「人間の羊」における沈黙を囲む饒舌
著者
高橋 由貴
雑誌名
日本文芸論叢
巻
20
ページ
53-62
発行年
2011-03-31
URL
http://hdl.handle.net/10097/55036
「人間の羊」 における沈黙を囲む擬古
-大江健三郎と遅れてきた戦争 (下)
はじめに オキュパイド・ジャパン 大江健三郎の占領期の日本を題材とした小説は'別稿にて検討し -∴ たように、当時の日米関係という世相を反映させたテクストという よりもむしろ'日米関係を背景に据えた戦後空間において序列や対 立を生み出す言葉の力学によってへ 個々の人間の間に再び暴力的な 出来事が引き起こされることを描-テクストであった。例えば大江 は「戦後世代のイメージ」というエッセイにおいて、「敗戦」か 「終戦」かどちらの言葉を選ぶか、あるいは自衛隊をどのように定 義するかに関わって、次のような発言をしている。 再軍備についての政府の見解には、つねにこうした《敷けか 終りか》的な、言葉のニュアンスの活用がめだっている。しか も、かれら政治家の言葉のニュアンスについての深い配慮は、 じっに様ざまの新しい言葉を生みだしたものだった。/〔-〕 われわれには、現実を見きわめることの困難にへさえさしてへ高 橋 由 貴
現実に背をむけ、現実のかわりの言葉だけをもてあそぶ傾向が あるということだろう。/現実を言葉におきかえること、これ はやむをえないばかりか、文化的な行為である。しかし、他人 がおきかえて-れた言葉をそのまま服用して、自分自身が現実 を自分の言葉にかえることを怠ることは、危険な要素をふくん でいる。それは、自分の肩のうえに'他人のあたまをのせて動 : きまわることだからである。 「放けと終り」 ここでは、言葉と「現実」が交換される際に生じる陥葬が語られ ており、戦争という出来事が終わった後の状況において、政治を創 り出すのは「現実」をどのように言い表すかである、という大江の 認識が示されている。「現実」という目の前の事態を自分自身でよ -見きわめることを怠る中で、新しい言葉が生み出される。すると この「現実」から切断された言葉が、今度は逆に「現実」の方に圧 五三し付けられる。私たちは「他人のあたまをのせて動きまわる」が如 -、他からもたらされた空虚な言葉に翻弄される - 大江が警告す る「危険」の概略はこのようなものであった。そして大江にとって 敗戦および再軍備という占領下の日本という戦後の問題は、まずは このような言葉をめぐる闘争として意識されていたと言ってよい。 本稿では'出来事が収束した後に、言葉によって現実が組み替え られていくことで対立が生じるという観点を据え、占領下の日本を 舞台とした小説の一編である「人間の羊」に考察を加える。これを (-) 通じて、「戦後日本の社会の比喩」や「連合軍による日本の占領」 (4) に基づく「心理的状況」を描いたものと解釈する従来の理解を斥け、 ささいな言葉が争いを招いてい-過程を繰り返し描-大江の試みを 明らかにしたい。 一 一、「僕」の一一一一畳鵬的な疎外状況 「人間の羊」 のあらすじは以下のとおり。帰宅中のバスの中で、 自分に絡んできた外国兵の相手をしている女を勢いで突き飛ばした ことから、「僕」は他の乗客数人とともに外国兵たちに羊の真似を させられるという屈辱を受ける。外国兵がバスを降りたことで終わ るかに見えた屈辱は、被害を受けていない他の乗客からの、外国兵 への抵抗を鼓舞する「励まし」 の言葉に取り囲まれることで持続す る。バスを降りてもなお被害を受けなかった「教員」からの「犠牲 の羊になれ」という執拗な付きまといに遭う「僕」は、「教員」と 夜通し歩き続けることを覚悟する、というものである。そしてこの 「僕」に羊の真似をさせようとする外国兵の叫び声と'事件につい 五四 て警察に訴えなければならないと執拗に説-「教員」の饉舌とが、 「人間の《羊¥としての「僕」 の失語と対比的に示されている。 テクストは羊や兎や犬といった動物の喩を多用することによって、 無言のうちにとどまる「僕」の姿を動物として表象している。では この「僕」の動物としての表徴を、言葉との関わりからみていこう。 一連の出来事は、酔った女の気まぐれな言葉に端を発する。それ まで外国兵の膝上に座っていた女は、外国兵の悪ふざけを拒絶する 際に、自らを「東洋人」と規足しへ翻って外国兵に向かって「積い」 と言い放つ。「あたいはこのほうやと寝たいわよ」と学生である 「僕」を挑発する一方、「あんたたち、牛のお尻にでも乗っかりな よ」と外国兵を痛罵する、人種という区別を設けるこの女の発話は、 動物の喩(「牛のお尻に乗」る) を持ち込むことで「僕」と「女」 と「外国兵」 の三者の序列化を試みるものであった。自分たちより も一段相手を賭める時に機能する動物の修辞が、外国兵から日本人 乗客への「羊撃ち」という仕打ちを導き、また後半の姥められる者 としての「犠牲の羊」という語へと結びつ-。このような主要な筋 立ての他にも、ぞんざいに扱われる人間の形容として動物の直喩が 多用され、動物の喩は、人物間で優劣を競う言説に持ち込まれる。 さて'「僕」にもたらされる「羊撃ち」という屈辱は、意味内容 を欠いた喚き声を一方的に浴びせかけられる体験として示されてい た。 外国兵が何か叫んだ。しかし僕には、その歯音の多い、すさ まじい言葉のおそいかかりを理解できなかった。外国兵は一瞬
黙りこんで僕をのぞきこみ、それからもっと荒あらしく叫んだ。 /僕は狼狽しきって、外国兵の遣しい首の揺れ動きや、喉の皮 膚の突然のふ-らみを見まもっていた。僕には彼の言葉の単語 一つ理解することができなかった。/外国兵は僕の胸ぐらを掴 んで揺さぶりながら喚き'学生服のカラーが喉の皮膚に食いこ んで痛むのを僕は耐えた。外国兵の金色の荒い毛が密生した腕 を胸から外させることができないで、あおむいたままぐらぐら している僕の顔いちめんに小さい唾を吐きかけなから外国兵は 狂気のように叫び続けるのた。それから急に僕は突きはなされ' ガラス窓に頭をうちつけて後部座席へ倒れこんだ。そのまま僕 は小動物のように妹を縮めた。/高い声で命令するように外国 兵が叫びたて、急速にざわめきが静まって、エンジンの回転音 だけがあたりをみたした。〔-〕/外国兵がゆっくり音節を-ぎって言葉を-りかえしたが、僕は耳へ内側から血がたぎって -る音しか聞-ことができない。僕は頭を振ってみせた。外国 兵が苛立って顕すざるほど明確な発音を再びくりかえし、僕は 言葉の意味を理解して急激な恐怖に内臓を揺さぶられた。うし ろを向け、うしろを向け。しかしどうすることができよう、僕 は外国兵の命令にしたがってうしろを向いた。後部の広いガラ ス窓の向うを霧が航跡のようにうずまき、あおりたてられて流 れていた。外国兵がしっかりした声で叫んだが、僕には言葉の 意味がわからない。外国兵がその卑猥な語感のする俗語をくい かえして叫ぶと僕の躯の周りの外国兵たちが発作のように激し -笑いどよめいた。 (1 4 3頁) この場面では「耳へ内側から血がたぎって-る音しか聞-ことが でき」ないため、外国兵の声にまつわる情報のみが詳細に提示され る。「単語一つ理解できなかった」 のは、外国兵の話す外国語が分 からなかったからではないはずだ。「フランス語の初等文典」をポ ケットに入れている学生が日常会話レベルの英語を聞き取れないと は考えに-いし、また意味が「理解」できたからといって「恐怖」 が和らぐわけではないことも予め書かれている。したがってここで は、外国兵が日本人である「僕」を威圧するという事態だけではな -、どのように威圧しているのかが重要であり、目を向けるべきは、 外国兵と「僕」とが言語的に非対称な関係に据えられている点であ る。「何か」としかいいようのない外国兵の叫び声、「ゆっくり音節 をくきっ」た言葉、「歯音の多い、すさまじい言葉のおそいかかり」 や「荒あらし-」「狂気のよう」な叫び声、「命令するよう」な「高 い声」や「卑猥な語感のする俗語」の「-りかえし」と、「発作の よう」な激しい 「笑い」と「どよめ」き。「僕」は言葉の意味内容 から徹底的に遠ざけられ、声の硬い響きに囲繰されながら鋭さや荒 々しさに繰り返しに攻めたてられる。このように、まず「僕」に訪 れるのは、言葉の次元での圧倒的な疎外体験であった。喉を圧迫さ れて顔に外国兵の「小さい唾」を受けるといった困難な姿勢も、何 事かを発することから「僕」をより遠ざけることに与している。 続いて「僕」は「動物の毛皮を剥ぐように外套をむしり」とられ て羊の擬態という屈辱的な恰好をさせられる。この後、外国兵たち はバスに乗り合わせた日本人の乗客に対して羊の真似を次々に強要 五五
する。一見何の意義も見いたせない外国兵たちの行為は、「童謡の ように単純な歌」を「熱狂して歌」うことからもたらされる一種の 遊戯になってい-。この外国兵の遊戯は、多数の人の眼に「僕」の 「裸の尻」を晒させることで「僕」に「焼けつ-羞恥」と「やるせ ない苛立たしい腹立ち」をもたらす。ただ決定的に「僕」を「うち のめし圧しひし」ぐのは、それを見た同じ日本人の乗客の-す-す 笑いであった。ズボンを降ろして屈むという行為は、行為を施す者 と行為を施される者の他に、その行為を観察する者がいることによ って恥ずべきものとなるのである。第三者を意識することによる羞 恥心は「躯を起す気力さえうしな」うほどのダメージを「僕」に与 える。これによって無気力と疲れが身体に刻印され、「《羊》にされ た人間」 の動作の鈍さと失語が導かれる。 したがって「《羊たち¥の経験とは、次の二点に集約される。言 葉に囲緯されながらその意味から遠ざけられ、多数の威圧と好奇の まなざしに晒されることで'「声は生まれる前に融けさ」るという 言語的疎外と、衆人環視の下で服を脱がされて「四足の獣」の姿勢 を強要されることを意識した「羞恥」と「腹立ち」 の感覚である。 この無気力・無抵抗の失語は、言語的な疎外と屈辱的な身体経験と 固く結びつく形で作られている。 二、「熱っぽい」言葉の躍動 栗坪良樹はこの小説を「直接的に被害をこうむった者と間接的に 被害を知覚した者との位相が直写されたもの」であると評している 面・-細 が、さらに付け加えて言えば、この小説の眼目は、「僕」たちを虐 五六 げた外国兵たちの身振りを「被害を受けなかった者たち」が無意識 に反復することで、「僕」たちは依然「《羊たち》」 にとどまりつづ けなければならな-なるという、日本人同士の反日にこそある。 (外国兵/日本人)を本質的な二項対立として設定する枠組は、ま さに占領下の日本というステレオタイプな型にこのテクストを押し こめるものにすぎない。むしろこの(外国兵=あいつら)と'(日 本人=われわれ)という図式は、被害を受けずに傍観していた者た ちの内で強固に機能し始め、この図式に則って、徒らな言葉が次々 に生産されてい-。 《羊》にされた人間たちは、みんなのろのろとズボンをずりあ げ、ベルトをしめて座席に戻った。《羊たち》はうなだれ、血 色の悪-なった膚を噛んで身震いしていた。そして《羊》にさ れなかった者たちは、逆に上気した頬を指でふれたりしながら 《羊たち;)を見まもった。みんな黙りこんでいた。/〔-〕/ あいつらひどいことをやりますねえ、と教員は感情の高ぶりに 熱っぽい声でいった。彼はバスの前部の客たちへ 被害をうけな かった者たちの意見を代表しているように堂どうとして熱情的 だった。/人間に対してすることじゃない。/勤人は黙りこん だまま、うつむいて教員のレインコートの裾を見つめていた。 /僕は黙ってみていたことを、はずかしいと思っているんですへ と教員は優し-いった。どこか痛みませんか。/勤人の色の悪 い喉がひくひく動いた。それはこういっていた、俺の躯が痛む わけはないよ、尻を裸にされるくらいで、俺をはっておいてく
れないか。しかし勤人の唇は硬-噛みしめられたままだった。 /あいつらは、なぜあんなに熱中していたんだか僕にはわから ないんです、と教員はいった。日本人を獣あっかいにして楽し むのは正常だとは思えない。/バスの前部の席から被害を受け なかった客の一人が立って来て教員の横にならび、僕らをやは り堂どうとして熱情的な眼でのぞきこんだ。それから、前部の あらゆる席から興奮に頬をあか-した男たちがやって来て教員 たちとならび、彼らは妹を押しっけあい、むらがって僕ら《羊 たち》を見おろした。/〔-〕/僕らを、兎狩りで兎を追いつ める犬たちのように囲んで÷半た客たちは怒りにみちた声を あげ話しあった。そして僕ら《羊たち》は柔順にうなだれ、坐 りこみ、黙って彼らの言葉を浴びていた。 (146-147頁) 「被害者」に共有される「屈辱」や「疲れ」や「震え」と、「教 員」をはじめとする「被害を受けなかった者たち」 の「興奮」した 姿があからさまな対比で書かれている。血色の悪い皮膚を持ち、 「柔順にうなだれ、坐りこ」む「被害者」 である「《羊たち¥と対 照的に、「被害を受けなかった者たち」には、「堂どうと」した起立 姿勢と上気した赤い頬と「熱情的な眼」が配される。この(血色の よい/血色の悪い)という血色の良し悪しは対比的に機能する比喩 となり、言葉が身体とりわけ興奮や熱情にかかわって発せられてい ることを表す。対比的な血の気の比喩はテクスト全体に配されてお り、「なぜあんなに熱中していたんだか僕にはかわらないんです」 という「教員」の疑問への意図せざる答えとなっている。すなわち、 理由や意図があって人は行為を施すのではな-、外国兵が「童謡の ように単純な歌」を繰り返しながら何人もの尻を叩き続けたのと同 様、口から発せられる「感情の高ぶり」や「熱っぽ」さが人を動か すのである。「あいつらひどいことをやりますね」という発話以下 の議論は、発話主体の内面に基づ-言葉ではな-'「興奮」や「熱 情」を息吹としてその場限りの空疎な言葉が躍動したものであり、 この言葉が人々を行為へと突き動かす。この場面でも「興奮」や 「熱情」が被害を受けなかった者たちの口を借りて「怒りにみちた 声」として飛び交うのである。この熱っぽい言葉は'無言の被害者 たちを囲麗し、言語的非対称の位置に「僕」を据えた外国兵の仕打 ちを反復する。一方の被害者たちは、自分たちを動かす「熱情」も 「興奮」もな-、むしろ「焼けつ-羞恥」 のために口を開-ことが かなわない。このような傍観者と被害者の関係が、「兎狩りで兎を 追いつめる犬」といった動物の優劣の構図で象られ、辱められる 「僕ら」に再度動物という表徴が与えられる。 「唖みたいに黙りこんでいないで」「事情を話すべき」だと迫る 「教員」の言葉は、事件の当事者が沈黙に至るまでの過程を忘却し た発話であるだろう。立って声を出せるのは、辱めを受けていない からだという前提は故意に忘却されたうえで、これらの促しや励ま しが発せられる。ここで交わされる議論は、被害者と加害者という 関係性の外側に立つ位置からなされており、それらは常に「証人に なる」や「応援します」という第三者の立場からの声にすぎない。 だからこそ被害者と傍観者の立場差を消去する「恥をかかされたも の、はずかしめを受けた者は、団結しなければいけません」という 五七
「教員」から発せられる言葉が、被害の当事者である「僕ら」 に干 渉する暴力性を帯びた発話として受け取られ、この「教員」 の過度 な干渉に対して「団結」を拒絶する被害者の一人が「教員」を殴る という対抗する暴力を奮うのである。 別言すれば、被害者である「《羊たち》」と「教員」をはじめとす る被害を受けなかった者たちとの温度差は、出来事との距離の問題 である。事件を「ひどいこと」と「教員」が言うとき、その出来事 の中に自らは巻き込まれておらず、だからこそ出来事を「ひどいこ と」と指示できる。しかし事件の当事者たちは「ひどいこと」 の中 に既に自分自身が含み込まれているため、出来事に対しても外国兵 に対しても、近すぎて語ることができない。よって「勤人」 の内声 は、出来事を「ひどいこと」と言い表す「教員」 の発言に対して、 「尻を裸にされる-らいで」「俺の躯が痛むわけはない」とその内 容を打ち消すだけの曖昧かつ消極的な形をとる。「被害者」自らが 関わっている出来事を距離をとって眺めることができないことは、 「俺をはっておいて-れないか」という言い回しにも表されている。 さて、この出来事は、傍観者である「教員」に「ひどいこと」と 指示されることで、「あいつら」=外国兵に対する反発心と、「ひど いこと」をされた犠牲者に対する同情とをその場にもたらす。ただ しそれは発話者の内面や心情からもたらされるのというよりはむし ろ、発せられた言葉が設定した構図が導-受動的な感性でしかない。 だから、被害者の身体的受苦を無視し、「あいつらに思いしらせて やらなきや」という外国兵に対する共闘を強いる傍観者の言葉が、 被害者たちの状況を無視する形で圧しっけられる。 五八 このように、上気し熟した躯から繰り出される言葉こそが人間を 動かす。外国兵も「教員」も、言葉を弄しているうちに、いつのま にか言葉に弄されていく。この時へ 動物というイメージで表象され た無気力な「唖」が、米国か日本かという優劣や自らの発話の正当 性を競い合う言説空間の中で非難の対象となり、外国兵に対して向 けられていた傍観者からの非難は'その矛先を被害者であったはず の「僕」 へと向けられる。
三、沈黙を囲鏡する鋳舌
外国兵が日本人に施した暴力と戦おうとする「教員」は、だがそ の一方で、外国兵が「僕」 に施したこの「ひどいこと」と同じ暴力 を奮う張本人でもある。 この男から逃れることはむつかしい、という予感が僕をみた し、無気力に彼の言葉の続きを待たせた。教員は僕をすっぽり -るんでしまう奇妙な威圧感を妹にみなぎらせて微笑してい た。/君はあのことを黙ったまま耐えしのぶつもりじゃないだ ろう- と教員は注意深くいった。他の連中はみんなだめだけ ど、君だけは泣寝入りしないで戦うだろう-/戦う- 僕は驚 いて、うすい皮膚の下に再び燃えあがろうとしていた情念をひ そめている教員の顔を見つめた。それは僕をなかは慰撫し、な かは強制していた。/君の戦いには僕が協力しますよ、と一歩 踏み出して教員はいった。僕がどこにでも出て証言する。/あ いまいに頭を振って彼の申出をこぼみ、歩き出そうとする僕の右脇へ教員の励ましにみちた腕がさしこまれた。 (則頁) 「僕ら」 の沈黙したありよう、すなわち無気力で屈辱に耐えるだ けの動物という隠喩的イメージを、「教員」は「戦う」という言葉 で断ち切ろうとする。この時「教員」は、(泣寝入り=動物)、(戦 い=人間)という二項対立的な図式について語っている。喜劇的で あり悲劇的であるのは、「教員」はこの後、この二項対立的な図式 に基づ-発話をそのまま生きてしまうことにある。「泣寝入り」す るか「戦う」かという価値判断を伴う発話は、「戦うだろう↑」と いう言葉を「僕」 に強制し、さらには、「泣寝入り」を許容しない という発話を自らにも強いる。事件について口を開かず「泣寝入り」 する被害者たちを「教員」は「哀しそうな眼」 で見、そしてなぜ被 害者は戦わないのかと迫る。 だが、被害者が「教員」の言うように立ちあがって戦うためには' 外国兵から受けた羞恥を伴う衝撃を払拭しなければならない。した がって、一この時「教員」は、「泣寝入り」をするなと迫る一方で、 外国兵によって「泣」かせられたこと自体を無視すべきだと「僕」 に要求していることになる。しかしながら自分が痛ましい事件の被 害者であることは、「無気力」な沈黙として既に言い表されている。 事件について何事かを発することが外国兵に対する「戦い」になる という「教員」 の言に反し、「僕」 の沈黙は既にすべてを言いつ-しているのである。野口武彦はこの小説から「粗暴な動作でしか代 位できない性質の沈黙」と「教員」 の「言語不通」 の対立を取り出 (6) し、それを「教員」 の想像力の貧しさに帰しているが、むしろここ では想像力の欠如以上の事態、すなわち「励まし」 の行為が「僕」 にとって外国兵の振るまいを模倣する仕打ちであることは見過ごせ ない。 「腕がさしこまれた」という一文によって、先の場面での教員の 行動は、「僕の躯へ腕をかけるのをどうすることもできない」とい った外国兵からの仕打ちと類似するものとして提示されている。さ らにこの後、「教員」に促されて警官たちに事件を訴える場面は、 「僕」にとって外国兵によって施された屈辱の再現・反復として置 かれている。「僕は警官たちの好奇心にみちた眼のなかで、〔-〕裸 の尻をささげ屈みこまされるのを感じた」という一文は、被害者と しての「僕」、加害者としての「教員」、傍観者としての「警官」と いう三者関係を表し、外国兵が他の乗客の前で「僕」 の「裸の尻」 を剥きたしにする構図を示唆する。しかも警察という公の機関へ話 を通すことは、その屈辱に自らの固有名を登録することを意味して いた。屈辱的な出来事とともに自らの名前を刻んでしまうことを 「僕」はいたく恐怖する (「僕は自分のうけた屈辱をあたりいちめ んに広告し宣伝することになるだろう」)。他方「教員」は、公の場 に彼の名前とともにこの事件を刻むことで事件を世間に広-知らし めることを所望している。このように、両者の利益の対立は明らか である。「教員」 は'彼の言葉どおりにならないことを一方的に 「僕」 の側に圧し付ける。悪いのは、「僕」が名前を名乗らず沈黙 し続けることだというわけである。 俺はお前の名前をつきとめてやる、と教員は感情の高ぶりに 五九
震える声でいい、急に涙を両方の怒りにみちた眼からあふれさ せた。お前の名前も、お前の受けた屈辱もみんな明るみに出し てやる。そして兵隊にも、お前たちにも死ぬほど恥をかかせて やる。お前の名前をつきとめるまで、俺は決してお前から離れ ないそ。 (鵬頁) 「教員」は、言葉にした所謂「アメリカへの抵抗」を少しでも現 実にしようと、「僕」を抵抗する主体へと立ちあがらせるべ-説得 を試みる。失語を形づ-つている身体的経験を消去できずに「教員」 の干渉からひたすら逃れ続ける「僕」と、善意の言葉を拒まれるだ けでなく、警官の前で恥をかかされた挙げ句に突き飛ばされるとい う屈辱を味わい、そのためにますます「僕」 への追跡に専心する 「教員」との果てしない出口なしの闘争。もはや「名前をつきとめ る」という達成だけでな-、「恥をかかせてやる」という相手への ダメージを欲望する「教員L Ql言葉は、他に屈伏しないために他を 屈伏させるという論理の反転を見せるのであった。 自らが正しいと思い、自らの言葉を相手にどうしても承伏させよ うとするとき、敵対が生じる。対立は何らかの共通基盤の上でしか 成りたたない関係である。そうすると、たしかに外国 (人) と日本 (人) という区分に則った反撥を契機としながらも、より持続的な 敵対関係は、自らの言葉をどうしても承伏しない眼前の日本人同士 との間に形成される。このように敵対関係から生じる憎悪は、コミ ュニケーションを共有する近くの対象に向けられることへと容易に 転じる。このような非対称なコミュニケーションが持つ必然的な構 六〇 進によって、「僕」と「教員」という個々人の問に出口のない闘争 が引き起こされるのである。 以上、「人間の羊」 というテクストにおいて、身体的な受苦や羞 恥と結びつ-「僕」 の失語が、米兵および傍観者の饉舌によって形 作られることを見てきた。強調したいのは、ある言葉が発せられる ことによってそれまでの関係を支えていた序列が組み替えられ、そ の関係性の組み替えが物語の展開を導いていることである。例えば、 言葉がうま-出てこない失語の状態は、人間とは一線を画する劣位 の者 (-動物) とみなされることで被虐の対象となる。また、「恥 をかかされたもの、はずかしめを受けた者は、団結しなければいけ ません」という傍観者から発せられる自他の分節を無効化する発話 が、事件の当事者には、懇意的で憤りを覚える言葉として受け止め られる。あるいは事件を告発すべく事件の被害者たちに対して発す る「教員」の言葉は'彼等から不当にも自分が辱めを受けている被 虐感覚を当の本人にもたらす。このような関係性の組み替えを表す 端的な部分は、相手から虐げられていると考えて相互に憎悪し合う 「僕」と「教員」とに、「簡潔で卑猥な言葉」が「街娼」から投げ かけられる結末近-の挿話である。おそらくホモ・セクシュアルな 関係をほのめかす「街娼」 の言葉によって、「僕」と「教員」との 間の敵対関係は、一瞬にして同性愛的な相貌を帯びる。このように、 「人間の羊」は、見えやすい暴力ではな-、むしろ言葉の力学によ って、対立や序列が生み出されることで人物関係が組み替えられて い-ことに力点を置-テクストとして捉えることができ、言葉によ って主体化する地点、あるいは失語によって主体たりえない地点を
濃やかに描き出すテクストであると考える。 おわりに 占領期を舞台とするテクストに対して従来の先行諸論は、見えや すい暴力、つまり外国兵から日本人に対して理不尽に与えられる屈 辱とそれに対抗する日本人の抵抗とに専ら注目し、それを オキュパィド・ジャパン 占領下の日本に対する大江の見方の素朴な反映であると考えてき (7) た。それはあたかも警官たちが、「僕」 の躯に外国兵からの暴力の 痕跡を探し、その深刻さの程度を測ろうとした素振りに類似してい 手キュパィド・ジャパン る。しかし、見てきたように、占領下の日本に題材を採った大江の テクストにおいて、外国兵と日本人との直接的なやりとりではなく、 いずれも「中間者」の発話こそがそれまで見えなかった序列や関係 性を可視化してい-。外国兵相手の娼婦の言葉が「僕」と外国兵と の間にトラブルを引き起こし、さらにその傍観者が外国兵に対する 日本人の「戦い」を訴える。このような「人間の羊」の他、進駐軍 に協力しない日本人に対して「日本人通訳」がおまえらは「虐殺さ れても不平を言えない立場」だと言い出す「不意の唖」、大江の占 領下の日本を描-テクストは、外国兵と日本人とを媒介する「中間 者」 の言葉が権力的な関係をその場にもたらしてい-というプロッ トを共有していた。 とりわけ本稿で強調したいのは、政治的な思想や立場から言葉か 発せられるのではな-、言語によって政治的な立場が形作られ、行 動が促されてい-という点である。冒頭に掲げた大江の「放けと終 り」というエッセイは、言葉こそがわれわれを形づくり、われわれ を動かすという言葉と主体のあり方を端的に述べたものであったは ずである。「破滅とか屈辱とか」 の「絶望的な状態のイメージ」を 呼び起こす「敗戦」という語か、「終結とか安息とか」の「静かな イメージ」をもたらす「終戦」という語の方かという選択は、「現 実」を吟味した上で決定されるのでは決してな-、都合の良いとき に都合のよい方が用いられるのであった。 現実の一つにたいして、正確に一つきりの言葉があるわけで はない。/言葉にあらわすこと、表現することは、現実にたい して一つの解釈をこころみることである。表現者にしたがって、 現実はそれぞれちかった顔をしめず。また、故意にちかった顔 をあたえるために、ちかった表現を、むりやり現実におしつけ ← ることも不可能ではないのである。 「敷けと終り」 表現をおしつけあうことが戦いになって-る - 大江はこのよう な言語の問題を、外国と日本という国家の問に働-力学と結びつけ て考えており、だからこそ戦後の冷戦構造を背景とする個々の人間 の係争に対して先鋭的な認識を有していたのだといえるだろう。 ところでこの「戦後世代のイメージ」というエッセイは、「戦後 に育った若者たち」が天皇をどのように考えるかについて言及する ことで閉じられる。占領期の空間を設定し、言葉に身を委ねる人間 のありようを捕-小説テクストは、この後、六〇年代のメディアの 時代という文脈へと接続してい-。他からもたらされる犯意を込め た大人たちの不気味な無言に身を委ねる「不意の唖」というテクス 六一
トにおける「少年」、あるいは自らが発した言葉を相手に圧し付け ることに専心する「人間の羊」 の「教員」 のような青年は、「セヴ ンティーン」「政治少年死す」 (一九六一) における、映像メディア を媒介として「《右》」という記号を纏い、「右翼少年」という虚像 に投身することでテロを引き起こす「政治少年」 へと引き継がれて (9) いく。大江にとって戦後空間における「遅れてきた戦争」とは、一 貫してこのような言語と主体の問題として深められていったと考え られる。 (附記)引用した大江健三郎の文章は、新潮社販『大江健三郎全作 品 第-期2』に拠り、頁番号を括弧で示した。なお引用 に際しては、一部旧字体を新字体に改めルビを省略する等 の改変を適宜施している。引用文中の〔-〕は中略を、/ を改行を示す。 注 (-) / 拙稿「「不意の唖」 における「通訳」 の言葉-大江健三郎と 遅れてきた戦争 (上) IL (『日本文芸論稿』第三四号、二〇 二・一) (2) 「戦後世代のイメージ」 (『厳粛な綱渡り 上』、一九六五・ 六)。引用は講談社学芸文庫版『厳粛な綱渡り』、講談社、一 九九一・一〇) 30頁。 (3) ロジャー・トーマス「『人間の羊』 の人物論」 (武田勝参他・ 編『大江健三郎文学 海外の評価』、創林社、一九八七・一) 六二 27頁。 (4) フレデリック・リクダー「恥の環-『人間の羊』をめぐって -」(注3前掲書)2- 1頁。 (5) 栗坪良樹「大江健三郎の(戦争・戦後)序説-「人間の羊」 を手掛かりにして-」(『評言と構想』第八巻、一九七〇・九) (6) 野口武彦「吠え声・叫び声・沈黙」 (『吠え声・叫び声・沈黙 -大江健三郎の世界土、新潮社、一九七一・四)2-4頁。 (7) 例えばテクストを前半と後半に分け、「占領下の日本」を背 景にした前半に対して「僕」と「教員」の対立を描-後半を、 「家」を持つか否かという両者の立場差から考える大島丈志 「大江健三郎「人間の羊」論-単行本「後記」から新たな読 みの可能性へIL(『近代文学研究』、二〇〇四・三)も、「家」 という戦後日本の社会状況に還元する点において小説を時代 の反映として見ていると考える。 (8) 「戦後世代のイメージ」 (注2前掲) 2 9頁。 (9) 「セヴンティーン」「政治少年死す」 における主人公の少年 が'テレビを媒介にして《右》の記号に彩られた言語-身体 に身を委ねてい-あり方については'拙稿「テレビの前の 「政治少年」-大江健三郎「セヴンティーン」「政治少年死 す」論-」 (『昭和文学研究』、二〇一〇・三) を参照。 (東北大学大学院文学研究科後期課程在籍)