合計 35名6)
イギリスのチャンピオンシップのレギュレーションに規定されてい るブラスバンドの標準編成(28名)よりは多い編成である。
この演奏会は大盛況だったようである。ヤマハホールは定員600名ほ どであるが、満席になり、200名ほどがロビーに出たままであったとい う。また、観客は東京近郊だけでなく、関西、北陸、中部地方からも来 ていたそうである。これは、今までレコードでしか聴くことが出来なか った音楽が生で聴けることに対する期待の表われであろう。それと同時 に、レコードを通じてブラスバンドの音楽を知っていた人々が広い地域 にいたことが推察される。
さて、この演奏会を開くまでにどのような苦労があったのだろうか。
r初めてバンドを編成すると言う段階で問題になったのが楽器を如何に して集めるかという点でした。(中略)あのイギリス独特の響きを作り出 すためには、どうしてもショート・モデルのコルネット、Eレテナーホ ーン、バリトン、Eレバスをはじめ、最高音のEしソプラノ・コルネッ
トなどが必要となります。目本ではこれらの楽器は確かに入手困難です。
ところが昨年(筆者注、1971年)暮、目本楽器銀座店の『金管バンド・
フェアー』で、レコードや楽譜と共に楽器が展示即売されました。私た ちのバンドが幸運にもこれらの楽器を使うことになった次第です。(中 略)最も困難だった点は、コルネットとテナーホーンの奏者のほとんど
6)前掲書2、p.60
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がトランペット・プレーヤーだったことです。合奏音が全体的にシャー プで、イギリスの響きとはおよそかけ離れたものでした」7)
この当時、Eレコルネットやフリューゲルホーンはまだ国産の楽器が なかった。また、テナーホーンは国産の楽器もあったが、これらはスク ール・バンドにおいて使用するために作られたもので、上級のものは当 時、ようやく開発されたところであった。このことを考えてみても楽器 を揃えるということだけでかなりの苦労が感じられる。そういう中、r金 管バンド・フェアー」が行なわれたことで楽器を探し回る手間は省けた。
しかし購入費用を考えると、一般の音楽愛好家のみによる団体では、こ うはいかなかったであろう。
また演奏面においても、コルネットやテナーホーンといった、ブラス バンドでは必ず使用される楽器に対する音のイメージを持っていなかっ たり、息の入れ方などがつかめなかったりした点が大きな困難であった ことがうかがえる。それは現在のウインドバンドの演奏で、曲中、トラ ンペット奏者がフリューゲルホーンに持ち替えて演奏したとしても、大 半がトランペットと大差ない音で演奏しており、フリューゲルホーン独 特の豊かで柔らかな音が聞こえてこないことからも想像できるだろう。
しかし、単純にトランペットとコルネットの奏法の違いという問題だけ ではないようである。中山冨士雄氏は、奏法の違いについて「軽く演奏 するような口の形でもってかないといけないわけなんです。無理に音を 出そうとしてくちびるにカを入れて吹くということじゃなくて、くちび るをゆるめておいて軽く吹くということなんです」8)と述べている。本
7)小沢俊朗r古くて新しい音ブラス・バンド」『バンドジャーナル』音 楽之友社、1972年7月号、pp.59・60
8)井上謹次他「座談会ブラス・バンドの魅力」『バンドジャーナル』音 楽之友社、1972年7月号、pp.52・56
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論文では楽器の奏法について言及しない。しかし、当時はそれなりに演 奏技量を持った人々でも、金管楽器の基本的な奏法の部分で、問題を抱
えていたということが分かる。
H.ザ・バンド・オブ・ブラック・コルト
先述したとおり、アマチュアの団体として日本で一番古いのがこの ザ・バンド・オブ・ブラック・コルトである。1976年10月に結成され た。結成のきっかけはrEレコルネットを手に入れた長坂氏(筆者注、
同団指揮者)とその友人が『この楽器を使わないのはもったいない』と 人数をかき集めてスタート」9)ということである。しかし、「レコードな
どで本場イギリスのブラスバンドの音を聞き、その『響き』に大いにシ ョックを受けた長坂さんが呼びかけ、仲問を募ってスタートした」10)と もあるように、ブラスバンドの響きに心を動かされたという下地があっ て、そこに吹奏楽ではうまく使えない楽器であるEbコルネットの入手
ということが引き金となって結成されたといえる。
結成時集まったメンバーの中で、ブラスバンドを知っていたのは、先 述の東京ブラスソサエティにも所属するメンバー1名であった。この方 を頼りに、中山冨士雄氏や目本楽器銀座店の協力と援助を得て、銀座に て練習が始まったそうである11)。
目本で2つめのブラスバンドで、しかも全員がアマチュアであったの で、練習法には苦労したようである。「当初はブラスの音色自体が、彼ら にとっては一つの神秘であった。ヴィブラートのかけ方が分かるまでに、
まる三年かかった。それもレコードをきいてまねることだけが唯一の練
9)前掲書1、p.42
10)「練習中オジャマします」『バンドジャーナル』音楽之友社、1982 年3月号、p.77
11)11ttp:〃www.black・colt.com/、2006。12
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習法だったのだ」12)とあるように、国内に参考にすべきブラスバンドは 他に東京ブラスソサエティしかおらず、その団体にしても、まだ結成さ れて間がない頃だったので、全てを参考にできる状態ではなかったであ ろう。そもそも金管楽器でヴィブラートをかけて演奏する習慣は吹奏楽 やオーケストラにはなく、レコードで演奏を聞きながら試行錯誤の連続 であったであろうことは容易に想像できる。また、「うまく楽譜を手に入 れても、そのアレンジ通り吹くとちっともいい音がしないから困る。こ れを必ずといって言い(ママ)ほど手直し調整するんだけど」13)と長坂 氏が語るとおり、楽譜に関しても苦労が多かったようである。このよう な苦労を重ね、現在まで続く活動があるのだろう。
皿.宇都宮ブラスソサエティ
宇都宮ブラスソサエティは栃木県宇都宮市に作られた目本で3番目
(アマチュアでは2番目)のブラスバンドである。「昭和52年当時、こ の地区の中学校にはオーケストラしかなく、金管バンドがなかったので 豊里南小OBと小学校の時の顧問の先生計21人でスタートさせた『宇都 宮ブラスアンサンブル』がUBS14)の母体」15)である。
その後、代表の益子直久氏が所属していた市民バンドの演奏会にr宇 都宮ブラスアンサンブル」がゲスト出演したのをきっかけとして益子氏 たちがr宇都宮ブラスアンサンブル」に加わった。そして1980(昭和 55)年、団の名称を「宇都宮ブラスソサエティ」に変更した。その後、
1987(昭和62)年、創団者がマーチングバンド結成のために退団。そ
12)前掲書10、p.77 13)前掲書10、p.76
14)宇都宮ブラスソサエティの略称
15)「VIVA!われらバンドピープル」『バンドピープル』八重洲出版、1993 年10月号、P.53
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の頃からブラスバンドとしてのスタイルを明確に打ち出し始めた16)。
この団の活動は自分達の演奏会などを催すだけではない。本物に触れ たいという団員達の欲求と地域への貢献を兼ね、1980年にはレイラン ド・ヴィークルス・バンドの宇都宮公演を主催。また、1984年にはブラ ック・ダイク・ミルズ・バンド(当時。現在の名称はブラック・ダイク・
バンド)の宇都宮公演を主催している。「ボクらも普通の人間だからお金 が余っているわけじゃないですよ。主催だって儲かるわけじゃない、か えって持ち出しが出るくらいなんですよ。(中略)その代わり、音楽のス タイルなど団員が得たものは大きかったですね」17)と代表の益子氏が語 るように、ブラスバンドという音楽のスタイルを地域の人々に紹介した だけでなく、団員に音楽の方向性を示すきっかけとなったのである。
宇都宮ブラスソサエティは、演奏だけでなく、著名なブラスバンドの 公演を企画するという面からもブラスバンドを盛り上げようという活動 に取り組む団体である。こういう団体の存在もまた、ブラスバンドの普 及に一役買っているといえる。
このように、楽器の調達、楽譜の調達と演奏効果を増すためのアレン ジ、本物の演奏に触れるための企画などを通して、苦労を重ねながら、
ブラスバンド活動が広がっていったのである。1980年代までに、救世軍 のバンドを除き、関東を中心とした東日本で9つのブラスバンド団体が 結成されたのである。
16)前掲書15、pp.53・54 17)前掲書15、p.53
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3.ブラスバンド活動の広がりとメディア
前項でも述べたが、ブラスバンドの結成理由の1つには、この演奏形 態で演奏をしたいという思いにあるといえる。東京ブラスソサエティの 結成以前には、レコードでしかその演奏を聴くことはできなかった。し かし、結成以後は、数少ないながらも生の演奏を直接聴くことができる ようになった。とはいえ、結成された団体はプロではない。全国各地の 人々が生のブラスバンドに接することができたわけではない。やはり何 かの媒体でブラスバンドというものが紹介されないことには、現在のよ うに全国的にブラスバンド団体が存在しなかったであろう。現在のブラ スバンドの構成年齢は、20代後半から40代にかけての層が多いように 感じる。彼らが得る情報はきっと雑誌といったアナログな情報だけでは なかったと推察している。
この項では、雑誌による情報提供だけでなく、テレビ放送、映画、イ ンターネットによる情報提供とブラスバンド団体の増加について考える ことにする。
表に見るとおり、ブラスバンドが最も多く結成されたのは1990年代 であることが分かる。もちろん、2000年代はまだ3分の1ほど残って いるので、将来的には2000年度が最も多く結成された年代になるかも しれない。しかし、1970年代では3団体、1980年代では8団体、1990 年代は17団体と結成団体数が倍増していっている。これと先ほどあげ た各種メディアの間には関係があるのであろうか。
来日バンド数を比較してみる。1980年代が4バンドであったのが、
1990年代では8バンドと増えている。しかし、このバンド数の増加が、
1990年代に国内においてブラスバンドが増えた原因の1つではないだ ろうか。例えば、ウェリントン・シタデル・バンドは、1979年と1985 89