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龍谷大学学位請求論文2019.09.19 Wickstrom, Daniel「首大師法蔵の研究」

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(1)

賢首大師法蔵の研究

博士学位請求論文

(2)

序論..::..:.、

一本究の対象・

二本研究の構成.

本研究の対象と 本論:.:。...:.・:...・・

第一章法蔵の生涯と著作

凡例

第二章西太原寺における律学と法蔵

[目次] 序説.:: 第一節法蔵の生涯。......

第一項伝記資料の検討.

第三項法蔵の訳経活動:::...

第二節法蔵の著作とその撰述年代.

序説.. 第一節 小 結 ●

第二項生涯の概略::.

第一項先行研究の理解とその問題点:.

第二項著作の撰述年代についての検討。

視 点 : 。 当時の西太原寺. ●●●●●●● e● ●● ●●●●●● ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●● ●●●●●●● ●● ●●●●●●● ●●●●●●●●●●● ●●●●●●● 、●●●■●● ●●●●● 甲● ●●●■ ●● ●●●●●●●●●●●●● ●●●●●●●●●●● ●●●●●●■ ●● ●●●●●●●●●● ●● ●●●●●●●●●●● ●●●●●●●●●●● e●● 甲●●●●●●●●●● ●●● ●●●●● p●●●●●●●●● ●●●●●●●● ●●●●●●●●● ●●●●● ●● D● ●● ●● ●● ■、D、●●●●● 、●、●●● ”● ●●●●● 句● 、● 、, ●● ●●●●●●●●●●●●●●● ロ●●●●●●●●●●●●●●● ●● U●●●●●●●●●● ●● ●● ●● ●●●●●●●●●●● ●●●●●●●●●●●●●●● ●●●●●●●●●●●●●●● ■● ●●●●●●●●●●● ●● p●D●●●●● ●●● 。●●●●●●●●●● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● Ⅵ ●●●●●●●●●●● ●●●●●●●●●● ●●●●●●● ●●●●●● ●●●●●●● B●●,●, ●● ●● ●● ●● 旬● 4 4 41 20 18 18 11 7 5 5 4 1 1 1 55 54 54 − 1 −

(3)

第三章訳経場における教義論争と法蔵

序説..:. 第一節 第一項 第二項 第三項 まとめ.・ 第二節 第一項 第二項 第三項 第三節仏性論争をめぐって::..・・

第二節法蔵に及ぼした律宗の彰

第一項化制二教判をめぐっ一

一懐素の﹃四分律開宗記﹄

二法蔵の﹁梵網経菩薩戒十

第二項殺戒の解釈をめぐっ一

一懐素の﹁四分律開宗記﹄

二法蔵の﹃梵網経菩薩戒寺

第三節法蔵の教学における菩謹

法蔵の﹃梵網経菩薩戒本 懐 素 の ﹃ 四 分 律 開 宗 記 ﹄ 法蔵に及ぼした律宗の影 てて ま、とめ..・・・..・・・ 小 結 ● ● 渭弁と護法の空有論争をめぐって。:。..:......:..:

円測の解釈−空有論争の会通と渭弁への批判I:

法宝の解釈I遺失の﹃会空有論﹄をめぐってI:

法蔵の解釈l﹃五教章﹄から﹃入榴伽心玄義﹂へI

疏 ﹄ . : : 法蔵の教学における菩薩戒の位置. ... 法蔵の﹁梵網経菩薩戒本疏﹄ 響1懐素と法蔵の比較を通して−...: ﹃解深密経﹄の一二転法輪説をめぐって:: 円測の﹃解深密経疏﹄と三転法輪説.:. 法宝の五時教判と一二転法輪説.

法蔵の教相判釈と言転法輪説

●●● 、● ● ● ● ● ● ● ● ●● ●●●●●●●●● 、●●●●■ ●●● ●● ●● ●● ロ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●● −一二転法輪説から四宗判へI ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●● @● U●●●● ●● ●● ●●●●●●● 、● ●● 、●●●● ●●●●●●● ●、 ●●●●●● ●●●●● ●● 、●●●●●● ●● D、 ■■ pp ●● 、● ●,■,、● ■●、、●、 。●●●●●●●●●● 句● ●●●●●●● ●● ●●●●●●● 、●●、、、、 p● ●●●●● ●● ●● ●● ●● ●● 、● ●● ●●●●●●●●●●●●●●● ●●●●●●● ●● ●, ロ●●●●●●●●●● FD●●●●■、● ●●●●●●●●●●、 ●●●●●●● ●● ●● ●●●●●●●●● ●●●●●●●●●● ●●●●●●● ●● ●●●●●●● ●● ●●●● ■●●● ●●●●●● ●● ■●●●●● ●●●● ●●●● ●●CD B、 、● 101100969493 9291 83 807878 76 76 726765 63 63 61 6059 59 ●● − 11 −

(4)

第四章法蔵の法界縁起説

序説.... 第一節 第一項 第二項 ’ 一一 まとめ. まとめ.、 第二節 第一項 一一 第二項 一一 第三項 小結. まとめ... 第一項 第二項 第三項 宗趣説の別釈. 宗趣説の総釈..:. 智備の十玄門。 法界縁起と十玄縁起説:...:........::......:...:.:.::::.:.:。.:...:.: 義相の十玄門.:.....:..・・: ﹃華厳経﹄宗趣説の分析:.・:.・・・:.::..... ﹁探玄記﹄における﹃華厳経﹄宗趣説の構成: 法蔵における十玄門の展開....:.....・・:.......:........... ﹃五教章﹄・﹁探玄記﹂・﹁華厳経旨帰﹄に見られる十玄門の比較. ﹃華厳経旨帰﹄における十玄門解釈の特質:...:...:..:::... 法蔵の思想における十玄門の意義・・・・.........:...・・::.....

法宝の﹃一乗仏性究寛一柵における五性各別t’

円測の﹃解深密経疏﹄における五性各別説...:::...:.::.....

二﹂説杜半......::....・・

法蔵の仏性.1

種性解釈﹃五教章﹄から﹃入榴伽心玄義へ1..

﹄ 法蔵以前の十玄門. ﹁探玄記﹄の宗趣説の概要. ●● ●● ■● ●、 ●●●●●●●●● ■●●●●●●●●●●●●●●● p●●●●●● 、● 。●●●●● ●● ●● 、● ●●●●●●●●●●● ●● ●●●●● D●●●●●●●● ■●●■●■ ●● ●●●●、,●● ●●●●●●●●●●● ●●●●●●● ●● D●●●●●● ■6 ロ● ●● ●●●●●●●●●●● ●●●●● ●● ●●●●●● ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●● p● ●●●、●● ●●●●●● 、、 ●●●● ●■ ●●●●●●●●●●●●● の● ●●●●●●● ●● ■●●●●●● e● ●● ●●●●●●●●●●●●● ■● ●● ■●●●●●●●●●●●●●● 0●■■■、●●●●●●●,● ■●●● ●●●●●●●●●●●●●●● ●●●●●●●●●●● ●●●●●●●●●●●●●●● ●● ●●●●●● ●●●●●● ●●09●●g●● ●● 、●●●●● ●●●●●●● 、●●●●●● ●●●● ●●●● ●●●●● ●● ●●● ●● 110109105103102 155151 143136136134132132131130127125125123123121121 − 1Ⅱ−

(5)

第五章法蔵の如来蔵縁起説

序説:..::::....。.......:..:.:.:.:.:...:..

第一節如来蔵縁起の意味内容−︲如来蔵解釈を通して−︲

第一項﹃起信論義記における

﹄衆生心の解:.:..:

第二項﹃無差別論における如来釈

疏﹄蔵の解:.::..

まとめ・・ 第四節 第一項 一一 第二項 一一 第一二項 第三節 第一項 第二項 第一二項 まとめ.............・・・.・・・...:.・・・..:......・・・:.・・・・・・・・・・・....・・

第二節如来蔵縁起説の思想構造I真如の不変と随

縁をめぐって1.:... まとめ........・・・. 結::.・・: 、 l ノ 法蔵の宗趣説...:..:.:.::.:::.:.:....:..・・:.:.:.:. 法蔵の性起思想の特質I因果無二説をめぐって1..:..::.:... 智嚴の宗体説. 法蔵の場合.:: 智備の場合...:.:.: ﹁如来性起品﹂ 法界縁起と性起説..::.・・・.::..:.・・・.・・・:.. ﹁十地品﹂第六現前地の解釈に見られる法界縁起説. 地論文献における 縁集説と法界縁起......・・:.: 智備の﹃捜玄記﹄に見られる解釈..:::.:・・・・ 法蔵の﹃探玄記﹄に見られる解釈..::.::.:. ﹁如来性起﹂の把捉. ●● U●●●●●●●●●●●●●● の宗趣説. ●● ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●● ●白 ●●●●●●●●● ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●● ●● ●● ●● ●● 、● 守● ●●●●●● ●●●●●●●●●● 、● ●● ●● c● ●● ●● ●● ■● ロ● ●● ●● g● ●● ●● ●● ●● ●● ●● 、● 、● 毎●●●●●● ●●●●●● ●●●●●● ●●●●●● 、●●●●●● 、●D●D●ロ●●● D● ●● 、● ●● ●●●●●●●●●●● ■●●●●●●,●●● ●●●●●●●●●●● ●● ●●●●●●●●●● ●● ●、●●●●●●●●● ●●●● ●●●● ■● ●●●,、● ●●●●●● ●●●●●●● ●●●●●●● ●●●●●● ●■ ●●●● ●● 、■ ●● 、● ●● ●● ●● 188187184179177177175174174173172168161157156 211210206203203201201 一Ⅳ−

(6)

結論。::...・・

一各章の総括.

参考文献

ま、とめ....・・・・・・・..・・........・・・...:........・・・・・・・・・・・:.・・・・・・・・

第三節如来蔵縁起と浄用I吏習・業用の解釈を通してl::::.::

第一項﹃起信論義記﹄における真如重習の解釈.::..::.::.:・・ 第二項﹃無差別論疏﹄における業用の解釈:...::..::・・・・・・:.. まとめ・・ 第四節 第一項 第二項 まとめ. 小結. 一一 一 一 一 第三項 第二項 第一項 一一 一 一 一 初唐仏教における法蔵::: 本研究の問題点と展望...。.......:。 無染門の解釈... 相応門の解釈: 分位門の解釈..:.....:: 如来蔵縁起、と法界縁起::..:.:...:.・・・:.:.::..:.:..・・・:・・:.::..・・・:: 教相判釈から見る関係.・・ 因位と果位から見る関係。 U ●● ﹃無差別論疏﹂における真如の不変と随縁:↑ ﹃起信論義記﹂における真如の不変と随縁・・・ ﹃五教章﹂における真如の不変と随縁・・・・:. ●● ●● ●● 、●●●●●●●●●●●●●● ●●●● ■●● ■●● D●●●●●●●● ●● ●● ●●●●●●●●●●●●●●●●● 、● 、●●●●●●●●●●●●●●●●● ● 、●●●●●●●●● ●●●●●●●●●● ●● ■●●●●●● ■●●●●●● D● ■●●●●●● ●● ■●●●● ●● ●● ●● 甲● ●●●●●●● ●● ●●●●●●● ●●●●●●● ■● 、●●●●●●●●●● ■●●●●●●●●●● ●● ●●●●●●● 、●●●●●●●●●●●●● ■●●●●●●●●●●●●●●●●●● ●●●●● 。● ●●●●●● ●● ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●● ●● ●● D●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●● ●● 甲● ■、 、● ●● ●●●●●●●●●●●●●●●●●●● ●●●●●●●●●●●●●● ●●●●●●●●●●●●●●●●●● ゆ● ●●●●●●●●●●●●●●● ●●●●●●●●●。● ●●●●●●●●●●●●●● ●●●●●●●●●●●●●●● ●●●●●●●●●●●● p●●●●●●●●● ●●●●●●●●●●●●● ●●●●●●●●●● ●●●●●● FD、●●●●●●● ●●●●●●● ●● ●●●●●●● ●●●●●●● ●● ●● ●● 、● 244243238236235234231227226225223221219219214212 255254252252 1 −V−

(7)

︵︺︺、 8 , 7 6 5 4 3 2 、 、 、 、 、 、 1、本文の表記は当用漢字・現代仮名遣いを用いる。 ﹃新唐耆﹄︽中華耆局[ろ実]

﹃蔵外地論宗文献集成﹄亜令剛大學校佛教文化研究所図耆出版盲三巴

﹃蔵外地論宗文献集成続集﹂金剛大學校佛教文化研究所図書出版[ご国]

﹃大正新脩大蔵経﹂言□口巻数.□口頁数四・ヶ.o︶大蔵出版社[己室] ﹃大日本古文書﹄”︵古文書︶東京帝国大学文学部史料編蟇所口室田 ﹁旧唐耆﹄恥中華耆局冒宕巴 ﹃韓国仏教全書﹄卵負国間□口巻数・□口頁数画・ず

一次資料および表記

[凡例] ︹例︺先天元年︵。巳、法蔵 中国皇帝に関しては、基本的岸 ︹例︺太宗皇帝︵在位s守窒S 脚注は各章の末に記す。

基本的に

原文については複数の底本や異読がある場合、諸本を対照して校訂した形で引用する。

原文は漢文と現代語訳を併せて記載する。その際、訓点を付けずに読み方を︵、︶と︵・︶で反映する。

漢文引用における□は欠字を示し、現代語訳における○は筆者による補足・説明を示す・

現代語訳は原文に忠実であり、かつわかりやすさに心掛けた・

書名などには﹃﹂を付け、○○章や品には﹁﹂を付ける。それ以外の箇所はそのまま表記する。

暦年および生没年代は、和漢年号を漢数字で示し、○に西暦をアラビア数字で示す。

在位年間を

︵か全い’ゴー檀︶ ︵︶に示す o︶東國大學校出版部[ら二] ○ −V1 −

(8)

略号一覧

﹁六十華厳﹄または﹃華厳経﹄”仏陀跣陀羅訳﹃大方広仏睡 ﹃八十華厳﹂実叉難陀訳﹃大方広仏華厳経﹄言二・zoご巴 ﹃大方広仏華 ﹁中國佛寺史志彙刊﹄”丹青一 ﹁長安志﹄恥中華耆局ロ這己 ﹃伝教大師全集﹄皿SN□ロー ﹁唐会要﹄亜中華耆局[ち韻] ﹃日本大蔵経﹂”︵z口云□口半 ﹃卍新蟇続蔵経﹄恥︵圏に口咋 ﹃和刻本中國古逸書叢刊﹂” □口巻 □口巻 ﹃大日本佛教全書﹂叩︵z国N□□・□口頁数上・下︶日本佛耆刊行会[己弓] ﹃中國佛寺史志彙刊﹂”丹青圖耆公司[毛誤] ﹃続入法界品﹂地婆訶羅訳﹃大方広仏華厳経続入法界品﹄會二.Z。こり ﹃不思議境界分﹄叩提雲般若訳﹃大方広仏華厳経不思議仏境界分﹄自己.za三︶ ﹃修慈分壽提雲般若訳﹃大方広仏華厳経修慈分﹂言三・Z。ご巴

﹃修慈分﹂提雲般若訳﹃大方広仏華厳経修慈分﹂

﹃密厳経﹄”地婆訶羅訳﹃大乗密厳経﹄︵三・zo勇己 ﹃榴伽経﹄皿実叉難陀訳﹃大乗入榴伽経﹄︵三Pzoヨ巳 ﹃無差別論﹄亜提雲般若訳﹃大乗法界無︾ ﹃起信論﹄“﹃大乗起信論﹂白眉。z三念④ ﹃無差別論﹂亜提雲般若訳﹃大乗法界無差別論﹄言望“zase ﹃宝性論﹄亜勒那摩提訳﹃究寛一乗宝性論﹂︵己一︺z三日ご ﹃般若心経略疏﹄皿﹃般若波羅蜜多心経略疏﹄含出・zo弓同︶ ﹃捜玄記﹂亜﹁大方広仏華厳経捜玄分斉通智方軌﹂言践︺zo弓箇︶ 数.□口頁数上・下︶財団法人鈴木学術財団・編[毛ご] に口巻数︺□口頁数画・ず.◎︶日本佛耆刊行会ロ舅ら Ⅲ﹂叩金程宇[ご同]︵鳳凰出版社︶ 数。□口頁数︶

日本佛耆刊行会冒君巴

厳経﹄︵弓。zoご巴 ●● 一Ⅵ1 −

(9)

﹃刊定記﹄”﹃続華厳略疏刊定記﹄命囹﹀Z。届ご ﹁寄海東書﹄恥﹃賢首国師寄海東書﹂﹃円宗文類﹄所収︵雷鵠.z三三巴 ﹁褐磨疏﹄亜﹁四分律冊補随機掲磨疏悴縁記﹄所収︵雷全・zoご巴 ﹃開元録﹂恥﹃開元釈教録﹄弓訟・zo旦堂︶ ﹃大周目録﹂恥﹃大周刊定衆経目録﹂︵国 ﹁感応伝﹂﹁大方広仏華厳経感応伝﹂︵ ヨ ヨ 匡=ロ弓 大感法法 周応蔵蔵 目伝和之 録上尚碑

与弓伝ヒ

ーロ大上弓 大方=ロ大 周広唐唐 刊仏大大 定華薦薦 衆厳福福 経経寺寺 目感故故 録応寺大 一伝主徳

言上翻康

訟言経蔵

三三奉読

邑三簾

全和上

尚言

伝邑 一、, Z 〆-へ ○ 蜀呂 C (f' 田 や Z 、--/ ○ t、」 忌 む ﹁持犯要記﹄皿﹃菩薩戒本持犯要記﹄弓孟.z○毛言︶ ﹃一乗法界図﹂﹃華厳一乗法界図﹂含念.zo民君︶、﹃法界図記叢髄録﹄所収弓金之三巽弓︶ ﹃金師子章﹂﹃金師子章雲間類解﹄言参zo易雪︶、﹃華厳経金師子章註﹂言孟・zo民望︶ ﹃孔目章﹄恥﹁華厳経内章門等雑孔目﹄言よ・z三雪e ﹁五十要問答﹄卵﹃華厳五十要問題﹄司会・Z巳まg ﹃五教章﹄恥﹃華厳一乗教分記﹄弓念.z巳ま④ ﹃起信論義記﹄叩﹃大乗起信論義記﹄自走.z○ ﹃無差別論疏﹄恥﹃大乗法界無差別論疏井序﹄ 疏井序﹄ ﹃梵網経疏﹂”﹃梵網経菩薩戒本疏﹂白き.zo屍国︶ ﹃宗致義記﹂恥﹃十二門論宗致義記﹄弓占.z三胃② ﹃行事紗﹄卵﹃四分律冊繁補關行事紗﹂コニ.之○易宝︶ ﹃演義紗﹄亜﹃大方広仏華厳経随疏演義紗﹂言獣.z○コ獣︶ ﹃探玄記﹄”﹃華厳経探玄記﹄︵己いzo弓出︶ 含 堂 ︺ z o 毘 巽 ︶ ︵弓今金z○房や④ VⅢ−

(10)

本研究では、唐王朝急夷︲二己の初期に活躍した華厳教学一の大成者と見倣されている賢首大師法蔵念お︲ご巳の生涯と彼の仏 教思想について探究する。従来の研究轡においては、法蔵は華厳教学を大成した華厳宗の祖師という側面からのみ把捉され、彼の 教学は智僚さs︲念巴と義相︺念以︲弓巴、および法蔵以後の慧苑急ご︲三巴や澄観G畠︲雷巴と対比されてきた。しかし、本研究 では法蔵の多様な側面を掘り起こし、多角的にこれを検討することによって、法蔵という一人の仏教者を初唐↑の仏教界の中で位 置づけたい。すなわち、法蔵の生涯全般を振り返ってその多様な側面を照らし出し、彼の仏教思想の変遷を初唐に跡付けながら 置づけたい。すなわち、法蔵の生涯全 解析することに本研究の目的を据える。 法蔵は智傭から華厳教学を継承する半面、智侭が亡くなって以後、西太原寺において律宗の関係者、道成︵生没年不詳︶と薄 塵︵生没年不詳︶の下で出家し、壮年期から訳経場に携わることでインド・西域・中国・新羅の仏教者と交流していた。このよ うに、法蔵は智嚴だけでなく、その他多くの学僧とも接触する中で独自の教学を体系づけていった。このことは彼の問題意識やうに、法蔵は智倫だけでなく、その他多く 思想形成に大きな影響を与えたに違いない。 本研究は当時の人的交流による影響を考慮しつつ、法蔵が自身の教学をいかに体系化し、最晩年までそれを展開していったの かについての詳細を明確にしようとする試みである。殊に、近年の学界では中国において仏教の根本教理である縁起が誤解され たという批判があったため、それを契機として法蔵の縁起解釈を慎重に解析する必要もあると思われる。。多角的な視点から検討 することで、華厳学祖としての法蔵とはまた異なる彼の姿が浮き彫りになり、法蔵のダイナミックさが鮮明になると期待される。 第一章では、法蔵の伝記資料を整理し、その上で信渥性が高い﹃法蔵之碑﹄を基にして彼の生涯を概観する。その際、中国の 正史書と中国古代に撰述された仏教史書を法蔵の伝記資料と対比することで、当時の仏教界の状況を浮き彫りにし、それを背景 序論 一 本研究は以下の五章より構成される。

二本研究の構成

本研究の対象と視点

-

(11)

1-的に把握してみたい。 第五章では、法蔵が壮年期から最晩年にかけて体系づけた如来蔵縁起説について詳細に解析する。その際、如来蔵縁起説の体 系づけを行っている﹃起信論義記﹄と﹃無差別論疏﹄における解釈を中心に考察し、それらに先行する﹃五教章﹄との比較から、 法蔵の教学における如来蔵縁起説の位置づけとその展開を検討する。先行研究では、法蔵の如来蔵縁起説はあまり考盧されてこ なかったように思われるため、その位置づけと展開を法界縁起説と関連づけて考察することで、法蔵が形成した仏教体系を総合 第四章では、法蔵の教学の中核となる法界縁起説を多面から考察する。その際、その先駆思想となる地論学派の縁起説や、智 侭および義相の解釈と比較検討し、併せて法蔵の諸著作にみられる思想的展開・解釈改変について分析することで、法蔵の解釈 かを検討する。 三点に絞って、 らが問題とした 第二章では、当時の律宗と関連づけながら法蔵の菩薩戒の解釈を分析する。法蔵が出家して居住した西太原寺で道成が上座を 勤め、彼の下に懐素急お︲二Jと文綱含獣︲己己が集い、﹃四分律﹄の研鑛が盛んに行われた。法蔵はそれに参加したと推測され、 実際、晩年には菩薩戒師を勤めることもあった。そのため、法蔵の菩薩戒師としての一面に着目して、彼の﹃梵網経疏﹄におけ る菩薩戒の解釈に当時の律学の影響を汲み取りながら、彼の教学における菩薩戒の位置づけを吟味する。 第三章では、玄檗ざs︲まちの翻訳が初唐の仏教界において無視できないほど大きな問題となって教義論争を引き起こしたが、 そういった背景を踏まえて法蔵の教学について考察する。法蔵には訳経僧としての一面があり、彼は訳経場で多くの学僧と接触 することで多くの情報を得ていた。その訳経場を通して法蔵と面識があった円測念&︲Sgと法宝念ご︲三つ頃︶を取り上げ、彼 らが問題とした﹃解深密経﹄の三転法輪説、渭弁︵雲碧言冨.お宝弓︶と護法e冨目9号︺出宝臼︶の空有論争、五性各別説という 三点に絞って、三者の解釈の相違点と共通点を吟味する。これにより、初唐仏教を背景にして法蔵の教学がいかに形成されたの 最後に、結論において本研究の考察を総括する。加えて、本研究によって法蔵を初唐仏教の中でいかに位置づけるのかについ ての結論を述ゞへる。最後に、本研究の問題点と今後の課題についてまとめる。 思想的展開を分析するために最重要の基礎作業となる。 にした法蔵の活動を把握する。次に、法蔵の著作の撰 法蔵の著作の撰 の特徴を明らかにする。 述年代については先行研究の成果を踏まえつつ再検討する。これは法蔵の −2−

(12)

1本研究では、中国において﹁華厳経﹂を註釈する中で打ち立てられた体系的思考を﹁華厳教学﹂と呼ぶ。特に、智傭と義相と法蔵の間で形成され た仏教体系を指して華厳教学の呼称を用いる。それに対して、菩提流支G︲箇己と勒那摩提︵︲吻罠︲︶が翻訳した世親造﹁十地経論﹄を中心に勉学した 系統を﹁地論学派﹂と呼ぶ。そして、真諦三蔵倉這︲獣巴が翻訳した無着の﹃摂大乗論﹄と世親の﹃摂大乗論釈﹄を中心に勉学した系統を﹁摂論学派﹂ と呼ぶ。それらを智侭以前の系統と位置叡つける、地論学派と摂論宗学派については金剛大學校佛教文化研究所編[こさ]、[弓。巴、吉村誠[ご己]や二 頁を参照。 2法蔵を華厳教学の大成者として捉える研究には織田顕祐[弓。]、鍵主良敬・木村清孝ロ這己、木村清孝ロ這巳、木村宣彰ロニ巴、竹村牧男[弓宅]、 玉城康四郎口宅と、中西俊英[ご一詮]、吉津宜英冒婁号]、吉津宜英[呂己巴、吉津宜英[ここ]、、言ご[ご言]、害ョ四﹃[ごS]が代表的である。 3義相の名前については伝統的に﹁義湘﹂と表記されるが、近年の韓国学界では﹁義相﹂と表記することが一般化している。義相の名前表記につい ては金知見[ちき巴を参照。 4本研究は高祖李淵G念︲a巴が武徳元年言屍︶に唐を建国してから玄宗皇帝急額︲誤巴が即位する先天元年︵。己までの約百年間を初唐と呼ぶ。 5批判仏教研究については伊藤隆寿[弓胃]、袴谷憲昭[ろ毛]、松本史郎[ち罠]を参照。 脚注 −3−

(13)

する下地になる。筆者の狙いはそこにある。 本章では法蔵を初唐仏教における一人の仏教者として把握するための某礎を築く。そこで、次の観点から考察を行う。まずは 伝記資料を通して初唐を背景にした法蔵の生涯と活動を概観する。その上で、従来の研究があまり注目しなかった法蔵の訳経活 動と訳経場における人的交流について検討する。次に、法蔵の教学と思想的展開を考察するに先立ち、彼の諸著作の撰述年代を 確定してみたい。偽作を除き、法蔵の真作と見倣される作品は十二部が現存している。著作間の引用関係に注目しながら、それ らの撰述年代を精杳する。この考察は初唐の中で法蔵を客観的、かつ正確に位置やつけるための試みであり、法蔵の教学を再評価 せない課題である。 学を大成していったことを見逃してはならない。 当時の仏教界において一大問題となった。この の学僧は新たな教学を構築していった。中でも、 法蔵は生涯を通して註釈書の撰述、﹃華厳経﹄の講義、仏典翻訳、国家との親交など多様な側面で活躍していた。法蔵が訳経塲 において当時の仏教界を率いた学僧たちと関わりつつ、独自の教学を形成していった。よって、法蔵がいかなる社会背景に自身 の教学を形成したのかという問題を解明することは、法蔵の教学に留まらず、延いては初唐仏教の全体を解明する上でも、欠か 初唐の中国仏教は国家の下に教団が統制され、歴代の皇帝による﹁一州一寺﹂の制度によって官寺が各州に設置された一・当時、 寺院は五千三百箇寺、僧は七万五千五百人、尼は五万五百人まで及んだといわれているぃ。また、大寺院には翻経院が設けられ、 国家的な事業として仏典の翻訳が盛んに行われた。その結果、インドより伝来した新訳経論や訳経僧との交流などによって初唐 の学僧は新たな教学を構築していった。中でも、玄檗の翻訳を起因として玄葵門下と一乗家との間に教義論争が勃発したことは、 当時の仏教界において一大問題となった。このように、初唐は中国仏教の最盛期となり、その真只中に法蔵が活躍し、自身の教

第一章法蔵の生涯と著作

序説 本論 −4−

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著作となる。 註釈文献︺を除けば、法蔵に関する伝記資料は二十種ほどが現存している。それらを成立順に列くると、次の頁のようになる。 それらの中で、閻朝隠︵生没年不詳︶が撰述した﹃法蔵之碑﹄は最も古く、かつ信瀝性が高い資料である。閻朝隠は﹁秘耆少 監﹂渠を務めた時に﹃法蔵之碑﹄を撰述したが、﹃旧唐耆﹄の閻朝隠伝吻によると、閻朝隠が刷耆少監を務めたのは先天年間。白︲。ど のことであった。したがって、先天元年︵ご巴に法蔵が亡くなってすぐに﹃法蔵之碑﹄は作成されたのであろう。ただし、それ は要点を簡略にまとめたものにすぎないため、網羅的な資料と言い得ない。 次に、﹃感応伝﹄は胡幽貞︵生没年不詳︶が撰述したが、それは法蔵の弟子惠英︵生没年不詳︶が集成した二巻の﹁感応伝﹂を 一巻にまとめたものである。。法蔵の活動に関する記述が数箇所に見られるため、参照す︾へき点が多い。﹃法蔵之碑﹄と﹃感応伝﹄ は現存する資料の中で、法蔵と直接に出会った人によって撰述されたものであり、それ以外は法蔵が亡くなってから後代の人の 後代に宗派の意識から法蔵が華厳宗の第三祖と位置づけられ、武則天︵在位色?ご巴との関係が誇張されるようになった。宗 密Gき︲室この﹃普賢行願品別行疏紗﹂壷はその典型例である。ところが、その史実の妥当性については疑義が提示されている建・ そのため、それに依拠した﹃法蔵和尚伝﹄などは法蔵の生涯を客観的に把握するために歴史的な資料として問題がある。 法蔵の伝記に関する先行研究三は多いが、従来の研究に対して筆者はできる限り、法蔵の生涯と活動を初唐の中に跡づけて把 握したい。そのため、澄観以前の資料を優先的に使用し、﹃法蔵之碑﹂を基礎の資料とする。 から、﹃法蔵和尚伝﹄は多様な問題を含んでいると言わざるを得ない。 ﹃法蔵和尚伝﹄は法蔵を華厳宗の聖人として描き出している側面が詮 法蔵の弟子慧苑の﹃華厳経蟇霊記﹄、澄観の﹃演義紗﹄などに基づい一 法蔵に関する伝記資料の中で最も詳細なのは新羅の崔致遠命当︲二念︶が撰述した﹃法蔵和尚伝﹄である・崔致遠は﹃法蔵之碑﹄、 蔵の弟子慧苑の﹃華厳経蟇霊記﹄、澄観の﹃演義紗﹄などに基づいて天復四年G宝︶に﹃法蔵和尚伝﹂を撰述した割。しかし、 法蔵和尚伝﹂は法蔵を華厳宗の聖人として描き出している側面が強く、かつ後代の資料から大きな影響を受けている。この点 第一節

第一項伝記資料の検討

法蔵の生涯

−5−

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−6− 伝記 逸話 伝記 伝記 逸話 逸話 逸話 伝記 逸話 逸話 逸話 逸話 伝記 逸話 逸話 逸話 伝記 伝記 種類 唐の閻 唐の胡 新羅の 宋の賛 宋の祖 宋の宗 宋の志 日本の 高麗の 元の肥へ 元の念 元の覚 元の呈一 明の株 明の周 清の弘 清の続 渭の心 露法壁克宏王岸常仲 一 復 然 宗磐鑑誘寧崔幽朝 性 致貞陰 、一仁 1塁 著者 三画年当己年 司雷年 C三年 C認年 巨童年 届当年 同色年 届誤年 届武年︲国二年 国室年頃 己主年 国望年 不明 困訟年︲ざ団年 忌S年 不明 示雪年 房童年 撰述年代 ﹃法蔵之碑﹄︵詞Pzoご堂︶ ﹃華厳経感応伝﹂言望之○邑三︶ ﹃法蔵和尚伝﹄︵扇Pzoご堂︶ ﹃宋高僧伝﹄︵国Pzoご色︶ ﹃隆興仏教編年通論﹄︵圏司・Z皀望ご ﹃釈門正統﹄命ごいzo扇国︶ ﹁仏祖統紀﹄︵三Pzoご観︶ ﹃華厳祖師伝﹄二 ﹃三国遺事﹄言お之○こご︶ ﹃歴朝釈氏資鑑﹂お弓抑zo孟弓︶ ﹃仏祖歴代通載﹄言乞乏○ご獣︶ ﹃釈氏稽古略﹄言宅・zogご︶ ﹃新脩科分六学僧伝﹄︵雷弓・zo固圏︶ ﹃華厳感応略記﹄︵圏弓・Z三笹ご ﹃歴朝華厳経持験紀﹄︵圏司蝿z三出全 ﹃華厳感応縁起伝﹄︵圏弓・Z○国圏︶ ﹃法界宗五祖略記﹂︵雷ゴ.zo扇ご︶ ﹃宝通賢首宗伝灯録﹂|“ 資料名

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ここでは﹃法蔵之碑﹄を基にして法蔵の生涯について概観する。法蔵の先祖は康居︵サマルカンド︶の出身であり、祖父の代 から長安に移民した§また、龍門石窟に発見された碑文には法蔵の母が﹁母尹氏﹂国と確認されているから、法蔵の母が漢民族 であったことが知られる。すなわち、法蔵は康居の三世と漢民族の混血であった。法蔵の先祖は移住者でありながら、社会的に 高位な立場にあった。その家柄は代々から康居国の﹁丞相﹂という官職を務め、唐の太宗皇帝︵在位s守全巴が法蔵の父に﹁左 術中郎将﹂という極めて高位な官職を任命した。このことについては﹃法蔵之碑﹄が以下のように記している。 このことから、法蔵は当時の貴族社会に比較的高い地位を持った家柄の出身者であったことが知られる。 法蔵が仏教に興味を持ったのは、十六歳の若年の頃からであった。長安の西南部にある太白山に遊行し、後に智侭に出会った と﹃法師之碑﹄は伝えている。 法蔵は十六歳の時に法門寺の阿育王舎利塔云において供養を行い、後に智侭の門下になった。﹃法界宗五祖略記﹄では﹃法蔵之 碑﹄にある﹁此後更遊太白雅描重玄﹂が一年間とされ、智傲の門下となったのが﹁顕慶四年﹂|吻︵a巴の時であったとされてい る。その説が妥当であれば、法蔵は十七歳の時に智僚の門下になったこととなる。いずれにせよ、法蔵は若い頃から智億の門下 法師の俗姓は康氏で、韓は法蔵である。 帝に左侍中︵正第三品︶の位を贈られた。

法師俗姓康氏、諄法蔵・累代相承為康居国丞相、祖自康居来朝・父誰皇朝贈左侍中。含窒麗雲︶

法師の俗姓は康氏で、毒は法蔵である。代々の先祖が康居国の丞相を務め、祖父が康居より中国にやってきた。父詔は皇 年甫十六煉一指於阿育王舍利塔前以伸供養。此後、更遊太白雅据重玄。間雲華寺僚法師講華厳経、投為上足・ 十六歳のはじめに阿育王舍利塔の前に一指を燃やして供養とした。その後、太白山に遊行して重玄をくむ・ 雲華寺に智傭が﹃六十華厳﹄を講じることを聞き、門下に投じて上足となった。

第二項生涯の概略

︵目切Pい函つご︶ ︵あるとき︶ −7−

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﹃旧唐耆﹄によると、高宗︵在位宝C︲霊どの妃楊氏G∼ヨeが逝去したのは威亨元年︵雪eの﹁九月甲甲、衛国夫人楊氏莞﹂g と記録されている。それを起因として武則天が冥福を祈ってその故宅を長安の西太原寺に改めることとなったい︸。この背景にお いて右記の﹃法蔵之碑﹄にある事情はその当時の公度制から考えると、皇帝が忌日の追善のために行った﹁度僧﹂のことを反映 しているのであろう。この場合は﹁特恩度僧﹂といわれ、唐代に盛んに行われることであったと指摘されている筒。特恩度僧と は﹁出家得度を得る道は、聖節や先帝の忌日の追善など、とくに君主の特別の恩恵によって行われる度僧﹂い︺のことと説明され ている。以上のことからすれば、妃楊氏が逝去したことを起因として武則天が追善のために西太原寺を立て、講座を開いて度僧 を行った際に、法蔵が﹁落髪﹂をして西太原寺に入寺したと考えてよかろう。 智僚の門下にいた時に、義相が同学であったことは﹃宋高僧伝﹄|・に紹介されている。﹃一二国遺事﹂では義相の留学が﹁龍朔元 年辛酉、入唐、就学於智傭。総章元年、億遷化。威亨二年、湘来還新羅﹂ごと述べられ、法蔵の﹃華厳経伝記﹄﹄産と合致して﹃一二 国遣事﹂は智侭が総章元年︵念巴に亡くなったとしている。﹃三国遺事﹄によると、義相は龍朔元年︵念こに入国して智傭につ いて華厳を学び、智傭が亡くなった後の威亨二年︵含己に新羅に帰国したという。﹃法界宗五祖略記﹄の記述と﹃三国遺事﹄の 記述を勘案すれば、法蔵は顕慶四年︵&巴に智僚の門下となった可能性があるのに対し、その二年後に義相は入門したこととな る。ところが、法蔵の﹃寄海東書﹄|cにあるように、法蔵は自身の著作の訂正を求め、新羅に帰国した義相に送ったことからす ると、智傭が亡くなってからの三年間に法蔵は義相に指導された可能性もあろう。 法蔵は十七歳の頃から智侭の下へ入って学んだが、その時点では正式に具足戒を受けていなかった。智億が亡くなり、義相が 後の威亨二年︵雪己に新羅に帰ったが、法蔵の出家はその間の威亨元年︵匂gに当たる。武則天が西太原寺を設立した時、法 蔵はそこにおいて正式に得度するに至った。﹃法蔵之碑﹄はこれについて以下のように言う。 になったことは間違いなかろう& 属栄国夫人奄損館舎末易斉衰、則天聖后、広樹福田、大開講座・法師策名宮禁、落髪道場、住太原寺・ 栄国夫人はにわかに館舎をすてて、まだ斉衰︵Ⅱ喪服︶をかえずに、そのとき、武則天は福田をたて、 た。法師は宮禁に策名して道場に落髪し、西太原寺に住した。 ︵目いつ狗酌つす︶ 大いに講座を開い −8−

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法蔵は落髪してから、経論の講義と註釈書の撰述と訳経を中心に活躍した。﹃感応伝﹄では、法蔵が垂拱三年急電︶、つまり西 太原寺に入ってから十七年後に﹃華厳経﹄の講義を行ったことが次のように述べられている。 このことから、法蔵は四十四歳からすでに﹃華厳経﹄の講義を担当する学僧となったことが知られる。また、ここで言及する 道成と薄塵は地婆訶羅︵皀急富国⑫ヨC入国ふ雪︶の翻訳にも参加しており里、﹁当時の長安を代表する大徳であった﹂い“ともいわれ ている。したがって、法蔵は壮年期から﹃華厳経﹄を担当する学僧でありつつ、当時の大徳と交渉していたのである。また、右 に登場する道成と薄塵は﹃法蔵和尚伝﹂に智僚が遷化のとき、法蔵の出家と教育を託した学僧であることは注目に値するぃ。。 法蔵は五十歳代の時から積極的に翻訳に参加しており、実叉難陀︵鴎雨宮目烏ゞ宅切入国︲三sと﹁八十華厳﹄を翻訳することとな った。その翻訳について﹃法蔵之碑﹄は﹁証聖年中、奉勅、与干閻国三蔵実叉難陀、訳華厳経﹂ごと記録している。さらに、そ の翻訳が終わると、﹃感応伝﹄は法蔵が実叉難陀訳﹃八十華厳﹄を講義したと述べている。 華厳関連の翻訳が完成すると、法蔵が﹃華厳経﹄ 講華厳経、三十余遍﹂里とあり、慧苑などは法蔵を 華厳教学を代表する学僧は法蔵であったと窺われる。 垂拱三年四月中、華厳蔵公於大慈恩寺講華厳経。寺僧曇術為講主。散講設無遮会。後蔵公往崇福寺、巡謁大徳成塵二律師。 垂拱三年急雪︶四月中に、華厳蔵公︵法蔵︶は大慈恩寺において﹃華厳経﹄を講義した・寺の曇術が講主であった。講義 が終わると、無遮会を設けた。その後、法蔵は崇福寺︵以前の西太原寺︶に行き、大徳の道成と薄塵の二律師をたずねた。 至聖暦二年十月八日、訳新経詑。詔請蔵公、於仏授記寺、講此新経・ ︵弓m一J昌司②ず︶ 聖暦二年︵宅巴十月八日に至り、新しい﹃八十華厳﹄を訳し終える。法蔵は皇帝の詔請を受け、仏授記寺において新訳の ﹃八十華厳﹂を講義した。 の講義を行ったことは定例のようであった。﹃法蔵之碑﹂にも法蔵が﹁前後、 ﹁華厳和上﹂gと尊称していたこともあった。このことから、初唐において ︵目吻戸昌司吻○︶ −9−

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以上のように、法蔵は壮年期から最晩年にかけて訳経事業と註釈書の撰述に心血を注いだ。法蔵は当時の華厳教学を代表する 人物である一方、註釈家・翻訳家・講師・菩薩戒師といった多様な役職で仏教を勉学・布教した。 法蔵は最晩年を大薦福寺で過ごした。﹃法蔵之碑﹄と﹃法蔵和尚伝﹂︺いが法蔵を大薦福寺の僧として扱っているのは法蔵が最晩 年に大薦福寺における翻訳に参加したときに、亡くなったからであろう。﹃法蔵之碑﹄はそれについて以下のように記している。 ﹃仏祖統紀﹄︺|にもこのエピソードが景雲元年 蔵は壮年期から国家事業である訳経に参加してい 蔵は皇帝の菩薩戒師として任命されたのであろう。 また、右記の﹁菩薩戒経﹂の註釈耆は法蔵の﹃梵網経疏﹄を指しているが、法蔵は註釈耆を撰述しただけでなく、﹁太上皇﹂ 菩薩戒を授けたことがあったため、菩薩戒師の側面もあった。そのことについて﹃法蔵之碑﹄は以下のように述べている。 ことがわかる。 註釈を加えた 翻訳であり、一 註釈耆につい一 翻訳と講義の間に、法蔵は多数の註釈耆を撰述している。法蔵の著作の中に現存しないものはあるが、﹃法蔵之碑﹄では法蔵の 釈耆について﹁榴伽、密厳経、起信論、菩薩戒経、凡十部為之義疏、閨其源流﹂ごと述べられている。﹃榴伽経﹄は実叉難陀の 訳であり、﹃密厳経﹄は地婆訶羅の翻訳であり、その他には提雲般若︵ロ①ぐg弓筈且註︺入国二F$巴の翻訳﹃無差別論﹄に対して 釈を加えた﹃無差別論疏﹄もある。このことから、法蔵は当時の新訳が終わった途端に、註釈書を撰述したことが多くあった 先天元年歳次壬子十一月十四日、終於西京大薦福寺、春秋七十・其年十一月二十四日、葬於神和原華厳寺南。弓昌易言︶ 先天元年︵ご巴十一月十四日に西京の大薦福寺に七十歳で亡くなった。十一月二十四日に神和原の華厳寺の南に葬る。 の万機、袴・衣の四海を脱して菩薩戒を受ける。 よく考えると、聖の帰依する所であり、皇帝の回向する所である。ここに旨を整って、菩薩戒師となる。太上皇は、履物

惟、聖之所帰依、惟旱之所迺向・簑降倫旨、為菩薩戒師・太上皇、脱雁万機、襄衣四海、亦受菩薩戒。︵詞己き豆

コニ︶に春宗︵在位二や$C・二?ご巳の受戒と関連させて述べられている。法 る間、皇帝と交渉することもあったと思われる。その結果、晩年期になった法 に -

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10-玄葵以後、地婆訶羅を初めとして提雲般若、菩提流志己○今言昌乞い入国︲己も、実叉難陀などが招かれ、長安と洛陽を中心に訳 経を行った。さらに、義浄は証聖元年︵宅巴にインドの遊学から帰国し、翻訳活動を開始した︹︺初唐の仏教は仏典翻訳によって 隆盛し、その場に参加した学僧の間では教学的な交渉もあったのであろう。その当時、﹁訳経事業を帝王が保護・奨励するために、 訳場が宮殿内や禁苑に設けられたこと﹂︺︺があったと鎌田茂雄氏が指摘しているように、訳経は国家事業として運営された。法 嚴︸﹂ま沢径曽の一面があったため、ここでは当時の訳経場における人的交流に注意を払いながら、法蔵の訳経活動を検討する。 蔵には訳経僧の一面があったため、ここでは当時の訳経 これは法蔵の教学を初唐に跡づけるための第一歩となる。 まず、法蔵は﹁探玄記﹄に地婆訶羅との翻訳について称 て 以 ここでは、法蔵が地婆訶羅と﹃六十華厳﹄﹁入法界品﹂にある欠文を補うために、翻訳を行ったことが伝えられている。右記の 翻訳は、地婆訶羅が垂拱元年︵宴巴に西太原寺において翻訳した﹃続入法界品﹄一巻のことであろう望。﹃大周目録﹂︺“によると、 地婆訶羅が永隆元年︵宴9に洛陽で翻訳を行い、後の永淳二年︵衾い︶から法蔵がいた西太原寺で翻訳を行った。そのため、﹃探 玄記﹄における﹁永隆元年﹂は﹁永淳二年﹂の誤写なのか、それとも地婆訶羅の入国年間を指すのか、両方の可能性はあろう。 ﹃探玄記﹄巻一一十にも﹁余、共日照三蔵、勘天竺諸本及罠需本、井干間別行本、竝皆同有此文﹂﹂。とあり、法蔵は地婆訶羅と ﹁入法界品﹂の欠文について異本との比較を行ったことが記されている。地婆訶羅訳﹃続入法界品﹄は現存する﹃六十華厳﹄の ﹁入法界品﹂弓にも導入されていることから、右記の﹃探玄記﹄の信瀝性が高い。それは法蔵が初めて参加した翻訳事業である。 今、大唐、 訳出補之。 大唐永 今、大唐の永隆元年︵宴g三月の内にインドの三蔵地婆訶羅、唐では日照というものがおり、私法蔵はこの一品︵入法界 品︶の梵文を︵地婆訶羅と︶ともに親しく校勘した。︵﹃六十華厳﹄に︶欠文を見つけたので、勅を奉じて沙門道成や復礼な どとともにこれを訳出して補った。

第三項法蔵の訳経活動

隆元年三月内有天竺三蔵地婆訶羅、唐言日照、有此一品梵本、法蔵親共校勘。至此欠文、奉勅与沙門道成復礼等 下のように記している。 ︵弓いい二三四︶ 罪︵入法界 -

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11-昌元年急電︶の頃に長安から神都に移動した。 ﹃大周目録﹂舅によると、提雲般若が魏国東寺で永昌元年急電︶に﹃修慈分﹄を、天授二年︵宅己に﹃不思議境界分﹂などを 翻訳した。すなわち、提雲般若は地婆訶羅と異なり、神都のみで翻訳を行ったのである。それは武則天が載初元年︵宅9に都を 長安から神都に移したからであろう患。したがって、地婆訶羅が亡くなって以後、法蔵は提雲般若の翻訳に参加するために、永 法蔵の﹃無差別論疏﹄にも﹁余以不敏、狸蒙微召、既預翻訳、得観宝衆﹂さとあり、法蔵が召勅を受けて提雲般若の翻訳に預 かり、宝衆︵梵本︶全を見ることができたと記される。﹃無差別論疏﹄はその翻訳列位について﹁沙門慧智等訳語・沙門法華筆授。 法蔵の得度を推薦した道成と薄塵と並んで玄葵門下である嘉尚︵生没年不詳︶と円測が地婆訶羅の翻訳に参加しているが、法 蔵の名は記録されていない。法蔵自身の著作から判断すれば、彼はその場にいたに違いない。しかし、列位に法蔵の名がないこ とは、法蔵が正式に翻訳の職業を担当していなかったからかもしれない。 地婆訶羅の後、法蔵は提雲般若の翻訳に参加することとなった。提雲般若は永昌元年言ご︶に入国し、洛陽、つまり当時の神 都で翻訳を行った。法蔵は﹃探玄記﹄に提雲般若の翻訳について以下のように述べている。 ﹃開元録﹄は地婆訶羅の翻訳列位について以下のように述・へている。

近於神都共干閻三蔵翻華厳修慈分一巻、不思議境界分一巻、金剛鬘分十巻・此分翻未成一二蔵亡残。︵己些呂巴

近頃、神都︵洛陽︶にコータンの一二蔵︵提雲般若︶とともに﹃華厳修慈分﹄一巻、﹃不思議境界分﹄一巻、﹃金剛鬘分﹂十 巻を翻訳した。しかし、この分︵金剛鬘分︶を完成せずに、三蔵が亡くなった。 等綴文筆受。 沙門戦陀般若提婆は訳、沙門慧智は証梵語であって、勅召して大徳十人がその法化を補助する。沙門道成、薄塵、嘉尚、 円測、霊弁、明恂、懐度、などは証義、沙門思玄、復礼などは綴文筆受の任位に当たった。 沙門戦陀般若提婆訳、沙門慧智証梵語、勅召名徳十人助其法化。沙門道成薄塵嘉尚円測霊弁明恂懐度等証義、沙門思玄復礼 ︵弓いいいか令四︶ -

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12-沙門復礼綴文。沙門円測、言端、弘景等証義﹂台と紹介している。以上のことから、法蔵は地婆訶羅や提雲般若の訳経場におい て円測・弘景念豈︲ヨピ・復礼︵生没年不詳︶などと交流していることは間違いない。 法蔵の著作以外に、法蔵が地婆訶羅と提雲般若の翻訳に参加したことを確認することはできないが、それ以後の実叉難陀の翻 訳に初めて法蔵の名が明記される。すでに見たように、﹃法蔵之碑﹄は実叉難陀の翻訳に参加したことに言及しているぉ・ 実叉難陀が﹃八十華厳﹄を翻訳した際の列位を検討すると、証聖元年︵宅巴三月十四日に神都の大内遍空寺に翻訳を行う時に ﹁沙門法蔵綴文﹂堂とあり、法蔵の名が記されている。すなわち、﹃八十華厳﹄の翻訳が開始された証聖元年︵宅吻︶に法蔵は﹁綴 文﹂の役割を担当したのである。その他、聖暦二年︵Sc︶に﹃八十華厳﹄の訳了について記す﹁総目編纂参加﹂では復礼、法宝、 弘景、義浄と並んで法蔵が﹁翻経大徳大周西寺僧法蔵審覆﹂鐸・と記される。中国で発見された石瞳に刻まれた実叉難陀訳﹃八十 華厳﹄の題記にも﹁翻経大徳大周西寺沙門法蔵証義﹂念とあり、法蔵が証義の役職として記録されている。 ﹃八十華厳﹄の他にも、聖暦二年︵宅C︶十月八日に実叉難陀が翻訳した﹃大方広如来不思議境界経﹄の訳場列位に﹁訳梵本﹂ として実叉難陀と義浄の名が挙げられ、その他に﹁翻経大徳大周西寺僧法蔵筆受﹂と﹁翻経大徳崇先寺上座僧法宝証義﹂sと記 さている。これらの列位によって法蔵は実叉難陀の訳経場において綴文・審覆・筆受・証義といった多様な役を勤め、法宝と義さている。これらの列位によって法藏 浄と同じ訳経場にいたことが知られる。 当時の訳経場において法蔵が務めた綴文・審覆・筆受・証義はいかなる役割であったのか。﹃宋高僧伝﹄↑︽によると、筆受と綴 文は同じ役職であったが、それは漢語と梵語に精通しなければならない役割であるため、﹁訳主﹂すなわち一二蔵法師の次に翻訳に とって最重要な役割である。﹁筆受﹂が梵語を単語レベルで漢字に置き換え、次に﹁綴文﹂が語順を入れ替えて有意味な文とする・ 訳経場で実際に訳した人は筆受と綴文であったと指摘されている名。また、﹁証義﹂は﹁審覆﹂ともいわれ、すでに翻訳された経 文の内容を調査し、その意味に誤謬がないことを考証する役割である“二。したがって、法蔵は梵語と漢語に精通していたからこ そ、こういった多様な役割ができ、実叉難陀の訳経場に不可欠な存在であったことがわかる。 こうして、法蔵は実叉難陀の訳経場で菩提流志や義浄などの一二蔵法師、玄葵の唯識学派を批判した法宝などとともに翻訳の任 こ当岸﹂って八る。初吾において教義論争に関心を持った学僧たちが訳経場を通して交流していることは、当時の仏教界の実態を に当たっている。初唐において教義論争に関心を持った 把握する上で重要なポイントになると筆者は考えている。 ﹃八十華厳﹄を翻訳した後、法蔵は実叉難陀と弥陀山︵二言の①目.生没年不詳︶の﹃榴伽経﹄の翻訳に参加することとなったが、 − 13−

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久視元年︵三sの翻訳列位を見ると、神都の一二陽宮に実叉難陀が主訳、復礼が綴文、法宝が証義となるが、法蔵の名はない竺・ しかし、右の﹃入榴伽心玄義﹂の記述からすると、法蔵は﹃榴伽経﹄の翻訳に参加していたことがわかる。 法蔵の﹃般若心経略疏﹄の奥書にも﹁法蔵、長安二年、於京清禅寺、翻経之暇﹂圏とあることに注目しよう。この記述から、﹃榴 伽経﹄が清禅寺で翻訳されている最中の長安二年︵ご巳に法蔵はそこにおいて﹃般若心経略疏﹄を著したことがわかるからであ る。後述するように、その前後に法蔵は義浄の翻訳に参加することとなっていたため、その結果﹃榴伽経﹄の翻訳列位に明記さる。後述するように、その れなかった可能性があろう。 ﹃榴伽経﹂の訳了の後に、法蔵は﹃入榴伽心玄義﹄に登場する弥陀山と﹃無垢浄光陀羅尼経﹂を翻訳することとなった。それ について﹃開元録﹄は以下のように述べている。 それも法蔵の著作以外に確かめることができない。法蔵は﹁入榴伽心玄義﹄に以下のようにいう。 於天后代共実叉難陀、訳大垂 天后の代において実叉難一 羅尼経﹂の一部を翻訳した。

今、この︵﹃大乗入榴伽経﹄の︶一本は大周の聖歴一一年︵宅巴に干闇の三蔵実叉難陀が神都の仏授記寺で﹃八十華厳﹄を 訳してから、ついでに勅を受けて﹃榴伽經﹄を再訳したが、文が完備しないうちに、経典は車で京︵長安︶に運び入れられ て、情禅寺に安置された。鹿訳の後、再勘をしないうちに、実叉難陀三蔵は勅を奉じてコータンに帰ってしまった。長安二 年GB︶に至ってトカラ出身の三一蔵弥陀山というものがいてインドで二十五年を過ごして三蔵を悉く窮めて、その中でも﹁榴 伽経﹄に最も精通していた。勅を奉じて一緒に訳経の作業をした。沙門復礼や私法蔵などが再勘した。 奉勅令共翻経。沙門復礼法蔵等、再更勘訳。 清禅寺。鹿訳畢猶未再勘、一二蔵奉勅帰蕃。至長安二年有吐火羅三蔵弥陀山、其初曾歴天竺二十五年、備窮一二蔵、尤善榴伽。 今、此一本即大周聖暦二年干間三蔵実叉難陀、於神都仏授記寺訳華厳了、尋奉勅令再訳榴伽、文猶未畢陀駕入京令近朝安置

入樗伽経・後於天后末年共沙門法蔵等、訳無垢浄光陀羅尼経一部。︵詞想念o︶

て実叉難陀とともに﹃大乗入樗伽経﹄を翻訳した。後に、天后末年に沙門法蔵などとともに﹃無垢浄光陀 ︵弓四℃単いつす︶ -

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14-ここでは﹃榴伽経﹂の翻訳と﹁天后末年﹂のことが記録されているため、法蔵が﹃枅伽経﹄の翻訳にいた時からトカラ出身の 弥陀山と親交し、その後に﹃無垢浄光陀羅尼経﹄を一緒に翻訳したことは知られる。﹁無垢浄光陀羅尼経﹄の翻訳について法蔵の 名のみが挙げられていることは、法蔵が訳経僧として高位な立場にあり、梵語に極めて精通していたから、少人数のみで翻訳し たからであろう。 義浄が大足元年︵ここ九月に神都の大福先寺に翻訳した﹃根本薩婆多部律摂﹄“︺の列位に﹁翻経大徳大福先寺主沙門法蔵﹂、﹁翻 経大徳崇先寺上座沙門法宝﹂、﹁翻経大徳大福先寺沙門勝荘﹂“葉と見られる。そして、後の長安三年G己︶に翻訳した﹃金光明最 勝王経﹄の列位にも﹁翻経沙門七宝台上座法宝証義﹂、﹁翻経沙門大周西寺寺主法蔵証義﹂、﹁翻経沙門大福先寺勝荘﹂.。とある・ これらの翻訳は実叉難陀と弥陀山が﹃樗伽経﹄を翻訳している間に行われた。 ﹃入榴伽経心玄義﹄の記述とこの訳経列位から法蔵の活動を考えれば、法蔵は﹁八十華厳﹄が翻訳された後、大足元年︵三己 に神都の大福先寺︵東太原寺︶の寺、王として義浄の翻訳に参加し、後の長安二年。s︶に長安に戻り、清禅寺で行われた﹃榴伽 経﹄の翻訳に参加していた。そして、後に大周西寺の寺、王と任命され、再び義浄の翻訳に参加することとなった。義浄と実叉難 ︵生没年不詳︶などが参加していることも注目に値する。 最晩年に法蔵は義浄と菩提流志の翻訳に参加することとなる。﹃開元録﹄は義浄の翻訳について以下のように述べている。 実叉難陀の翻訳に参加した法宝は義浄の訳経塲にもおり、法蔵と並んで証義に当たっている。その他、玄葵系統に属する勝荘 初共干閻三蔵実叉難陀、翻華厳経、 訳金光明最勝王。︵中略︶北印度沙︷ 勝荘、神英、仁亮、大儀、慈訓等証義。 翻 華 厳 経 、 初めにコータンの三蔵実叉難陀とともに﹃八十華厳﹄を翻訳したが、久視年間︵二s以後はみずから翻訳する。すなわち、 久視元年︵二sより長安三年︵三巴にかけて東都の福先寺および西京の西明寺において﹃金光明最勝王﹂などを翻訳した。 ︵中略︶北インド沙門阿傭真那が証梵文義、沙門波需、復礼、言表、智積などが筆受証文、沙門法宝、法蔵、徳感、勝荘、 神英、仁亮、大儀、慈訓などが証義に当たる。 久視已後、方自翻訳。即以久視元年庚子、至長安三年癸卯、於東都福先寺及西京西明寺、 北印度沙門阿傭真那証梵文義、沙門波需、復礼、慧表、智積等筆受証文、沙門法宝、法蔵、徳感、 ︵自切脚momo︶ -

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15-義論争に関わった法宝、勝荘、慧沼さ妄︲ご全などと交流していた。 以上のように、法蔵は地婆訶羅より始め、訳経事業に参加し、当時の仏教界の最先端に立った学僧と親交があった。その人的 交流と訳経場から得ていた情報や新訳との接触は法蔵の思想形成に大きな影響を与えたと考えられる。法蔵の教学を考察する上 その後、法蔵は最晩年に大薦福寺で行われていた義浄と実叉難陀の翻訳に再び参加することとなった。﹃続古今訳経図紀﹄では それが久視元年︵二sから景雲二年︵ご己までの翻訳事業であり、その列位に﹁沙門法宝、勝荘、神英、仁亮、慧沼、法蔵、 等証義﹂②画とある。法蔵が証義を務めたことはわかる。こうして、法蔵は最晩年に大薦福寺において証義を務めながら初唐の教 法蔵が証義を任命されたことはわかる。 その当時、官寺は上座、寺、王、都維那という三綱の官職によって管理されたが、法蔵が任命された﹁寺主﹂とは寺院の事務を 代表する責任者であった獣。翻訳列位からすれば、法蔵が大福先寺と大周西寺の寺主を務めたことがわかり、それは当時の仏教 界において法蔵が高位な学僧であり、政治的な役割として皇帝とも親交していたことを反映しているのであろう。 提雲般若に引き続き、長寿二年︵宅巴に入国した菩提流志は開元十二年。里︶まで翻訳を行った。その間、法蔵が菩提流志 の翻訳に参加したのは神龍二年G念︶に行われた﹃大宝積経﹄の翻訳である。﹃法蔵之碑﹄では﹁神龍年中、又与干閻三蔵、於 林光殿、訳大宝積経﹂吻劃とあり、その列位にも﹁沙門勝荘、法蔵、塵外、無著、深亮、懐迪等証義﹂農とある。このことから、 陀の訳経場を通して法蔵は法宝や勝荘などと交流が多くあった。 で、法蔵の訳経僧としての側面は見逃してはならないと言えよう。 以上で、法蔵が参加した翻訳の詳細を図示すると、次の頁のようになる。 − 16−

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- 17-義浄 菩提流志 弥陀山 実叉難陀 提雲般若 地婆訶羅 訳 王 大足元年 長安三年 久視元年−景雲二年 神龍二年 天后末年 景龍二年l景雲元年 久視元年l長安四年 証聖元年l聖暦二年 永昌元年−天授二年 永淳二年l垂拱三年 年間 神都大福先寺 西明寺 大薦福寺 大内仏光殿 西京情禅寺 大薦福寺 西京情禅寺 仏授記寺 東都大内大遍空寺 魏国・大周東寺 西太原寺帰寧院 訳経場 根本薩婆多部律 金光明最勝王経 観所縁論釈など 大宝積経 無垢浄光陀羅尼経 樗伽経 八十華厳 無差別論など 不思議仏境界分 密厳経など 翻訳典籍 波慧 需表 ● ● 復玄 礼傘 並主聿 日 ,忌 敬覚 ● ● 履宗 方 一 法蔵 復法 礼蔵 ● ● 玄執 波需 虚 一● 復 礼 思玄・復礼 筆受・綴文 神勝法 英荘蔵 ● ● ● 仁慧法 ■1 ロ ワロ 沼宝 法蔵 塵外 ● ● 無勝 著荘 法蔵 法宝 法藏・弘景 円徳 測感 ● ● 言弘 端景 道成・薄塵 嘉尚・円測 証義

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法蔵は智傭の晩年の教学を継承し、後に独自の展開を一不 法蔵の教学的発展を把握するために、現存する彼の著作の 作の撰述年代を推定した研究には、次の三つに注目するき・ 後に独自の展開を示 法蔵には多数の著作が現存している。目録によって著作の名前を確認することができるものの、現存しない著作もある。著作 間の引用関係と著作の構成からみて、確実に法蔵の真撰であると見倣し得て、かつ先行研究において偽作の問題が提示されたこ ともない現存する作品は十二部である。それらを筆者が考える撰述年代の順番に列挙すると、以下のようになる。 ①﹁五教章﹄四巻︵三幼zo屍ま︶ ②﹃十二門論宗致義記﹄二巻︵亘牌 ③﹃華厳経伝記﹄五巻言望﹀zoご己︶ ④﹃華厳経文義綱目﹄一巻言観・zo ⑤﹁梵網経菩薩戒本疏﹄六巻︵二戸 ⑥﹃華厳経探玄記﹂二十巻︵己いzo ⑦﹃大乗起信論義記﹄三巻︵三余z○ ⑧﹃大乗法界無差別論疏井序﹄一共 ⑨﹃寄海東書﹄一通︵﹃円宗文類﹄ ⑩﹁華厳経旨帰﹂一巻︵三いz○一雪己 ⑪﹃般若波羅蜜多心経略疏﹄一巻 ⑫﹃入樗伽心玄義﹂一巻言ご〃z三首 ﹁ 般 若 波 羅 蜜 多 心 経 略 疏 ﹄ 一 巻 ﹁大乗法界無差別論疏井序﹄一巻 ﹃華厳経探玄記﹂二十巻︵己いzo ﹃華厳経文義綱目﹄一巻言観・zo ︵弓今牌 第二節 ヨ 出 ・ z o 弓 届 ︶ ﹃入樗伽心玄義﹄一巻言邉・Z○コ二︶ ︵ 三 舎 z 三 田 巴 ﹃寄海東書﹄一通︵﹃円宗文類﹄所収圏巽︺z○二嵐︶ 弓 出 ︶ ﹃大乗起信論義記﹄三巻︵三余zo易さ︶ 弓 豈 ︶ ﹁梵網経菩薩戒本疏﹄六巻︵三Pzo夷屋︶

第一項先行研究の理解とその問題点

法蔵の著作とその撰述年代

z○房いひ︶ していき、晩年になるほど如来蔵縁起説の体系づけに心血を注いだ。 現存する彼の著作の撰述年代とその前後関係を整理せねばならない。これまでに法蔵の著 -

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18-第二は、木叩 説を提示した。 木 村 第一は、小林實玄氏の研究であ として撰述年代の仮説を提示した。 小林實玄氏の研究であ 著作を除いた。順番は小林氏の研究による。 第三は、吉津宜英氏の研究である。吉津氏は撰号にあ 点から分析し、それによって撰述年代の仮説を提示した・ 三氏の仮説を対照して図表で示しておくと、次の頁の 吉津氏は撰号にあ 次の頁の 表によって分かることは、三氏の理解は大体の点では一致するが、細部において異なるということである。﹁長安志﹄によると、 法蔵が居住した西太原寺は威亨元年九月︵ヨ9に建立され、垂拱三年十二月急電︶に魏国西寺と改号され、後の載初元年五月 六日言二︶に崇福寺と再び改号されたことが知られる。一・小林氏と木村氏はこの寺号の改号年代を法蔵の著作と整合させたが、 両者の間で見解が異なることから更なる検討の余地はあると思われる。著作の内容まで分析した吉津氏は、両氏とはまた別の理 7二p−,含一。今、〆.︽。 ・一、ノ、。一︲心、..〃一一一1,1、一ロ、﹄︵令r︲昼。、、ノ典、、,○ 解を提示したこ とについても注意せねばならない 筆者は三氏の説について以下の問題点があるし 現存する法蔵の著作は原本によって撰号にある寺 玄記﹄、﹃起信論義記﹄、﹃無差別論疏﹄、﹁入榴伽 筆者は三氏の説について以下の問題点があると 考えている。まずは、寺号のみによって撰述年代を確定することができるのか・ 現存する法蔵の著作は原本によって撰号にある寺号が異なり、或いは寺号が付されていない場合もある。次に、﹃文義綱目﹄、﹃探 玄記﹄、﹃起信論義記﹄、﹃無差別論疏﹄、﹁入榴伽心玄義﹄の撰述年代をめぐって三氏の説の間に大きな差異があるため、引用文献 や訳経僧の記述などの観点から再び精査する必要があろう。次に、そもそも三氏が提示した成立順序は法蔵の教学的展開に相応 しいのか。三氏の理解が一致しない﹃五教章﹄、﹃文義綱目﹄、﹃探玄記﹄、﹃華厳経旨帰﹂の前後関係を確定することは、法蔵の教 学的展開を考える上で、極めて重要な点となる。最後に図表で示していないが、偽作と考えられるものは三氏の説に含まれてい る。ゆえに、法蔵の著作について真作と偽作の区別を明白に付けねばならないという問題があるが、その検討については今後の 課題となる己。 清孝氏の研究である。木村氏は法蔵の生涯を論じる際に、付論として撰号にある寺号を手掛かりに撰述年代の仮 る。小林氏は撰述年代を推定するために、撰号にある寺号と地婆訶羅に関する記述を手掛かり る 寺 号 、 ようになる。 訳経僧に関する記述、著作間の引用関係、教理の比較などの諸 ただし、図表では近年の研究において偽作の可能性がある -

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19-めて撰述年代の問題について再検討してみたい。そこで 以下の方法を用いる。 第一は、法蔵の諸著作における訳経僧に関する言及や新訳経論の引用から見た分析である。法蔵は註釈書の中において﹁部類 以上のように 第二項 著作 先行研究では法蔵の著作の撰述年代が明確化されつつあるが、不明点が残されている。そのため、︸ご﹂では改 の

撰述年代

についての 検討 法蔵の十二部の著作それぞれの撰述年代と前後関係を確定するために −20− 華厳経文義綱目 華厳一乗教分記 十二門論宗致義記 大乗起信論義記 梵網経菩薩戒本疏 無差別論疏 華厳経探玄記 華厳経旨帰 華厳経伝記 寄海東書 般若心経略疏 入樗伽心玄義 耆名 麓]年前後 霊C年ふ宝年 ・雪年以前 Sc年以前 Sc年以前 色一年以後 勇C年さ這年 宅]年以後 $一年以後 $い年 こい年 二四年以後 小 林 ロ 君 ○、 1 1 $﹂年省三年 ③雪年以前 。宝年さ顕年 α雪年︲SC年 ③雪年ふき年 宅一年ふ胃年 α雪年ふ褐年以後 ③窒年ふ胃年 宅一年当三年 $い年 ご画年 劃三年︲三m年 木村冒這己 乞い年ふ三年 婁吻年以前 ・駅年さ雪年 宅③年以後 ③雪年ふき年 宅α年以後 乞い年以後 $一年 宅っ年当局年 二つ年頃 J己年 二m年 吉 津 ロ ー 巴

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伝訳﹂ 照すれば、それに基づいて撰述年代を解明することができる。第二は、彼の著作間における引用関係による分析である。引用関 係から見て著作の前後関係を推測することができる。 本と同じであるが 教章﹂を指していると考える。その理解が妥当であれば 本意に近いと考えられている童。筆者もその立場を取る。 理分斉﹂ している。原本の間、題号と十門配列が相違し、文章にも多少の文字違いがある。 ていきたい。 欠な課題になる。 とが知られる。また の﹃釈華厳教分記円通紗﹄が別のテキストを伝え、それが錬本とされているa。したがって ことは、法蔵の教学的発展を考察するための基礎作業となるからである。以下は、筆者が推定する成立年代の順序に沿って論じ り、﹃五教章﹄の撰号にある寺号は多様であり の間に対応する内容が多く見られる3.法蔵の教学的展開を把握するためには 和本の構成は﹁建立一乗﹂、﹁教義摂益﹂ これらの方法によって筆者は精密な分析に基づいて法蔵の諸著作の撰述年代を確定したい。著作の成立年代と順序を確定する さて、﹃五教章﹄の撰号については和本が﹁魏国西寺﹂ ﹃探玄記﹄﹁明立教差別﹂に﹁上来 ﹃五教章﹄のテキストについては八世紀半ばに日本に伝来した和本、と宋代の註釈家が用いた宋本がある。また、均如e出︲君巴 ﹃五教章﹄の撰述年代に関しては、その上限と下限を定めよう。まず ①﹃華厳一乗教分記﹂︵﹃五教章﹂︶ の科を設け ﹁所詮差別﹂の十門よりなる。 そこに当時の翻訳事情が記録されている。そこに記載される法蔵自身による情報を他の経典目録の記述と対 題号が和本と一致する。近年においてはいずれが法蔵の原本であったのかが問題となったが これまでの研究では注目されてこなかったが

分教開宗粗陳梗概。広引教理、具明義相 一方、宋本が﹁第九所詮差別﹂と﹁第十義理分斉﹂という順番になる。錬本の構成は宋 ﹁古今立教﹂ これがそのまま撰述年代を確定させる根拠にならないと前に述べたとおりである。 ﹁分教開宗﹂、 法蔵は﹃五教章﹄を華厳の 宋本と錬本が﹁唐大薦福寺﹂や﹁大崇福寺﹂と表記している3. ﹃五教章﹄﹁所詮差別﹂と﹃入榴伽心玄義﹄﹁義理分斉﹂と ﹁乗教開合﹂、﹁起教前後﹂、 ﹃五教章﹂﹁義理分斉﹂に義相の﹃一乗法界図﹄からの

如別記説﹂3とあり、言及する﹁別記説﹂は﹃五 ﹃五教章﹄と﹃入榴伽心玄義﹄の比較研究が不可 ﹁分教開宗﹂ ﹃五教章﹄には三種類の原本が現存 ﹁決択其意﹂ の綱要書として考えていたこ ﹁施設異相﹂、﹁義 和本が法蔵の つま

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