• 検索結果がありません。

パサージュをめぐって

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "パサージュをめぐって"

Copied!
7
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

パサージュをめぐって

園田尚弘

Ube rdi ePa s s a g e

Na ohi r oSONODA

Zus amme nf as s ung:Di ePa r is e rPa s s a ge n,di ei nde re r s t e nHa l f t ede s1 9. J a h r hund e r t sge ba ut wur de n, be s t e he na uc hi m21 . J a h r hun de r tnoc h, unds i ndhe u t enos t a l gi s c heSc ha upl a t z ei nPa r is . Di ePa s s a ge ns i nda uc hun t e rumwe l t s c hd t z e r i s c h e nGe s i c ht pu n kt e ns e hrwe r t vo

l

l , de nns i ek6 n ne n da z ube i t r a g e n, d i eBe l a s t ungde rUmwe l tz uve mng e m.

Pa s s a ge nwa r e ni ni h r e rBl 也 t ez e i ts e h rbe l i e bt , be wunde r tu nda uc hkomme r z i e l ls e h rwi c ht i g, a be r s c ho numJ a h r hunde r t we ndewu r de ns i ez ube d r ohl i c he nu ndhe r u nt e r g e komme ne nSt a d t r a ume n. I n de nSc hr if t e nFr a nzHe s s e l sundSi e g f r i e dKr a c a ue r s , di eum 1 93 0e r s c hi e ne n,We r de nPa s s a g e na l s a bs c he ul i c heunda n r dc h i geSt a d t r a umeda r ge s t e

llt.

Fo rLoui sAr a gonun dWa l t e rBe n j a m inwa rd i ePa s s a geh i ng e g e ne i nephi l os oph i s c heund l i t e r a r is c heI ns pl r a t i o n:Be iBe n j a m in i s tdi ePa s s a g ee i nes ymbol i s c heAr c hi t e k t

ur

,d i ed i e My t hol og i ede s1 9.J a h r h unde r t sr e p r a s e nt i e r t .Se i nKonz e pt屯be rd i ePa s s a geha ts i c hz u e i ne m u nv ol l e nde t e n, umf a ng r e i c he nWe r ke n t wi c ke l

t.

I nde rv o r l i e ge nde nAr be i twe r de nFr a gme nt eundExpos E sa usBe n j a m insWe r k,di es i c h u nmi t t e l ba ra ufPa s s a ge nbe z i e he n,unt e r s uc h

t

.De rUmf a ngde rBe t r a c ht u ngl S ta u fd i eFo r mund Fun kt i on de r Pa s s a g e , di e Abs i c ht de s Pa s s a g e n‑ We r ks und d i e M

6

gl i c h ke i t e i ne r umwe l t phi l os oph i s c he nAnna he r u nga nBe n j a m insAuf fa s s ungvom Ve r ha l t ni sz wi s c h e nMe ns c h u ndNa t urbe g r e nz t .

幸一クーj<'I ノloサージ上の乞 ノfサージ

上の歴 史,

穿

哲学

はじめに

ベンヤミンにとって 「住む」ということはなんであっ たかというテーマを考えることが、本稿執筆者の最近 の研究課題 のひとつである。その過程で、労働者 の 住宅やブルジョワの住宅などについて考察をしてきた が、パサージュもそのなかの課題 のひとつである0

本稿では、現在、パリに残るいくつかのパサージュ を歩 いた記録、文人によるパサージュの興隆と没落 の 叙述、ベンヤミンのパサージュをめぐる文章、特に 『 リ一一一

1 9

世紀の首都』のなかのパサージュについて の断章の分析、さらにパサ ージュにこめられたベンヤミ ンの思惟についてまとめてみた。

受領年月 日

2006

(平成

1 8

年)

1

1 9

受理年月 日

2006

(平 成

1 8

年)

5

2 4日

ベン/ヤミンのノアダーシ悠, 首C,)ものとL,C,)あの,

1. 2 1

世紀のパサージュ

2004

3

月にパリを訪れる機会があった。その時 間を利用して、いくつかのパサージュを歩いてみた。

グラン ・ブルヴァ‑ルから行きやすいパサージュを選 び 、まずパサージュ ・ジュフロワ、パサージュ ・ヴェ ル ドさらにその近くのパサ ージュ ・デ ・パノラマを歩い てみた。雨模様の午前 中のことで、パサージュの中は 人が少なかった。店も大方 はしまっていた。思ってい たより狭かった。人が

3

人も並んですれ違えば 、体に 触れるという感じで、ここを亀など引いて通ったら、ず いぶんほかの人間の歩行 の妨 げ になったと思 われる。

(注 1)一階がブチック、二階が仕事場になっている 店をみあげると、服を扱っている従業員とガラス窓越 しに目があうのである。

パサ ージュ ・ジュフロワはドアノーの写真で見 たと おり、模様のついた通路が走り、通りからみた突き当

(2)

園田尚弘

パサージュ ・ジュフロワ

りにはホテルの名をかいた大きな看板があった。この 程度の規模のパサージュであれば 、店の両側に当時 の最新の商品を並べ、ガス灯がともり、人だかりがす れ ば、これは相当の賑わいになり、ゆったりとここを 歩けば 、夜はとくに楽しい空間になった、と容易に想 像できた。

近年、パサージュはパリの観光のスポットとして新た な光があてられている。 日本のガイドブックにもレトロ の観光スポットとして紹介されている。たとえばパサ ージュ ・ジュフロワはブルヴァ‑ル の案内標識にその 名が書かれ、場所を示す矢印が書かれていた。また パサージュ ・ジュフロワとパサージュ ・ヴェルドの間 の道端にパサージュを説明する鉄の説明版が設置さ れていて、そこにはパサージュがアラゴンとベンヤミン が関心を寄せたことで再び注 目されることになった旨 が記されていた。

パサージュ ・デ ・パノラマを歩いていたとき、古い 切手や、古いパリの写真を売っている店を何軒か見た が、これなどはアラゴンの 『パリの農夫』のつながり から営まれている店なのだろうか。大通りに面している パサージュは観光客もまた市民も客として集めること は難しくないかもしれないが、たとえばサン ・ドニ通り 周辺のパサージュなどではそこに入っているブチック などは店を維持していけるのだろうか。私がそこを歩 いたときは午前中であったが、ほとんど人影もなく、ま るでひとけのない地下鉄駅の通路を通り過ぎる感じ がした。

21

世紀はじめのパリのパサージュはこのように見う けられたが、現代がパサージュに寄せる関心はレトロ

な観光資源 としての面だけではない。パサ ージュが 実現している屋外と室内の融合空間は、都市のアメニ ティを生み出した仕組みとして見直されている。たとえ ば 、『アメニティ都市』 (岡、藤井著、丸善ブックス) において、著者たちは都市アメニティを高める町並みと して、両側町

( s t r e e tc e n t e r e dc o mmu n i t y)

を論じ、そ の例としてパサージュをあげている。車の乗り入れを 禁止して、歩行者が落ち着いて路の両側を眺めながら 歩くことができる空間を保持ないしは、その発想を生 かすことができれば 、それは環境に負荷をかけないと いう現代的課題にも応えることになるであろう。

2.

パサージュ 隆盛と衰退

1 9

世紀前半にパリの商業地帯で多く作られたパサ ージュは、もちろんその当時は鉄とガラスを建築素材 として用 いた最新 の建造物であった。ベンヤミンは

1 8 52年発行の 「

絵入りパリ案内」から引用している。

都心 の大通 りとの関連で、くりかえし思い出される のは、この大通りから入ったところにあるパサージュの ことである。産業による賛沢の産んだ新しい発明であ るこれ らのパサ ージュは、いくつもの建物をぬってで きている通路であり、ガラス屋根に覆われ、壁には大 理石が張られている。建物の所有者たちが、このよう な大冒険をやってみようと共同したのだ。光 を天井か ら受けているこうした通路の両側 には、華麗な店がい くつも並んでおり、このようなパサージュはひとつの都 市、いやそれどころか、縮図化されたひとつの世界と さえなっている。この都市で買い物好きは、必要なも のは何でも手に入れ ることができよう。にわか雨に襲 われたときには、パサ ージュは混み合って、狭くなる が、逃げ場として安全な遊歩道を提供してくれる。そ ういうときは売る側もそれなりに儲けに浴することにな る。」

ベンヤミンはこの引用に注釈を加えている。

これはパサージュを描いた古典的名文であるoこの 文章から出発して遊歩者や天候 についてのさまざまの 思いが解きほぐされているが、それだけではない。

パサ ージュの建築 のありかたについて経済的および 建築上の観点からいえるこにとってもうってつけの箇 所になろう」

パサージュ論』 (Al.1)

パサ ージュは上の叙述にみられるように、そもそも 人通りの多い街路と街路をつなぐ道路であり、道の両 側には商店が連なり、階上には商店、事務所、工房、

住居が入ることができる。 「パサージュは近道であり、

悪天候に対する防護になり、歩行者だけが歩 ける空間 である

」(

2)

パサージュはまたはじめてガス灯が点 された場所であった。しかしパサージュ空間は時代と

(3)

パサージュ ・グラン‑セール

ともに、その機能をデパートに奪われていくことになる。

パサージュ自体も消滅の危機にさらされる。パリの代 表的パサージュのひとつであったパサージュ ・ド・ロ ベラが都市改造のあおりで、消滅する時期に書かれた アラゴンの 『パリの農夫』を読んだことが、ベンヤミン のパサージュ論構想のひとつの動機であった

。2 0

紀初頭はパサージュ衰退の時期であり、『パリの農夫』

にもパサージュのいかがわしい雰囲気が窺われる。

「 1 9

世紀の神話」としてのパサージュの額落を感 じ取り、その姿を描いた作家、思想家はアラゴンやベ ンヤミンにとどまらない。たとえばフランツ ・ヘッセル やジークフリート・クラカウア‑の名があげられる。

ヘッセルは 『ベルリン散歩』

( 1 9 2 9)

でベルリンの パサージュのいかがわしさについて書いたCヘッセル はベンヤミンの 『パサージュ論』の始まりの時期に密 接に関わった。それはベンヤミン自身が伝えてもいる。

ズーアカンプ版の 『パサージュ論』で、初期原稿のう ち、ベンヤミンとヘッセルの共同の原稿とされている、

シャンゼリゼに新しいパサージュが開かれた」で始 まる原稿は、ヘッセルがもっぱら書いたものという説も ある。筆者もこの説に接したとき、ただちにそれに賛 成する気になった。つまりこの原稿のパサージュへの 接近の仕方がヘッセルのパサージュ観 とかさなって いたからだ。ベンヤミンのパサージュへのアプローチ のしかたからみると、この原稿は異質であるからである。

それはともかく

、1 9 2 0

年代のベルリンのパサージュ のいかがわしさ、息苦しさについてヘッセルは記して いる。 「このカイザ ーガ レリーに私は、軽い恐れと出 口が見つからないのではという不安なしに中に入るこ とができない。

ベルリン散歩』のなかでヘッセルに よって描かれるパサージュは、いかがわしさと、混乱、

明るい 日の光の下では隠された欲望が陳列されてい る空間である.カイザ ーガ レリーの陳列品に息苦しく なったヘッセルは、出口を求めて急いで歩く。 「急 い で私は、出口に向かう。私は幽霊のように押し合って いる過去の人間の集まりを感じる。かれらはすべての

壁に沿って物欲しそうな 目で、装飾品や洗濯物、写真 や、人を誘うむかしの読み物にぶらさがっている。出 口にある大きな旅行会社の窓のところで、私は、大き く息をつく。通り、 自由、そして現在があるからだ」

(

3)

またジークフリート・クラカウア‑は 『リンデンパサ ージュとの別れ』のなかで 「パサージュの時代は過 ぎ去ったのだ」(

4 )

といい、パサージュが、性に関 連した事柄やがらくたが陳列される空間に変化してい るさまを描写している。しかしまたクラカウア‑はそれ によってパサ ージュが市民社会 の偽善をも批判する 役割を果たしていることに注 目する。クラカウア一にと ってこのパサージュという建物は何がそこから生まれ てくるか予想できない中立的なものであった。という のも当時の社会そのものが、彼には、パサージュに はかならなかったからである。

3.

ベンヤミンのパサージュ

これまでベンヤミンのパサージュに関しては、表面 的かかわりを追ってきただけなので、ここからはパサ ージュへのベンヤミンの関心の基底にあるものを探っ ていきたい。商業建築としてのパサ ージュにベンヤミ ンがいかにかかわったかが明らかになればよいのだ が、ベンヤミンの場合、パサージュについてのスケッ チから、パサージュ論

( Pa s s a g e n‑We r k)

という

2

の本が編まれるまでに、議論が広がっている。それは 都市パリを対象にした歴史哲学へと変貌している。そ こで本稿では、まずパサージュに直接関連した部分か ら考察を始めたい。さしあたって、この目的に役立つ 素材は 『バリー

‑1 9

世紀の首都』ドイツ語版におけ る始まりの章 「フーリエあるいはパサージユ」また同 じ題名のフランス語草稿、それに手記と覚書 「パサー ジュ、流行品店、手代」といった書き物であろう。そ れにしてもパサージュへの注 目の始まりに言及しない わけにはいかないであろう。

ベンヤミンのパサージュへ の関心 を示す最も早い 時期の文章は先にも紹介した 「パリのパサージュ」で あるが、これはすでに述べたように、どちらかといえば、

ヘッセルが書いた可能性が高い。ベンヤミンのもので ないとしてもベンヤミンにとってはかれの構想ないし 仕事からマイナスが生じることもない文章である。初期 の草案でも 「パリのパサージュ

」になれば、これは もうベンヤミンの手になることは確実な文章であり、ベ ンヤミンの 『パサージュ論』の問題意識と深さ、広さ がすでにその片鱗を表している。

ベンヤミンのなかでのパサージュの仕事の始まりは、

この 「パリのパサージュ

」のなかでの覚書によれば つぎのようなことになる。 「パリのパサージュを扱った

(4)

園田尚弘

この著作 は、丸天井に広がる雲ひとつない青い空の 下の戸外で始 められた。だが、何百万枚という木の葉 に、何世紀もの境にうずもれてしまったこれらの木の葉 には、勤勉のさわやかなそよ風がそよめくこともあれ ば研究者の重いため息が 当たり、若々しい情熱の嵐 が吹き荒れ、好奇心のちょっとした空気の動きがたゆ たうこともあった。というのも、パリの国立図書館の閲 覧室のアーケードの上にかかるえがかれた夏空が、閲 覧室の上に光 のない、夢見心地の円蓋をひろげてい るからである

」『パサージュ論』Nl,

5

仕事に着手する前にベンヤミンにはパサージュ体験 があるはずである。それは生生しい身体論的な記述と して記録されている。

一一一パサージュはわれわれがそのなかでわれ われの両親の、そして祖父母の生をいま一度夢のよう に生きている建築物なのだ。ちょうど胎児が母親の胎 内で、動物たちの生を今一度生きているようにCこうし た空間の中の生活 は、特に何のアクセントもなく、夢 の中の出来事のように流れていく。遊歩こそはこのよう な半睡状態のリズムである

。1 8 39

年パリで亀が流行し た。粋な連 中にとって、大通 りでよりパサージュでの ほうがこの生物の歩行テンポを真似 Lやすかったこと は十分に想像できる

」『パサージュ論』D2a

, 1

パサージュを歩くことはベンヤミンにとってひとつの 世代だけでなく、二世代前の生を生々しく経験するこ とである。商品を見るだ けではなく、過去へさかのぼ ることである。

ベンヤミンはいくどもアラゴンの仕事に言及している。

出発点にはアラゴンがある」とベンヤミンはアドルノ への手紙に書いている。アラゴンの 『パリの農夫』を 読んだことがパサージュ論を構想するきっかけのひと つになったことを伝えている。 「この本を僕は毎晩、ベ ットの中で読んだが、二ページか三ページ以上はどう しても読めなかった。動博が高ぶってきて、本を置か ぬわけには行 かなかったので。僕とこういう読書との あいだに幾年もの歳月を持ち込む必要があることを伝 える、なんという警告、なんという指示!それでも 「 サ ージュ論」への最初のメモは、あのころに書かれて いる

」 (

5)

(ベンヤミン、アドルノ往復書簡、

( 97 p

)アラゴンのうちにベンヤミンが共感を覚えたのは、

シュルレアリスムの 「はかなさ」への傾倒、廃嘘とし てのパリへの視線であり、すみやかに古くなっていくも のの秘めている爆発的エネルギーであった。感動を覚 えても、批判がないわけではない。ベンヤミンはアラ ゴンの 『パリの農夫』では、パサージュは神話のまま にとどまっている、これを理性の力によって解体するこ とが必要だという。ベンヤミンにとって、パサージュは

1 9

世紀のもっとも重要な建築であり

、1 9

世紀に潜む

アラゴンとベ ンヤミンに言 及 した案 内 神話を表現するものである。それは集団の夢として表 現として現れたものである。集団はその夢の意味する ところを知らない。プロツホの言いまわしで言えば、「 きられた瞬間の暗闇」、それを解釈して解き明かすの は歴史家の仕事である。パサージュを 「静止状態の 弁証法」の像として解釈する仕事が、ベンヤミンの著 述である。

あるいはティーデマンの説明を援用すれ ば 、初期 の段階のパサージュ論でベンヤミンが意 図したのは、

資本主義は一つの 自然現象であり、この現象ととも に新しい夢 の眠りがヨーロッパにやってきた。そしてそ の眠りの 中で神話的な力が再び活動することになっ た」(

6)ので、この力を歴史に引き戻し解明するこ

とであった。しかしパサージュをめぐる初期 の試みは

1 930

年段階で一度中断される。

これらの発言を総合すると、始まりの段階のベンヤミ ンの意図は、パサージュを

1 9

世紀という資本主義的 近代の神話をあらわす空間として捉え、その建築物に 見られる集 団の意識されざる夢を解 明することにあっ たらしい。

4.

『パリ‑

19

世紀の首都』のなかの「フーリエある いはパサージュ」

ところで、ベンヤミンはすでに述べたように、パサー ジュをきっかけにはじまったパリ研究の概要を、1

93 5

(5)

年に 『バリーー 1

9世紀 の首都』の題 の下にまとめて

いる。この草稿 の文体と思考 の関係については、卓抜 E、フィッシャーの指摘がある。要を得た説明だけ にここで引用しておきたい。草稿の叙述 について述べ れ ば 、ベンヤミンの文体が学術的スタイルをとってい ないことが注 目される。彼は 『パサージュ論』の方法 を 「文学的モンタージュ」と名づ けた。

ベンヤミンがパサ ージュの分析から出発しながら ブルジョアジー没落の予言 にまでたどりついている前 述の断片のなかでは、思想と文体 のほとんど凌駕Lが たいほどの濃密さが達成されている。流動的な文体 と は正反対 に、それ は結晶の文体である。そこでは、

あるひ とつのものが他 のもののなかに流 れ こむ ので はなく、むしろそれぞれ の発言が しっかりと堅固に吃 立し合い、流動的な移行過程を経てとなりのものと混 ざり合うというのではなく、結晶構造 のなかで分子 と 分子がもっているようなつながり方をしているのだ。観 察と教養と知識との彪大な素材から、エッセイが蒸溜 抽 出され、重量の減小は純度の増大となる。このエッ セイの細 身の姿 のなかで、重量をもたぬかわりに純度 にみちてわれわれに示され るのは、浪費していなが ら 節約するふりをし、このうえなく困難なことを企てなが ら軽快感 を呼びおこすような、ひとつの精神である」

(

7)

フィッシャーが言うこの結晶質の文体 によって、ベン ヤミンはそれぞれのものに対処する。

この草稿ではパサ ージュはすでに指摘 したように、

1 9

世紀に出現した新しいもののひとつの発明品として、

パノラマや室内とともに登場 している。ここではパサ ー ジュはフランスのユ ー トピア思想家フー リエと結び 付 けられている。

さて、ドイツ語版 「フーリエあるいはパサ ージュ」

の章では、ベンヤミンはまずパサージュ成立の条件を 探る。パサージュ、この高級 な商品を陳列した豪華な 建物 は紡績業の好況に支えられて成立した。そして当 時はじまった鉄 の使用がパサージュ成立のもうひとつ の前提であった。しかし当時にあっては、鉄はその機 能にしたがって充分に使 いこなされることはなく、ポン ペイ風の柱や邸宅 に似た工場が作られ た。技術 は未 だ古 い芸術形式のもとに服 していた。

パサ ージュはフランスのユー トピア思想家、フー リ エのユートピア世界のなかに、いわば後ろ向きに採用 され ることになった。つまり本来商業用 の 目的のため に考案された建物が、ここでは住宅として使われる。

フアランステール(協働同生活体)はパサ ージュでで きた都市になる。」

ベンヤミンはフー リエのユ ー トピアについて語 りな がら、ユー トピアを産 出する心的メカニズムと新しい生

産手段の形式との関係について考察する。文章 のテン ポ、思考 の運 び に乱れ を感 じさせ ないが、この部分 はいわば 『バリー‑1

9

世紀の首都』の理論編である。

ドイツ語草稿 のなかには、この種の理論的考察がとこ ろどころに挿入されている。たとえば 静止した弁証法 の理論、あるいは弁証法 における夢 と覚醒などがそれ である。ドイツ語草稿では、ものとそれ にまつわる人 物の歴史的、具体的描写と草稿の方法的考察、歴史 哲学的理論が並存している。

たとえばフーリエのユ ー トピアを成立させる内的動 因は新 しい生産 手段の様式である機械 の登場であっ た。フーリエは機械 をモデルにしてフアランステール (共 同生活体)の集 団心理学を構想するが、 「人間から 成るこの機械装置が、らくちん境、つまりフーリエのユ ー トピアを新 しい生命で充たした太古の願望のシンボ ルであるらくちん境をうみだすのである。」このところで ベンヤミンは人類のユー トピア的願望を根源史と名づ ける。つまりそれ は無階級社会である。するとベンヤ ミンにとって、パサージュは一つの新しい施設として、

人間の古 い願望 を喚起する建築物 とみなされている わけである. しかしパサ ージュはたんにユー トピア的 イメージを生み出すだけでなく、他方で後 の商品社会 のはしりとして、人間を商品に呪縛する空間としても機 能している。そこは夢の世界がくり広 げ られる一方で、

人 間は深 い夢 の世界 にひ たることによって商 品生産 社会の詐術 にとらわれたままである。パサ ージュはそ うした意味で、静止した弁証法を示すイメージのひと つであろう。

ベンヤミンは、このような新しいものが古 いものを呼 び おこす傾向が集 団の無意識 のなかに保存されてい るとする。まさにこの点にアドルノはその批判を向けた のであった。アドルノはベンヤミンのいう集 団的無意識 がユングの集 団的無意識と区別が はっきりしないと批 判したが(

8)

、実際には、ベンヤミンの 目論見では、

ユングの概念 と対決することが 目指されていたのであ った。アドルノはベンヤミンのいう集合的無意識 は社会 過程の側面からも心理学の側面からも批判を受 けると 述べるが、アドルノの指摘 はベンヤミンの思惟 のダイ ナミックな広 がりを抑制しているように見える。アドルノ は、ベンヤミンが引用したミシュレのエピグラフに弁証 法 的イメージの理論 的弱点 が凝縮 されていると述べ ている。その理 由として、このエピグラフがまず弁証 法的イメージを意識 内容として考えている、ある時代と その時代の後代 の関係が直線的、さらに時代が主体 になっている、と述べている。(注9)しかしどの指摘も ベンヤミンが わからないほどの内容ではない。これ ら の指摘 は言 わず もが なのことであったのでは ないだ ろうか。

(6)

園田尚弘

ベンヤミンのいう集合 的無意識 がユングとどう違う かといった問題よりは、筆者 には、たとえば 、パ リの 社会学研究会 のメンバ ー たちが攻撃していたベンヤミ ン自身のフー リエ主義的歴史観が はるかに興 味深 い。

この断章で、ベンヤミンはエミー ル ・ゾラ、マルク ス、さらにはジャン ・バウルさらにシェ‑アバ ル トの名 前 を出して、フー リエのユ ー トピア思想 、ユ ーモアを 擁護している。

ここには 「科学的社会主義」の立場からの空想的社 会主義者フー リエといった断定は見 られ ない。 いやそ れ どころか、ピエール ・クロソウスキーにとってはベン ヤミンはフーリエ主義者に映っている。ベンヤミンはパ リで社会学研 究会 のメンバ ーたちとしば しば 論 争して いるようである。クロソウスキー によれ ば 、ブル トンや バ タイユ のナチズム分析 はベンヤミンを深く憂慮 させ るものであったらしい。それ ゆえ彼 はそれ についてメ ンバ ーたちと議論をくりかえしているようだ。それ はし か しベンヤミンの立場 に対する疑念 をも呼び 起 こして いる。「だからなおさらのことわれ われ は、逆に彼 の( ンヤミンの‑ 園田注)最も偽 らざる心底だと推察 された もの、つまり 「フアランステール」(協働共 同体)の復活 に対する彼 の個人的な見解 については、執物なほどに 彼 を問いただしたのだった。時として彼 は、表 向きは マルクス主義 的な 自分 の理解 の底 に潜 む 「官 能的か つ職 人的な」秘教主義」を語るか のごとく、それ に つ いて語 ることがあった。それ によれ ば 、生産手段を 共有化するなら、廃止されるべき社会階級 のかわりに、

< 情念別 の階級> をもって社 会 を再配 分す ることが 可能 になる。 こうして解放 され た工業生産 は、情念を 抑圧する代わりにその発揚形態を豊かにし、その面で の交流を有機 的に組織するだろう。つまり労働というも のが所有欲 の代償 として与えられ る罰であることをや め、欲望を助長するものになるという意味で 一一一と 彼 は語 っていた」 (聖社会学、56

0

ページ)

(

1 0)

ここで語 られているベンヤミンはフーリエ主義者 とし てのベンヤミンである。

さらにベンヤミンのフーリエ解釈で興 味深 いのは、テク ノクラシー批判と結びつ けられたフー リエ解釈である。

1 93 9

年ベンヤミンはホルクハイマ‑ の仲介で、ある裕 福 なアメリカ人から財政的援助を受 ける目的で、『バリ

ー ‑1 9

世紀 の首都』をフランス語で執筆 している。ド イツ語草稿とフランス語草稿の比較 については、それ だ けで十分に検討に値する問題ではあるが 、今 は 「 ー リエあるいはパサ ージュ」のフランス語部分 に考察 を限定しなけれ ば ならない。

ベンヤミンは断章の最後 にドイツ語草稿 にはなかっ た搾取 について加筆している。ベンヤミンはそこでフ‑

リ工の 自然観 には 自然を搾 取するという考えが ないこ とを強調 している。 「フー リエのユ ー トピアのもっとも 注 目すべき特長 の一つは、後 の時代 にかなり流布した 人間による自然の搾取 という観念 が、フー リエには無 線であるという事実である。技術 はフーリエにとってむ しろ、自然という火薬 に点火する火花 のようなものであ る。おそらくそれ こそは、フアランステールが 「爆発に よって」伝 播するという彼 の風変 わりな考え方 の鍵で あろう。人間による自然の搾取という後代 の考え方 は、

生産手段 の所有者 による人間の事実上の搾取 の反映 である。社会 生活 のなかへ の技術 の統合 が挫折した とす れ ば 、 そ の失 敗 の原 因 は この搾 取 にある」。

( Be n j a m in: Ge s a mmme l t eWe r ke5・I , S. 6 4 )

自然 の搾 取 が社会 的搾 取 につ なが っていることを ベンヤミンは指摘 している。ベンヤミンが 自らの歴史哲 学とこの草稿を関連づ けていることが 明らかである。そ してこうした 「自然の搾取」といった考え方 は共産主 義が 生産 力至上主義 のイデオロギ ー のために自滅 し た後 もなお新鮮である。

地球環境 の保全が強調される以前にベンヤミンは、

自然の搾 取 が いかに人間社会 の荒廃 につながってい るかを指摘 している。神話から逃れるために自然を征 服し、自らの内なる自然を抑圧する人類の歴史を描 い て見せたアドルノとホルクハイマ‑の 『啓蒙の弁証法』

につなが っていく萌芽 をここにみることが 可能である。

その意味でここには環境 をめぐるひとつの深 い思想が 秘められているように思 われる。

附記 翻訳 のあるものにつ いては、できる限り、これ らを利用 している。

ベンヤミン : パサ ージュ論 岩波現代文庫

ベンヤミン、アドルノ : 往復書簡

1 928‑1 9 40

文社

1

パリでは、1

9

世紀 のある時期、亀を引いてパサ ージュを歩くのが流行 した。 「パサ ー ジュ論」

の遊 歩 者 の部 には次 のようなベンヤミンの覚 書がある。

「 1 83 9

年 には散歩するときに亀を連 れて行くのがエ レガントであった、これ はパサ ージュを遊歩するテンポを想像させる。

M3. 6」

2 Ge i s t , J . F. : Pa s s a ge n, Pr e s t e l ‑ ve r l a g, M也nc he n 1 98 2. S. 1 2.

3 He s s e l

,

E

:

Bi nFl a ne u ri nl i e r l i n,da sAr s e na l Ve r l a g, Be r l i n1 98 4. S. 2 48.

4 Kr a c a ue rS. :St r a Be ni nBe r l i nu nda nde r s wo, Da s Ar s e na lVe r l a gBe r l i n1 98 7. S2 4.

5 AdomoBe n j a m in:

Br ie f we c hs e l 1 928 ‑ 1 9 40. Fr a n kf u r t

(7)

a. M. 1 994. S. 1 1 7f .

6 Ti e de ma nn, 氏. : Ei nl e i t ungde s

He r a us ge be r , i nDa sPa s s a ge n‑ We r k, Bd 5・1 、 S. 9.

7 Fi s c he r

,

E. : Bi nGe i s t es s e he ri nde r BBr ge r we l ti n: Ube rWa l t e rBe n j a m in , S u hr ka mp

,

Fr a n k

fu

r t a . M. S. 1 28. 翻 訳 は

ベンヤミンの 肖像 』中の池 田浩士訳 によって いる。

8

アドルノとグ レーテル ・カルプ レスが ベンヤミン に宛てた

1 935

8

2‑4

日付 け書簡参 照

9

参考 まで に手紙 のこの段落 を引用す る。「この一

文 は確 か に<非弁 証 法 的> です。 この一 文 に は次 の三つ の点 が 含 まれています から。弁 証 法 的イメージをひ とつ の一 集 合 的で あるにせ よ‑意 識 内容 として把握 していること。発展 史 的といいたいほど直線 的に、ユ ー トピアとして の未来 に結 び つ けられていること。 あの意 識 内容 として 内容 に附属 す るとともに一 体 化 し ている主体 として 『時代 』を考 えていること。」

1 0

ドゥ二 ・オリエ編 聖社会 学 』(工作舎

) 565

‑566

ペ ージ参 照 。クロソウスキー の文 章 は、

1 969

5

31

日付 けの 『ル ・モンド』」紙 に 掲載 され た 「マル クスとヘ ーゲ ル のあいだ 」 から採 られている。

参照

関連したドキュメント

従って、こ こでは「嬉 しい」と「 楽しい」の 間にも差が あると考え られる。こ のような差 は語を区別 するために 決しておざ

ともわからず,この世のものともあの世のものとも鼠り知れないwitchesの出

 神経内科の臨床医として10年以上あちこちの病院を まわり,次もどこか関連病院に赴任することになるだろ

   遠くに住んでいる、家に入られることに抵抗感があるなどの 療養中の子どもへの直接支援の難しさを、 IT という手段を使えば

に至ったことである︒

行ない難いことを当然予想している制度であり︑

これからはしっかりかもうと 思います。かむことは、そこ まで大事じゃないと思って いたけど、毒消し効果があ

大村 その場合に、なぜ成り立たなくなったのか ということ、つまりあの図式でいうと基本的には S1 という 場