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依他起性をめぐって

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Academic year: 2021

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ただいま御紹介にあずかりました龍谷大学の武内でございます。私がこの大学でこういう題を掲げてお話を申し上 げますことは大変面はゅい思いがいたします。と申しますのは当大谷大学はインド唯識学につきましては我が国にお ける草分けの時代からはじまりまして代々巨匠が相継いででられた、インド唯識学に関してはもっとも伝統をもって いる大学でございます。それに反しまして私どものおります龍谷大学では法相唯識というものを非常に堅くまもって まいりまして、その法相唯識学を中心にした唯識研究が主流をなしてきたのです。そうしたなかに育ちまして私もこ の大学の山口先生や、いまお帰りになっておられる野沢先生に直接間接に御指導をいただいたものでございます。そ の私がここでインドの唯識に関するお話を申し上げるということはなにか大変おこがましいといいますか、はれがま しい気もちがするわけでございます。 ここに掲げました﹁依他起性をめぐって﹂という題は、ある見方をしますと非常に小さい題のようにも思われます。

依他起性をめぐって

武内紹晃

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ところがまた非常に大きな題であるとも考えられます。と申しますのは無著・世親の教学つまり唯識学というものは、 依他起性を根底にしているというのですが→彼らの教学、いわゆる球伽行唯識学という教学は、龍樹にはじまります 中観の教学を継承することはもちろんですけれども、阿毘達磨の教学組織というものを取り入れまして、まさに彼ら 以前、無著・世親以前の佛教の集大成であると思います。その集約される場所はどこかと申しますと、これは三性説 でございます。その三性説の基本になるものが依他起性であります。もっとはっきり申しますならば依他起性という 理論構造のなかにそれまでの佛教学というものを集約したというふうに考えることができるのではないかと思います。 少し強く申しますならば、インドの唯識学のどこをとってみても依他起性とかかわらないところばないといってもい いかとさえ私は思います。そういうふうに考えてみますとこの題はとてつもない大きな題を出したことになるわけで ございます。だから私自身がわからないことが非常にたくさんございます。いろいろ内容的に交錯する場面、いろい ろなことにかかわってまいりまして、それをどういう関連のなかで理解していいのかということについても私自身わ からないところが非常に多うございますので、ちょっとごまかしまして﹁めぐって﹂という題にしたわけですが、も ともと大きなものをめぐるとなるとますます大きくなってしまうようですが、いま考えてみますと私は﹁めぐって﹂ というよりは、私がいま考えている依他起性というものを、それをある一つの筋といいますか、見方といいますか、 そういうものを通してお話し申し上げたいと思うんです。そういう意味では﹁管見﹂という言葉がございますが、管 から見るという、まさに私にとっての唯識、依他起性管見という形のものを、今日はお話し申し上げたいと思います。 この私のいまお話し申し上げますことを、私なりに考えますことにあたりましてはたくさんの先生方のすぐれた研究 業績がございます。その研究業績に導かれまして私がいまこれから申し上げますことを自分自身で考えるようになっ たわけです。しかし、今日は話の中でどの先生のどの論文によって私はこうこう考えるというふうなことは申し上げ ないで、これはいままで私が書きましたいくつかの論文のなかにそれぞれ紹介さしてもらっておりますから、今日は 86

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依他起性と申しますのは、サンスクリットでは申すまでもなく菌国菖ご茸騨︲印く号冨ぐ、↑あるいは冒国菌貝国︲巨閉四画餌 です。これは遍計所執性冨呈畠言菌︲いく号目く“および円成実性帯︺騨昌鳥冒ロロ色︲のぐ号闘く色とともに三性の随一であ ります。この三性説というものは、唯識学とくにインド唯識学の、何と申しますか教学的思索の一番基盤になるもの、 それが私は三性説であるというふうに考えるわけでございます。この点につきましては、中国唯識学、これは法相唯 識学に限りませんが、その中国の唯識学と非常に違っている点だということがいえると思います。それは三性説の椛 造自身についてもいえますし、教学のなかにおける三性説の位置づけについてもいえると思います。いまは、その無著 ・世親の唯識学を中心にといいますか、インドの唯識学を中心に三性説を考えていきたいと思います。 三性説は、結論的に申しますならば、これはもうインドの唯識の論文をお読みになりますとどこにでも出ておる↑こ とでございますが、﹁依他起性において遍計所執性の遠離が円成実性である﹂という体系で述令へられます。文字通り には﹃唯識三十頌﹄の第二十一頌にそれに相当するものがございます。また﹃摂大乗論﹄についてみますならば、|︲ ﹁依他起性はある異門によって依他起性である。またその同じ依他起性がある異門によって遍計所執性である。また︸ ある異門によって円成実性である﹂というふうな形で、依他起性をあくまで基盤にしてその三性説が述べられており ます。だから唯識教学の基盤が三性説であり、その最も中心になるもの、それが依他起性であります。三性説それ自 体が依他起性の基本構造のなかで考えられるやへきものであるというふうに思うわけでございます。身 三性説というものがどこから出てきたかということになりますと、これは現存している文献のなかで一︲番古いもの といえば、﹃解深密経﹄であるということは誰もが否定することはできないと思います。それは。切法相品﹂のな すべて私の理解のなかで申し上げさせていただくということをお許し願いたいと思います。 二 87

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かに出てくるわけですけれども、﹁依他起相において遍計所執相即ち無相の法を如実に知るとき雑染の相を断ずる。 雑染の相を断ずるとき円成実相即ち清浄の法相を証得する﹂という言い方でなされております。ここには依他起相と いうものを基盤にしまして、雑染相を断じて清浄相を得るという、いま申しましたような、三性説の構造といいます か、依他起性の基本的な綱格というものがすでにそこにあらわれているわけでございます。けれども﹃解深密経﹄や ﹃琉伽師地論﹄をみてみますと、依他起性を中心にした三性説をそういう形で述べていますけれども、それと十二支 縁起で説かれます雑染相とか、あるいは有情存在の根源であるとして説かれるアーラャ識だとか、アーダーナ識だと かというものと、一致しているというか、統合されているといいますか、その相互の関連というものが全くないわけ じゃない、関連しているわけでございますけれども→統一されていない、総合されていないということがいえるよう でございます。これは一番簡単には例えば﹃爺伽師地諭﹄の用例を大正大蔵経の旨号桝でも見ていただきますと、 依他起性とアーラャ識とが同じ箇所に、相互に関連の上で述令へられている箇所はないと思います。ということは、そ ういうものが考えられながら、なおお互いの関連性というものが、少くとも稀薄であったということはいえるであろ うと思います。それが﹃荘厳経論﹄とか﹃中辺分別論﹄あるいは﹃法法性分別論﹄といわれる一連の弥勒の諭書、こ れは同著者性に属するものかどうかということについて宇井先生の論文もございますけれども、まあこの一連の諭書 になりますと、虚妄分別篁讐目、一宮畠︿四壱四という新しい思想がそこに登場してまいります。もちろん﹃解深密経﹄ の異訳のなかに〃虚妄分別相″という訳語がいくつか出てまいりますけれども、これは遍計所執相の異訳でございま して、己︶自前弓胃時己冒ではなくて冨昌畠言詳凹︲言冨塑目を虚妄分別相と訳しているのです。虚妄分別という、﹃解 深密経﹄や﹃琉伽師地論﹄にない思想があらわれてまいりまして、そこでアーラャ識と依他起性とが、完全に結合す るといいますか、一つになります。そしてその依他起性・虚妄分別・アーラャ識を中心にして、十二支縁起の雑染相 だとか、あるいは煩悩雑染・業雑染・生雑染というふうないわゆる雑染相の理論的解明がそこで完成されます。と同 88

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時にその雑染相を断じて清浄への転換というその理論的な基盤というものもそこでつくられてくるわけでございます。 そういう思想をうけつぎまして、それを組織するlちょっと変な申し方をしますが、私はあんまり整理されたもの というものは却って何か宗教的に味わいがなくなるような感じがよくするのでございます、けれども、そういう意味 をちょっと心のなかにもちながらでございますがI完全に組織した諭書が無著の﹃摂大乗論﹄であると思います。 だから読んでみました感じを申しますと、﹃摂大乗諭﹄よりは﹃中辺分別論﹄や﹃法法性分別論﹄を読んでる方が、 何か私自身にあたたかみを感ずるような気があることもいつわらざる私の気持ちでございますけれども、しかしよく よく読んでみますと、やはり非常にうまく整理せられて、しかもその中にいろいろな理論が組み入れられているとい うことで、私の読み方が足りないというふうな気持ちもするわけでございます。 この﹁摂大乗論﹄は御存知のように内容的に十の章に分章されておりまして、その第一が言。穆脅畠四でございま す。これは、所知依I知らる、へきもののよりどころIといいますが、アーラャ識でありまして、アーラャ識の論 述で完全に終始されております。このアーラヤ識というものはこれは三性説とともに唯識学のもっとも特徴を示す思 想でございます。ところがこれは私がみる範囲がせまいからかもわかりませんけれども、それまでのアーラャ識の論 述というものは、非常に大事なものとして論述はされていますけれども、断片的といいますか、きざっぽいものの言 い方をしますならば、全体を予想してその片鱗を示すというような感じで述べられているのですが、それを本当に一 章全部を傾けてアーラヤ識の論述で通しているのは、これは﹃摂大乗論﹄の所知依分がはじめではないかと私はいま 考えております、そうでなかったらまた教えていただきたいと思います。第二は甘の租巨応笛箇知らるべきものの相︲ 所知相でございます。ここには三性説が幅ひろく繰り広げられております。三性説とともにそこには前の章に説かれ ておりますアーラヤ識を受けて依他起性の内容というものを中心に、その唯識︿ぐ言幽官﹄目興国﹀ということが詳しく 述べられているのが→それが第二の章でございます。この二つの章は、﹃摂大乗論﹄全体の量的には約半分を占めま 89

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いま申しましたようにその﹃摂大乗論﹄のなかで、三性を説きますのが所知相分でございますが、これはこういう 言い方にはいろいろな議論異義があると思いますが、その所知相分のなかに〃依他起性とは〃あるいは〃遍計所執性 とは″〃円成実性とは〃あるいは〃何々の故に依他起性といわれる〃というそういう形で依他起性の名義といいます か、依他起性の意味とその物柄というもの、そういうものを説いた箇所が→私には四箇所あると思います。その四箇 所のうち三箇所が二つづつならべられておりますから、合わせますと計七つということになるわけでございますが、 私はそれを三つに分類することができるのじやないかと思います。 たいと思います。 そこでその依他起性についてお話をするにあたりまして、この﹃摂大乗論一を中心に、軸にしてお話を申し上げてみ に出るということは考えられないのじやないかと思われるくらいその思想を受け継いでいると、私は考えております一 わけでございますが、そこに述べられている内容を、それ以後の唯識の論言というものは受け継いでいる。それ以上 すか、そういうものをそれぞれに細かく述、へているという、そういう組織を、私は一応﹃摂大乗諭﹄について考える 悟入の方法というものが総説されておりまして、それをこんどは第四分以下において、その過程とその結果といいま と還元せられる入所知相分、ここには悟入せらる、へき真実の相としての唯識性く言眉は日割罵一国というものと、その 中間の序文のようなものが述言へられましていそして第三章に入るわけでございますが、第三章は言旦昌爵笛冒も国ぐの、秒 して、その数学的思索といいますか、理論的基盤というものがこの二つで述べられている。それ以後、その間に入る 2、生じてより一刹那以上自ら住することができない 1、索習の種子より生ずる 三 90

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こういう三つにまとめることができるのでないかと思い亥す。で今日私は先程〃管見″と申しましたが、私が今日 管見したいと思います管はこのあたりにしたいと思います。この管を通して一つ依他起性というものを私の立場で考 えていってみたいと思うのでございます。 まずはじめの二つですが、これは唯識学における縁起を示しているといっていいと思います。第一の〃車習の種子 より生ずる〃ということは∼これは﹃摂大乗論﹄の中でいいますならば﹁自の惠習の種子﹂とい﹄|フ言葉でいわれてい るところもありますし、それから﹁依他なる聿習の種子﹂Iこれは覗冒弓廻︹亨菖抵一︺負・烹嘱ですからこう読 むべきであるI﹁依他なる重習の種子より生ずる﹂というふうに書かれているところもありますし、﹁菫習の種子 より生ずる﹂とただそれだけ書いているところもございますが、これは結論的に言いますならば、法があるいは現行 法が種子を重習し、その種子から現行するという、アrラャ識をあるいは種子を根底として現行と種子が相互の因果 関係の中において法の存在を考えるということ、それを示しているわけなんです。第二番目の﹁生じてより一刹那以 上自ら住することができない﹂というのは、そうした存在は、一刹那も静止することはできない、常に動きゆくもの でなければならない、従ってすべてのものは刹那減であるということを示している。だからこのはじめの二つが唯識 の縁起を示しているということになるわけでございますが、このことについてもう少しお話し申し上げなければなら ないと思います。近いところでは安慧の﹃中辺分別論﹄の釈のなかに依他起を﹁他に従えるなり、因と縁とに相依り て生ずるが故なり﹂と説明しています。これがよく唯識の論害に引かれてまいります。この因縁に依って生ずること が依他起であるといういい方は、先程話しましたように、﹃爺伽師地諭﹄にすでに説かれています。﹃琉伽師地論﹄ からその因縁によって生ずることが依他起性であるというふうに説かれているわけでございます。だからその言葉は もちろん端的に縁起ということを示していることになるわけでございますが、それが先程申しましたように、﹃荘厳 3、染汚・清浄の性不成就 9]

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経論﹄とか﹁中辺分別論﹄とかあるいは﹃法法性分別論﹂というものを通して、依他起性とアーラャ識、そういう思 想が統一されるということによって﹃摂大乗論﹄ではそういう表現ではなくて、﹁重習の種子より生ずる﹂という言 葉で表わした。そのことが﹃摂大乗論﹄としては非常に大事なことであったということを、私は注意しなければなら ないと思います。ということは﹃摂大乗論﹄では、この依他起性は、因縁によって生ずることといままでいってきた ことを、識のはたらきというか、現行と種子との相互関連の上で、その動きのなかで考えなければならないというこ とを、端的に示したものだとこういうことがいえるのじやないかと思います。 ちょっと立場を換えますが、﹃摂大乗論﹄の所知相分にこういう言葉が口非常に有名な言葉でございますがl 出てまいります。﹁大乗の縁起というのは深甚微妙であるけれどもそれを二つに要約することができる﹂と言います。 その二つと申しますのは﹁自性分別縁起﹂と﹁愛非愛分別縁起﹂でございますが、内容を紹介いたしますならば、自 性分別縁起︿いく号薗く四︲くぎ目盟﹀というのは、アーラヤ識に依止して、アーラヤ識に依って諸法が生起することであ ります。愛非愛分別︿質習烏冒︲臼。、﹀とは十二縁起であって、善悪の種子からアーラャ識が愛非愛の趣に生起するこ とでございます。つまりはじめの方はアーラヤ識によって諸法が生起することである。二番目の方は、これは種子か ら、この場合愛非愛の趣にというんですから、結生における次生をはっきり意味していると限定してしまわなければ ならないとこのばぁぃは思いますlあとでちょっと別な例を出しますけれどもIその次生にアーラャ識が生起す ることという、つまり縁起というものをそういう二つに分けて、大乗の縁起はその二つにおさめることができるんだ ということを﹃摂大乗論﹄にいっております。 私は唯識の論害で比較的縁起ということは少くないような気がするんでございますけれども、この縁起を二種に分 けるという考え方は、それ以後唯識の論害ではたくさん出てまいります。その例をここでちょっと詳しく申し上げた いと思うんですが、それは﹃唯識三十頌﹄の安慧釈の第一頌に因転変]]①目冒目9日四と果転変冒巴砦胄言騨目色とい ”

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う、これは識転変の転変を説明する非常に重要な言葉として出てまいります。この因転変果転変は、ちょうど同じ場 所に﹃成唯識論﹄にも出てまいります。﹃成唯識論﹄は因能変果能変といいます。この﹁成唯識論﹄に考えている因 能変果能変と安慧釈にみる因転変と果転変とをみますと非常に違った意味内容をもっているわけなんです。ところが よくよくみますと、実は文面は、逐語訳といっていいほど完全に一致しているわけなんです。一致しているさまは大 分まえに﹃印度学佛教学研究﹄に紹介したつもりでおりますけれども,それはまあ能変という翻訳の問題からきてい ると思います。いまここでは安慧釈にしたがってお話を申し上げているわけでございますが、その因転変というのは ﹁転変して因となること﹂、果転変とは﹁転変して果となること﹂と一応こんなふうにいっていいだろうと思います。 つまり因転変とは、現行がアーラヤ識に種子を菫習すること、それが因転変でございます。因と果というのはふつう の場合、種子は因の位で考えられる、現行は果というわけでございますから、だからアーラヤ識に種子を聿習するこ とである。果転変とは、転識とアーラャ識が種子から生起することである、というふうになると思います。もうちょ っと詳しく申しますと、その因転変とは、現行によって等流習気と果熟習気という二つの習気’二つの習気じやな いが、等流習気と別な習気というわけじやないけれどもI等流と異熱との習気をアーラャ識に置くこととでもいい ますか、栗習すること、それが因転変である。それに対して果転変はこれは二つある。一つはその等流習気から転識 ︵前六識︶と染汚の意とが生ずること、それが生起することそれが果転変の第一でございます。第二は異熟習気から アーラャ識が生起すること、このばあいにその異熟習気からアーラャ識が生起するというのが先程のその二種の縁起 の愛非愛分別のときのように必らずしも次生のアーラャ識、総報の果体としての次生への結生相続における次生のア ーラャ識だけを指すとはいいきれないと私は考えております。異熟習気の果転変の文中の﹁他の衆同分﹂という言葉 の理解にかかわることでございます。アーラャ識は次生に結生する識であると共に、念倉にもアーラャ識が生起する わけです。そこでアーラャ識の生起を二つに分けて考えることが出来ます。それはともかくとしまして、その果転変 93

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で、それをもし世親の言葉を用いますならば、世親が経量部等の業の相続転変差別のあの転変という用語を唯識の

転変として導入いたしまして、ぐ言台はといわれるもの、その識の動きをく急目騨︲宮日目冒騨︿識転変﹀という言葉で していると田心い、ま︷,。 をなしている動き、そういう動きにおけるものの存在、それを〃唯識″の識に当るぐ言煙日]という言葉が、私は示 と種子というものが、因転変果転変が示すように、相互に因果関係をなしているわけです。そういう相互に因果関係 れた種子からそうした果転変が起ってくるという、﹄だからその唯識の縁起というものは種子と現行というもの、現行 変果転変の文を挙げましたのは、その種子が実は因転変によって窯ぜられた種子であること、因転変によって重ぜら るということではありますけれども、それは端的にいいますならば、種子から生ずることである。いまわざわざ因転 に唯識学の縁起はこの二つにおさめることができると、そうしますと、唯識の縁起というものは、因縁によって生ず に異っておりますが、そう解釈することでインド的に﹃三十頌﹄を正しく理解できると私は思います。こういうふう 十九偶がアーラャ識の生起を説くというふうに解釈することが、︸﹂れはこの解釈は、伝統的な法相宗の解釈とは非常 その第十七偶の内容を、第十八偶はいまの種子から転識・昌豐国“が、アーラャ識に依止して生ずることであり、第 し、また﹃唯識三十頌﹄の第十七偶いわゆる正弁唯識といわれる一番大事な偏に引き続きまして第十八偶第十九偶が あるいは十偶十一偶の雑染相、これは安慧釈をみていただきますならば、文字通りそれが一致することがわかります いうことがありましても、分け方はぴったりと一致する。これは﹃中辺分別論﹄の相品の第九偶の虚妄分別の生起相、 二種の縁起ということにぴったりと一致するわけなんです。いまのアーラャ識の生起の指す範囲がやや違っていると ういう二つに分けて縁起を説明する例は、これは唯識の諭書に他にもございます。この二つに分けることが、先程の 分けるわけなんです。このように種子から転識と目墾口騨⑪が生ずることと、1種子からアーラャ識が生ずることと、こ には等流習気から転識と染汚の意が生ずることと、異熟習気からアーラャ識が生起すること、こういうふうに二つに

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それを表現しているわけでございます。ということは唯識ではものの存在というものは、す今へてそのぐ言堂︺陣とし ての存在、ぐ言9国も閏]g目色という動きにおける存在であるということ、それが依他起性ということになるわけでご ざいます。そのことを最初に書きました第一→二がまず端的に示していると考えることができると思います。そして、 そういうふうにす今へてのものが識転変であるとして、ものが存在するということが唯識無境という言葉の唯識という ことであります。唯識︿ぐ昔名は日削国﹀ということがつまり依他起、そういう意味で依他起性として有であると、依 他起性の有とはそういうことであるというふうに私は考えるわけなんであります。ところが現実には私の世界の存在 となりますならばそれはもう識転変でもなく刹那滅性でもなくなってしまうわけなんで、主観は主観として客観は客 観として、能取は能取として、所取は所取としてそこに固定化されてまいります。つまり識転変の動きという、一刹 那の静止も許されないその無始無終の動きというもの、その動きが一点で静止される、止められるといいますか、あ るいはその識転変以外の存在として考えられるわけなんです。それが私の世界の存在なのです。それが〃無境″とい う言葉につながってくると私は思うのです。 ﹃摂大乗論﹄にも﹃成唯識論﹄にも三種遍計という有名な言葉が出てきます。三種遍計というのは遍計所執性を説 明しますのに、能遍計と所遍計と遍計所執性にわけまして、﹁能通計は意識である﹂、﹁所遍計は依他起性である﹂、 そしてその次が大事です、﹁遍計所執性とは依他起性においてある相として遍計されたもの、それを遍計所執性とい う﹂という説明をしておりますが、その依他起性においてある相として遍計されたものということが、それが無境と いうことなんです、それが遍計所執性です。だから唯識無境といいますことは、そういういま私が申しましたような 意味で、ぐ言目少冒目属目雲としての有と、そこにある相としてとらまえられたものの無ということ、そういうふうに 考えることができると思います。﹃三性論偶﹄でみますならば、冨蒔ご倒営という言葉と葛昏倒昏乱はという言葉 でそこが区別されているように思います。ところがその三性の体系のなかで、その依他起性において遍計所執性の遠 95

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離が円成実性であると申しますのは、そうしたある相として固定化するような考え方→そういう考え、執着がなくな ったとき、つまり依他起性を依他起性と本当に知った時にそれは円成実性であると、こういうことが一応三性の体系 というふうに考えることができるのじやないかと私は思います。 佛教では、ものの存在というものを経験的な立場で考えていくということ、これは通規でございますが、とくに大 乗佛教においては、具体的にいえば私の世界、ものが私の世界の存在でありうるのは、私によって見られたり拘聞か れたり、考えられたりする、何らか私とのかかわり合いのあるものこそが具体的に私の世界の存在であるという考え 方、これは大乗佛教に一応通じ得るんじやないかと私は思います。とくにそれを強烈に出すのは唯識でございますが、 つまりす尋へてのものが一応主観と客観との対応のなかで、ものが考えられる。単なる対象という、・私となんの関係も ない対象というような存在は考えないというか、そういうものはないのです。無意味であるとでも言い切ってしまっ ていいかもしれません。その主観と客観との対応というその主観と客観というものを、唯識の用語でいいますならば、 能取と所取︲四目爵四と唱劉ご色という言葉に一応置き換えることができると思います。これは﹃成唯識論﹄に申し ます見分相分に当るかどうかということはいくらかの問題は残しますけれども、私はあてはめていいのじゃないかと 思います。法相宗の伝統によりますならば、その見分と相分が、依他起性の領域で考えるべきものなのか、遍計所執 性として考えられるべきものなのかということについて安慧と護法によって意見の相違があったというふうに伝えて おりますが、いま私がその問題をもちろん問題にするわけじやございませんが、もともと所取と能取ということは、 遍計とも依他起とも考えてもいいということはいえると思います。それよりはもうちょっと考えますならば、能取所 取という能所という在り方自体が実は依他起的だということの方がもっとわかりやすいかもしれないと思いますが、 四 96

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つまりものがすべて能所、能と所とを具備していることによってはじめて私の世界の存在であるわけなんであります。 だから先ほど私が申しましたなかに、種子を重習するものを法といってみたり、転識といってみたりしているわけな んですけれども、これは能取的にいえば転識でいいわけなんでしょうし、所取的にいうならば法といった方がいいの かもしれません。例えばその因転変果転変の場合は識という言葉が出てまいりますけれども、今度は﹃大乗阿毘達磨 経﹄の﹁法は識に蔵せられ、識は法においてまたしかり﹂というあの有名な偶によれば、法ということになってまい りますが、そういう能取と所取という形というか、主観と客観という形、そういうものとしてものは存在する。だか ら種子生現行ということ、種子から現行が生ずるということは具体的にいいますなちば、ものが能所という関係の なかで存在するということがいえる。このことが、依他起性が虚妄分別といわれることにつながってくると’そう であるとは言いませんlつながってくると言いたいのでございます。けれども唯識学における能所というものは、 ただいま私どもが考えている主観と客観ということではございません。〃私が書物を見る〃という私と書物はこれは 主観と客観なんでしょう。それだけのものを能取所取といっているんではないわけなんです。もっと能取所取とい うものを複雑にというか、あらゆる面にわたって能取所取を考えようとしているということを少しお話し申し上げま |○ ﹁中辺分別論﹄の相品の第三偶に有名な偶がございます。﹁外境閏昏餌と有情困茸ぐ鱒と我弾目騨邑と了別ぐ言眉丘 として顕現する識が生ずる。そしてそのもの︿閏9秒﹀は存在しない。胃昏騨が存在しなければぐ言習餌も存在しない。﹂ という偶がございます。これは四識といわれるところですが、﹃荘厳経論﹄の述求品で出てまいります三種三種の顕 現というものに照らし合わしましてもすぐわかりますように、最初の外境が六境であり、有情は五根でありますから、 この二つは所取という側に属するわけです。三種三種の顕現でいいますならば、所取としての顕現にはいるわけです。 後の二つ、我と了別、我は目自国mであってへ了別は六識ですからこれは三種三種の顕現でいえば、能取になるわけ す 97

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です。ところがこの同じ第三偶のなかに自匪勢ということばに二つの意味で使われている。はじめに私が﹁外境﹂と 訳しました四昇冨は、いま申しました六境であります。眼耳鼻舌身意の対境としての色声香味触法でございますが、 ところが後のほうに﹁そのもの﹂と訳しました冑昏騨、これもやはり胃昏騨ですが、この胃昏騨ははじめの能取所︲ 取全部を指しているわけなんです。みんなが胃昏四、それでなきやここの偶は読めないわけなんです。そうするとそ の胃昏四に対して、それは所であるならば、それに対して能の立場になるものはなにかといえば、それは識であり ます。そうするとここの一つの偶のなかにその能所が重っております。同じようなことが﹃摂大乗論﹄の所知相分に も言うことがいえると思います。こういう言葉がございます。﹁眼等のぐ言息陸というものは﹂Iこれは眼根と考 えていいと思いますがI﹁相としての色等と、見としての眼識から乃至身識にいたるまでというそういう相と見と をもつものである﹂という説明が先ず出てまいります。これはその眼等の急百号丘は、そういう色等、色境等のそ ういう相と、それから眼識から身識に至る識を見、そういう相と見とをもつものであるということであります。すぐ つづきまして今度は意目四目院です。﹁意のく言砦匡は眼等から法に至るまでの一切のく言眉丘としての相をもち、 意識のぐ言眉はとして一の見をも2という。つまり先程のと違って、先程のはその眼識と色境という形でその相と 見を言ったわけですけれども、後の方は、前の相と見もみんな相に位置づけられているということになるわけなんで す。そういうことになりますと、能所というものがただ単に我為が考えている主観と客観だけではなくなってくるわ けなんでございます・ゞそのように依他起性というものが生起するということは、依他起性というあり方自体がつねに 能所としてのあり方それ自体を示しているということになる。それを﹃唯識三十頌﹄の第十七偶では﹁この識転変と は分別である﹂ということばがそこで考えられるわけですし、ここに依他起性は虚妄分別であるという、分別という 言葉があらわれてこなければならない、使われる理由というものが出てくると思います。﹃中辺分別論﹄のその第一 偶に﹁虚妄分別は有り。そこに二つのものあるに非ず・﹂という有名な偶がございますが、それに対する世親釈では 98

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唯識学の教学史上の一番の功績といいますと、その佛道の教学的確立だと思います。その佛道の教学的確立という ものを最も象徴的に表わしているのが入無相方便という言葉だと思います・この入無相方便というこれは﹃中辺分別 論﹄から﹃法法性分別論﹄﹁荘厳経論﹄いたるところに出ており、識有境無から識亦無へという形で示されてまいり ます。そこで私は考えるのですが︲もともと先程申しましたように、ぐ言習秒︲富国目昌騨あるいはぐ旨愚目目削国とい うそういうことは、現実の私の世界の境は無である、我々の考えているようなものの存在は本当の存在じやないんだ というその内容といいますか、有にしてしかも実は無である存在の根拠づけといいますか、その在り方、その動き 全休を識転変︿ぐ旨倒国︲宮口呂昌、↑﹀といっているんであれば、その全体がこんど否定される論理というのは、その く言鼬罵言︲常貝﹄3日勢を種子と転識とか、アーラヤ識と法という形で相互関係で考える論理のなかからはたして生れて くるんだろうかということが一つ問題であると私は考えます。それにも関わらず入無相ということは、そういうもの が又識亦無と、無にならなければならないわけですが、それが出てくるのは、三性の論理がそこでからまってくるか らでなければならない。よく三性から三無性へといいますが、これはまさしくそういうことを解決する大きな論理根 拠となると考えられます、しかしこれはいまここで申しません、三無性ということもそんな形で三無性とはっきり出 ﹁その虚妄分別とは所取と能取との分別である﹂というふうに書いてあります。つまりその能所として対応すること 自体が依他起性のすがたであり、依他起的であるということになりますとこんどはいま読みました﹃中辺分別論﹄の 相品の第三偶の終りにありますように、胃昏四も、四つ全休を指す冑吾四も否定されるならば、その能取である識 も否定されなければならないというそういうことになるわけです。そうするとぐ言習四も胃5回目秒というかぐ言騨胃︸ といわれることも否定されなければならなくなるわけでございます。 園 Q Q ツ ゾ

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てくるのは、いまあげておりますような諭書には三性は有の面ですが、同時に有であるとともに無であるという面を もっているということは、どの論害にも出てまいりますけれど、三無性という形では出てくるかどうかということは 一つ問題があると思います。三性から三無性へと、もう一つ私がその依他起性がその能所的であることというふうに 考えることがその問題に関わってくると思います。依他起性というものはそのいまの転識と種子の関係であるとか、 あるいはそういう諭書をみますと有と無の関係であるとか、あるいは能所であるとか、雑染と清浄であるとか、そう いう形でその依他というものが考えられてまいります。一番おもしろい変ったところでは、陳那の﹃円集要義論﹄で は、依他起性の〃他″とは無明であるというような言葉も出てまいります。ちょっと話を、筋道をうごかしますが、 ﹃法法性分別論﹄のはじめなどに三性を応知応断応証という、それが遍計所執性、依他起性、円成実性にそれぞれ対 応するわけです。そこでは依他起性が断ぜられる↓へきものということになるわけです。その依他起性が断ぜられると いうことが、いまの入無相ということに端的につながってくると思う。入無相して一体どうなるのかということがそ こで問題になるわけです。もし依他起性が断ぜられて依他起性でなくなるんであるならば、そうすると私が最初に申 しました﹁依他起性において遍計所執性の遠離が円成実性である﹂という体系は、これは間違っていたわけなんです。 これだったらまあ私は﹁依他起性は遍計所執性である。その依他起性がなくなった時に円成実性は生ずる﹂とこうい う言い方になおさなければならないわけです。そうすると﹁三十頌﹄の言い方もなおさなければならないわけですが、 あの﹃三十頌﹄はそれ以外に読み方がないわけですから、それにも関わらず﹁依他起性において遍計所執性の遠離が 円成実性である﹂とどうしていえるかといいますと、その識亦無を通して、つまり依他起性が断ぜられて、そののち にしかも最後的に悟りの世界もまたぐ言号威でありぐ言騨口騨︲園ロ目白沙の世界であるというそういう形で考えられ るのであるということを唯識は説かねばならない、説こうとしているということ、これが非常に大事なことだと思い ます。﹃中辺分別論﹄の無上乗品に﹁三性は所知であり、無分別智が能知である﹂と悟りの世界においても能所で説 100

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いております。その能所にはたらく智はもちろん根本無分別智じやなくて後得智ということがいえると思います。法 相宗で修行法は五重唯識観ですが、その五重唯識観の一番最後は遣相証性識、相唯識を遣って性唯識を証するという あの性唯識とはなにか、これは真如である。だから真如もまた性唯識という形で示されているこれが私は大事だと思 います。また﹃摂大乗論﹄に有名な十八円淌説がありますが、そこに果円満、この十八円満と﹃浄土論﹄の三厳二十 九種の荘厳とはいつもよく対応させられるわけですが、どうしても対応し得ないものが二つあると私は思っていま す。その一つが果円満、果円満とはどういうことかといいますと、浄土の相である金銀瑠璃七宝す簿へては清浄なる ぐ言餌宮昌であると書いてある、﹃摂大乗諭﹄では、無性釈にもっとはっきりそのことが書いてあります。︵阿弥陀佛 の願心によって荘厳せられた浄土を説く﹃浄土論﹄にはそのすがたはでてまいりません。︶浄土の世界、浄土もまた 島目宮﹂であるということを説いている。つまり悟りの世界、依他起性が断ぜられて転依した悟りの世界というも のも島目冒]日割H色であり、ぐ言目四も胃昌四目四として説かれているのです。これを﹃摂大乘諭﹄の入所知相分にそ の言葉を求めますならば、あるいは﹃唯識二十論﹄にも出てまいりますが、く言少耳﹄日割国薗唯識性、という言葉で 示されている。この︲国ということでもって客観的な真理というかそういうものが自己自身となること、悟らるゞへき もの、証得せらる等へきものということを表わすという例は、佛教の用語にみることができます。一番手近な例でこれ はあるいは御批判をうけるかわかりませんけども、真如、菌昏倒に対して冨菩騨国、あの一菌曽騨国は、世俗的にある がままなんでなしに、証せられたるあるがままではないでしょうか。あるいは唯識の諭書でいいますならば、﹃法法 性分別論﹄において。ぽ自昌画、と号自己騨薗の分別がなされている。Q旨胃目騨は断ぜらるべき生死である、号閏日四国 は証せらるべき浬藥であるとはじめからそう書かれています。ということは︲国という切邑霞〆をつけることによっ て、証得さる今へき、すなわち応証団扇弾冒騨騨ぐ圃なもの、そういうことを示しているというふうに考えることがで きる。しかもその︵冒胃目色と邑冨胃日騨国が示しますように、断ぜらる。へきものも証せらる今へきものも巳芦胄日ゆであ 101

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﹃摂大乗諭﹄の依他起性をふつうに二分依他説と申しますけれども、その二分依他ということは依他起性即通計所 執性から依他起性即円成実性に転換することという、そういう形で依他起性を中心にして依他起性において佛道の体 系が確立されていくということ、これは私は爺伽行学派といいますか、弥勒の諭書をはじめ無著世親の本当にすぐれ た特筆大書す顎へき成果だと思います。ところがその反面、龍樹が戯論の寂滅ということばであらわしましたり、また 後期の中観の論師たちがその完成された二諦説によって示しましたようなその悟りと迷い、勝義と世俗というものと 産簡別するというか峻別するというその厳しさ、そういう面がその道の確立のなかから逆に稀薄になってきたうらみ があるのじやないかと思います。そう受け取られやすい面がある。そういうときにこの依他起性が断ぜられるという と思います。 事な意味だと私は思います。そのことが先程書きました第三番目の染汚清浄の性不成就ということにつながってくる 味で雑染と清浄とが依他的であるというだけじやなくて、雑染も清浄も依他起性であるということ、これが非常に大 取得するとか、あるいは雑染分を転滅して清浄分を転現するという言葉で示されているんだと思います。こういう意 性において遍計所執性の遠離が円成実性であるとか、あるいは﹃摂大乗論﹄で依他起性の雑染分を転捨して清浄分を くなってまた依他起性になることでなければならない。依他起性が断ぜられて依他起性になることそれがその依他起 なって断ぜられて依他起性にならなくて、例えば円成実性になるのだということであってはならない。依他起性がな いうものは全部くずれてしまいますし、唯識の論害のいっていることはくずれてしまいます。だから依他起性がなく なるか、依他起性でなくなるのかというと、もしなくなるんであれば、これはさっき申しましたように我々の理論と すが、その転ぜらる所依というのが依他起性ですから、だから依他起性は断ぜらるわけ、依他起性が断ぜられてどう れるんじやないかと思います。このように依他起性が断ぜられることを唯識では転依胤国冒冨3角#]というわけで るということが大事であると私は思う。そのことがいまここでぐ言四宮目剖昌とぐ言名はョ弾昌団という言葉で示さ 102

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ことは非常に大事な意味を私たちはもっていると思います。これがむしろ唯識の一番大事なところであるというふう に考えなければならないと思います。 これは長尾雅人博士の名論文であります﹁中観哲学の根本的立場﹂に、我が国でははじめて紹介せられて、それ から非常に注意せられた言葉に一﹂ういう言葉がございます。〃如所有性、尽所有性〃。真諦訳では〃如理・如量〃、 着目翌鼠匡働く房四国と鼠ぐ且三働且富国でございますが→この如所有性というのはあるがままを見る勝義の智、勝 義諦の智慧であるし、尽所有性というのはある限りを照らす世俗諦の智慧といわれます。長尾博士の言葉をかります ならば、止いまここで問題にするのはあとの尽所有性の方なんですがI尽所有性というのは、その有る限りとい うのは、その生死の辺際を尽し、五誼十二処十八界に他ならないといってまさしく世俗の世界のすべてを知る智慧、 それが尽所有性というそれが佛陀の智慧でございます。その尽所有性というものはいつも如所有性という勝義の智慧、 佛陀の根本無分別智といいますか、その根本無分別智が尽所有性に先立ってなければならない。つねに如所有性から 尽所有性が生じてくる。だから尽所有性はその佛陀の根本無分別智に随順してその有情を成熟する菩薩の智慧である ということになると思いますが、その所知であるものが尽所有である、有る限りであるということは、その転依にお いて断ぜられた依他起性が、こんどは悟りの世界において、そのある部分じやなしに寸分残さず、すみからすみまで よみがえらなければならない。依他起性がやはり依他起性になるということを如実に示す一つの例だと思ってここに 出したわけでございます。﹃爺伽師地論﹄に無分別転清浄妙智である勝義の智慧から有分別転清浄妙智である世俗の 智慧が展開するというようなことが述べられておりますが、もともと般若波羅蜜とは無分別智である一といういい方は、 これは﹃摂大乗諭﹄がはじめてじやないですか、いかがなものでしょうかお教えいただきたいと思います。﹃摂大乗 論﹄以前に、般若波羅蜜は無分別智であるという例は、私は出てこないんじゃないかと思います。ともかく無分別智 ということはこれは虚妄分別に対して無分別智という言葉が、私は非常に意義づけができると思うんです。↑だから無 103

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分別智という言葉は唯識の用語とはあえて申しませんけれども、唯識的に意義づけられる言葉じゃないかと私は思い ます。そこで私は唯識学というものを主体的な面からいいますならば、l知的な面といいますかI唯識学という ものは終始一貫その虚妄分別と無分別智との関わり合いを説いているものだといっていいんじゃないかと私は思いま す。その無分別智というものは、無分別の智ですから、その能所不二の智慧能所不二ということになるわけです心 能所不二ということならば中論的な表現をもってしますならば、戯諭の寂滅した黙ということになるでしょう。とこ ろが黙にとどまっては、佛教の究極というものが黙であるならば、私にとって何の役にも立たない、全くロ○旨、の晨○ なものになってしまうわけなんですが、そうでなくて、つねにそれが私の世界に現われてくる、そこに私の世界であ る依他起性の世界がよみがえってこなければならないわけです。 御存知のように爺伽学派の佛身論は三身説に立っています。これは自性身“くぎ目く房騨圃冨、受用身出目こ︺○唱冨︲ 圃冒、変化身ロ昌禺昌国邑国圃菌、この三身説というのは﹃荘厳経誰﹄とか﹃摂大乗論﹄に非常に詳しくでております が、そのなかで﹃荘厳経論﹄の例をとりますと、こういうふうに説明しております。﹁自性身とは法身であって、転 依を特質とする﹂。自性身は法性真如というか、悟りの世界である法性真如そのものが実は佛の本性である、本質で あるということを圃冒、佛身として自性身として呼んだんだと思います。﹃荘厳経諭﹄の菩提品に同じように佛の 智慧を説く偶がございますが、転識得智の四智I大円鏡智・平等性智・妙観察智・成所作智という四智が出てまい りますが、それを﹃荘厳経論﹄ではこういうふうに説明しております。大円鏡智は不動である。それに対して平等性 智・妙観察智・成所作智の智は、その大円鏡智に依止するんだということをいっております。その世親釈には﹁大円 鏡智は不動であり、それに依止する他の三智は動である﹂とこういっております。つまりこの四智は、自性身と受 用身・変化身の関係にそのままあてはめることができると思います。だから自性身が不動であるならば、それが動の 世界に現われてくる、動いてきたものが受用身である。﹃中辺分別論﹄の安慧釈にこういう言葉がございます。﹁自 104

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性身が受用身において現等覚する﹂といういい方が出ておりますが、つまり三身のうちの自性身が頂点なのではなく て、図式的に示すならば頂点にあるかもしれませんが、内容的には実は自性身が頂点ではなくて、その自性身が受用 身となって現われることによってはじめてその悟りの完成があるということだということです。それを受用身は自利 の成就を特質とするという意味であると思います。﹃唯識三十頌﹄に﹁円成実性を見ずして依他起性を見ず﹂という 言葉が出てまいりますが、まさにその理趣を示しているといっていいだろうと思います。﹃摂大乗論﹄のなかに受用 身のことを等流身昌遇騨目騨圃冨という言葉で説明している箇所がでてまいりますが、日当四且四というのは〃流れ 出る〃ということ、だから真如法性なる無為の世界の自性身が、有為分別の世界に流れ出たものが、それがその受用 身だと。!ここで一つ断わらなければならないことができました。というのは、それだったら自性身から受用身と いう一つの方向だけが示されている。私はそうじゃないと思います。それだったら三性の理論のなかにおける悟りの 世界というものはそれでは現われておらないと思うんです。 ちょっと急ぎますこともあって、違った場面での例を出します。浄土真宗の方も随分と多いと思いますので、﹃浄 土論﹄のなかに﹁一法句とは清浄句なり、清浄句とは真実智慧無為法身なり﹂という、真宗学でも非常に大事にする 言葉がございますが、あれは﹃論註﹄では広略相入のところにはいってくるわけですけれども、私はあの言葉をこん なふうに佛身にあてはめて考えるべきだと思います。初めの.法句﹂は自性身である。それから二番目の﹁清浄句﹂ はこれは三厳二十九種の荘厳相として展開する受用身である。それから三番目の﹁真実智慧無為法身﹂はこれはまた 自性身である、というふうに受け取めていいのじゃないかと思います。そうしますと、一法句と清浄句と真実智慧無 為法身とが互いに展転相入するように自性身と受用身というものが、自性身から受用身が流れてくるんじやなしに、 自性身と受用身というものが刹那刹那に展転しているものでなければならない、そこにそういうことが依他起性のす がたである。それは依他起性という理趣においてはじめてそれが言い得るのだと思います。 105

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大変時間が超過いたしまして、もう一ついいたいことがあるんですが、これは簡単に申さしていただきたいと思う んですが、勝義諦と世俗諦、勝義と世俗という言葉は、これは中観学派の専有物のようにいわれますけれども、実は 私はそうじゃないと思うんです。勝義と世俗の二諦、月称や清弁になって二諦というものが完成されてくるのは実は 唯識の論書を通して内容づけられてくるんじゃないかと思います。とくにそのことがいえるのは﹃中辺分別論﹄にお ける勝義と世俗の論述がございますが、こういうものが龍樹の二諦という内容を肉づけしていって、そして後の中観 学派の二諦説というものの基本になっていくんだというふうに私は考えたいのでございますけれどもいかがなもので しょうか。あまり唯識に我田引水だといわれるかもわかりませんが、その勝義と世俗という言葉の説明を通して先程 から話しております依他起性が依他起性になる、依他起性が悟りにおいてよみがえるということの意味をこんどは私 たちは考えることができると思います。その中で﹃中辺分別論﹄ではゞ﹁真実品﹂に、麓真実蟄二蜀昌東号一3国と細真 実の己患目騨冨詐ご角というふうに、鹿真実が世俗であり、細真実が勝義であるわけですが、それぞれに三つに分けて説 明しております。私はその中で一番大事であると思うのですが、世俗のなかでは三番目に顕了世俗且匡動く曽畠切騨日︲ ぐ目というものが出ております。これは勝義というものは、言葉を越し、言説を越し、分別を越したものである。だ から言葉によって、円成実であるとか真如であるとか空性であるとか言葉で言ったものは、それは顕了ではあるけれ ども勝義ではなく世俗であるという言い方です。それからもう一つは勝義の中の第三番目に行勝義冒斡は冨藍冒国︲ 日日垈国というのが出てまいります。これは佛道である。そのまえの二つの勝義は真如と混樂でありますから、これ は無為である。それに対して有為である道を勝義と呼んでいる。この二つがからみあいまして私は非常に味わい深い 唯識の教えというものを、私どもはいただけるわけです。というのは一番最初に申しました、私が今日お話しする管 六 106

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だと申しましたその管をしめくくらなければなりませんので、こうあわててお話ししておるわけでございますけれど も、最後の染汚清浄の性不成就であるということについて、染汚から清浄へということ、あるいはその関係、あるい は悟りにおける関係であることまでを話したわけですが、その二つの言葉からいいますならば、それだけでなしに私 の歩んでいる一歩一歩、刹那刹那ですね、私の日々の刹那刹那、佛教を学びゆく刹那刹那に勝義のはたらきがあるわ けです。その勝義のはたらきがあればこそ、雑染の自覚、虚妄分別の自覚も生ずるし、そこに向上も生れてくるわけ なんです。そういう染汚清浄の性不成就ということは、そういう刹那刹那に佛道l佛道というのは何も初めからし まいまで結果がみわたせる、あるいは結果の見えるものではございません。ただ私が歩んでいく一歩一歩だけしかな いわけですけれども、それが悟りにおいてはじめて佛道という自覚ができてくるわけです。それが佛道であり得るの は、そこに染汚と清浄$勝義と世俗とがその私の刹那刹那にまじわっている、だから佛道であるということがいえる。 それもやっぱり依他起性の理趣によっていえる。それが一番最後の染汚清浄の性不成就という言葉の内容であるとい わなければなりません。その内容としてはじめて、はじめの第一、第二の意味も依他起性全体を意味することばとし て受け取めることができるのではないかと思われます。 大変長時間になりまして、しかも急いだ大味な話しになりました。大変恐縮いたします。御静聴を感謝いたします。 ︵本稿は昭和五十二年十二月一日、大谷大学仏教学会公開講演会における講演の筆録を先生に加筆していただいたものである︶。 107

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