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<教養教育フォーラム>対談:香川大学教養教育への期待-香川大学学術情報リポジトリ

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61 ■教養教育フォーラム

対談:香川大学教養教育への期待

也文

裕雅

瀬墓

相武

教育学部教授 聞 き 手 武重 村瀕先生お忙しい中をありがとうございます。先生は−・般教育のそしでまた香川大学の名物教 授でございました。懐かしいお話ですが、415大教室に−・番似合う先生だったのではと思っており ます。その先生がこの3月に寂しいかな退官されます。そこで『教養教育研究』の一つの試みと して先生との対談をフォーラムの形で記録し、香川大学の教養教育にこんな方がいたのだという ことを残したいと、本日の対談を企画致しました。よろしくお願いします。ところで村瀬先生が 名物教授とは言っても若い先生方の中にはそれをお知りでない方もいらっしやいますので、まず 先生のプロフィール、人となりについて記憶を呼び覚ましていただき、どうしてこのような村瀬 裕也(?)になったのかというお話からお伺いしたいと思います。 村瀬 中学も高校もさぼりっばなしの人間でした。組織や体制、制度等とは折り合いがあまりよくな い個人的性癖を持っている私が、30年間ここに居座ったということは、余程ここが住み心地の良 いところであったと感謝しています。 武重 村瀬先生が大学に入られたのは、確か今でいう大検に近いような制度を通してですよね。 村瀬 大学入学検定試験です。 武重 ヨーロッパにはバカロレアがありますが、先生もそういう経歴をお持ちですね。 村瀬 バカロレアとは違います。 武重 先生はかつて文学青年、演劇青年であったとか。 村瀬 青森の中学の頃から悪仲間と授業をさぼる生活でした。母子家庭で母は仕事に忙しくて息子の ことなどかまっていられなかったようです。ところがある日学校から呼び出されて、母はびっく り仰天したようです。でもそこは親馬鹿で、うちの息子は優秀過ぎるから田舎の学校には合わな いんだと勘違いして、東京の伯父の家に預けられました。 武重 先生は昭和12年、1937年のお生まれで、丁度日中戦争の時代ですね。そうすると、先生の中学 時代は昭和25年頓になりますか。 村瀬 朝鮮戦争が勃発した年です。青森県の三沢は基地の町ですから、その後の反戦思想等にもかな り影響したようです。しかし、その頃は社会科学よりもバケガクの方が好きで、化学の本ばかり 読んでいました。 武重 化学少年∴だったわけですか。 村瀬 そうですね。′J、学校3年生のとき、担任の先生が休んだ日にブルドックとあだ名をつけられて いた校長先生がやって来て化学の実験をしてくれました。二酸化マンガンと塩素酸カリと砂糖を 混ぜ、硫酸を落とすととても綺麗な炎で燃えます。熱と言えば摩擦熱の観念しかなかったもので

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すから、反応が起こってそこから出る熱、もちろん酸素を出すので、あの光は酸素の作用置こよる のですが、その後で化学反応の説明を先生がしてくれました。見えている表面世界の後ろにある カラクリの世界を暴き出すのが化学なんだということで、目から鱗が落ちたわけです。つまり表 面の現れの後ろの真相を掴んだときですが、あの体験ですっかり興奮して、以来化学書を読み続 けました。もっとも田舎ですから/J、さな本屋しかなくて、本の広告をめくっては、おふくろのお 金を失敬して注文をしたものです。それを学校を休んで部屋にこもって読んでました。悪童仲間 とビアホールからビールびんを盗んで、それを売った金で遊び歩いたりもしてたのですが、今坂 り返るとあれも非行の範疇(はんちゅう)に入りますね。(笑)母親は驚いて−僕を東京に出したの ですが、別の意味で東京は面白かったですね。何しろ神田に行くと本屋はいっばいあるし、三省 堂という大きな本屋もありましたから。それに絵が好きだったので上野の展覧会に興奮して、ま たまた学校どころではなくなりました.。 武重 束京の中学校でも学校に行かなかったわけですか。 村瀬 伯父の家に預けられていたものですからそういうわけにはいかなくて。でも学校が進学校だっ たので周囲の人間はみな勉強するわけです。実際のところえらい学校に入ったなと思いましたね。 伯父の家では応接室を私の部屋にしてくれましたが、そこの書棚にドストエフスキーやツルグー ネフ、島崎藤村等が置いてあり、今度はそれに病み付きになり、化学少年から急速に文学少年に なりました。学校から帰るとそれらの本を読みあさる暮らしの連続線上で高校に行ったので、入 学するとまた例の癖が出てきました。つまり時間を区切られるのが苦手なんですね。一・冊の書物 を読み始めるとどうしても最後まで読み通したいわけです。そうしないと気が済まないわけです。 一・番最初にその癖がついたのはスタンダールの『赤と黒』で、とにかくそれが終わるまで結局学 校は遠慮して‥‥・り(笑)。高校に入ったばかりのとき、新聞部の原稿募集の広告を見て、野間宏の 短編について書いて投稿した原稿が掲載されたんです。それを読んだ先生から、文学の仲間の集 まりに参加しないかと声をかけられました。また松川事件被告救済活動に参加したのがきっかけ で、安部公房、真鍋呉夫、針生−・郎らのグルー・プ「現在の会」に入れてもらいました。前衛系統 の芸術家の団体です。そんなところの会議に行くと世界を背負ったような話ばかりで、高尚な気 分になるわけです。ところが高校に行くとまるでガキ扱いですから、結局のところ学校が面白く ないわけです。で学校がどうでもよくなってしまって、作家として早く世に出たいと思ったもの です。もちろん受験勉強も手をつける気がしませんでした。でも癖なんですね、理屈っぽくて、 段々哲学の方に興味が移っていきましたが、哲学では飯が喰えません。大学等の正規の機関に身 を置かなければ生計がたたないので、検定試験を受けたわけです。 武重 作家志望はそこで諦めたわけですか。 村瀬 哲学でなきやあ駄目だと思いましたね。 武重 そして大学に入られましたが、上智大学でしたね。 村瀬 検定試験は通ったものの、相変わらず受験勉強はやる気がなくて、偶々通りがかりで見つけた 上智大学に入りました。当時はあまり知られた大学ではなく、授業料も安くて国立と殆ど変わら なかったように思います。おそらくヨーロッパ辺りの宗教関係者からの寄付で賄っていたのでは ないでしょうか。四谷のあの場所で、今のようなコンクリートの建物もなく、ヨーロッパの中世 時代のいかにもアカデミーという雰囲気だったですよ。

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対談:香川大学教養教育への期待 63 武重 入ったのは文学部哲学科ですか。 村瀬 ええ、ドイツ哲学科です。哲学にはもうひとつラテン哲学科というのがあり、これは神学の方 でした。イエズス会がバックですか ら。 武重 ドイツ哲学は神学ではないわけですね。 村瀬 それは関係ないですね。上智に入って良かったのはドイツ語がしっかりやれたことです。 武重 上智は教養の語学教育が熱心なのでは。 村瀬 ドイツ人の先生は日本語ができますが、訓読、いわゆる訳読の方が厳しかった.ので、大学院の 受験のときには語学の心配はまったくありませんでした。でも会話は駄目なんですよ、僕の場合は。 武重 大学院は京都に行かれましたが、すぐに受かったのですか。 村瀬 ええそうですが、でもその間に失敗がありました。1単位足りなくて、1年間はもぐりでした ね。みんなは京大の院生がひとり入ってきたと思ったらしいのですが。試験でどうこうというよ りも当然入れるという前提だったのでしょう。昔はその程度のものを学生は書きますから。 武重 じやあ学部は結局5年間ですか。 村瀬 いえ1年間は京都大学です。 武重 精神的にはですね。(笑) 村瀬 そこが厚かましいところで、全然違和感がなかったんですね。正式の院生と漢文の解釈で論争 したり。 武重 先生の書かれた本にも出てきますが、生きられた時間や生きられる空間のようなものと制度と して−の学校は対立しますよね。学校は大量に色々な人を教育す−る場ですから、時間にも空間にも 規制がありますが、先生はこれが苦手なわけですね。 村瀬 合わないんですね。ただ、そうは言っても大学の講義にはいいこともありました。霜山徳爾先 生、知ってますか。フランクルの『夜と霧』を翻訳した。 武重 読みました。学生時代に。 村瀬 彼の授業は本格的なアカデミズムでしたね。実存分析の立場の人でしたが、自分の扱っている 臨床例等を紹介して、完全な学問をやってくれました。あれを聞かないとああいう接点はなかっ たので、僕は今でも比較的よく心理学を利用します。 武重 たしかによく出てきますね。ピアジェから始まってコールバーグ等々。 村瀬 火をつけるきっかけを与えられるのには非常に効果的でしたね。 武重 先生のご専門は中国哲学、倫理学ですが、先生が中国哲学をやろうと思われたのは京都に行っ てからですか。 村瀬 ドイツ哲学が専門でしたが、平行して無窮会東洋文化研究所に通いました。上智時代から中国 哲学もやってたんですよ。今どきの学生を見ていて甘いなと思えるのは、当時の私はドイツ語の 本を読み、漢文を読んでいましたから、根性という言葉は好きではありませんが、相当苦学力行 しました。 武重 面白いところがあったからできたんでしょうね。 村瀬 上智大学に限りませんが、日本の哲学界はあまりにもヨーロッパ中心主義で、それに反発しま した。全人類を視野に入れなければならないとすれば当然、どの文化にも対等な権利を認める必 要があるという思いがありました。僕は体系を目指すけれども、材料としてはヨーロッパも中国

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も日本も、可能な限りヨー・ロツパ中心ではない視野をと考えたわけです。だから、ヘーゲルを止 めて卒論を中国哲学に切り換えられたわけです。 武重 京大の中哲を出られましたが、それからは……・。 村瀬 博士課程から教育学研究科に移りましたが、そこでは殆どが大学紛争に振りまわされました。教 育学の研究活動をしないまま、こちらに就職しました。 武重 こちらへは何年に。 村瀬 70年の4月です。大学紛争が少し下火になった頃です。 武重 以後30年間ずっと香川大学におられたわ8ナですね。 村瀬 僕は戦後民主主義の理念に忠実なのですよ。各地域に大学があるということは、文化の中央集 権性を打破するという−・面を持っていると思い、骨を埋めるつもりでこちらに来ました。移るな んて気持ちは最初からなかったですね。とにかく世界に輝ける仕事をして、地方大学にあって、中 央の方から来てくれといっても蹴っ飛ばしてやろうと、そんな気持ちだったのだけれど……。 武重 僕がここに来たのは先生の12年後ですが、先生はいつも難しい話をされており、いかにも哲学 者然とされてました。先生も僕も煙草を吸いますが、先生は絶対にポイ捨てはしなかったですね。 電車の中でも煙草を吸われてましたが、ポイ捨をしたのを見たことがありませんでしたね。それ がとても印象的で先生はやっばり倫理学者なんだと思ったものです。丁度その頃に戴廣(「戴廣の 哲学」)の話で香川大学教育学部の論集に報告を連載されていました。それを大著としてまとめら れましたのですよね。 村瀬 これは不幸な運命の本なんです。書名は知られて−いますが、僕は哲学に対↓てものを言うつも りだったのですが、哲学をやっている人はヨーロッパのことしか哲学だと思っていないものです から、これも単なる中国哲学史の本だと受け止められてしまいました。しかし他方ヨーLロツパ近 代哲学のタームで構成しているので、今度は中国学者が付き合ってくれないわけです。その点、哲 学家として−・括して扱う中国辺りでは受けがよくて、中国語訳はよく売れ、版を重ねています。 武重 その点は−・賞していますね。いわゆる中哲の専門家ではなく、一・哲学者が中国哲学を研究する ということですね。ですから、使うタームも洗練されたヨーロッパ系のタームになっている。 村瀕 洗練はともかくとして、まあそういうことです。ですから日本の中国学者からあまり歓迎して もらえないわけです。 武重 僕が先生と出会ったのは82年のことですが、その後も何冊か本を出されました。それから教科 書的な本も何冊か出されておりますね。 村瀬『有子の世界』と『人間と道徳』ですね。 武重 −・般教育部で先生とお会いする度にいつも論陣を張られており、滑々と教養の理念について触 れられていたのをよく覚えておりますが、一・般教育部における村瀬先生の活動と言うと先生は何 を思い出されますか。 村瀬 こちらに来た当初、一・般教育を受け持つことは判っていましたが、『一・般教育計画要綱試案』の 分担執筆をさせられました。一・般教育部になる寸前のことです。 司会 カリキュラムですか。 村瀬 教養教育、−・般教育の位置づけですね。それとカリキュラム等です。 武重 その重要な部分を先生が執筆されたわけですか。

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対儀:香川大学教養教育への期待 65 村瀬 いえ、分担執筆でしたが、赴任直後のことで講義ノートすらまだ書いてなくて、いきなりの作 業でした。70年のことですが、音頭をとっていたのは堀地先生でした。でも哲学をやっていたお 蔭で何とか合格点をもらいました。 武重 凄いですね。一・般教育部の最初の理念づくりに参加しているわけですね。アメリカ風に言うと フアンディング・ファザーズ、−・般教育部創設の父のお一人ですね。 村瀬 堀地先生と一部合わなかった点は、先生はこの大学に献身するのであれば教育が中心だという お考えでしたが、大学は学問が中心のところという観念が僕にはありましたし、大体ガキの頃か ら哲学をやりたくて来ているものを、ここになって止めろというのは納得できませんでしたね。 もっとも止めろとは言われませんでしたが。 武重 丁度僕が来たばかりのときですが、総合科目の運営委員会で堀地先生と村瀬先生もおられ、堀 地先生は“村瀬君はいづまで経っても研究、研究と言って、教育や組織の問題は全然考えてくれ ないからな”とおっしやっていたのを覚えています。 村瀬 そんなこともありましたか。 武重 そういう村瀬先生も堀地先生が辞められる頃、『戴震の哲学』を上梓された後になって、『一・般 教育研究』を中心に教養問題についての論文を随分と善かれておられます。できるだけ雑務は避 けたかったと言われた先生が、なぜこんなに沢山のものを書かれることになったのでしょうか。 村瀬 雑務として位置づけるのではなく、−…つの学問の仕事だと位置づけました。同僚と−・緒にやっ たものもあります。たとえば「ヒュ、−マニゼーションの学問性」は、共同研究の−・部です。でも 書くものについては、そこから外しても他の論文として通用するような書き方に心がけました。自 らを潰さないで協力をするというわけです。僕のことを、人によっては謀略家だと評しているよ うです。 武重 謀略家ということはないでしょうが、ご自分のスタイルを一・賞して持ち続けられたことは間違 いないですね。 村瀬 スタイルだけなら僕はガキの頃から一・賢してましたね。それで生きてこられたのかもしれませ ん。好きなことしかしないという我が健がありました。 武重 周囲の人や−・般社会に認められながら自分を通す一には相当に高等なテクニックが必要ですね。 村瀬 でも我が値を周囲に認めさせるにはある程度自分の力量を上げておかなければならないでしょう。 武重 長島茂雄が実は一・生懸命練習をしていたというようなものですね。見せてはいけないわけです。 表向きには何もしていないように見えますが、実は水面下では一・生懸命にかいておられるわけで すから。これが村瀬流の生き方ですね。 村瀬 高校時代に安部公房等と接点がありましたが、例の50年間題などに接して、どっぷり浸かって しまうと、結局後になって馬鹿を見る人たちを多く見て来ました。毛沢東がまだ信じられてい た 頃、毛沢東、毛沢東と言っていた人は後で自己反省しなければならなくなりました。まだソ連は ある程度美化されていましたが、それに同調した人も後で自己反省しなければなりませんでした。 そういう馬鹿な付き合い方はするまいというのがあの頃から身についています。世の動きにそっ ぽを向いたりノンポリを決め込んだりするのは問題だけれども、ある種の間接構造を持ちながら 生きるというのもーつの知恵だ、ぐらいのことは書いていただいてもいいでしょう。これは−・種 の教養だと思いますから。

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武重 僕流の表現をするとしたたかさですね。ある程度同調し、同化しながら、違うところで異化す るというわけです。そうして自分のスタンスをずっと保つということは、やはりしたたかであっ たということでしょう。ところで先生が善かれた教養関連の業績がかなりありますので、それに ついてお話をお聞かせください。僕が調べたところによりますと1981年に『教養教育研究』の前 身の『香川大学一・般教育研究』という雑誌に「ブレヒトのガリレイ俊一教養について−」と いうのを善かれておられますが、これは非常に酒落た文章で、語り言葉で書かれたものです。な ぜこのような形態をとられたのでしょうか。 村瀬 その年の授業で使ったものです。つまりある程度総合ということを考えて、プロゼミ、一つの プロゼミではなくて、プロゼミは参加が重要ですから、討議したり考えたりを複数の視点から総 合するということで、近藤さんとタイアップしたものです。近藤さんがガリレイの科学理論、そ して−僕が幾らかガリレイに関係のある文学の方のブレヒトを担当しました。両方とも主題には共 通性がありますが、−・方は文学でもうーカは科学だと。その辺りをある程度複眼化しながら、専 門主義とは別の教養的視点を打ち出そうというのが最初の計画でした。そして最後のときに二っ のグループを併せて講義をしたもので、その講義のテープを起こしたものですから語り口諷になっ ているわけです。 武重 ここではブレヒトの異化作用を取り上げていますね。アリストテレスの伝統的な演劇理論、つ まりカタルシスの理論では、悲劇がその−・番のパターンですが、それに対して通常、異化は逆で すからコメディや笑いを起こさせるメカニズムでもあります。 村瀬 敢えて解釈すればアリストファーネスなんかは異化的な要素を持っているかもしれませんが、け れどもコメディと言うとどうかと思います。これは知的な作業だと僕は思っていますから。日常 的なもの、我々が馴染んでいるものを変形して、これはおかしいのではという知的な関心を呼び 起こすという作業で、−・種の批判的な意識作業だと思っているんです。たとえば、エイゼンシ.ユ タインの「モンタージ、ユ理論」とか、中井正一・の映画論での「カットの文法」「コプラなき思想」 も同様で、画面と画面の切れ目に観客に対する問いかけがあるというものです。そうすると観客 は向こうから一方的に影響を受けるのではなくて\そこから自分の歴史的な意識を呼び起こされ、 自分も歴史の主体となるような関係を取り結ぶというものです。このような批判的な精神を一応、 教養的精神と設定して、そしてその異化効果の理論をそこに組み込んで、ついでに演劇も面白がっ てもらおうという授業構成だったわけです。 武重 お話を聞いて非常に興味深い授業だと思いました。いつだったか雑談の席で先生に「ブレヒト 論」を聞いたことがありましたが、このような形の授業の報告であったとは知りませんでした。近 藤先生、つまり現学長と共同授業を行い、二つの全くミスマッチなものをぶつけ合うことによっ て、批判的精神を呼び起とそうという意図をもっていたわけですか。そうすると、これは総合化 することにも関わってきますね。 村瀬 そういう意識がありました。できれば色々な演習科目が共同の場で発表会でもするような総合 性が成り立てばと願っていましたし、そういう考えでしたが、実践力不足に終わってしまいました。 武重 このような授業には教師側にも大変な努力とエネルギーが求められますね。では続いて、『−・般 教育研究』に先生が登場するのは1987年です。少し時間が空きますね。 村瀬 静かにしてましたかね。

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対談:香川大学教養教育への期待 67 武重 そこで発表されたのが「ヒュ.−マニゼーションの学問性」です。僕が読ませていただいた先生 の論文の中では−・番の力作だと思っているのですが、ここでは教養問題の学問化、人間化が強調 されていますね。そして人間回復を学問、ことに教養のなかの学問性に求められています−。 村瀬 教養教育というものを教育の問題としでだけ捉える人がいますが、僕はそれを学問の問題とし て取り上げたかったんです。しかし、教養に供される学問というと、専門の先端的な研究の単な る岨囁と言いますか、大衆化とか入門とかの性質のものがほとんどです。そうではなく自分のやっ ている学問や研究が再度反省された、新しい反省段階、新しい意味を獲得した段階として組織化 されなければいけない。それがどうしても人間の実現という課題と結びついている以上、再学問 化するという作業はやはり人間化の作業なのだというのがその論文の主旨です。 武重 難しい論文ですが 、とっかかりはフェニックスの意味論ですよね。フェニックスの本は『意味 の領域一一・般教育の考察−』ですが、これにも歴史性があり、読んでいて『−・般教育研究』 を回顧するときには触れておかなければと思いました。この本は当時教育学部におられた笹本先 生が紹介論文を書かれたわけですか。 村瀬 そうです。『−・般教育研究』創刊号に書いてくれました。(笹本正樹「一・般教育カリキ、ユ.ラムの ための哲学:フィリップ・H・フェニックス『意味の領域』について」『−・般教育研究』創刊号、 1971年)ただそのときはまだ翻訳がなかった頃で、それが日本で−・番最初の紹介です。 武重 意味論はもとを辿れば言語学の話になりますね。 村瀬 ただ、その場合の意味はたとえば、語や文の意味という場合の意味ですね。リチャー ドとオー デンの『意味の意味』という本がありますが、意味の使い方は、個人によって違うほど多様だと 善かれてます。言語意味論は一つの大きな系譜ですが、そこからはみ出した、いわゆる価値とい う言葉と等値できるような意味の用法もあります。僕自身は言語意味論から抜け出させておいた 方がよいと思い、フェニックスを使いました。人生の意味というような場合の意味です。これを どう解釈するのかということが問題ですが、僕は少々無理して、−・般に価値と言われるもののう ちでとくに人間性のイデーとの関係づけで課題性が自覚されたような価値、それをこの場合の意 味としたわけです。 武重 そうしてと、ユー・マニゼーションという言葉を使わざるを得なくなってくるわけですね。 村瀬 価値論の側面から主として−考え、学問を人間の価値実現という課題との関係で意味回復させる というところに教養的な学問性が成立するという主旨です。 武重 たしかに、学生たちの様子を見ても、教養を受けて何の意味があるのだと彼らはよく言います。 彼らの意味は、何の役に立つのか、あるいは何に機能するのかというのがほとんどですね。それ も短期的な役立ちであったり機能です。これは大人に関しても大同/ト異で、人生規模の意味とい う発想にはめったに出会いません。 村瀬 彼らがそう思うには仕方のない側面もあって、1960年ですか、国民所得倍増計画の第3章に人 的能力開発論があり、そこで戦後の教育理念を抜本的に変質させましたね。そして人間の評価は 役立ちの価値に置かれましたよね。何か役立ちの価値と結びつかないと価値とか意味とか言われ ないような風潮が段々出来上がって来た面もあると思います。そこから人間としての人間を奪還 するというのも教養の一・面だと思います。 武重 それは非常に大事なことです。逆に言うと専門教育自体が何の役にたつのか、どういう意味が

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あるのかという発想でとられると、専門教育自体が何かの職業につくためのもの、そういう目的 を持った学習であり研究になってしまいます。 村瀬 つまり、何らかの形で目的からの自由と受け止めた方がいいかと思いますが、そういった領域 を私ども人間は確保しておかなければなりません。役立ちのための道具で一・生をみすみす終わっ てしまうというのは人間性の理念からも大いに問題です。 武重 この「ヒューマニゼーションの学問性」についてもう一・つ興味深いのは、この論文が掲載され たのが『−・般教育研究』の「FD」の特集号だったことです。ファカルティデベロップメントと いう言葉は、今でこそ−・般化していますが、当時は非常に新しいものでした。そしてこの特集号 では、いかに巧く効率よく教えるかという観念、つまり単純な教授法の問題ではなく、ファカル テイ、つまり教授団自体がいかに−・賞した姿勢を持って学生の教育に当たれるかという問題発想 が打ち出されていました。そこで先生はテーマを少しずらして、FDとは言わずにヒューマニゼー ションとおっしやっているわけです。 村瀬 教育自体が教授スキルだけにとらわれて、いわゆるポピコ・ラリゼーションだけに終わるのでは 面白くありません。教育自体をヒューマナイズされた、面白みのある、色艶豊かな文化世界とし て再学問化することがFDの基本条件だという気持ちがあったのだと思います。 武重 そして、次に書かれたのが「教養としての総合」です。これも『−・般教育研究』の「総合」特 集号ですね。 村瀬 これは全国的に総合科目が問題になっていたときと呼応してのことですね。これもやはり流産 という悲しい運命のように僕は思っています。ハーグァードのコアカリキニ乙ラムがそうですが、総 合というのはカリキュラム全体の総合ということでしょう。日本の場合は燻小化されて、ひとり 当たり1時間∼2時間の講義を複数の先生が担当するのを総合と称していたわけですよね。それ を何とか克服して本当の意味での総合性が成立しないかと願って書いたのたですが、だから僕が ここで書いている総合は1総合科目の問題ではなく科目連携の問題です。それが後に主題別とい う発想に繋がる性質のものであったと思います−。 武重 今の発想は「ブレヒトのガリレイ像」の頃からの−・賞し■た.視点ですね。 村瀬 人間としての主題は統一・的であると。そうですね、最初にこのインテグレートコー・スというの が構想されたのは1951年のことです。要するに8単位とか12単位とかですが、やはりある種のス ケールを持ったものを当初は考えていたと思います。やはりこの帰結も日本的燻小化ですね。 武重 日本的かどうかは判りませんが、結局旧来の人文・社会・自然の3系列がありましたが、それ とは別のカテゴリー、総合としてたてようという、その程度の実験でしたね。 村瀬 そうです。この時期総合科目が全国的に問題になった頃ですが、広島大学の式部さんがハー グァードの例を紹介していましたが、これはカリキコ.ラムレベルでの総合という発想でした。 武重 このハーグァード方式も勉強されて、この後主題科目を新しく立ち上げるときに先生の理念が 反映されていくわけですが、先生の頭の中には旧来の総合科目以来、日本的燥小化を−・度もとの 形に戻し、主題科目という形で発展的に解消しなければならないということがあったんですね。 村瀬 そうでしたね。「教養としての総合」の中では主題として−4項目をあげました。 武重 この論文における先生の主張の中心かと思いますが、総合とはどういうテーマを設定するのか というときに、その4項目がでてきます。まず①歴史的中心問題。これは人類史と関わって重要

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対談:香川大学教養教育への期待 69 な歴史的問題を扱わなければいけない。②学生を能動的に参加するという形態を提示いなければ ならない。つづいて③異化効果。複数の視点を最終的には異化する。最後に④教養としての総合 における文化・芸術の役割です。ここでの異化とは、もちろん学生が異化することですよね。 村瀬 異化効果を上げるために、つまり相手が異化するた捌こ当たり前と受け止めている現実を教師 が変形して見せるということです。 武重 もし異化できなければ学生はさっばり判らなかったことになりますね。 村瀬 そうですね。でも自己中心になると困りますが、そういう意味ではなくて、自立することです。 武重 学生さんたちを見ていて思うのですが、あまりに自明性にとらわれて、それが退屈であるとい うことを嫌になるほど知りながら、そこにいることの安住さと、いうことで安心しているような気 がしてなりません。ということで、僕自身も教養教育はまず最初に揺るがさなければいけないと 思っています。 村瀬 ある意味では異化は揺るがす性質ですね。 武重 それから、先生らしいなと思うのは、教養としての総合ということを考えると文化芸術が重要 だという主張です。 村瀬 どう思われますか。(笑) 武重 なぜ芸術でなければいけないのかですね。 村瀬 −…つはツヴェックフライ(zweckfrei)、目的からの開放です。シラーは人間の特権や身分的拘 束等の爽雑物から人間を切り離すときに、美しき仮象にたわむれる世界が必要だと言っています。 だからギリシャでの格闘技も真剣に相手を打ちのめすという実際的な目的を追求するのであれば とんでもないことになります。そうではなくてお互いの技を競い合うという遊戯なので、追求さ れているのは技や力、いわゆる自己達成価値そのものの追求です。そういうことを目的拘束性か ら切り離して陶冶しておく必要があります。陶冶するだけではなく、生活の−・要素としてそれを 組み込むような知恵をこれからの日本人は持っておくべきだということが一つです。それからも う一つは、芸術の美的な領域は一・番人と抗争し合う場面から切り離される性質、それから実利の ために打算を働かせるような功利的な心情から解放される性質をもっているということです。 武重 心理学風の言葉で言い換えると、たとえばフロイトの議論では自我発達の一∴面は自己防衛、自 我を防衛するための様々な手練手管、防衛のメカニズムを発達させることです。ところが、防衛 ばかりしていると非常に息苦しくなります。−・度それを解放してやるという側面が必要です。フ ロイトは解放してやる側面というのをあまり議論していませんでしたが、晩年になるとそれを議 論し始めました。 村瀬 解放するというのはやはり芸術の一つの役割ですね。 武重 確かに芸術体験やある種の宗教体験、至高体験といえるものは、防衛的な自我を解放していく 大きな契機になるのだと思います。そしてただ単に解放するというとストレスが解消したという レベルで終わりますが、実は長期的に人生の中においてもう一・度内省してみると、今まで経験し たことのない、新しいものをきっと獲得していて、これは一つメタのもう一度自分を振り返る契 機になる。ただ、目的自由というならどちらかと言うと遊びの領域の方が、経験しやすいし分か りやすいのではないでしょうか。少々手前味噌ですが、先生も近年はこの問題にも触れておられ ます。1991年の『−・般教育研究』では「ヘルマンヘッセの『ガラス玉遊戯』における総合理念の

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性格」を発表されました。そこでは、美意識とともに遊戯衝動についても触れられ、理性と感性 の分裂を止揚する重要なものと指摘されています。この論文で先生が『ガラス玉遊戯』を使って とくに言いたかったことは端的に言うとどういうことでしょうか。 村瀬 やはり目的自由の処理ですね。トーマス・マンが言っているように、ドイツの精神世界は二っ に分裂してしまった。一方は教養主義で、音楽や美術、文学が現実問題と離れた地平で追求され たということです。そうすると一方にはえげつない現実主義だけが残されます−。つまり現実性の 方は全く高い価値の媒介なしに進行して、ここでは利潤の追求から殺戟に至るまで現実性が突っ 走り、精神世界の方は現実に無責任になってしまう。ヘッセの場合は現実があまりにもえげつな く突っ走り過ぎた方にひっかかっているわけですよね。時代が時代ですから。だから精神世界を 何とか守ろうとした。そういう世界を人工的に造ることで精神的な部分を守ろうとした。それは それとして目的自由の世界として見るに値する。しかし現実から切り離されると、逆に精神世界 も無意味化していく。活動する現実場面に精神的なものが回復されなければいけない。政治問題 等の現実の問題にかかわる活動の中に精神的なものが媒介されているのが教養的な世界であると。 そして教養教育にも、一・方では人類に普遍的な平和、環境、歴史などの現実的な主題を考えてお かねばならないし、他方では総合化に資する芸術、スポーツなども重要㌧だということになります。 武重 今お聞きしていて、もしかしたら僕も先生に少しは影響を与えたのかなと思うのは、今まで芸 術の話をされていた先生がスポーツもここに入れておられるんですよね。 村瀬 そうかも知れませんが、教養教育を担当する人間が、いくらスポーツ音痴といっても現実的な 構想ですから、スポーツも自己達成価値をそのものとして追求する一つのあり方として、当然教 養教育の中で芸術と対等な位置を持つでしよう。ただ自分の運動神経とはまた別問題です。 武重 先生が県民プールで一・生懸命に泳いでいる姿をお見かけしたことがあります。 村瀬 僕がやると遊びではなく、どうも修行になってしまうんですがね。 武重 面白くないですか。 村瀬 いや、軽く進み出すと、中井正一・のスポーツ体験ではありませんが、苦しい中にスッと抜ける という、そんな気分にはなります。でも僕の場合はそれ以上に水泳を終えた後のビールがいいわ けです。(笑) 武重 最後のビールは同感です。ところで先生はその後に香川大学が教養教育システムに変わり、『香 川大学教養教育研究』という雑誌が初めて出た創刊号に「教養教育の復権のために」を書かれて おりますが、この論文ではまず日本の教養教育史に始まり、そこでなくしていったものとか、日 本的教養教育の駄目なところを歴史社会学や教育史の立場から善かれた文献を参考にされながら 議論されていますが、とくにこの論文で先生がもの申したかったのは。 村瀬 筒井さんも渡辺さんも触れていますが、日本の場合はどうしても修養主義と教養主義が対立関 係にあって、教養主義は旧制高校を中心としたエリート文化としてだけ残っていて、修養主義の 方が一・般の人々を支配したと。こちらの修養論の方には教養という概念が入ってこなかった。教 養の方は勢いエリート化して大衆化しなかった。 そういう一・つの不幸があったと思います。戦後 になると教養主義的議論の対抗としてアメリカ型のいわゆるジェネラル・エディケーションの概 念が入ってきました。アメリカ型市民教育ですが、こちらの方はかなり生活至上主義的な一面を 持っていたと思います。民主主義の形成には役に立った面もありますが、その観点から教養主義

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対談:香川大学教養教育への期待 71 に対しては攻撃の矛先が向けられたわ8ナです。しかし教養主義の持っていたものにも非常にいい 面があったということを再確認したかったわけです。 武重 目的自由に気付いている生き方と、非常にクリティカルなスピリットを持っているものの見方 というものは戦前の教養教育の中にもあったわけですか。 村瀬 ありましたが、そうでなかった面もあります。単に趣味的なものに逃避した.り、ディレッタン ト的な−・面を持ったりした面もありましたが、良質な教養がないわ8ナではなかったと思います。マ ルクス主義でさえ教養主義の土台から出てきたのですし、戦争に反対した文化人の多くも、教養 主義には反対していましたが、人一・倍それを体得していた人たちでした。そうした教養が単なる ジェネラルエディケーションで解消していいのかとなると問題があります。とくに市民教育といっ た場合、市民として賢く生きるという側面が強いですよね。が同時に人生は高尚に崇高に生きら れなければならないわけです。やはり美しく価値をもって生きられなければなりません。そうい うところに日本の修養主義を中心とした質実剛健精神が浸食してきたわけです。そして今また、市 場原理や競争原理等、実利主義的な質実剛健精神の方がアンバランスに闊歩し始めています。そ れらに対する制御装置はどうしても必要だと思います。そこにはやはり叫つの文化精神、人間性 のイデーと接点を持った文化的な人間の実現の精神が関与しなければなりません。それからもう 一つ、僕流の言葉で言えば、人類の歴史全体を人間の人間化活動の過程、つまり人類の教養史と して把える視点から見たときに、教養主義の生かすべき領分があるだろうということです−。 武重 先生はそうした精神のもと、主題科目を立ち上げるときにも活躍されました。今回先生が出さ れたものを読んで気づいたのです∵が、『教養とと,ユーマニ ズム』のある章に善かれている文章と、 『香川大学教養教育就学案内』に善かれているある主題科目の説明の文章は極めて類似しています ね。オーケストラの比喩、専門と教養の二つが有機的に連関しているということをオーケストラ の中の一・演者と対此させて語っておられる箇所です。(笑)きっと修学案内も先生の作だと思いま すが、教養教育も今大きな変革期を迎えています。現在の教養教育の中には守らなければならな いものもありますし、新しく造っていかなければならないものもあると思われますが、先生が去っ て行かれる遺言状としてこれは香川大学の教養教育に期待したいということをぜひお伺いしたい のですが。 村瀬 まず第一・は、今は学生対策ということで教育が非常に重視されています。もちろん我々は教養 教育ですから、教育の問題でもありますが、その前に学問ということが忘れられては困ると思い ます。もちろん学生の実情を考慮しないでやるわけにはいきませんが、考慮するということが質 を下げるということと対になっては困るわけです。工夫はす−るけれども、そこには先程のと、ユー マニゼーションの中でも言ったように、絶えず学問を再挙開化するという高度な知的操作が含ま れていなければいけない。その大学的な営みがなくなっては困ります。単なる職業訓練になった り、あるいは学生対策的な方向、対症療法的な方向にだけ傾いては困るというのが−・つです。そ れから学生の状況が問題になっているとは言っても、学生は−・律には扱えません。色々な学生が いますから。その中には少数ですが大学生らしい学生もいます。そちらの方を忘れては困ると思 います。大学ということを忘れないで欲しい思います。ただ大学入学前の教育に問題があって.、そ こから学力の低下やモラルの低下等の問題状況が発生しているわけですが、だからといって大学 がその尻拭いにだけ追われるのは問題です。やはり大学は大学であって欲しい。それから、やは

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り基本になる科学の自己反省としてのメタ科学と、現代的な問題というふうに倭′J、化されない歴 史的中心問題、人類の歴史を貫く問題……‥。 武重 生・命や環境、平和等ですね。 村瀬 そうです。それらを中心に据えなければならない。それから役立ちの価値からある程度解放さ れた、ツヴェックフライでいいのですが、人間の自己達成価値の追求の場も確保して欲しいと思 います−。それは芸術でありスポーツであるわけですが、ブレヒトが指摘したように、学問と芸術 を分断し、芸術はアミユーザントで、学問は面白くはないが真理だという分け方は困るわけです。 学問もアミ,ユーザントでなければいけないし、芸術にも知的認識が貫かれなければならない。学 問は楽しいものだというような色彩を持った学問の建設が必要です。それとやはり古典を重んじ て欲しいと思います。古典は人類の教養史の証験であり、不朽の価値を持ったものです。それを マスターしながら次に歩んでいって欲しいわけです。 武重 これらは主題というような形式のもとで行われていく科目として考えておられるものですか。 村瀬 主題に入れようと思いましたが、現状、とくに担い手とマッチしない面もあってその通りには なりませんでした。これは共通科目でも演習科目でもいいですから、そうした精神を生かしてい くということです。 武重 必ずそういう授業科目をどこかに入れてということですね。 村瀬 そうですし、そうではない授業科目でもやはり大学的雰囲一気は決して失わないで欲しいですね。 自分たちの直接の利害にとらわれないで人類の知恵を生み出すような、大きなものに対して責任 を負うような非実利的な精神ですね。僕はよく引用しますが、室鳩巣が“灯台もと暗し”はいい 意味なんだと言ってるんです。もとを照らすのは今日のことはよく見えるけれども遠くは見えな いということだからと。今日起こっているごたごたは巨視的視野に立てばあまり意味がないこと かもしれません。IT革命などと騒いでいますが、あれも人類の生活全体からすれば単なる部分 的な技術のことにすぎないかも知れない。本当は人間の実現という大きな生活の中にもうー・度位 置を取り戻さなければならない。そうだとするともとは暗くても先が見えるという視線こそ大学 では必要だろうと思います。 武重 ありがとうございました。 (後 記) 今回の教養教育フォーラムという形態は、旧来あまりないものであるが、一・般教育部時代から教養 教育の論客の一人だった村瀬先生が3月をもって−定年退官されることを考え企画した。先生には今号 に是非寄稿して頂きたかったが、退官前のご多忙でお願いできず、それもあって行った企画である。当 初、「これからの教養教育への期待」というテーマで執筆をお願いしたいと考えていた。先生がこれま でに教養教育について論究された論文での主張を踏まえて、これからの期待を書いていただければ、後 輩たるわれわれにとって教養議論の展開を知るばかりでなく今後の指針にもなる、というのが執筆依 輯の趣旨であった。ご多忙のためままならず、では対談の形で当初の編集趣旨を全うしたいと考え、こ うした形態で公表することを思いついた。

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対談:香川大学教養教育への期待 73 対談では、先生のライフヒストリーを含め、研究においてもその発展の経過を再現したいと考え、ヒ ストリカルな話題展開に心掛けた。先生の人となりや、教養教育論がどれだけ聞き出せたか心もとな いが、村瀬理論の−・端は表現できたのではと思っている。 対談の最後に「僕の理論はもう古いんです」と先生は言われた。しかし温故知新、先生の議論に耳 を傾ける必要は今も減じてはいまい。香川大学教養教育の礎になればと対談をお引き受け頂いた先生 に感謝したい。そして、この企画が教養教育に関する香川大学の議論を活発化し、さらなる発展に繋 がれば先生にもお喜び頂けるものと思う。それを念ずるばかりである。 最後に、対談の中でも登場した村瀕先生の教養論関係著作の略譜を記しておく。 ・『香川大学一・般教育計画要綱試案』(分担執筆)香川大学−・般教育担当教官会議、1971年。 ・「−・般教育演習科目について」『香川大学−・般教育研究』第3号、1973年。 ・「ブレヒトのガリレイ俊一教養について−」『香川大学−・般教育研究』第19号、1981年。 ・「ヒュ.−マニゼーションの学問性」『香川大学−・般教育研究』第31号、1987年。 ・「教養としての総合」『香川大学一・般教育研究』第33号、1988年。 ・「ヘルマン・ヘッセ『ガラス玉遊戯』における総合理念の性格」『香川大学−・般教育研究』第39号、 1991年。 ・『教養とヒコ.−マニズム』白石書店、1992年。 ・「教養教育の復権のために」『香川大学教養教育研究』創刊号、1996年。 (文責:武重雅文)

参照

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