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『雨月物語』にみる女性像

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『雨月物語』にみる女性像

松   本   晶   子

はじめに

  『雨月物語』の中で特に私が魅力を感じたのは、巻之四、

「蛇性 の婬」の真女子である。真女子という、人間ではないものを使っ て表現された人間の女性は、なぜかとてもリアルで恐ろしく、そ れ と 同 時 に 大 き な 悲 し み を 抱 え て い る と、 一 番 率 直 に 感 じ さ せ た。 そ し て そ れ は、 『 雨 月 物 語 』 の 女 性 主 人 公 全 員 に 共 通 す る と 思 う の で あ る。 な ぜ、 『 雨 月 物 語 』 に 登 場 す る 女 性 は、 恐 ろ し さ と悲しさを同時に持ち合わせているのだろうか。そしてどういっ た 点 に 恐 ろ し さ と 悲 し さ が あ る の だ ろ う か。 「 蛇 性 の 婬 」 の 真 女 子、 「浅茅が宿」の宮木、 「吉備津の釜」の磯良の三人を様々な観 点から比較することによって、それを考察していきたい。 第一章   容姿と教養について

一、生まれ持った容姿と教養

  まずは、三人の女性たちが、どのような容姿や教養を持ってい たのかという点について、原文で与えられている条件に即して比 較、考察する。

a  真女子の場合

注目すべきは、真女子の美しさを表す言葉の中に「艶」という文 のかという点についてかなり具体的に知ることが出来る。ここで 渡って配置されており、女性としてどのような魅力を持っていた 女子の容姿に関する記述は、その美しさを表す言葉が何か所にも とも思はれぬばかり美 し 」さに、一瞬で夢中になってしまう。真

注1

の 中 で 最 も 多 い。 真 女 子 が 登 場 し た 瞬 間 に 豊 雄 は、 「 此 の 世 の 人   「 蛇 性 の 婬 」 で の 真 女 子 に 関 し て の 容 姿 の 記 述 は、 三 人 の 女 性

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字が使われている点である。これは真女子にのみ見られる特徴で あり、この事から、真女子の持つ雰囲気は色気、妖艶さのような ものを含んでいると考えることができるだろう。また、豊雄があ まりの美しさに「此の世の人とも思はれぬ」と感じた通り、彼女 は本当に「此世の人」ではないわけで、この点にもこれから起こ ることの暗示がなされていると考えられ、そういったことも含め て 真 女 子 の 容 姿 に つ い て の 記 述 か ら は 単 な る 美 し さ の み な ら ず、 何か怪しい妖艶さも感じ取ることができるのである。

  同じく教養に関しても、豊雄とのやりとりを通して細かく描写 がなされている。例えば出会いの場面において、自分の教養をア ピールし、育ちの良さを示唆するために豊雄が引用した万葉集の 歌

注2

に対し、真女子は巧みな表現で返した。その後の会話でも、文 学好きの豊雄に劣らない話術をみせている。このように、王朝古 代 を 想 わ せ る 優 雅 な 衣 装 を 身 に ま と っ た 真 女 子 は、 「 花 の 如 く 」 の文字通り華やかな美貌を持っており、そのしとやかで上品な雰 囲 気 や、 な ま め か し い 声、 情 趣 を 理 解 し た 会 話 の 一 つ 一 つ か ら、 高貴な身分であることを序盤から匂わせているのだ。

  では、そもそもなぜ真女子の美しさは妖しいのか。それはまさ しく、豊雄を誘惑するための美貌と教養であるからだろう。だか らこそ「艶」が重要な要素となってくるのである。そして、真女 子特有の妖しさの源は、この豊雄を誘惑するために造形された美 し さ で あ る と い う 点 に 隠 さ れ て い る の で は な い だ ろ う か。 つ ま り、豊雄という特定の人物ただ一人を誘惑するために計算しつく された容姿、教養であるから、天然ではない造り物特有の冷たさ があり、妖しく、怖いのである。これが、真女子の容姿、教養に 隠された裏の意味であるといえるのではないだろうか。

b  宮木の場合

  次に宮木の容姿についてだが、まず最初に出てくる宮木につい て の 記 述 は、 「 人 の 目 と む る ば か り の 容 」 と あ り、 や は り 真 女 子 と同じように前提条件として美しかったというところから物語が 始 ま る。 さ ら に、 夫 勝 四 郎 が 不 在 と な っ た 家 に お い て、 「 適 間 と ぶ ら ふ 人 」 が、 「 宮 木 が か た ち の 愛 で た き を 見 て は、 さ ま ざ ま に すかしいざな」ったところをみると、宮木は誰が見ても美人であ ること、それも多くの人から愛される類の美貌を持っていたとい うことが証明されるだろう。

  教 養 に 関 し て も、 真 女 子 ほ ど 前 面 に 出 て い る わ け で は な い が、 会話の端々にそれを感じ取ることができる。特に勝四郎と再会を 果たした際の長セリフの中では、様々な古歌や文学を引用す る

注3

こ とで自らの想いを訴えている。また先程宮木の美貌を表す箇所と し て 挙 げ た 原 文 に 続 く、 「 三 貞 の 賢 き 操 を 守 り て 」 と い う 部 分 か

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らも、こういった女性のあり方についての概念に理解があったと いう意味で教養ととらえて良いだろうし、同じく「心ばへも愚か ならずありけり」という部分も、心だてがしっかりしているとい う意味での教養と考えることもできる。そして何より、宮木は決 して伝わることのない自分の思いを、和歌によってあらわしてい るのだ。例えば、約束の秋を過ぎても帰ってこない夫に対し、 身のうさは人しも告げじあふ坂の夕づけ鳥よ秋も暮れぬと と複雑な心境を詠んでいるし、孤独に死んでいくその最期の心情 を、 さりともと思ふ心にはかられて世にもけふまでいける命か と 詠 ん で い る。 こ う い っ た、 和 歌 を 詠 む こ と が で き る と い う 点 や、会話の中で様々な古典文学を自然に引用することができると いう点から見ても、宮木も相応の教養を持ち合わせていたと言っ ていいだろう。

c  磯良の場合

  さてここで、磯良の容姿と教養について考えてみる。磯良のこ とを仲人が正太郎に説明するとき、 うまれだち秀麗にて、父母にもよく仕え、かつ歌をよみ、箏 に工みなり。 という表現を用いていた。この時点ではやはり彼女も美人である 程度の教養の持ち主であるという前提で物語が進んでいくように 思える。しかし、真女子、宮木と違って、その美しさを裏付ける ような言葉、場面はその後一切出てこなくなる。それどころか、 香央の女子磯良かしこに往きてより、夙に起き、おそく臥し て、 常 に 舅 姑 の 傍 を 去 ら ず、 夫 が 性 を は か り て、 心 を 尽 し て仕へければ、井沢夫婦は孝節を感でたしとて歓びに耐へね ば、正太郎も其の志に愛でてむつまじくかたらひけり。 というように、 「心を尽して」 、「志に愛でて」 、「孝節を感でたし」 など、不自然なほど内面を誉める言葉だけが並び、本当に美しい 女性であったのかどうか、ますます疑わしい。また「磯良」とい う名前は、林道春『本朝神社考』にある「阿度目の磯良」から思 い つ い た

注4

と 清 田 啓 子 氏 に よ っ て 考 証 さ れ て い る が

注5

、 こ の「 阿 度 目 の磯良」は海底に住む神であったため、顔に貝や藻などが付着し 非常に醜かったという。だとするとやはり、秋成がこの名前を付 けた意図があるはずで、磯良が仲人の言う通りの美人であったと は考えにくいのだ。そう考えると、十七歳になっても嫁に出てい ないことにもある意味説明がつく。また、神官の家であるはずの 香央家の両親が、神事に背いてまでも結婚を押し進めようとする その不自然さも、容姿的に恵まれない娘を持っているとなればつ じつまがあうのだ。

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  教 養 に 関 し て も、 磯 良 の 場 合 会 話 の 描 写 が 極 端 に 少 な い た め、 人とのやり取りの中から教養を感じ取れるような場面がない。少 なくとも、義父母に仕え、夫に心を尽くすことに長けていたとい うのはわかるけれども、それはあくまでも閉ざされた「家」の中 で発揮する教養でしかないと言っていいだろう。宮木や真女子の ような文学的な情趣を理解する類の教養とは、明らかに質が違う のである。ただそれでもやはり、私は磯良からも悲しみを感じざ るを得ない。磯良が容姿の面からみると醜い女性であったり、外 部 に 発 信 し て い く よ う な 教 養 を 持 っ て い な か っ た と 仮 定 し て も、 物語がもつ悲しみは拭えないのである。それは単純に、ひどい裏 切り方をされた磯良の悲しみに同情してしまうということも理由 の一つとして挙げられるだろうが、それと同時に秋成が女性とい う も の を 描 く 時、 美 貌 や 教 養 と い っ た う わ べ の 魅 力 だ け で は な く、もっと深い本質的なところに何らかの意味を持たせていると い う こ と が 想 像 で き る だ ろ う。 そ れ が 何 か と い う 点 に つ い て は、 女性の容姿という観点を違う角度から見ることによって論じてみ たいと思う。

二、容姿的な変貌

  さてここで、前述した「違う角度から見た容姿」について、考 えてみようと思う。それは、それぞれの女性の物語における変貌 ぶり、特に容姿的な変貌ぶりについてである。私はここにも、怖 さと悲しさが共存する理由が隠されていると思うのだ。

a  真女子の場合

  まず真女子であるが、彼女の変貌ぶりは、人間ではないという だけあって三人の中でも非常にインパクトが強い。豊雄に裏切ら れたと確信した真女子はついに大蛇の本性を現し、豊雄を自分だ けのものにするためにすさまじいパワーを発揮して周りの人まで も巻き込んでいく。もはやあの美しかった真女子の面影は全くな い。しかもたまたま退治にあたった鞍馬寺の効験あらたかな法師 は、大蛇となった真女子の力に圧倒され、全く歯がたたないまま 死に至る。その死に様は、ひどい痛みと苦しみを伴うものであっ たことが見てとれ、豊雄をはじめそこにいる人々はみな、計り知 れない真女子の力の大きさに恐れおののくのである。これは、真 女子の豊雄への愛情がそれほどの力を持ち得るものだったという こ と を 表 し て い る と い え る の で は な い か。 そ し て ま さ に こ の 事 が、怖さと悲しさの両方を表していると思うのだ。つまり、人を 死に追いやるほどの力、また人間の姿からは想像もできないよう な迫力ある大蛇の姿には確かに恐怖を感じるが、その力の源は純 粋な愛情でしかないという点、また、そうまでしても結局は愛す る人と結ばれることは許されない運命にあるという点に、悲しさ

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があるのだ。そしてその力というのは、人間の姿よりも迫力ある 大蛇の姿のほうが持つにふさわしい。従って人間から大蛇へとい う視覚的な変化は、本来持っていた、あるいはそれ以上の力を発 揮するには、その解放という意味において非常に重要な役割を果 たしているのである。

b  宮木の場合

  宮木についての容姿の変化は、物語の筋の中でも重要な役割を 果たしており、読み手はこの宮木の変化によって月日の経過を改 めて実感するという効果があると思う。七年ぶりに帰宅した夫勝 四郎が再会した宮木は次のようであった。 いといたう黒く垢づきて、眼はおち入りたるやうに、結げた る髪も背にかゝりて、故の人とも思はれず、夫を見て物をも いはで潸然となく。 この何とも痛々しい姿の宮木は、後に既にこの世の者ではなかっ たことが判明するが、憔悴しきった姿の描写に、夫に再会できぬ まま死んでいったという事実が加わって、とても悲哀に満ちた場 面となっている。磯良や真女子と違って、宮木自体が悲しみに満 ち、それが怖さよりも前面に出ているという点が、宮木の特徴の 一つであるように思う。

  ただ私は、宮木もやはり「怖い」と思う。それは、宮木が幽霊 だからという単純な理由ではない。そもそもなぜ勝四郎の前に現 れた時やつれ果てた姿をしていたのかというところに、何か引っ か か る の で あ る。 坂 東 健 雄 氏 は、 「 な ぜ ま た 秋 成 は わ ざ わ ざ こ ん な 姿 で、 彼 女 を 登 場 さ せ た の だ ろ う か

注6

。」 と 述 べ て い る が、 私 は この疑問に深く共感した。つまり、もし宮木が勝四郎を死んでも 待ち続けるほど愛していて、再会した時の宮木の心情が愛と喜び のみで満たされていたのだとしたら、かつての美しかった姿で現 れれば良かったのではないかと感じざるを得ないのである。そう すれば、この場面から怖さを感じるようなことはなく、違和感の ない感動的な場面であっただろう。しかし秋成はそうはしなかっ た。あえてボロボロにやつれ果てた姿の宮木で、二人の再会を果 たさせたのである。私はこれは、宮木による一種のアピールだっ た の で は な い か と 思 う。 つ ま り あ え て 醜 い 姿 で 登 場 す る こ と に よって、どれほどこの七年間が厳しいものであったか、また辛い 毎日であったかという思いを全身で表現しているのである。この 心情は決して前向きなものではなく、それこそ「恨み」に近いも のだったのではないだろうか。そしてそう考えると、宮木の持つ 怖さにも説明がつく。恨みごとを言わず、夫勝四郎と同じように ただただ再会を喜んでいたかのように見える宮木は、実は最も単 純な視覚という手法を使って、その負の思いを全身で表現してい

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たのである。それが勝四郎に伝わっていたかという点については 後ほど述べるとして、これが宮木の容姿の描写に隠された裏の意 味であろう。

c  磯良の場合

  で は、 磯 良 は ど う か。 正 太 郎 に 裏 切 ら れ た シ ョ ッ ク で 病 に 伏 し、徐々に弱っていった磯良の顛末は描かれぬまま場面は切り替 わるが、次に磯良が正太郎の前に姿を現した時には復讐の鬼と化 し て い た。 特 に 印 象 的 で あ る、 「 つ ら き 報 ひ の 程 し ら せ ま ゐ ら せ ん」と報復宣言をする磯良の様子は、 顔の色いと青ざめて、たゆき眼すざましく、我を指したる手 の青くほそりたる恐しさ というすさまじい怒りに溢れていた。この部分の描写は決して派 手な場面ではなく、これから復讐劇が始まるという合図にすぎな いのだが、静かに、しかし激しく燃える恨みの炎には、他のどの 場面にもないじわじわと追い詰められるような恐怖がある。かろ うじて生身の人間の形をとどめてはいるが、そこに生気は感じら れ ず、 そ れ 故 の 現 実 感 が よ り 恐 怖 感 を 増 幅 さ せ て い る の で あ ろ う。巻末の報復の場面においても、あえて悪霊としての形を見せ ないことによって、怖さを煽っているように思える。悪霊そのも のの姿は決して見せず、見えない代わりに声や、雨風の音によっ てただならぬ雰囲気を演出しているのだ。   このように、磯良の場合には鬼と化した後はもう正太郎への愛 情は見受けられず、恨み、憎しみといった負の感情のかたまりへ と変化してしまう。従って最後まで豊雄を取り戻そうとしていた 真 女 子 と 違 っ て、 そ の 目 的 は 恨 み を 晴 ら す 事 一 点 に 集 中 し て お り、最も残酷で冷たい、凄惨なラストによって果たされるのだっ た。 こ こ に 怖 さ が あ る の は 確 か で あ ろ う。 し か し、 磯 良 が 美 し かったかどうかという点は別にして、少なくともよく働き、義父 母からも大切にされるような快活であったはずの女性が、青白い 顔、痩せ細った体に以前とは全く違う目つきとなって現れ、思い つく限り最も怖いと思われる方法で正太郎を追い詰めていくとい うところまで変貌してしまうというのは、裏を返せば磯良が心に どれだけの傷を負ったかということを象徴しているわけで、そう 考えるとそこに計り知れない悲しみがあることは容易に想像でき るはずである。磯良もやはり、怖さを表す描写の裏に、悲しみが 隠されていたのである。   こ の よ う に、 そ れ ぞ れ の 女 性 が そ の 本 性 を 現 す 前 と 後 に お け る、容姿から見た変化というのは、単なる視覚的な怖さを表すた めだけの描写というわけではなく、彼女たちの心情が見た目その

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ものに如実に表れているのである。言い換えると、秋成は視覚と いう単純な要素の中に、彼女たちが決して口に出さなかった、出 すこともできなかった心情を反映させたのだ。

第二章   積極性について   次に、三人の内面の部分、特に積極性に焦点をあてて考えてみ る。というのも、三人にはそれぞれ違った形での積極性が備わっ ており、それと執念という感情が深く結びついているように感じ たからだ。

a  真女子の場合

  まず真女子であるが、彼女は物語の序盤から最後まで積極的で あり、それは周囲の人々までも巻き込んでしまうほどの力を持っ ていた。順に追ってみると、初めて出会った時の真女子は、豊雄 の顔を見て「面さと打ち赤めて恥かしげなる形」を見せ、豊雄は そんな態度のおくゆかしさにすっかり心を動かされた。この部分 だけ見れば真女子に積極性を感じることはない。しかし、二度目 に、 豊 雄 か ら 真 女 子 の も と を 訪 れ る こ と に よ っ て 再 会 し た 際 に は、 豊 雄 を 引 き と め る た め の 強 引 さ が 見 ら れ る よ う に な る の だ。 そうして酒を交わし、二人とも酔い心地になったころ、真女子は 積 極 性 に 溢 れ た 愛 の 告 白 を す る。 古 歌 を ふ ん だ 表 現 で 心 を つ か み、自らの不幸な過去を語って同情を誘い、それと同時に自分が 今は誰のものでもないことをアピールした上で、最後は男女の結 びつきを自分からもちかけているのである。これこそ真女子の積 極性を最も表しているセリフであろう。しかもその後、自分の独 り立ちしていない身を思ってうろたえながらも結婚を約束した豊 雄に対し、 今夜はこゝに明させ給へ と実にストレートな言葉を発する。出会って二日目にして二人の 関係は大きく進展したが、それも真女子の激しい積極性のなせる 業であった。そう考えると、初めて出会った時の真女子の恥ずか しげで奥ゆかしい態度も、もしかすると豊雄をひきつけるための 罠であったのかもしれない。その可能性が、真女子の積極的な部 分に何か怖い印象を与えているのだろう。   そんな真女子はどこまでも豊雄を追いかけ続け、やがて積極性 は執念へと変わる。特に、石榴市の姉夫婦の元へと身を寄せた豊 雄を、紀の国三輪が崎から追いかけるというのは並大抵のことで は な く、 こ の 追 跡 自 体 が 強 い 積 極 性 に つ き 動 か さ れ て の こ と で あっただろう。また、それでも正体を疑われ、今度は自ら姿を消 した後も、豊雄の後妻である富子にとりつき、その口を借りて豊 雄を脅す。この時点ではもう正体を取り繕うこともせず、ただた

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だ豊雄に対する執念だけが前面に出てくるようになる。ただ、自 分 が 乗 り 移 っ て い る 富 子 の こ と を、 「 か く こ と な る 事 な き 人 」 と 言 っ て い る こ と か ら、 真 女 子 に は 揺 る ぎ な い 自 信 が う か が え る。 たとえ正体を現しても、女性として完璧な自分の愛情ならばきっ と伝わると、この期に及んでまだそう信じているのだろう。そう して大蛇の姿を現した真女子は、周囲の人も震撼させる。ここで も本性を現すという意味での積極性と考えても良いだろう。真女 子の積極性は、全てを思い通りに動かすほど強いものなのだ。そ して結果的に、鞍馬寺の僧、富子という二人の死者を出すことと なってしまった。それほど大きな執念だったのだ。

  このように、真女子は常にストレートな感情を周囲にぶつけ、 とても激しい積極性を持っており、それが執念へと変化して災い をもたらすようになったと考えることができるのである。

b  宮木の場合

  宮木に関しては、一見すると積極性を感じる部分は皆無に見え る。原文から積極性を読みとれる箇所が、真女子と違って少ない からだ。ただ、寂しさ、心細さを感じながらも「かひ〴〵しく調 へて」夫を送り出すという形で、積極性が表れていると考えるこ と も で き る よ う に 思 う。 ど ち ら に し て も た だ ひ た す ら 夫 を 待 ち、 操を守ったまま息絶え、それでもさらに待ち続け、思いは和歌に 託すのみというその姿は、貞淑な妻そのものである。しかし考え てみると、七年間も「待つ」ということに対してのみ信念を貫く というのは、ものすごいパワーがいるはずであり、そのパワーの 根源はやはり「執念」と呼ぶべきものではないのだろうか。そも そ も、 生 き て い る 間 に 関 し て は、 「 女 の 自 分 が 京 へ 登 れ る は ず が ない」という宮木の言い分も分からなくはない。しかしそれなら ばなぜ、死んでしまった後も一つの場所に縛られる必要があった のか。坂東氏が、宮木が夫を追っての上京を試みなかったことに つ い て、 「 た し か に《 関 の 東 忽 に 乱 れ て 》 云 々 と い う 戦 乱 の 状 況 が現実にはそれを不可能にするだろうことはわからないではない ものの、しょせんこれは〈物語〉なのである。まして秋成は先行 の「菊花」において、自刃し魂となって義弟との再会の約をはた し た 宗 右 衛 門 な る 人 物 を 登 場 さ せ て い る の だ

注7

。」 と 述 べ て い る 通 り、また今回私が扱っている「吉備津の釜」の磯良にもみられる よ う に、 『 雨 月 物 語 』 に 登 場 す る 幽 霊 は、 場 所 に 関 す る 制 約 が な く自由に移動できる性質であるのだから、宮木も会いにいけばよ かったと思うのだ。ただただ待っているというところに、私は何 とも言えない恐ろしさを感じるのである。しかしそれでも宮木は 待ち続けた。つまりそれは、最終的に勝四郎が帰宅するという形 で の 再 会 し か、 宮 木 は 望 ん で い な か っ た と い う こ と で は な い か。

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先ほど私は、なぜ一つの場所に縛られる必要があったのかと述べ たが、宮木は場所に縛られていたのではなく、待つという行為そ のものに重要な意味があったのだと思う。宮木は、待つというこ と に 対 す る 執 念、 つ ま り 男 を 待 つ と い う こ と に の み 働 く 積 極 性 を、持っていたと私は考えるのである。時代の波に逆らえず、た だただ純粋に、無力が故に待つしかなかったかのように思える宮 木だが、少なくとも勝四郎を待つという部分に関しては積極性が 働いており、それが、死んでも待ち続けるという執念につながっ たのである。

  こうして積極性という観点から宮木を見つめてみると、私はど う し て も 宮 木 が 前 半 と 後 半 で 変 化 し て い る よ う に 思 え て な ら な い。もちろん、勝四郎に対する思いやりや優しさ、信念の強さな どは、本人が自覚していたかどうかは別として、もともと宮木に 備わっていたものであり、また最後まで存在していたものであろ う。しかし、この待つということに対する積極性だけは、勝四郎 を 待 っ て い る ま さ に そ の 時 に ど ん ど ん 激 し く な っ た も の で あ り、 いつの間にか執念へと変化してしまうのである。つまり、勝四郎 が 京 に 上 る 前 ま で と 帰 郷 し 再 会 し た 時 の 宮 木 と で は、 「 執 念 」 と いうものが心の中にあるかないかという意味で、違う人間へと変 化を遂げているのだ。それも勝四郎は七年前と何ら変わっていな いのに、である。勝四郎は帰郷した際、 我こそ帰りまゐりたり。かはらで独自浅茅が原に住みつるこ との不思議さよ。 今までかくおはすと思ひなば、など年月を過すべき。 と述べているが、宮木が未だ「変わらず」待っていてくれたこと と混同して、宮木自身もまた七年前と何も「変わっていない」と 思いこんでしまっているのではないか。そうして何の疑念も抱か な い こ と も、 「 揉 め ざ る に 直 き 志 」 の 勝 四 郎 に は 仕 方 の な い こ と な の か も し れ な い が、 こ の 七 年 間 の 間 に 大 き な 執 念 が 心 の 中 に 育っていたことを、待ち望んでいた夫に理解してもらえないとい うことこそ宮木にとって大きな悲しみだったのかもしれない。

c  磯良の場合

  次 に 磯 良 で あ る が、 彼 女 は 物 語 の 前 半 に お い て は 非 常 に 貞 淑 で、献身的な女性として描かれている。一見すると磯良にはひと かけらの積極性もないように思えるが、物語後半、夫正太郎に裏 切られた後は徐々に積極性が前面に出てくるようになる。それは まず愛人袖に死をもたらした。抑えつけられていた積極性が、こ こで一気に爆発したかのような印象を受ける。しかも、逃げた人 を追いかけてまで殺すという、激しい積極性である。しかしこれ だけでは磯良の気は済まなかった。浮気相手である袖をとり殺し

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た後、今度は正太郎をおびきよせる。そしてかつて愛した夫に対 して、報復を宣言、じわじわと追い詰めやがては命も奪うという 恐ろしい二面性を見せた。ここで前半に立ち返ってもう一度考え てみると、原文の、 朝 夕 の 奴 も 殊 に 実 や か に、 か つ 袖 が 方 へ も 私 か に 物 を 餉 り て、信のかぎりをつくしける。 私かにおのが衣服調度を金に貿へ、猶香央の母が許へも偽り て金を乞ひ、正太郎に与へける。 という二か所の「私かに」という部分に見られるように、磯良に は正太郎のためならなりふりかまわぬ一面があり、もともと潜在 的な積極性を秘めていたのではないだろうか。それが、正太郎の 裏切りをきっかけに負の方向へ、つまり執念という形で爆発した のである。潜在的であるが故にコントロールが効かないその積極 性は、実は最も恐るべきものなのかもしれない。

  三人に共通しているのは、この積極性という部分が執念、執着 心 へ と 形 を 変 え、 そ れ ぞ れ に 災 い を も た ら す き っ か け と な っ た り、悲劇性を増幅させているという点である。激しい積極性から 生まれた執着心で豊雄をつけ回した真女子は、その執念の故に自 ら身を滅ぼすこととなった。磯良の、潜在的であるが故にコント ロールの効かない積極性は、やがて『雨月物語』の中で最もむご た ら し い 結 末 を 招 く。 そ し て 宮 木 の 積 極 性 は、 「 待 つ 」 と い う こ とに対してしか発揮できず、現状を打開することもできないまま 命 を 落 と す こ と と な っ た。 三 人 の 中 に あ っ た そ れ ぞ れ の 積 極 性 は、いずれも悲しい、負の方向へのみ作用してしまったのだ。

第三章   夫婦の関係性について   次に、三組の夫婦の関係性について考えてみる。

a  真女子の場合

  まず「蛇性の婬」の真女子・豊雄夫婦についてだが、その最大 の特徴としてはやはり、人間と、そうではない異類との結婚とい う点にあるだろう。また、真女子が豊雄に述べた、 い と 喜 し き 御 心 を 聞 き ま ゐ ら す る う へ は、 貧 し く と も 時 々 こゝに住ませ給へ。 という言葉からわかるように、夫が妻の家に通うという古い風習 に 基 づ い た

注8

、 い わ ゆ る「 妻 問 い 」 と い う 婚 姻 形 態 を と っ て い る。 こ の こ と も、 「 都 風 た る 事 を の み 好 む 」 豊 雄 の 心 を 刺 激 す る 要 素 であったと考えられるため、やはり夫婦の関係性についても、美 貌や教養と同じく計算しつくされた関係の上に成り立っていたも のなのだろう。

  初めて登場した瞬間から、真女子は豊雄の理想の女性であった

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と い う こ と は 先 程 も 述 べ た。 し か し、 豊 雄 が 少 な か ら ず「 奇 し 」 と 感 じ た よ う に、 第 三 者 の 目 か ら 見 る と そ れ は と て も 異 質 な の だ。先程も述べた、真女子の完璧すぎる魅力にもその一因はある だろう。その異質さを象徴しているのが、県の真女子の家へと向 かう豊雄や武士たちが出会った、漆師の老の、 絶えて人の住むことなきを、此の男きのふこゝに入りて、漸 して帰りしを奇しとて という証言であろう。豊雄にとって理想で、夢の中を生きている ような感覚に浸っていても、一歩引いて外から見てみると、それ は崩壊が約束された不安定な男女関係なのだ。従ってここまでの 場面において、豊雄の周囲で真女子との結婚を応援するような立 場の人間は誰一人現れず、豊雄と、親や兄の持つ力の差は歴然と し て い た。 と こ ろ が 二 人 は、 そ の 後 無 事 婚 儀 を 結 ぶ こ と と な る。 三輪が崎ではあれほど自分の身の上や父、兄を思って、勝手な結 婚には踏み切ることができなかった豊雄が、石榴市というある意 味 別 世 界 に お い て は、 親 兄 の 許 し の な い 婚 姻 を し て し ま う の だ。 そんな不吉な印象をはらんだ二人の性愛の場面に関しては、 豊雄も日々に心とけて、もとより容姿のよろしきを愛でよろ こび、千とせをかけて契るには、葛城や高間の山に夜々ごと にたつ雲も、初瀬の寺の暁の鐘に雨収まりて、只あひあふ事 の遅きをなん恨みける。 という、情熱的で、甘美な描写がなされている。これは、宮木や 磯良には見られない描写であって、私はこの場面が、とうとう異 類と契りを交わしてしまったという意味で、豊雄の運命を大きく 狂わす境界であったのだと思う。つまりこの場面が、崩壊の始ま りを示しているのだ。   ま た 、 真 女 子 自 身 の 性 質 そ の も の が 、 も と も と 崩 壊 の 可 能 性 を は ら ん で い た と い う こ と も 考 え ら れ る 。と い う の も 、真 女 子 は 先 程 も 述 べ た 通 り 、感 情 を ス ト レ ー トに ぶ つ け 、 と て も 激 し い積 極 性 を 持 っ て お り 、 性 的 魅 力 も 備 わ っ て い た 。 こ うい っ た 女 性 像 と い う の は 、「 蛇 性 の 婬 」 の 時 代 背 景 に お い て 、 ま た 、 秋 成 の 生 き る 近 世 に お い て 、 受 け 入 れ ら れ な い も の だ っ た の で は な い だ ろ う か 。 そ れ が 象 徴 さ れ て い る と 感 じ る 言 葉 が 、 原 文 で 次 の よ う に あ る 。 此の邪神は年経たる虵なり。かれが性は婬なる物にて、牛と 孳みては麟を生み、馬とあひては龍馬を生むといへり。此の 魅はせつるも、はたそこの秀麗に姧けたると見えたり。 これは、夫婦となった豊雄、真女子が偶然出会った、当麻の酒人 という翁が真女子の本性を説明したセリフである。ここでは真女 子 は、 蛇 で あ る か ど う か と い う よ り も む し ろ、 「 婬 な る 性 」、 「 秀 麗に姧けた」という表現に表れているように、明らかに常識にそ

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ぐ わ な い 性 質 を 持 っ た 女 性 と い う 点 が 強 調 さ れ て い る。 つ ま り、 もともと排除されるべき性質の者だから、蛇という位置づけにす る こ と に よ っ て、 最 後 は 退 治 さ れ て し ま う と い う 結 末 に な る の だ。当麻の酒人の言葉は一つの見解でしかないのだけれども、秋 成はこの言葉を通して、その後の災いを予感させ、また、もとも と真女子がはらんでいたと思われる崩壊の危険性を、暗示してい たのではないだろうか。

b  宮木の場合

  次に「浅茅が宿」の宮木・勝四郎夫婦に関してであるが、この 物語の中には「蛇性の婬」や「吉備津の釜」とは違って、第二の 女性、つまりヒロインにとっての夫の浮気相手というものが登場 し な い。 従 っ て、 話 の 展 開 を 順 に 追 っ た だ け で は、 離 れ 離 れ に な っ た 二 人 が 生 き て い る 間 に 再 会 で き な か っ た と い う 悲 劇 の 中 に、夫婦の強い絆が示されるという類の物語として完結してしま うだけであろう。しかし私は、この夫婦が、本当に最後まで心の 通い合った夫婦としていられたのかというところに、疑問を感じ ざるを得ない。というのも、もし本当に宮木が前章で述べたよう に、あえてやつれ果てた姿で現れることによって恨みをアピール していたり、決して自分からは京へは行かない、あなたが帰って く る の を 待 っ て い る の よ と い う よ う な 本 心 を 持 っ て い た と し て、 それが「物にかゝはらぬ性」で「直き志」の勝四郎に、口に出さ なくても理解できたとは思えないのだ。また、七年の間周囲の人 に助けられ、支えられながら時を過ごした勝四郎に対し、ずっと 孤独だった宮木は、恐らく一日たりとも勝四郎のことを考えない 時はなかったはずだ。そういった意味でもこの二人には、再会す る前から大きなすれ違いが生じており、その溝は最後まで埋まる ことはなかったのではないだろうか。勝四郎は「物をもいはで潸 然 と な く 」 宮 木 を、 「『 夜 こ そ 短 き に 』 と い ひ な ぐ さ め て と も に 臥」てしまうが、勝倉壽一氏の言うように、 「『近曾すゞろに物の なつかしくありしかば、せめて其の蹤をも見たきまゝに』帰郷を 思いたった勝四郎と、貞節と恨みが執念となって再会の日を待っ て い た 宮 木 の、 あ ま り の 心 の 懸 隔 は こ こ に 明 白 に 表 れ て い る 。

注9

」 というのがこの場面の真実であろうと私は思う。   ただ私はこの点に関して、宮木の中に勝四郎への愛情が完全に なくなっていたとは考えていない。それは、 今は長き恨みもはれ〴〵となりぬる事の喜しく侍り。逢ふを 待つ間に恋ひ死なんは人しらぬ恨みなるべし。 という宮木の言葉に、勝四郎に対する思いやりと愛情が感じられ るからだ。七年も待ちわびて、自分は命を失ったというのに再会 の喜びを口にするという愛情と、極めて控えめな恨みしか述べな

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いという思いやりである。この夫婦の特徴は、お互いが相手に対 しての愛情を、どんな形であれ最後まで持っていたということで あ る。 一 方 通 行 の 愛 と な っ て し ま っ た 真 女 子 や 磯 良 と は 違 う の だ。原文に、 「夜こそ短きに」といひなぐさめてともに臥しぬ。 と あ る よ う に、 再 会 を 果 た し た 二 人 は 確 か に 七 年 ぶ り に 愛 し 合 う。愛情もあっただろう。しかし悲しいのは、心はすれ違ったま まであるために、後には辞世の句だけが目にふれ、追悼されるだ けの夫婦としてのみ存在することとなるという点である。愛情が あ っ て も い つ の 間 に か 互 い の 想 い が す れ 違 う よ う に な っ て お り、 結局はそのまま永遠の別れを迎えなければならなかったのだ。こ の二人は、女性と男性が絶対に理解し合えない一部分を象徴する ような存在なのではないだろうか。そう考えると宮木の真の想い が勝四郎に伝わらないのも、もはや宿命なのである。

c  磯良の場合

  最 後 に、 「 吉 備 津 の 釜 」 の 磯 良・ 正 太 郎 夫 婦 に つ い て で あ る。 まず、物語の冒頭文で、 夫のおのれをよく脩めて教へなば、此の患ひおのづから避く べきものを、只かりそめなる徒ことに、女の慳しき性を募ら しめて、其の身の憂ひをもとむるにぞありける。 と前提されていることから、女性の元々持っている嫉妬深い性質 も、男性の振る舞いで制御できるのだという条件の下でその後の 話が展開してゆく。しかし正太郎にその素質がないことはすぐに 明らかになるので、この前提条件に逆らう形で物語が進んでいく ということになり、その点だけをとってみてもかなり不吉な印象 がある。ではそれだけがこの悲劇の原因だったのかというと、そ うではない。秋成が結末を、 されば陰陽師が占のいちじるき、御釜の凶祥もはたたがはり けるぞ、いともたふとかりけるとかたり伝へけり。 と結んでいるように、御釜祓いの結果を無視したこと、陰陽師の 言いつけを守れなかったことなど、二人の夫婦にとって大事な選 択がある場面において、ことごとく間違った方を選び続けてしま うのである。彼らの結婚は、神さえも許さなかったのだ。   ではなぜ強行されたのか。それには主人公の二人が、どのよう な家に生まれ、また両家はこの結婚に対しそれぞれどのような思 惑があったのかという点と深く関わりがある。まず井沢家におい ては、いつまでも堕落的な生活を続ける息子でも、美しい妻を娶 れば自ずと安定するだろうという両親の思惑が、そもそもの事の 発端であった。一方でそれを聞きつけた磯良側の香央家でも、や は り 一 刻 も は や く 娘 を 嫁 に 出 し た い と い う 事 情 が あ る。 つ ま り、

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結婚する当事者たちとは関係なく、両家の思惑がぴったりと一致 したことによって生まれ出た夫婦関係なのだ。

  し か し 一 番 肝 心 な の は、 周 囲 の 環 境 で は な い。 二 人 自 身 の 間 に、 一 瞬 で も 夫 婦 の 絆 が あ っ た の か ど う か と い う こ と だ。 「 蛇 性 の婬」の真女子と豊雄は、一度は深く愛し合い、短い期間ではあ るが夫婦としての幸せな日々を送っていた時期があることがわか る。また宮木と勝四郎に関しても、最後まで想いが通じ合ってい たかどうかは別としても、互いに確かな愛情があったということ は先程も述べた。しかし磯良と正太郎に関しては、それが感じら れない。磯良からの献身的な愛情は感じても、正太郎からはそれ が見受けられないのだ。 磯良これを怨みて、或は舅姑の忿りに托せて諫め 父は磯良が切なる行止を見るに忍びず、正太郎を責めて押し 籠めける とあるように、かろうじて周囲の手によって保たれた、家の中で の結びつきにすぎないのがこの二人の関係の特徴だろう。そうし て考えてみた時に、正太郎は磯良に対して、謝罪、後悔の言葉を 最後まで発しないということに気が付く。つまり、彼には罪悪感 がないのではないか。もし途中で正太郎が自分のした事を悔い改 め て い た ら、 結 末 は 違 っ て い た の か も し れ な い。 し か し 秋 成 は、 正太郎にそうさせなかったのである。なぜ、正太郎には罪悪感が ないのか。そこで考えたいのが、磯良のセリフ、 此の事安くおぼし給へ で あ る。 物 語 に お い て の 磯 良 の 発 言 は、 こ の 一 か 所 の み で あ る。 そしてそのたった一言のセリフは、愛人と駆け落ちするために自 分を利用した、正太郎の巧みな言葉に対しての素直な返事であっ た。正太郎が自分を頼りにしてくれて、嬉しかったのである。こ の 場 面 か ら、 磯 良 は 正 太 郎 の 事 を 強 く 信 頼 し て い る こ と が わ か る。そして正太郎はその信頼を利用したのである。後に裏切られ たと知った磯良が、重い病にかかってしまうことからみても、こ の信頼関係こそが磯良の唯一の心のよりどころであったと考えて 良いと思う。しかしそれは、もともと偽りの信頼関係であったの ではないだろうか。先程挙げたように、どの伏線からみても不吉 な印象で溢れている結婚に、信頼関係など生まれるはずもないの で あ る。 そ し て 偽 り で あ る か ら、 正 太 郎 に 罪 悪 感 は な い の で あ る。一度築いた絆を壊したのならまだしも、元々何もなかったの ならば責任を感じる必要はないのだ。こうしたことから、私はこ の二人の夫婦の間に、夫婦としての絆、愛情が生まれ、通じ合っ た 瞬 間 と い う の は、 実 は 最 初 か ら な か っ た の で は な い か と 思 う。 そういった意味では、中身のない偽りの絆と愛情を心のよりどこ

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ろにしていた磯良に、悲しさを感じないわけにはいかない。こう して磯良の死によって一方的に夫婦としての関係は終わり、後に は一方は憎み、一方はただ恐れるという関係が残る事となってし まった。この事が、残酷なラストを迎えたことにも勝る怖さを演 出しているのではないか。

第四章   死に方について   ここで、三人の女性がそれぞれどのような死を迎えたのかにつ いて考えてみたい。それぞれの死が、物語にどんな意味を与えて いるか、また、秋成がなぜ物語を死という形で終わらせたのかに 興味がわいたからである。

a  真女子の場合

  まず真女子の死の場面というのは、物語全体の終盤に位置づけ されており、ここがクライマックスといって良いと思う。という のも、真女子にさんざんつけ回された豊雄が、やっとの思いで真 女子を封じ込めるという、ラストにふさわしい盛り上がりを見せ て い る か ら だ。 も ち ろ ん 彼 女 の 死 な く し て 豊 雄 が 助 か る 術 は な かったであろう。真女子の死は必然だったのである。ここで注目 すべきと思うのは、真女子の素直さ、純粋さである。特に、豊雄 の「 い ざ た ま へ、 出 で 立 ち な ん 」 と い う 嘘 の 誘 い を 心 か ら 信 じ、 「 い と 喜 し げ 」 な 様 子 を 見 せ た 点 は、 そ れ が 顕 著 に 表 れ て い る。 当麻の酒人が出現する直前、自分にとって不吉なことが起こるこ とをいち早く感じ取り、あれほど吉野に行くことをためらってい た真女子が、豊雄を手に入れられると確信させられた途端隙を見 せ、何の警戒心もなく豊雄を信じている。つまり、愛情を疑うと いうことを知らないのだ。この「喜しげな」様子の描写があるこ とによって、妖怪として描かれている真女子に、少なからず同情 の余地が生まれたように思う。そして何より、愛する者が相手を 騙すという卑劣な行為を通して封じ込められることほど、真女子 にとって悲しいことはなかったであろう。その「悲しみ」が、物 語 を 読 み 終 え た 時 に、 「 恐 ろ し い 」 妖 怪 を 退 治 し、 ハ ッ ピ ー エ ン ドであるはずの結末に、何か解せない、もやもやとした感情を読 み手に引き起こす原因なのではないか。このことから、作者秋成 は真女子が滅ぼされるべき存在の者だとは考えていなかったので はないかと思うのだ。秋成は結末を、 蘭若に帰り給ひて、堂の前を深く掘らせて、鉢のまゝに埋め さ せ、 永 劫 が あ ひ だ 世 に 出 づ る こ と を 戒 め 給 ふ。 今 猶 蛇 が 塚ありとかや。庄司が女子はつひに病にそみてむなしくなり ぬ。豊雄は命恙なしとなんかたりつたへける。 と結んでいる。秋成は、少なくとも愛情には常に一途であった真

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女子が、蛇が塚という形で永遠に閉じ込められることとなってし まったその不条理を、富子の死、つまり何の罪もない人間の命を 奪 う と い う 不 条 理 に 移 し か え て 主 張 し て い る の で は な い だ ろ う か。

b  宮木の場合

  宮木については、どのように死んだのかということは語られて いないし、唯一宮木の最期を知っていると思われる漆間の翁もそ の死因については触れていないため、なぜ死んでしまったのかは 想像するしかない。宮木はどうやって死んだのか。病か、もしく は自殺か、色々な事が考えられるだろう。しかしここであえて結 論付けるとすれば、まず何かの病というのは私は考えにくいと思 う。それは単純に、病で死んだのならそういった記述がどこかに あってもいいのではないかということと、病気で死ぬというのは あ る 意 味 で「 仕 方 の な い こ と 」 で あ り、 そ の 場 合 の 宮 木 の 恨 み、 強い想いは半減してしまうように思うからだ。また自殺というの も、待つことの苦しみに耐えかねて自ら命を絶ったとしたら、な ぜ死後も待ち続けたのかという疑問がわいてしまい、つじつまが 合 わ な い。 話 が そ こ で 終 わ っ て し ま う よ う に 思 う の だ。 そ も そ も、前章で述べたように、宮木は夫を待つということにすさまじ い積極性を発揮する性質の女性であったのだから、待てと言われ た以上自殺というのは考えられないだろう。とすると、餓死なの か、衰弱死なのか、またそれ以外なのかはわからない。しかし矢 野 公 和 氏 は、 「 恐 ら く は 餓 死 し た で あ ろ う 宮 木 の 執 念 の 無 残 な ま での悲しさ」がストーリーの中に浮かんでおり、宮木の純粋な心 は「生死を超越した強固な恋の情念に支えられている以上、執念 と化した宮木の魂魄が死後も猶この世にとどまって夫と再会する という怪異は、むしろ起るべくして起ったと云える 」

注注

と述べてい る。だとすると少なくとも宮木が死んだその瞬間の体と心は、本 当にぎりぎりの、極限状態にあったと私は思うのだ。宮木の命を 一本の糸に例えると、まだ生きる余力を残しながら、プツっと切 れるように途絶えたのではなく、徐々に徐々に細くなり、眠るよ うにして静かに息を引き取ったのではないか。その場合の飢えや 乾きなどの肉体的な苦しみはさることながら、消えゆく自身の命 を感じながら今日こそはと夫の帰りを待つその心情こそ、想像を 絶する苦しみであったろうと思う。それを私は、 さりともと思ふ心にはかられて世にもけふまでいける命か と い う 歌 か ら 特 に 強 く 感 じ る の だ。 「 そ れ で も や は り い つ か は 」 というかすかな期待感が、とっくに力尽きていいはずの宮木の肉 体を生き長らえさせたのである。それほどの極限状態で詠まれた この辞世の句には、ずっと抱いてきた希望が今日で終わってしま

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うという絶望がにじみでている、という風にとらえることもでき よう。確かに宮木の命はそこで終わっているのだし、死に臨んで 句を詠むというのは、生きて再会できなかったという意味でさぞ 無念だっただろう。しかし、死んだ後も宮木が待ち続けていたと こ ろ を み る と、 「 い つ か は 」 と い う 期 待 感 と い う の が、 そ の 後 も 継続しているように思えてならないのだ。だからこそ、裏切られ て死んだ後鬼と化した磯良とは違って、恨みのかたまりの悪霊に はならず、愛情を保ったまま待ち続けることができたのではない か。 発 狂 し て も お か し く な い く ら い の 状 態 の 中、 無 念 と 期 待 感、 恨みと愛情という両極端な感情を辞世の句に込めた宮木は、負の 感情に決して屈しない心の強さを持っており、非常に愛情深い人 間であったのではないかと私は思うのである。

c  磯良の場合

  磯良の死の場面についても、宮木同様はっきりとは描かれてい ない。まだ生身の人間であるとはっきりわかる最後の描写は、 か く ま で た ば か ら れ し か ば、 今 は ひ た す ら に う ら み 歎 き て、 遂に重き病に臥しにけり。井沢香央の人々彼を悪み此を哀し みて、専ら医の験をもとむれど、粥さへ日々にすたりて、よ ろづにたのみなくぞ見えにけり。 とある。その後死んでしまったことは後に陰陽師の登場によって わかるが、この描写からわかるのは、磯良が受けた心の傷が、生 死 が 関 わ る ほ ど に 大 き な も の だ っ た と い う こ と だ。 更 に、 磯 良 の「重き病」というのは精神的ダメージによる拒食の一種である と想像することができるだろう。食べなければ死んでしまう人間 にとって、体が、心が食を拒むというのは、もはや生きることを 放棄したのと同じことである。そんな状態で死んでいく人間の心 が、 穏 や か な は ず は な い。 恐 ら く、 磯 良 が 命 を 失 っ た そ の 瞬 間、 彼女の中にある恨み、絶望感は、最高点に達していた。それが爆 発的な怒りの感情を生み、袖をとり殺すだけでは満足できず、ど んどんパワーを増していったのである。抑えつけられていた感情 が、肉体を失う「死」によって解放されたのだろう。   また、正太郎との結婚についての占いで、良い結果が出なかっ た時、磯良の母は次のように述べていた。 ことに佳婿の麗なるをほの聞きて、我が児も日をかぞへて待 ちわぶる物を、今のよからぬ言を聞くものならば、不慮なる 事をや仕出さん。其のとき悔ゆるともかへらじ。 つ ま り 磯 良 は、 「 不 慮 な る 事 を や 仕 出 」 す 可 能 性 の あ る 子 だ と、 母親がそう感じる一面を持った子であったのだろう。宮木が芯の 強い女性であったとするならば、磯良は人間らしいといえば人間 らしいかもしれないが、心の弱さを持っていたのである。執念深

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さの下にあるのは、強さではなく弱さなのかもしれないと、磯良 を見ていて私は感じるのである。

終章   秋成が描く女性   これまで四つの観点で、真女子、宮木、磯良という三人の女性 を比較してきたが、そこから見えてきたもの、また、それらから わかる、秋成が女性をどのようなものとしてとらえ、 『雨月物語』 で表現したのかについてをまとめてみたい。

  秋成はまず「浅茅が宿」の宮木を通して、確かな愛情があるに もかかわらず、夫に真意が伝わらないまま此の世から消えていく 女の悲しさを述べているように感じられた。それが、宮木は怖さ よりも悲しさのほうが前面に出ていると感じた理由だろう。そし て そ れ で も 生 霊 に な る こ と な く 待 ち 続 け た と い う 点 と、 そ の 裏 に 隠 さ れ た、 勝 四 郎 が 帰 っ て く る と い う 形 で の 再 会 し か 望 ま な い、という真意には芯の強さがあり、七年も待たされた相手に対 し再会を喜ぶセリフを言えるという点には、想像以上の心の広さ を感じた。従って宮木は、信念強く、愛情深い女性として造形さ れているように思う。そしてそれと同時に秋成は、男女間のすれ 違いが引き起こした悲劇を、それぞれの「性」を強調することに よ っ て 描 き 出 す と い う 方 法 を と っ た の で は な い か。 つ ま り、 「 物 にかゝはらぬ性」で「揉めざるに直き志」という、目の前で起き たこと、聞いた言葉をそのまま素直に捉える性質の勝四郎と、言 葉は使わずに、視覚や、待つことそのものに執着するという行為 によって真意をアピールする宮木では、絶対に分かり合えない部 分があり、そのひずみの部分を強調して描かれた物語が「浅茅が 宿」なのである。   「

吉 備 津 の 釜 」 の 磯 良 が 他 の 二 人 と 特 に 異 な る 方 法 で 描 か れ て いると感じたのは、やはりその容姿や教養、いわゆる女性として の魅力についてである。本論で考察してきたように、美貌や教養 の 有 無 に 疑 問 を 感 じ ざ る を 得 な い 磯 良 で も、 「 魅 力 に 欠 け て い た から裏切られても仕方がない」とは思えず、恐ろしい結末の中に も悲しみが残るのだ。それは秋成が磯良をそういう女性として造 形したということである。私は、先程も述べた「信頼」をよりど こ ろ に し て い た、 偽 り の「 信 頼 」 に す が る し か な か っ た 磯 良 が、 死と共に自分を失い、恨みのままに復讐を果たすその姿に、大き な 悲 し み を 感 じ た。 そ れ と 同 時 に、 そ の 根 底 に あ る 弱 さ の 部 分 に、人間らしさを感じた。そして秋成も、そんな女性の姿に、悲 しみを感じていたのではないかと思う。一見恐ろしさだけが強調 されがちな「吉備津の釜」であるが、秋成はその恐ろしさを通し て、悲しみを表現したのではないだろうか。

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し、より強くその不条理さを訴えているのではないか。 怪という「受け入れられない」存在に投影することによって強調 「 受 け 入 れ ら れ な い 」 と い う 部 分 を そ の ま ま 描 く の で は な く、 妖 と い う 一 種 の 不 条 理 さ が 表 現 さ れ て い る と 感 じ た。 そ し て そ の る」性が加わることによって、純粋な愛情すら受け入れられない を 持 っ て い て も、 そ こ に 強 す ぎ る 積 極 性 に 基 づ く 執 念 や、 「 婬 な   「 蛇 性 の 婬 」 の 真 女 子 は、 完 璧 で、 非 の 打 ち ど こ ろ の な い 魅 力

悲しさ、不条理であったのではないかと感じた。 の女性の純粋な愛が、そういった「性」に埋もれてしまうことの 成が主張したかったのは女性の「婬なる」性などではなく、人間 け取っていたから、一番悲しいと感じたのである。裏返すと、秋 者に騙され、その手で封じ込められた時の悲しみを、そのまま受 みなのだ。純粋な愛が、どうやっても伝わらない悲しみ、愛する ていたのである。そして私が感じた悲しみは、真女子自身の悲し た。つまり私は、初めから真女子を一人の人間の女性として捉え 真女子を単なる恐ろしい妖怪とは見ていなかったことに気がつい ら く る も の な の か と い う こ と を 改 め て 考 え た 時、 自 分 が 決 し て、 う。 一番大きな悲しみを感じたのである。そしてその悲しみはどこか こ と が、 秋 成 が 怪 異 と い う 手 法 を と っ た 理 由 な の で あ ろ う と 思 手は妖怪なのだから仕方がない。しかし私は確かに、真女子から であったのだと、私は『雨月物語』から強く感じた。そしてその   「 蛇 性 の 婬 」 は、 真 女 子 が 退 治 さ れ る こ と で 物 語 が 終 わ る。 相 いった本質的な部分を考えるには、死の前と後を描くことが必要 う 観 念 に 縛 ら れ が ち な 女 性 と い う 存 在 な の か も し れ な い。 そ う う。 そ し て そ れ が 顕 著 に 表 れ て い る の が、 「 こ う あ る べ き 」 と い からそれが表現されると、怖かったり、悲しかったりするのだろ することだってある。その可能性を秘めている生き物なのだ。だ の 場 面 に 象 徴 さ れ た り、 「 死 」 を き っ か け に 想 い が 解 放 さ れ た り 生 き て い る 間 に は 見 え な か っ た 心 理 が、 命 の 終 わ り で あ る「 死 」   人 間 は、 言 葉 以 外 の 手 段 で 真 意 を 主 張 す る こ と が あ る。 ま た、

注1『雨月物語』の本文は全て、水野稔『校注古典叢書  雨月物語』による。以下も同じ。注2注1前掲書、一〇八頁頭注参照。注3注1前掲書、五四頁頭注参照。注4注1前掲書、九〇頁頭注参照。注5清田啓子「『吉備津の釜』の磯良─命名についての報告」(駒沢大学文学部研究紀要

注6坂東健雄『上田秋成『雨月物語』論』一五六頁。 28)参照。

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注7注6前掲書、一二四頁。注8注1前掲書、一一五頁頭注参照。注9勝倉壽一『雨月物語構想論』一二八頁。注 10矢野公和『雨月物語私論』八七頁。

(まつもと   しょうこ   二〇一二年日文卒)

参照