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真宗研究45号 005青山法城「親鸞聖人における仏身論」

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Academic year: 2021

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四 四

親驚聖人における仏身論

本願寺派

序 親鷺聖人における仏身論を伺うに、二身論、三身論、四身論の三種類を数えることができる。それぞれについては、 神子上恵龍氏の﹃弥陀身士思想展開史論﹄﹁第六章親鷲の弥陀仏身論﹂に詳細に検討されているので、今論考にお いては再度の詳細検討をすることは差し控えることにする。しかし、神子上氏が﹁これと同時に曇鷲の二種法身説を 伝承して弥陀仏身を説明することも宗祖の特色である。若し二種法身説を四身説中に属せしめない見解を暫く採らな 一面に於て宗祖は法性法身と方便法身の二身を以て弥陀の仏身を説明するものと解することも許さるべ きである。﹂と指櫛される如く、二種法身説をもって親鷺聖人の仏身論として捉えても差し支えないであろう。そこ で、今論考においては、親鷺聖人の二種法身説を仏身論の中核と位置付け、その二種法身説について、﹃唯信紗文意﹄ 等の和語聖教を中心にして考察することにする。さらに、﹃唯信紗文意﹂に見られる この心に誓願を信楽するがゆへに、この信心すなわち仏性なり、仏性すなわち法性なり、法性すなわち法身なり。 法身はいろもなし、かたちもましまさず、しかればこころもおよばれずことばもたへたり。この一如よりかたち い と す る と 、

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をあらわして、方便法身とまふす御すがたをしめして、法蔵比丘となのりたまひて、不可思議の大誓願をおこし てあらわれたまふ御かたちおば、世親菩薩は尽十方無碍光如来となづけたてまつりたまへり。この加来を報身と まふす、誓願の業因にむくひたまへるゆへに報身如来とまふすなり、報とまふすはたねにむくひたるなり、この 報身より応化等の無量無数の身をあらはして、微塵世界に無碍の智慧光をはなたしめたまふゆへに尽十方無碍光 仏とまふすひかりにて、かたちもましまさず、 いろもましまさず無明のやみをはらひ悪業にさえられず、このゆ へに無碍光とまふすなり。無碍はさわりなしとまふす、しかれば阿弥陀仏は光明なり、光明は智慧のかたちなり と し る べ し 。 ︵ 真 聖 全 二 ・ 六 四 八 ︶ との、理解することが非常に難しい表現を中心に検討を加えることにする。 第一章 二 種 法 身 説 第 節 曇鷲大師の二種法身説 現在、我々が二種法身説と言っている概念は、曇鷲大師によって説示され、それを親鷲聖人が継承、展開されたも のであることは周知のことである。そこで、二種法身説について、まず曇鷲大師の説示を概観することにする。大師 の著述である﹃往生論註﹂下巻﹁浄入願心章﹂には、 何の故にか広略相入を示現したまふとなれば、諸仏・菩薩に二種の法身有す。 なり。法性法身に由りて方便法身を生ず方便法身に由りて法性法身を出す。此の二の法身は異にして分つべから 一には法性法身、二には方使法身 ず 一 に し て 同 ず べ か ら ず 。 ︵ 原 漢 文 ︶ ︵ 真 聖 全 一 ・ 一 二 三 ム ハ l 一 二 三 七 ︶ とある。これは法性法身と方便法身は由生由出の関係であり、不一不異であることが示されているものである。しか 親 驚 聖 人 に お け る 仏 身 論 四 五

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親 鴛 聖 人 に お け る 仏 身 論 四 六 し、ここで注目すべきは、法性・方便の二種法身は仏のみではなく、菩薩においても有するものであることである。 これは一体何を意味するのであろうか。純粋に仏身論を展開するのであるならば、仏のみであり、菩薩については論 及する必要はないのではなかろうか。これについては、菩薩に論及されたのは大乗菩薩道を完遂するためではないか と考えられる。真の菩薩とは二種法身を有するのであり、これなくして真の菩薩道はあり得ないと考えられていたの ではなかろうか。つまり、二種法身とは大乗菩薩道に欠くことのできない智慧と慈悲の顕現相であると見ることがで きょう。ならば、曇驚大師における法性法身と方便法身とは水平方向に並ぶ概念と言わねばならないであろう。 第二節 親驚聖人の二種法身説 次に、親鷲聖人の二種法身説を概観することにする。聖人の二種法身説に関しての著述は﹃愚禿紗﹄と和語聖教が 中心となるのであろう。その﹃愚禿紗﹄巻上には、 仏 に つ い て 四 種 あ り 。 一 に は 法 身 こには報身 二には応身四には化身なり。 法身について二種あり。 一 に は 法 性 法 身 こ に は 方 便 法 身 な り 。 報身について三種あり。 一 に は 弥 陀 こには釈迦 一 一 に は 十 方 。 応 ・ 化 に つ い て 一 二 種 あ り 。 一 に は 弥 陀 二には釈迦 三 に は 十 方 。 ︵ 原 漢 文 ︶ ︵ 真 聖 全 二 ・ 四 五 人 ︶ とあり、至極簡明に示されている。そのために﹃愚禿紗﹄のみで聖人の意図するところを明確にすることはできない。

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そこで、この﹃愚禿紗﹄をふまえながら﹁唯信紗文意﹂を見ることにする。 法身はいろもなし、かたちもましまさずしかればこころもおよばれずことばもたえたり。この一如よりかたちを あらわして、方便法身とまふす御すがたをしめして、法蔵此

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となのりたまひて、不可思議の大誓願をおこして あらわれたまふ御かたちをば、世親菩薩は尽十方無碍光如来となづけたてまつりたまへり。 ︵ 真 聖 全 二 ・ 六 四 人 ︶ とあり、﹁法性﹂の用語こそ見られないが、二種法身の概念を示されたものとして捉えられる。ここに示された法性 法身とは﹁いろもなし、かたちもましまさず、しかればこころもおよばれずことばもたえたり。﹂とあることより、 まさに法身であり、真如であると考えられる。次に方便法身とは﹁法蔵比丘となのりたまひて、不可思議の大誓願を おこしてあらわれたまふ御かたち﹂とあり、これは報身として捉えられていると考えられる。さらに﹃唯信紗文意﹄ の 続 き に は 、 この如来を報身となふす、誓願の業因にむくひたまへるゆへに報身如来とまふすなり。報とまふすはたねにむく ひたるなり、この報身より応化等の無量無数の身をあらはして、 とあり、これは﹃愚禿紗﹄と同種の論調であると見られる。さらに、﹃一念多念文意﹄には、 ︵ 真 聖 全 二 ・ 六 四 八 ︶ この一知宝海よりかたちをあらわして、法蔵菩薩となのりたまひて、無碍のちかひをおこしたまふをたねとして、 阿弥陀仏となりたまふがゆへに報身知来とまふすなり。これを尽十方無碍光仏となづけたてまつれるなり、この 知来を南無不可思議光仏ともまふすなり、。この加来を方便法身とはまふすなり。方便とまふすは、かたちをあ らわし、御なをしめして、衆生にしらしめたまふをまふすなり、すなはち阿弥陀仏なり。この如来は光明なり、 光明は智慧なり、智慧はひかりのかたちなり、智慧またかたちなければ、不可思議光仏とまふすなり。この如来、 十方微塵世界にみちみちたまへるがゆへに、無辺光仏とまふす、しかれば世親菩薩は尽十方無碍光如来となづけ 親 鷲 聖 人 に お け る 仏 身 論 四 七

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親鷲聖人における仏身論 四 J¥ た て ま つ り た ま へ り 。 ︵ 真 聖 金 二 ・ 六 一 ム ハ ︶ とあり、これも﹃愚禿紗﹄﹃唯信紗文意﹂と軌を一にするものと見ることができよう。次に、﹁正像末和讃﹂の﹁自然 法 爾 章 ﹂ に は 、 無上仏とまふすはかたちもなくまします、かたちもましまさぬゆへに自然とはまふすなり。かたちましますとし めすときは無上浬繋とはまふさず、かたちもましまさぬゃうをしらせんとて、はじめに弥陀仏とぞききならひて さふらふ。弥陀仏は自然のやうをしらせんれうなり、 ︵ 真 聖 全 二 ・ 五 三 O ︶ と、用語的には少し異なるが、無上仏・法性法身と報身仏・方便法身の位置付けがなされていると見ることができる の で あ る 。 最 後 に ﹃ 歎 異 抄 ﹄ に も 、 かの安養浄土の教主の御身量をとかれてさふらも、それは方便報身のかたちなり。法性のさとりをひらひて長・ 短・方・円のかたちにもあらず、青・黄・赤・白・黒のいろをもはなれなば、なにをもてか大小をさだむべきや ︵ 真 聖 金 二 ・ 七 八 九 ︶ とあり、これも﹃愚禿紗﹄、﹃一念多念文意﹄と軌を一にするものと見てよいであろう。 以 上 の 諸 文 よ り 、 親 鷲 聖 人 に お け る 二 種 法 身 説 の 特 徴 は 、 法 性 法 身 を ﹁ 法 身 ﹂ 、 ﹁ 一 如 宝 海 ﹂ 、 ﹁ 無 上 仏 ﹂ 、 ﹁ 法 性 ﹂ と 見られること、並びに、方便法身を﹁法蔵比丘となのりたまひて﹂、﹁法蔵菩薩となのりたまひて﹂と因位の法蔵菩薩 と果位の阿弥陀仏つまりは報身と見られることであろう。二種法身説を四身論に当てはめたような仏身観を持ってお ︵ 1 ︶ られるようである。これは、法性法身と方便法身を垂直方向で位置付けようとされたものと見ることができる。つま り、曇鷺大師が水平方向に並ぶ二種法身説であったのに対して、親鷺聖人は垂直方向における二種法身説であると言 え る で あ ろ う 。

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第二章

﹃唯信紗文意﹄に見られる二種法身表現の矛盾と解消

第 節 表 現 の 矛 盾 そこで、次に﹃唯信紗文意﹄に見られる二種法身説の表現的矛盾を提起してみたい。それは﹃唯信針ノ文意﹄には 法身はいろもなし、かたちもましまさず、しかればこころもおよばれずことばもたえたり。この一知よりかたち をあらわして、方便法身とまふす御すがたをしめして ︵ 真 聖 全 二 ・ 六 四 八 ︶ と あ り 、 さ ら に 、 この報身より応化等の無量無数の身をあらはして、微塵世界に無碍の智慧光をはなたしめたまふゆへに尽十方無 碍光仏とまふすひかりにて、かたちもましまさず、いろもましまさず、 ︵ 真 聖 全 二 ・ 六 四 八 ︶ とある。前文には、法性法身が概念規定を越えた存在であることを示すために使用された﹁いろもなし、かたちもま しまさず﹂という言葉がある。これを語順を逆にはされているが、後文では方便法身の力用である光明の用きを明ら かにするために﹁かたちもましまさず、いろもましまさず﹂と再度使用されておられれる。これは知何なることであ ろうか。表現的にも論理的にも矛眉を露呈しているのではなかろうか。 第二節矛眉表現の解消について そこで、この矛眉に対して二種の仮説を立て、親鷺聖人の真意を伺うことにする。第一の仮説は、﹁いろもなし、 いろもましまさず﹂との語順の相違をもって親鷲聖人が法性法身と 方使法身との関係を明らかにしようとされているのではないかと言うものである。第二の仮説は、﹁いろもなし、か かたちもましまさず﹂と﹁かたちもましまさず、 親鷺聖人における仏身論 四 九

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親 鷺 聖 人 に お け る 仏 身 論 五

たちもましまさず﹂と﹁かたちもましまさずいろもましまさず﹂の言葉が完全に同義であり、表面的には論理矛盾を 露呈するが、その表面的論理矛眉を通して、その表面的論理矛盾を越えるものを見出されようとしているのではない か と 言 う も の で あ る 。 まず第一の仮説については、語順の入れ替えによって、親鷲聖人が法性法身と方便法身との関係を明らかにしよう とされていると見るならば、結論的には無理があるのはなかろうか。﹁かたちもましまさず、 いろもましまさず﹂と は﹁ひかり﹂︵﹃唯信紗文意﹄の場含は﹁尽十方無碍﹂である︶についての説明句であり、方硬法身の﹁ひかり﹂の特 性を示されたものとして理解しうるのである。それならば、法性法身は﹁いろもなし、かたちもましまさず﹂、方便 いろもましまさず﹂と区分することができる。これでは、曇鷺大師が示 法身の﹁ひかり﹂は﹁かたちもましまさず、 された方便法身の間にある相関関係をより暖味なものし、理解し難くしている印象を受けるのである。さらに、﹃唯 信妙文意﹂後の文には しかれば阿弥陀仏は光明なり、光明は智慧のかたちなりとしるべし。 ︵ 真 聖 全 二 ・ 六 四 人 ︶ とあり、方便法身の﹁ひかり﹂は﹁智慧のかたち﹂であり、﹁かたちもましまさず、 いろもましまさず﹂との説示と 矛盾を呈することになってくる。これによって、語順の入れ替えでもって意味を変容させることは今の場合はほぼ不 可能ではないかと考えられる。以上のことから、第一の仮説は当を得たものとは言い難いと判断すべきであり、語順 の相違をもって法性法身と方便法身の関係を明らかにすることは、今日の我々には為し得ないことと言えるであろう。 次に、第二の仮説についてである。第一の仮説の時に言及したごとく、﹁いろもなし、かたちもましまさず﹂と ﹁ か た ち も ま し ま さ ず 、 いろもましまさず﹂との言葉は同義と捉えるべきであろう。ならば、そこには表現的論理的 矛眉をきたすであろう。表現的矛盾とは、法性法身は﹁いろもなし、かたちもましまさず﹂である。それと同時に方 便法身も﹁かたちもましまさずいろもましまさず﹂であるならば、これは文脈的に整合性がとれなくなるであろう。

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この﹃唯信紗文意﹄を読解することは困難になってしまう。次に、論理的矛盾とは、法性法身とは﹁いろもなし、か たちもましまさず﹂と我々人間の、凡夫の認識を逼かに越えたものと規定される。そのために我々凡夫との接点が皆 無となってしまう。我々凡夫は、認識可能なものでないかぎり接触することできないのであり、認識を越えたものと 接触することは不可能である。そのため、方便法身という認識可能な﹁いろもあり、かたちもまします﹂存在が絶対 に必要である。﹁この一如よりかたちをあらわして、方便法身とまふす御すがたをしめして﹂もらわなければ、我々 にとっては法性法身などは存在価値のないものになってしまう。先述の 法爾章﹂などは、この考え方に基づいて説明がなされている。しかし、﹃唯信紗丈意﹂のように、その方便法身を、 ﹃一念多念文意﹄や﹃正像末和讃﹄の﹁自然 光明に限定するとはいえ、﹁かたちもましまさず、 いろもましまさず﹂と規定してしまうと、方便法身の存在意義は はたしてあるのであろうか。さらに、法性法身と方便法身の垂直方向における関係を親驚聖人自身が否走し、パラド ツクスに陥ってしまっている。 以上のような表現的論理的矛盾とは何に起因して記されたのであろうか。そして、親驚聖人は表現的論理的矛盾を 露呈してまでも何を知らしめようとなされたのかを伺うことにする。まず、何故、親驚聖人は表現的論理的矛盾を敢 えてなされたのであろうか。そこには、我々凡夫の得る仏果についての二種の邪見を打ち破ろうとされたのではなか ろ 、 っ か 。 第一の邪見とは、凡夫は実有として方便法身を捉え、果報をも実有として捉える可能性を多分に凡夫自身が内包し ているために、これを避けるために表現的論理的矛盾を承知の上で﹃唯信紗文意﹄の文を著されたのではないかろう かと言うものである。方便法身とは、先述の﹃唯信紗文意﹄には、 方便法身とまふす御すがたをしめして、法蔵比

E

となのりたまひて、不可恩義の大誓願をおこしてあらわれたま ふ御かたちをば、世親菩薩は尽十方無碍光如来となぞつけたてまつりたまへり。この如来を報身とまふす、誓願の 親 驚 聖 人 に お け る 仏 身 論 五

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親 鴛 聖 人 に お け る 仏 身 論 五 業因にむくひたまへるゆへに報身知来とまふすなり。報とまふすはたねにむくひたるなり、この報身より応化等 の無量無数の身をあらはして、微塵世界に無碍の智慧光をはなたしめたまふゆへに︵真聖全了六四人︶ とある。方便法身とは﹁報身如来﹂であり、﹁尽十方無碍光知来﹂である。これは表規的には有相である。有相と言 って、二種法身であるから、法性法身より生起する方便法身であり、無相に裏打ちきれた有相であることに間違いは ない。しかし、我々凡夫は有相で示されたものは実有として捉えがちである。方便法身としての阿弥陀仏は有相的仏 であり、その有相的仏を実有と捉え、その有相的仏の救済とは実有的救済であり、仏果は実有的果報でしかないと捉 え る 可 能 性 が あ る 。 第二の邪見とは、仮に第一の仮説に我々凡夫が陥らないとしても、有相の仏に、方便法身に救済されるならば、 我々凡夫の得る仏果もあくまでも有相の仏果、方便法身に基づく仏果でしかないのではないかと言う疑問を持つもの がいるのではなかろうか。つまり、親鷲聖人における方便法身とは報身の阿弥陀仏である。垂直方向における上下関 係として二種法身か説かれている。ならば、方使法身の報身の阿弥陀仏に救済される我々凡夫の到達点は方便法身で あり、報身であろう。報身を否定するのではないが、法性法身より下に位置すると見なされる報身にしか成り得ない のではないか。阿弥陀仏の場合は、法性より自然に展開して相を持つ方便法身・報身となるが故に、決して報身の地 位を軽んずるものではなく、報身なくして救済は有り得ないが故に、方便法身・報身としての明確な位置付けがなさ れる。しかし、我々凡夫は法性に至ることなく報身・方便法身とならしめられるのであり、このような方便法身・報 身は明らかに阿弥陀仏より格が落ちると見なされるのではなかろうか。 まず、第一の邪見を打ち破るために、﹃唯信紗文意﹄には既に、 尽十方無碍光仏とまふすひかりにて、かたちもましまさず、いろもましまさず、無明のやみをはらひ悪業にさえ られず、このゆへに無碍光とまふすなり。無碍はさはりなしとまふす、しかれば阿弥陀仏は光明なり、光明は智

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慧 の か た ち な り と し る べ し 。 ︵ 真 聖 全 二 ・ 六 四 人 ︶ とり、凡夫が方便法身である尽十方無碍光如来を実有と認識することを﹁尽十方無碍光仏とまふすひかりにて、かた ちもましまさずいろもましまさず﹂と方便法身といえども実有ではない。方便法身の光明は法性であると戒められて いるのではなかろうか。次に、第二の邪見を如何に打ち払うか。これも先の第一の邪見の打破と同様に﹁尽十方無碍 光仏とまふすひかりにて、かたちもましまさず、いろもましまさず﹂と方便法身の光明は法性であるが故に、我々凡 夫が得るところの仏果もまた法性であることを強調されようとしたのではなかろうか。 しかし、この表現を用いたために、表現的に矛盾が生起し、それが引いては論理的矛盾へと展開してしまったので はなかろうか。つまり、﹃唯信紗文意﹄の表現的論理的矛盾の原因は、以上のような邪見を打破するためであったの ではないかと考えられる。しかし、果たして、邪見を破するためのみに矛盾的表現をとられたのであろうか。その辺 を伺うために、親鷲聖人の仏道の最終到達点を伺うことにする。親鷲聖人の仏道の最終到達点とは、﹃正像末和讃﹄ の﹁自然法爾章﹂に ちかひのやうは無上仏にならしめんとちかひたまへるなり、 ︵ 真 聖 全 二 ・ 五 三 O ︶ と あ り 、 さ ら に 、 ﹃ 教 行 証 文 類 ﹄ ﹁ 証 文 類 ﹂ に つ つ し ん で 真 実 証 を 顕 さ ぱ 、 す な は ち こ れ 利 他 円 満 の 妙 位 、 無 上 浬 繋 の 極 果 な り 。 ︵ 原 漢 文 ︶ ︵ 真 聖 全 二 ・ 一 O 三 ︶ とある文に見出すことができるのではないかと考えるのである。これらの文は、阿弥陀仏の誓願とは我々凡夫を無上 仏にならしめることであり、無上浬般市界に至らしめることであると示されている。無上仏、無上浬繋とは、﹁正像末 和 讃 ﹂ ﹁ 自 然 法 爾 章 ﹂ に 無上仏とまふすはかたちもなくまします、かたちもましまさぬゆへに自然とはまふすなり、かたちましますとし め す と き は 無 上 浬 繋 と は ま ふ さ ず 、 ︵ 真 聖 金 二 ・ 五 三 O ︶ 親 鴛 聖 人 に お け る 仏 身 論 五

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親 鴛 聖 人 に お け る 仏 身 論 五 四 と、﹁かたちもなくまします﹂が故に、無上仏、無上浬繋それは法性法身そのもの、真如法性であると断言できる。 この﹁無上仏﹂こそが、親鷺聖人が目指されたものではなかろうか。阿弥陀仏の本願力により救済される我々凡夫が 得るところの仏果が無上仏、法性法身、法性、真如以外であっては、阿弥陀仏の救済は真の救済ではなくなる。真の 救済でないならば、阿弥陀仏の本願も力用も我々凡夫には無用のものとなる。本来、我々凡夫と接点をもつため相を なした阿弥陀仏、方便法身であるにもかかわらず、その接点が何らの意味も持たなくなる。これでは方使法身の存在 意義などなくなってしまう。方便法身の存在意義が消失すれば、法性法身の存在意義も消失してしまう。そのために、 阿弥陀仏の救済によって我々凡夫が得る仏果は無上仏でなければならないのである。親驚聖人の仏道の最終到達点と は、無上仏果を得ること以外にはないと考えられるのである。 この大前提を念頭に置いて、親鷺聖人の仏道論理を伺うと、そこには、新たなる論理が見出されるのではなかろう か。つまり、色もない形もない法性法身自身が、その存在意義である救済活動、 一切存在は本来的境界である法性法 身への必然的回帰性を有することを明らかにする活動を完遂するために、相を持つ方便法身へと必然的展開をなす。 そ の 方 便 法 身 が 一 切 存 在 の 救 済 を 完 成 す る 。 ︵ ﹃ 一 念 多 念 文 意 ﹄ ﹃ 正 像 末 和 讃 ﹂ ﹁ 自 然 法 爾 章 ﹂ の 所 説 ︶ 救 済 を 完 成 さ せ る 力 用を有するためには方便法身は再度法性法身へと必然的回帰をする。︵﹃唯信紗文意﹂の所説︶すると、回帰した法性法 身は再度必然的展開として方便法身という相を有する。この循環を法性法身と方便法身は無限になしている。しかし、 この無限の循環は単に我々凡夫に無関係なところでなされているのではない。方便法身は我々凡夫を救済し、無上仏、 法性法身の境界へ導き入れる。これは阿弥陀仏の本願として顕れている。すると、無上仏、法性法身の境界へ回帰し た凡夫は、正確には既に凡夫ではないが、法性法身の必然的展開を開始する。つまり、法性法身と方便法身の無限循 環の中に我々凡夫も組み込まれることになる。このような無限の循環に組み込まれることが、親鷲聖人の新たな仏道 論理ではなかろうか。そして、これこそが真の救済と言えるものではなかろうか。この親鷲聖人の新たな仏道論理に

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沿って﹃唯信紗文意﹄の文を伺えば、この表現は何らの矛盾をきたすものではない。むしろ、矛盾と見る我々の論理 があまりにも稚拙であると省みなければならないのではなかろうか。この反省をもってすれば、先述の第一の邪見と 第二の邪見などは、取るに足らないものと言わねばならないであろう。 結 以上の検討・考察により、親鷺聖人の二種法身説の一端を伺い知ることができたのではないかと考える。今論考に おいては、﹁無上仏﹂に据わりをおいて、親鷺聖人の二種法身説を検討したのであるが、未だ諭究不足の観は否めず あまりにも主観的独走に終始した観がある。皆様の御叱時を賜れば幸いと思う次第である。 註 ︵ 1 ︶ ﹃ 弥 陀 身 士 思 想 展 開 史 論 ﹂ ﹁ 第 六 章 親 驚 の 弥 陀 仏 身 論 ﹂ 神 子 上 恵 龍 著 親 鴛 聖 人 に お け る 仏 身 論 五 五

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