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木場猛夫先生のご逝去を悼む
教育学部長竹内清文
長崎大学教授木場猛夫先生は,昭和59年10月長崎大学医学部附属病院にて,胃癌の手術 を受けられ,予後の経過も良く,あと数二月で5年目を迎えようとしていた昭和63年9月 に,急に腹痛を訴えられて入院,抗癌剤と思われる薬の投与を受け,体力の限界まで病魔 と闘われたのであります。先生の強靭な生命力,医師団の最新の医術を駆使しての治療,
そして最愛の奥様とご家族の懸命な看護の甲斐なく,翌平成元年1月31日,肝不全により 58才という働き盛りといえるお年で,不帰の客となられたのであります。誠に残念であり,
惜しみても余りあるものがあります。
先生がお若いときから目指されたカント研究というライフワークの大成のために,晩年,
病魔に侵された肉体に鞭打ち,死力を尽くして,広島大学に提出された学位論文が認めら れ,昭和60年同大学より,文学博士の学位を受けられました。その成果は,文部省科学研 究費補助金(研究成果公開促進費)の交付により,500ページ余りの大作『カント道徳思想 形成一面批判八一の研究』として風間書房から上梓されております。このように,先生の
カント研究にかけた情熱は,学者としての真骨頂を示すものとして,われわれの鏡とすべ きものと思われます。
先生は,昭和47年に長崎大学に赴任されました。それ以前の社会科は,『哲学・倫理学』
の分野を専攻しようとする学生は大変少なく,一方,戦後の社会科学の趨勢から,「社会学」
の発展が顕著で,われわれの社会科の分野構成において,「社会学」の必要性を感じていた ので,私は向こう見ずに,哲学の教官が退官された機会に,後任には,「社会学」の教官を 公募しては如何,との提案をしたことがありました。そのとき,木場先生は,適切な反論 をされ,社会科教官会議で,私の提案は退けられたのであります。その後,先生の魅力に よって,見違えるほど多くの学生が哲学分野を志向するようになり,様変わりとなったの であります。学問自体が学生を遠ざけたのではなく,学生を吸引せしめたのは,先生の指 導力の成せる技であったと,しみじみと感じたのであります。
先生は,昭和55年,文部省在外研究員として,約1年間,西ドイツのマインツにあるヨ ハネス・グーテンベルク大学にカント研究のため,留学されたのであります。その決定が 教授会で下された時の先生の嬉しさを隠したお顔,帰国後に,留学中の研究はもとより,
ご家族との団簗など楽しかった思い出を,スライドで報告された時のお姿,今も私の瞼に 強く焼き付いております。また,渡独前,学生との合宿研修の時,島原への往復のバスの 車中でも,カセットテープレコーダーのイヤホーンを耳にして,ドイツ語の会話の勉強に 余念がなかった姿も忘れることはできません。
今,木場先生を失って,非常に空しい思いに駆られているのは,私だけではないでしょ う。先生を知る方々は,皆同じ思いと存じます。先日開かれた社会科の教官会議でも,10 名分の椅子が用意された狭い会議室に,一つだけ,主のいない席があることに,大変,寂
しさを覚えたのであります。社会科に,ポッカリと大きな穴が開いた感,ひとしおであり
6 長崎大学教育学部人文学科研究報告 第39号
ました。手術前の先生の美しい張りのある声,無駄な言葉がなく理路整然とした話し方,
大学院設置準備委員長のときの大学院設立にかけた情熱,いずれをとっても,今は悲しい 思い出としか,残らないのであります。記したいことは,数多くありますが,何を述べて
も,徒事になると思うとき,索漠たる思いを禁じ得ません。
まとまらない思い出の一端を述べて参りましたが,最後に,生前のこ遺徳を忍ぶと共に,
その輝かしい業績に高い敬意を払い,先生のご冥福を心からお祈りして,追悼の辞といた
します。