて) (前言) すでに陣ノ内 銀氏の「聞きがき」を発表したが,そこにしるした ように,それは陣ノ内氏の手紙文を「聞きがき」風に構成したものであって, 本来の「聞きがき」ではなかった。以下は陣ノ内氏の「聞きがき」そのものを 記録したものである。お話の中身は前回のものを前提にしている。(前回通り, .丁は陣ノ内氏,やまさきはYである。) Y・一・般に陣ノ内のお名前は「陣之内」とかかれている人が多いのに,ご本人村 山 貴 子 157 は「陣ノ内」とかかれておられます。「之」は正しくないのでしょう か? まず,このことこから伺いたいのです。 J「之」は正しくありません。「陣ノ内」のほうが正しいのです。古くから 「ノ」がついていました。但し,戸籍は「陣内」でありまして,「ノ」 はないのです。しかし,歴史的には,「ノ」がついていました。「之」 はまちがいです。もっとも,中国では「陣内」では全くよめず,かれら は「之」をつけていました。これは長く中国にいたときの経験です。 Y 「鋸」は「オサム」でよいのでしょうか? 人からそのように教わりまし た。 .丁そうです。「オサム」です。自分の話で恐縮ですが熊本の自分の国では, アサノ支配地区をオミコシが歩いて領地を検分支配していたのです。8 つの村を毎年1回ずつ,都合8年に1度廻って来て宿としたところをお
ほしや 星屋といい,このお星屋は土.地の豪族でありまして,また,百姓でもあ
りました。士族ではありません。そういうお星屋に「堀ノ内」「竹ノ 内」「山ノ内」などの苗字があり,「陣ノ内」もそのひとつなんです。 また,私の囲にほ「陣ノ内」なる地名もあります。それらはいずれも 「ノ」がついています。じんりゆうじ 私は自分のペン・ネームを陣 電二とつけ,長くそれを使っていました
が,のちに官憲はそ・の使用を禁じました。しかし,友人たちはペン・ ネームで自分をよび,本名でよぶ習慣をもちえなかったようであります。 そんなことで,ぼくの名をかける人はすくないし,個人名のほうもよめ ぬのではないかと想像しています。 Y 村山知義,もしくは村山家とはどのような経緯でかかわりあうようになっ たのでしょうか? Jぼくは杉本良書と友だちになり,かれの紹介で演劇に関係することになり ました。具体的に申せば,プロットの組織の−・環だった東京プロレタリ ア演劇研究所に聴講生として通い,そこに講師として来ていたトムさん を知ることになりました。名前だけは,その前からマヴオを通じて知っ ていたのですが,実際に接触したのはこの研究所を通じてだったんです。山 崎 怜 158 この研究所で勉強して−左翼劇場にはいりました。ノJ、道具係りをやり,効 果もやりました。その当時の効果はじつに素朴なもので,今とは全く異 なる単純なものだったのですが,いろいろ工夫をこらし,創意したもの をつくりました。裏方さんのことを知る必要があるとつよく思いました。 そのあとで演出部にはいりました。そしてその間に,村山の家庭に出は いりするようになりました。 Y 村山家に寝泊りするような,−・種の内弟子みたいなものでしょうか? 丁 村山の家に寝泊りしたり居候のような格好で住んだことはありません。で すから,家庭的な意味で個人的に深いつきあいがあったことはありませ んね。とくに鎌倉時代以前は・・・。 Y そのプロットのことですが,いろんな本にかいてはありますが,改めて−お 教え下さい。 Jプロットというのは演劇同盟のことで,プロレタリア文化連盟ができて, それ以前のプロレタリア演劇同盟が演劇同盟となったときの名称ではな いかと思います。松本鬼平の演劇史がもっともくわしく正確な筈です。 鬼平の本に,われわれはみんな資料を提供して協力しました。プロット の名は佐々木孝丸や知義らがメンバ1−の会議で,エスペラント語の頭文 字を紙でつくってそれを投げて作ったのだ,という笑い話があります。 しかし,人間の記憶というのはあいまいなものです。あてになりません。 例えば,小林多喜二が亡くなったその日に,われわれは左翼劇場で公演 中でした。そ・の舞台の上から,私が多富この死についてしゃべって黙と うをよびかけたそうですが,ぼくはそのことを覚えていないんです。こ れは築地小劇場でのことです。しかし,その舞台上の私の態度の故に, それから1週間か10日位かのあとに,自分は築地署に引っ張られ,45日 間,そこに拘留されました。多喜この虐殺のときは,原泉子が小劇場か ら,すぐ出かけて病院にかけつけたんです。病院は小劇場近くの個人病 院で,そこに遺体が運ばれ,死亡診断書がかかれましたが,遺体は,そ の夜,そのあともかなり長時間,その病院におきっばなしになったあと, 漸く自宅に運ばれたのでした。
村 山 寿 子 159 さきほどの東京プロレタリア演劇研究所の初代の費佳肴は小野宮書であ りまして,そのあとを自分がひきついだのです。 Y 演出部にはいったのはいつ頃でしょうか? Jそ・れがいつであったか,正確には全くおぼえていません。自分自身のこと なのに,記憶が全くさだかではないのです。 Y 先生はいつおうまれでありましょうか? J1907年5月21日生まれです。最薫別こ亜土に逢ったとき,かれは4歳か5 歳位にはなって−いました。しかし,幸子さんは,村山家での演劇人の会 合やプロットの会合には顔を出さなかったんです。まあ,大体,そ・うい う会は漕がでて,ニ歌会みたいな雰囲気になります。ああした会をかの
女は好まなかったのです。そんな会合には,かの女は全く顔をみせな
かったと思います。われわれのそうした会は,大体,アトリエの方でし た。こちらからはかの女の住む母屋のほうのことはわからないのでした。 かの女は全般的にみても,交際範囲は狭く,少数の友人とふかくつき あったのではないのでしょうか。誰とでも,適当に口をきくタイプの人 ではありません。 ぼくは簿子さんとはわりに口をかわしたのですが,しかし,それでも二 人っきりで話をしたのは鎌倉の家へ来てからのように思います。上落合 時代はあまり個人的に話をしたことはありませ−ん。 Y しかし,鶴川へ様子をみにゆかれたり,簿子が鎌倉にわざわざ様子をみに こられる位ですから,かなり,うちとけた関係にあったのですね。 Jそうです。ですから,今も申しましたように,ぼくは静子・さんとわりに話 をした人間になります。 Y かの女は美<ではか、,といわれますが‥・。 J美人という感じの女性ではありません。肉感的でもない。モダン・ガ・−ルです。村山夫婦というのは二人とも,頭脳明断を求めあっていたのです。
知性的なものを求めあう所があったと思います。 それでひとつ思いだすのは,服部之総とぼくとは友だちで非常に親し かったのです。その服部に娘がうまれました。服部はその娘と(村山に山 崎 怜 160 向かって)「お前の息子が結婚すればすばらしいものとなる」と冗談め
かして,よくいいました。服部は何度もそれを口にしたんです。そこに
は,服部が知義と寿子の子償を知性のかたまりと考える考え方が凝縮し
ていたのですね。そこには,つまり,トムさんと寺子とのむす−びつきが
奈辺にあるとみられたかの証拠があるわけです。その娘は,亜土と同年
齢位の女性で,今は医者のオクサンになっています。また,村山や服部
たちは,競いあった所があり,村山が息子を温土とつけると服部のほう
は,旦(たん),設(せつ)という名を男の子につけ,大宅杜−・は歩
(あゆむ)とつけました。大宅は将棋が好きでしたから,悪友たちは,
その子・は今に「ナリキン」になるよと,へらずロをたたいたものです。
この歩にせよ,且や設にせよ,村山の長男に亜土という酒落た名前をつ
けるということに動機をもち,当時の村山知義,村山家の位置関係,そ
れへ.の憧憬を象徴しているのです。旦は現在,建築家,設は図案家に
なっているんです−。その亜土という名前なんですが,ドイツ時代にトムさんの好きであった
女性の名ではありませんか?小説にでてくるドイツ時代のトムさんを自ら語ったとおもわれる人物は,セックスを我慢して−ポートを漕ぐとか
いった発想があります。Y 亜土の名前はトムさんはアドミラル,アドマイアといった「栄光」の由来
をかかれているし,佐々木孝丸さんだったか,トムさんと寿子さんの逢
いびきに際して,かの女がドアの下から手紙をさし入れたとか,かの女
の作品に「プリンス・アド」という童話があるとか,いろいろあります。
ドイツ時代のそういうことは耳にしたことがありません。
.丁いま,いわれたいろいろの由来ははじめて伺いました。
Y トムさんはご存知のように3慶ばかり拘留されました。さきほど,多喜こ
の死のとき,黙とうをよびかけて引っ張られたことがございましたが,
その後はいかがでしたでしょうか?.丁自分はしょっちゅう引っ張られたのです。何十回となく。しかし,その都
度の期間は長いとこきでも2,3カ月。ほとんどのものは1週間とか10日
村 山 簿 子 161 とか,45日とかでありまして,多分,ぼくを引っ張っておくと芝居がで きない,困らせるための,イヤガラセではないか,公演期間内を引っ 張っておくと芝居が中止.になるとふんだのではないかと思うんです。自 分は演出部にいたので,一寸,不在になると芝居に水をさせると考え.た のであろう。原泉子もずいぶん引っ張られる回数は多かったですね。ぼ くのはいつも理由不明。住所をいわないと浮浪罪にさせられた。住所を きめて,それをのべても,なお,浮浪罪にしようとしたのです。この浮 浪罪で引っ張られた回数は多いのですが,裁判のほうは2度。1皮はプ ロット解散のとき,もう1度は新協の解散のときです。起訴猶予になり ました。 Y 寺子はオシャレといわれていますが,どうおもわれますか? J かの女は非常にオシャレだが,普通の意味のオシャレではありません。ケ パケバシイものではないのですが,真実,オシャレの人だった。 ぼくは村山がエロティシズムについてかいた本をもっていて焼いてし まった。ああいう本は韓子さんの好まぬものでしょうね? Y そうです。そ・ういう本を村山の獄中時代,かの女が生活のためもあります が,救援のためもあって,つぎつぎに売り払ったといわれています。 .丁 そういえば,寺子さんはトムさんの本をしばしば売り払って,本棚が空っ ぽになることがありました。 Y 寿子の発病についてお伺いしたいのですが,最初の発病をご存知でしょう か? 一丁 自分が左翼劇場にいるときだった。あるいは新協のときかも知れません。 そのとき,かの女はベッドでねていました。.正確な日時はさだかであり ませんが,鎌倉時代以前であることははっきり記憶しています。 今迄のお手紙にしるしましたように,自分に全く不思議なことのひとつ は,あれほど近代的な人であったのに,医者を信用せず,病気になって も医者にかからなかったことです。しかし,名医をひとりだけ知ってい るとはいっていました。 Y それは塚原さんのことですか?
山 崎 怜 162 J そ・うです−。塚原さんです。 Y 塚原さんはトムさんの同級生で,当時,結核では全国的にもぬきんでた名 医とこいわれた人です。私は塚原さんにお逢いして,かの女の治療のこと を伺ったことがあり草す。 J 自分は第2次大戦後,知義の再建した新協劇団に加わらず,新演劇人協会 を作りました。これは,新しいプロットみたいなものです。また,私は 文化連盟の事業部長として出向もしました。新演劇人協会の下で,私は 全国の自立劇団を組織して廻ったのです。そういうことで私は演劇創造 の現場からいつも遠ざけられたことが,今もって後悔していることなん です。また,私はね,土方与患,村山知義,千田是也の3人をむすびつ けるべく動く役割をもっていました。 Y その新演劇人協会の話がでましたので,弔電の氏名の確認をさせてくださ い。私の知っていることもありますが,すべてのことについて教示して いただくことを願っています。 まず,イトーブンカキョウカイとは何でしょうか? J伊豆の伊東に谷−・(タニ ハジメ)という酒屋さんで地主でもあり,静 岡県の県会議員の方がいまして,この人が自分の家で文化運動をやって いました。大変,熱心な人でして,今はもう75,6歳をこえているで しょう。現存のはずです。この方の会です。 Y ヨドノリウソとはどなたでしょうか? 一丁 児童文学者です。『少年戟別の編集をやっていました。淀野隆三です。 Y ジジシンポウのシイノさんは? .丁 重話関係の記者と思います。この人を通して寿子さんは時事新報に童話を 発表していたのではないか,とおもいます。 Y ウチダレイコについて。 J新協劇団の内田礼子さん。ススキダケンジの細君になりました。 Y ホドシマタケオさんは?