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アイデア・制度的環境・政策転換

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アイデア・制度的環境・政策転換

ーソ連ゴルバチョフ政権における﹁新思考﹂外交の分析ー

      逸 見   勉

    第一章 はじめに

     第一節 問題の所在

     第二節新思考外交の特徴−分析対象の定義

    第二章 国際政治理論とソ連の対外政策転換

    第三章 アイデアと制度的環境に関する枠組の設定

    第一節 ﹁アイデア﹂に関する国際政治理論      −

     第二節 ﹁制度的環境﹂概念の構⁝築

     第三節アイデアと制度的環境のダイナミズム

    第四章 ソ連における新思考と制度的環境

アイデア.制度的環境.政策転換      ︵都法四十五ー二︶ 二七五

(2)

二七六

 第一節 八〇年代前半における知識人の位置

 第二節 二人のリーダーーアンドロポフとゴルバチョフ

 第三節 新思考と規範構造

第五章 結  論

註 第一章 はじめに

第一節 問題の所在

 本稿は︑八〇年代半ばにソ連で起きた対外政策の転換を︑国際政治理論の中でも特にアイデアに注目する枠組を用

いて分析する試みである︒八五年三月ソ連にゴルバチョフ政権が誕生し︑九一年一二月にソ連が崩壊するまでの短期

間に起きたことは︑国際政治学にとって﹁驚くべき﹂事態であった︒国際政治学にとって自明の前提と考えられてい

た冷戦が終結してしまったからである︒国際政治学にはこの変化をテーマとする一連の研究の流れー﹁冷戦終結研

究︵°力﹇已゜ぎ§団§;①︒°乏巨1が存在するが︑ソ連の政策転換は︑冷戦終結研究のメインテ←の;

であり続けている︒本稿もこの一連の研究の一角を占めようという試みであり︑主たる関心は以下のような問題意識

である︒

(3)

      ︵2︶      ①変化の要因について  ソ連の対外政策転換はなぜ起きたのか︒       ︑

     ②変化の方向について  ゴルバチョフが採った政策は︑なぜ他の政策でなく﹁新思考外交﹂であったのか︒  ︑

.    ③変化のタイミングにσいて  政策転換はなぜ八〇年代半ばという時期に起きたのか︒      ︑

      それではここで本稿の概観を簡単に述べておこう︒次節では︑分析対象を明確にするため︑ソ連の新思考外交の概

     要を整理する︒続く第二章では︑ソ連の政策転換について既存の国際政治理論からの説明を概観し︑批判的な検討を

     行う︒この作業を通じてそれらの枠組の限界点を明確にし︑本稿で用いるアイデアを用いた枠組の意義を確認する︒

     第四章ではアイデアを用いた枠組を整理した後︑ソ連の政策転換を分析するための枠組を構築し︑その枠組を用いた

    ︑事例分析を第五章で行う︒最後に︑第六章において本稿での分析を総括し︑今後の課題等を明らかにする︒

      第二節 新思考外交の特徴−分析対象の定義

−     周知のようにゴルバチョフの対外政策は﹁新思考外交﹂と称される︒それでは﹁新思考外交﹂は︑それまでのソ連

    の対外政策に対して何が﹁新し﹂かったのであろうか︒本節では︑ゴルバチョフの対外政策の特徴的な点を取り出し︑

    分析を鮮明にするために︑それらを図式的に整理・再構築して本稿における﹁新思考外交﹂の定義を行う︒

     ここでの議論の前提として︑本稿では﹁新思考﹂と言えばゴルバチョフの政策の基本となつてきた﹁思想﹂のこと

    を意味し︑﹁新思考外交﹂と言えばゴルバチョフ政権が着手した対外政策を指すものとする︒しかしながら︑﹁階級的

    利益に対する全人類的価値の優先﹂といった﹁思想﹂が︑政策言説としてそのまま打ち出されている点も見られるた

    め︑ここでは﹁新思考外交﹂を﹁言説のレベル﹂と﹁行動のレベル﹂の両者を含むものとして扱うこととする︒

       アイデア・制度的環境・政策転換       ︵都法四十五−二︶ 二七七

(4)

二七八

 これまで冷戦終結研究でもソ連の政策転換の事例が扱われてきたが︑多くの研究が﹁新思考外交﹂を構成する要素

︵思想︑政策︶を取り出して分析の対象としてきたため︑新思考外交が従来の政策を﹁根本的に再定義﹂したもので

ある点が十分に示されていなかった︒すなわち︑﹁言説のレベル﹂だけを対象とするならば︑過去にソ連が発表し︑

西側がそれを単なるスローガンだとして退けてきたものとの区別がつかなくなってしまう︒一方︑﹁行動のレベル﹂

のみを扱えば︑単なる戦略の変化と区別がつかなくなってしまう︒総合すると︑﹁新思考外交﹂を﹁言説のレベル﹂

と﹁行動のレベル﹂のセットとして扱うことによって︑ゴルバチョフの対外政策が言行一致を目指した点を明確にす

ることができ︑従来の対外政策との質的な相違を分析対象に組み込むことが可能になるのである︒以下︑﹁新思考外

交﹂に特徴的な点を上記の二つのレベルに分けて特定する作業を行う︒

 初めに﹁言説のレベル﹂を見てみよう︒これには﹁相互依存﹂の世界観︑および﹁階級的利益よりも全人類的価値

を優先﹂するという対外政策の基本方針が含まれる︒新思考外交においては︑このような認識が実際にソ連の指導者

の言説として登場する︒これは︑マルクス・レーニン主義国家としてのソ連がこだわってきた﹁階級闘争としての世

界﹂観と﹁階級的利益﹂を追求するという︑それまでの対外政策を相対化してしまったという意味で︑ソ連の見方の

根本的な変化を表していると言えよう︒また︑より具体的なレベルにおいては後述する軍縮政策に関連する因果的な

認識が存在する︒すなわち︑﹁共通の安全保障︵8日日8°・8ロ巳k︶﹂︑﹁合理的十分性︵﹃8°・o宕巨①゜・ロ茜︒δ8∨︶﹂などと

いったアイデアであり︑これらの根底には︑軍備を削減することによって安全を確保する︑という因果的な認識が存

在した︒この点︑軍拡によって安全を確保しようという従来の認識とは︑まったく異なる考え方である︒

 またこのレベルのもう一つの特徴は︑﹁対外政策に対する国内政治の優先﹂である︒それまでのソ連の外交姿勢は

西側との軍拡競争を進め︑量的に高いレベルでの戦略的均衡を目指すものであった︒その背景には︑軍拡によって安

(5)

       ︵3︶    全を確保するという因果的な認識があったと考えられるが︑そのために軍事が優先される状況であった︒一方︑ゴル

   バチョフの政策を見ると︑対外政策の転換のみならず政治・経済・社会など︑国内のあらゆる領域において改革︵ペ

   レストロイカなど︶が行われた︒ここでは︑国内の改革を円滑に進めるためには対外環境が安定していなくてはなら        ︵4︶       一    ないという論理が︑対外政策と国内政治を繋いでいた︒・ここからわかるように︑国内優先の論理は従来の国防優先の

   論理を転換するものであり︑対外政策と国内政治の間の価値序列を転換した点に︑新思考外交の特徴がある︒この点

   を踏まえて︑国内優先の論理を﹁言説のレベル﹂に含める︒

    次に﹁行動のレベル﹂である︒新思考外交においては︑各国との関係改善︑ブレジネフ・ドクトリンの廃止︑東欧

\︑ の民主化容認︑アフガニスタンからの撤退︑環境問題への取り組みなどさまざまな政策が行われたが︑特に顕著な変

   化と言えるのが軍縮政策である︒なおか︐つ軍縮交渉の過程は︑ソ連側からのイニシアチブによって進展した︒この

   点︑数量的な均衡を維持しようとして手詰まりになっていたそれまでの軍縮交渉を一気に打開するものであり︑新思       ︵5︶    考外交の大きな特徴である︒また︑一方的な軍縮は︑勢力均衡を主張する︵ネオ︶リアリズムの立場にとって︑あり

   えない事態と捉えられるため︑理論的にもパズルとして扱うことができる︒このように︑新思考外交ではさまざまな

   行動の変化が見られたが︑軍縮政策はその中でも顕著な変化として捉えることができるため︑本稿では新思考外交の

   ﹁行動のレベル﹂については軍縮政策に限定して扱うこととする︒なお軍縮政策は﹁言説のレベル﹂で挙げた﹁相互

   依存の世界観﹂︑﹁階級的利益に対する全人類的価値の優先﹂という考え方とも深く関連を持つ︒すなわち︑これらの       ︵6︶       −    ︵7︶    考え方の基礎にあるのが︑﹁核時代﹂と言う時代認識であり︑核戦争そのものに対する脅威認識だったのである︒

    以上のように新思考外交は︑単なる戦略の変化に限らず︑それを取り巻く認識の変化が言説として表面化してい

   る︒新思考外交は︑﹁行動のレベル﹂と﹁言説のレベル﹂がセットとなった︑従来とは質的に異なる対外政策だった

アイデア・制度的環境・政策転換      ︑       ︵都法四十五−二︶ 二七九

(6)

       二八〇

      ︵8︶ のであり︑抜本的な政策転換であったと言える︒本稿では︑﹁新思考外交﹂を以上のように定義した上で︑このよう

な政策がどのようにして可能となったのか︑そのメカニズムを検討することで︑問題意識に対する回答を試みる︒

第二章国際政治理論とソ連の対外政策転換

 本章ではソ連の政策転換に対して国際政治理論から提示されている諸説明を概観し︑批判的に検討する︒この作業

を通じて︑アイデアを用いた枠組を用いてこの事例を分析することの意義を明らかにする︒

ネオリアリズム

 ソ連の政策転換は国際政治学にとって﹁驚き﹂であった︒この評価は国際政治学において支配的な見方とされたネ      ︵9︶ オリアリズムからなされたものと考えられるが︑なぜネオリアリズムはソ連の政策転換を捉えられなかったのであろ

うか︒ネオリアリズムでは︑システム内のパワーの配分が変化した際︑国家の行動が一時的に変化し︑再び勢力均衡

が達成されると論じられる︒このとき国家は︑自国のパワーの増強︑もしくは他国との同盟のどちらかの行動をとる

と予測される︒理論的には同盟組み換えの際に︑一方的なパワーの削減が発生することもありうるが︑二極対立であ

る冷戦においては同盟の組み換えという選択肢自体ありえないため︑ソ連のケースのような政策転換は説明できな

い︒        ︵10︶  そもそも八〇年代前半において米ソ間でパワー配分の顕著な変化があったとは言い難い︒すなわち当時の米ソの軍

(7)

        事力の差に際立った変化は見られない︒また︑たしかにソ連では七〇年代後半より経済状態が悪化したとはいえ︑こ

の時期にはアメリカの経済も悪化していたため︑ネオリアリズムが重視する相対的なパワーバランスに大きな変化が

あったとは言い鎚四・もともとネオリアリズムは・システムの安定を説明する理論であるため︑大規模な変化は分析

の射程外であるとも言える︒これに代わる枠組を用意する必要がある︒

認知を重視するリアリズム       お   次に認知を重視するリアリズムはどうだろうか︒ここで重視される要因は︑レーガン政権の強硬姿勢である︒この

見方をとるならば︑ソ連がアメリカの姿勢に屈し︑−やむを得ず軍備を削減するという事態が観察されるはずである︒

しかし︑実際のところソ連は積極的な姿勢で軍備削減を行ったのであり︑上記の枠組でこの姿勢を説明することはで

きない︒またソ連が屈服する立場であったとすれば︑自らが積極的なイニシアチブをとって軍備削減を行ったことは

ともかくいアメリカに対しても軍備削減を求め︑交渉の末軍縮条約を締結させることなどできなかったであろう︒

 また︑レーガン政権の強硬姿勢を重要な要因として考える見方に対しては︑以下の二点が指摘できる︒一つは方法

論的な批判である︒すなわち理論的には︑アメリカの強硬姿勢に対してソ連もまた強硬な態度で応じる︑というシナ

リオも可能で稔・したがって・アメリヵの強硬姿勢という独立変数と︑ソ連の政策転換という従属変数の間に︑な

んらかの媒介変数を導入しなければ︑議論は説得性を欠いたものとならざるを得ない︒もう一つは︑.レーガン政権の

姿勢についてで曇・レーガンは大統領就任直後から反ソキャン→ンを始めたが︑そのト←は平和運動などによ        ロ  る影響で一貫していたわけではない︒八四年にレーガン自身が核戦争について否定的見解を出したと思うと︑その後       パ      ロ  の軍縮交渉では再びSDIにこだわるという点も見せており︑アンビバレントな姿勢であった︒

アイデア・制度的環境・政策転換      ︵都法四十五ー二︶ 二八一

(8)

二八二

ネオリベラリズム

 それでは次に︑国家間の協力の可能性を理論的に検討したネオリベラリズムについて検討する︒ネオリベラリズム

では︑国家間関係をゲーム理論の﹁囚人のジレンマゲーム︵PDゲーム︶﹂として扱う︒アクセルロッドは︑繰り返

しゲームによるシ︑三レ←・ン分析によってpD状況下における協力の可能性を導き出撞・ではソ連の政策転換

はこの枠組で説明できるのであろうか︒この場合︑冷戦を﹁繰り返しPDゲーム﹂と見なせば︑相互主義戦略による

協力達成の可能性は理論的な帰結として視野に入ってくる︒PDゲームでは︑アクターの選択肢は﹁協力・非協力﹂

のどちらかである︒軍縮を協力︑軍拡継続を非協力としたとき︑繰り返されるゲームのある時点でソ連が協力を選択

し︑アメリカもそれに相互主義で応じたと見れば︑ソ連の政策転換について一応の説明は成り立つ︒

 しかしこの枠組においても︑非協力から協力に転ずるタイミングが説明できないため︑本稿の問いに対する回答は

与えられないままである︒そしてもう一つの問題は︑ネオリベラリズムがアクターの選好の変化を視野に入れていな

い点である︒ネオリベラリズムは合理選択理論の前提に立っているため︑アクターの選好を所与として仮定する︒し

かしソ連のケースにおいては︑行動に限らず︑選好のべースとなる認識自体が変化しているため︑合理選択論の見方

からは十分な理解ができなくなってしまう︒

国内要因

 このように国際システムレベルの要因のみでは︑ソ連の政策転換をめぐる本稿の問題意識に十分な回答を与えるこ

とができない︒変化のタイミング︑及び方向の問題に十分な回答を与えるためには︑国内政治過程に視点を移す必要

があろう︒すなわち政策転換は政策決定者による﹁決定﹂を経ているため︑その決定が行われた背景を探る必要があ

(9)

  る︒また︑国内をブラックボックスとして扱うことによって︑システムレベルの枠組が見落としてしまう国内構造の

  影響を拾い上げることができる︒

   そこで国内に目を転ずると︑ネオリアリズムのところで指摘したようにべ八〇年代前半のソ連国内では︑経済の悪

  化が深刻化していた︒ただしここでの問題は︑経済悪化が国家間の相対的なパワーバランスに与えた影響ではなく︑

  絶対的な意味での経済悪化である︒ゴルバチョフの発言などからも︑この要因は実証的に妥当なものと言える︒しか       ︵19︶ −  し経済の悪化は七〇年代から問題と.なつており︑タイミングの問題は依然未解決のままである︒さらに︑変化の方向

  についても疑問が残る︒すなわち経済の問題を解決するために︑なぜ他の政策分野を巻き込む必要があったのであろ

    シ        プ      コ   ︑つカ

   この変化の方向の問題に答えるためには︑アイデアに着目することが有用であると思われる︒経済悪化という要因

  と対外政策がどのようにリンクされたのか︑軍縮政策と国内経済改革がなぜ同じ論理の上で扱われたのか︒実施され

  た政策の諸要素を理解する上で︑アイデアへの着目は不可欠と思われる︒以上︑国内への視点の移動︑アイデアへの

  着目という二点を踏まえ︑次章ではアイデアに着目した理論を整理し︑本稿の分析枠組を構築する作業を行う︒

アイデア・制度的環境・政策転換      ︑   ︐︵都法四十五−二︶ 二八三

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二八四

第三章 アイデアと制度的環境に関する枠組の設定

第一節  ﹁アイデア﹂に関する国際政治理論

 前章で検討したように︑本稿における問いを検討するにあたっては︑アイデアを用いた枠組が有効だと考えられ

る︒ここでは︑アイデアを用いた枠組に関する理論的な先行研究を参照しつつ︑本稿の分析枠組の設定を試みる︒

 ゴールドスタインとコヘインによれば︑対外政策に関係するアイデアは︑その抽象度によって﹁世界観︵≦°匿−       ︵20︶ <富≦︶﹂︑﹁原則的な信条︵曾昌︒旦巳σ6宮﹇︶﹂︑﹁因果的な知識︵8c°・巴ぴo宮﹃︶﹂の三つに分類できる︒﹁世界観﹂は文字

通り︑世界を構成するのは誰で︑その関係がどのように構成されているのかについての基本的な認識である︒﹁原則

的な信条﹂は対外政策全般にわたる目的を規定する価値観などを意味し︑﹁因果的な知識﹂は︑現象間の因果関係を

示す知識であり︑政策形成の際には目的−手段の間の関係を規定するアイデアとなる︒

 また︑アイデア自体の性質の違いによって︑アイデアが政策に影響を与える二つのシナリオを想定することが可能

  ︵21︶ である︒一つは︑アイデア自体に説得力が備わっており︑アイデアがそれ自体で帰結に影響力をもたらすというシナ       ︵22︶ リオである︒これは主に知識共同体︵①O声o乃吟①巨OOO§已O詳∨︶の枠組が想定しているものであり︑ここでのアイデアは

﹁科学的知識﹂である︒この枠組では︑科学的な検証に裏打ちされているアイデアは説得力を持つとされる︒いわば

﹁科学的知識﹂は他のアイデアより優位に立つのである︒科学的知識は︑主として現象の因果関係についての知識で

あることが多いため︑アイデアの分類の中では﹁因果的な知識﹂に含まれるといえる︒ただし︑この枠組が想定する

(11)

科学的知識の影響力は以下の二点を前提条件としている︒すなわち①知識共同体が政策決定者に対してアクセスを

持っていること︑②知識の科学的妥当性について︑コンセンサスが形成されていること︑である︒        ︵23︶  もう一つのシナリオはアイデアが﹁日常的知識﹂の場合である︒日常的知識には科学的検証を受けない因果的な知

識︑価値観︑解釈などが含まれるが︑これはアイデアの三類型のうちのいずれにも存在すると考えられる︒この場合︑

価値観や解釈はもちろんのこと︑因果的な知識であっても︑科学的知識のように確実な検証を受けていないため︑特

定のアイデアにあらかじめ説得力が備わるという事態は考えにくい︒むしろ︑同じイシューをめぐるアイデアが複数

登場し︑競合する状況が想定される︒その中から特定のアイデアが影響力を持つとすれば︑それはアイデアが置かれ

た環境・文脈から︑あるいはアイデアの担い手の性格などから︑なんらかの作用を受けた結果だと考えられる︒

 以上の二つのシナリオのうち︑新思考外交のケースには後者の類型が当てはまると考えられる︒すなわち︑新思考

に含まれたアイデアの性質が︑世界観︑原則的な信条︑因果的な知識の全てにわたっているからである︒世界観や︑

そこから演繹的に規定される対外政策の基本方針などは︑検証を経た科学的知識というより︑世界がどうなっている       ︵24︶ のか︑自らはどう行動すればよいかなどについての﹁解釈﹂である︒たしかに︑軍縮の方法︑アフガニスタンからの

 ︵25︶ 撤退等の具体的な政策分野において︑因果的知識を提供する知識共同体が存在したことは考えられるものの︑彼ら

は︑﹁新思考﹂を共有するより大きな知識人のコミュニティの中の一部をなしていたものと考えられる︒したがって︑

本稿の事例においては後者のシナリオを念頭において枠組を構築する︒

アイデア・制度的環境・政策転換      ︵都法四十五ー二︶ 二八五

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二八六

第二節  ﹁制度的環境﹂概念の構築

 先にも触れたように︑日常的知識が政策に対して影響力を持つ場合には︑その置かれた環境・文脈からなんらかの

作用を受けた結果だと考えられる︒この文脈はそれ自体変化しにくいものとして社会に定着し︑その下で展開される       ︵26︶ 政治過程︑あるいはアクターの行為に制約を課し︑一定の方向を与えることになる︒したがってこれを﹁制度﹂とい       ︵27︶ うことができるが︑本稿では﹁制度的環境﹂と呼ぶこととする︒したがって︑アイデアを用いた枠組を用いる際には

﹁制度的環境﹂との関係を見ることが必要となる︒また︑アイデアが政治過程の中でどのように受容された︑あるい

はされなかったのかを見ていく際には︑アイデアの担い手が誰かということと切り離しては考えられない︒アイデア       ︵28︶ の担い手である集団・個人の動きも観察されなくてはならない︒

 では︑アイデアが影響力を獲得する過程においては︑どのような制度的環境が有意なのであろうか︒その出発点と       ︵29︶ して︑チェッケルの分類が参考になる︒チェッケルは本稿と同様に︑アイデアを用いた枠組によって︑新思考外交の

登場を分析している︒もう少し詳しく述べると︑彼は歴史的新制度論で展開される論理を︑アイデアの担い手の行動

に当てはめて︑ソ連の対外政策転換を扱っているのである︒

 チェッケルは︑対外政策の領域において︑アイデアに対して有意な﹁制度﹂を︑﹁対外政策決定の構造を決める︑

特定の組織と歴史的に構築されてきた諸定数︵唱曽①目︒§︶のまとまり﹂と定義し︑その内容を三層に分類している︒

 ①﹁︵国内・国際関係における︶システムの構成原理﹂である︒これは最も深層レベルにあり︑かつ社会のあり方

を規定する制度としては最も広範なものである︒したがって︑このレベルの制度は変化しないものとして扱われる︒

 ②﹁特定のイシュー領域の扱いについての制度﹂である︒このレベルにおける制度は︑当該の社会におけるアクター

(13)

間の相互作用を規定するルールなどがそれにあたる︒国内における法制度︑慣習や︑国際社会における条約などが含

まれる︒  ③﹁レベル2の制度によって規定された組織・集団﹂である︒例えばレベル2の制度に﹁核不拡散条約﹂があるが︑

この条約の規定を実行するため︑国際原子力機関︵IAEA︶が設置され︑加盟国内では外交官庁︑安全保障官庁が

関係アクターとして実務を行う︒これらの行為者がレベル3の制度にあたる︒

 ①と②は︑﹁社会に定着したアイデア﹂の部分と言えるため︑本稿ではこれを制度的環境の﹁規範構造﹂と呼ぶ︒

規範構造は新しいアイデア自体にとっての﹁環境﹂として働く︒一方③は関係するアクターそのものであるため︑こ

れを﹁機構の側面﹂と呼ぶ︒機構の側面は︑アイデアの担い手を取り巻く﹁環境﹂として働く︒          ここで︑②をさらに二つに分けることとする︒というのは︑特定のイシューについても︑国家の長期なスタンスの

ように変化しにくい部分と︑個別具体的な政策といった状況に応じて変化する部分があるためである︒ゆえに本稿で

扱う﹁制度的環境﹂概念は以下のような構成となる︒

  機  構        政策を実施する組織︑政策を形成する組織

 もちろんここで特定した制度的環境の各レベルの区分はあくまで相対的なものである︒しかしこのように分類する

ことで︑制度における変化しない部分︑比較的安定した部分︑比較的変化しやすい部分をそれぞれ浮かび上がらせる

ことができる︒

アイデア.制度的環境・政策転換       ︵都法四十五ー二︶ 二八七

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二八八

第三節 アイデアと制度的環境のダイナミズム

機構の側面 アイデアの担い手の位置

 機構の側面は︑アイデアの担い手を取り巻く﹁制度的環境﹂である︒具体的には政策決定の構造内においてアイデ

アの担い手がいかなる位置にあるかということである︒アイデアが政策に影響を持つ場合︑二つの前提が確認されな

ければならない︒第一に︑担い手自身が政治システム内において正当性を認められていること︒第二に︑アイデアの

担い手が政策決定者に対してアクセスを持っていることである︒ソ連のケースにおいても︑新思考の担い手が︑以上

の二つの条件を満たしていることが観察されなくてはならない︒

 ただし担い手の位置の問題がクリアされただけでは十分ではない︒アイデアの担い手が二つの条件を満たしていて

も︑決定を下すのはリーダーシップの役割である︒ソ連においては八〇年代︑アンドロポフとゴルバチョフが改革を

行ったが︑大規模な政策転換はゴルバチョフの時代に起きた︒よって︑この違いが説明されなければならない︒

規範構造と新しいアイデア

 次にアイデアと規範構造との関係のダイナミズムについて検討する︒新しいアイデアはどのようにして既存の規範

構造の下で受け入れられる︑あるいは受け入れられないのだろうか︒本稿の文脈に即して言えば︑アイデアが政策決

定に影響を及ぼすかどうか︑また︑採用されたアイデアが実際の政策として機能するかどうか︑という点である︒         規範構造の三つのレベル間の関係については︑いくつかの特徴が挙げられる︒まず︑下位の規範ほど具体的な内容

を持つ︒それゆえ他の規範よりも変化しやすいと考えられる︒レベル3の規範は過去にとられてきた政策や︑言説︑

(15)

実行などの集積であるが︑これは時とともに修正され︑変化する可能性を常に含む︒しかし同時に︑レベル3の規範

は︑それより深層にあるレベル2︑レベルーの規範の範躊に収まっていなくてはならない︒ここで考えられる点とし

ては︑レベル3の規範にとって︑レベルーの規範よりもレベル2の規範の方が︑拘束力が大きいということである︒

レベルーの規範は最深部に位置するため︑その抽象性によってさまざまな規範を包含できる度合いが大きいのに対

し︑レベル2の規範はレベルーの規範より対象が狭いため︑レベル3における﹁逸脱﹂を発見しやすいことになる︒

 次に具体的な政策についてのアイデア︵レベル3︶が規範構造に入ってきた場合を考えよう︒このとき新しいアイ

デアは︑既存のレベル3の規範に適合していれば︑受け入れられる可能性が高い︒しかし︑レベル3で適合しないと

いう場合でも︑新しいアイデアがレベル2の規範に適合していることが示されれば︑そのアイデアは既存のレベル3

の規範に対抗する力を持ち︵既存の規範の正当性に疑問を投げかける︶︑アイデアが受け入れられる可能性は高ま

る︒もう少し一般化すれば︑新しいアイデアが︑同レベルの規範に適合しない場合でも︑それより深いレベルの規範

との適合が示されれば︑アイデアが受け入れられる可能性は高菱・

 このことをアイデアの担い手の側から論じると︑その集団が新しいアイデアの正当性を獲得する能力が高いほどア

イデアは受け入れられやすいと言・仁奨・すなわち・アイデアは切り離されて社会の中に存在するわけではない・政

策に対し影響力を獲得しようとする際︑アイデアは必ず誰かの担い手によって主張されている︒既存の規範構造に対

して新しいアイデアを主張する担い手は︑正当性を獲得しようとするゆ彼らは主張する新しいアイデアを︑既存の同

レベルの規範に適合させようと努める︒それが成功すれば︑正当性が獲得しやすくなるだろう︒しかし︑新しいアイ

デアが既存の規範に変更を迫る場合︑そのアイデアは抵抗に遭うことが予想される︒その際に用いる戦略として考え

られるのが︑深層レベルの規範との適合を主張することであり︑それによって既存の規範の正当性に揺らぎを与える

アイデア.制度的環境.政策転換      ︵都法四十五ー二︶ 二八九   ︑

(16)

二九〇

のである︒

 それではソ連において規範構造の各レベルに対応するのは︑具体的にどのような規範だったのであろうか︒まずレ

ベルーの規範として考えられるのは︑ソ連の国家のあり方そのものを規定していだ規範である︒このレベルの規範は

変化しないものとして扱うことができるが︑ソ連においてそれに該当するものは︑マルクス︒レーニン主義である︒

次にレベル2の規範である︒これは︑レベルーの規範から演繹されて規定されたものであり︑特定のイシューにおい

ての基本的な規範である︒本稿が扱っているのは対外政策であるので︑その分野におけるレベル2の規範は何かを考

えればよい︒そこに含まれるのは︑ソ連の対外政策の基調となっている世界観1﹁階級対立としての世界観﹂であ

り︑その世界観を反映した﹁階級的利益の追求﹂︑という行動指針である︒これらは︑理論上マルクス・レーニン主義

﹂のテーゼから演繹的に導かれたものである︒すべての対外政策はこの指針に沿って規定されなくてはならないとされ

た︒レベル3の規範は︑具体的な政策によって作られてきたルールである︒八〇年代の安全保障政策を見れば︑﹁相

互確証破壊︵MAD︶による戦略的安定の維持﹂が挙げられる︒七二年のABM制限条約およびSALT1条約締結

以来︑ソ連は核の均衡を達成したとの認識に至り︑以後この原則によって安全保障政策を策定してきたのである︒

 上記の枠組で想定したメカニズムが働いたとすれば︑ソ連のケースにおいては新思考を構成するそれぞれのアイデ

 アが︑これら既存の規範構造とどのように作用して受け入れられたのかが観察されなくてはならない︒特に新しいア

イデアが既存の規範と対立する場合︑既存の規範を主張する勢力が論争において敗れるなど︑対立する規範の正当性

が揺らぎを与えられる過程が観察されなくてはならない︒また同様に︑新しいアイデアを深層の規範に適合させる議

論が展開されるなど︑新しいアイデアが正当性を獲得しようとする過程も観察されるはずである︒

(17)

  ソ連の政策決定スタイル

   ここで一つの疑問点を解消しておこう︒新しいアイデアが影響力を獲得する過程は︑担い手の正当性・アクセス  ︑

  と︑リーダーシップの適合のみで説明できてしまうのではないかという疑問が湧くからである︒なぜ︑わざわざ新し

  いアイデアと既存の規範構造との適合を見なくてはならないのか︒

   これについては︑アイデアと政策の関係に関するソ連の政策決定のスタイルについて︑先行研究で触れられてきた     ・

  ことを修正する形で︑回答したい︒すなわち︑ソ連では決定が極度に閉ざされた場で行われているために︑アイデア

  の担い手が政策決定者にアクセスすることは困難であるが︑一度アクセスが形成されればそのアイデアは確実に政策        ま    に反映され実行に移される︑という見方が︑先行研究においてとられてきた︒この見方においては︑アイデアの担い

  手と政策決定者︵とりわけソ連共産党書記長︶のアクセス形成が︑アイデアが影響力を持つ十分条件とされている︒

   しかし︑たとえアクセスが形成されても政策決定者がそのアイデアを採用しなければ︑そのアイデアは政策として

  実行されることはない︒また︑党書記長がアイデアを採用した場合︑そのアイデアは政策として実行される確実性は

  高いものの︑ソ連共産党中央委員会政治局︵以下︑政治局︶内︑あるいは他の部局との調整を経なければならない以

・ 上︑抵抗を受けなかった政策は早期に実行され︑抵抗を受けた政策は開始が遅れると考えられる︒ゴルバチョフ政権

  が誕生した後も︑政治局内部がすべて一致していたかというとそうではない︒むしろ︑ゴルバチョフの政策が進展す

  るにつれて︑各論反対を唱える動きも出るようになっていったのが実状であった︒

   このことを踏まえて︑本稿では先行研究が採用してきたソ連の政策決定スタイルに対する見方を修正し︑政策決定

  者によって新しいアイデアが採用されたとしても︑それを反映した政策の実行は︑既存の規範と容易に適合したもの

  が早期に行われ︑適合が困難だったものは遅れて行われる︑というスタイルとして仮定する︒このような政策決定・

アイデア.制度的環境・政策転換      ︐         ︵都法四十五ー二︶ 二九一

(18)

二九二

実行スタイルを仮定するため︑アイデアの担い手と制度的環境の機構の側面のみの関係を見るだけでは不十分で︑ア

イデアそのものと既存の規範構造の関係を見なくてはならないのである︒この点を踏まえて︑次章ではソ連の政策転

換がもたらされたプロセスを見ることにしよう︒

第四章 ソ連における新思考と制度的環境    一

第一節 八〇年代前半における知識人の位置

 初めに︑八〇年代前半のソ連における知識人と政策決定者の関係について概観することで︑制度的環境の機構の側

面の状態を特定する︒この作業によって︑アイデアの担い手の正当性と︑政策決定者へのアクセスという二つの条件

が︑この時期揃っていたことを示す︒

 そもそも多元主義的な体制と同じ意味での﹁民間﹂の政治活動が存在しないソ連において︑新しいアイデアを﹁正

当な﹂立場で政策決定者にもたらすことができるのは知識人・専門家である︒彼らは﹁ソ連を構成する二つの階級︵労

働者︑農民︶と一つの階層﹂のうちの一つ︵インテリゲンチャ階層︶としてソ連社会から意義を認められていた︒

 新思考の担い手となる知識人は︑五〇年代後半から活動を開始したことが知られており︑彼らは科学アカデミー系       あ  シンクタンクの研究員︑あるいはジャーナリストとして活動していた︒しかし六二年の﹁プラハの春﹂以降︑ブレジ           ネフ政権は知識人を管理するために﹁反知識人政策﹂を行った︒この政策によって︑知識人たちは忍従を強いられた

(19)

ものの︑一定の範囲で知識人の自由を認める取引的な要素も含んでいた︒これによって︑党への忠誠を誓う知識人

は︑研究成果に関係なく安定した地位を得られるようになった︒また︑彼らが公的な場で反体制的な発言などしなけ

ればよく︑私的な場での発言には権力は干渉しないことを請け負ったり︑﹁忠誠心のある﹂知識人は優先的に海外出        ︵37︶ 張に行く権利が与えられた︒特に指導的な知識人は党の幹部となるため︑政策決定を行う指導者との接触も増える︒

こうしたことから知識人が政治権力の中で比較的高い地位に引き上げられる結果となった︒もちろんサハロフのよう        ︵38︶ に体制になびかず︑結果追放処分にあった知識人もいたことはたしかである︒

 また︑七〇年代末期にはブレジネフの病気のため︑政策決定機関である政治局が機能しなくなってぎており︑政策        ︵39︶ 立案機関であるソ連共産党中央委員会の各部に実質的権限が移ってきていた︒このため︑関係諸機関への知識人の参

加の機会が広がっていたといえよう︒このような状況の中︑八二年一一月にブレジネフが死去すると︑その後を継い

だアンドロポフは﹁反知識人政策﹂をとりやめ︑積極的に知識人を活用する方針を打ち出し︑知識人の政治への関与        ︵40︶ が制度的に保障されることとなった︒

 このような中︑﹁新思考﹂の担い手となる知識人たちは︑一方ではソ連の政治権力から求められる体制への従属要

求に適合しながらも︑もう一方では西側の研究成果や情報に触れたり︑あるいは西側諸国の知識人との接触の機会

︵国際会議など︶を与えられるようになった︒このケースとしては︑軍縮に関する独立委員会︵パルメ委員会︶にア

メリカ・カナダ研究所︵ISKAN︶のG・アルバートフやココーシンが参加したり︑世界経済国際関係研究所︵I

MEMO︶の所長プリマコフ︑作家のアイトマートフ︑物理学者のログノブがローマクラブにメンバーとして加わっ

       ︵41︶      − たケースなどが挙げられる︒またアンドロポフは︑新思考の担い手たる知識人のパトロンとして彼らを引き上げただ

けでなく︑後に新思考を担う政治家をも引き上げた︒まさにこの時期︑知識人とゴルバチョフが関係を形成し︑この

アイデア・制度的環境・政策転換      ︵都法四十五ー二︶ 二九三

(20)

二九四

関係はそれ以降継続していくのである︒

 以上のことから︑八〇年代初めまでには︑新思考の担い手たる知識人と政策決定者とのアクセスが形成されていた

と見ることができる︒

第二節 二人のリーダーーアンドロポフとゴルバチョフ

 前節では︑八〇年代前半の時期までに︑新思考の担い手たる知識人と政策決定者の間にアクセスが形成されたこと

が示された︒ブレジネフの後を継いだアンドロポフは国内改革に着手し︑政策転換が行われる可能性がなかったとは

いえない︒しかしながら︑国内政策・対外政策を含む大規模な政策転換が起こるのはゴルバチョフ政権まで待たなけ

ればならなかった︒なぜアンドロポフ政権では政策転換が行われず︑ゴルバチョフ政権で行われたのか︒本節では両

者のリーダーシップの違いを検討することで︑新思考が影響力を持つに至ったタイミングについての問いに回答を与

える︒  ブレジネフの後を継いだアンドロポフは︑そのキャリアを外交︑諜報活動の分野で積んできた︒フルシチョフ時代

にはハンガリーに赴任し︑帰国後も東欧との連絡を扱う部署で勤務︑書記長になる前にはKGB議長であった︒この

キャリアが彼をして強硬派であるとのイメージを持たせるものの︑アンドロポフは︑ゴルバチョフをはじめ新思考外

交︑・ペレストロイカを担う政治家を指導部に引き上げるとともに︑早くから新思考の担い手となる知識人のパトロン

として彼らを庇護してきた︒G・アルバートフ︑シャフナザロフ︑ブルラツキー︑ボービン︑ボゴモロフ︑ゲラーシ        ゆ  モフといった人々は︑六〇年代アンドロポフのもとでそのキャリアをスタートさせている︒

(21)

      しかし︑アンドロポフが行ったのは国内の経済改革︑規律強化のみであり︑対外的にはむしろそれまでの路線を継

     承するものであった︒ここには︑従来の対外政策の変更なしに国内の改革が可能である︑という政策目標間の序列に

     ついての変更はなかつ︵超・この要因が・アンド・ポフ自身の信条によるのか︑あるいは政治局内のコンセンサスが形

     成されなかったゆえなのか︑あるいはその両方かは明らか℃はない︒前者であれば︑彼が外交の専門家として積んだ

     経験がフィルターとなって︑知識人の提供するアイデアを取捨選択したため︑従来の外交スタイルを大規模に変更す       ね    ︐ ることを避けたと見ることができる︒また後者については︑アンドロポフとウスチノブ国防相が盟友関係にあったこ  ノ      と︑イデオロギー担当書記のスースロラが健在であったことになど︑彼らとのバランス関係を維持するために︑国内       お       改革を対外政策に優先するという﹁逆転﹂の発想は出せなかったと見ることができる︒いずれにせよ︑八三年秋の時        セ         点では︑ソ連共産党内部では対外的な強硬路線を継続する方針で固まっていたことは確かである︒

      このようなアンドロポフのリーダーシップに対して︑ゴルバチョフのリーダーシップはどうだったのだろうか︒彼

     はモスクワ大裳業後・故郷のスタブロポリ辺殴︵︒シア南部︶の党警としてキャリアを積み︑°モスクワに呼ばれ

     る前は辺区党第一書記を務めていた︒七八年=月にソ連共産党中央委員となりモスクワ政界に入るが︑その後彼は

︐    一貫して農業担当としてのキャリアを積む︒特に八〇年にはアフガニスタン侵攻の制裁措置として︑アメリカからの

     穀物輸出停止を受け︑ブレジネフから食料プログラムの策定を命じられる︒その作業のプロセスに知識人が参加し︑

     ゴルバチョフとの個人的関係が形成されていく︒このような状況の下︑彼のうちで国内経済圧迫の原因が国防予算で              あり︑軍拡競争と国内の経済発展の間にはトレードオフ関係があるとの認識が彼の中で形成されたと考えられる︒こ        お       の認識は︑軍事支出を削減し国内の福祉を増進するという︑彼の政策間の価値序列に反映している︒このような認識

     がどの時点で形成されたのか︑はっきり特定することは難しいが︑農業政策が失敗と認識された頃︑あるいはアンド

アイデア・制度的環境・政策転換      ︵都法四十五ー二︶ 二九五

(22)

二九六

ロポフの下で何度かの外遊の機会を得て︑西側とソ連の格差を目の当たりにした頃などが考えられるが︑いずれにせ

よ八五年までにはこのような認識を持ったと言えよう︒

 一方ゴルバチョフは︑対外政策については素人であった︒しかし︑上述した政策間の価値序列を持っていたため︑

彼の関心はいかにして安定した国際環境を作り出せる対外政策を行うかという点に向いた︒新思考の担い手たる知識

人たちとの接触の中で︑彼は対外政策についての知識を吸収した︒アンドロポフのように外交知識のフィルターを        持っていなかったため︑その学習態度は開かれたものであったという︒こうしてゴルバチョフは新思考を吸収し︑内

在化していったと考えられる︒八四年五月に︑彼のブレーンの一人シャフナザロフが﹃哲学の諸問題﹄誌に﹁核時代

の思考の論理﹂という論文を発表したが︑ここで展開された考え方と︑ゴルバチョフの言説の中で展開される考え方

はきわめて類似している︒このことは︑ゴルバチョフの対外政策に対する考え方が︑知識人に多くを負っていること

を物語っている︒

 最後に検討するのは︑ゴルバチョフと他の政治局員とのバランスである︒ここにもゴルバチョフが︑対外政策と国

内改革の優先順位を逆転することができた背景を見出すことができる︒ゴルバチョフが書記長になったときには︑重

鎮のウスチノブ︑スースロフは死去しており︑アンドロポフのように気兼ねをする必要がなかった︒またこの時期に

は政治局員の高齢化が限界に来ていたため︑ゴルバチョフの書記長就任直後若返りが図られ︑ロマノブ︑チーホノブ

らが更迭され︑リガチョフ︑ルイシコフ︑シェワルナゼらが起用された︒この時期の人事ですべてゴルバチョフの支

持者が起用されたとは言えないが︑長きにわたって動くことのなかった人事を動かしたことで︑ゴルバチョフは支持

を拡大したと言えよう︒ゴルバチョフの人事はその後も進み︑新思考の担い手たる知識人が︑政権にも参加するよう

になる︒ヤコブレフ︑V・メドヴェージェフなどがその例であり︑彼らは後に政治局員にまでなっている︒

(23)

 以上のようにアンドロポフとゴルバチョフのリーダーシップを考察すると︑ゴルバチョフは国内改革を優先するた

めに対外政策を転換する用意があったことが見えてくる︒すなわち軍拡の継続と国内経済改革の両立はありえず︑軍

事部門を削減して国内改革を優先するというゴルバチョフのリーダーシップは︑協調的な対外政策を主張する新思考

と親和性を持っていたと見ることができる︒         

第三節新思考と規範構造

 第三章第三節で定義したように︑ソ連における規範構造を図式的に示すと︑

 レベルーーマルクス・レーニン主義

 レベル21階級闘争としての世界観︑階級的利益を追求する対外政策

 レベル3−MADによる戦略的安定︵安全保障政策︶

 となる︒それでは新思考外交を構成するそれぞれのアイデアは︑いかにしてこれらの規範構造と適合し︑影響力を

獲得したのであろうか︒本節では︑ソ連におけるアイデアと規範構造の関係を検討する︒

世界観・対外政策の基本方針      ︐

 初めに取り上げるのは︑﹁新思考﹂における﹁相互依存の世界観﹂と︑対外政策の基本方針である﹁階級的利益に

対する全人類的価値の優先﹂というアイデアである︒この認識はレベル2の規範に投げ込まれる︒

 それまでのソ連の対外政策は︑﹁階級対立の世界観﹂に基づいて︑﹁︵労働者の︶階級的利益を追求﹂するものもと

   アイデア・制度的環境・政策転換      ︵都法四十五−二︶ 二九七

(24)

二九八

して認識されており︑こういった世界観や︑対外政策の方針はマルクス・レーニン主義の考え方から演繹的に導かれ

たものとされた︒すなわち︑資本主義は成熟して帝国主義に至り︑やがてその膨張傾向は軍国主義を生み出し︑帝国

主義間での戦争に至る︒その状況を社会主義陣営が革命によって打ち倒す︑と謳われていたのである︒この﹁歴史の

必然としての社会主義の勝利﹂という見方からすれば︑ソ連の対外政策は階級闘争の一環であり︑すべて﹁階級的利

益﹂に奉仕するものと見なされた︒

 ここに︑﹁相互依存の世界観﹂と﹁全人類的価値の優先﹂というアイデアが投げ込まれたのである︒これらのアイ

デアは︑既存の﹁階級的﹂な規範になんからの変更を迫るものであったため︑大きな抵抗を受けることが予想された︒

では新しいアイデアは︑これらの規範とどのように適合したのであろうか︒一見新しいアイデアは︑既存の規範を否

定し︑変更を迫っているように見えるが︑両者がどのような論理横⁝造で論じられているのかを見てみると︑実は︑新

しいアイデアは既存の規範を決して否定していないのである︒

 ﹁相互依存の世界観﹂を見てみると︑むしろ︑それまで階級対立としてのみ捉えられてきた世界に︑相互依存とい

う別の様相があることが示されたと言う方が妥当であろう︒同じ世界の異なる様相として︑相互依存と階級対立を両

立させているのである︒ゴルバチョフは著書の中で﹁現代の世界が︵中略︶たがいに係わり依存しあった本質的に統

合のとれた世界﹂という見方を提示し︑新しい対外政策はこの世界観によって策定されていることを述べて㌧租︒一

方︑﹁しかし︑だからといって核の脅威やほかのグローバルな問題の原因を階級的アプローチから分析することを断

念したわけではない﹂とも述べ︑西側への非難も行っているので紮・このよ︑つに・新しいアイデアが既存の規範と

両立することを示し︑世界についての認識を複雑化することで︑新しいアイデアの適合を図ったのである︒

 では﹁全人類的価値の優先﹂についてはどうだろうか︒この方針は︑相互依存の世界観から導かれたものであり︑

(25)

﹁階級的利益の追求﹂という規範と対立するように見える︒しかし︑全人類的価値は﹁優先﹂されるものであり︑階

級的利益が否定されたわけではない︒両者の関係についてシャフナザロフは︑両者は対立的な概念ではなく︑目的と        ︵53︶ 手段の関係であると述べている︒すなわち︑階級的利益の追求は全人類的価値にいたる過程であるとの認識なのであ

る︒ただし総合的に見ると︑階級的利益の追求は︑全人類的価値の追求に従属する構造になっているのである︒

 このように︑﹁相互依存の世界観﹂︑﹁全人類的価値の優先﹂という新しいアイデアを︑既存の規範と融合させつつ︑

力点を新しいアイデアに置くという論理構造が浮かび上がる︒では力点の置き方に関する基準は何だったのか︒この

基準は﹁核時代﹂という時代認識である︒すなわち︑世界には政治体制の違いを超えた問題が山積しており︑その象

徴的な問題として﹁核戦争の恐怖﹂を提示しているのである︒すなわち︑核兵器の登場により︑戦争は︑勝者も敗者       ︵54︶ もない圧倒的な破壊をもたらすだけのものになったという認識である︒したがって核時代にあっては︑核戦争の脅威

をいかに防ぐかが最大の課題となるゆえに︑対外政策は相互依存の世界観に基づいて策定されなければならず︑それ

らは全人類的価値を追求するものでなければならないというものであった︒

 しかし︑これらのアイデアは既存の規範との微妙な論理構造の上に成り立っていたため︑抵抗を受けることが十分

考えられた︒なおかつ﹁全人類的価値の優先﹂というアイデアは過去の論争において否定的扱いを受けた経験を持っ

  ︵55︶ ている︒そのため︑新しいアイデアに正当性を与える努力がなされなくてはならなかった︒これについては二つの行

為を指摘することができる︒

 第一に︑深層レベルの規範と合致させることである︒レベル2の規範の転換を行うためには︑より深層レベルでの

規範との適合が求められる︒これに対してとられた戦略は︑レーニンの思想との適合を論じることであった︒ゴルバ

チョフ自身も︑彼の政策がレーニンの影響を受けていることを随所で述べている︒実際八〇年代前半からレーニン思

   アイデア・制度的環境・政策転換        ^      ︵都法四十五ー二︶ 二九九

(26)

三〇〇

      ︵56︶ 想の再解釈が行われ︑八三年にはレーニン生誕記念式典の準備をゴルバチョフが担当している︒また知識人の議論の

中にも︑レーニンの柔軟な側面を取り出して政治改革の手本とする見方が形成されており︑このような考え方を提示

することで︑﹁全人類的価値の優先﹂というアイデアをより深層レベルの規範に適合させたと見ることができる︒例

えば︑八六年一〇月には︑作家のアイトマートフの主宰でイシク・クリ・フォーラムが開催されたが︑ここにはソ連

だけでなく西側の文化人も招かれ︑ゴルバチョフが参加して﹁全人類的価値﹂とレーニンの思想を結びつける検討が       ︵57︶ 行われ︑その内容が共産党の機関誌﹃コムニスト﹄に掲載されたのであった︒

 第二に︑既存の規範に固執する勢力の正当性を減じることである︒例えば︑八二年から八四年の間に︑﹁社会主義       ︵58︶ の矛盾論争﹂が展開された︒これは社会主義には固有の矛盾が存在するか否か︑存在するとすればそれはどのような

矛盾なのかを巡るものであった︒この論争を通じて︑矛盾の存在を否定し︑共産主義への前進を主張するコソラーポ        ︵59︶ フらの主張が破れた形になり︑結果として八六年の党綱領の改定の際︑改革派の見解が取り入れられたのであった︒

 以上のように﹁相互依存の世界観﹂︑﹁全人類的価値の優先﹂というアイデアは︑既存の規範との間に微妙な論理構

造を持って適合し︑なおかつ﹁核時代﹂という時代認識に基づいて優先的な地位を与えられたのであった︒また次に

論じる軍縮政策の正当性も︑これらのアイデアによって主張されたのであった︒すなわち︑これらのアイデアが優先

的地位を獲得する中で︑軍縮政策を規定する﹁共通の安全保障﹂︑﹁合理的十分性﹂といったアイデアが受け入れられ

る土壌が形成され︑それがレベル3の規範である﹁MADによる戦略的安定維持﹂と結びついたものと考えられる︒

ただし︑軍縮政策の展開を見ると︑核軍縮に比べ通常兵器軍縮は遅れて着手されたことがわかる︒以下では︑本稿で

仮定したソ連の政策決定・実行スタイルを念頭において︑軍縮政策の展開を見てみよう︒

(27)

軍縮政策  軍縮に関する具体的なアイデアは︑レベル3の規範構造の中に投げ込まれる︒これらのアイデアは﹁共通の安全保

障﹂︑﹁合理的十分性﹂などのアイデアであるが︑そこでは﹁軍備の削減による安全の確保﹂という因果関係が認識さ

れていた︒これらのアイデアはいかにして既存の規範と適合したのであろうか︒

 初めに︑当時安全保障政策を規定していた制度がどうなっていたか検討する︒ソ連の軍事政策を方向付けるのは       ︵60︶ ﹁軍事ドクトリン﹂である︒軍事ドクトリンは政府によって発表され︑これに沿って軍事政策が策定される︒ドクト

リンは︑政治的側面と軍事的側面から構成される︒前者は国家の政治目標を反映したものであり︑比較的変化しにく

い︒後者は前者の方針に従って︑兵器の配備︑戦時における行動の指針などを規定する︒ここで問題になってくるの

が党と軍の関係である︒ドクトリンの政治的側面は党が決めるのに対し︑後者についてはい軍による軍事専門知識の

独占によって︑軍の決定がそのまま党で通ってしまう事態が起こりうる︒基本的には軍は党に従属しているものの︑        ︵61︶ ドクトリンの構造上︑党と軍の駆け引きを可能にする条件ができていたのである︒

−このことを念頭において︑当時のソ連の軍事政策を見てみたい︒七二年に米ソ間でABM条約およびSALT1条

約が締結された︒このときの大前提として両国が共有したのが相互確証破壊︵MAD︶戦略であった︒これによって︑

党指導部に﹁核は使えない兵器であり︑核戦争はありえない戦争である﹂との認識が形成された︒その認識はブレジ        ︵62︶ ネフが七七年一月にトゥーラで行った演説にも表れている︒この中でブレジネフは︑ソ連が軍事的優位を目指すこと

を否定し︑同時に核の先制不使用を宣言したのであった︒ここからソ連では軍事ドクトリンの見直しが行われ︑最初

は抵抗していた軍も︑優越性を目指さない点︑核先制使用の否定を認めるに至った︒そして最後に残った﹁核戦争の       ︵63肋 勝利可能性﹂についてドクトリンに明記すべきか否かの論争が︑ウスチノブ国防相とオガルコフ参謀総長との間で行

      ざ    アイデア・制度的環境・政策転換      ︵都法四十五ー二︶ 三〇一

(28)

三〇二

われた︒ウスチノブは党の立場を代表し︑オガルコフは軍の立場を代表していた︒党側は︑核戦争自体を勝敗のない

戦争と認識していたため︑﹁核戦争の勝利可能性﹂を論じることが外交上西側を刺激するものであり︑好ましくない

と考えていた︒一方軍は︑純粋に軍事理論上の議論として︑核戦争の勝利可能性についてドクトリンに明記すること

を主張した︒論争は八四年九月にオガルコフ参謀総長の解任をもって終結し︑核兵器に関しては︑党と軍の見解が一        ︵64︶ 致するに至ったのであった︒

 ﹁新思考﹂の核軍縮についてのアイデアはこのような状況の中に登場したといえる︒すでに党内では﹁核兵器が使

用できない兵器である﹂という規範が形成されており︑問題は︑西側との均衡の維持を︑数量的に高いレベルで行う

か︑低いレベルで行うかという点であった︒この点をめぐっての妥結がうまくいかず︑核軍縮交渉は八三年秋に一旦

頓挫するものの︑対外政策より国内政治を優先するというゴルバチョフのリーダーシップにより︑軍縮交渉は早期に

再開された︒さらに︑ゴルバチョフ政権の初期には︑アルバートフ︑ヴェリホーフがブレーンとして参加しており︑

彼らを通じて﹁共通の安全保障﹂の概念や核軍縮に関するアイデアが持ち込まれたとい︑麓・これによって・ゴルバ

チョフは核軍縮への具体的なプログラムを獲得するにいたったと言えよう︒八五年七月の核実験の一方的停止宣言︑

八七年一二月の中距離核戦力︵INF︶全廃条約の調印など︑その成果は早期に現れている︒

 一方︑通常兵器に関しては核兵器のような規範は早くから形成されず︑実戦に備えた兵器の配備︑開発も継続され

ていた︒この状況に対して︑ゴルバチョフ政権は八六年頃からワルシャワ条約機構の会議で︑通常戦力削減の方向を

探り始めた︒同年二月の第二七回党大会で︑ゴルバチョフは戦力配備の方向について﹁合理的十分性﹂という言葉を         用いたが︑この時点ではっきりとした定義を持ったものではなかった︒その後この概念をめぐって論争が起き︑翌年        せ には﹁攻撃を受けた場合の撃退には十分だが︑攻撃行動には不十分な﹂水準という発言をゴルバチョフ自身が行って

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