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「フランス的ヨーロッパ」をめぐって

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(1)

一普遍主義とナショナリズムの相剋(3)

小井戸 光彦

初めに,前回紙幅が尽きて言及し得なかったスラブ語系諸国におけるフランス文学の影響につ いて見ることにしよう。

ポーランド,ロシア,更には旧ユーゴスラビアに相当する南スラブの国々ですら,フランス文 学の全ヨーロッパ的な影響力からは免れ得なかった。

[ポーランド]

名の知れたフランスの作家で敢えてワルシャワにまで赴いた者の数はそう多くない。それでも 17世紀では,ヨーロッパ各地に旅をした後招かれてポーランドまで足を伸ばし,王妃マリー・ル イーズ・ド・ゴンザーグから年金を与えられた酒の詩人サン・タマンを挙げることができるし,18 世紀にはドリール師がいる。その崇拝者たちから《フランスのウェルギリウス》と呼ばれたドリー ルは,ワルシャワに到着した時,「熊の毛皮を着たサルマチア人たち」の代わりに,「ビスワ河畔 のアテネ」といった停まいの都市を見出して快い驚きを感じたという。D

しかし,こうした稀な訪問者たちの個人的影響はさほど大きくはなかった。むしろ17世紀フラ ンスの古典主義作家たちの多くの翻訳とフランス演劇の上演とによって,フランス文学はポーラ ンドに普及した。イグナツィ・クラシツキにポワローの影響が,F.ザブロツキにモリエールの影 響が認められるのもこういった事情によるのである。

18世紀フランスの《哲学者》たちの威信は多くの証拠によって確認できる。ポーランドの一愛 国者の求めに応じて,列強による分割を前にしたポーランドの国家としての再建を論じた『ボー ランド統治論』(1771−72執筆,82没後刊)の著者J.−J。ルソーに続いて,マブリー師も『ポーラン

ドの統治と法』について一書を物している(1781刊)。又マブリーの弟コンディヤックはポーラン ドの貴族イグナツィ・ポトツキの求めに応じて,イエズス会のラテン語で書かれた教科書に取っ て代わるべく,リトアニアの教科書として『論理学』を書くことになるが,その際ポトツキがコ

ンディヤックに宛てて送った招請状は,当時フランス思想が享受していた光輝を証す貴重な資料 なので再録するに値しよう。彼は1777年9月7日コンディヤックに次のように訴えている。

あなたは著名人の特権を享受しておられます。つまり最も遠い国々にまでよく知られている あなたですが,ご自分ではあなたの書物を読んでいる人々,あなたの書物によって啓発され ている人々をご存知ないのです。...国民教育を担当する顧問会議は私に,初級論理学の教科 書に代わるべきものを用意するよう命じました。私はあなたのお仕事の内容を熟知しており

『人文学科論集』32,pp.69。78.       ◎1999茨城大学人文学部(ノ\文学部紀要)

(2)

ますし,同会議の面々も統合的な公教育論中のあなたの信条に賛同しておりますから,この 重要な任務をあなた以上に見事に遂行できる方はおりません。あなたは一人の君主[パルマ 公]の皇太子の教育に当たった経験をお持ちです。そのあなたが今度はあなたの著作を一国 民のために役立てることを拒絶なさるでしょうか。2)

コンディヤックはこの快いと同時に逆らい難い招請から逃れられなかった。彼は1778年にその作 業を完了し,この書物は1780年にフランス語で印刷され,1802年から1819年までに3度ポーラン

ド語で重版されたのである。

[ロシア]

国外に新天地を求めて故国を後にしたフランスの作家たちは,ロシアにおいてポーランドにお けるよりもはるかに多くの稼ぎ口を持っていた。ピエール・ド・ベロワは一後年その愛国的な戯 曲『カレーの攻囲』によって本国で名声を博することとなるが  女帝エリザヴェータの治世末期 の1755年から58年までモスクワ大学でフランス語を教えている。エカテリーナ2世治下のロシア には,多くの文学者や哲学者,経済学者がその夢想的な改革案やゴシップ記事で金儲けをしよう と引きも切らず押しかけてくる。リュリエールは1762年の宮廷革命について女帝の立場を危うく する内容の『逸話』を報告するが,この中傷文を完全に封じ込めることは彼女にもできなかった。

ベルナルダン・ド・サン・ピエールは1762年に,又もっと遅れてエコノミストのメルシエ・ド・ラ・

リヴィエールがやってきて,彼らの取り留めのない計画を提案する。遠国ロシアをフランス人に とってなじみ深いものとしたのは数多い『回想録』の刊行だが,その中で最も優れているのはマ ソン,コルブロン,セギュール伯,リーニュ公の回想録である。又ルヴェックとJ.ル・クレール の『ロシア史』,フォルティア・ダ・ピレスの丹念な旅行記もフランス人のロシア理解に貢献した のである。

しかしこれら作家の概して短期間の滞在よりも,フランス文学の普及に与ってはるかに力あっ たのは女帝エカテリーナの個人的な働きであった。ポーランドにおいては,国王スタニスワフ・ア ウグストが自ら主宰する文学集会でラ・アルプの悲劇やフロリアンの寓話詩を読むのが習わしで,

フランス文学の威光はこの国王の庇護に負う処が大きかったが,それと同様にロシアのフランス 化は大部分エカテリーナ2世の功績であった。

とは言え,ドイッ出身のこの女帝はフランス王国の政策には全く共感を示さなかった。なぜな らフランスはその伝統的な同盟国たるスウェーデン,ポーランド,トルコのために彼女の目論見 を一度ならず妨害したからである。しかしその敵悔心も,彼女が  プロシア王フリードリヒ2世 や彼女の愛人スタニスワフ・アウグストと同様に  フランス語とフランスの文学・芸術に夢中に なることを妨げはしなかった。政治と文化,俗界と精神界のこの絶対的独立は啓蒙期の特色の一 つで,大臣ショアズールを嫌悪しつつ,同時にヴォルテールを崇拝することが可能だったのであ

る。

(3)

プロシア王とロシア女帝のいずれがより熱烈にヴォルテールを崇拝したかを決するのは厄介な 問題である。だが友情の不変性で勝るのはエカテリーナ2世の方である。というのも彼女は熱愛 の対象に一度も会ったことがなかったから,仲違いをする危険は少なかったのである。『アンリ ヤッド』で精神を培い,これを諸んじていた女帝は,ヴォルテールとの間に長期に亘って書簡を 交わしたが,そこには何の陰りも見られなかった。哲学者から《北国のセミラミス》と呼ばれた 彼女は,この少々意地悪な老人と親しい関係を保持することにどれ程大きな宣伝価値があるかを よく知っていた。彼には息を引き取るまで誰よりも巧く《世論》の女神ファーマの嘲吠を吹く能 力があり,世評を巧みに按配するには彼一人で幾つもの新聞に匹敵する程の効果を上げ得たので ある。だから彼女はご機嫌とりと贈り物で彼を圧倒した。

1778年の彼の言卜報に接して,彼女は殆ど子の親に対するが如き弔意を表している。グリムに宛 てた彼女の手紙には,彼女がその弟子だと公言して揮らなかった哲学者に対して抱く悲しみと感 謝の念が溢れている。

それに,あの方は私の師です。私の精神と私の頭脳を形作ってくれたのは彼であり,もっと 正確にいえば彼の著作です。私はそのことをあなたに一度ならず申したと思いますが,私は 彼の生徒なのです。3)(1778年10月1日)

彼女はll月30日の手紙でも同じ事を言う。

もし私の言葉遣いに力と深みと優雅さがあるとするなら,私はその全てをヴォルテールに負 うていると承知して下さい。なぜなら非常に長い間,われわれは彼のペンから生まれ出たも のの全てを一度読んでは又読み直してきたのですから。4)

カリアの女王アルテミシアの悲嘆を偲ばせるような苦しみの内に街いを込めつつ,彼女は今は 亡き偉人の思い出を称揚するための壮大な計画を思い巡らす。彼女は彼の蔵書を買い取るだけで は満足せず,彼の遺品を求めて彼のために壮麗な霊廟を建てようと考える。次いでそのツァール スコエ・セロー(王の村)の庭園内にフェルネーの城館を入念に再現しようというアイデアを思い つく。そしてこの《新フェルネー》の内に長老の大理石の立像が書物に囲まれて安置される筈で

あった。

しかしヴォルテール神格化のこれら2つの計画は共に紙の上のプランに止まった。最終的にエ カテリーナは,その悲しみが鎮まった頃,哲学者の2つの胸像一それは「かつらを脱った」(sans perruque)ものであること  と,哲学者の姪ドゥニ夫人がコメディー・フランセーズに与えた坐 像のレプリカとをウードンに発注することで満足した。その上,ヴォルテールの著作が彼の名を 不滅にする最良のモニュマンだと考え,彼女はグリムに命じて,死後刊行される著作を100部ずっ

自分のために予約させた。

(4)

私はヴォルテールの著作を鑑として役立てて欲しいのです。人々がそれに学び,それを諸ん じ,それによって人々の精神が豊かになって欲しいのです。5)

彼女がヴォルテールに次いで尊敬するフランスの思想家はビュフォンである。彼女は1779年12 月7日にグリムに宛てて,自分が貧り読んだばかりの『自然の諸時期』について書き送っている。

ニュートンが巨人の1歩を踏み出しました。これが第2歩目です。この書物は私の脳みそを 目覚めさせてくれました。ああ,ビュフォンの仮説はわれわれの頭を掻き乱し,激しく揺さ

ぶります。6)

この感懐の吐露に続いて,ウードンはエカテリーナから,出来るだけ早くビュフォンの胸像を大 理石で彫るよう依頼される。そしてやがてそれはヴォルテールの胸像の無柳を慰めにやって来た。

ビュフォンは自分の代わりに息子を送るに止め,自らは一度もロシアに行かなかった。これに 反して,女帝とディドロとの書簡の交換からは,終局において哲学者が遠方の恩人を訪問すると いう事態が出来した。確かに彼には彼女に感謝すべき理由があったのである。1762年に彼女は彼 に対しシュヴァーロフ伯を介して,フランスで禁書とされた『百科全書』を彼女の負担で刊行さ せようと申し出た。

『百科全書』はここでなら,妬みに発するあらゆる手口から守られた安らぎの場所を見出せる でしょう

と,女帝は書いている。7)この申し出は実現しなかった。しかし1765年に,ディドロが金に困って いることを知ると,彼女は彼に用益権を残したままでその蔵書を買い取ってやった。これは彼の 心を傷つけることなく彼に恩を施す上手いやり方であった。

長い間言い逃れをした後で一一というのもヨーロッパの端から端まで旅行するのはこの出不精の 人間を恐れさせたから ディドロは,友人の彫刻家ファルコネがペテルブルグで待っていること にも力づけられて,やっと1773年にロシアに赴いた。エルミタージュに親しく迎えられるや,す ぐに彼は大胆にも全ロシアの女帝を無遠慮に友達扱いしたが,彼女はそれで気分を害したりはし なかったらしい。彼女はジョフラン夫人に面白おかしくこう書き送っている。

あなたのディドロはとても風変わりな人です。私は腿に真っ黒な癒を作らずに,彼との対話 をやり遂げることはできません。私は彼の激しい身振り手振りから私の体と手足を守るため に,彼と私の間にテーブルを置かざるをえませんでした。8)

しかし,彼女はディドロを責める訳には行かなかったのである。なぜなら身分も性別も抜きにし

(5)

て振舞うよう彼に仕向けたのは外でもない,実は彼女自身だったのだから。

こうした気安さを見せたからといって,彼女は常に沸き返っているようなこのユトピストの,人 を酔わせる雄弁にのぼせ上がったりはしなかった。彼女は彼の大層な計画のうち自分が真に欲す るものだけを心に止めた。彼女は紛れもない政治家として彼に書いている。

あなたの仰るすべての偉大な方針を以てすれば,立派な書物はできましょうが,仕事には失 敗するでしょう。あなたのすべての改革計画では,私たち2人の立場の違いが忘れられてい

ます。あなたは紙のkだけで仕事をなさいます。ところが,しがない女帝であるこの私は人 の肌の上で仕事をしており,これは紙と違ってとくに敏感で傷つきやすいものなのです。9)

われわれが引用したエカテリーナ2世の書簡の断片から見てとれるのは,ヴォルテールの弟子       曜

ノしてビュフォンの心酔者,ディドロのお喋り相手である彼女がその師たちに敬意を抱いていた ことと,一度もフランスに行ったことがないにも拘らず,彼女がフランス語を見事に操る能力を 持っていたことである。パリに住んではいるが彼女と同じくドイツ出身のグリムとの文通でも,彼 女の手紙は相手の徒に晦渋な饒舌を凌駕しており,又ファルコネと彼女が交わした書簡を見ても,

より純正で味わい深いフランス語を書いているのは必ずしも常にパリジアンの方ではないことが 確認できるという。ゆ

その大半が取り留めもなく認められた彼女の手紙に価値を与えているのは,その飾り気のない 自然さ,伸びやかにして湧き出るような才気喚発ぶりである。それはこの上なく自由で,しかも しっかりとして危なげのない会話のもつ趣に近い。読んでいると,彼女がお喋りしているのを聞 いているような感じで,ディドロやグリム 彼も同時期ペテルブルグに逗留していた一のよう に,エルミタージュかッァールスコエ・セローの歓談に招かれているような錯覚を起こす。若干 の手落ちや逸脱は余り重要ではない。彼女はモンテーニュのように,ありとあらゆる手を繰り出 して,フランス語にドイツ語やイタリア語の片言隻句を混ぜるし,やくざ言葉にも後込みしない。

たとい寛いでいる時とはいえ,ロシア女帝が次のように言うのを聞くのは確かに意外である。

私は昨日頭痛がしましたが,そいっはひどく思い上がった頭痛でした。ll)       o   ■   ●   ●   o   ●   ●   ●   ■

後注に示した通り,傍点部分のフランス語はなる程俗語ではある。だが別に今,彼女は後世のた めに御託宣を垂れようというのではないのである。現に彼女はグリムに打ち明けている。

私はあなたに,私の頭に過るすべてのことを,秩序も規則もなく,文体も綴字法も無視して

書いています。12)

彼女の闊達さが偲ぼれようというものである。

(6)

彼女は自分がフランス書簡文学中に占める地位を予期していただろうか。間違いなく否である。

しかしながらフランスの文学史家たちが外国の寄与にも配慮するなら,ヴォルテールやディドロ,

グリムやファルコネとの彼女の書簡は,セヴィニェ夫人やヴォルテールの次に言及されて然るべ きではなかろうか。とまれ,エカテリーナは明らかにロシアの生んだ最良のフランス語作家であ

る。

彼女の宮廷の大貴族のうちには彼女と同じ趣味を信奉する者が多かったが,その幾人かは彼女 同様フランス語を見事に操ることができた。ドミートリー・ゴリーッィン公が友人たちと文通し たのもフランス語なら,ストローガノブ伯がそのコレクションのカタログの序文を草したのもフ ランス語である。韻文で書くのはさらに難しいことだが,アンチオフ・カンテミール公に次いで,

アンドレーイ・シュヴァーロフ伯は『ニノンへの書簡詩』においてその離れ業をやってのけた。し かもこの作品は,パリのサロンを一巡して,ヴォルテールの作と見間違われるというこの上ない 光栄に浴した。

だがそれらは言わば温室の花々,コスモポリタンな閑人たちの余興と思われるかもしれない。確 かに,フランス文学が作家を本業とする者たちに及ぼした影響を明らかにすることの方がもっと 重要であろう。その意味で,ワシーリー・トレジアコフスキーが1727年から1730年まで3年間パ

リで過ごして,ポワローの『詩法』と『テレマック』を翻訳したこと,カンテミール公がポワロー の『ナミュール占領についてのオード』を模倣し,モンテスキユーの『ペルシア人の手紙』とフォ ントネルの『対話』をロシア語に直したこと,スマローコフがラシーヌとモリエールをロシア演 劇中に移植するべく努力したこと,カラムジンがジャン・ジャック・ルソーの弟子で,『あわれな リーザ』というその感傷的な恋愛小説が『新エロイーズ』に直接由来することを知るのは詰まら ないことではない。こうしたフランス文学からの借用の事例を列挙すれぼ,そのリストはさらに 長くなるであろう。しかし余り益のあることとは思われない。というのも,18世紀のロシア文学

は未だその修業時代にあったからである。

努力の末に見るべき収穫がもたらされるのは,やっと19世紀初頭のアレクサンドル・プーシキ ンからである。彼はその青少年期に18世紀のあらゆるフランス作家  ヴォルテールとクレビヨ ン,J.−J.ルソーとレチフ,シェニエとパルニーといった大作家から小作家まで  を貧り読んだ のである。トルストイの天才も同じ源泉から養分を吸収した。彼はルソーに対して抱いていた崇

拝の念を公言して欄らない。       〆

15歳の時,私は彼の肖像を聖者の像のように首から提げていた。B)

こういった次第で,啓蒙期のフランス文学がロシアにおいてその最も見事な成果を結実させるの は,18世紀ではなく19世紀になってからなのである。

(7)

[旧ユーゴスラビア]

外国において最も高い評価を受けたのは必ずしもフランスの最も偉大な作家たちとは限らない。

この点について興味深い事実は,アドリア海に接した南スラブ地方において,マルモンテル  そ の生前の栄光に比して死後の忘却は際立った対照を示している  が享受した人気である。

クロアチア人のPavl6 Djoulinatzは1776年に哲学小説『ベリゼール』を翻訳している。18世紀 セルビアの優れた作家ドシテイ・オブラドヴィチは1784年にパリに来たが,同じくマルモンテル の『教訓小話集』を翻訳する。因みに,この作品はすでに1775年にバーロッィ(A.)によってハン ガリー語にも訳されている。

蛸*

ゲルマン世界とスラブ世界の中間に位置しながら,人種的にも言語的にもこの両グループには 結びつかないハンガリーを省くなら,我々の検討は不完全なものとなろう。中央ヨーロッパと東 ヨーロッパの交叉点に位置するハンガリーには,あらゆる方面からフランスの影響が及び,ハン ガリーはそれを免れることができなかったし,むしろその喧騒の中で中世の眠りから覚めたので

ある。

聖王イシュトヴァーン1世の王国にフランス文学が伝播するのを助けた要因としては,幾つか の歴史的事情が挙げられよう。すなわち1713年にフランスに亡命したトランシルバニア公ラーコー ッィ・フェレンツ2世の影響があったし,ハンガリー特にデブレツェンにおけるカルヴィニズム を強化することになったフランス新教徒たちの亡命も指摘できよう。また多くのハンガリー青年 貴族がマリア・テレジアがウィーンに建てたくくCollegium Theresianum》でフランス語を学んでいた

ことも付言しておこう。

17世紀には,アパーツァイ・チェレ・ヤーノシュがユトレヒトで『ハンガリー百科全書』(1653)

を公刊するが,これはデカルトからヒントを得たか,時にはデカルトを逐語訳したものである。

ラーコーッィの亡命にパリに付いてきたトランシルバニア人ミケシュ・ケレメンは,セヴィニェ 夫人を手本にして『トルコからの手紙』を書いたが,これはハンガリー散文の傑作である。しか しハンガリーで刊行された最初のフランス語の書物は『ラーコーツィ公の事跡』(1707)である。

1715年以後パリ近郊グロボアのカマルドリ会修道院に隠遁した,かつてのルイ14世の同盟者は『或 るキリスト教徒公爵の願い』と『政治的道徳的遺言』をフランス語で書いている。

ハンガリー人が《フランス派》と呼ぶ18世紀末の作家グループの指導者ベシェニェイ・ジェル ジュは,アカデミー・フランセーズを模したハンガリー・アカデミーの創建を要求している。彼 の野心はハンガリーのヴォルテールになることであった。彼はフェルネーの哲学者の思想を広め,

寛容を説き,民衆を欺く聖職者たちを罵倒し,改革派大臣たちの努力を妨害する廷臣たちに激怒 している。そしてヴォルテールのあらゆる作品を模倣する。『デブレツェンの火災』についての詩 篇では,リスボンの大地震についてのヴォルテールの考察を自分流に踏襲している。彼は6篇か

(8)

らなる愛国的叙事詩『マーチャーシュエ』において『アンリヤッド』を模し,『フニャディ・ヤー ノシュの生涯』で『カルル12世の歴史』を模している。ベシェニェイが唯…のヴォルテール狂だっ たのではない。Joseph Peczeliは彼の何篇かの悲劇と『アンリヤッド』をハンガリー語に訳した 上,後者に関してはマーチャーシュ王(マティアス・コルヴィヌス)についての愛国的詩篇を書く に当たって手本として役立てている。

Jean Fekete伯がその熱愛者に宛てた手紙以上にヴォルテール崇拝をよく示しているものはない。

彼は哲学者に 書いている。

もし私が仕事から解放されて旅行することができるとしても,私はイタリアの美しい廃嘘を 見物しに行こうとも思いませんし,パリの理髪店や洋服屋の手にかかって垢抜けようとも思

いません。私の旅の目的はもっと高尚なものになるでしょう。私が会いに行きたいのはあな たなのです。長らく前からあなたに心酔している私には,自分の生を,あなたの著作を読み 始めた時期以前にまで遡って考えることができません。14)

フリードリヒ2世同様,このハンガリーの貴族もヴォルテールにフランス語の詩句を送って,訂 正を乞うている。しかし彼はそこにトカイ・ワインの樽を付け加えることを忘れない。ヴォルテー ルは自分が相手の詩句よりもぶどう酒の方が好きだと告白してしまう訳にも行かなかったのであ ろう。患勲にこう返書を認めている。

それはあなたの詩句と散文に次いで,私が最も愛するものです。15)

Feketeは1781年にジュネーヴで『わがラプソディ』(2巻)を公にし,89年にはローザンヌで次の 2作をフランス語で著わした。それは『悲しみなきわが孤独』と『或るコスモポリタンが描いた

ウィーンの活況の粗描』である。

轟*

以上見てきた通り,啓蒙期フランスの文学と思想の影響はヨーロッパの隅々にまで及んでいる。

前々回に検証したフランス語の影響と同様,また同じ理由から,文学の影響の及び方も一様では ない。ユグノーの大量移住に見舞われた国々(オランダ,ドイツ)や,百科全書派に共鳴する啓蒙 君主が統治した国々(プロシア,ロシア),国民文学を持たなかった新興国(スウェーデン,ロシ ア)ではより強い影響を受けたのに対し,その偉大さを誇るイギリスや,過去の栄光に酔う国々

(イタリア),スペインのような反啓蒙主義の君主国では影響がより弱い。しかし,要するに到る ところで影響は見られたのである。

この驚くべき普及の原因は後日明らかにすることとして,ここではこの事実を確認するだけに

(9)

しておこう。いかなる文学も,いかなる時代においても,これ程の普遍性を獲得したことはない と言っても過言ではない。フランスの作家がさまざまな外国語に翻訳された事例を数えあげたら 優に1章を要するであろう。ここではより簡略に,その思想を表現し広めるためにフランス語を 採用した外国人作家のリストを示すに止めるが,それでもこのリストは十分な説得力を有すると 言えよう。

ジュネーヴ出身のJ.−J.ルソー,あるいはフランス語を母語としたベルギー人のリーニュ公につ いては語らぬにしても,イタリアではゴルドー二とカサノーヴァ,カラッチオリ侯とガリアー二 師を挙げることができる(フランス嫌いの中で最もフランス化していたアルフィエーリを付け加え

ることもできよう)。イギリスではハミルトン,ボリングブルック卿,チェスターフィールド伯,

ギボン,ウォルポールを,アレマニックのスイスではマイスターを,ドイツではライプニッツと フリードリヒ2世,グリムを,スウェーデンではグスタヴ3世,テッシン,フェルセンを,ボー ランドではスタニスワフ・アウグストを,ロシアではエカテリーナ2世,カンテミール公,ゴリー ッィン公,アンドレーイ・シュヴァーロフ伯を,ハンガリーではラーコーツィ公を数えることが できるのである。

ところでG.ランソンはこれら外国人の内,人並みすぐれたフランス語の遣い手としてリーニュ 公,ガリアー二師,フリードリヒ2世の3人の名を掲げている。16)しかしフランス語を殊の外能く

した外国人について特筆するなら,せめて次の6人ぐらいの名は挙げなければ不公平の憾みがあ ろう。すなわち,その6人とはリーニュ公とハミルトン,ガリアー二師とグリム,フリードリヒ 2世とエカテリーナ2世である。彼らは皆負けず劣らず見事にフランス語を操れたし,それぞれ に等閑視し難い足跡を残しているのである。だとすれば,これまでフランス文学史上において彼 ら外国人作家に与えられてきた,少々しみったれた地位とスペースにっいても修正を施すべきで はあるまいか。

(1998年10月)

1)Le Virgile f士angais, comme l appelaient ses admirateurs, eut l agr6able surprise de trouver, en arrivant a Varsovie, au lieu de《Sarmates habill6s en peaux d ours>〉, une nouvelle<<Ath6nes au bord de la Vistule>〉.

(Louis R6au,ゐ EμアoμFrαη@∫θα尻5∫2d646∫ム配纏2r65, Albin Michel l938, p.98)

2)《Vous jouissez du privil6ge des hommes c616bres:connu dans les pays les plus 610ign6s, vous ignorez ceux qui vous lisent et que vous 6clairez_Le Conseil pr6pos6 a l 6ducation nationale m acharg6, Monsieur,

de supPl6er aux livres 616mentaires de logique. Comme je connais vos ouvrages et que le conseil a suivi vos principes dans le systeme de l instruction publique, personne ne saurait mieux remplir que vous cette importante tache. Vous avez travaill6 pour un prince souverain:refuserez−vous d appliquer votre ouvrage arusage d une nation?〉>(Cit6 dans L R6au, oρ. d孟,p,99)

3)《Au reste, c est mon maitre;c est lui ou plut6t ses ceuvres qui ont form6 mon esprit et ma tete. Je vous Pai dit plus d une fois, je pense, je suis son 6coli6re》(Cit6 dans L R6au, oρ・d二,P・101)

4)<<S il y a de la force, de la profondeur, de la grace dans mes expressions, sachez que je dois tout cela a Voltaire:car pendant fort longtemps, nous lisions et relisions tout ce qui sortait de sa plume.〉>(Cit6 dans

(10)

LR6au,oμd .,p.101)

5)・・Je veux que les㏄uvres de Voltaire servent d exemple;je veux qu on les 6tudie, qu on les apPrenne par c㏄ur, que les esprits s en nourrissent》(Citεdans L. R6au,(ηフ. c∫ ,,p.102)

6)<<Newton fit un pas de g6ant;en voila un second. Ce livre−la m arendu de la cervelle. Ah!Monsieur,

1 hypoth色se buffonienne remue et secoue les tetes.〉>(Cit6 dans L R6au,ρρ. d乙,p,102)

7)<<L 翫cycloρ64 6 trouverait ici un asile assurεcontre toutes les d6marches de l envie.〉〉(Cit6 dans L.

R6au, oρ. c〃.,pp.102−103)

この辺の事情に触れている書物を2,3挙げておこう。

・Jacques Proust,乙 Eηcyclop44 6, Armand Colin 1965(J.プルースト『百科全書』平岡・市川訳,岩 波書店),特に第2章

・Henri Troyat, Cα 加r ηθ108rαη4θ, Flammarion l 977(アンリ・トロワイヤ『女帝エカテリーナ』

工藤庸子訳,中央公論社),第14章

尚『百科全書』の刊行は実に前後四半世紀の歳月を費した大事業であったが,その経緯そのものを 物語風に叙したものとしては次のものがある。

・小場瀬卓三『ディドロ  百科全書にかけた生涯』,新日本出版社

8)・・Votre Diderot est un homme bien extraordinaire;je ne me tire pas de mes entretiens avec lui sans avoir les cuisses meurtries et toutes noires;j ai 6t60blig6e de mettre une table entre互ui et moi pour me mettre,

moi et mes membres, a l abri de sa gesticulation.》(Cit6 dans L R6au, op. d乙,p.103)

9)<<Avec tous vos grands principes, on ferait de beaux livres et de mauvaise besogne. Vous oubliez dans tous vos plans de r6forme la diff6rence de nos deux positions:vous, vous ne travaillez que sur le papier         1

狽≠獅р奄刀@que moi, pauvre imp6ratrice, je travaille sur la peau humaine qui est autrement irritable et chatouilleuse.〉>(Cit6 dans L. R6au op. c〃.,p.103)

10)Que dans sa correspondance avec Grimm qui vivait a Paris, mais qui 6tait comme eHe d origine allemande ses 6pitres 6clipsent le verbiage amphigourique de son partenaire, on le congoit. Mais si l on prend les 1ettres qu elle 6changea avec Falconet, on constate que ce n est pas toしjours le Parisien qui 6crit le frangais

le plus pur ni le plus savoureux.(L. R6au, oρ. d∫.,p.104)  一      ノ

11)<<J ai eu hier un mal de tete qui ne se mouchait pas du pied.〉〉(Cit6 dans L. R6au,ρρ. dム,p.104)

(}rα〃4Lαアo配∬84θ1α αηg那8ノテαηgα ∫6によれば『

Ne pas se moucher du pied:側〃4, faire preuve d habilet6 et d intelligence;α岬 .,se dit d un homme qui a de hautes pr6tentions ou qui ne se prive pas.(古くは「分別を示す」の意だったが,今日で は「思い上がる,我慢しない」の意)

またGeorges Delesalle, D c oηηα r6 Argo∫−Fr研9α∫5θ Frαη9α 5−Argo では Il ne se mouche pas du pied:(Pop.)il ne se prive pas.

ともあれ・・qui ne se mouchait pas du pied》の部分は,「足で漢をかまない」の原意からも明らかなよ うに,余り上品な表現ではない。

12)《Je vous 6cris tout ce qui me passe par la tete sans ordre ni rさgle, sans style ni orthographe.〉〉(Cit6 dans L.

R6au,叩. d .,p.104)

13)<<Aquinze ans,je portais au cou son po錠rait co㎜e une image sainte.》(Cit6 dans L. R6au,卿. cl乙,p.106)

14)・<Sijamais mes occupations me permettent de faire un voyage, je, n irai point admirer les belles ruines d Italie ni me mettre pour me d6crasser entre les mains des friseurs et des tailleurs de Paris. Le but de mon voyage sera bien plus noble:c est vous, Monsieur, que j irai voir. Votre admirateur depuis longtemps, je ne date mon existence que du moment o心j ai commenc6 a lire vos ouvrages.》(Cit6 dans L. R6au,ρρ. d乙,

p.108)

15)<<C est, apr6s vos vers et votre prose, ce que j aime le mieux.・〉(Cit6 dans L. R6au, oρ. c瓦,P.108)

16)G.Lanson, H 5∫oケ64θ1α〃 4rα趣r6ヵαηgα ∫θ, remani6e et compl6t6e pour la p6riode l 850−1950 par Pau1 Tuffrau, Hachette l 951,pp.824−825.

参照

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