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蜘蛛<女>への洗礼 : J.ゴットヘルフ「黒い蜘蛛」におけるスイス村落共同体

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Title

蜘蛛<女>への洗礼 : J.ゴットヘルフ「黒い蜘蛛」におけるスイス村

落共同体

Author(s)

吉田, 孝夫

Citation

奈良女子大学文学部研究教育年報, 第4号, pp.43-53

Issue Date

2007-12-31

Description

奈良女子大学文学部研究教育年報 第4号 特集1:ジェンダーと言

語文化

URL

http://hdl.handle.net/10935/590

Textversion

publisher

http://nwudir.lib.nara-w.ac.jp/dspace

(2)

奈良女子大学文学部研究教育年報 第4号

蜘妹 (

女)

- J

・ゴ ッ トへル フ 『

黒 い蜘 妹』

1.家 ・村 ・谷 ズ ミスヴァル トという、 スイスに実在す る小 さな村 を舞台 として、 ある言 い伝えが語 られる。 それによれ ば、かって この村 に、 ボーデ ン湖畔の ドイツの町 リン ダウか ら嫁 に来 た女、つまり村 にとっては本来 よそ者 である女がいた。 ある時彼女 は、悪魔 と思 しき一人 の 男 に誘惑 され、 口づ けを受 けた頬か ら、一匹の黒い毒 蜘妹が現われ出る。 ドイツ人女性の頬 に鎮座す るこの 蜘妹 は、後 に無数 の子蜘妹を産み落 とし、それ らは村 中に蔓延 して、数多 くのスイスの村 びとの命 を奪 った とい う。 この悲惨 な出来事のおよそ二百年後、黒い毒蜘妹 は 再び村 を席巻 した。 そ してそのきっかけにな ったの も また、先 の女 と同 じく 「よその土地か ら来 た」 1放窓 なる女性だ ったと、村の伝承 に言われる。 村外の出身に して、 しか も女性であるという人間が、 村の歴史 に残 る二つの大惨事の原因 とされる。 山国ス イスの社会的風土が、村 ない し谷 という閉鎖的空間 と 厳 しい家父長制 とによって構成 されていることを思 う とき、 このよ うな筋書 きは何 ら驚 くべ きものを もたな いだろう。 その種のスイス的性格 は、作品の随所 に示 されてい る。 父親 は、 家 の 「主 (Meister)

(100) と して一段高 い位置 にあ り、 一括 りに して言 われ る 「妻 と子 (WeibundKind)」 (76)のために、 「保護 と監視」 (71)を施すべ き存在であるという。 スイス ・ベル ン地方の山村 を舞台 とす る作品 『黒 い 蜘妹』(1841年)は、改革派牧師イェレミ-アス ・ゴッ トへルフの短編小説である。19世紀 スイスの家族的共 同体観が、改革派 プロテスタン ト聖職者のキ リス ト教 的な家父長制的観念 によって一層堅固に守 られている。 キ リス ト教的な枠組をあまりにも明瞭に備えるこの 物語 は、 あたか も聖人伝、殉教者列伝のごとくに展開 する。 結末 として毒蜘妹 は、信心深 き一人の うら若 い 母親 と一人 の成人男性 とによって素手で掴 まれ、家の

への洗礼

にお け るスイス村 落共 同体

田 孝 夫

43 窓柱 に開けた穴の中へ封 じ込 め られるのである。 この悪の封 じ込めのモチーフを、小説の形式 におい てそのまま象 るかのように、二つの陰惨な出来事を、 さらにもう一つの、 しか し内容的には全 く対極的な、 平穏なる牧歌的物語が包み こんでいる。 いわゆる枠物 語形式の成功 した一例であ り、 スイスの農村家族 の一 家最たる老父が、聴 き手 にせがまれた末、村の過去 に まつわる二つの事件を個別 に- つまりそれぞれの蜘 妹を自ら封印す るかのように- 物語 ってゆ く。 老父 と聴 き手たちの集 いは、老父の家 にち ょうど生 まれた孫息子の洗礼式 に端を発 した ものである。 時 は 五月の日曜 日、美 しい春の山麓 を眺めるこの 「主の 日」 は、昇天祭の祝 日にあた っていた。「天使 たちが、 そ して人間たちの魂が昇 り降 りす る梯子 は、なお も天 に 架か っていることの証明 として、かって息子が父の も とへ と戻 ってい った 日」(10)に、 山の植物 たちは空 を目指 して伸び咲 き匂 い、 あちこちの教会で鳴 らされ る鐘の音が谷を満たす。 この平和 な情緒の外枠物語 と、黒 い毒蜘妹 にまつわ る二つの枠内物語 は、内容 ・表現の細部 にわたる肌理 細かな対応関係 を備えている。 「ドイツ語 の文学 にお いておよそ匹敵す るもののない完全 さ

2

を もっ と評 された、 この見事 な枠物語形式 のい くつかの細部 に本 論 は言及す ることになるだろうが、例えば第一枠 内物 語 において殉教す る女性 は、蜘妹の毒 による苦痛 に悶 え苦 しみなが ら、 わが子 を救 いえた ことに満足 し、 「神の恵みに感謝」 しつつ死 んでゆ く。 そ して 「天使 たちは、彼女の魂 を神の玉座へ導 く」 (92)のである。 昇天祭の冒頭箇所 との共鳴関係 は明白である。 昇天 という、天空への霊化 を目指す このベク トルに 対抗 して、地上 と物質の領域 に人間をとどめようとす るのが悪魔であ り、それに属す るものとして、悪魔が あの村のよそ者女性 に産 ませた子 ども、すなわち黒 い 毒蜘妹 たちがいる

「まるで土 中か ら湧 き出て くるよ

(3)

う」 (68)に、変幻 自在 に出没す る蜘妹 は、神 に叛 い たまま自 らの罪性 に気づかぬ村 び とたちを、次 々 と餌 食 にか ける。 累 々 と地面 に積 み重 な る彼 ら人間 と家畜 たちの無数 の亡骸、 「死者 の山

(109)は、天 に向 け て引 き揚 げ るすべ もな く重 い。 作者 のキ リス ト教 的世界観 に基づ くこの垂直軸 にお いて、顕著 な役割 を果 た しているのは洗礼 のモチーフ であ る。牧歌的な外枠物語 が、洗礼式 の祝宴 を背景 と して展 開す ることはすで に述べたが、枠 内の二つの物 語 もまた、 ともに赤子 の洗礼 を重要 な主題 と している。 悪魔 の 目的 は、 まだ教会 の洗礼 を受 けていない赤子 の 魂 を手 に入 れ ることで あ った。 そ して第二 の枠 内物語 で は、聖餐式 と洗礼式 をパ ロデ ィ して戯 れ、 「ス トー ブの下 に うず くまる犬 に洗礼 を施 した

(106)暴徒 た ちの振舞 いが、毒蜘妹 の再来 の最終的な誘 引 とな る。 天 の領域へ と導 くべ き神 の洗礼 と、 それに対立す る悪 魔 の洗礼 とのあいだ に、 スイス ・アルプスの谷が置か れて いる。 その谷 に包 まれて、村 があ り、個 々の家が ある。 アルプスの村 び とたちがその生 を形作 る根本的 な空間 と して、家 ・村 ・谷 の三者 は、 それぞれ に入 れ 寵 を成 す、一つの小宇宙 を成 している。 物語 の登場人物 たちは、近代的 な個人 の表情 をおよ そ もたない。 ゲーテ 『ヘルマ ンと ドロテーア』 の叙事 詩 的世界 へ の近親性 を見 て、 「非個人 的な、類型化す る言語

3

が評価 され るこの作 品 は、作者 自身 の述懐 によ るな ら、 「ベル ンの土地 に特有 の形 で育 まれ たい くつかの伝説

」4

を基 に して作 られ た ものだ とい う

ベル ン地方土着 の伝説 に強 い関心 を抱 いて いた ゴッ ト へル フは、具体 的 には、悪魔 との契約 の伝説 (計略で 悪魔 を出 し抜 く物語型)、 ペス ト封 印の伝説、 そ して 蜘妹 と女性 の亡霊 にまつわ るアルプスの伝説 などを念 頭 にお きつつ創作 した らしい。 5近代小説 の語 りで あ るよ りはむ しろ、民間伝承 の世界 そのままに、「伝説」、 「神話」、「キ リス ト教聖人伝

」6

に近 い文体 によ って物 語 を形作 っている。 近代的個人 の内的表 白とは異質 な、古 き共 同体 の語 りのなかで、家 ・村 ・谷 とい う空間が描かれ る。 おそ らくこの共 同体空間 こそが、 この小説 の本来 の主人公 であ るのだ ろ う。 外枠物語 の代父 と赤子 に始 ま り、枠 内物語 の凶悪 な領主 や よそ者女 の夫 にいた るまで、幾 人 もの 「- ンス」 とい う名 の男が現 れ る。 またよそ者 の女 ク リスチ-ネと弱気 な夫 ク リステ ンとい うよ うな 名前 には、 キ リス ト教的な寓意性が如実 に漂 う。 そ う した人物 たちを包み こみなが ら、「神 の祝福」(98)も、 毒 蜘妹 の もた らす 「絶望

(109)も、 「谷 のすべて を 覆 って」(丘berden ganzenThale)広が るのだ った。 そ して老父 は、 この谷 を統率 す る一人 と して、 「ここ に家が あるか ぎり」(116)とい う切実 な願 いを こめっ つ、村 と家 の- つ ま り特定 の個人 ので はない- あ るべ き未来 を思 い描 く。 キ リス ト教 の神 とい う男 と、悪魔 ・ 「緑 の男」 (38) とい う、男同士 の表象 のあいだ にあ って、家 とい うス イス的空間 もまた、家父長 とい う男 に支配 されている。 村 びとは、重要 な集会 の場面 などで しば しば 「男 たち」 (42)と総称 され、 その一方 で 「女 たち」 は、 「料理 の 仕度」 (31) な どに忙 しい。 その上 に女 は、 冒頭 に述 べ たよ うに、村落共 同体 を襲 う災厄 の媒体 ともな る。 家 ・村 ・谷 とい うこのスイス的生活空間 は、 どのよ う な形 で共 同体 の構成員 を認可 してい るのだ ろ うか。 そ してそ こに、身体的 ・文化的性差 は、 どのよ うに関与 して い るのだ ろ うか。一見 した ところ、素朴 に してあ ま りに も明白な男女観がそ こにはあ り、覇権 を握 る男 性 と、 それを周縁か ら補 い支 え る、 あ るいは逆 に脅か そ うとす る女性 との対 (ない し対立)の図式が見え る。 いわゆ る近代 の家 のイデオ ロギーの ままに、男性 は、 脇役 の女性 を単 に適宜、選別 的 に共 同体 に組 み入 れ る ばか りなのか。

2.

女 の腕 女性 の類型的な描かれ方 はた しか に目を引 く。 赤子 のために命 を捨 て る若 い母親 の 自己犠牲 的な姿 は、 あ る意味で聖人伝 のよ うに美 しく、 また同時に白々 しい。 その対極 にいるのは、悪魔 と結 ばれた リンダウ出身 の よそ者女 であ る。夫 を罵倒 し、男 たちの話 し合 いに口 を出す彼女 は、 「家 にいて、静寂 のなかで 自 らの役 目 を執 り行 うことをよろ こび とす る女 たち、 豪才 子 ど あ /=右の ことだけに気を配 るような女 たちの類ではなか っ た」 (44)

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ゴ ッ トへル フ自身 によるこの斜体箇所 には、家父長 制 的世界観 に対す る彼 の強 い思 い入 れを感 じ取 ること もで きるだろ う。 ここで文学史 のおさ らいをす るな ら、 『黒 い蜘妹』 の成立 は ど- ダーマイア一期、 つ ま り革 命 の挫折 による保守 ・反動化 と、 それに伴 う家庭的 ・ 情緒的な ものの愛好の時代 にあたる。 ゴッ トへル フは、

(4)

奈良女子大学文学部研究教育年報 第4号 およそ40歳の ころに小説家 としての活動を始める以前、 リベ ラル穏 健 派 の立 場 か ら、 『ベ ル ン民 衆 の友 』

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紙 に健筆 を奮 い、 容赦 ない 社会批判 を展開 していた。 しか しゴッ トへルフは、急 進化す る リベ ラル派 に反教会主義的傾向が露わになる や、逆 に極端 な保守派へ と「転回

7

を遂 げてゆ く

「世俗権力 と聖界権力の協力に基づ く

「平和的協調

」8

を夢見た この改革派聖職者 は、以後、小説家の肩書 き を担 いっつ、民衆生活の向上 と信仰心の陶冶を目指 し てゆ くのである

「わた しは民への奉仕 の もとにあ り ます

」9

- 『黒 い蜘妹』の物語 に、二度 にわたって 恐怖の蜘妹が出現す るところには、古来の伝統的権威 と村の平和の破壊者 として、 ナポ レオ ンの投影を見 る 者 もある。10 ゴッ トへル フのそ うした保守性の激 しさは、蜘妹 と 化す女性 を含 めた、『黒 い蜘妹』 の女性描写 において も、 当然 の ごと く指摘 されている

。W

・フロイ ン ト は、男性支配を正当化するこの物語において、女性 は、 罪 と肉欲を体現する 「女性」 と献身的な 「母親」 との 「役割の コン トラス ト」へ と 「ステロタイプ」化 され ていると述べ る。 いわば 「自己愛の悪魔化 と自己犠牲 の英雄視」 という構図のなかで、「デーモ ンとなって、 悪魔 に仕え る」女性 は、悪魔の誘惑 に屈 したイヴの原 罪 を反復 し、他方、男性/夫 に仕 え る家庭 の母親 は 「女性 の理想像」へ と紋切 り化 されるのだ と。 そ して 毒蜘妹欝を包み こむあの平和な外枠物語 は、女性の犠 牲の上 に成 り立っ 「自ら限定 し、かつ限定 された退屈 な牧歌」 にす ぎないと言われる。11 この指摘 にはた しかに首肯すべきものがあ り、身体 的 ・文化的性差 にかかわる 『黒い蜘妹』の分析 は、 こ れに尽 きるもの として終わるべ きなのか もしれない。 慧眼にもフロイ ン トは、第二 の枠内物語 において、毒 蜘妹 のために激減 した村 の人 口が、「わずか二十数人 の男たちだけだ った」(116) と、「男性のみ列挙

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さ れていることさえ発見す る。 しか しこの論調 には、 ある種の もどか しさも残 る。 例えばグ リムのメル ヒェンなどに対 して、 その女性像 のいわゆる偏 りが指摘 され る場合にも似 た、ある種 の 違和感である。前近代 に由来す るテクス トを、近代的 な物差 しで安直に切 り取 って しまうことは適切 とは言 えない。後述す るように、前近代の世界像 においては、 模範 とい う紋切 り型 に従 うこと、「類型的な個人化

1

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45 にこそ、 ある積極的な意義が存在 したのだか ら。 今一度確認すれば、 この小説の言語 は、近代の小説 とは異質な、む しろ前近代的な物語類のそれに属す る。 ゴッ トへルフの作品は、近代

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世紀の市民家族 と ビー ダーマイア一文化の時代 の産物ではあるが、作品中に 描かれるスイスの家族 は、む しろそれ以前の時代 の、 ときに中世的な雰囲気 さえ漂わせている。 これは、生 産活動 と家庭生活がなお一体化 していた古 き大所帯家 族、「全 き家

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の一例 と見 なす こ とがで きる。14いわゆ る

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、教会

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、台所

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、 子 ど も

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の三要素 に女性 の持 ち 場を限定 し、女性の 「禁治産者化」 と家庭空間の 「情 緒化」を進 めた、狭陰なる

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世紀的市民家族 とは厳密 に区別 しなければな らない。15 民俗学者 ヴェ-バー-ケラーマ ンの歴史的概観 が示 すように、た しかに家父長制 は、ゲルマン古代か ら近 ・ 現代 に至 るまで ドイツ語圏の家族原理でありつづ けた。 ついにはナチズムのイデオロギー的根底 を成す ことに なるこの文化 システムは、「共同決定 とパー トナー シッ プ的協力関係 の世界

1

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へ とやがては克服 されて い く べ きものなのだろう。 ケラーマ ンは

、1

9

世紀中葉 の文 化史家 ヴィルヘルム ・リールの 『家族』(1855年) に 少なか らず言及 しているが、それは、伝統的農民 と大 家族の家父長的精神を ロマン的に美化 し、 ナチズムの 「血 と土」 のイデオ ロギー構築 に間接的に加担 した書 物 だ ったか らで もある

「男女の 自然 の差異」 に社会 的な男女格差を根拠づ け、 とりわけ中 ・近世の 「全 き 家」 を理想化 した リールが、同時にゴッ トへルフの文 学世界の極めて早 い賞賛者 ・理解者で もあったことは、 ある意味で 自然 な話である。17 とはいえ、中世 に端 を発す る 「全 き家」 は、少 な く とも

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世紀の農村社会 まで生 き延 びてゆ く。次第 に農 民人 口を減 らす ドイツ語圏のなかで、市民社会の家族 モデルと一定 の距離を保 ちなが ら、それだけになお一 層重要 な伝統的モデルとして存在 し続 けたのである。 下男、下女 らも同 じ屋根の下 に暮 らす 「全 き家」 の世 界 において、 「フ ァ ミリー」 の語源 で あ る

Fa

mul

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とは、 もともと血縁者 に限定 されぬ、 あ くまで も 「住 居 と経済 を共有す る者

1

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を意味 した。 そのなかで妻 は、第一 に夫の労働パ ー トナーとして存在 したのであ り、例えば男が刈 り手 となる場合 には、女性が束 ね手 の役割を担 ったよ うに、「定住農業労働者 は、花嫁 を

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選ぶ時には、娘の体力 と技術 に注 目」す るのだ った。19 ゴッ トへルフ 『黒い蜘妹』の家族 は、 この時代のカ テゴ リーによ くあてはまる。 最初の枠内物語が、 まさ に中世

1

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世紀へ と遡 るように、 このスイス的村落共同 体 は、近代19世紀の市民社会 とは異質 な世界 にある。 花嫁選 びにまつわる、次の箇所 は典型的だろう。 平和 なる外枠物語 のなかに、未来の世代の象徴 として登場 す る若 い 「代母」がいるが、彼女 は、同 じく洗礼式 に 代父 として参加 した若い未婚の男を目に して好意を感 じ、教会 までの短 くはない道の りを、赤子を懸命 に抱 えつづ けてい くのである。 それは、「いかに自分 の腕 が強 いか」 (20) を誇示す るためであ った。 この外枠 物語の語 り手、すなわち家長たる老父 は、代母 の振舞 いをこう解説す る。 まっとうな農夫 にとって、妻の力強い腕 は、華奮 な、だ らしない楊枝のような腕 よ りもず っとふさ わ しい。 そんなものは、冷たい北西の山風が、そ の気 になればいっで も吹きほどいて しまうだろう。 母が力強い腕を していることは、多 くの子 どもた ちにとって、ず っと救 いだ った。父親が死んで し まえば、母 は一人で朕の責任を担 い、家政 という 車を、 いっ落ちるとも知れぬい くつ もの穴ぼ こか ら、救 い上 げなければな らなか ったのだか ら。 (20) か弱 く繊細な市民家庭の母 とはおよそ異なる女性が、 この村の理想的女である。 女の理想像 を立て ること自 体 に対す る近代風の疑念 はさておいて、今 はこの中世 的世界 をたどっていこう。 それはもちろん、「父親」 という権威の下での役割にすぎず、出す ぎた物言 いは、 男によってやはり碧め られる。少 し後で彼女 は、「きょ うびの若 い男 どもときた ら」、「町の旦那か、 あるいは 書記で もあるかのよ うに」(28f.)、愚かな仕事ぶ りだ と、役 に立 たない軟弱な男性たちを批判す る。 それに 対 して語 り手 は、「強い代母 さん」 (20) と皮肉混 じり に彼女を呼んだ末、第一の枠内物語で は、悪魔 を招い たよそ者 の女、夫を尻に敷 くリンダウの勝気な女 ク リ スチ-ネに、 この 「代母」を重ね合わせ るのである。 赤子を革 めて狂乱す るク リスチ-ネは、「強い男たち」 によって、つまり男たちの腕力によって逆 に押 さえ こ まれる。 語 り手/ ゴッ トへルフの教訓的意図 は明 らか だろう。 この枠内物語 を聴 き終えて、真 っ先 に悲鳴を 上 げる (92)の も、 これまた 「代母」である。 ことも あろうに彼女 は、毒蜘妹を封印 した窓柱のす ぐ傍 に座 らされていた。 ところで、先の老父の言葉 (20) において注意 して おきたいのは、当然 といえば当然のことなが ら、村 に とって女性 は、何 よ りも 「母」 として意味を もった こ とである。 アルプスの厳 しい自然風土のなか、深 い谷 間に切 り拓かれた村 ・家族 という小世界の維持 と継続 こそが、 この山の人 びとの最大の使命 と願 いであった。 そ して女性 は、「屋根」、「安 らかな屋根」 (73) に象徴 され る 「家」 のなかで、「母」 として子孫 を残 してゆ く営みに、個人 の意志や感慨を超えた意味を もたされ ていたのである。 第一 の枠 内物語 は、正確 には中世か ら語 り始 めるの ではな く、遠 い古代、「人類が誕生 した と言われ る遥 かな東方か ら」、 このアルプスの山中にスイス人 の祖 先がたどり着 いた、 とい う言 い伝えにまず言及 してい る

「われ らが救 い主が、 まだ この世 に姿 をお示 しに なるよ りも前 に」 (32)、 このズ ミスヴァル トの村 は存 在 したとい う。 小説 の随所 に施 された聖書的言語 の暗 示 についてはシェ-ネの卓越 した論考があるが、 なか で もこの冒頭の短 い一節 には、創世記の響 きが寵 め ら れている。20外枠物語 の語 り出 し、つ ま り小説全体 の 語 り出 しにあたる牧歌的な山の描写 には、 スイスの谷 とい う小宇宙の創世記が意図されているのである。 谷の共同体の系譜、谷を生 き継 いで きた人 びとの系 譜が この小説 の主題であるとき、そのなかで女性や男 性たちは、 どのような役割を担 うのだろうか。女性描 写をめ ぐる、先 のフロイ ン トによる批判的な指摘 は、 近代小説 を見 るまなざ しで中世民話の素朴 さを非難す るような無理 を犯 している。 そ して何 よ りも、肉欲 を 悪魔 と結 びっ けるばか りで、肝心の家の存続 に関わ る 「母親」 の出産能力への 目配 りがない。 た しか に リン ダウの女 は、悪魔 とのあいだに出来た子 どもであるか のよ うに、無数の毒蜘妹を誕生 させているが、並行 し て、村の敬度 なる母 たち もまた、 きちん と出産 してい る。 英雄的、殉教者的な一人の母親の 「自己犠牲」的 な姿の傍 らで、彼女 を含む母 たちの、村 のための出産 の営みは、小説 の解釈 において等閑視で きるものなの だろうか。作品のなかには、 いわば肯定的なイヴの姿

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奈良女子大学文学部研究教育年報 第4号 も、 ゴッ トへルフの教訓的意図に反 して現われ出てい るのではないか。 3.男 ・女 ・子 ども 悪の根源が、よそ者 の女 とい う二重の辺境的存在 に 帰せ られているという見方 は、 テキス トに即 してみれ ば、実の ところ正確ではない。 まず、第一の枠内物語 において、悪魔 との結託を惹 き起 こす本来の原因を作 っ たのは、村の領主ハ ンス ・フォン ・シュ トッフェル ン の悪政- この男 は、16世紀 にズ ミスヴァル トを支配 下 に置いた実在の ドイツ騎士団員だが、暴君ぶ りの記 録 は残 っていない とい う21- であ った。 この男 に常 軌 を逸 した賦役労働を強制 され、村びとたちは悪魔 の 力を借 りることを選択す るのである。 この領主 は ドイ ツ南部 「シュヴァ-ベ ンの国」(33)の出身であ り、 つまりよそ者の (男) こそが、悪魔の出現に発端に立 っ ていたことになる。 第二の枠内物語で も、横暴勝手なよそ者の女たち、 「主人気取 りの女 たち (Meisterweiber)

(104)は、 正確 には悪魔の到来の下準備 を行 ったにす ぎない。華 美を好む彼女たちは、古 い家を嫌 い、 自分たちのため には新 しい家を建て る。 そ して毒蜘妹の封印された不 気味な家 は下男 ・下女の管理 に任せて しまうのである。 ここで冒涜的に教会の儀式をパ ロディし、ついに毒蜘 妹を蘇 らせて しまったのは、「どこの出であるのか、 だれ も知 らなか った」 (105)一人 の下男である

「リ ス」 のよ うな 「赤 い」 (105)髪 の毛 を し、「悪魔 その もののように猛 り笑 った」(107)という彼の描写 には、 第一の枠内物語における悪魔の姿 (38,57) がオーヴァ-ラップす る。 (女) の弁護 を続 けるな ら、 ク リスチ-ネを一人残 して逃 げ去 った り (45)、彼女 の言 いな りにな って、 自分の責任を回避す ることだけに懸命な村の男たちの 姿 (Z.B.72,83)は、 なん とも頼 りない。 それ に対 して、男たちに対 し最後 の抗弁 を行 った 「老婆」 (53) や、極秘であるべ き村 びとの計略を、司祭に決然 と告 白 Lに行 く 「ひとりの女」 (60) など、 ご立派 な女性 たちを少 なか らず挙 げることもできる。 物語全体 としての構図 は、 ゴットへルフ研究の開拓 者的存在 の一人、K・フェ-アの文献 (1942年) のな かで、すでに明快 にまとめ られている。 すなわち第一 枠内物語では、① 〔発端 の無法者〕騎士ハ ンス ・フォ 47 ン ・シュ トッフェル ン (男)-② 〔悪魔到来を決定づ ける無法者〕 リンダウ人 (女)-③ 〔救済者〕敬度な 若 い女 とその義理の母 (女) となってお り、同 じ構図 において第二枠内物語では、`① (よそ者)の女 とその 親類 (女)-②最 も大胆不敵な下男 (男)-③ ク リス テ ンと捨て子の少年 (男)へ と物語 りは展開する。 さ らに、 よそ者 とい う意味では、 もともと領主- ンスを 暴挙 に馬区り立てた極悪人である 「若 いポーランドの騎 士」 (86) を、第一枠 内物語 の① の箇所 に加え ること もで きよう。 いずれに して も 「性別 に関わる一面的な 印象 は、すべて取 り除 くとい うゴッ トへルフの企図」 が、 この相互対称的な構図に示 されている、 とフェ-アは言 う。22 彼の主張 によれば、 この民話的小説 の眼 目にな って いるのは 「キ リス ト教的 ヒュブ リスのモチーフ」、人 間の思 い上が りである。 ゴッ トへルフは 「ルター派」 に属す るが、 ここでは、善悪の間に立 たされた人間の 「決断の自由」が物語 として試 されているのだと。23ち なみにゴッ トへルフは、ルター訳聖書を高 く尊重 して はいたが、24先述 のよ うに改革派 の聖職者であって、 ルター派ではない。 この小説を、 フェ-アのよ うなキ リス ト教的ない し カ トリック的な人間観 と罪の観念で読む ことは、聖人 伝的な全体 の印象か らすれば当然 の ことだろう。 しか しこの作品は、たとえ聖職者の筆 になるものとはいえ、 純粋 に宗教的な主張だけに還元で きるものではないと 思われる。 キ リス ト教的にすべてを読むには、スイス 土着の特殊 な共同体 の姿、特殊 な風土性があまりに濃 厚なのである。 毒蜘妹の大惨事 は、本文中で 「黒 い死」(92)と呼 ばれている。 それは神 に叛 いた人間への罰である以前 に、ペス トと村 との実 に リアルな闘いの痕跡であった。 そ して 『黒 い蜘妹』の基層を成 している伝説 ジャンル は、例えばよ く知 られた (--メル ンの子 どもたち) の物語がそ うであるように、核 を成す史実の痕跡 と民 衆層 ・教養層の幻想 とのアマルガムによって こそ成立 しているものである。 さらに、本論では詳 しく述べ ることはできないが、 この小説 には、 キ リス ト教的な装 いの陰で、異教的 と 呼んで もよい、ベル ン地方土着 のさまざまな習俗 ・風 習が織 り込 まれている。 つまりこの作品には、悪魔対 神 という純粋 キ リス ト教的な二項対立ではな く、 アル

(7)

ブスの自然的 ・地理的風土/ スイス土着の文化/キ リ ス ト教 とい う三つの層の緊張関係 を認めるべ きなので あ る。 作 品 の要所 には、Brauch (15)Sitte (60, 114) といった慣習 ・習俗 を意味す る言葉が現れるが、 それを具体的に示す例の一つ として、作品内に点在す る食事の場面がある

「ツユプフェ (Ztipfe)

とい う ベル ンの郷土料理を始めとして、宴の料理 に舌鼓 を打 つ祝祭の情景 は、たとえ語 り手のキ リス ト教的意識 に よって最終的には抑制 されようとも、実 に不思議なほ ど生 き生 きと描かれている。 食 と並んで、洗礼 にまつわる場面 もまた、そ うした ベル ン特有の文化的風土 を示す顕著 な例である。 すで に述べたように、赤子の洗礼のモチーフは、 この短編 小説を一貫す る柱であるが、例えば赤子の洗礼 に若 い 代父 と代母が参加す ることは、同時に彼 ら自身の男女 の出会 いと結婚を準備す るという、ある意味では不謹 慎な機能を兼ねていた。村 の存続のために重要 な意味 合 いを もつ、異教性 とも無縁ではない 「農村洗礼の習 俗」25だ ったのである。 中世的心性 における、 キ リス ト教思想 と異教的世界 像 の混交 の さまを的確 に描 出 したA・グ レー ヴィチ の 『中世文化のカテゴ リー』 は、洗礼 とい う儀式が、 単 にキ リス ト教的な意味を もっただけでな く、 「中世 の共同体 における個人 の加入認可 の特別 の手段」26に な っていた と述べ る

「人間存在 を根元的 に揺 り動か す変容」、 すなわち 「homocarnis(肉なる人間) あ るいはhomonaturalis(自然的人間)」か ら、「homo Christianus(キ リス ト教的人間)」へ、 「信仰者 の共 同体の成員」への変容 として体験 された洗礼 は、中世 の人 びとの人生 を、土着の 「社会的共同性への関与」 によって決定づ けるものであ った。27『黒い蜘妹』 にお け る洗礼 は、 いわ ば スイ ス ・キ リス ト教 的人 間、 homoHelveticus-Christianusとで も呼ぶべ き独特 な る土着的存在への加入儀礼である。 た しかにそれは、homoというラテ ン語男性名詞 に 基づいた、男性中心主義への偏向を示す ものであるの だろう。 男 は力仕事を担 い、家を指揮 し、女 は力仕事 の補助を しつつ、家事 ・出産 ・育児を担 う。 農村 の、 このあまりにも明快な役割分担のなかで、 スイス的な 男 と女が作 られてゆ く。 前近代的な個人 は、 この社会 的役割、外 なる典型性 に自らを投影す ることで、 自己 を 「遠心的 に」28認識 していた。 その典型性が懐疑 の 対象 とな らぬかぎり、村 びとたちは、近代の (個人) とい う自己完結的な鎧の内部へ閉ざされることな く、 む しろ外 なる役割へ と自発的に身を委ねて、特殊な開 放感 と安息感を生 きていたことだろう。 ところで フェ-アが提示 した対称的な構図 は、 スイ ス農村の役割分担の明快 さそのままに、男女のどち ら にも等分 に、共同体への善/悪が生 じうることを示 し ていた。 しか し村の構成員 にはもう一つ、いまだ成人 にな らぬ、子 どもとい う層が存在す る

「結婚生活か ら子 どもが生れては じめて夫 は自他 ともに認 める家父 長 となることがで きる」29と言 われ る、 この (小 さな 大人) は、ニュー トラルな存在性か ら、 どのよ うな形 で共同体 に組み入れ られてゆ くのか。そ して、 この子 どもという問題的存在を産み出だす ことが可能な存在、 つまり女性 は、村組織 のなかでどのような位置価値 を 担 っているのか。

4.

産むこと ・敷居 この小説のなかでは、二種類の異 なる結婚 と出産が 行われている。 一方 は村の通常 の婚姻 ・出産であ り、 外枠物語 に一人、枠内物語 に三人、合計四人の赤子が 生 まれている。 その うち一人 は 「黒 い死」の犠牲 とな るものの、最終的には全員がキ リス ト教的 ・ベル ン土 着的な洗礼を受 ける。 悪魔の洗礼に遅れをとるまいと、 司祭側 は急いで儀式 を執 り行 う。 この赤子たちの性 に こだわるな ら、明示 されない第一枠 内物語の三人を除 いて、第二の枠内物語での唯一 の子 どもと、外枠物語 の平和な家庭の子 ども- 過去の言 い伝えか ら成 るこ の小説 において、 ただ一人、未来を象徴する重要 な存 在である- が、共 に 「息子」であることは、 スイス 的家父長制の何が しかの反映であるのだろう。 ちなみ に第二枠内物語、狂乱の女 による出産の情景 は、後述 す るように、村 と新 しい生命 との関係 についてある重 要 な示唆を与えるものである。 上記の村 びとの出産 に対 して、他方、第一の枠内物 語 における、悪魔 とク リスチ-ネとのあいだの結婚 と 出産がある。 この結婚が、 ファウス ト伝説のよ うな単 なる悪魔 との契約ではな く、男/悪魔 と女/人間 との 「結婚」 として、つ ま り村 の聖 なる結婚 に対す る、 い わば反対像 としてイメージされていることは、そのす ぐ後 に描かれる嵐の夜の描写か らもわか る。

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奈良女子大学文学部研究教育年報 第4号 荒れた (wild)夜 になった。空の風 も山峡 も捻 り どよめいた。 まるで夜の霊 たちが黒雲 のなかで結 婚を祝 い、恐 ろ しい踊 りを舞 う風たちが荒々 しい (wild)輪舞を戯れ、稲光 は結婚の松明の ごとく、 雷鳴は結婚 の祝福であるかのようだ った。 (49) 形容詞wildは、 この小説の随所 に現れ る。 キ リス ト教的悪魔表象の装 いの下に、 スイス人が対略 して き た厳 しい自然風土の存在を示す、 いわば、 スイス的生 存圏の成立 に関わ る注意すべ き言葉なのだが、 これに ついては別の場所で論 じるはかない。 この時、「悪魔」 との結婚を祝 って荒れ狂 うスイス的自然の猛威か ら人 びとを守 るかのように、「一棟の大 きな家」(49)が立 っ ている。 スイス的共同体の象徴 としての (家)が、不 安 におびえる村 びとたちをその中に集めている。 家 には、そこへ入 るための敷居 というものがあ り、 この ミクロコスモスを危険な外界か ら隔て る境界 とな る。 この 「敷居」が、小説のなかでは何度か言及 され てお り、共同体への認可の象徴的な役割を担 っている。 まず第一枠内物語 において、「良心

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に苦 しむ一 人の女か ら悪魔 との契約の事実を知 らされた司祭が、 勇ま しく産婦 の家 に向か ってい く。 そ して清めた水で 「悪霊 ども」の踏み越え られぬ聖域をっ くり、「敷居 と 部屋の全体 に祝福 を与えた」 (61) のだ った。 スイス 的生活圏 の安全 が ここに保障 され る。 「安 らか に」 (61) 出産 を済 ませ た産婦 を、 同 じく 「安 らか な」 (61)夜の山の風景が包み こむ。 「敷居」 は、 (家) という聖域の存在を、第二の枠 内物語 において もう一度意識化す る。 母 と妻 の支配下 にある優柔不断な男 ク リステンは、家父長/父 にふさ わ しくない性格 こそが蜘妹の復活の原因にな ったのだ と、村 びとか ら非難 される。 とりわけまもな く出産す る予定 にあった 「一人 の荒々 しい女

(111)- ここ にも悪魔的なwildの表象が用 い られ、 しか も 「女」 (Weib)の語 と効果的な頭韻 を成す- の怒 りは激 し か った。 「神への信頼 などおよそ もたず、 それだ けに 一層の憎 しみ と復讐心 を抱いた」彼女 は、 ク リステ ン の家 に、あのかって蜘妹を封印 した 「古 い家」 に、狂 奔のさまで押 しか けるのである。 その様子 は、「元 の 姿そのままのク リスチ-ネ」 (112)か と思われたとい う。 数百年 の時代 を隔てた二つの枠内物語が、 この一 瞬にお互 いを照 らし合 う。 49 この出産 は、厳密に言えば、先に述べたこっの結婚、 すなわちキ リス ト教的結婚 と悪魔的結婚 との中間的な 位置にある。 そ してその ことにより、出産 と子 ど もと いう問題 に関す る、キ リス ト教的な評価軸 によるのと は別の重要 な示唆を与えて くれる。 家へ と迫 りくる狂 乱の若母 は、 ある力 によって、突然 にその行 く手 を阻 まれる。 戸 口の下 のところで、走 り寄 る彼女を痛みが押 し とどめた。戸 口の柱 に しがみつ きなが ら、女 は、 哀れなク リステ ンに呪誼の言葉をとめどな く浴 び せかけた。あんたこそ司祭様を呼びに行 くべ きだ、 この世 と永遠の世 において、末代 まで呪われた く ないな らね。 しか し痛みのために罵 りは押 さえつ けられ、やがて この荒々 しい女 は、 ク リステ ンの 家 の敷居の上で、男の赤ん坊を産みお とした。女 の後を追 って きた人 びとはみな、あまりにもおぞ ま しい出来事 を見て四散 していった。(112) 敷居は、女 と赤子を拒否 した。信仰心を失 った 「荒々 しい」女 と、信仰共同体への認可 を受 けていない生 ま れたての赤子 は、敷居の内部 という聖空間に、 いまだ 入 ることがで きない。 スイスの農村 に残存す る中世的 心性、つま り子 どもを、「精神病者」 など 「社会 の質 的に劣 る、 マー ジナルな要素 と同一視

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す る心性 を ここに見て とることがで きるか もしれない。女だ けで な く、子 どももまたよそ者 なのである。 家 とい うミクロコスモスの外側か ら、生命力の権化 としての子 どもがや って くる。 別の言 い方をすれば、 嫁 という部外者を とり、家の外なるエネルギーに預か ることによって家 は持続す る。敷居の上での出産 とい う、 この少 なか らず グロテスクな情景 は、家 とい う小 宇宙の微妙な境界性 を表 している。 女や子 どもとは異 な り、蜘妹 は、 いともたやす くこ の圏域 を出入 りしてい く。 蜘妹の出現 は、村落共同体 のタブーが侵 された ことに起因 していた。一個人 を超 えた、 マクロコスモス的な力の象徴である蜘妹が、 日 常世界のなかへ乱れ入 る。家々の内部へ自由に侵入 し、 死 の苦 しみを家族 に与えた後、毒蜘妹 は、 ほかで もな い 「敷居の上」 (109)か ら、その様子を振 りかえ りつ つ見っめるのだ った。 敷居の上 の産婦 は、蜘妹それ自体ではない。 しか し

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その不可思議な力の一部 に預か って、 まるで 「蜘妹そ れ自身であるかのように」(113)、「荒 々 しい

(113) 視線 をク リステ ンに突 きつける。 スイス的共同体 にい まだ馴化 されぬ存在が ここにある。 やがて蜘妹 は、 ク リステ ンの手 に包 まれ、彼 の手を 毒で苛みなが ら、 この古 い家に持ち帰 られる。 そ して 敷居の上 の産婦 は、蜘妹 と一体化 した男 ク リステ ンに 引きず られ、いわば彼 らのマクロコスモス的な力 に共 に流 され るように、家のなかへ、 カオスと化 した家の なかへ入 ってい く。 蜘妹 は、かっての我が家へ と帰還 す る。 第一の枠 内物語を思 い起 こせば、蜘妹 は、村中の家 を悲惨 の底 に追 いや る一方で、「ただ一軒 の家だけ」 (89) は無傷 のまま残 し、最後 にそ こへ と帰 ってい っ た。 それはク リスチーネの家、つまり蜘妹を産み、 ま た自らも蜘妹その ものと化す人間の家 として、 いわば 蜘妹 自身の家で もあった。 この場所で蜘妹 は、信仰篤 い若母の手 によって封印されるのだが、実 はこの女性 の夫 とク リスチ-ネの夫 は兄弟である、 とい う設定 に なっている。つまり二人の女性、敬度 なる女性 と悪魔 的女性 とは、 いわば一組の姉妹なのである。 しか もこ の敬度 な女性 は、「自分の親類など一人 もいない

「孤 児」 (71) として家 に来 た とい う、 これ もまた一種 の よそ者であった。 この ことは、家 という空間を包む聖 なる力の二義性 を表 して興味深 い。生命を呼び込み、 また何処かへ と 連れ去 ってい くマクロコスモスの力の二義性である。 看過 してな らないのは、蜘妹の致命的な毒 の強 さだけ でな く、 その驚異的な出産力である。 第一の枠内物語 において、二人 目の赤子の略奪 に失敗 したク リスチ-ネの頬か ら、「無数 の黒 い蜘妹たち」 が次 々 と産 み落 とされる。 グロテスクではあるが圧倒的な印象を与え るこの繁殖力の表現 は、わずか一人の赤子を産み、そ の行 く末 に汲々 とす る村の人間たちの姿 と好対照を成 している。 この蜘妹の生殖の図は、谷の人間たちの密 かな願望夢でさえあったのではないか。 司祭の聖 なる魔術 によって人間の肉体を失 い、やが て蜘妹女 その もの と化す ク リスチ-ネは、「孤児」 で あ った若母 の出産 の場 に 「熟練 の産婆」 (62) と して 居合わせた とい う。 しか も彼女 は、時を急 いで行われ た洗礼式 に 「代母」 として立会 っている。 つねに出産 の相の もとに置かれたこの女性 は、 しか し司祭のキ リ ス ト教的呪術を間近 に受 けて、悪魔の口づ けの場所が 「炎の鉄」のよ うに痛み出 し、子 どもを危 うく 「地面」 に落 としそ うになる。 生命 は、 この 「地面」 と村 ・家 とのあいだを こそ行 き来 しているよ うに見える。 この物語 における、 キ リ ス ト教的な昇天の構図は、 ゴッ トへルフの意図 とは無 関係 に、 ひとっの装 いにす ぎない。悪魔 と称 され る男 は、司祭の呪術 を受 けて 「大地 に飲み こまれ る」 (80) のだ った。悪魔の 「緑」色 は、むろん狩人表象 と悪魔 との伝統的結合の反映ではあれ、「草の中」 (82,89) に消えてはまた現れ る蜘妹 たち、「地面か ら湧 き出て くるよ うな」 (68)蜘妹 たちの生態 と意味 あ りげに響 き合 う。 スイス人作家

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・ムシュクによる

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年 の論考 は、 先 に言及 した同年 の フェーアの著書 と並んで、 『黒 い 蜘妹』批評を本格的にスター トさせた記念碑的論文で ある

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年代 とい う時代性か ら、「二度」 の大戦 を 経てようや く毒蜘妹の正当な評価が可能 にな ったとい う言 い方 もなされ る。31っまり蜘妹 は悪 の象徴 とい う わけだが、 ムシュクは、 この毒蜘妹が女であることを ゴットへルフの 「天才的創意」 と評価 し、 この 「怪物」 的存在が、 ゴッ トへルフにとってまさに 「現実的」 な 存在であ った ことを示唆す る

「まさに如何 と して も 名づ けよ うのない もの」 を表現す る蜘妹 は、 「常 に変 身」 しっづけ、「あ らゆる理性的な説明を噺笑」す る。 蜘妹 は、「ペス トであ り、暴政であ り、人間のあ くど さ、戦争、情念、悪魔- あ らゆる姿で現れた、世界 に存在す るあ らゆる戦懐を意味す る

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ムシュクが言 う 「戦懐」か ら、む しろ否定的な意味 合いを取 り去 ってみたい。蜘妹はむ しろ、R・オ ッ トー が言 った 「聖 なるもの」 に近い、 ア ンビヴァレン トな 超越的体験を体現す るのではないか。 ムシュクには、 より重要 に思われ る次のような指摘がある。 すなわち 「ゴッ トへル フにとって、人間の生、文化 の存続 は、 倫理的な問題である

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家の存続を至上命令 とす るアルプスの民俗的生。周 囲の暴力的な自然 との闘いのなかで、正統的なキ リス ト教の範噂をいっ しか逸脱 した、 スイス土着 の、特殊 ベル ン的な生活規範 ・儀礼が築かれ る。 力仕事 と戦闘 を担 う男中心 に作 られたその文化 システムのなかで、 生殖、子孫繁栄 は、女 という辺境者の助 けを もって初 めて成就す る。 日常世界 という男中心の ミクロコスモ

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奈良女子大学文学部研究教育年報 第4号 スに対 して、産み出だす力を体現す る女性 は、 マクロ コスモスの力を移 し容れる媒体 に して器 となる。 谷の日常 とい う小宇宙のなかに、外部か ら関与す る 大宇宙の力の魅惑 と脅威- それをゴッ トへルフは、 よそ者の女の表象の もとに表現 した。例えば近世 にお いて、「たいていの夫婦 はかな り狭 い近隣の地域や、 家庭の友人の中で、 あるいは公の祭 りの機会や、農場 で労働 を共 に しなが ら知合 った ものだ った

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とすれ ば、 ドイツか ら来たとされるク リスチ-ネの異質性 に は、 はか りしれないものがある。家父長制社会内での 女性の現実的位置が、「ドイツ」、「よそ者」 とい う言 い方のなかに強 く凝縮 されている。 蜘妹 とな ったク リスチ-ネは、 はかの誰 よりも自ら の夫に対 して 「最 も惨た らしい怒 りをぶちまけ」(90)、 最 も残酷な死を与えたという。 村で疎外 される彼女を、 ついに夫 は守 り支えなか った ことへの復讐である。 ク リスチ-ネが、村の男たちに対 し、よそ者である自分 への不当な扱 いを訴える場面 は、彼女がいわゆる悪役 であることを忘れさせ るほどに切実である。 村 びとた ちか ら、およそ真心 を もって扱われたことがな く、村 の女 たちにいた っては、「ボーデ ン湖 は、城 の池 よ り も大 きいと彼女が言 っても、絶対に信 じようとしなかっ た」 (52) とい う。 村 の偏狭 さ、村 の否定的側面 は、 ゴット-ル フによって確かに記述 されてお り、つまり この小説をキ リス ト教の神 とスイスの村を絶対善 とす る、単なる勧善懲悪の物語 として捉えることはやはり 難 しい

村のこのような負の描写 を見逃す ことな く、 スイス の村 ・家の存続 にとって、女性 ・子 どもとい う部外者 が意味す るものを包括的に捉えたい。生命の更新 に関 与する女性 は、中世的世界観 に従 うか ぎり、一つの象 徴的存在 と して現れ る。 そ こで、「大地 の豊浜性が女 性的に理解 され るのは、人間の女性の出産能力が大地 の生産 リズムへ と説明の型 として転用 されたか らでは ない。そうではな く、先行するのは大地のほうである」、 と言 うのはH ・ベーメである。 人間 とは、 「コスモス のプロセス」を反復す る存在であ り、つまり 「出産 と は、人間女性が大地 の母の聖 なる出産行為を反復す る ミメ- シス」 なのである。35 ク リスチーネとい う蜘妹 は、広大 なるマクロコスモスか ら流れ入 り、そ してま たどこかへ と流れ去 る生命力の現われなのだ った。 その意味で毒蜘妹 とは、 スイスの家 にとって明 らか 51 に一つの祝福であった。柱の毒蜘妹 を、「光輝、幸福、 祝福

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の現われ として肯定的 に捉 え る見方 は、 すで にキ リス ト教的解釈のなかで行われている。 改革派神 学、具体的にはツヴィンブ リ/ カル ヴァン的な予定説 のなかで、人間の罪性の自覚 に貫かれた清廉潔白な生 活 と、此岸的世界 における物質的繁栄 は、互 いに排除 し合 うものではなか った。外枠物語 における豪華 な洗 礼 の宴 は、すなわち神の選 びの しる Lとして解 され う る。 しか しなが ら、 スイスの家族 ・村落共同体 と土着 の自然 との相互関係 に照 らして毒蜘妹の意味を考え る とき、そ うしたキ リス ト教性 とは別 なる相貌 もまた現 われ うるということを、 ここでは確認 しておきたいの である。 5.儀礼 ・語 り 聖職者 ゴッ トへルフは、外枠物語を語 る家長の老人 の姿を借 りて、信仰 と謙譲 とい うキ リス ト教的教訓 を 説 くように見える。 しか し彼が対決すべ き敵 は、 キ リ ス ト教の神 に対す る悪魔だけだ ったのではない。 た し か に彼 は しば しば 「異教」 (33) 的な存在 に言及 し、 その 「神 を も悪魔 を も畏れぬ」 (33) す さんだ姿 を否 定的に描 く。 しか しそ うした 「異教」的描写 は、先述 の形容詞wildとも共同 して、 む しろ彼 らスイス人が 築 いたスイス伝統の習俗 にこそ敵対 しているように思 える。 小説 冒頭の平和な山の情景 は、 スイス的共同体 とそ の習俗 とに調和 した自然の姿であるのだろう。 そ こに 言及 される鳥たちはみな、家族を作 るためにさえず り、 「結婚の輪舞」 (9)を踊 っている。 結婚 と出産を主要 な使命 とす るこのスイス的共同体 は、外枠物語の若 い 代母 に、その将来を託 している。洗礼の祝宴 において、 この娘 は しきりに飲食を勧 め られ るが、彼女 はまた見 事 にそれ らを腹の中に納めてゆ く。 代母 はここで、村 の伝統の食 をなかば強制的に受 け取 らされることで、 同志 として、村共同体の認可 を受 けるのである。 そ し て これは、辺境的存在 としての女性が、身体性 と精神 性 の融合す る食 という行為 において、村 という共同体 への加入度 を深める一方、同時に外 なるマクロコスモ スの生命力が、村の儀礼の制御の もとに村内へ と入 っ てい く瞬間で もある。 洗礼式 において、子 どもとい う部外者 と共 に、 この 成人の女 という部外者 にも新 しい洗礼が施 される。 そ

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して女の姿の もとに具現化 された毒蜘妹、 あの生殖力 にあふれた大宇宙の力 もまた、 しば し村の習俗の管理 下 に置かれるのである。 枠内物語 に描かれたように、 いっまた荒れ狂 うや もしれぬ破壊的な力は、平和 な外 枠物語の中に包み込 まれ る。 老父 によって物語 られる この言語的プロセスは、それ自体、大 いなる霊の鎮 め の儀式である。 民間伝説的な語 りが一貫するこの19世紀の小説 には、 非 日常的な ものの 日常への侵入 に直面 して、それを調 伏 しよ うとす る 「儀礼

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行為が満 ち溢れていると指 摘 される。 しか し、そ もそ も伝説 という言説形式が、 昔話 (メルヘ ン) などとは異 な り、「世俗的な世界 と 神聖 な世界、此岸的な世界 と彼岸的な世界 との間の緊 張関係」か ら成 り立 ち、現実の生活圏に生 じた非 日常 的な出来事への震掘 と、その動揺の回復、そ して最終 的には自らの生活圏、 自らの土地 との和解を表現 しよ うとす る物語である。 リュ-テ ィの定義を借 りれば、 「伝説 は故郷をっ くり、昔話 は世界を創造す る」-伝説を物語 る、そ して物語 って もらう人 は、不安 に身を委ね、同時に保護を求め、 自分を保護 しよ うと試みる。 この二つの ことにとって共同体が重 要 となる。 つまり、共同体 は恐 ろ しいものに好ん で開かれるが、拠 り所 も提供 して くれるのである。 それがたんに存在す ることによって、 また確認 と 解釈 に同意 を示す ことによって。 - 伝説 は村や 風景 を異質な ものにす る。信頼 のおけないもの、 不気味なものがそ こに織 り込 まれる。 しか し伝説 は同時に風景を自分の ものとし、それを初めて本 来的に故郷 とす るのである。38 『黒い蜘妹』 という伝説 を読む近代の読者 は、聖 な るものの顕現 とその調伏の儀礼 に立 ち会わされている。 それは、大宇宙の (女)の大 いなる破壊性 と生命力を 封 じ込めよ うとす る、矯小 なる (男)

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(人間)の祭 礼的語 りであった。 このスイスの女が 「デーモ ン」化 されているとい うのな ら、 それはフロイ ンートが言 う罪 と肉欲 によってであるよ りも、む しろ出産、 自然の ミ メ-シスと しての圧倒的な繁殖力のゆえである。 鎮魂の言語的儀礼のなかに顕現 した、荒ぶ る蜘妹を 措 くゴッ トへルフの筆 は、実 に冴えわたっている。 お よそ30代後半 における彼の保守化 についてはすでに述 べたが、 ゴッ トへルフの基盤 はあ くまで も啓蒙主義、 それ も民衆 の啓蒙 にあった。39改革派 キ リス ト教 に基 づいた独特 なる保守主義の もとに、民衆 の生活改善へ の意志 を もちなが ら、 しか し彼が描 く悪 は、 なぜか魅 惑 に満 ちあふれ、教訓的言述を覆 い隠す ほどである。 ゴッ トへルフの啓蒙主義 に潜む野蛮性、つま り自然 と い う野蛮 さを、同程度かそれ以上の野蛮 と暴力で克服 しよ うとす る、啓蒙的精神の典型的な矛盾を ここに見 て、 ゴッ トへル フという 「(文明化 されざる人間) の 隠れた欲望

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が、 いわゆる悪 の描写 を契機 に噴出 し ているのだ と言 う者 もある。 本論のさらなる関心 は、 この ゴッ トへルフというスイス人の (野蛮)性 の根源 をより精密に見定めることにある。黒い蜘妹の姿をとっ て、啓蒙 とキ リス ト教 に抗 うスイスの風土。 この厳 し い括抗のなかか ら生 まれたスイス土着の習俗が、 テク ス トの随所 に織 り込まれている。スイス村落共同体を、 外部か ら象 りつつ繋 ぎとめている大宇宙の観念、聖 な るものの観念 は、そうした民俗 とゴット-ル フとの関 係を踏 まえた上で、 より明確な ものとなるだろう。 註

1 JeremiasGotthelf:DieschwarzeSpinne.Hg.Ⅴ. Joseph Kiermeier-Debre. Bibliothek der Erstausgaben.Miinchen 1997.S.101.以 下 、 本 文中に該当頁を記す。訳文 は拙訳 に拠 るが、 田中泰

三訳

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『世界の文学 ドイツ名作集』所収、 中央公

論社、1967年) と山崎章甫訳 (岩波文庫、1995年) の二つの先訳を適宜参照 した。

2 Walter Muschg: Jeremias Gotthelf.》Die schwarze Spinne《.(Erstdr.1942) In: ders.: PamphletundBekenntnis.AufsatzeundReden. Hg.V.Peter Andre Bloch und ElliMusc hg-Zollikofer.Freiburg1968.S.223.

3 Muschg,S.224.

4 Wolfgang Mieder: Jeremias Gotthel

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Die schwarzeSpinne.ErlauterungenundDokumente.

Stuttgart2003,S.43.Vgl.auchS.41. 5 Mieder,S.28-36.

6 Benno Yon Wiese:Jeremias Gotthelf.》Die schwarze Spinne《. In: ders∴ Die deutsche NovelleYonGoethebisKafka.Bd.1.Dtisseldorf

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奈良女子大学文学部研究教育年報 第4号

1964(Erstdr.1956).S.176-195.HierS.176. 7 Walburga Freund-Spork:JeremiasGotthelf.

DieschwarzeSpinne.Stuttgart2003.S.57. 8 AlbertMeier:JeremiasGotthelf.In:Deutsche

Erzahlungen des19.Jahrhunderts.Von Kleist bis Hauptmann.Hg.und kommentiert Yon Joachim Horn u.a‥ Mtinchen 1987.S.562-568. HierS.566.

9 Werner Gdnther: Jeremias Gotthelf. In: Deutsche Dichter des 19. Jahrhunders: ihr LebenundWerk.Hg.Ⅴ.BennoYonWiese.2.,

tiberarbeitet,e und verm.Auf1..Berlin 1979. S.306-329.HierS.308.

10 JostHermand:Napoleon und dieschwarze Spinne.EinHinweis.(Auszug)In:Mieder,S.86. 11 ヴィンフ リー ト・フロイ ン ト 「デーモ ンとしての 女」 (松村園隆訳)、 同 『ドイツ幻想文学 の系譜』、 彩流社、1997年、200-218頁所収、211-217貢参照。 12 同、215頁。 13 アーロン ・グレーヴィチ 『中世文化のカテゴリー』 (川端香男里 ・栗原成郎訳)、岩波書店、1999年、 439頁。 14 I・ヴェ-バ ーニケ ラーマ ン 『ドイ ツの家族』 (鳥光美緒子訳)、勤草書房、1991年、75頁。 15 同、109、113頁。 16 同、277頁。 17 Freund-Spork,S.63. 18 ヴェ-バーニケラーマ ン、81頁。 19 同、164頁、213-214貢。 20 Albrecht Sch6ne: Didaktische Verweisung. JeremiasGotthelfs》DieschwarzeSpinne《.In: ders.:Sakularisation alssprachbildendeKraft. Studien zurDichtung deutscherPfarrers6hne. G6ttingen1958.S.139-180.Bes.S.143.

21 Mieder,S.14.

22 KarlFehr:JeremiasGotthelfs≫Dieschwarze Spinne《alschristlicherMythos.Zdrich 1942.

(Auszug)In:Mieder,S.70

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23 Fehr,S.74. 24 Sch6ne,S.149. 25 Muschg,S.225. 26 グ レーヴィチ、239頁。 53 27 同、435頁。 28 同、440頁。 29 リヒャル ト・ファン ・デュルメン 『近世の文化 と 日常生活1』 (佐藤正樹訳)、鳥影社、1993年、252 責。 30 グレーヴィチ、446頁。 31 Mieder,S.69. 32 Muschg,S.222. 33 Muschg,S.223. 34 デュルメ ン、181頁。

35 HartmutB6hme:GeheimeMachtim SchoB der Erde. Das Symbolfeld des Bergbaus zwischen Sozialgeschichte und Psychohistorie. In:ders∴NaturundSubjekt.Frankfurta.M. 1988.S.67-144.HierS.90.

36 Joseph Kiermeier-Debre: Nachwort. In: JeremiasGotthelf:DieschwarzeSpinne.Hg.Ⅴ. JosephKiermeier-Debre.S.141f‥

37 Werner Hahl:》Die schwarze Spinne《. RitualisierungderGottesfurchtbeim Erzahlen vom Haus und ftir das Haus. In: ders∴ JeremiasGotthelf-der≫DichterdesHauses《. DiechristlicheFamiliealsliterarischesModell derGesellschaft.Stuttgart1994.(Auszug)In: Mieder,S.93. 38 マ ックス ・リュ-テ ィ 「伝説 の内容 と語 り口」、 同 『民間伝承 と創作文学』 (高木昌史訳)、法政大学 出版局、2001年、32-52貢所収、46、48-49頁。民 間伝説 に関す るこの論文 は、 ゴッ トへルフの 『黒 い 蜘妹』 にも言及 している。 同、44頁参照。

39 Wolfgang Braungart: Aufklarungskritsche Volksaufklarung. Zu Jeremias Gotthel

f

. In: Fabula28(1987).S.185-226.

40 Michael Andermatt: "Keinem wurde ein einziges Gericht geschenktH:Leiblichkeit be主 Jeremias Gotthelf. In: Erzahlkunst und Volkserziehung. Das literarische Werk des Jeremias Gotthelf,Hg.V.Walter Pape u.a.. Ttibingen1999.S.209-223.HierS.223.

参照

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