我が国におけるブラスバンドの変遷に関する一考察 : 社会人バンドを中心として
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(2) 目 次 はじめに”。。’’”曾”’●一一’●’●”。り■●’9’””●●。”●。。。●o’”o’●●一。●一”●’●’1. 第1章 我が国におけるバンド活動の変遷・黎明期から戦前まで 第1節 各種バンドの創設と編成’9●’’”●’一’●’””。9。o’ ●。”…9…o●●脅■。● 1.軍楽隊の創設とその編成。●”・’●●’●”●○’。’。’唖●・・’. 。’●…一。一。●●。9●。. 2.民間職業吹奏楽団の結成と変遷’。’。”●”。●●’”●。。 一・。・一一・・””。”. 3.アマチュアの吹奏楽団の結成と変遷。”●………●. ’9一・・…. 第2節 ブラスバンドの名称に関して一’。’。●●●’●●’。”00. ●。一。・・一一。。’●。. 1.英語由来説9。”●…一”●’……・……………. 。””。●o。●03●●o’. 一。’。’。. 2.ドイツ語由来説。’。●。’。1●。”●”6●’●●。”6’o’巴”一。●’。”“●。一”●“. 3.英語説、ドイツ語説を踏まえた考察●”●”●。0”●”. 唖。。”●曹■o●一’”’. 第3節 我が国における救世軍バンドの変遷。●”●””●●。●●”。。””一。●●’ 1.救世軍バンドについて。’●’’”。。。。。●”’’”●o”●’巳. 。●’●○●●’●●9●●●。●. 2.我が国における救世軍バンドの創設。”●●5●●”’●一. 。’’”●●’。’o””0. 3.救世軍バンドの変遷●’●”●}’。9。’●●”。●’■●●…… ●●””●。”。””’. 16 5 5 1 4 7 7 4 9. 第2章 戦後におけるブラスバンドを中心としたバンド活動の変遷 第1節 小学校におけるブラスバンド活動の変遷’●●■●●●■●’一”’。’。’“●●”53 1.小学校における器楽教育の黎明期。。●巳●●。。。””●一●’’”“’。●”●●●●53 2.小学校における合奏活動の変遷●o。’●6””。’”’●’。’9’。●●o”’●’●’●061. 3.小学校におけるブラスバンド活動の変遷’o●●●”””’06““””。。”68 第2節 社会人によるブラスバンド活動の黎明期●●●。●’●’●●●’”’。●●●●り’”73 1.ブラスバンド団体結成以前の状況’●。●●。’。り●o’●。一。●’。●●’”●。’”” 73 2.ブラスバンド団体結成時期の状況●’●。’’’”●●巴”’曜’。’●。●o’●●’。。’。’81. 3.ブラスバンド活動の広がりとメディア。。。。’●”’”5。”。●’060●’一●’“89. 第3章 1990年代以降を中心としたブラスバンド活動の変遷. 第1節 西目本におけるブラスバンド活動の変遷…・・……. ●●。ひ’●●。。●●”. 1.関西地方における変遷o剛。●”●●●”り””。”●剛り””●”. ”●●’●。”●●●■. 2.北陸地方における変遷“0’●●●●”●●。’●。0”。。’。●●’●曹0 9。””o●●。’. 3.その他の地域への広がり”●’●’go’””’go’。。。。”””. ●。。●o’●”。●. 第2節 我が国におけるブラスバンドチャンピオンシップ’。’. 甲。◎。9●●”。●. 1.第1回大会(2005年)9’………………・……・”●“。●●薗” 2.第2回大会(2006年)’。”’……………9……・. 嘩。。’”””●. 3.当チャンピオンシップに関する課題”。●●。●’。“●●。●” ””6’●一。9. 第3節 ブラスバンドの現状と今後の展望”。●●”。’……●◎質●●●”●一●● 1.ブラスバンドの現状●’”。。”●”6’●。。’●”。。’9’●一”。一●’■oo●”●. 2.今後のブラスバンド活動に望むもの…・…………・甲●.。。。●’9。●. 6 6. 105 110. 15 15 20 27 32 32 37. おわりに●。’””P”。。。一…・・9一●’”●●’9”6”””09…o。●……。’一”144. 参考文献及び資料.
(3) はじめに. 我が国において、rブラスバンド(BrassBand)」という言葉は、ク ラリネットを中心とする木管楽器群と、トランペットなどの金管楽器群、 そして打楽器群による編成である「吹奏楽」を指すことが一般的である。. しかし、Brassという単語は真鍮という意味であり、金管楽器の総称で. ある。アメリカでは、吹奏楽は「ウィンドバンド(Wind Band)」ま たは単にrバンド(B&nd)」と呼ばれている。現在の我が国において、. 金管楽器による編成は、小学校の課外活動や授業内活動としての金管バ ンド、社会人によるブラスバンド活動が中心である。. 金管楽器による編成も様々なものが存在している。本研究では、サク. ソルン属の金管楽器を中心とし、それに打楽器が加わった30名程度の 編成としてのブラスバンドを研究の中心に位置付けることとした。この. 編成は約150年ほど前のイギリスにおいて始まり、現在はヨーロッパ を中心に、アメリカ合衆国、オセアニア、そして目本などで楽しまれて いる。. 現在の我が国において、ウィンドバンドに対する認知度は一般大衆レ ベルにまで広がったと考えられる。これはテレビ番組や漫画、小説など といったメディアの影響も大きいと考えられる。しかし、まだ揺藍期と. いえるであろうブラスバンドに対する人々の認知度はかなり低い。音楽 大学の金管楽器専攻の学生であっても、ウィンドバンドをブラスバンド と表現することが多いことからそれはうかがえる。現在、日本国内に存. 在するブラスバンドの団体数は、ウィンドバンドと比べると非常に少な い。このことも認知度の低さの表れといえるかもしれない。こうした現 状を反映してか、我が国においてウィンドバンドに関する研究物は数多 いが、ブラスバンドに関するものは極めて少ないといえる。. 1.
(4) そうした状況を踏まえて、我が国におけるブラスバンドの変遷につい て研究することを考えた。本研究では、以下の点に着目して進めていく こととする。その中でも特に③を中心に考察する。. ①我が国におけるのバンド活動の黎明期から戦前までの変遷 ②小学校の金管バンド活動の変遷. ③社会人によるブラスバンド活動の変遷 上記のうち、①はブラスバンドに関係がないように思える。しかし、 我が国においてようやくコンテストが行なわれるようになったブラスバ ンドの現状について考えるにあたって、戦前までの吹奏楽史をたどるこ とは、今後のブラスバンド活動の展望を考える上で必要であると考える。. よって、本研究において必要な部分に絞って取り上げることとする。. 本研究により、これまで光を当てられることがほとんどなかったとい える、我が国におけるブラスバンドの変遷と実態、さらには、その魅力 などについて明らかにしたいと考える。. 第2次世界大戦以前の変遷に関しては文献研究により行なった。救世 軍バンドの変遷に関しては、文献研究だけではなく、救世軍関係者との. 直接面接も取り入れて行なった。小学校の金管バンドの変遷に関しては. 文献研究により行なった。社会人によるブラスバンド活動の変遷につい ては、演奏会プログラムなどの資料収集、ブラスバンド関係者との直接 面接、筆者の体験を中心として行なった。. 2.
(5) 第1章 我が国におけるバンド活動の変遷・黎明期から戦前まで 第1節 各種バンドの創設と編成. 1.軍楽隊の創設とその編成 日本に管楽合奏が入ってきたのはいつ頃なのだろうか。1549年、スペ イン出身のキリスト教宣教師フランシスコ・ザビエルは、布教のため鹿 児島を訪れたが、その際、布教に音楽を利用し、弦楽器や管楽器を持ち 込んだ。これが各地に広がっていったと考えられている。「聖師1)は此城. を去て平戸の道に向ひ、多く海陸の難難勢苦を歴て平戸に達す。葡萄牙. 人聖師の來るを聞き、諸人へ高位有徳の人たるを知らしめん爲め、禮を 蓋して之を待ち、聖師の港に入りしとき祝砲を襲し、軍旗粧旅を掲げ、. 戦争の時の如く船の周園に幕を続らし、劇夙を吹て祝賀を表し、其船に 近づく時船の人壷く歓喜の聲を襲す」2)とあることから、国内で当時、. 劇夙(現在のトランペット風ではなくチャルメラ風のもの)による吹奏. 楽が奏でられていたのである。おそらくそれらの音はその地の目本人達. も耳にしたはずである。管楽器による西洋音楽の合奏は16世紀の目本 に存在していたといえる。. しかしこの後、キリスト教に対する禁教令が出され、鎖国政策のため に宣教師達も国外へ逃れたため、この合奏体は受け継がれることなく消. 滅したと考えられる。また、現在の吹奏楽につながる楽器編成であった とは言い難い。. 「国防一兵術一軍楽と云ふ風に私の頭はめぐる」「高島四郎太夫秋帆 は(中略)蘭人と接する機会があり、世界の事情に通じてゐた。国防の. 1)フランシスコ・ザビエルを指す. 2)ジアン・クラセ、太政官訳『目本西教史上巻』洛陽堂、1921、P.99. 3.
(6) 最も重大なることを知ってゐたので」「幕府はその翌年3)各藩に兵術の伝. 習を許可したので各藩から秋帆の許に人を派して教を請はしむるやうに なつた。兵術と共に軍楽がこれに伴つた。軍楽と云つても鼓笛であつた。. 但し笛といふものは明治十年頃まで管楽器の総称に使用されてゐたので ラツパ類も含まれてゐた。長崎出島の蘭館には黒奴等のブラスバンドが 組織されてゐたし、来航の黒船や軍艦でもバンドが奏されたに相違ない。 で私は蘭式鼓笛は先ず長崎に起り、安政年問までには各藩でやり出した。 特に鹿児島藩では盛んであつた」4)という記述もある。. これらの記述から、天保年間(1830−1843)には、長崎の高島秋帆(高. 島流砲術の創始者で洋式兵学者)が鼓笛隊を編成して演奏活動を行なっ. た楽隊が存在し、それは蘭式(オランダ式)であったことが分かる。そ の後、諸藩もそれを見習い、鼓笛隊を組織するようになり、軍楽として の鼓笛隊は大きな広がりを見せた。. 当時、どのような楽譜を使って練習が行なわれていたのだろう。「1856. 年(安政3年)には教本として『蘭式西洋行進鼓譜』『西洋軍楽鼓譜』. が利用され、西洋音楽はますます盛んになった。(中略)1865年(慶応. 元年)には『和蘭1861年式太鼓教練譜面譜』など教則本が取り入れら れたが、同時期に『英国鼓笛譜』も出版され練習に利用された。」5). この時代の「鼓笛隊」の編成は横笛と太鼓であると考えられる。相良. 藩の洋式鼓笛隊の写真6)を見ると、小太鼓が2名、大太鼓が1名、横笛. が2名の編成で演奏されていることが確認される。. 3) 1842(天保13)年 4)遠藤宏「国防と日本の軍楽」『吹奏楽(厚生音楽専門雑誌)』管楽研究. 会、1942年8月号、pp.4・5. 5)森義臣『熊本の吹奏楽』熊本県、1999、p.9 6)森義臣『熊本の吹奏楽』熊本県、1999、p.29. 4.
(7) では金管楽器や木管楽器が加わる軍楽隊の始まりはいっなのだろう. か。それは1869(明治2)年9月、横浜の本牧山妙香寺で練習を始めた 薩摩藩の軍楽伝習生30名による軍楽隊である。この軍楽隊に楽器が届 き、実際の軍楽隊としての編成で練習が始まったのは1870(明治3)年. 6月である。そのときの編成は表1を参照されたい。この編成は、当時. のイギリス軍楽隊に近いものである。同年9月に鹿児島に帰るまでの3 ヶ月間の伝習であった。. 1871(明治4)年春、薩摩藩の兵は長州土佐の兵と共に御親兵となる。. 薩摩藩軍楽隊もこれらの兵とともに上京し、この軍楽隊は兵部省所管と. なる。同年7月、兵部省が陸軍省、海軍省に分かれると、軍楽隊も2つ に分立した。海軍軍楽隊は先述の薩摩藩による軍楽隊の編成であるイギ 表1軍楽隊黎明期における編成比較表. 1 ハン 1870 の 1871の 3 1910 の. 1 フリュート・ッコロ 1 Eフラットクラリネット 7 Bフラット・クラリ ット 1 ベスクラリネット 4 Bb:コルネット 1 フリュゲルホルン 3 Ebトロムペット 1 Eしオルトホーン 2 Bbテノルホーン 2 テノルトロンボン 1 ベストロンボン 1 ユーフオニオン 1 Eうベス 1 B bベス 1小. フルート. Ebクラリネット Bレクラリネット. ベースクラリネット コルネツト トランペット. Eレベンチルホルン B bベンチルホルン アルトホルン テナートロンボーン ユーフォニウム E bベース Bレ ルベース 大、. 小太. 1 フルート 1 一ボエ 9 小クラリネット 2 クラリ・ット 4 ソラノ・サクソフォーン 2 アルト・サクソフォーン 2 テナー・サクソフォーン 4 バリトン・サクソフ才一ン 2 コルネット 2 トランペット 1 ヒューグル 2 アルト 2 ハリトン 1 トロンボーン 1 小ハス 1 Eレコントうハス. 28. 合言. 10. 木 暫器 木 器(%) 器(%). 7.1. ● %. 37 B bコントラハス. 麟. 35.7 目 器 16 木 楽 (%) 57.1. 2. 1 1 1 7 1 1 1 1 2 1 2 3 3 3 3 1 1 1 1. 楽器 器(%). %. 13 サイド・ドラム 35.1 ハス・ドラム. 22 合. 35. 59.5 木 器 ● 96. 2. 54. ※①の表は『ヂンタ以来』(堀内敬三 著、アオイ書房、1935)pp.8−9より作成。 の表は『バンドジヤーナル』(音楽之友社)1964年5月号p.53より引用。③の表は『新版吹奏楽講座第7巻吹奏楽の編成と歴史』(浅香淳編、音楽之友. 楽器(%). %. 54.3 5.7. 器. 14 40.0 19. 2. 、で983)p.127より引用。楽器名はそれぞれの文献に記載のまま。. リス式編成を採用した。陸軍軍楽隊では、フランス式編成が採用された。. 陸軍軍楽隊で採用されたフランス式編成については、表1にて参照され たい。このように、日本の吹奏楽は軍楽隊から始まった。そして、その. 5.
(8) 吹奏楽が日本における西洋音楽のさきがけであった。. 表1から、3つのバンドに関する1つの共通点が浮かび上がる。それ は、金管楽器を中心とした編成であるということである。金管楽器の占 める割合が、①の薩摩バンドの編成では全楽器数(28)の57.1%、②の 海軍軍楽隊の編成では、全楽器数(37)の59.5%、③の陸軍軍楽隊でも、. 全楽器数(35)の54.3%である。表2に現在の吹奏楽における標準編成 を示すが、それと比べても明らかなように金管楽器の多い編成であるこ. とが分かる。また、「吹奏樂の和音の根幹を築くものは金管である」7) 表2現在のウィンドバンド編成表 という記述からも・金管楽器が. 楽器名 楽器数. 音楽の骨組みを作っていたこと がうかがえる。. また、円錐管の金管楽器が多 い。①∼③のどの編成において も、トランペットは1本ないし 浅香淳編『新版吹奏楽講座4合奏の技術蓋音楽之友社、1984、p.10より. 作成. は2本、トロンボーンは2本な. いしは3本である。これらの編成が奏でる音色は、現在の吹奏楽と比ぺ て、金管楽器の音色が柔らかいものであったと推察される。円錐管の金 管楽器は、木管楽器との相性もよいので、一体感のあるサウンドであっ. 牟かもしれない。もちろん、当時の演奏者と現在の演奏者とでは、その. 演奏技術に大きな開きがあるので、推測の域を越えない。しかし、編成 や使用楽器からして、金管楽器に合奏の根幹をなす役目を求めていたと 考えられる。当時の人々は、現在の金管楽器から連想されるイメージと は異なったイメージを抱いていたのかもしれない。. 7)堀内敬三『ヂンタ以来』アオイ書房、1935、p.96. 6.
(9) 2.民間職業吹奏楽団の結成と変遷 民間職業吹奏楽団には大別して次の2つの系統がある。. 1.軍楽隊だけでは賄いきれない出張演奏の依頼に目をつけて、軍楽 隊を退役した人々を中心として作られた「市中音楽隊」. n.財力のある百貨店や遊園地などが、それらの施設で演奏を行なう サービスバンドとして作った「少年音楽隊」. これら2つのうち、先に出現したのは1の市中音楽隊である。まずは この楽隊の変遷について記述する。. 明治初期、海軍軍楽隊と陸軍軍楽隊、そして宮内省式部寮雅楽課の伶 人たちによる吹奏楽の他には、吹奏楽の演奏をする団体は存在しなかっ. た。伶人たちの吹奏楽は、主に外国使臣などを饗応する場合に演奏され た。軍楽隊は、軍関係の行事において演奏するのみであった。しかし、. 陸軍軍楽隊に関しては、1875(明治8)年10月に定められた軍楽隊概 則により、慶事などの場合、依頼があれば演奏に応ずることになった。 実際に出張演奏を始めたのはいつであろうか。「一例をあげれば、日技神. 社の祭礼に当たり、氏子一同の請願によって軍楽隊の演奏を神社に寄進 したことがある。(中略)また、同年9月28目、本郷金助町の大槻邸の. 新築落成祝賀会に、小篠隊長以下28名の軍楽隊が、出張演奏した」1) とある。ちなみに、「同年」とあるのは、文脈上、1875年と考えられる。. しかし、それでは軍楽隊概則が定められる前になってしまうので、おそ らく間違いであると考えられる。では、正しい年はいつなのかといえば、. 『近代日本総合年表』、1876(明治9)年の年表内に、「9.28陸軍軍楽. 隊、東京本郷の大槻磐渓邸で、磐水翁50回追遠会の席上、初の出張演. 1)浅香淳編『最新吹奏楽講座7吹奏楽の編成と歴史』音楽之友社、1970、 p.112. 7.
(10) 奏」2)と書かれているように、1876年であると考えられる。このよう. にして、軍楽隊は軍関係以外のところでも演奏を始めるようになったの である。. 明治10年代後半から明治20年代は欧化主義の時代であった。欧化 主義は、条約改正を目標とする文明表示の手段であった。このことによ り、この時代、洋楽の音楽会や社交舞踏会などが行なわれるようになっ た。これらの会は、政府の高官や貴族階級の人々が主催して行なわれた。. ここで舞踏会の伴奏や音楽会の洋楽を演奏したのは、陸海軍の軍楽隊で あった。このころ、吹奏楽は高尚な音楽であり、一般庶民の音楽ではな かったのである。. このように、欧化主義は西洋音楽を尊重する風潮を生んだ。軍楽隊は 園遊会や祝賀会などに出張演奏をすることが多くなったが、「軍隊の機關. であるから出張さきも制限されてゐたし手績もむづかしかつた」3)とあ ることから、需要に対して供給が追いつかなかったのだろう。ここに目. をつけた海軍軍楽隊出身者たちが、民間の職業吹奏楽団を作ることを計 画した。. 初めて作られた民問職業吹奏楽団は「東京市中音楽会」である。結成 当初の様子は以下のとおりである。「明治十九年十一月、海軍軍樂隊出身. 者の加川力・井上京次郎・平岡啓二郎・西村源八・芳ヶ原嘉成・古賀某 の六名が、平岡の伯父新橋花月割烹店主平岡廣商の財的援助によつて是 を設立し、新聞廣告による百二名の磨募者中から二十六名を嚴選し生徒 として入會せしめ、事務所を愛宕下の藥師寺に、練習所を下澁谷の某禅. 宗寺院に置き、横濱の某ホテルにチャリネ曲馬團や外國汽船の樂士が酒. 2)岩波書店編集部編『近代日本総合年表』岩波書店、1968、p.69 3)堀内敬三『音楽五十年史』鱒書房、1942、p.144. 8.
(11) 代のカタに置いて行った樂器を安く手に入れて樂器の敷も揃はぬ乍ら加 川・井上・平岡・西村の四人を教師として練習を始めた。」4). この楽団に、依頼演奏の仕事は多く入ったのだろうか。r出張依頼は 意外に多かった。園遊會・運動會・祝賀會・開業式、寧日なしの演奏で あつた」5)とある。しかし、「さて樂隊は出來たが軍樂隊の方に信用があ. るので世間ではこつちを雇ふ者がすくない爲に維持が困難になつた」6) という記述も見られる。この市中音楽会に関する記述は、『ヂンタ以来』 と『音楽五十年史』で異なる部分が多い。他にも、『音楽五十年史』では、. 1886(明治19)年に東京市中音楽会ができ、その後発展し、1888(明. 治21)年、資本金1万円の株式会社東京市中音楽隊になると説明され ている。しかし、『ヂンタ以来』では、1888(明治21)年に出来た東 京市中音楽隊が最初の民間職業吹奏楽団のように扱われている。しかし、. 『近代日本総合年表』の1886(明治19)年のぺ一ジには、「11.一海. 軍軍楽隊出身者加川力ほか5人〈東京市中音楽会〉設立.‘87年5月, 開業.‘88年,渋沢栄一を社長とし、資本金1万円の株式会社となる」 7)とある。おそらく、『ヂンタ以来』が間違っていると考えられる。よっ. て、この出張演奏の件に関しても、『音楽五十年史』の記述を採用するこ ととする。. 東京市中音楽会は、横浜のグランドホテルから連続的に演奏を依頼さ. れるようになり、横浜に出張所を設け、そこに常駐する16名と、東京 にいて出張演奏をする30数名とに別れた。. 1889(明治22)年の末は、海軍軍楽隊を満期退職する者が多かった。. 4)前掲書3、p.144 5)前掲書3、p.145 6)堀内敬三『ヂンタ以来』アオイ書房、1935、p.13 7)前掲書2、p.109 9.
(12) 彼らは「東洋音楽会」を作った。結成当初の様子は以下のとおりである。. 東洋音楽会のメンバーは「矢上郁・池田辰五郎・沼元釣等十三名でいづ. れも技備のよい連中である。資本金は芝神谷町の金貸中村ミサが二千五 百圓出し、横濱コッキング商會に海軍へ納入の豫定で在庫品となつてゐ. たベッソン會社製の樂器十六個一組のものがあつたのでそれを千九百圓 で買ひ、麻布目ヶ窪の基督教會堂で練習を初めた(ママ)」8). この東洋音楽会も、横浜のグランドホテルで演奏をするようになる。. 当初、東京市中音楽会の出張組と対抗していたが、1890(明治23)年 に東京市中音楽会と東洋音楽会は合併し、東洋市中音楽会となった。し. かし、主導権争いに負けた東京市中音楽会の出張組は、1892(明治25〉 年に神戸のオリエンタルホテルヘ赴き神戸市中音楽会を作った。. この時代の市中音楽隊は、海軍軍楽隊出身者によって設立されている ので、おそらくイギリス式の編成であったと考えられる。また、彼等は 園遊会・運動会・祝賀会・開業式といった、軍楽隊の演奏による仕事を こなす演奏会用の吹奏楽団であった。よって吹奏楽はこの時期、民衆レ ベルの音楽になったとはいえないだろう。例えば、「此の時代の東京音樂. 學校の演奏會の時は小使が校門に立つて通行人に頼んで入つて貰い御土. 産に菓子を出した〔鈴木米次郎氏談〕と云ひ、明治廿三年ごろ横須賀で. 海軍軍樂隊が公開演奏をやつた時は、樂器運搬に雇はれた車曳きが一人 だけぽつねんと聴いてゐた事さへある〔瀬戸口楽長談〕」9)といった記述. がある。このことからも、民衆にとって西洋音楽やその一分野である吹 奏楽はよく分からないものだったのだろう。. 日清戦争前後になると、出征軍人の歓送迎会の音楽として、音楽隊の. 8)前掲書3 p.146 9)前掲書3 p.186 10.
(13) 演奏はつきものであった。当時の音楽隊は、フラジオレットと称する無. 鍵のニッケル竪笛と、大太鼓、小太鼓の組み合わせであった。日本管楽 器株式会社(以下、日管と略称)の工場長であった三之宮春吉は、明治. 38年に千葉県の田舎から上京して、浅草区竜泉寺町にあった江川楽器 製作所(日管の前身)に入所したのであった。その三之宮の回想すると ころによると、「当時江川では、コルネット、アルト、バリトンなども造. っていたが、一番よく売れたのはフラジオレットというニッケル竪笛で. あった。1本1円20銭のものが、造るあとから飛ぶように売れていっ. た。職:Lの手間賃が1目わずか70銭であった。ひとりの職工が1日に. 30本ぐらい造った。それが1本1円20銭で売れるのだから、楽器と いうものは面白いようにもうかるものだと驚いたものだ。」10)といった. 記述からも分かるように、この時期、にわかに音楽隊が増えたわけであ る。. そして、軍楽隊と同じ編成の民間職業吹奏楽団も、この出征軍人の歓 送迎会での演奏が増えた。この吹奏楽需要の急増に目をつけたのが、広 告宣伝業者であった。彼等は広告宣伝業の立場から、吹奏楽を営利的に. 経営しようとし、出張演奏の請負業を始めたのである。東京市中音楽会 や東洋市中音楽会などは演奏者を主体として運営されていた団体であっ た。. 広告宣伝業者は民間音楽マネジメント業のようなものであった。秋田 善蔵が銀座1丁目に開業した広目屋は、その代表的なものである。広目. 屋は1891(明治24)年ごろ、東京市中音楽会を買収した。そして1893 (明治26)年には北海道の屯田兵村に組織される予定だった楽隊を抱. lo)前掲書1、p.142 11.
(14) え、1897(明治30)年には軍楽隊出身者を集めて東京市中高等音楽隊 を作った。続く日露戦争までの間には、出征軍人の歓送迎会などに出張 依頼が殺到した。民間職業吹奏楽団は全国各地で急増した。. ここで民間職業吹奏楽団が2つの系統に分かれた。1つは東洋市中音 楽会や神戸市中音楽会のような、ホテル専属の吹奏楽団である。これら. は、ホテルでダンスの伴奏を行なうことを本業とし、そのかたわらに園. 遊会や運動会などで出張演奏をした。もう1つは広目屋などの広告宣伝 業者が設立したり、そういった業者に雇われたりした吹奏楽団である。. 後者の吹奏楽団を一般にr市中音楽隊」と呼ぶようになり、略してr楽 隊」と呼ぶようになった。これらは、出征軍人の歓送迎会での演奏だけ でなく、広告宣伝の街回りもするようになる。これは、広告宣伝業者の. バンドなので当然といえる。これらの仕事を本業とし、そのかたわらに 園遊会などの出張演奏や映画の伴奏音楽も行なった。. 当時、映画は活動写真と呼ばれ、弁士が台詞などを語り、音楽はその 場で生で演奏された。前者は本格的な吹奏楽団の編成で演奏を続けた。. しかし後者はそうではなかった。広告宣伝の街回りの場合、依頼者の希. 望する予算の範囲内で編成を組まなければならない。当時の標準的な編. 成(12∼18人程度〉よりは小さい編成で演奏しなければならないこと もある。8∼9人または5∼6人の編成も要求される。この小編成のバン ドはどんな編成だったのだろう。. ・クラリネット2 ・コルネット1. ・バリトン1 ・ トロンボーンまたはベース1. ・大太鼓1. 12.
(15) ・小太鼓111). 用いられている楽器を見て分かるとおり、和音の楽器を減らし、旋律 楽器とリズム楽器を増やしたものになっている。また、市中音楽隊の演 奏は広告宣伝が目的なので、レパートリーはそんなに多くなくてよい。. このような旋律楽器とリズム楽器を中心とした広告宣伝目的の吹奏楽団. は、その需要増と相まって急増した。当時、管楽器を演奏できた人間は. そんなに多いはずはない。正確な技術で管楽器を演奏できたのは軍楽隊 出身の人間以外考えられない。この時期に急増した楽隊は、速成団員に よる演奏も多かったであろう。. このようにして、市中音楽隊の演奏の質はみるみる低下していった。. 当初はホテル専属の吹奏楽団と市中音楽隊は、もともとはそんなに変わ らないものであったはずなのに、全く別の楽団になってしまった。軍歌 などを和音のないリズムとべ一スだけの伴奏という貧弱な演奏を行い、 その質は大きく低下した。. 吹奏楽に対する民衆の親しみは、1905(明治38)年に始まった、日 比谷公園での軍楽隊の演奏によっても大きくなった。しかし、このよう な本格的な吹奏楽団の演奏に民衆が接することができるようになったと. いうことは、広告宣伝のための小編成バンドは低級のものだという認識 を民衆に与えた。また、この時期、次のようなことが重なり、市中音楽 隊は衰退していったのである。. ①思想界の混乱により、集会や行列の危険性を警察当局が認め、広告 行列の人数や方法に制限を与え、手続きを厳重にした。. ②1908(明治41)年の財界恐慌により、商工業者が宣伝を控えた。. 11)前掲書6、pp.19−20 13.
(16) ③明治末期、ヴァイオリンが演歌に応用され、大衆に親しまれる音と. なった。そのため、それまで小編成バンドを用いていた映画館が、 客寄せのためヴァイオリンを中心とする楽団による演奏を始めた。 12). このため、今までは小編成といえども5∼7人程度だったのが、2∼4 人程度の楽隊となってしまった。大正初期にはこれら市中音楽隊は「ジ ンタ」と多少軽蔑を含んで呼ばれるようになった。1914(大正3)年に. 始まった第1次世界大戦では、日本は直接参戦したわけではなかったの で、出征軍人の歓送迎会も多くはなかったようである。よって「ジンタ」 を取り巻く環境も日清・目露戦争のころのような盛り上がりはなかった。. 大正末期にはチンドン屋が出現した。これにより、市中音楽隊は完全に 消滅してしまった。. しかし、東京周辺だけでなく地方でも管楽器の音色を民衆の親しむと ころとした功績は大きい。例えば、明治末期から大正初期の話として、 「地方にも映画が巡回してくるので、(中略)地方廻りの楽団は今から思 えば全くの楽隊であった。クラーペットー、バリトンー、トロンボンー、. に打楽器一組で(中略)演奏していた。(中略)田舎の町や村は結構この. 楽隊の音に活気づいたもので、私なぞもそのおかげで管楽器を知り、音 色を覚えたのであるjl3)と書かれている。おそらく全国津々浦々でこの ようにして管楽器を知った少年たちがいたと思われる。. Hの少年音楽隊は、明治末期から大正年間にかけて、様々な百貨店で. 結成された。最初に結成されたのは、1909(明治42)年の三越少年音. 12)前掲書6、pp.23・24 13)小山光男「吹奏楽夜話(8)」『バンドジャーナル』音楽之友社、1964 年11月号、p.18. 14.
(17) 楽隊である。1911(明治44)年には名古屋で、いとう屋呉服店少年音. 楽隊、1914(大正3)年には大阪の三越にも少年音楽隊ができた。ち なみにいとう屋は1925(昭和元)年に松坂屋に改称した。また、1923 (大正12)年には大阪でいづも屋少年音楽隊、翌年の1924(大正13) 年には大阪で高島屋少年音楽隊ができた。これらの楽団は、軍楽隊出身. の人間が軍楽隊の入営年齢である14∼18歳に満たない少年たちの中か らえりすぐりの者を指導していた。民間における管楽器の早期教育とい う役割を担ったといえるだろう。なお、いとう屋少年音楽隊は後に弦楽. 演奏を始め、東京に進出し東京交響楽団(現在の東京フィルハーモニー 交響楽団)となった。しかしその他の楽団に関しては、大正末期に解散 してしまった。. これら民間職業吹奏楽団は、管楽器による合奏の響きを民衆に広めた ということが大きな成果であるといえる。そして後に、アマチュアバン ドである、職場や学校の吹奏楽団の創設へとつながる道を作ったともい えるのである。. 15.
(18) 3.アマチュアの吹奏楽団の結成と変遷. アマチュアの吹奏楽団が創設された時期はいつであろうか。まず、学 校の吹奏楽団に関して考えることとする。. 日本で最初の学校吹奏楽団は、一般的には、1909(明治42)年に結 成された京都府立第二中学校の吹奏楽団であるといわれているD。しか しこれは、後に吹奏楽コンクールが行なわれるようになる時期やそれを. 越えて活動が継続しているバンドの中で最初の学校吹奏楽団という意味 であろう。このバンド以前に、学校で楽隊が組まれている例が『奈良県. 音楽近代史一音楽教育を中心に一』にある。r榛原第一小学校の少年楽隊. は明治38年(1905年)3月に創設され、楽器編成と値段は大太鼓1 (15円)、小太鼓1(5円)、シンバル1(3円)モデルクラリオネット 4(4円)で、楽器は住民の寄付で購入している。(中略)並松小学校は. 創設の年代は不明であるが、『日露戦争祝賀の目は高等科の楽隊に続い て』や、『日露戦争の時楽隊があり、運動会にはドンドンとならしました』. と卒業生が語っているので、明治39年に楽隊があった。編成を写真(不. 鮮明であるが)で判断すると、小太鼓1、鼓隊用横笛?4、クラリネッ. ト3、コルネット2、バリトン1、不明2、計13人である。(中略)川 上第一小学校は、明治40年(1go7年)頃楽隊ができた」2)とある。 これらのバンドは運動会や入退営する軍人の歓送迎会などで演奏したそ うである。よって、日清戦争から日露戦争にかけて、ちょうど市中音楽. 隊が各地で急増した時期に、各地の学校で吹奏楽団が結成されていたこ とを推察することができる。ただし、前掲書では、「吹奏楽(劇肌鼓隊). 1)堀内敬三『音楽五十年史』鱒書房、1942、p.444 2)平井啓『奈良県音楽近代史一音楽教育を中心に一』発行者不明、1995、 pp,59−60. 16.
(19) 生まれる」という項が別に設けられていることから、これらの楽隊がそ の後も存在し続けた可能性は低いと思われる。また、広岡淑生氏は、「明. 治四十二年位ですか高等小学校の子供達が、運動会で十人位のバンドで 『天然の海』とか『港』ああいうものをやるんです」3)と語っている。. その後まで存在し続けたかどうかがともかく、明治末期が学校に吹奏楽 団が組織され始めた時期であるといえる。これはちょうど市中音楽隊が 広告宣伝業者に買収され、民衆に吹奏楽が広まっていく時期である。ま た日露戦争前後でもある。つまりこの時期の学校吹奏楽団の結成理由に. は、出征軍人の歓送迎会での演奏ということが含まれていたと考えられ る。. 職場の吹奏楽団が初めて設立された時期はどうだろうか。1900(明. 治3)年静岡県に山葉(現、ヤマハ株式会社)吹奏楽団、1911(明治 44)年に八幡製鉄所職工養成所音楽部の吹奏楽団が創立される。明治末 期が目本に職場吹奏楽団が出来た時期である。その後、1919(大正8) 年には、栃木県古河の目光精銅所に吹奏楽団が創立される。このバンド の創立理由は、1918(大正7)年に栃木県で行なわれた大演習に出張し. た近衛師団軍楽隊の演奏に感激したことである。1925(大正14)年に 設立されたマツダランプ音楽隊は、古河の目光精銅所の吹奏楽団を聞い て、是非自分のところにも吹奏楽団を作りたいということである。. 学校や職場以外の吹奏楽団、現在でいうところの社会人バンドで、目. 本で最初に設立された団体は、1904(明治37)年創立の半田楽友会で ある。このバンドの創立動機は、「出征する軍人の歎送會を盛んならしめ. たいと言ふ地方青年の赤心から遂に半田町を動かし補助金を支出して創 3)広岡淑生他「座談会吹奏楽あれこれ」『バンドジャーナル』音楽之友. 社、1959年3月号、p.10 17.
(20) 立せしめた」4)というものである。これは先の学校吹奏楽団の設立理由 とほぼ同じ理由である。記録には残っていないが、おそらく各地にこう. いった吹奏楽団は数多く存在したのだろう。しかし多くは市中音楽隊の ような営利目的の楽団と区別のつかないようなもので、目露戦争が終わ り、需要がなくなったと同時に消えていったのではないだろうか。半田 楽友会は昭和初期に行なわれる吹奏楽コンクールにも出場しているので、 活動がうまく軌道に乗ったのだろう。. これらアマチュア吹奏楽団の活動は、大正末期から次第に盛んになっ. ていき、昭和10年代に活動が軌道に乗る。ちょうど東京や名古屋で、 それぞれ別個に吹奏楽コンクールが行なわれるようになった時期と重な っている。アマチュア吹奏楽活動が盛んになっていく様子を、年表とグ ラフを参照しながら記述する。. グラフ昭和5∼11年の楽器生産数量の変化 70000 60000 生50000. ・…. 産. 木管楽器. 一金管楽器 グー. 数40000 量. ・一一一. 楽器. 弾奏楽器. 一30000. 一木琴 太鼓. 個. ∠. )20000. ・…. ノ ノ〆 ■ 暉 ●』 ,. 10000. “一 ■ 昌. 一一. 一 ■ −− 冨 ■ 一. ,,. ■ ロ ー ■置 喀 ● 一. 昭和1ー. 19. 昭和10り よ. 昭和9 18. . m 砿 昭和8 19 し 会 協 昭和7 楽 音 主 民 昭和6 ﹄. _ . 昭和5. 0 一. 4)「アマチュアバンド東海聯盟のバンド競演會」『ブラスバンド』管楽. 研究会、1935年11月号、p.29 18.
(21) F. B; 5 -. 1-7; ・. Fa) t. f9,. ,. E. 7 ,. l-7;v ・F(D t+*. (. l5i O)771*7. I S O-f ; . t. i o) i :L S. (. I IJ L'*. lfFi. tt. 2001 ) . / :/F ; -1hJ l 965 FI. !. f fF 0)d:dsL)t--'h,.. i.. t. 1 983). ・ ・F ;?-t,v l [ t. 19. :. 1;. ・ 2. :. 44fF I L : 5 .. ( ・. *i). J.
(22) グラフ1を見ると、1933(昭和8)年に金管楽器の生産数が急に増え ていることが分かる。また金管楽器ほどではないが、木管楽器も1933 (昭和8)年から増えている。特に金管楽器は1933(昭和8)年以降、. ずっと生産数を伸ばしている。1933(昭和8)年には、目比谷公会堂で. 第1回アマチュア・バンド演奏会が行なわれた。これは7つのアマチュ ア吹奏楽団と鉄道省の管弦楽団による合同演奏会であった。. また、1934(昭和9)年にはアマチュアバンド東海連盟ができ、翌 1935(昭和10)年には名古屋と東京で、それぞれ第1回吹奏楽コンク ールが開催されている。また1936(昭和11)年には全関東吹奏楽連盟 が結成され、翌年には全関西吹奏楽連盟も結成されている。つまり、そ. れまで増加してきた吹奏楽団の活動が、連盟の結成、合同演奏会や吹奏 楽コンクールの開催などにより後押しされ、軌道に乗り出そうとしてい ることが分かる。. ちなみに吹奏楽コンクールにっいては、当初、吹奏楽界から厳しく非 難された。「民間の吹奏楽団は、学校、会社、工場、青年団等に、それぞ. れ、その団体の特殊の要求で生れたもので、技備を競う必要がどこにあ るのか」5)というものである。その後、戦争が激化する1942(昭和17). 年まで、コンクールの規模は年々発展したのだから、関係者の尽力は相 当なものであったと考えられる。. 民間の吹奏楽団は、団体の特殊の要求で生れたものである。職場吹奏 楽団は、社員側からの要望というよりは、会社側が吹奏楽団を作ろうと した。日本フエルト吹奏楽団や石川島造船所吹奏楽団の結成理由は次の ようなものである。「王子に工場のある日本フエルトに吹奏楽団が編成さ. 5)浅香淳編『最新吹奏楽講座7吹奏楽の歴史と編成』音楽之友社、1970、 pp.155−156 20.
(23) れたのは、昭和3年のことであった。重役の田中寿一が欧米の旅行中見 聞した工場の吹奏楽団を、自分の工場にも実現したいものと、帰社する と早速主張してみた。専務の宮川敬三が賛意を表して実現することにな. ったのではあるが、始め10人編成で500円の予算であった。石川島造 船所に吹奏楽が組織されたのは、昭和7年であった。労働代表の顧問と してジュネーブに行った同社労働組合の指導者、神野信一が、欧米を回. って工場を視察したところ{どの工場でも立派な吹奏楽団があって盛ん. な歓迎を受けた。それを見てうらやましくなり、帰社すると自分が属す る自彊組合で作ることを決意した」6)。. 古河の日光精銅所の吹奏楽団や東京電気吹奏楽団の設立に影響を与 えた人物が金子利八郎である。彼は東京で経理事務所を開設して三菱や 満鉄の会社顧問などをしていた。「金子は当時、生産能率の研究家として. の権威者であった。その権威者が生産能率の向上のために、吹奏楽団を 作るべしと主張するのだから説得力は大きい。満鉄ばかりではない、目. 光の古河も、東京電気も吹奏楽団を作ることになった動機は、金子の主 張が大きく影響したらしい」7)とあることから、おそらく、会社が資金 的援助をしたと思われる。. 「工場の仕事に音樂は付き物である其れは仕事に音樂がともなって 能率を増進するばかりか健全なる慰安とにもなるのである。此れ等によ. って工場、農村に健全なる吹奏樂が必要とされ得る意味である」8)とい うことから、職場における吹奏楽は、能率向上と社員厚生の目的である. ことが分かる。そして、一般の社員からの提案ではなく、重役であった 6) 前掲書5、pp.144・145 7) 前掲書5、p.144 8)加納清市「我が國に於ける吹奏樂の襲達」『吹奏楽(厚生音楽専門雑 誌)』1942年8,月号、管楽研究会、pp.49−50. 21.
(24) り、労働組合の指導者であったりと地位のある人聞の提案で作られた。. そこに能率学者といった、音楽家ではない人間の発言があった。. こういったことから、職場吹奏楽団では会社の援助により楽器の購入 がしやすく、それが楽器生産数量の伸びとして表われているのではない だろうか。. 学校吹奏楽団は、大正期に増えた後、その勢いは少し弱まり、1932 (昭和7)年ごろから再び増加し始める。しかしこの時期においては「当. 時吹奏楽を実施していた学校も、音楽に堪能な教師のいるところとか、. 吹奏楽に特別な関心や熱意を持っていた教師のいる学校であり、その数 は非常にわずかであった」9)とあるところから、学校における吹奏楽活 動はまだ特別なものだったのである。. 1935∼1939(昭和10∼14)年頃に団体数が急増している。これは 吹奏楽コンクールが始まった時期と重なる。この学校吹奏楽団が増加す. る時期は1931(昭和6)年に満州事変、1932(昭和7)年に五・一五 事件、1937(昭和12)年に日中戦争があるように、日本が戦争に向け て進んでいく時期である。おそらく戦意高揚、士気鼓舞という狙いが、. 軍楽隊に通ずる吹奏楽を学校で実施させる雰囲気となったのではないだ ろうか。. 徳島県北島比小学校(1932(昭和7)年頃創立)に吹奏楽団を結成し た理由は次のとおりであった。「あの上海事攣の際、突如として私等郷里. に動員令下り数名の出征兵士を雪中に送りましたが、その行列は實に静 かであり、むしろ悲想(ママ)でありました。是非此んな場合にこそ勇. 壮な音楽行進によってやりたいものだといふのが私のそもそもブラスバ 9)沢崎真彦「学校吹奏楽の歴史」『音楽教育研究』音楽之友社、1972 年7月号、p.108. 22.
(25) ンドを志した原因であります」10)。また、南京陥落を記念した音楽行進. が催されていることからも、吹奏楽が戦争と結びつき勇壮なものとして 人々にとらえられていたことが分かる。. しかし、それだけではない。しっかりとした教育目的をもって実施さ れたのである。学校吹奏楽の目的は3つあった。それは次のとおりであ る。. ①吹奏楽により音楽教育活動を広範囲なものにし、多くの音楽経験を 積むことによって、音楽により深く親しませ、音楽を理解させるこ. と ②変声期における音楽指導からの着目 ③吹奏楽が学校と社会との橋渡しの役をするという目的ll). 上記3つのうちの③が、戦争の激化と共に先ほど述べた戦意高揚や軍 人慰問に結びついていったのである。また、吹奏楽連盟の結成目的がr国 民精神の昂揚と統制のため」12)であったことからも、それぞれの団体の. 要求によって結成された吹奏楽団は、世相を反映し1つの目的へと収敏 していったのである。. 職場吹奏楽団では、その指導をした人々は主に軍楽隊出身者であった。. そこで演奏をした人々の中にも軍楽隊出身者は少なからずいたようであ る。演奏をした人々は、退役後、吹奏楽団を持つ会社に就職し、その会. 社の一員として活動をしたのである。学校吹奏楽団の場合も、指導者が 軍楽隊出身者であった場合があった。それは、「大正年代に京都の府立二. 中、それからやや遅れて、京都の両洋中学の吹奏楽団は、陸軍軍楽隊の 10)川井義郎「吾が校にブラスバンド」『ブラスバンド』管楽研究会、1936. 年1月号、P.46 11)前掲書5、pp.109・110 12)前掲書5、p.112. 23.
(26) 隊長を退職した小畠賢八郎が指導したもので、当時、本格的な編成と厳 格な練習を続けた代表的な団体として知られる」13)とあることから分か る。. 目本の吹奏楽は軍楽隊から始まり、軍楽隊を退役した人々が作った市 中音楽隊によって広まり、職場・学校などで行なわれたアマチュア吹奏 楽団へと活動が広がっていった。よって、目本の吹奏楽編成は、陸軍、. 海軍の違いこそあれ、ウィンドバンドとしての編成が主流になったこと. は当然のことといえるであろう。ただ、現在の吹奏楽編成と比べると金. 管楽器が多く、しかも円錐管のものが多くを占めている。当時の金管楽 器の響きは、今よりもブラスバンドに近いものであったのかもしれない。. また、吹奏楽活動の広がりを支えたといえる吹奏楽コンクールは、開始 当初、吹奏楽界から厳しい非難の声があがり、参加団体数が少なかった という事実は看過できない。現在のブラスバンドジャパンチャンピオン シップも参加団体数が少ない。関係者の一層の尽力が望まれる。. 13)前掲書5、p.145 24.
(27) 第2節 ブラスバンドの名称に関して. 1.英語由来説 目本において「ブラスバンド」という名称はいっごろから使われるよ うになったのであろうか。大正時代に出版され、戦後に再版された『白. 眉音樂辞典』1)によると、「brassband」の説明にr真鍮楽器音楽隊。真. 鍮楽器を奏する楽士の集団。元来はreed楽器を含む全軍楽隊とは区別 したものであるjとある。この辞書では「brassband」が金管楽器のみ の編成を指すものとして定義されていることがわかる。それと同時に、. 「元来は」とあることから、「brass band」がウィンドバンドを意味す る一般的な用法として定着しつつあることもうかがわせる。また、『大百. 科事典』第14巻のr吹奏楽」の項内に「金管樂隊」に関する説明があ る。その説明内には、「このブラスバンドといふ文字は通常の吹奏樂を指. す俗稻にも使はれてゐる」2)と書かれている。ここからも、大正時代か ら昭和初期において、「ブラスバンド」はウィンドバンドを意味する言葉 であったことが分かる。. 昭和初期の新聞紙上において、吹奏楽団をrブラスバンド」と呼んで いる例が見られる。1931(昭和6)年、満州事変の頃から職場、学校、 青年団などでアマチュア吹奏楽団が増え始め、これらの楽団を指して「ブ. ラスバンド」と呼ぶことが広まった。吹奏楽団に「ブラスバンド」とい. う名称が多く使われていたことを明かす資料として、1941(昭和16) 年5月刊行の『吹奏楽年鑑』がある。この中に全国の団体名が記載され. ている。その中の3分の1がブラスバンドの名称を用いている。また、 1933(昭和8)年の雑誌『季刊ブラスバンド』(管楽研究会)の創刊、. 1)伊庭孝監修『白眉音楽辞典』白眉出版社、1952、p.29 2)下中彌三郎編『大百科事典第14巻』平凡社、1933、p.83. 25.
(28) 1934(昭和9)年の「アマチュア・ブラスバンド東海連盟」の結成、1935 (昭和10)年の山口常光『ブラスバンド教本』(管楽研究会)の刊行、. および目本管楽器、タナベ楽器などの広告に「ブラスバンド」の表現が. 使われたことが、ブラスバンドが吹奏楽団を指す言葉としての普及を後 押ししたと思われる。. 日本において「ブラスバンド」が吹奏楽団を指す言葉として使われる ようになったことに対して、以下の2つの説がある。. ①イギリスにおいて、民間のバンドのほとんどは金管楽器で編成され た「ブラスバンド」であり、ウィンドバンドは軍楽隊がほとんどで ある。後者は「ミリタリーバンド」と呼ばれていた。このことから、. 日本の民間吹奏楽団もrブラスバンド」と呼んだのではないか。 ② 「バンド」ではジャズバンドなどのバンドとの区別がっかないため、. ドイツ語で「管楽器」という意味を表す“blas”を冠した「ブラス バンド」を使うようになったのではないか。. この項では①の英語由来説について言及することとする。②のドイツ 語由来説については次の項で言及する。①の説に関して詳しく説明する。 赤松文治氏は、「此の目本語化したブラスバンドと云ふ言葉は勿論英語の. BrassBandから来たものであらう。乃で此の英国で所謂Brass:Bandと はどんなものかと云ふ事を考へれば、それは読んで字の如くBrass楽器. を以て編成されたBandである。即ち木管を含まない金管と打楽器の合 奏のことである。(日本の劇臥鼓隊とは違う)」3)とブラスバンドという. 言葉を吹奏楽団に使うことが誤りであると指摘している。. ちなみにこの時代の吹奏楽知識者層には、英国式のブラスバンドが存. 3)赤松文治「吹奏楽に関する若干問題に就てブラスバンドの意義」『ブ ラスバンド劇吠鼓隊ニュース』管楽研究会、1937年9月号、pp.2・5 26.
(29) 在していたことは知られたことだったのであろう。それは、当時「英国. のブラスバンド(EnglishBrassBand)の基本的編成である二十六人の 演奏者よりなる配置」4)として、ブラスバンドの配置図を紹介している ことからもうかがえる。. 日本で吹奏楽団をブラスバンドと呼ぶようになった原因を、赤松文治. 氏はr英国人でも一般の人は軍楽隊のことをMillitarybandと称し、之. に対して民間のBandの事をBrassbandと呼ぶやうになつてしまつた。 此の誤つた習慣が目本にもその儘取入れられて、軍楽隊の事は言はない. やうであるが、民問のBandの事をブラスバンドと呼ぶやうになつてし まつた」5)と述べている。では1800年代後半から1900年前半における イギリスの民間バンドの楽器編成は、どのようなものであったのだろう. か。このことを、イギリスにおける民間バンドの編成の変遷から考えて みる。 表イギリスのバンドの編成と名称に関する表 ハンド数 バンド 合 ②金管楽器 ③愈管楽器 ④盒管楽器 ②金管楽 ③金管楽器④金管楽器 3本以上 2本以下 数本のサ 金管楽 +3本以上 +2本以下+数本のサ ①酎④の合 ①金管楽器 ソホーン バンド合計 計 木 楽器 みの編成 木管楽器 みの編成の木管楽 の木管楽器キソホーン. 1880年代. 14. 重890年代. 26. 1900年代. 97. 16. 1910年代. 64. 14. 1920年代. 89. 1930年代. 80. 1940年代. ”. 8 0 1 47. 24. 12. 62. 3 0. 0 0 5. その他. 329. 32. 19. 0 0 0 0 0 0 0 1 1 0 2 0 0 1 1. 合計. 391. 47. 24. 2 464. 1860年代. 1870年代. 合計 ”ml”itary4Fという名称がついている. バンド数 ”Brass and Ree♂という名称が. ついているバンド数 ”Brass Ban♂またはそれに類する 名称※がついているバンド数. 2 2 6. 391. 0 0. 1 0 0 3 4. 3. 0 2 0 2 5 7 4 3 1 0. 1850年代. 4 6. 66.7%. 33.3%. 50.0%. 0.0%. 100.0%. 0.0%. 0.0% 50.0%. 0.0%. 0.0%. 100.0%. 0.0%. 100.0%. 0.0%. 100.0%. 19. 73.7%. 15.8%. 10.5%. 0.0%. 100.0%. 35. 74.3%. 11.4%. 14.3%. 0.0%. 100.0%. 120. 80.8%. 13.3%. 5.8%. 0.0%. 100.0%. 17.1%. 4.9%. 00%. 1000%. 3.0%. 1.0%. 1000%. 82. 78.0%. 101. 88.1%. 7.9%. 82. 97.6%. 0.0%. 12%. 12%. 1000%. 12. 91.7%. 8.3%. 0.0%. 00%. 1000%. 464. 84.3%. 10.1%. 5.2%. 0.4%. 100.0%. 25.5%. 0.0%. 0.0%. 6.4%. 0.0%. 0.0%. 0.0%. 208%. 50.0%. 79.2%. 50.0%. 12. 3. 0.0% 0.0%. 68. 15.9%. 381. 84.1%. 68.1%. 100.0% 100.0% 100.0% 100.0%. ※それに類する名称…”saxhom band”,”comet band”を指す. 4)平林勇「吹奏樂に於ける樂器配置法」『ブラスバンド』管楽研究会、 1936年10月号、p.38. 27.
(30) 1850∼1940年代におけるイギリスのバンドの集合写真をイギリスの インターネットサイト“VintageBrassBandPictures”6)から入手した。. その集合写真から、バンドの楽器編成に関して、次のようなことがいえ. る。表を参照しながら述べる。なお、先のサイトに掲載されていた約700. 枚ほどの写真より、任意で464枚を抽出し、分析した。. 1880∼1910年代にかけて、木管楽器が3本以上入った編成が比較的 多く見られる。それ以外の年代においては、全て金管楽器によって編成 されたバンドがほとんどである。. バンドの名称とその編成に関して分析した。全て金管楽器のみによっ て編成されたバンド(391団体)の内、“Brass Band”またはそれに類. する名称を用いているバンド(62団体)は15。9%であった。1本または. 2本の木管楽器を含む、金管楽器主体のバンド(24団体)の内、“Brass Band”またはそれに類する名称を用いているバンド(5団体)は20.8%. であった。なお木管楽器を3本以上含む編成のバンドで、“BrassBand” またはそれに類する名称を用いているバンドは皆無であった。木管楽器 を3本以上含む編成のバンド(47団体)の内、“military”という名称 を用いているバンド(12団体)は25.5%であった。その他の編成のバ ンドで“military”という名称を用いているバンドは皆無であった。ま. た、木管楽器を3本以上含むバンド(47団体)の内、金管楽器+木管楽. 器のバンドという意味を表す“BrassandReed”という名称を用いてい るバンド(3団体)は、6.4%であった。その他の編成のバンドで“Brass. andReed”という名称を用いているバンドは皆無であった。但し、名称. 5)前掲書3、p.3 6) http:〃www.harroga.te.co.uklharrogate・bandlindexinf.htm、 2006.11. 28.
(31) に編成を表すような語を含まないバンドの割合が、編成を表すような語 を含むバンドの割合より圧倒的に多い。全て金管楽器によって編成され. ているバンドの84.1%、木管楽器を3本以上含むバンドの68.1%、1本 または2本の木管楽器を含む、金管楽器主体のバンドの79.2%が、名称 に編成を表すような語を持っていない。. 確かに、多くは自分達の団体を単に”Band”と呼び、名称によってバン. ドの種別を区別したかどうかはこの資料からは判断することはできない。. しかし、“military”Bandまたは“Brass andReed”Bandは木管楽器. を3本以上含むバンド、“Brass”Bandは全て金管楽器のみで編成され たバンドを指す言葉であるといえる。. “Brass Band”という言葉は、一般的に使用されていたのだろうか。. 1903年に行なわれたナショナルチャンピオンシップのグランドチャン ピオンシップセクションの出場バンド名と指揮者の一覧では、“GRAND. CHAMPIONS且IPBRASSBAND CONTEST”と書かれていることが分 かる7)。また、ブラスバンドについて書かれた新聞として『BRASSBAND. NEWS』というものが発行されていた。これらのことから、バンド名と してブラスバンドという言葉を使わないにしても、金管楽器のみによる バンドをブラスバンドと呼んでいたことが分かる。. しかし、目本最初の吹奏楽団は軍楽隊である。その軍楽隊に対して、. ブラスバンドという言葉を充てたとは思えない。広岡淑生氏は「フェン トンに、薩摩藩の青年藩士で選ばれた三十名が軍楽伝習生として指導を 受け、これが英国式軍楽隊(ミリタリー・バンド)であるので、ブラス・. バンドといいならわされたのであろうと思っていたのであるが、フェン. 7)Violet&Geoffrey Brand“Brass Bands in the20th centurジ EGON. PUBLISHERS LTD.、1979、p.47 29.
(32) トンはミリタリー・バンドと称していたにちがいない」8)と述べている。. また、軍楽隊の事をブラスバンドとは呼ばなかった。また、ブラスバン ドという語がウィンドバンドを表す語として使われ始めるのが、早く見. 積もっても明治末期なので、もしフェントンが軍楽隊に対してブラスバ ンドと呼んでいたのだとしたら、時代が合わない。ブラスバンドが一般. 的に使われるようになった時期でも、あくまで民間のアマチュア吹奏楽 団に対して用いたのである。. ブラスバンドという言葉が使われ始めた時期が、昭和初期であること から考えると、このブラスバンドという言葉がどういったいきさつによ って目本で使われるようになったのかが問題である。この問題に関して は同節第3項で考察する。. 8)広岡淑生「ブラス・バンドという言葉について」『バンドジャーナル』. 音楽之友社、1971年6月号、p.52. 30.
(33) 2.ドイツ語由来説 ドイツ語由来説とはどういうものかは、前項で示したとおりであるが、 再度記す。. (ドイツ語由来説). 「バンド」ではジャズバンドなどのバンドとの区別がっかないため、 ドイツ語で「管楽器」という意味を表す“blas”を冠した「ブラスバン ド」を使うようになったのではないか。. 『平凡社大百科事典7』の「吹奏楽」の項には、「吹奏楽はドイツ語. のBlasmusikの訳で日本で〈吹奏楽〉のことをブラスバンドと呼ぶの はこの転用といわれる」1)とある。この記述のみを見れば、ドイツ語説 が有力に思える。. 広岡淑生氏は「いま日本でブラス・バンドといっているのはおかしい。. BRASSでなくてBLASだ。ドイツ語ではBLASENで“吹く”とい う意味であるからこちらの方がほんとうの意義を持っているということ. になり、私もなるほどと、その示唆に動かされ、今になってブラス・バ ンドがBRといい出すのはまったくおかしいことである」2)と「ブラス バンド」の「ブラス」はドイツ語であると述べている。 また、この説に関して、『バンドジャーナル』「ひろば」と呼ばれる読. 者投稿記事の中にも掲載されていた。高岡市の橘清三氏による投稿であ る・以下・その記事を引用し塗がら記述する。. rショーターオックスフォード英語辞典(SOD)からその項3)を引用. すれば『音楽家の一隊(初出1660年)。現在は一般に各種の吹奏楽器. 1)下中邦彦編『平凡社:大百科事典7』平凡社、1985、p.1164 2)広岡淑生rブラス・バンドという言葉について」『バンドジャーナル』 音楽之友社、1971年6月号、pp.52・53 3) 「band」の項. 31.
(34) 及び打楽器の演奏家の一隊。またストリングバンドなどのようにオーケ ストラの各種セクションにも適用され、ときには大まかにオーケストラ. 全体をいう』とあり、一般的にはご主張のとおりです」4)。この「ご主 張のとおり」というのは、『バンドジャーナル』1977年7,月号のrひろ. ば」のコーナーに掲載された「外国でブラスバンドというと、金管楽器 だけの合奏団かあるいはそれに打楽器の加わったものです。木管楽器の. 加わったものは、英語ではただのBandです」5)という主張のことであ る。「B翫nd」という語は「ドイツヘ輸入され、昔は『ダンス音楽または ジャズ音楽の楽団』を意味し、同じ綴りのドイツ語のバンドと区別する ため、rベンド」と発音されていました」6)。そして現在ではドイツ語で. バンドはジャズやロックなどの音楽を演奏するグループを指す言葉とし. て使われている。つまり、今も昔もドイツでは「Bandjを吹奏楽のよ うな団体を指す言葉としては使われなかったことが分かる。. ところで英語のブラスバンドにあたるドイツ語はrblasmusik」で ある。この語を小学館独和大辞典第2版で引くと、「吹奏楽」7)とある。. ちなみに同辞典で関係のある語を引くと、次のように書かれている。. ・blasinstrument=吹奏楽器、管楽器 ・blasen=吹き鳴らす、吹奏する. ・blaskapeHe二吹奏楽団、ブラスバンド8) なお、同辞書には掲載されていないが、「blasorchester」は「吹奏. 4)橘清三「『ブラス』とバンドにっいて…BLAS」『バンドジャーナル』. 音楽之友社、1977年8月号、p.93. 5)「“ブラスバンド”はやめましょう」『バンドジャーナル』音楽之友社、. 1977年7月号、p.92. 6)前掲書3、p.93 7)国松孝二編『小学館独和大辞典第2版』小学館、1985、p.387 8)前掲書6、pp.386・387. 32.
(35) 楽団」という意味を持ち、「blaskapelle」より編成が大きいものを指 す。「blasband」というドイツ語があったのであれば、それがそのまま. 日本語となった可能性も考えられる。しかし、ドイツ語の「band」の 意味から考えても、「blasband」という語があったとは考えにくいし、 現在のドイツ語の辞書には、そのような語は掲載されていない。. 文法的にいうと、rバンド」のような多義の語の意味をはっきりさせ るためには、形容的な限定詞を必要とするのである。例えばミュージッ. ク、ハワイアン、タンゴなどが限定詞にあたる。要するに楽団のバンド. だと分かりさえすればいいので、固有名詞でも何でも限定詞に使えるの. である。そのため、特に学校吹奏楽団ではジャズのバンドとは違うとい うことを強調するためにrブラスバンド」という語を使ったと考えられ る。. しかし、このドイツ語説についても、いつ、どのようないきさつで使 われるようになったかが分からない。海軍軍楽隊は、フェントンの後釜 として、ドイツ人のエッケルトを採用した。しかし、彼が、軍楽隊のこ. とを「blaskapelle」や「blasorchester」と呼んだとしても、それ がブラスバンドという名称につながったとは、言葉の響きからして考え にくい。また、ブラスバンドの語が一般的に使われるようになった時期 に合わない。前項で説明した英語説と合わせて、次項でブラスバンドが ウィンドバンドを表すようになったかを考察する。. 33.
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