◎論説特集◎義和団百年と現在
義 和 団 運 動 時 期 に お け る 直 隷 省 の カ ト リ ッ ク 教 徒
M・バスティド・・⁝
パリのフランス外務省公文書館には︑義和団運動時期の
華北におけるカトリック教徒の末端組織が被った損害を記
す詳細な手稿明細書が保存されている︒これらの明細書は
各教会の記録に基づくもので︑それぞれの明細にはカトリッ
ク教徒が居住する村落とその教徒数︑教会︑礼拝所︑学校︑
診療所の数が明記され︑そのほか諸々の情報も記されてい
ム る︒これらの文書は︑現在まで歴史家に利用されてこなかっ
ソたようである︒それらは︑代牧区司教の監督のもとに各教
会を司牧する司祭によって手分けて作成され︑その後︑フ
ランスの国家賠償請求とフランス人被害者損害賠償請求を
管轄する委員会に提出された︒この委員会は︑一九〇一年
一二月六日にフランス国民議会を通過した法令によって設
立されたものである︒ これらの明細書は︑被った損害の程度が︑各教会区︑代
牧区︑宣教会によって大きく異なっていることを示してい
る︒例えば︑イエズス会司牧下の直隷省東南代牧区内では︑
教徒末端組織六四団体︑教徒三九四五名を有する翼州の損
害は三万六〇〇〇吊すなわち五万四〇〇〇フラン︑しかし
教徒末端組織六三団体︑教徒三九〇三名を有する深州の損
害は六万七二三三吊すなわち一〇万五〇〇フランに達して
ハ おり︑倍近くとなっている︒イタリアのフランシスコ会修
道士が司牧する山東北代牧区では︑泰安府の教徒末端組織
ヨ 六九団体のうち三八団体が何等かの被害も被らなかった︒
こういった被害の程度差は事実を反映しており︑代牧区司
教によって故意に誇張あるいは縮小されたものではない︒
なぜならば︑彼らの報告では各々の代牧区内においても被
害の程度差が大きいことがはっきりと示されており︑さら
にその統計報告は各ラザリストが各々個別にフランス駐華
公使に提出したものであって︑他の教会の賠償請求額など
知る術もなかったのである︒また︑宣教師は皆︑その賠償
要求がパリの厳格な審査を受けることをよく了解してもい
たのである︒当時のフランス政府と議会内における︑反カ
トリック教会勢力は厳然たるものであった︒この勢力は新
聞界と輿論に一大キャンペーンを巻き起こした︒布教活動
に際しての賠償請求を︑国家が国家自体と国民のために提
議した賠償請求の中に加えることに反対したのである︒な
ぜならば中国のカトリック教徒は中国の国民だからである︒
条約によれば︑教会の中国国内での財産は教徒の集団的財
産なのであって︑宣教会所有ではなかった︒反対派は︑さ
らに中国に出現した破壊と戦争はすべて宣教師による大規
模な宗教的宣伝に因る悪しき結果であると強調した︒当時︑
共和国と教会間の激しい衝突はフランス国内にはびこって
いたのである︒中国での事件を口実に教会を攻撃できると
いうのは︑反教会派にとってまったく願ってもないことで
あった︒結局︑損害賠償に係わる財政負担はフランス共和
国の納税者に課せられるものであった︒なぜならば︑個人
と私的機関への賠償は速やかに行なわれる必要があり︑こ
れをフランス政府は財政予算の内から捻出しなければなら
ず︑また短期国債によって必要となる資金を調達しなけれ ばならなかったからである︒政府は中国から毎年償還され
る﹁大賠償金﹂をこの国債の元利支払いに当てようとして
いたのであるが︑議員たちは中国政府が実際に賠償金を支
る 払うことができるとはまったく信じてはいなかった︒
カトリック教徒末端組織が被った損害の程度は各々大き
な差があった︒このことについては次の疑問を抱かずには
いられない︒義和団の活動が活発であった地区にあって︑
一部の教徒たちはどうしてまたどのようにして幸運にも難
を免れ得たのだろうか︒本論では冗長になることを避ける
ため︑専ら直隷省正定府代牧区を考察する︒筆者が引用し
たのは書簡や手稿およびフランス公文書館︑外務省所蔵の
未発表資料︑とりわけパリのラザリスト文書である︒これ
らの原資料は︑従来の義和団運動史研究では用いられたこ
とがなかったものである︒筆者は︑これらの資料と台湾所
蔵の清朝政府総理衙門文書中の中国側資料︑すでに発表さ
れている関連中国語資料および関連諸研究の成果とを照ら
し合わせ分析を進めてきた︒しかしながら︑さらなる未見
資料の存在を認めざるを得ず︑諸研究者方のご教授︑ご指
摘を賜ることを希望したい︒
一八九八年末︑ちょうど義和拳が直隷に出現し始めた頃︑
正定府代牧区には三万二二六二名の中国人カトリック教徒
ムら がいた︒この代牧区域の当時の人口は約八〇〇万である︒
つまり教徒数についていえば︑北京よりわずかに少ないも
tz4
ののラザリスト代牧区の中では第二位︑在中国カトリック
教会の代牧区の中では第五位であった︒しかし︑教徒数が
さらに多い広東︑江南代牧区は共にその区域は広大であり
人口密集地区であった︒京漢鉄道と北京︑武漢間を結ぶ電
信線は︑この正定府代牧区を縦貫している︒東から西に向
かって流れる代牧区内の四つの河川は交通に便していた︒
一九〇〇年の義和団事変の間︑北部の保定府代牧区︑東部
と南部の直隷東南代牧区や河間府︑大名府および西部の山
西代牧区では数千の教徒が虐殺され︑また激しい破壊活動
の惨劇が起きている︒しかし︑正定府代牧区ではわずかに
一五〇名の教徒が殺害されただけであり︑しかも﹁大賠償﹂
内への賠償額繰り入れを要求しなかったのである︒この一
見するところ奇異と思われる現象を解釈するために︑まず
この代牧区の構造と教徒末端組織成立後の活動を分析し︑
その後︑キリスト教布教活動と義和団の衝突の過程をみて︑
最後に秩序の回復と動乱が収束した要因をさらに検討する︒
本論の目的は︑この地区の義和団がカトリックおよびカト
リック教徒を敵視したことの真実の性質を明らかにしよう
とするものである︒
交流拒絶から相互交流へ
一八五六年に直隷西代牧区が設立されてから一九〇〇年 初めに義和団運動がこの地区で起こるまでに︑正定府︑定
州︑趙州︑順徳府のカトリック教徒は自衛のために外部と
の交流を拒絶する状態から︑漸次︑その他の住民と相互交
流する状態に変化した︒
e既存の教徒団体
直隷西代牧区の教区は︑一八五六年北京代牧区管区から
分割されたもので︑後に教皇の決裁によって一八五八年に
はラザリストの管轄域となった︒この代牧区は正定府︑順
徳府の両府および定州︑趙州の直隷省下二州の全域を含む
全二八県︑総面積約三万五千平方キロメートルである︒当
時の人口は八〇〇万前後︑そのうちカトリック教徒は一万
二000人であった︒これらの教徒は各村落︑鎮︑都市に
一二二団体ある教徒末端組織中に散在しており︑そのうち
の六〇〇〇人が正定府の教徒末端組織七二団体にそれぞれ
所属し︑他の六〇〇〇人は趙州の教徒末端組織五〇団体に
バ 属していた︒
これら教徒末端組織の歴史は極めて長い︒この地の伝説
りによればマテオ・リッチの頃︑凋尚書といわれる文人︑寧
晋県趙平邸の人が︑キリスト教の教義に魅入られたといわ
れる︒妻や妾が多数いたために入信こそ許されなかったが︑
彼は親しい友人たちに教義を広めた︒これが趙州寧晋県カ
トリック組織の起源であるという︒正定府の一部の村落で
のカトリックへの改宗については明末清初にまで湖ること
ができる︒その他いくつかの教徒末端組織は雍正帝による
反キリスト教の勅令が発せられて後︑北京から一家を挙げ
て逃れてきた教徒たちよって組織されたものであった︒こ
れについては︑趙平郎近くの大里村に避難してきた富とい
う姓の教徒の回想が残っている︒彼はその地に薬屋を開き︑
教えを信じる王家にキリスト教絵画を教授した︒これは彼
ハヨ が北京にいた時にジュゼッペ・カスティリオーネに学んだ
ものである︒王家は近隣の寧晋県唐邸に住んでいた︒王家
の子である王広益と他の二人の娘が描いた多くの作品のす
べては︑一八六〇年にこの代牧区に建てられた教会堂と礼
拝堂の装飾に用いられている︒
これらの教徒末端組織が組織された当初︑そのほとんど
はポルトガル宣教師の援助を受けており北京南堂の管下に
あった︒そのため人々はポルトガル宣教師管下の古参教徒
を﹁南堂教友﹂と称したのである︒後に︑北京司教区が廃
止され︑最後のポルトガル宣教師が正定を離れることになっ
たのだが︑この変化は現地に不満を引き起こし︑そのため
ラザリスト宣教師が長い期間をかけてもこの地域に権威を
樹立することが困難となったのである︒こういったことか
ら︑後にこの地域の教徒が分裂する状態となった︒正定府
のキリスト教組織は代表団をマカオとローマに送り︑ポル
トガル宣教師の召還を要求したのである︒この代表団がヨー ロッパから戻って後︑その団員中の一人である中国人教徒
がマッチの製法技術を習得してきており︑正定府に小さな
工場を開いた︒この人物は一八七七年に死んでいる︒中国
人宣教師の扇動により分裂は九年間つづいた︒こうした中
国人宣教師はフランス宣教師が要求する厳格な宗教規律と
個人手当を三〇銀両にまで減らそうとするやり方に強い不
満を抱いていた︒ポルトガル宣教師の時代には︑資金が充
足していたことから毎年の手当は五〇銀両だったのである︒
分裂は正定府で頻繁に激しい事件を引き起こし︑終に一八
五六年一人の宣教師が数百名の教徒を率いて出奔︑周辺や
り イエズス会管下の直隷東南代牧区に移っている︒
この事件は︑これら教徒は組織だった行動に慣れており
自衛する力と特徴を具えていることを示している︒彼らの
カトリック信仰は保守的で︑最も強調されていたのは先人
の風習を頑なに守ることであった︒彼らがそういった風習
をそのままに保っていたのは︑これによって彼らがその他
の住民に対して特徴と身分に別があることを明らかにしよ
うとしていたということである︒この地の社会には︑こう
いった分離ないし閉鎖的という伝統のほかに︑さらに宗教
活動について内密︑慎重に行なうという習慣があり︑それ
によって当局の注意と禁教令の制裁を避けたのである︒宣
教師は一般には教徒の住居で儀悔を聞き︑ミサを催し︑諸
儀式を行ないながら往来していたのだが︑これらの活動の
夏26