記述について
飯田 隆
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一般化された量化子の理論と日本語の名詞句
自然言語を対象とする形式意味論的研究は、1970 年代に発表された Mon-tagueのいくつかの論文(Montague [1970], [1973])から始まる。この伝統 のなかで現在に至るまで有力な支持を得ている仮説のひとつは、固有名や指 示表現以外の名詞句はすべて量化表現であるとするものである。この仮説を 支持する理論的基盤となっているのは、Barwise と Cooper によって作られ た「一般化された量化子の理論 Theory of Generalized Quantifiers」(以下で は「GQ 理論」と呼ぶ)である(Barwise and Cooper [1981])。以前に私は、日本語名詞句の意味論的分析の枠組みとして GQ 理論を採用 し、日本語の名詞句もまたすべて量化表現であるとみなした(飯田 [2000])。 統一的な理論的枠組みのもとで日本語名詞句の意味論を考察することは、取 り組むべき課題を鮮明にするというだけのことであっても、十分意義のある ことであった。GQ 理論を日本語に適用することから生れてきた課題のひと つが、小論の主題である。それは、 (1)先生が生徒を叱った。 という文におけるような名詞句の意味論である。ここでの「先生」と「生徒」 の出現は、 (2)大部分の先生がすべての生徒を叱った。 におけるのとは違い、「大部分の」とか「すべての」といった表現を伴わない 出現である。GQ 理論によれば、名詞句はすべて D + N のように量化詞—別の呼び名では、決定詞(determiner)—D と名詞 N から 成る量化表現—決定詞句(determiner phrase, DP)—である。(1) における ような名詞句は、このパターンにあてはまらない。 実際、日本語の名詞句の出現の多くは、(2) のように量化詞を伴うものでは なく、(1) のように量化詞を伴わない形での出現である。これは、名詞が決定 詞を伴わずに現れることがまれである英語の場合—そうした名詞句は裸名詞
句(bare noun phrase)と呼ばれる—と際立った対照を示している。GQ 理 論を堅持するならば、こうした名詞句もまた「D + N」といった構造をもつ とみなされねばならない。だが、そうした構造を仮定する根拠は存在するだ ろうか。 飯田 [2000] で私は、(1) におけるような名詞句は、実際には発音されない 量化子を伴う量化表現であると考えた。さらに、それは、単独ではまだ意味 が不定である—どの種類の量化を行う表現であるかが不定の—量化表現であ ると考えた1 。どの種類の量化が関係しているかは、その名詞を含む文が発 せられたコンテキストに依存しており、量化の種類が決定されて初めて真理 条件が確定するというのが、そのときのアイデアであった。ただし、量化詞 を伴わない名詞句の出現に関してはデフォルトの解釈が存在し、コンテキス トからの特別の指示がない限りは、このデフォルトの解釈が取られるとした。 つまり、デフォルトでは、一般名の場合は存在量化を伴うと解釈され、固有 名の場合は個体量化—単独の個体のみだけから成る集合を値域とする量化— を伴うと解釈されるとした。 だが、このように考えることは、タイプとしての (1) はそもそも文ではな いとみなすことである。そして、そのときには、「先生」や「生徒」にどのよ うな量化が伴っているのかが確定されない限り、(1) の発話に際してどのよう な文が用いられたか自体が不明となる。(1) はいわば、発音上は同一であるた がいに異なる文を束ねて表現したものにすぎず、そうした文のうちのどれが 用いられたかは、コンテキストによってのみ決定されるからである。さらに、 ここで「先生」や「生徒」に伴いうる量化の種類はある決まった数に限定さ れないと考える2 ならば、無限に多くの異なる文が同一の音声的表示をもつ ことになる。 これは受け入れがたい帰結である。こうした帰結を避けるために、不定量 化子「∗」をそれ自体確定した意味論的値をもつ高階の表現と考えるという可 能性があるかもしれない。『名詞句の意味論』のやり方では、(1) は、 (∗1先生)1(∗2生徒)2叱った (x1, x2) と形式化され、ここに二箇所現れる「∗」は、コンテキストによって決定され る何らかの量化子が入る場所にすぎないとみなされる。このように考える場 合、「∗」は、日本語に属する表現ではなく、その形式的表現のために用いら れる補助的言語に現れる記号である。だが、もしも「∗」を日本語に属する表 現とみなすならば、そのときそれは、コンテキストによって異なる値—その コンテキストによって決定される特定の量化子がもつ値—をもつ、いわば高 階のインデキシカルになる。あるいは、「∗」は、ゼロ代名詞と似たゼロ代量 化詞だと考える道もあるかもしれない。そのときには、指示代名詞と照応代 1 飯田隆 [2000], p.22。これは以下『名詞句の意味論』として参照する。 2「不定量化子」は、「一人の」、「二人の」、. . . 、「百人の」、. . . といった量化詞のいずれの代 理でもありうる。
名詞があるのと同様、代量化詞も、どのような量化を表すかが言語外的なコ ンテキストによって決定される指示的なものと、前後の言語的脈略によって それが決定される照応的なものがあると考えることになろう。 だが、このどちらの道も、にわかには信じがたくみえる。こうしたエキゾ チックな表現が (1) のようなごく単純な文に含まれていると考えよというの は、かなり無理な注文に思われる。もっと馴染み深い道具立てで (1) の意味 論を与える方法はないだろうか。
2
確定記述もしくは不確定記述としての日本語名詞句
量化詞を伴わない日本語の名詞句の意味論として、一時期有望と私にみえ たのは、それが二通りにしか多義的ではないとするものである。この意味論 に従えば、(1) のような事象叙述文3 に現れる量化詞を伴わない名詞句はつぎ の二つの種類のどちらかに属する4 。ひとつは、その文が発話されるコンテ キストにおいて了解されている特定の対象を指すはたらきをもつものであり、 もうひとつは、コンテキストによって限定されるある範囲内における、いず れか不定の対象を指すはたらきをもつものである。この二種類の量化は、発 音されない二つのヌル決定詞(null-determiner) ∅D ∅∃ で表わされると考える。たとえば、 (3)生徒が笑った。 に関しては、二通りの解釈を考慮するだけでよい。『名詞句の意味論』での表 記法に従って書き表せば、つぎのようになる。 (3a) (∅D 1 生徒)1笑った (x1) (3b) (∅∃1生徒)1笑った (x1) (1)のように、量化詞を伴わない名詞句を二つ含む文については、各々の名詞 句について二通りずつ解釈があるから、つぎのように全部で四通りの解釈が あることになる。 3 飯田隆 [2001a], pp.1f.。 4 事象叙述文ではない、もうひとつの文の類型である属性叙述文において、名詞はしばしば、 発音されない generic(総称)の量化子を伴っているとみなせる。実際、つぎにみられるように、 典型的な総称文において名詞は量化詞を伴わない。 (i)象は鼻が長い。 (ii)雪は白い。(1a) (∅D 1 先生)1(∅D2 生徒)2叱った (x1, x2) (1b) (∅∃1先生)1(∅D2 生徒)2叱った (x1, x2) (1c) (∅D1 先生)1(∅∃2生徒)2叱った (x1, x2) (1d) (∅∃1先生)1(∅∃2生徒)2叱った (x1, x2) この意味論の妥当性を確立するには、量化詞を伴わない日本語の名詞句を 含む事象叙述文の意味論を与えるのに、(i) 二種類の量化が必要であり、かつ、 (ii)二種類の量化で十分であることが示せればよい。 量化は二種類必要であるという点から始めよう。(3) の「生徒」が多義的で あるいう主張は、(3) には、存在文5 (4)笑った生徒がいた。 と同値である読みと、そうではない読みがあるということに基づく。もしも、 一定のコンテキストで発話された (3) が (4) と同値であるならば、(3) に現れ た「生徒」は不確定記述(indefinite description)であり、ヌル決定詞「∅∃」 を伴うと解釈される。なぜならば、(4) が真であるために必要なことは、だれ か生徒が笑ったということだけであって、それがある特定の生徒であること ではないからである。他方、同値でないならば、だれか生徒が笑ったという ことだけでは (3) は真とならないということであるから、そのとき (3) に現れ た「生徒」は、ある特定の生徒を表わす仕方で用いられた確定記述(definite description)であり、ヌル決定詞「∅D」を伴うと解釈される。 一般に、量化詞を伴わない名詞句 NP を含む事象叙述文 . . . NP — には、それに対応する存在文 . . . — NPがいる/いた が存在する。たとえば、事象叙述文 (1)先生が生徒を叱った には、そこに現れる二つの名詞句「先生」と「生徒」の各々に関して、(1) に 対応する二つの存在文 (5)生徒を叱った先生がいる (6)先生が叱った生徒がいる 5 (4)には「笑った生徒がそこにいた」のようにパラフレーズされる所在文としての解釈もあ るが、そうした解釈は排除されているとする。この点も含めて、飯田 [2002] を参照されたい。
がある。もしも (1) の発話が (5) と同値ならば、(1) における「先生」は不確 定記述であり、(6) とも同値ならば、「生徒」も不確定記述である。(1) の四通 りの解釈 (1a)–(1d) のいずれを取るべきかは、こうしたテストによって見分 けることができる。 つぎに、この二種類の量化で十分であるという点に移ろう。『名詞句の意味 論』で私は、(3) のような文には、「生徒みんなが笑った」と同等の読みがあ り、それは (3) の「生徒」が全称量化子を伴う可能性を示すと述べた6 。だ が、(3) のこうした読みが可能となるコンテキストが存在するとしても、その ことを説明するために、全称のヌル決定詞 ∅∀ のようなものを想定する必要はない。ここで重要なのは、単数と複数という 文法的区別をもたない日本語において、「生徒」のような名詞句は、ひとり の生徒を指すこともできれば、複数の生徒を指すこともできるということで ある。 日本語のこうした特徴を意味論に反映させるには、二つの方法がある。ひ とつは、対象領域のなかに、個々の生徒だけでなく、生徒から成る集団も含 めることである。もうひとつは、対象領域には個々の生徒だけを含めるが、 複数量化(plural quantification)という新しい種類の量化をメタ言語で採用 することである。前者は、メタ言語の論理を改訂する必要がない点で、保守 的な路線であり、Link の先駆的仕事(Link [1983])以来、多くの言語学者 によって採用されてきた路線でもある(Landman [1989]、Lasersohn [1995]、 Schwarzshild [1996]などを参照)。ただし、この路線には原理的な困難が存在 することも指摘されている(Oliver and Smiley [2001])。しかしながら、前 者の路線を一時的に採用することは許されるはずである。哲学における経験 に照らすとき、より豊富な存在論から出発して後にそれを刈り込むことの方 が、ストイックに初めから貧弱な存在論で済まそうとするよりも早道である ということは、十分ありそうなことだからである。 さて、先の議論が正しければ、(3) には二通りの解釈があり、一方の解釈の もとで (3) は (4) と同値であるが、他方の解釈のもとで (3) は (4) と同値では ない。 まず、(3) が (4) と同値である場合を考えよう。発話のコンテキスト C に よって、「生徒」のある外延が定まる。それを ∥ 生徒 ∥C で表わそう。いま、C で話題になっている生徒は a、b、c の三人だけだとし よう。このとき、C における「生徒」の外延には、a、b、c だけでなく、 aと b 6 飯田隆 [2000], p.22。
aと c bと c aと b と c という、それぞれ複数の生徒から成る対象もまた含まれる。(3) の二通りの 解釈のうち、(3b) は、これら七個の対象のうちの少なくともひとつについて 「笑った」が成り立つことをその真理条件としてもつ。つまり、「だれか生徒 が—必ずしもひとりとは限らない生徒が—笑った」ということである。 他方、(3) が (4) と同値でない場合を考える。この場合、(3) は、C におい て了解されている特定の生徒についての主張である。C において「生徒」と 言うだけでこの特定の生徒が指定できると考える以上、これは C での「生徒」 の外延中の単一の要素を指している。C における「生徒」の外延がただひと つの要素、たとえば、a だけから成る場合には、(3) の「生徒」は a を指す。 だが、複数人の特定の生徒を問題にしている場合もあるだろう。たとえば、a と b と c の三人を指して「生徒が笑った」と言う場合である。この場合の「生 徒」の外延は、先と同様、a、b、c、a と b、a と c、b と c、a と b と c という 七個の対象から成る。このとき、確定名詞句としての「生徒」は、この外延 中の「最大の要素」、 aと b と c を指すと考えるのが妥当である。話題となっている生徒の一部だけを指すた めには、「あの生徒たち」のように「生徒」に限定を加えるか、あるいは、複 数の生徒のうちのどれかを際立たせるような特徴に聞き手の注意を向けさせ るといったことが必要である。したがって、複数の生徒が話題になっている ときに、ただ「生徒」と言うだけで特定の生徒(のグループ)を指定できる のは、「生徒」が、話題となっている生徒の全体を指示する場合だけである。 そうすると、(3a) のように解釈された場合、C において (3) が行っている 主張は、そこで考えられている生徒三人の全体から成る集団に関して「笑っ た」という述語があてはまるということである。ところで、 (7)生徒が集まった。 におけるような「集まった」は、集団についてのみあてはまる述語であって、 その構成員のひとりひとりには適用されない。それは、たとえば、 太郎が集まった。 という文が奇妙である7 ことからもわかる。それに対して、述語「笑った」 がある集団に適用されるための必要十分条件は、それが、その集団の構成員 7 ここで「太郎」は特定の個人を指すと考えている。「全国の太郎さんが集った」といった場 合を考えてはいない。
のひとりひとりに適用されることにほかならない8 。したがって、「笑った」 が a と b と c から成る集団に適用されるならば、「笑った」は a、b、c のひと りひとりについても適用される。よって、(3a) のように解釈された (3) は、そ のコンテキストで考慮されている生徒のだれもが笑ったという全称命題と同 値となる。つまり、(3) の全称的な読みは、(3a) から自然に帰結するものであ るゆえに、全称のヌル決定詞のようなものをわざわざ想定する必要はない。 いまの議論は、(3) が、たとえば、 (8) 1ダースの生徒が笑った と同一の真理条件をもつといった主張9 にも適用できる。(3) が発話された コンテキストにおいて「生徒」の外延がちょうど 12 人の生徒から成っている とき、確定記述として「生徒」を用いた (3) の発話は、この 12 人の生徒から 成る集団について「笑った」という述語が成り立つということを言うもので あり、「笑った」の分配可能性により、それは 12 人の生徒のひとりひとりが 笑ったことと同値となるからである。 このように、対象領域に複数的対象を認めるならば、二種類の量化だけに よっても、全称量化や数的量化と実質的に同じはたらきを実現できる。量化 詞を伴わない日本語の名詞句の意味論としては、これだけの種類の量化が表 現できれば十分であると考えることができるならば、つぎのように主張する 理論こそがそうした表現の正しい意味論を与えると思われるだろう—事象叙 述文という種類の文においては、量化詞を伴わない名詞句は確定記述もしく は不確定記述とみなすことができる、つまり、量化詞を伴わない日本語の名 詞句は、総称的なものでなければ、確定もしくは不確定の記述である。
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不確定記述としての日本語名詞句
前節のように、量化詞を伴わない日本語の名詞句は確定記述か不確定記述 のいずれかであると考えることができるならば、それは哲学的にも重要な帰 結をもつ。なぜならば、それはラッセルの記述理論がそのまま日本語にもあ てはまることを意味するからである。ラッセルの理論は、まもなく生誕百年 を迎える理論であるが、自然言語の分析において未だに有力な理論であり続 けている10 。 しかしながら、量化詞を伴わない日本語の名詞句が、確定記述あるいは不 確定記述という両義性をもつと考えてよいだけの十分な根拠があるかどうか 8 述語「笑った」が集団に関して成り立つのは、その集団の構成員のすべてについて「笑った」 が適用できるときに限られるというのはたぶん正しくない。それでも、集団のなかに笑った者 がひとりでもいればよいというわけではないと思われる。ある程度の人数の者が笑ったのでな ければ、集団に関して「笑った」と言うことはできないだろう。関連する議論として、Brisson [2003]を参照。 9 飯田 [2000] p.24 参照。 10たとえば、Neale [1990] を参照。は大いに疑わしい。前節での議論には、そこまでの結論を確立するだけの力 はないと思われるからである。 一般に、文 S が多義的かどうかの判定は、同一のコンテキストにおいて S が真となるような読み R1と、S が偽となるような読み R2が存在するかどう かをみることによってなされる。「同一のコンテキストにおいて」という制約 により、こうした真理値の相違は、S が少なくとも二つの異なる意味をもつ ということに由来する以外にないと考えられるからである。ただし、S のそ うした多義性が、S を構成している要素—語と構文法—のどれに由来するか は、こうしたテストだけではわからない。 前節でのように (3)生徒が笑った の「生徒」に確定記述と不確定記述という二通りの読みが存在すると主張す ることは、(3) の多義性を主張することである。したがって、(3) の二つの読 みがあって、その一方に従えば (3) は真であるが、もう一方に従えば (3) は偽 であるようなコンテキストが存在しなければならない。前節での議論は、(3) には (4)笑った生徒がいた と同値である読みと、そうではない読みの二つがあり、前者は「生徒」を不 確定記述とみなす読み、後者は確定記述とみなす読みだというものであった。 (3)に (4) と同値である読みが存在するということはよいだろう。問題は、(4) と同値ではない (3) の読みが本当に存在するかということである。 前節の議論によれば、発話のコンテキストにおいて了解されている特定の 生徒についての主張として (3) を解釈することが、そうした読みである。こ のとき、(3) から (4) は帰結する—ある特定の生徒が笑ったならば、笑った生 徒がいるということは正しい—が、(4) から (3) は帰結しない—笑った生徒が いるからと言って、ある特定の生徒が笑ったということは帰結しないという のである。 しかし、(4) が真で、(3) が偽であるような状況はあるだろうか。もし、そ うした状況があるならば、その同じ状況で (9)笑った生徒がいたが、生徒は笑わなかった と言うことが正しくなくてはならない。だが、(9) が矛盾した主張ではないと 考えることはむずかしい。 あるいは、 A: 生徒が笑ったよ。 B: 笑った生徒はたくさんいたよ。 A: ちがう、生徒が笑ったんだよ。
といった会話は了解できないわけではない—Aの二番目の発言において「生 徒」は強調されていると考える11 —が、 A: 生徒が笑わなかったんだって? B: 笑った生徒はたくさんいたが、生徒は笑わなかったよ。 という会話は了解不可能だろう。 以上のことから示唆されるのは、(3) の二通りの解釈は、真理条件的に異 なるといういみで意味論的に異なるのではなく、語用論的にのみ異なるとい うことである。ここで考え直す必要があるのは、「確定記述/不確定記述」と いう区別における「確定性」ということの意味である。実のところ、(3) の 「生徒」によって、発話のコンテキストで了解されている特定の生徒を指すの が、確定記述としての「生徒」の用法だという前節での説明は、「確定記述」 の「確定性」の意味を取り違えているとして批判されるべきである。なぜな らば、ラッセルの記述理論によれば、確定記述の確定性とは唯一性以外のこ とではなく、それを用いて話者が特定の対象を指示する意図をもっているか どうかとは無関係だからである12 。そして、こうした類の考慮は明らかに語 用論に属する事柄である。 よって、量化詞を伴わない日本語の名詞句が確定記述と不確定記述のどち らとしても機能しうるという前節の提案はしりぞけられなければならない。 そうした名詞句はすべて、意味論的には不確定記述と同等であり、それが特 定の対象を指示するために用いられるうることは、語用論的に説明されるべ き事柄である。 そうした説明がどのようなものになるのかは、さまざまなケースを調べて はじめて言えることであるが、おおまかな見当をつけておけば、それはおそ らくつぎのようなものだろう
Ludlow & Neale [1991]は、「a man」のような英語の不確定記述が指示的 に用いられる場合を考察するために、つぎの三つを区別している。 (i) 発話の根拠となっている話し手の信念 (ii) 発話によって表現される命題 (iii) 発話を通して話し手が聞き手に伝えようとする命題 このうち、真理条件の体系的導出といういみでの意味論の領域に属するのは (ii)だけである。この区別を最初の手がかりにしよう。 11この例が納得できないならば、つぎのような会話を考えてみたらどうだろう。 A: 本が出たよ。 B: きょう出た本ならばたくさんあるさ。 A: ちがう、本が出たんだよ。 ここでAは、ある特定の本—たとえば、A自身が書いた本—が出たかどうかを問題にして、そ うした特定の本があることをBもまた知っていると考えている。 12この論点は、ドネランによって唱えられた、確定記述の帰属的用法と指示的用法の区別をめ ぐる周知の議論と関係している。Kripke [1977] を参照。
つぎのような情景を考える。私は、もうひとりのひと A と一緒に、二人の 生徒 X と Y が先生から説教されるのを見ている。説教の途中で先生は何かお かしなことを言ったらしい。それに X が笑った。A もそれを見たことを私は 知っている。私は A に (3)生徒が笑った と言う。この発話の根拠を与える私の信念は、X が笑ったという事実であり、 この発話を通して私が隣のひとに伝えようとする13 命題も、X が笑ったと いうことである。だが、この発話によって表現される命題は、X と Y の両方 かもしれないし、どちらか一方だけかもしれないが、ともかく生徒が笑った ということでしかない。このことは、私が (3) ではなく、X を指さしながら (9)あの生徒が笑った と言う場合とくらべてみればはっきりする。私の発話の根拠となっている信 念も、私が相手に伝えたい命題も、(3) の発話の場合と同じであるが、(9) の 発話によって表現される命題は明確に異なる。 だが、いまの例は、あくまでも不確定記述を指示的に用いている場合であっ て、前節で問題としたような、確定記述に類比されるような「生徒」の用法 ではない。そうした用法を特徴づけるのは、「生徒」によって何を指すかにつ いての信念を話し手と聞き手とは共有しているという話し手の信念の果たす 役割の大きさである。いまの例でも、上の (i)–(iii) に加えて、 (iv) 発話の理解のために聞き手が利用できると話し手が信じてい る、聞き手の信念 という要素がはたらいていた。(3) を発話することによって X が笑ったこと を伝えられると私が考えるとき、X が笑ったことを聞き手もまた見てそう信 じているということを私は当てにしているからである。 だが、この要素がもっと大きな役割を果たす例を考えることができる。私 はこのところ A と会うたびに、私の生徒のひとり X について話すのがきまり になっている。X を私は気に入っているのだが、ひとつ気になることは一度も 笑顔をみせたことがないことである。家庭の事情も複雑なようなので何か問 題でもあるのだろうかと私は心配している。こうしたことすべてを A は、私 からさんざん聞かされている。そして、ある日 A は、興奮して現れた私から (3)生徒が笑った と聞かされる。何を A に伝えようとして私が (3) を発話したかは、明らかで ある。そして、(3) の発話によって X が笑ったという命題が A に伝わると私 13この場合はむしろ、「確認を求めようとする」と言う方が適切であると思われるかもしれな いが、確認を求めるべき事柄が何であるかは相手に伝えられなければならない。相手がすでに 知っていることもまた伝えられる対象となりうる。
に考えることができるのは、「生徒」ということで A に対して私が話題にす るのは X 以外の生徒ではないと A が思ってくれることを、私が当てにできる からである。 いまの例では、(3) の発話のコンテキストでの名詞「生徒」の外延には、X だけが含まれると考えられる。(3) が不確定の記述しか含まないにもかかわら ず、その発話によって、特定の対象 X についての命題を話し手が聞き手に伝 えることができるのは、それゆえである。だが、発話のコンテキストでの名 詞の外延に複数の対象が含まれる場合でも、不確定記述を用いて、話し手と 聞き手の双方に前もって了解されている特定の対象についての命題を伝える ことができる。 今度のシナリオはこうである。授業に行こうとしている私に、受けること 絶対まちがいなしというジョークがあると A が言う。授業から戻ってきた私 は A に (10)生徒は笑ったよ と言う。ここで重要な役割を果たしているのは、「生徒は」の「は」である。 この「は」は主題を表す。飯田 [2001b] で私は、一般に主題(topic)や焦点 (focus)といった現象は、文の意味論的構造にかかわるものではなく、それと は独立に研究できる情報構造に属すると考えた。ここでも、この観点を取り、 (10)は、(3) と同一の意味論的構造をもつとみなす(終助詞の「よ」も、文の 意味論的構造に寄与するものではない)。したがって、(10) の発話によって 表現される命題は (3) と同一であり、それはまた、「笑った生徒がいた」とい う存在文によって表される命題とも同値である。しかしながら、この発話に よって私が A に伝わると考えているのは、授業に来ていた生徒の集団が笑っ たという命題である。それは、(10) の情報構造から示唆される。つまり、こ こで「生徒」は主題として取り上げられている以上、話し手と聞き手の双方 が了解しているある特定の対象にかかわるという語用論的推論が可能となる からである。よって、この場合の「生徒」は、英語ならば「the students」と 表現されるような複数形の確定名詞句(plural definite NP)と同じようには たらく。つまり、英語の確定名詞句のもつはたらきは、日本語においては意 味論的にではなく語用論的に実現されているのである14 。
4
構造化された対象領域
しかし、2 節でのような考察はまったくの無益だったわけではない。その過 程で量化の範囲が複数的対象にまで拡張されたことは、日本語名詞句の意味 論にとって重要なステップである。よって、量化が及ぶ対象領域は、生徒の 14ひょっとすると英語においても確定性は、意味論的にではなく語用論的に実現されているのかもしれない。Ludlow & Segal [2004] は、「the」で始まる確定記述と「a」で始まる不確定記 述は意味論的に異なるものではないと論じている。また、Szab´o [2000]も参照のこと。
集団のような複数的対象を含み、それらの対象のあいだには部分全体関係— 「≤」によって表わす—が成り立つと考えよう。このように構造化された対象 領域を扱う理論として便利なのがメレオロジーである。 メレオロジーはもともと、集合論の代わりに数学の基礎を与えるものとし て、レシニェフスキによって創始された理論であるが、ここでは、ある種の 構造を指す名称として用いる15 。任意の集合 M とそのうえの関係≤ から成 る構造M ⟨M, ≤⟩ がつぎの二つの条件を満足するとき、M は「メレオロジー」と呼ばれる。 1. 推移性 任意の対象 x, y, z∈ M について、x ≤ y かつ y ≤ z ならば、x≤ z。 2. 完全性 任意の空でない X ⊆ M について、X の要素全体 の和である対象 x がただひとつ存在する。 完全性の条件に現れる和(sum)の概念はつぎのようにして定義される。 定義 1 対象 x は対象 y と素(disjoint)である ⇔ z ≤ x かつ z ≤ y であるような対象 z は存在しない。 定義 2 対象 x は対象 y と重なる(overlap)⇔ 対象 x と対象 y は素 ではない。 定義 3 対象 x は、対象から成るクラス X の要素全体の和(sum)で ある⇔ X の要素はどれも x の部分であり、かつ、x のどの部分も X のある要素と重なる。 Xの和は σ(X) と表記される。また、 σ({x1, x2, . . . , xn}) は x1+ x2+ . . . + xn とも書かれる。したがって、 x + y は σ({x, y}) と同じである。 各メレオロジーM = ⟨M, ≤⟩ と相対的に、その原子および分子という概念 を定義する。 15Ojeda [1991]参照。
定義 4 M の要素 x はM の原子(atom)である ⇔ ∀y ∈ M (y ≤ x→ y = x)。 つまり、メレオロジーM の原子とは、自身以外を部分としてもたないよう なM の要素のことである。x が M の原子であることを Atom(x,M) と書こう。また、M の原子の全体から成る集合 {x : Atom(x, M)} を atm(M) で表わす。 定義 5 M の要素 x はM の分子(molecule)である ⇔ ∃N ⊆ M [N ̸= ∅ ∧ ∀y ∈ N(y は M の原子である) ∧ x = σ(N)] M の分子とは、M の原子の和となっているような M の要素のことである。 xがM の分子であるとき、それは一意的に M の原子に分解される。 その要素がすべて分子であるメレオロジーを、「原子的メレオロジー」と呼 ぶ。原子的メレオロジーであるM の要素はすべて、その原子の集合 atm(M) の部分集合の和となっている。一般に、ある集合 A が与えられたならば、そ れを原子の全体とする原子的メレオロジーM を作ることができる。このと き、A を「M の原子的ベース」と呼ぶ。 Aを原子的ベースとするメレオロジーを [A] と書けば、つぎが成り立つ。 atm([A]) = A また、M が原子的メレオロジーであるならば [atm(M)] = M である。 日本語の名詞は数によって変化しないから、その指示が累積的(cumulative) であるという特徴をもつ。すなわち、英語では John is a student. Susan is a student.
と言うことは許されないのに対して、日本語では 太郎は生徒である。 花子は生徒である。 よって、太郎と花子は生徒である。 と推論することに何の問題もない。一般に、a と b が、(コンテキスト C にお ける)「生徒」の外延に属しているならば、その和 a + b もまたそこに属して いる。また、「生徒」の外延に属する対象のあいだで、推移性 a≤ b かつ b ≤ c ならば a ≤ c が成り立つことは、たとえば、花子が、花子と太郎の部分で、花子と太郎が、 花子と太郎と次郎の部分であるから、花子は、花子と太郎と次郎の部分であ ると推論できることからわかる。 つまり、「生徒」のような名詞の、コンテキスト C での外延 ∥ 生徒 ∥C は、「部分である」もしくは「一部である」といった関係とあわせてメレオロ ジーを構成する。このことは、つぎのような考察によっても補強されえよう。 名詞「生徒」の意味をホモフォニックな仕方で与えようとするならば、つぎ のような意味論的公理に訴えることになる。 [公理] x は「生徒」の意味論的値である↔ x は生徒である。 この公理は、花子、あるいは、太郎によって満足されるだけでなく、花子と 太郎、あるいは、花子と太郎と次郎などによっても満足される。したがって、 「生徒」の外延には、生徒である個人だけでなく、二人の生徒、三人の生徒、 . . .といった生徒の集団もまた含まれることが帰結する。 量化詞を伴わない日本語の名詞句が意味論的に不確定記述と同等であり、 GQ理論に従って日本語の名詞句もまた量化表現であると考えるならば、そ れは (∅∃kN )k といった形式的表現を与えられることになる。こうした量化表現で始まる式 のコンテキスト C に相対化された真理条件はつぎによって与えられる。 任意の対象列 s について |=C s (∅∃kN )kϕ ↔ s k ≃ s′で s′(k)∈ ∥N∥C である s′について、 |=C s′ ϕ
これに従って、(3) の(いまや実質的に唯一であると判明した)形式的表現 (∅∃1 生徒)1笑った (x1) の C での真理条件を導出してみれば、 (11)∥ 生徒 ∥Cのなかに笑ったものがある となる。 たとえば、コンテキスト C1においては、花子と太郎と次郎が生徒の全部 であるとするならば、この三人を原子的ベースとするメレオロジー [{ 花子, 太郎, 次郎 }] が、C1における「生徒」の外延となる。すなわち、 ∥ 生徒 ∥C1 = [{ 花子, 太郎, 次郎 }] = { 花子, 太郎, 次郎, 花子 + 太郎, 花子 + 次郎, 太郎 + 次郎, 花子 + 太郎 + 次郎 } である。よって、(3) が C1で真となる場合としては、つぎのようなものが ある。 花子が笑った。 太郎が笑った。 次郎が笑った。 花子と太郎が笑った。 花子と次郎が笑った。 太郎と次郎が笑った。 花子と太郎と次郎が笑った。
5
述語としての日本語名詞句
量化詞を伴わない日本語の名詞句が意味論的に不確定記述と同等であると 考えるとしても、GQ 理論に従って—さらにさかのぼればラッセルの記述理 論に従って—それが量化表現でなければならないということは帰結しない。 (3)生徒が笑った が真理条件的に (4)笑った生徒がいたと同値であることが示すように、量化詞を伴わない名詞句は「弱い名詞句」 である。飯田 [2002] で私は、弱い名詞句を述語として扱うことを提案した。 よって、日本語の不確定記述について、この提案を採用することが考えられ る。飯田 [2002] でも述べたように、量化詞を伴わない名詞句は monotone increasingである16 から、(3) のような「N が V」といった形の文の真理条 件はつぎのように与えられる。 「N が V」がコンテキスト C で真である ⇔ ある x について、 x∈ ∥N∥C かつ x∈ ∥VC∥ 名詞句や動詞句の外延のなかには、原子的対象だけでなく複数的対象も含ま れていると考えるのは、もちろんである。こうして、たとえば、 三人の生徒 は、GQ 理論が言うように量化表現であるのではなく、複数的対象について 成り立つ複合的述語—「三人」と「生徒」という二つの述語から成る—とみ なされる。 さらに、複数的対象を導入し、構造化された対象領域を採用することによっ て、「強い名詞句」についても統一的な意味論を与えることが可能のように思 われる。たとえば、 (12)生徒の大部分が笑った あるいは、これと同値である (13)大部分の生徒が笑った という典型的な量化文を考えよう。この文がコンテキスト C で真となる場合 とは、つぎのような(複数的)対象 x が存在する場合である。 (i) xは、C での「生徒」の外延の要素である。 (ii) xを構成する原子の数は、C での「生徒」の外延の原子全体 の数の半分よりも大きい。 (iii) xは、述語「笑った」を満足する。 (ii)については説明が必要かもしれない。前節での C1をここでも用いよう。 そこでの三人の生徒中二人以上が笑えば、(12) と (13) は真であると考えてよ いだろう(本当は、もっと多くの生徒がいる場合を考えた方が自然だろうが、 原理は同じことである)。つまり、(12) および (13) が C1で真であるのは 花子と太郎が笑った。 花子と次郎が笑った。 16飯田 [2002] p.25。
太郎と次郎が笑った。 花子と太郎と次郎が笑った。 のいずれかの場合である。C1での「生徒」の外延の原子の全体は 花子、太郎、次郎 の三個である。よって、C1での「生徒」の外延中、二個以上の原子から成る 要素が (ii) の条件を満足するわけである。 同様に、 (14)すべての生徒が笑った あるいは、これと同値な (15)生徒のすべてが笑った がコンテキスト C で真となるのは、つぎのような対象 x が存在する場合、か つ、その場合に限られる。 (i) xは、C での「生徒」の外延の要素である。 (ii) xを構成する原子の数は、C での「生徒」の外延の原子全体 の数に等しい。 (iii) xは、述語「笑った」を満足する。 ここで条件 (ii) は、もっと簡単に (ii′) xは、C での「生徒」の外延の要素中最大のものである と述べることもできた—そしてその場合、条件 (i) は余計となる。しかし、一 般化という観点からはこの述べ方の方が適切であると思われる。一般に、数 量詞 Q—もはや「量化詞」という名称は適切ではあるまい—と名詞 N から成 る強い名詞句「Q の N」もしくは「N の Q」のコンテキスト C での外延につ いてはつぎが成り立つ。 x∈ ∥Q の N∥C ⇔ x ∈ ∥N∥C かつ R(card(atm(x)), card(atm(∥N∥C))) ここで R は二つの数のあいだに成り立つ何らかの関係であり、数量詞ごとに きまっている。たとえば、「大部分」は 2n > m、「すべて」は n = m、「三 割以上」は 10n≥ 3m といった具合である。また、「card(X)」は X の濃度 を表す。よって、card(atm(x)) は、x を構成する原子の総数である17 。 17「水」や「金」のように、その外延が原子をもたないメレオロジーを構成するような名詞か ら作られる「大部分の水」や「すべての金」といった名詞句にも適用できるためには、数のあい だの関係 R は、量のあいだの関係にまで一般化される必要がある。この点については別稿で論 じる予定である。
「三人」や「多数」といった、弱い名詞句を作る数量詞はそれ自体で、複 数的対象について適用される述語とみなすことができる。それに対して、「す べて」、「大部分」、「半分」のように、強い名詞句を作る数量詞は、複数的対 象に適用される述語である名詞に適用されて、別の名詞—これも同様に複数 的対象に適用される述語である—を作るオペレータとみなせる。 意外なことに、飯田 [2002] で弱い名詞句に関して提案した三通りに分岐し た述定公理が、少なくとも単純な文の範囲では、強い名詞句に関してもその まま成り立つ。その公理をここに再録する18 。 [述定公理] 弱い名詞句 α について、
(i) αが monotone increasing ならば、|=C (αが)ϕ ⇔ ある x に
ついて、x∈ ∥α∥Cかつ x∈ ∥ϕ∥C
(ii) αが monotone decreasing ならば、|=C (αが)ϕ ⇔ すべて の x について、x∈ ∥ϕ∥Cならば x̸∈ ∥α∥C (iii) αが non-monotone ならば、|=C (αが)ϕ ⇔ ある x につ いて、x ∈ ∥α∥C、x ∈ ∥ϕ∥C、かつ、すべての y について 、y∈ ∥⟨α⟩∥C、y ∈ ∥ϕ∥Cならば y≤ x この公理は弱い名詞句に限定して述べられているが、これをそのまま強い名 詞句に適用してもその結果は正しそうである。(12)–(15) はすべて monotone increasingな強い名詞句の例であるが、(i) はこれらの文の正しい真理条件を 与える。 monotone decreasingな強い名詞句の例として、 (16)半分以下の生徒が笑った を考えよう。 「半分以下」の反対である数量詞は「半分より多く」であるとする。すな わち、 半分以下 = 半分より多く そうすると、述定公理の (ii) のケースを (16) に適用すると、(16) が C で真 であるための必要十分条件は (17)すべての x について、x∈ ∥ 笑った ∥Cならば、 x̸∈ ∥ 半分より多く(生徒)∥C 18飯田 [2002] p.26。申し訳ないことに、そこには誤植がまぎれこんでしまっている。(ii) の 場合の「x∈ ∥α∥C」は正しくは、その否定である「x̸∈ ∥α∥C」でなくてはならない。
ところで、 x∈ ∥ 半分より多く(生徒)∥C は x∈ ∥ 生徒 ∥C かつ card(atm(x)) > 1 2card(atm(∥ 生徒 ∥ C)) と同値であるから、(17) が言うことは (18)すべての x について、x∈ ∥ 笑った ∥Cならば、 x∈ ∥ 生徒 ∥Cならば card(atm(x))≤1 2card(atm(∥ 生徒 ∥ C)) つまり、 (19) xが笑った生徒(の集団)であるならば、その数は生徒全体 の数の半分以下である となる。これは (16) の真理条件を正しく伝えている。 non-monotoneな強い名詞句の場合、たとえば、 (20)ちょうど半分の学生が笑った についても、(iii) が正しい真理条件を与えることは容易にたしかめられる。 いま見たのはどれも単純な文の場合であり、もっと複雑な文に関しても同 様の扱いができるかどうかは今後探究されるべき課題である19 が、その結果 としてもしも、強い名詞句もまた弱い名詞句と同様、複数的対象を含む対象 領域で成り立つ一階の述語とみなせるとなれば、それは、GQ 理論とは根本 的にちがう名詞句の理論の可能性を示すものだろう。 19とりわけ興味をひくのは多重量化をどう扱うかという点だろう。たとえば、 (i)すべての先生が生徒を叱った に対して、述定公理をそのまま二回適用して得られる真理条件は (ii)生徒(の集団)を先生の全体が叱った という∃∀ タイプの読みである。だが、(i) の ∀∃ タイプの読みを得る自然な方法がないわけでは ない。それは、集団への述語づけをその構成要素の述語づけに分配するオペレータが (i) 中に埋 め込まれていると考えることである。各名詞句が二項動詞「叱った」のどの項に対応するかを、 格助詞の代わりにインデクスで示した (iii)すべて1先生1生徒2叱った (1, 2) を考えよう(当面の問題には直接関係ないが、こうした書き換えからは、「の」もまた「が」や 「を」と同様インデキシングのための装置にほかならないことがわかる)。ここで「すべての先 生」を分配するオペレータ—「D1」で表す—が位置できる場所はつぎのように二つある。 (a)すべて1先生1生徒2D1叱った (1, 2) (b)すべて1先生1D1(生徒2叱った (1, 2)) (a)は∃∀ タイプの読みを結果し、(b) は ∀∃ タイプの読みを結果する。
文献
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