ニックリッシュ商事経営学における価値概念につい ての一考察
その他のタイトル Der Wertbegriff von H. Nicklisch am 1912
著者 大橋 昭一
雑誌名 關西大學商學論集
巻 10
号 2
ページ 145‑167
発行年 1965‑06‑30
URL http://hdl.handle.net/10112/00021568
145
ニックリッシュ経営学の出発点となったのは︑一九︱二年の,,
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Industrie)"
であるが︑そこにおいてかれは︑かれよりも以前
またはより以後において経営学の論理的存在可能性の問題に取り組んだすべての論者と同様に︑国民経済学から経
営学をいかに境界づけるかという問題に直面する︒かれは同書において︑一方においては国民経済学と私経済学と
の密接な関係を強調するとともに︑他方においては︑私経済学の国民経済学からの独立を主張するのである︒
しかし︑その際における両学問の関係および私経済学の独立についての論証は決して十分なものではなく︑それ
はいわば一方的な宜言であったにすぎない︒いずれにしろ︑ニックリッシュはその際︑﹁私経済学は個別経済もし
くは企業の概念を援用することによって︑国民経済学から分岐するのである﹂
(S
.2
T
と主張するのであって︑一九
︱二年のニックリッシュの所説においては︑個別経済または企業の概念が軍要な地位を占めるのである︒それでわ
1 4 1
れわれは︑前稿においてかれの当時の企業概念をとりあげて究明し︑シェーンプルークの規定するところによれば
1 5 1
私的︑大経営的商事企業
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として規定される︑
ニッ クリ ッシ ュ商 事経 営学 にお ける 価値 概念 につ いて の一 考察
︵大 橋︶
二
きゞ
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ックリッシ
大
価値概念についての一考察 ュ商事経営学における
橋
五
昭I
ム6
とくに思想的立場を明らかにするためには︑われわれのみると
かれが当時新しき学問たる私経済学を樹立するに際して既存の学問のいずれに︑しかもその学問のうち︑ど
のような立場にたつものに依拠したのかという点が︑さらに追及されねばならない︒この点を︑ニックリッシュの
一九︱二年当時の価値概念を手がかりとして考察することが︑本稿の課題である︒
注山
F . S c h o n p f l u g , B e t r i e b s w i r t s c h a f t s l e h r e ,
2.
A u l ' ! . , h e r a u s g e g e b e n v o n H . S e i s c h a b , S t u t t g a r t
19 54 ,
S .
15 7.
②中村常次郎﹁私経済学時代の独逸経営学﹂馬場敬治編集﹁経営学全集﹂第六巻﹁独逸経営学﹂︵上︶一五七ベージ︒同﹁﹃経営経済学﹄の成立﹂商学論集︵福島大学︶第二
0
巻第 二号 五八 ペー ジ︒ この引用ページ数はH•
N i c k l i s c h , A l l g e m e i n e k a u f m a n n i s c h e B e t r i e b s l e h r e a l s P r i v a t w i r t s c h a f t s l e h r e d e s H a n d e l s ( u n d e d r I n d u s t r i e ) , B d .
I•疇Leipzig
19 12
. の
ペー ジ数 であ る︒ 以下 同様
︒
拙稿﹁ニックリッシュ商市経営学における企業概念についての一考察﹂関西大学商学論渠第一
0
巻第
一号
︒
S c h o n p f l u g , a . a . 0 . , S .
16 7.
この点については、とくに次のものを参照されたい。H•
N i c k l i s c h , N a c h w o r t z u e d n A u s f U h r u n g U b e r d i e R e n t a ‑ b i l i t a t v o n r D
. P a p e ,
NH w H p . , J g .
7 .,S
S . 1 1
3
11 1 4 .
図
周知のように価値概念は︑経営学一般において基底的重要性をもつ問題であって︑最近においてもルーフおよび
ゅヴィットマンによって取り上げられ︑それぞれ体系的に論じられているほどであるが︑このことはなかんず<︱‑ッ
( 6 ) ( 5 ) 1 4 ) ( 3 )
ころ
︑
価 値 概 念
ニッ クリ ッツ ュ商 事経 営学 にお ける 価値 概念 につ いて の一 考察
︵大 橋︶
ニックリッツュの当時における企業概念が︑単なる大規模企業であったにとどまらず︑出資と経営の分離を前提と
した継続企業としてのそれであって︑ニックリッツュがすでに当時︑たとえ経営の立場ではなくても企業全体の立
湯にたっていて︑単なる企業者の立場にたっていたのではないことを︑指摘したのである︒
ところで︑当時におけるニックリッシュの考え︑
五
147
クリッツュに妥当するのであって︑すでに一九三三年にツェーソ︒フルークはそれをニックリッツぎ体系の核心的問
囚題であると特徴づけているほどである︒しかしながらこの価値概念も︑ニックリッツュの体系全体の発展︑変化と
ともに発展しているのであって︑ニックリッシュの価値概念の最も完全なる展開はいうまでもなく一九二九ー三二
年の著書,,
Di
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ch
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t "において行なわれているのであるが︑その出発点が一九︱二年の商事経営
学にあるということも︑これまた︑いうまでもないことである︒
ニックリッシュの価値概念を考察するためには︑それに先立って︑かれの経済観を明らかにしておく必要
があるであろう︒ニックリッシュが当時原子論的な(atomisch)経済観をいだいていたことは︑前稿で指摘したと
ころであるが︑他方かれは︑経済の本質が欲望充足にあるものと考えるのであって︑
と題する第一章において︑まず第一に欲望(Bedurfnis)の概念について論じるのである︒
は︑フォン・ヘルマン(vonHermann)による欲望の定義を可とし︑欲望にたいして︑ その際ニックリッシュ
それが﹁充足されるすべ
ての快楽︑避けられるべきすべての不快を包括しており︑⁝⁝生活の進行を圧迫し︑妨害し︑脅かすところの:
. .
. .
なんらかの欠乏の感じもしくは意識であって︑それから脱却せんとする努力と結びついているものである﹂
(S
.1
6)
と︑一般的な定義を与えているが︑ニックリッシュがその商事経営学において価値論の出発点としている欲望は︑
以上 のよ うな 欲望 一般 では なく て︑ さし あた り︑ とに かく 経済 的欲 望( wi rt sc ha ft li ch eB
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)で
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れは︑ニックリッシュのいうところによれば︑﹁充足に股用を惹起する欲望である﹂が︑私経済学としての商事経
営学においては︑この欲望はさらに具体化︑限定化される必要があるのであって︑この経済的欲望の私経済的意義
は︑ニックリッシュによると︑﹁営利経済がこの欲望充足を営業として配慮すること︑および︑すべての営利経済
はこの欲望充足にたいして間接的もしくは直接的に関与し︑しかもできる限り広範囲において関与しようと試みる
ニッ クリ ッシ ュ商 事経 営学 にお ける 価値 概念 につ いて の一 考察
︵大 橋︶
さて
︑
五
﹁経営学の一般経済的基礎﹂
143
口 ︑
( 一
) ニ
ック リッ ツュ 商事 経営 学に おけ る価 値概 念に つい ての 一考 察.
︵大 栖︶
が︑それは︑かれらの獲得する利潤蘇がこの範囲の大きさによって規制されるためである﹂︑というところにある︒
ニックリッツュは︑このように欲望をば︑利潤追求をメルクマールとして具体化し︑この具体化された︑いわば
私経済的欲望概念をその理論の︑従って価値理論の根本的出発点とするのであるが︑その点はともかくとして︑以
上のような欲望を出発点とするニックリッシュの経済観が︑当時存在した経済思想の中では︑粍済を消代の面から︑
すなわち享楽︵ゴッセソ︶や欲望︵メソガー︶から把握せんとした︑当時支配的理論となりつつあった限界効用学
派経済学の経済観に通ずるものであることは︑まず疑いないところであろう︒当時︑ニックリッツュが限界効用学
派経済学と密接な関係においてその理論を組み立てたものであることは︑ニックリッシュが限界効用学派の凡祖メ
ソガーと軌を一にして︑欲望以外に︑メソガーが価値論の出発点とした欲求
(B
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ときわめて類似の概念たる︑
名称すら同一の欲求なる概念を設け︑それを︑その価値理論の具体的出発点としているところからもはっ含りうか
がうことができる︒すなわちメンガーが︑﹁人間の配慮する期間内における欲望を満足するに必要な財貨の数批﹂
固を欲求としているのにたいして︑ニックリッシュは欲求を︑﹁いかほどの財貨械およびいかなる︵技術的︶質のもの
によって︑現存する欲望という複合体の全部もしくは一部が充足されるかを示すものであり︑所与の時期における
財在高
(V
or
ra
t)
と対応的関係にあるものである﹂
(S .2 0)
としているのである︒
さて価値であるが︑もともとニックリッジュは︑
固ことで有名であって︑この傾向はすでに一九︱二年の商事経営学においても認められる︒しかし当時のかれの価値
理論において主たる役割を洞じているものは︑次の三つの分類である︒
主観的価値
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と客般的価値
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と経済的価値
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一義的に価値概念を規定せず数多くの価値概念を提示している
五 四
149
使用価値
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)︑生産価値
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︑)
市 湯 価 値 を
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まず第一の分類についてかれは︑﹁価値ほ価値判断である︒価値は主観的なものであると同時に客観的なもので
ある︒すなわち︑客観的な事実を主観において映し出しているものである
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従って主観的価値と客観的価値とにおいてはなんの相違もない﹂
(S
S.
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ー
21
)
すぎず︑主観的価値と客観的価値というこの二つの価値概念についてのニックリッシュの規定そのものは︑まこと
に不十分︑不明確である︒従ってわれわれはこれを︑他の問題についてのかれの叙述から推測せざるをえないので
あるが︑それによると後述のごとく︑少なくとも客観的価値が次の分類における技術的価値をさすものではないか
と思われる︒しかし︑ここではその点はさておき︑とりあえず︑ニックリッシュが主観的価値と客観的価値との存
在はこれを一応認めていること︑しかし︑両者を主観的価値において統合させていることだけを︑確認しておきた
いと 思う
︒
五 五
とのみのべているに
第二の技術的価値と経済的価値はかれの価値理論の土台をなすものであるが︑しかしこの両概念にたいしてもニ
ックリッシュ自身は簡単な説明しか与えておらず︑それによると︑技術的価値は﹁一もしくは二以上の欲望にたい
してさまざまな度合でなされうる充足のための︑財の単なる技術的適性﹂であり︑経済的価値は﹁技術的適性と︑
その高さにおいてほとくに欲求と財在高との簸的関係に依存するもの﹂
(S
.2
1)
である︒また経済的価値は︑ニック
リッシュによると︑その財の消喪とともに消減するものであるが︑財の技術的適性たる充足価値
(B
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)
は財の消費によって消減することなく︑人間の力そのものもしくは人間の生活の維持に役立つものに転化
するのであり︑そして︑その力やそれらのものが経済において働く限りにおいては︑再び価値に︑しかも充足価値
に回婦するものである
(S
S.
32
1お︶︒ここに︑後年の価値循環思考にたいする朋芽がすでに明瞭によみとられうるの
ニッ クリ ッシ ュ商 事経 営学 にお ける 価値 概念 につ いて の一 考察
︵大 椅︶
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)
︒
日150
であるが︑それはともかく︑ここではさしあたり︑ニックリッシュが技術的価値の領域と経済的価値の領域との二
本立において経済︑そして経営をとらえ︑それをその価値論全体の第一の土台としていることが注目されねばなら
ない︒ところで︑この技術的価値と経済的価値とがいかなる関係にあるかについては︑技術的価値と経済的価値と
をニックリッシュが対応的に提示しているとはいえ︑経済的価値を決定するものとして技術的適性
( 1 1
技術的価値
充足価値︶と欲求と財貨祉との関係という二つのものを挙げていることが注目されるのであって︑このことは︑1 1
とりもなおさず︑技術的価値と経済的価値とが次元を同じくするものではないことを︑まずもって推測させるので
ある
︒
ニッ クリ ッシ ュ商 事経 営学 にお ける 価値 概念 につ いて の一 考察
︵大 橋︶
ところで︑ここでさらに考慮されるべき重要なことは︑ニックリッシュが︑少なくとも当時においては︑価値論
しか展開しておらず︑価値と価格とを基本的には全然区別していないということである︒かれは確かに﹁価格﹂と
いう七行からのみなる一節を設けてはいるが︑価格を﹁一定の財貨蘇と関連づけられた市場価値である﹂
(S .3 2)
と
して︑独自の価格論を展開してはいないのである︒このことは︑いずれにしろかれが価値論と価格論との区別を︑
少なくともする必要性を認めなかったことを意味するのであるが︑しかしこのことは︑通常は価格論において論じ
られる事柄を︑かれが全然ふれていないことを必ずしも意味しない︒価値論として技術的価値と経済的価値との次
元を異にする二つの価値が提示されたことは︑価格論が展開されなかったこととまさに対応しているのであって︑
われわれの見解によれば︑ニックリッシュの価値論全体は︑今問題にしている技術的価値と経済的価値にしても︑
価値論と価格論との二つの範時に区別して論じられる必要がまずもってあるのではないかと思われるのである︒こ
のことは︑次の使用価値︑生産価値︑市場価値についてのかれの叙述をみれば︑いっそう明らかであるが︑本稿に
おけるわれわれの問題設定たるニックリッシュ商専経営学の性格という観点からは︑ここでは次の点が注目される
五 六
151
五 七
べきである︒それは︑経済的価値はなるほど欲求と財貨量との関係によってその大きさがきまると︑限界効用学派
経済学の意味において規定されているが︑しかし技術的価値は︑財に付着せるものとして︑独立してそれ自身で存
在するものとして把握されていることである︒それはこの価値が︑経済的価値とは異なって︑財の消費によっても
消滅じないものとニックリッシュが理解しているところからいっても疑いないところであろう︒この点に着目して
われわれは︑この技術的価値が第一の分類における客観的価値をさすものではないかとの解釈を試みたのであるが︑
それはともかく︑技術的価値についてのニックリッシュのこのような考えが︑ポェーム・バウェルクの客観的価値
に︑たとえ完全ではなくある程度にしろ通ずるものであるとはいえ︑価値を財に付着している属性ではなくて︑財
1 8 1
に対立する主体それ自身の一定の精神的状態として︑文字通り主観的価値の意味において把握する限界効用学派経
済学の本来の価値観の枠外のものであることは︑まず疑いないところであろう︒
第三の使用価値︑生産価値︑市場価値はニックリッシュの価値理論の主たる内容をなすものである︒まず使用価
値であるが︑ニックリッシュは︑﹁それはさしあたり一定の欲望の充足のための技術的適性であるが︑欲求と財在高
との数蘊関係によって条件づけられているものであるから︑経済的価値でもある﹂
(5 .2 1)
として︑使用価値が技術
的価値であると同時に経済的価値であると主張するのであって︑技術的価値と経済的価値とがいわば二重性的なも
のであることをはっきり明言しているのであるが︑しかしかれはつづいて︑﹁使用価値は︑欲望者がその個人的存
在と福祉のためにその欲望に与える意義に︑存在する﹂
(5 .2 1)
とのべ︑使用価値そのものが主観的価値たるもので
あることを主張する︒そしてこの使用価値が具体的にはどのようにしてきまるかについて︑次のような説明を与え
ている︒使用価値の決定の問題においては︑ニックリッシュによると︑二つの段階が区別される︒それは個別的価
値としての使用価値と︑一般的価値としての使用価値とである︒いずれの場合においても使用価値は︑欲望と財在
ニッ クリ ッシ ュ商 事経 営学 にお ける 価値 概念 につ いて の一 考察
︵大 橋︶
l:$2
—ックリッシュによれば、独占以外の場合であるから、常
ニッ クリ ッツ ュ商 事経 営学 にお ける 価値 概念 につ いて の一 考察
︵大 橋︶
高との関係によってきまるのであって︑まず前者の個別的価値としての段階における使用価値において︑財在高の
側面からいえば︑財在高大なるほど個別財の価値は下る︒次に欲望の側からいえば財は強度の種々なる欲望の充足
に役立ちうるし︑程度の同じまたは異なった複数の欲望の充足に役立ちうるが︑前の場合には平均強度の欲望が︑
後の場合には︑問題になりうる欲望の平均的重要性が︑その財の使用価値を決定する要因となり︑使用価値はこの
平均のいかんによって変動する︒しかもこの平均は財在高の蕨のいかんによって変動し︑たとえば在高大の時には︑
重要性より小の欲望も充足されうることになり︑この平均は下落する
(S S. 21
ー
22
)︒
ただここで注意されるぺきことは︑ここでいう平均が︑ニックリッツュによれば︑あくまで一個別経済内におけ
る平均だということである︒たとえば一個別経済内においても︑ある特定財にたいする欲望の強度は場合のいかん
により種々であるが︑それを平均したものがここでいう平均強度であって︑複数個別経済によるある特定財にたい
する欲望の強度を平均したものではない︒つまりニックリッシュによると︑平均の形成は統一的指揮のもとにある
個別経済内においてのみ可能であって︑単一経済(eine
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では
ない
国民
経済
や世
界経
済
では︑不可能なのである︵
S . 2
︒ここに︑国民経済学にたいする私経済学の礎石としての基底的重要性︑従って私3 )
1 9 1
経済学の国民経済学からの独立の論拠をニックリッシュが求めていることは推察に難くないところであるが︑それ
はともかく︑この際生ずる平均が個別経済のいかんによって相異するものであるから︑いうまでもなく︑その結果
形成される使用価値も︑個別経済のいかんによって相異することになる︒その意味におかてこれは個別的価値とし
ての使用価値である︒
次に︑この個別的価値としての使用価値から一般的価値としての使用価値が形成されねばならないが`個別的価
値とは別個なものとして一般的価値が存在しうるのほ︑
五八
li:13
五 九
一ックリッツュは一般的価値の形成というこの問題を解決する に競争の行なわれている場合である︒そしてここにおいて一般的価値を形成させるものとしてニックリッツュがあげるものは︑平均原理ではなくて限界原理である︒
ために︑生活必需品の場合を例にとり︑その財の価値が最高となる場合と最低になる場合という二つの両極端の場
合を︑例としてあげる︒第一の場合は財在高がきわめて僅少である場合であって︑その結果欲望者の側において財
在高にたいする競争が起り︑欲望強度最大の者のその財にたいする評価によって︑その財の一般的使用価値はきま
る︒第二の財在高がきわめて大の場合︑すなわち過剰生産の場合には︑反対に財在高所有者の側において競争が生
じ︑欲望強度最小の欲望者の評価が決定的なものになる︒前の場合は極大効用であり︑後の場合は極小効用である
が︑いずれの場合においてもいわゆる限界効用が一般的価値の決定要因になる︑とニックリッシュはいうのである︒
以土のごとき︱一ックリッシュの使用価値論において︑今日の理論水準からすれば多くの問題点が指摘されうること
はいうまでもないのであるが︑本稿におけるわれわれの問題設定からすれば︑かれの規定する通り︑ニックリッシ
ュの使用価値がすぺて欲望者の側における価値評価に依存すること︑そしてその価値評価は︑財の技術的適性を基
礎にするとしても︑あくまで欲求と財貨盤との数最関係にたいする評価であるということ︑要するに︑たとえ全く
完全にというわけでないとしても︑少なくとも基本的には限界効用学派経済学の意味において使用価値を規定して
いることが︑確認されねばならない︒そして使用価値においても︑価値は客観的な技術的価値と主観的な経済的価
値との二重性をなしているが︑それらは相互に次元を異にするものであり︑経済的価値が市場で決定されるもので
あることからいって︑少なくとも一般的価値としての経済的価値はいわゆる価格的範疇のものであることが︑指摘
されうるのである︒
生産価値もニックリッシュによれば技術的価値と経済的価値との二重性をなす︒生産価値は︑使用価値が消費領
ニッ クリ ッシ ュ商 事経 営学 にお ける 価値 概念 につ いて の一 考咲
(K
惰 ︶
15鼻
ニッ クリ ッツ ュ商 事経 営学 にお ける 価値 概念 につ いて の一 考察
︵大 橋︶
域で問題となる価値であるのにたいして︑生産領域において問題となる価値であって︑そうした性質上︑
ッシュによると﹃加算﹄
( A d d
i t i o
n )
によって成立する︒まず技術的価値についてみれば︑生産物の生産価値は︑
生産過程において原材料︑労働手段︑人間労働として消費された財のもつ技術的適性すなわち技術的価値が︑生産
された財へ移転することによって発生するのであり︑これをニックリッシュは製造価値
( H e r
s t l l
u n g s
w e r t
) とよ
ぶ︒他方かれは︑これらの生産要素が欲求と在高との関係においてそれぞれとる価値を擬固価値
( G
e s
t e
h u
n g
s w
e r
t )
とよび︑これらの諸凝固価値が生産において加算されたものとして費用価値
( K o s
t e n w
e r t )
なる 概念 を設 定し
︑
この費用価値を︑販売において回収されるべき価値であるとしている
( S . 3 6 )
︒かくして生産価値は︑その性質上使
用価値とは異なって高度に生産技術上の制約をうけ︑その意味ではさしあたり原価価値
( P
r o
d u
k t
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n s
k o
s t
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w e
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̀
S e
l b
s t
k o
s t
e n
w e
r t
)
をなすのであるが︑他面において︑﹁財在高と欲求との数呈関係を顧慮して生産されたとみな
され る価 値﹂
(S
.2
7)
という純粋に経済的な価値としても︑把握されるのである︒そしてニックリッシュによれば︑
経済的価値としての生産価値は︑使用価値の場合と同様︑使用価値の場合と同様な概念的な前提︑原理︑傾向のも
とに行なわれる評価にもとずく価値である︒ただ︑使用価値の場合には欲望者の側での評価であったのにたいして︑
生産価値の場合には生産者の側でなされる評価である点が異なるのみである
(S
.2
7)
︒かくして生産価値も︑使用価
値と同様︑基本的には限界効用学派経済学の意味において規定されているのであって︑その場合︑ニックリッシュ
のいう﹃加算﹄が︑メソガーによって端緒を与えられウィーザーによって大成されたいわゆる帰属
( N
u re c
h n
u n
g )
理論の裏返しであることは︑いうまでもないであろう︒生産物の価値を出発点としてその価値の個々の生産手段へ
の帰属を問題にする帰属理論をとるか︑もしくは生産手段の価値から生産物の価値と加箕する加符理論をとるかと
いうことは︑まさに問題を個別経済の立場からみるか︑それとも全体経済の立場からみるかの途いを慈味するもの
六 0
一ッ
クリ
155
( 7 ) ( 6 ) ( 5 ) ( 4 ) ( 3 ) ( 2 )
注山
ということができる︒従って︑ニックリッツュがこれを加算問題として把握したことは︑価値問題においてかれが
国民経済学の価値理論をそのまま受け入れるのではなくて︑それを経営学的に修正していることを示すものであり︑
他方メソガーがそれを帰属問題として設定したことは︑メンガーがたとえマイクロコスミックな見方をとっていた
としても︑畢党国民経済学者であったことを示すものであろう︒
要するに︑使用価値と生産価値とは根本的には主観的価値たるものであるが︑技術的価値と経済的価値とのいわ
ば二重性をなしている︒しかしこの場合︑技術的価値と経済的価値とは単に技術的なものと経済的なものという意
味ばかりではなく︑次元を異にするものであることが注意されねばならない︒この事を考慮してわれわれは後者を
価格たるものであると理解したのであるが︑ともあれ︑経済的価値は︑使用価値においても生産価値においても︑
欲求と財貨最によってきまるという共通性を有するところから︱つのものに結合されうることになる︒それがか
れのいう第三の価値︑市場価値である︒しからばこの市場価値は︑いかにして形成されるものとニックリッシュは
考えているであろうか︒この点について節をあらためて究明することにしよう︒
但し
︑こ うし た見 解が
︑た とえ ば今 日の ドイ ッ経 営学 にお いて も一 般的 な見 解で ある とい うこ とは でき ない
︒た とえ ば︑ それ ぞれ 戦後 の代 表的 文献 のう ちに 数え られ るグ ーテ ンペ ルク の, ,
G r u n d l a g e n d e r B e t r i e b s w i r t s c h a f t s l e h r e
"
ゃッ
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ファ
ーの
,,
D i e U n t e r n e h m u n g "
には
︑い わゆ る価 値理 論は 全然 見当 たら ない ので ある
︒
W . R u f , D i e G r
g
d l a g e n i e n e s b e t r i e b s w i r t s c h a f t l i c h e n W e r t b e g r i f f e s , B e r n 1 9 5 5 . W . W i t t m a n n , D e r W e r t b e g r i f f
n i d e r B e t r i e b s w i r t s c h a f t s l e h r e , o K l n u n d O p l a d e n 9 5 1 6 . S c h i : i n p f l u g , a . a . 0 . , S . 2 1 9 .
なお
R u f , a . a .
0 , ,
S . 1 0 7 .
~~。C . M e n g e r . G r u n d s l l t z e d e r V o l k s w i r t s c h a f t s l e h r e ,
W i e n 1 8 7 1 , S . 3 4 . R u f , a . a , 0 . , S . 1 1 1 . W i t t m a n n , a . a . 0 . , S . 1 5 . E•
v .
B o h m
, B
a w e r k , K a p i t a l u n d K a p i t a l z i n s B , d .
I I . ,
S . 2 1 4 .
ニッ クリ ッシ ュ商 事経 営学 にお ける 価値 概念 につ いて の一 考察︵大 橋︶
六
156
︵S . 2 8 )
︒
x 1
. .. .
. .. .
. .. .
. .. .
. .. .
. .. .
. .. .
. .. .
. .. .
. .. .
. .
︱ ︱︱
m
Q w
11
従って欲望を最有利に充足するためには︑財の購買者は︑
mすなわち市場価値をできる限り低く︑
術的適性をできる限り高くすることが必要である︒この原理は生産者にとっても購買過程に関する限りそのまま妥 当するが︑生産者にとってとくに関係する関係式として︑ニックリッシュは次の二つの式を提示する︒但し
yは原
価価値をさす︒ 成立する
m
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y x C
.. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. ︱ 人 一
y
財の経済的適性を如技術的適性を
x︑市湯価値を
mとすると︑
( 1 1 )
rrm( 9 ) ( 8 )
ニックリッツュ商事経営学における価値概念についての一考察︵大橋︶住谷悦治﹁経済学史概論﹂八七ページ︒
この点ではニックリッシュはゴムペルクと︑考え方では一致している︒というのは
・ n
ムペルクは︑周知のように︑国民経済的現象は数批的に表現できない故︑数裁化の可能な個別経済的現象を対象とする個別経済学の基礎の上にのみ︑国民経済学は可能であるとするからである。L•
G o m b e r g G r u n d l e g u n g d e r V e r r e c h n u n g s w i s s e n s c h a f t , L e i p z i g
1 9 0 8 .
S.
69
.
経済学でいう限界効用が︑原則として後者の極小効用の場合だけであることは︑すでにニックリッシュが指摘している通
りで ある
S . 2 ︵
5 ) ︒
三谷 友吉
﹁近 代経 済学
﹂︵ 上︶
︱︱
‑ 0
ペー
ジ︒
市 場 価 値 論
一ックリッシュによれば︑次のような関係式が
.
~, ,
xすなわち技
1.57
としているのである︒
六
一九︱二年の商事経営学においては︑この二つの式を相前後してかかげ︑ともに生産者にとって
重要なものであるとするのみで︑両式の相違については全然言及していない︒それどころか︑﹁生産そのものにと
っては﹂②式が決定的意義をもち︑③式については︑﹁が大でありyが小であればあるほど生産物の販売は容易
になる﹂として︑販売にとって矧式が重要な意味をもつかのごとく記述している
(S
S.
28
ー
29
)︒しかしながら︑この
ようなニックリッシュの当時の理解は︑第五版においてすでにかれ自身訂正しているように︑完全に誤りであって︑
正しくはまさにその逆であり︑生産そのものにとっては③式が︑販売を含めた全体にとって②式が妥当すべきもの
1 2 1
であることはいうまでもない︒
以上は価値論から薄き出されうる個別経済の指導原理であり︑それが経済原則の意味におけるそれであることは
いうまでもないのであって︑ニックリッツュは︑叙述のこの段階においては︑経済原則を個別経済の指導原則とし
ているわけである︒しかしかれは︑前稿で指摘したように︑経済原則の内容を一義的に規定しておらず︑その叙述︑
理解は個所によって相異しているのであるが︑ここにおいては︑山式と③式についての前記のかれの解釈から明瞭
にうかがわれるように︑俗に﹃最小の費用で最大の成果を獲得する﹄と規定されるまさにその意味において︑経済
原則を理解している︒このような理解が経済原則の正しい理解にとって決して十分なものでないことは︑これまた
前稿で指摘しておいた通りである︒ところでかれは︑図式を生産過程にたいする指導原理として把握し︑さらにそ
れをくわしく説明しているが︑それによると︑yを最有利に形成するためには﹁生産的総効用
(p
ro
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Ge
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am
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最大で経済すること﹂が重要であり︑かくてここにおいても限界効用の法則すなわち﹁生産適性の法
則 ﹂
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) が妥 当
1す
る
(S
.2
9)
と︑限界原理をば指導原理
ニッ クリ ッシ ュ商 事経 営学 にお ける 価値 概念 につ いて の一 考察
︵大 橋︶
しかしかれは︑
1.58
ニッ クリ ッツ ュ商 事経 営学 にお ける 価値 概念 につ いて の一 考察
︵大 橋︶
さて︑各個別経済が以上のような原理にもとずいて行動する時︑形成される市場価値はどのようなものになるで
あろうか︒この問題は︑ニックリッツュによれば要するに原価価値と市湯価値との関係の問題であって︑各財の原
価価値と生産薩との関係のいかんによって異なる︒すなわち日︑同一の原価価値で任意に生産撒が増加されうる
財にあっては︑自由競争を前提とする限り︑市湯価値は︑少なくとも長期的には︑平均的原価価値に応じてきまる︒
なぜならば︑この種の財にあっては平均的原価価値で生産批を任意に増大しうるから︑高原価価値で生産されたも
のは販売されえないからである︒口︑同一の原価で任意には生産鼠を増加しえない財にあっては︑生産批増加は必
ず原価価値騰貴を伴うから︑市場価値は欲望増大に際して︑企業が高原価価値において生産をなす限りにおいての
み︑高まりうる︒従ってこの種の財にあっては︑市場価値が原価価値を基礎にして形成されるのではなくて︑逆に︑
市場価値の高さがより高い原価価値で生産を行なうかどうかの決定条件となる︒この結果︑低原価で同一財を生産
しうる生産者には︑その原価と原価最高の生産者の原価との差である﹃レント﹄が生じる︒国︑枇に限界のある財
では、独占にたいする自然的な基盤が存在し、市場価値はいわゆる独占価格へ容易に転ずる(SS.29—31)。以上のご
とくニックリッシュほ︑日の財には平均原理が適用されうるものとしている︒そしてその湯合の均衡点がいわゆる
平均費用
11
限界喪用
11
価格の点であるから︑ここにおいては︑結局個別経済は︑いわゆる経済性原理によって蒔か
れるものと︑ニックリッツュは考えていることになる︒しかし口の財では︑限界原理が適用されうるものとされ︑
そして乎均喪用極小点ではなくて︑限界喪用
11
価格の点が均衡点とされているから︑利潤極大化原理が個別経済の
指渫原理となることになる︒このことは国の財には完全にあてはまるのであって︑ニックリッツュ自身︑あらゆる
点から考えて﹁生産者に最大の利益となる価格の確定が問題である﹂
(S
.3
1)
との べて いる
︒
つまりここにおいて︑体系理念の観点からいえば︑経済原則とともに利潤原則がニックリッシュの叙述にはいっ
六 四
159
いずれにしろニックリッシュの商事経営学においては︑利潤が枢要な地位を占めることになり︑
学では国民経済学とは異なって収益性が支配的意義をもち
(S .2
) ︑
ニッ クリ ッシ ュ商 事経 営学 にお ける 価値 概念 につ いて の一 考察
︵大 橋︶
るところからも︑はっきり主張されうるであろう︒ おいてこの原則に従わねばならず︑
六 五
収益性の問題では利潤概念を欠くことはできな てくる︒否︑現実には︑収獲逓減の法則が妥当するものとすれば︑本来t
の財が存在しうるのはごく稀な場合であり︑少なくとも今日では︑その社会経済的条件からいっても︑現実の財の大多数を占めるものは口もしくは国の財
ニックリッツュはここにおいて︑実際には︑利潤原則を個別経済の指導原則とするにいたっているの
である︒個別経済の指導原則としてニックリッシュが利潤原則をとるのかそれとも経済原則をとるかについてのか
れの記述はまことに不十分︑不明確であって︑その結果︑かれは利潤原則と経済原則との間をさまようているとい
③ った評価がなされてきたのであるが︑しかしながらわれわれは︑ここにおいて︑個別経済内部のいわば経営内的活
動にたいする指導原則と︑他の個別経済との関連においていわば個別経済全体を指薄すべき原則とを区別しなくて
はならないであろう︒このような観点からすると︑ニックリッシュは︑確かに個別経済の指導原則としては経済原
則かそれとも利潤原則のいずれが支配的なものであるかについて︑一義的な決断を下してはいないのであるが︑前
者を対内的な指導原則として︑後者を対外的な指導原則として考えていたのではないかと︑解釈することができる
のではなかろうか︒このことは︑かれが経済原則と利潤原則とは本質的にみれば同一の思想を異なった形で定式化
したものにすぎないが︑しかし詳細に検討すると非本質的として片づけることのできない相異点があるとして︑経
済原則が一定の原則の追求を経済の目的とすることであるのに︑利潤原則は経済原則の遥守によってもたらされる
結果を経済の目的とすることであり︑個別経済の生活原則は経済原則であって︑個別経済はその組織および活動に
しかもこの原則に従う限りにおいてのみ純利潤は獲得できる
(S .6
)︑としてい
であ るか ら︑
かれは︑私経済