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夜間中学をめぐって

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(1)

夜間中学をめぐって

椎 名 愼太郎 プロローグ

2 0 1 5年5月9日の朝日新聞に、文科省が行った夜間中学に関する実態調査の記事が 掲載されていた。全国8都府県に3 1校の公立の夜間中学があるが、これに通う生徒 1 8 4 9人の4倍ほどの人数が学ぶ「自主夜間中学」が存在しているという内容だった。

これを目にして、何かとてもなつかしい記憶が呼び起こされた気がした。思い出して みると、私は、国立国会図書館調査立法考査局に勤務していた1 9 7 5年に、局が公刊し ている雑誌『レファレンス』にこれに関係する文章を書いたことがある

(1)

。この当 時、高校進学率が全国平均で9 0%を超え、 「準義務化」時代を迎えたとされ、これを 背景に、高校義務化論が一部で主張されていた。文教課で教育関係の調査に従事して いて、当時「後期中等教育」と呼ばれていた教育問題にいささかの関心をもっていた ことから、この問題を主題に論文を書いたものである。その中で夜間中学の問題にふ れたのだ。 「義務化」という制度改革には、しばしばマイナスの面が伴う。それを、

敗戦直後の新制中学の義務化の過程とダブらせることで検討したいという狙いだっ た。

いま読み返してみると、若さよりは未熟さが歴然としていて、恥じ入るばかりであ るが、ここで夜間中学に注目した問題意識はそれなりに分る。とくに誕生当時の夜間 中学が、戦後の混乱期にあわただしく制度化された新制中学の矛盾を体現していると いうことである。そして、いま、全国各地で公立及び自主「夜間中学」が背負わされ ている役割の中にも、なお、その矛盾の残滓があるのではないか。 「義務化」は、本 来は教育への権利

(これを「教育を受ける権利」あるいは「学習権」と表現するのが教育法 学の多数派であるが、私は昔から理由があって、「教育への権利」と言い続けている。「教える」

に対応して「学ぶ、学習する」という捉え方にはいまでもいささかの抵抗感がある。教育の本 質が学ぶ者の主体的行為であることを表現するには「自分が自分を教える」というニュアンス が表現できる「教育への権利」という用語をここでも使い続けたい。)

を実現するための介 入であるはずだが、 「義務」と表現された瞬間から、そこでの学びは「苦役」となる ことを運命付けられるのではないか。

本稿を新たに書き起こすにあたって、私の念頭にあるのは、次のような課題である。

第一に、新制中学校は、単に、占領行政を主導したアメリカの影響と圧力のみで誕 生したのではなく、その胎動が戦前期の初等教育後教育への大衆の積極的進学という

−89−

(2)

実績に支えられ、また、その実質においても、学校施設や教育スタッフの供給源は高 等小学校や青年学校の教師陣に負うところが少なくなかったのではないかというこ と

(2)

第二に、戦後の混乱期であったが、同時に、戦中期に軍事優先、経済優先で失われ ていた文化的営為に国民全体が強い意欲を持ち、客観情勢では無理に近いことを、敢 えてやるという選択に走ったのではないか、そして、その意欲と無理の狭間に取り残 された貧困層にかすかな光をもたらしたのが夜間中学であったのではないかというこ と。

第三に、誕生当初から過渡的と信じられていた存在である夜間中学が、戦後7 0年を 経た今日でも生き残っているという不思議さを解き明かし、その活動を、新たに生涯 学習機関として再構成する道はないのだろうかということである。

私の手元に残された未熟さの固まりをときほぐしながら、私が「矛盾」と考えたも のを4 0年の時の流れと、私自身のさまざまな研究及び社会活動における経験をふまえ て、再論してみたい。

前史

(1)戦前戦中期における青年前期教育充実案

明治時代に初等教育6年の後の教育コースは、大略3本立てとして確立していた。

1 男子のための中等学校

(旧制中学)

2 実業学校・高等女学校

3 小学校高等科・実業補習学校

(後の青年学校)

先ず確認しておきたいのは、戦前の支配層の中に、民衆が中等教育を受けることは 無駄であり、むしろ有害だという考え方があったことである。赤尾はこれが日本に 限ったことではなく、イギリスやフランスの例とあわせて指摘している。この考え方 を明確に示しているのが、1 9 2 6

(大正15)

年に行われた文部省社会教育課長小尾範治 の講演である。

「大多数の者に正常なる中等以上の教育を施すことは、能力という点から見て必要で ない許りでなく、国民教育政策の上からしても余程考慮す可き点である。

(略)

中等 以上の学校教育を受ければ、筋肉労働を嫌ふ、嫌はない者も少なくないが大体之を嫌 ふ傾向が多い。そこで此傾向が社会事業の発展と云ふ上から許りでなく、社会全体の 発展といふ立場、国家の発展といふ立場からして、憂慮す可き問題であるとするなら ば、強ひて学校を増設して多くの人を中等以上の学校に入れること許り考えないで、

他の方面に就いて教育の要求を充たす方便を講ずる方が賢くないか」

(3)

−90−

(3)

中等教育の拡充は国家的見地から望ましくないという本音が見える。しかし、一方 では、庶民が初等教育後の教育に進む割合は着実に増えていた。すでに1 9 3 6年段階 で、義務教育

(尋常小学校)

6年後の高等小学校への進学率は6 3%余に達していた

(4)

。 中学進学を含めると、この数字は8 0%台に及ぶ。

この庶民の中等教育願望を受け止める基盤となったのが青年学校であった。高等小 学校は中等教育へとつながらなかったが、青年学校は高等小学校と並列の普通科2年 修了後に、実業教育を中心とする本科5年が設置されていた。奈良県をはじめ、九 州、愛知県、和歌山県、栃木県などでは、高等小学校を廃止して青年学校を設置する 動きが盛んであった。こうして設置された青年学校は、かなり充実した学校経営が行 われ、一部では、戦後の六三制の先取りのような実態があったとされる

(5)

このような実情を背景に、義務教育年限延長論ないし前期中等教育義務化論が主張 された。

(2)高等小学校改編への提言

ここで、当時の高等小学校の教育内容が、初等教育の補習教育であって、中等教育 ではなかったことを確認しておく必要がある。当時あった高等小学校改編への提言な どを見ておこう。

① 義務教育年限延長論

これは、1 9 2 3年に教育雑誌の中で義務教育年限延長問題特集が組まれるなどの形で 提起され、やがて、義務教育年限延長のための結社「義務教育延長促進同盟」が結成 された。この「同盟」は1 9 3 6年に『何故?義務教育は今延長せねばならぬか』という 小冊子を全国に配布するなど、積極的に主張の周知をはかった。このような動きを受 けて、文部省も1 9 3 7年に「義務教育8年制実施計画要綱」を作成し、 「義務教育ノ年 限ヲ八年トスルコト」という方向を示した。

この計画は1 9 4 1年に国民学校令で国民学校高等科として制度化されたが、戦時特例 による延長により実現しないままに戦後を迎えた

(6)

② 高等小学校を中等教育化する提案

これは教育内容を高度化する提案である。この例として、帆足理一郎の前期中等教 育3年義務化論

(1929)

を見ておく。彼は『教育改造論』の序の中で、 「高等学校を 廃止して小学校6年、中学校6年、大学4年制を採り、中学を二分して尋常科3年、

高等科3年として、教育の機会均等を保障するために、国費を以てする教育を小、中 学に集中し、中等尋常科を義務教育」にすることを主張した。帆足については、ネッ トで調べると、大正・昭和時代の哲学者、当時全盛のドイツ哲学ではなく、自由主義 のキリスト者としてデューイらの英米哲学の普及・紹介に務めたとある。

③ 阿部重孝の高等小学校廃止論

−91−

(4)

戦前の教育改革論の中で議論をリードしたのは、教育学者阿部重孝であった。彼を 中心とする教育改革同志会は1 9 3 7年段階で教育改革制度案を発表している。ここで は、 「小学校ノ修業年限ハ六年トス。其レ以上ハ中等教育トナシ、現行の高等小学校 ハコレヲ廃止ス」と提案している。その理由は、高小に入った生徒はすでに青年期の 初期にあるのだから、 「年齢や心身の発達、生活経験等の関係から考えても、児童を 対象とする小学教育そのものの延長としての教育を施すべきではない」という

(7)

阿部重孝自身は、 「学校系統改革の私案」として、次のような提案をしている。

「 (1)初等教育の期間は1 2歳までとし、小学校をして之に当らしめ、現在の高等小 学校は之を廃止する。

(2)1 2歳から1 8歳までを中等教育の期間とし、之を3年宛の前後期二期に分つ。

フル・タイムの中等教育に於いては現行の中学校と実業学校の区別を撤廃して、一様 に中学校とし、その課程を分化し、更に上級の学校に進む者も、又直に社会の実務に 就く者も、いずれもその必要に応ずる教育が受けられるようにこれを組織することを 原則とする。

(3) 、 (4)略。

(5)パート・タイムの中等教育として、小学校卒業後直に社会の実務に就く者の 為に青年学校を置き、その修業年限は六年とし、之を三年宛の前後二期に分つことと する。 」

(8)

理想を目指しつつ、当時の

(そして、おそらくは敗戦直後の)

現実に照らして、全日 制課程とは別の「パート・タイムの中等教育」に言及されているところに、後に「夜 間中学」を誕生させることになった、日本社会の貧困層の置かれた現実へのまなざし を感じ取ることができる。

三羽光彦は、阿部の教育年限延長と青年学校構想について、次のように説明してい る。

「さらに、義務教育年限延長計画との関係で、中学校までを義務教育とした場合は、

青年学校の後期卒業までをその代替とすることが考えられている。青年学校は、どこ までもフル・タイム学校への就学が不可能な階層に対して、フル・タイムの中等教育 を保障するための機関として構想されているのである」

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戦後改革における新制中学校の誕生と夜間中学

(1)混乱の中での構想立案

知られる通り、現在の憲法2 6条2項に当たる規定は、当初、 「すべての国民は、そ の保護する児童に初等教育を受けさせる義務を負う」となっていた。これが、審議過

−92−

(5)

程で、 「児童」が「子女」に、 「初等教育」が「普通教育」に変えられ、これが小学校 6年、

(新制)

中学校3年の9年間の義務教育制度成立につながったとされる。そし て、この経過で占領行政を行った米国の制度が日本側に押し付けられたとの俗説が一 般化している。

しかし、これまで見てきた通り、すでに太平洋戦争開戦前の段階で、尋常小学校後 のなんらかの教育への進学率は8 0%を超えていたのであり、客観的条件として、新制 中学校のような、大衆中等機関の成立は日本国内でも待たれていたのである。だが、

この大きな制度改革は、消耗戦であった太平洋戦争の敗戦直後、国家財政が完全に破 綻し、地方政府にも余力というべきものがない状態のさなかに行われたのであった。

この経過をざっと眺めておこう。

米国教育使節団を迎える前に「米国使節団に協力すべき日本側教育家委員会」

(戸 田貞三・東京帝大文学部長、城戸幡太郎・国立教育研究所員、関口泰・文部省社会教育局長ほ か)

が教育改革案を審議した

(10)

この委員会も第一案として6・3・3制を報告するが、第二案には6・2・4制で も止むを得ないという考え方

(日本を取巻く現実を考慮すれば2年制中学までを義務教育と する)

も存在した。おそらく、戦後も時代が少し下った段階でこの改革が構想された と仮定すれば、後者のような「現実的」考え方の採用された可能性が強いだろう。あ るいは、6・3・3制を採るとしても、若干の準備期間が置かれたのではなかろう か。事実、当時の日本の統治責任者や教育官僚は、新制中学校導入を即時に行う考え をもっていなかった。だが、国民の間には、当時、文化国家建設の一環として教育立 国への願いが強かった。また、日本を民主化しようとしていた GHQ もこれを早く実 現したいと考えていた。

細かな経過は略すが、6・3・3制が即時に、つまり1 9 4 7年から実施されることに なった。これを推進した国内の審議機関が「教育刷新委員会」

(1946年8月10日設置)

であった。この委員会のメンバーには、 「米国使節団に協力すべき日本側教育家委員 会」のメンバーが多く加わっている。 「メンバーの連続性から教育家委員会の教育改 革に対する考え方は、ほぼ刷新委員会に継承されたと考えられる」と赤塚は言う

(11)

。 赤塚は、1 9 4 6年1 0月2 5日の第8回総会で戸田貞三

(この問題を検討する第二特別委員会 主査)

からなされた前期中等教育段階の説明を紹介している

(12)

。以下、その要点を要 約しつつ拾い上げてみる。

① 国民の基礎教育を拡充するため、修業年限3年の中学校を置くこと。これは現在 の実業学校とも青年学校とも性格の違ったもの、新しい制度である。

② 右の中学校は義務制とすること、全日制とすること、男女共学とすること。

③ 校舎は独立校舎とすること。校舎は……さしあたりの問題としては、色々の外の ものを流用しなければならないが、原則として独立校舎とする。

−93−

(6)

④ 校長及び教職員は専任とすること。

⑤ 各市町村に設置する。義務制だから、遠い学校にやるわけにはいかない。

⑥ 教育の機会均等の趣旨を徹底させるために、国民学校初等科に続く学校としては この中学校だけにする。現行の国民学校高等科、青年学校普通科、中学校、女学校、

実業学校などはこの中学校制度実施と同時に廃止される。

⑦ 中学校制度は昭和2 2年4月からこれを実施すること。

⑧ 右の実施に関しては、適当なる経過措置を講ずること。

混乱の中の審議ではあったが、その後の制度改革の基本になる部分は全てここに表 現されている。そして、これが学校教育法制定という形で実施に移されることになる。

(2)即時実施とこれによる混乱

現在の時点から考えると、かなりの財政的余裕や人的資源育成、国民への制度趣旨 の周知など、準備期間が必要な大改革が即時実施されたのはなぜだろうか。その理由 の一部を、前述の教育刷新委員会第8回総会における戸田主査の説明の中に見ること ができる。

やや回りくどい説明の要旨をまとめると、次のようなことになるであろう。 「即時 実施には多くの問題があるが、これを1・2年延ばすことの効果と明年から直ぐ実施 することの効果を比較すると、やはり直ぐに実施することがいいということで合意し た。教員、校舎の問題や、現在存在している

(旧制)

中学校や青年学校をすぐに廃止 できないことなど、さらにその費用の問題もあるが、これを延期してもこれらの問題 が大きく解決されるわけではない。せっかく今教育刷新ということが強い要求になっ ているのならば、この時期にやる方が効果的である」

(13)

この理由をより具体的事情にわたって説明しているのが、新制中学発足5年後に行 われた座談会における、牛山栄治

(座談会当時西戸山中学校長)

である。牛山は次のよ うに述べている

(14)

「……新制度即時実施なんて、今日から考えると乱暴な意見のようですが、当時の事 情は、1年の準備期間をおいて新しい制度に切替えるなどという余裕がなかったんで す。具体的に申しますと、日本の教育は戦時態勢に切りかわっていて、一日も早くな んとかしなければならぬ状態だったのです。終戦直前の3月1 8日には『決戦教育措置 要項』が決定され、国民学校初等科を除き、学校に於ける授業は4月1日から1年間 停止する事になっていました。こんな法令も漸次廃止されて来ましたが、新教育制度 が示されないので、学校はザワザワし、生徒は遊んでいる状態でした。文部省で出さ れた『新しい中学校の手引』にも『新制中学の誕生の原因は青年学校の救済というこ とが最大の一つであった』というように書かれていますが、青年学校は当時義務制で 普通科の生徒だけでも2 1 6万人もいたでしょうか。教員も何十万人もいました。その

−94−

(7)

しまつも早くしなければなりません。 」

(15)

。ただし、戦時下の青年学校は、実質上は 勤労動員のための機関になっていた。また、義務制になっていたのは男子だけであっ た。勤労と両立させるために定時制であったものが多い。

ここで戦時態勢の後始末という事情が語られていることに注目しておきたい。文化 国家、教育立国という表向きの理由の背後に、無理に無理を重ねた1 5年戦争という、

国民資源浪費のはての教育システムの破綻、これは国家体制破綻の一部にしか過ぎな かったのであろうが、これが学制改革の背景にあったことは、これからの検討に重要 な示唆をもたらすものである。

即時実施といっても、この段階では、3学年が一挙に入学するという構想ではな かった。新制中学に入るのは国民学校初等科を卒業したものだけで、その後、学年進 行で新卒を入学させて、3年の義務制を完成させることが構想されていた。ところ が、実際には、義務ではなかったが、中学2、3年も入学してきた。9年制義務教育 にはなお学年進行という制約があり、1 9 4 7年4月に新制中学1年が義務、翌年は中学 1、2年が義務、そして1 9 4 9年4月に中学1年から3年までが義務化された。なお、

これに接続する新制高校は、1 9 4 8年に発足し、1 9 5 0年に高校3年までがそろった。中 学2、3年が入ってきたというのは、当時青年学校に在籍していた生徒達が大部分で あったはずである。

だが、1年生だけを受け入れる予定であった新制中学に、義務制ではないものの、

2、3年生も入学してくるという事態は、現場を大混乱に陥らせた。とくに深刻だっ たのが、校舎をどうするかということだった。6・3・3制の中で新制中学の校舎問 題がとりわけ深刻だった理由を、これも牛山が説明している。 「……6・3・3・4 という新しい学制が実施された今日、 『新制』と言えば『中学校』と思うようですが、

高等学校も新制高等学校、小学校も新制小学校です。それ故現在の学校全施設を小・

中・高で等しく分けあって新しい学制を迎えるべきだったのです。ところが小学校は 国民学校の全施設を、高等学校は旧制中学校の全施設を独占しようとし、新しい中学 校だけあらゆる犠牲を一身に背負わされて白紙の上から出発させようとしたので す」

(16)

この事情は、1 9 4 7年の学制改革と同時に小学校に入学し、6年後の1 9 5 3年に新制中 学に入学した私自身の体験と重なる。私は東京の中心部にあたる千代田区で小学校を 卒業した。私が在籍した千代田区立九段小学校は戦前からの校舎があって、そこで問 題なく学んだ。ところが、中学生の急増期だったせいだろうか、私たちは新設の区立 九段中学校に入学することになった。1年上の卒業生はみな区立麹町中学校に進学し ていた。麹町中学には既に独自の校舎があったが、新設校である九段中学には校舎が なく、私たちは区立番町小学校の一部を間借りして開校した。その後、私が3年生に なる時には、1年生は私の卒業した九段小学校の、しかも、体育館を仕切って授業を

−95−

(8)

することになった。この間に新校舎の建設が進められ、私たちが3年の2学期から独 自の校舎

(体育館もプールもないままだったが)

に全校生徒が移った。そして、この時 の新校舎を1 0年ほど前に訪ねた時に、そこには全面にわたって耐震補強が施されてい た。とりあえず、安普請でもいいから校舎が用意されたことがよく分った。

その後、私は、家の都合で3年の冬に荒川区に引越し、東京都立上野高校に進学し た。ここは旧制東京市立第二中学の施設をそのまま引き継いだ高校で、中二階構造の 全校集会室、剣道場、柔道場、プール、理科実験室、ドーム付天体観測室

(そこには 270倍のドイツ製天体望遠鏡があった)

など、いま考えてもかなり立派な施設を持ってい

た。

中学の校舎建設資金不足をめぐる苦悩から、山梨県中巨摩郡睦沢村

(後に敷島町を 経て、現在は甲斐市)

の飯沼国行村長が1 9 4 9年5月に自殺した経過を、私は「山梨の教 育史」

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に書いたことがある。同じような苦悩を多くの当事者がしていたはずであ る。

そして、このようにあわただしく出発した新制中学の生徒にも無理の中で発足した 新学制の矛盾のつけが回ることになった。

戦後の夜間中学の歩み

(1)新制中学制度化の混乱の中で

旧稿には次のように書いてある。

「尾形利雄・長田三男氏

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によると、昭和2 2年から3 9年までの間に中学校に就学し なかった者は約2 5 0万人にのぼる。特に戦後の混乱期にはその数字が大きかったと推 定される。さらに、在籍しながら卒業しなかったもの、形式的には中学卒の資格を与 えられながら、それに見合う実質のないものを入れると、昭和2 2年に発足した9年制 義務教育は5 0 0万人以上の人を積み残して来たのではないかと推定される。これは重 大な数字である。 」

(19)

新憲法の制定当初ではあったが、身分による格差はなかった。だが、未曾有の混乱 期に家庭の経済力による格差は大きかった。その中には、戦災で孤児になった者、そ れまで住んでいた家など全財産を失うという家庭事情による貧困もあったが、とくに 西日本では、社会的差別で貧困状態から離脱できない人々、いわゆる被差別部落の子 どもたちに、未就学児や長期欠席児が多くいた。旧稿でも「夜間中学と被差別部落」

という1節を設けてこのように記している。

「戦後の年限延長に伴う義務教育の空洞化現象は被差別部落の子供たちに集約的にあ らわれている。このことは、戦後の混乱期に設けられた夜間学級の相当数が、学区内

−96−

(9)

の被差別部落子弟を主対象にしていることに端的にあらわれている。 」

(20)

赤塚康雄も同じ問題に注目してこう書いている。 「前近代的矛盾、近代的矛盾等々 の一切の矛盾に包み込まれた被差別部落においては、戦後教育改革の限界が一層、鮮 明に現れる。被差別部落の大衆は、学制以来、教育の機会に浴することがなかった。

主要な生産関係から疎外されてきたことが、居住の自由を奪われ、教育の機会を奪わ れることにつながり、それがまた主要な生産関係から疎外される原因ともなっていく のであった。これが部落住民の差別から足を抜けない構造でもあった。 」

(21)

もちろん、被差別という構造だけではなく、女性には教育が要らないという考え 方、農業や漁業従事という家業のあり方にも原因があった。

こうした積み残された人々に、僅かながら教育の機会を提供していたのが、夜間中 学であった。夜間中学の誕生の経過を旧稿では次のように書いている。

「1 9 4 9年に全国初の例となった駒ヶ林中学校の夜間学級開設の事情は次のようなもの であった。ホームルームの子供たちのうちで家庭の都合で町工場などに勤めるように なった者たちを救うために、熱心な担任が夜間、学校に集めて補習的な授業を継続 し、卒業期までもって行った。これが後になって神戸市教育委員会によって公認さ れ、初めて夜間学級の誕生をみたのである。 」

(22)

ここで、1 9 4 9年に発足と書いてあるが、事実上は1 9 4 7年から夜間学級が動いてい た。神戸市によって開設が認められたのが1 9 4 9年ということである。同じく、1 9 4 7年 段階で大阪市にも夜間学級が存在した。赤塚が伝える大阪市立生野第二中学の沿革史 によれば、昭和2 2年1 0月1日の項に、 「不就学者が多数

(85名)

なるに鑑み夕方学級 を組織してこれら生徒の救済を行う為本日より1週2回の授業を開始」とあるとい う。この「夕間学級」の開設には青年学校教師であった吉井武千代の個人的な力に負 うところが大きかった。この吉井の周りに手伝おうという教師が次第に増えて、夕間 学級は軌道に乗っていった

(23)

「夜間中学」というのは、制度としては未だに公には認められていない。最近では 文科省もその実態調査を行うなど、存在そのものを否定しないようになったが、義務 教育としての中学教育は全日制課程で行うというたてまえ論で、未就学や不登校とい う現実の暗闇にかすかな光として存在していた夜間中学を廃止に追い込んで来たのが かつての文部省であった。例えば、全国で最初の夜間中学であった大阪市立生野第二 中学は、文部省の指導で1 9 5 0年に閉鎖となった。その経過は、次のようなものであっ た。 「昭和2 5年1 0月、来阪した文部省係官から同校の夜学担当の教師は、夜学の廃止 を迫られ、指示によって持参した出席簿等の諸帳簿を取り上げられたという」

(24)

1 9 5 1年に東京都が暫定措置として夜間中学を認めようとした時に、文部省が反対し た理由は次のようなものであった。 (1)夜間中学校は学校教育法で認められていな い。 (2)夜間中学校は労働基準法違反に通ずる。 (3)夜間中学校を認めることは、

−97−

(10)

生活保護法・学校教育法によって課せられている国・地方公共団体及び保護者の学齢 生徒の正当な教育を受ける権利を尊重し、保護すべき義務を怠ることを正当づけるこ とになる。 (4)夜間中学校は生徒の健康を蝕む。 (5)夜間中学校では、中学校の各 教科にわたって満足な学習ができない、など

(25)

生徒が昼間学校に来られない現実を考えなければ、まことに正論ではあるが、その 実、極めて形式的なタテマエ論である。それは、この当時の貧困家庭の子どもが置か れた状況を敢えて無視することでしか成立しない。この当時、家庭の貧困を補うた め、あるいは、女性に教育は不用と言う古い考えの親の意向で、義務教育段階の学齢 児も労働基準法違反が問題とされない零細家内工業や家業の漁業など、さまざまな形 で働いていた。本章の冒頭で旧稿を引いて「昭和2 2年に発足した9年制義務教育は5 0 0 万人以上の人を積み残して来たのではないかと推定される。 」と書いたが、この積み 残しのほとんどは、やむを得ずして不就学ないし長期欠席となったのである。

(2)生き残った夜間中学

日本経済は朝鮮戦争の特需で息を吹き返し、1 9 5 5年頃から高度成長が開始する。国 民の生活レベルも次第に向上し、学齢期のための夜間中学はやがて消えていくものと 考えられた。だが、そこには、戦後の混乱期に積み残された人々が、なお存在してい た。しかし、たてまえ論にこだわる文部省など政府関係機関は、廃止へむけて動いて いた。行政管理庁は1 9 6 6年に「年少労働者に関する行政監察」の中で「夜間中学につ いては学校教育法では認められておらず、また義務教育のたてまえからこれを認める ことは適当ではない」ので、 「なるべく早くこれを廃止するよう指導すること」と文 部省に勧告した

(26)

。このあたりについて、旧稿にはこう書いてある。

「この時点

(行政管理庁が夜間中学の早期廃止を勧告した1966年)

では全国合計で2 7校、

在籍5 5 8人と、最盛期の一割程度に減っており、次第に必要がなくなると考えられた ようである。しかし、未修了者が多く存在する現実は続いており、近年では年限超過 者が多く集まるようになっている。そのため、生徒は再び増加の傾向にあるのが現実 である。 」

(27)

なお、一番減少したのは1 9 6 8年で、2 1校4 1 6名であった。ここで引用されている

「 『行政管理庁の廃止勧告』は、夜間中学関係者を激怒させた」と松崎運之助は書い ている

(28)

。その理由について、江沢穂鳥は、 「独断と矛盾が含まれていた」として、

次の5点を指摘する

(29)

① 一校2 0〜5 0人になって存在理由が薄くなったから廃止しろというが、福祉・生活 保護のない働きながら学ぶ青年・中高年、あるいは家庭の主婦たちは、どこに行っ たらよいのか。

② 満1 5歳を越えれば、義務教育未修であっても、昼間の学校に戻れないシステムに

−98−

(11)

なっている。この生徒をどうするのか。

③ 夜間登校の半数は経済的理由だとしてあるが、これが事実とすれば、後の半数は 経済的理由以外の理由で夜間に登校している。夜間中学校を廃止してしまえば、そ の救済は誰がやるのか。

④ 過去において累積している義務制未修者は1 0 0万人越えると見られているが、夜 間中学廃止によって、彼らは学ぶ権利を行使する可能性を失ってしまう。これをど う考えるのか。

⑤ 夜間中学を廃止したなかで、福祉の救済のない子どもが出たらどうなるのか。一 家で働いている家庭では、貧しいながら福祉の対象になりにくい。5 5年の3省通達

(これは「義務教育諸学校における不就学および長期欠席児童対策について」と題する、文 部、厚生、労働の3省の通達で、不就学・長欠の学齢生徒が30万人を越えていると指摘し、

関係諸機関が協力しあって、この問題の改善を図るとするもの。)

で、行政は福祉の充実 に努めて来たはずなのに、実状は改善されなかった。

夜間中学関係者、とくに東京都の荒川九中夜間学級での学びに救われ、やがて立教 大学大学院特任教授にまで学習を高度化させた高野雅夫は、荒川九中夜間学級の職 員・生徒と協力して廃止に反対する運動のために作った証言映画「夜間中学生」を携 えて全国行脚を行った。やがて、高野は、廃止反対という受身の運動から、 「義務教 育を受けられない1 2 0万人のために夜間中学を開設せよ」という方向に運動を広げ る

(30)

高野雅夫は、5歳で旧満州において終戦を迎え、母親と二人で日本に帰ってくる途 中で母とはぐれ、やがて孤児の身を乞食の親方に拾われ、そこを逃げ出して農家に拾 われ、さらに転々と最貧生活を経験して、2 1歳で荒川九中夜間学級にたどりついた。

そのきっかけは、文字を教えてくれたバタヤのおじさんが拾って持っていた、荒川九 中夜間学級で教えていた塚原雄太の著書『夜間中学生』

(知性社1958年)

であったとい う。高野は非行で警察に捕まったときに、名前が書けないといって、警官に殴られた 経験をしている。

高野の捨て身の運動は、やがて、多くの人々の共感を得て、大阪市内や東京都内な ど各地に開設されるようになった

(31)

。この、夜間中学の復活劇は、高野の運動もあ るが、学齢期ではない学習者を主な対象とすることで、文部省が 生涯学習 という 観点から補助予算を設け、次第に増額していったことにも原因がある。

いくつかの資料から、夜間中学が減少から増加に転じていったことを数字として確 認しておきたい。このようにせざるをえないのは、正式の統計が存在しないからであ る。

先ず、最新の数字は、3 1校1 8 4 9人

(文科省実態調査2014、朝日新聞2015年5月9日)

う ち、外国籍1 1 8 4人。これは、最近増えている「自主夜間中学」を除いた数字である。

−99−

(12)

1 9 7 2年の在学者は1 2 8 9人、1 9 9 1年段階では、3 3校2 7 0 8人

(第36回全国夜間中学校研究大 会の調べによる)(32)

という数字が散発的に拾える。

生涯学習機会としての夜間中学

(1)夜間中学の現状

それでは、現在の夜間中学はどのような現状にあるのだろうか。ネットに公開され た2 0 1 4年の文科省実態調査によると、1 8 4 9人の生徒の入学理由は次のようになってい る。データを加工して、多い順に挙げてみる。

① 読み書きの習得5 0 1人

(27・1%)

② 日本語会話の習得4 9 8人

(26・9%)

③ 中学校教育の修了3 2 8人

(17・7%)

④ 中学程度の学力の習得2 5 2人

(13・6%)

⑤ 高校入学1 8 2人

(9・8%)

⑥ 職業資格の取得3 3人

(1・8%)

⑦ その他5 5人

(3・0%)

次に、在学者の年齢層を見てみると、学齢者は0、そして、1 5〜1 9歳、2 0〜2 9歳、

3 0〜3 9歳、 4 0〜4 9歳、 5 0〜5 9歳が、ほぼ1 3%〜1 5%と並んでいて、 6 0歳以上が2 8・5%

と高くなっている。男女比で見ると、男性5 8 2人に対して女性1 2 6 7人と、女性が約7 割近くを占めている。国籍でみると、1 4 9 8人

(81%)

が外国人である。国別データは 不明だが、参考のために大阪府岸和田市立岸城中学校の場合、韓国・朝鮮、中国、タ イ、フィリピン、ペルー、ブラジルで中国籍の生徒が増える傾向にあるという

(33)

これは後で見る「自主夜間中学」ではない、公立中学校を学習の場として、公費に よるなんらかの支援がある中で実施されている夜間中学である。現在、この統計に表 れた「夜間中学」が存在しているのは、校数が多い順に、大阪府(1 1) 、東京(8) 、 奈良(3) 、兵庫(3) 、神奈川(2) 、広島(2)千葉(1)の8都府県で、生徒数 が圧倒的に多いのは大阪府の1 0 2 1人である。

(2)自主夜間中学について

「自主夜間中学」というのは、前節で文科省が調査対象とした「公立」の枠外で、

これに準じた活動をしているボランタリーな活動ないし組織の総称である。前節で紹 介した、文科省調査にある「今後の施策展開に関わるデータ」には、1 4県において夜 間中学設置促進に関する要望書があること、国の動向を踏まえて夜間中学設置を検討 すると答えた市区町村が4 2 0

(全市区町村の24%)

、域内に自主夜間中学・識字講座等の

−100−

(13)

取組がある市区町村が1 5 4、自主夜間中学・識字講座等の生徒数が約7 4 0 0人と報告さ れている。

A 全国自主夜間中学研究会のデータから

この自主夜間中学の詳細を知りたいと思ってネットで調べたが、見つけられなかっ た。2 0 1 3年段階で「全国自主夜間中学研究会―関係諸グループ一覧」が示している データでも、全国3 0 0箇所、生徒数7 4 0 0人とあるが、実際にはどこでどのような学習 がなされているのか詳細なデータはない。ただし、そこに挙げられた北海道から沖縄 まで1 5都道府県

(北海道、福島、千葉、埼玉、東京、神奈川、愛知、和歌山、大阪、奈良、

京都、兵庫、高知、福岡、沖縄)

の自主夜間中学のリストは、かなり多様な存在形態を 推測させるものである。

① 学習の場所

中学校で行われている例として、 「札幌遠友塾自主夜間中学」

(札幌市立向陵中学 校)

、 「千代中学校夜間学級」

(福岡市立千代中学校)

、 「北九州市立城南中学校『夜間学 級』 」

(北九州市立城南中学校)

がある。小学校を会場とするものとして、 「穴生・中学 校『夜間学級』 」

(北九州市立穴生小学校)

がある。

他の教育施設を会場とするものとして、 「自主夜間中学旭川遠友塾」

(旭川医療情報 専門学校)

、 「生涯学習研究会『学び舎』 」

(北九州市立大学)

がある。

しかし、他の多くは、さまざまな公的施設

(福祉センター、児童館、公民館など)

を 会場として行われている。那覇の「沖縄珊瑚舎スコーレ夜間中学」は NPO 法人がそ の施設を会場として実施している。

② 学習の頻度と時間

週1回ないし2回、時間としては6 0分〜9 0分の授業を2回というのが平均的あり方 だが、 「福島駅前自主夜間中学」は月2回である。その一方、月〜金の毎日1 8時〜2 1 時という、正規の夜間中学並みの授業をしている「朝倉夜間中学」

(高知市)

のような 例もある。

B 添田祥史の調査から

自主夜間中学について、さらに細部のデータを調査した結果を添田祥史が報告して いる

(34)

。この調査は、 『2 0 0 5年度全国夜間中学校全国大会資料集』に記載された団体 を対象に質問調査用紙を送付し、1 6団体から得た回答を分析している。

添田によると、1 6団体で5 0 0名弱の学習者が学んでいる。その年齢構成は、1 0代 8%、2 0〜3 0代2 4%、4 0〜5 0代1 8%、6 0〜7 0代2 5%、8 0代2 5%となっており、高齢の 学習者が目立つ。この中でいわゆる「形式卒業者」つまり、学校に通わなかったにも かかわらず、形式上は義務教育修了とされた者が少なからず存在する。また、日本語 習得を目的とすると推定されるニューカマー外国人も、一定程度存在することが報告 されている。

−101−

(14)

添田の報告で注目されるのは、この自主夜間中学の運営体制に関するデータであ る。年間予算は、データが得られた1 3団体のうち、1 0万円未満が2、1 0〜5 0万円5、

5 0〜1 0 0万円2%、1 0 0〜2 0 0万円3%、2 0 0万円以上1となっている。これに対する行 政の補助については、1 6団体中で7 0〜1 0 0万円未満が3、1 0〜3 0万円1、1 0万円未満 1、そして、補助金なしが1 0である。会場使用料の減免については、全額免除8、半 額免除2、3割免除1、免除なしが5となっている。会場費減免措置が受けられない 団体で、8 0名以上の生徒をかかえているところでは、年間の会場費だけでも7 0万円を 超える負担となっている。

スタッフについては、ほぼ全員がボランティアであり、講師スタッフには教員免許 所有者の割合が高い。しかし、ボランティアがベースになっていることから、スタッ フの安定的確保がかなり困難な問題となっている。

(3)切実な生涯学習としての夜間中学

日本弁護士連合会は2 0 0 6年8月に「学齢期に修学することのできなかった人々の教 育を受ける権利の保障に関する意見書」を公表して、国に対して、公立夜間中学の設 置等の対策を要請している。

この意見書でも、公立及び自主運営夜間中学に学ぶ人々を、①義務教育未修了者

(中高年齢層に多い)

、②障がいのある人で就学免除を受けた者、③中国帰国者、④在 日韓国・朝鮮人、⑤1 5歳以上の新渡日外国人

(ニューカマー)

に分けて実情と必要な 施策を検討している。そして、1 9 8 5年に中曽根康弘内閣総理大臣が提出した答弁書に おいても義務教育未修了者が約7 0万人程度と推計されていることから、 「中高年齢 者、在日韓国・朝鮮人のみならず、その他のカテゴリー

(障がいのある人、中国帰国者、

ニューカマー)

においても、同様に普通教育を受ける機会を奪われている多くの人々 が全国各地に存在することが容易に推認されるところである」としている。そして、

このための施策として、国に対して、公立夜間中学の設置が要必な地域について、管 轄市区町村にその設置について指導・助言を行い、必要な財政措置を行うこと。②そ の他の個別のニーズと地域ごとの実情に応じ、既存の学校の受け入れ対象者の拡大、

自主夜間中学等を運営する民間グループへの援助

(施設の提供や財政的支援)

、個人教 師の派遣など、義務教育を受ける機会を実質的に保障する施策を推進すること、を求 めている。

筆者は、この問題に関しては地方自治体の責任が大きいと考えており、また、地方 自治体がなしうることが沢山あると考えている。公立夜間中学が存在する地域、そし て、自主夜間中学が運営されている地域では、各々の地域の地方自治体が、日弁連が 求めている対策の必要性を把握できるはずである。さらに、現在は形になっていない が、夜間中学のような、切実な学びの機会と場を求めている者が存在している地域も

−102−

(15)

少なくないはずである。

他方で、今日の大多数の自治体では、一般人向けの多種多様な生涯学習プログラム があるであろう。こうしたプログラムと、夜間中学という学びの場の維持ないし新設 とどちらが優先順位において高いか、答えはおのずと明らかではないか。

さらに付け加えれば、本誌を刊行している「山梨学院生涯学習センター」のよう に、地方自治体以外でも生涯学習機会を提供している機関は少なくない。これらの機 関でも、各々の置かれた地域における義務教育未修了者ないし形式的修了者への学習 プログラムの必要性をくり返し探る必要があるのではないか。

おわりに

さまざまな理由から、書き始めてから半年以上を経過してしまった。ようやく、誕 生当初から過渡的と信じられていた存在である夜間中学が、戦後7 0年を経た今日でも 生き残っているという不思議さを不十分ながら解き明かし、その活動を、新たに生涯 学習機関として再構成する道はないのだろうかという課題にひとまずの答えを出すこ とができた。本稿は、その意味で、筆者なりの既存生涯学習機関への新たな提案であ る。教育への権利の問題として論議を深めることを考えていたが、時間的余裕がない ままに筆を置くことになってしまった。これについては、他日を期することにしたい。

椎名「高校義務化をめぐる諸問題」レファレンス299号1975年12月。以下、これを椎名「旧 稿」と呼ぶ。

赤塚康雄『新制中学校成立史研究』明治図書出版1978年204頁表1、209頁。

同15〜16頁。

同21頁。

同45〜47頁。

三羽光彦『高等小学校制度史研究』法律文化社1993年(以下、「三羽1993年」と略す)281

〜283頁。

赤塚42頁。

阿部『教育改革論』1937年、赤塚42〜43頁から引用。

三羽光彦『六・三・三制の成立』法律文化社1999年(以下、42頁「三羽1999年」と略す)。

赤塚・前掲書60頁。

同159頁。

同160頁以下。

同164頁。

三羽1999年巻末に所収、初出は雑誌『新しい中学校』40巻1952年5月。

−103−

(16)

三羽1999年378〜379頁。

同384頁。(三羽1999年384頁)

大学改革と生涯学習5号2001年。

『夜間中学・定時制高校の研究』校倉書房1967年。

椎名「旧稿」61〜62頁。

同・63頁。

赤塚・前掲書183頁。

椎名「旧稿」61〜62頁。

赤塚・前掲書188頁。

同192頁。

松崎運之助『学校』晩声社1981年197頁。

同201〜202頁。

椎名「旧稿」62頁。

松崎・前掲書202頁。

江沢穂鳥『よみがえれ、中学』岩波新書1992年25頁。

江沢・26〜29頁、松崎・前掲書202〜203頁。

松崎・前掲書202〜203頁。

江沢・前掲書51頁。

植田宜博「夜間中学(中学校夜間学級)の現況とそこに学ぶ人たち」和歌山大学教育学 部教育実践総合センター紀要20号2010年。

添田祥史「自主夜間中学の活動と展開」国際ボランティア学会『ボランティア研究』8 号2007年。

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参照

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