一、問題の所在 唐代の仏教者・善導(六一三―六八一)の思想は、日本浄土教に極めて大きな影響を与えた。
特に現代まで繰り返し言及される概念の一つに、三心釈がある。これは『仏説無量寿観経』(以下『観経』)の「若有衆生、願生彼国者、発三種心、即便往生。何等為三。一者至誠心、二者深心、三者回向発願心。具三心者、必生彼国」という説示に対する善導の註解である。経文としては、わずかに四十五字の短いものだが、善導は「具三心者必生 彼国」と示されていることから、この三心を往生の「正因」として捉え、極めて重視した。事実、善導の主著とされる『観経疏』の「散善義」は、およそ三分の一が、この三心の解釈に費やされている。また『往生礼讃偈』(以下
『往生礼讃』)においても三心は、往生のための「安心」として位置付けられている。
ただ善導自身は三心相互の関係を論じておらず、優劣も付けてはいない。しかし日本浄土教では、三心釈の中でも特に、深心釈を重視する例が見られた。「散善義」深心釈の冒頭は、次の通りである。 ()1
()
2
()
3
《研究論文》
善導の深心釈と『念仏鏡』
親鸞仏教センター研究員
青 柳 英 司
「二者深心」。「深心」と言うは即ち是、深信の心なり。また二種有り。一には決定して深く、自身は現に是罪悪生死の凡夫、曠劫より已来、常に没し常に流転して、出離の縁有ること無しと信ず。二には決定して深く、彼の阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑い無く慮り無く、彼の願力に乗じて、定んで往生を得と信ず。
(『真聖全』一・五三四頁)善導は深心を深く信ずる心であると定義し、そこに二種の側面を見出している。一つは生死を出離し得ないという自身に対する深信であり、もう一つは衆生を摂取する阿弥陀仏の本願力に対する深信である。伝統的に「二種深信」とされるものであり、前者は「機の深信」、後者は「法の深信」と呼ばれる。
この深心について、源空(一一三三―一二一二)の撰述とされる『三部経大意』では、次のように述べられている。
そも〳〵この『経』に「具三心者必生彼国」ととけり。一には至誠心、二には深心、三には回向発願心なり。 三心はまち〳〵にわかれたりといへども、要をとり詮をえらびてこれをいへば、深心ひとつにおさまれり。
(『定親全』六・寫傳篇2・一二―一三頁)
ここでは深心が三心の「要」であり、「詮」であるとされている。本書は源空の真撰が疑われている著作になるが、少なくとも鎌倉初期の段階で、深心を特に重視する傾向が浄土教の中にあったことは確かだろう。さらに源空の門弟である親鸞(一一七三―一二六二)の語録『歎異抄』には、以下のような記述が見られる。
聖人のつねのおほせには、弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。さればそれほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ、とご述懐さふらひしことを、いままた案ずるに、善導の「自身はこれ現に罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた、つねにしづみつねに流転して、出離の縁あることなき身としれ」といふ金言に、すこしもたがはせおはしま ()4
さず。
(『定親全』四・言行篇1・三七―三八頁)
このように『歎異抄』の編者は、「機の深信」だけを取り上げて、それが「金言」であるとするのである。以上の点から日本浄土教には、深心――特に「機の深信」――を重視する一面があったと言える。
しかしながら善導の思想は、中国においても同様の受容をされていたわけではない。すでに先学が指摘しているように、日本と中国とでは善導観が明らかに異なっている。もちろん、中国浄土教においても善導は、蓮社第二祖の地位を与えられており、決して軽んじられた存在ではない。唐・宋代に著わされた浄土教文献の中には、善導の思想に言及するものも散見される。ただ、中国浄土教の文献で、善導の深心理解に言及するものは、ほとんど見られない。日本とは対照的に中国では、二種深信の思想は忘れられていくのである。
では、どうして中国浄土教に、善導の深心理解は根付かなかったのだろうか。この問題に対して本稿では、まず二種深信が成立した当時の思想状況を概観し、次いで唐代の 浄土教文献である『念仏鏡』を取り上げ、二種深信の後代への流伝状況について、考察を試みたい。
二、深心釈成立の背景
二―Ⅰ、当時の思想状況から 善導の主著とされる『観経疏』は、「楷定古今」を目指した著作である。古今にわたる『観経』解釈の誤謬を糺し、読解の規範を定めることが本書の目的であったとされる。
しかし『観経疏』の三心釈は、諸師の理解を批判するためのものではない。そもそも、善導以前において『観経』の三心は、ほとんど注目されないものであった。善導の師である道綽(五六二―六四五)の『安楽集』にも、直接の言及は見られない。そもそも『観経』自身は、三心の内容を全く説示していないため、解釈が困難だったのであろう。
では、善導はどのようにして、『観経』の三心を註解していったのだろうか。特に「機の深信」に見られるような「無有出離之縁」の自覚を、どうして深心の内容としなけ ()5
()
6
()
7
()
8
ればならなかったのだろうか。本節ではまず、この点について考察を試みたい。
この問題に対するアプローチとしては第一に、当時の仏教思想からの影響を探るという方法が考えられる。たとえば坪井俊映(一九一四―二〇一〇)は、論文「善導教学における三心釈の形成―特に二種深信の形成に関して―」において、懺悔思想からの影響を指摘している。
無始以来の罪業悪業を仏の前で懺悔することが、善導のいう懺悔であり、かゝる無始以来の罪業悪業を背負っているのが現実の私であるとして、自己の罪業を認知するのが機の深信といわれるものである。(中略)諸大乗経典に説かれる懺悔および善導がこれによって重視した懺悔行儀の罪悪観が罪悪生死の凡夫という善導浄土教の罪悪思想を形成したものと考えるのである。
(中略引用者『善導教学の研究』〔東洋文化出版、
一九八〇年〕一三一―一三二頁)
確かに善導の五部九巻には、懺悔に関する言及が多い。 たとえば『往生礼讃』の「前序」では、雑業による往生が困難な理由の一つとして、「無有慙愧懺悔心故」を挙げている。また「広懺悔」を示す一段の中には、次のような記述が見られる。
又、十方尽虚空の三宝、及び尽衆生界等に向かいて、具さに向いて発露懺悔すべし。懺悔に三品有り。上中下なり。上品の懺悔は、身の毛孔の中より血を流し、眼の中より血を出だす者をば、上品の懺悔と名づく。中品の懺悔は、遍身に熱き汗毛孔より出ず。眼の中より血の流るる者は、中品の懺悔と名づく。下品の懺悔は、遍身徹りて熱く、眼の中より涙出ずる者をば、下品の懺悔と名づく。此れ等の三品、差別有りと雖も、即ち是、久しく解脱分の善根を種えたる人なり。今生に法を敬い、人を重くして、身命を惜しまず、乃至小罪も若し懺すれば、即ち能く心に徹り髄に徹る。能く此の如く懺すれば、久近を問わず所有の重障、頓に皆滅尽せしむることを致す。若し此の如くせざれば、縦使い日夜十二時、急に走むれども衆て是、益無し。作 ()9
さざる者の若し。応に知るべし。流涙流血等に能わずと雖も、但能く真心徹到する者は即ち上と同じ。
(『真聖全』一・六八〇頁)ここで善導は三品の懺悔を挙げ、これらによって「所有重障」が「皆滅尽」すると述べている。すなわち滅罪のための重要な実践として、懺悔を位置付けるのである。ただ末尾に、「雖不能流涙流血等。但能真心徹到者。即与上同」という記述が見られることから、善導は懺悔が「真心徹到」と置換可能な概念であると考えている。さらに「縦使日夜十二時急走。衆是無益」という一文は、「散善義」の至誠心釈に類似した表現が見られる。ここから善導の言う「慙愧懺悔心」とは、『観経』の三心と何らかの関係があるとも考えられる。
また坪井が指摘しているように、善導が懺悔・滅罪の対象としたのは、今生に犯した罪業ばかりではない。「広懺悔」の方軌に、
発露懺悔す。無始より已来、乃至今身まで、一切の三 宝・師僧・父母・六親眷属・善知識・法界の衆生を殺害せること、数を知るべからず。
(『真聖全』一・六八〇頁)とあり、また「定善義」の日想観では、
現在一生に無始より已来、乃し身口意業所造の十悪・五逆・四重・謗法・闡提等の罪を懺悔すべし。
(『真聖全』一・五〇〇頁)と述べられているように、懺悔の対象となっているのは「無始已来」の罪業である。これは「曠劫已来」という、機の深信の内容にも通じるものであろう。
以上のように、善導が懺悔を重視していたことは明らかであり、善導の罪悪観の形成に懺悔思想が影響していたことも事実だろう。しかし善導の罪悪観が、そのまま信心の内容になったとするのは、論理の飛躍ではないだろうか。罪悪の身の自覚があるからこそ、懺悔の行儀も重視されたと見るべきではないだろうか。坪井の所説では、「罪悪生 ()10
()
11
死の凡夫」であるという自覚が信心の内容となった必然性を、十分には解明できていないように思われる。
そこで別の視点だが、道綽・善導の浄土教は、信行(五
四〇―五九四)を開祖とする三階教から、思想的影響を受けていることが指摘されている。三階教は衆生の機根を三つの段階に区分し、それぞれの段階に相応した仏法の実践を説くものである。第一階は一乗の衆生、第二階は三乗の衆生、第三階は邪見の衆生であり、そして信行は当時の中国の衆生を、悪時・悪世界に生きる第三階の悪衆生であると認識していた。これは現在を「末法」、当今の衆生を「信想軽毛」「未出火宅」とした、浄土教の時機観と類似したものである。また、善導の著作にも三階教文献の影響が見られることは、先学の指摘するところである。
ただ三階教は、邪見の衆生に邪正の判別はできないという前提に立ち、一切仏を尊崇し、あらゆる仏法を実践するという方向に展開した。しかも一切仏の中には、未来仏としての一切衆生が含まれている。これは浄土教が阿弥陀仏一仏への帰依を宣揚したことに比べると、極めて対照的である。 では、どうして類似した時機観を持つ浄土教と三階教は、真逆の方向に展開していったのだろうか。この問題について西本照真は、次のように述べている。
三階教は第三階の機根は空見有見邪見成就衆生であるとの認識が根底にある。あるいは、我見・増上慢(有
見)や如来蔵・仏性を否定する見方(空見)にとらわれて正確なものの見方ができないというのが第三階に対する基本的な能力認識である。換言すれば、第三階の衆生にはどの教法が自分に適した教法であるかを判別する能力が欠けているのである。(中略)一方、浄土教の場合は、適した教法を判別する能力は問題とされない。適した教法如何の問題はすでに仏によって処理されているのである。浄土教における劣機の具体的な内容は、易行道と難行道、浄土門と聖道門という教判が存するごとく、基本的には教法の実践能力が主要な関心事となっている。(中略)浄土教では実践能力の欠如が念仏を中心とした浄土の教法へ収斂していく前提となっているのである。要するに、一見すると劣 ()12
()
13
()
14
()
15
機という点で共通しているように見える両者の機根認識も、実は教法の判別能力の欠如であるか、実践能力の欠如であるかという点で機根認識の質を異にしているといえる。
(中略引用者『三階教の研究』〔春秋社、一九九八年〕
一三九―一四〇頁)
三階教は、衆生の「判断能力」の欠如を問題視したが、浄土教のように「実践能力」の欠如は問題としなかった。この相違が、三階教と浄土教の思想的展開を、真逆のものにしたのだとされる。
この西本の指摘に従うならば、三階教と浄土教の機根観は、似て非なるものであったということである。三階教が善導思想に影響を与えていることは事実だが、二種深信を三階教思想の単なる踏襲と見做すことは、適切でないだろう。
そこで次節では善導著作の中から、深心の内容に機の自覚を見出す必然性を考えてみたい。 二―Ⅱ、善導の『観経』観から
善導の『観経疏』は、『観経』の対機が凡夫であることを強調する著作である。「玄義分」和会門の「返対破」では、上輩を大乗の菩薩、中輩を小乗の聖者であると判じた「諸師」の理解を批判し、
又、此の『観経』の定善及び三輩上下の文意を看るに、総じて是、仏世を去りたまいて後の五濁の凡夫なり。但、縁に遇うに異なり有るを以て、九品をして差別せしむることを致す。
(『真聖全』一・四五三頁)と述べている。そして、同じく和会門の「出文顕証」では、その根拠を『観経』自体に求め、「散善顕行縁」の、
我今汝が為に、広く衆の譬を説き、また未来世の一切の凡夫の浄業を修せんと欲わん者をして、西方極楽国土に生ずることを得しめん。 ()16
という文など、十文を挙げている。すなわち『観経』の対機が凡夫であるということは、経典自身がすでに述べていると、善導は理解しているのである。深心の内容に凡夫の自覚が含まれるのも、このことと無関係ではないだろう。事実、深心釈の中には、以下のような記述が見られる。
然るに仏、彼の経を説きたまいし時、処別・時別・対機別・利益別なり。又、彼の経を説きたまう時は、即ち『観経』『弥陀経』等を説きたまう時に非ず。然るに仏の説教は機に備らしむ。時また不同なり。彼は即ち通じて人・天・菩薩の解行を説く。今『観経』の定散二善を説きたまうことは、唯韋提及び仏滅後の五濁・五苦等の一切凡夫の為に、証して生を得と言う。
(『真聖全』一・五三五頁)ここで善導は、経典によって対象とする機類は異なるという原則を示し、その上で『観経』や『阿弥陀経』が対象 とする機類は、韋提希と「仏滅後五濁五苦等一切凡夫」であることを、明確に示している。 では、経典の対機が凡夫であるということと、衆生自身が凡夫であると自覚するということは、善導の中でどのような関係にあるのだろうか。結論から言えば、ここには天親(四〇〇―四八〇頃)・曇鸞(四七六?―五四二?)以来の「仏教と相応する」という課題があるように思われる。 そこでまず、『往生礼讃』の「後夜讃」を取り上げてみたい。この箇所は、天親の『無量寿経優婆提舎願生偈』
(以下『浄土論』)に基づくものである。その第一偈は「世尊我一心帰命尽十方無碍光如来。与仏教相応」となっており、『浄土論』の原文と比較すると、「願生安楽国」から「説願偈総持」までの四句が省かれている。これは「仏教
(釈尊の教え)と相応する」ということが、阿弥陀仏への一心帰命の信心において成り立つことを、強調するものであると考えられる。
また『観経疏』の「十四行偈」には、「与仏心相応」という一句が見られるが、これは明らかに『浄土論』の「与仏教相応」を受けたものである。釈尊の教えに相応すると ()17
()
18
()
19
()
20
()
21
いうことは、その教えを生み出す仏心に相応することであると、善導は理解したのであろう。そして『観経』には「仏心」が「大慈悲」であると示されており、善導も仏陀を「満足大悲人」と呼び、「諸仏大悲於苦者」と述べている。つまり仏説とは、「苦者」を救うための「大悲」の言葉であると、善導は考えていたのだろう。
以上の点を踏まえるのであれば、『観経』が凡夫のために説かれた教えである以上、その教えに「相応」するということは、凡夫の自覚に立つということにおいてのみ成立すると、善導は考えていたのではないだろうか。さらに言えば、凡夫の為に説かれた『観経』を凡夫の自覚を欠いたまま読んだとしても、それは仏の大悲の言葉を聞いたことにならないということを、善導は問題にしていたのではないだろうか。だからこそ善導は、往生の正因である深心の内容に、機の自覚を入れねばならなかったのだろう。
では、この「機の自覚」は中国浄土教において、どのように受容されていったのだろうか。次節以降では、この点について考察を試みたい。 三、善導思想と『念仏鏡』 三―Ⅰ、唐代前半における善導思想の影響
善導思想の影響下に成立した最初の著作は、直弟子・懐感(六三九?―六九九)の『釈浄土群疑論』(以下『群疑論』)であろう。しかし本書は、善導の三心釈を引用していない。現存する文献の中で三心釈を引用する最も古い例は、智昇
(生没年不詳)の『集諸経礼懺儀』になる。本書の下巻には善導の『往生礼讃』が全文収録されており、その中に三心釈も含まれているのである。ただ、智昇は三心釈を基に、自身の浄土教思想を論じているわけではない。また『集諸経礼懺儀』の性格については、すでに別稿で考察している。そのため、ここでは取り上げない。
本稿でまず注目するのは、智昇の同時代人であったと考えられる、大行(生没年不詳)という人物である。大行に関する伝記資料としては、以下のものが挙げられる。 ()22
()
23
()
24
()
25
『往生西方浄土瑞応伝』大行禅師第十五大行禅師は斉州の人なり。太山に入りて草衣木食し、法華三昧を求む。普賢菩薩、身を現して、師に阿弥陀仏を念ぜしめるを感ず。三七日を経て、夜の将に半ばにならんとする時、忽ちに瑠璃地を見る。心眼洞明にして、十方の仏を見る。後に疾し、右脇にして終わる。葬の後も、棺槨の異香は数日散らず。儀貌は生きるが如く、都て異ならざるなり。
(『大正蔵』五一・一〇五頁・下)『宋高僧伝』唐兗州泰嶽大行伝釈大行は斉州の人なり。後に泰山に入りて、草を結んで衣と為し、木を採りて食す。法華三昧を行じて、普賢の現身を感ず。行、自ら歎じて曰く。命は且つ常に無く、必ず摩滅に帰す。未だ来世の何処に生を受けるかを知らず。遂に蔵内に入りて、手に信せて経を探る。乃ち西方の聖教を獲。遂に専心に、阿弥陀仏を三七日 の間、思念す。半夜の時に於いて、忽ちに瑠璃地を覩る。心眼洞明にして、十方の仏を見る。猶、明鑑中の像の如し。後の時、行を詔して内宮に入れ、御殿に寝かしむ。勅して常精進菩薩と贈号し、開国公を受く。乃ち微疾を示し、右脇にして終わる。葬の後、棺を開き見るに、儀貌は生きるが如く、異香芬郁たり。
(『大正蔵』五〇・八六五頁・上―中)両伝の内容からは大行が見仏の体験を有し、命終後に奇瑞を示した阿弥陀仏信仰者であったことが読み取れる。ただ、これらの伝記資料からは、善導との関係や、善導思想の影響については、何ら読み取ることができない。しかしながら、華厳宗の澄観(七三八―八三九)の『大方広仏華厳経随疏演義鈔』の中に、善導と大行を繫ぐ記述を見出すことができる。当該箇所は、次の通りである。
又、高斉の大行和尚の宗崇念仏に云わく。四字の教詔に謂わく。信憶の二字、心を離れず。称敬の両字、身口を離れず。彼の論に云わく。往生浄土の要は、須ら ()26
()
27
く信に有るべし。信ずれば、千は即ち千ながら生ず。信ずれば、万は即ち万ながら生ず。仏の名字を信じて心口を離れざれば、諸仏は即ち救い、諸仏は即ち護る。心に常に仏を憶して、口に常に名を称し、身に恒常に敬するを、始めて深信と名づく。意に任せれば早晩、終に暫くも閻浮に住すること無きの法なり。
(『大正蔵』三六・六六七頁・上)ここでは大行の所説として、往生浄土の要は「信」の一点にあり、信心があれば「千即千生」「万即万生」が実現する、という理解が引用されている。往生浄土の要を信心に見出すという点は、『観経』三心を往生の「正因」とした善導の思想に通じるものがある。また「千即千生」「万即万生」という表現も、『往生礼讃』の「十即十生、百即百生」を受けたものである可能性が考えられる。もちろん大行の著作は現存しないため、善導との思想的親和性がどの程度のものであったのかを、具体的に検証することはできない。しかし法照(七四六―八三八)の『浄土五会念仏誦経観行儀』にも、次のような記述が見られる。 導和尚の云わく。親中の親なり。念仏の人に過ぎたるは無し。和尚の讃に云わく。同行は相親しみ、相策励す。畢命を期と為して、仏前に到る。若し是の心を作さば、千は即ち千ながら生じ、万は即ち万ながら生ず。
(『大正蔵』八五・一二五三頁・中)ここに引用される「和尚の讃」は、善導の『転経行道願往生浄土法事讃』(『法事讃』)である。これを受けて法照は、「千即千生」「万即万生」と述べているのである。そのため大行の場合も、善導思想と何らかの関係にあると見るのが、自然ではないだろうか。さらに言えば大行は、法照よりも善導に近い時代の人物である。その大行が善導の思想的影響を受けて「千即千生」「万即万生」という表現を用い、信心が往生の「正因」であることを主張していた可能性は、決して低くないと言えるだろう。
しかし前述のように大行の著作は現存しておらず、善導の三心釈がどのように受容されていたのかは定かでない。そこで本稿では、唐代浄土教文献の一つである『念仏鏡』に着目してみたい。本書は善導や大行の言行をたびたび取 ()28
()
29
り上げており、明らかに善導三心釈を受けた記述も見られる。しかもそれは単なる文書の収集ではなく、思想的な文脈において受容されているのである。そこで本稿では以下、この『念仏鏡』の三心釈受容について、考察を試みたい。
三―Ⅱ、『念仏鏡』の概要 本書は「沙門道鏡善道共集」という撰号が示すように、道鏡(生没年不詳)と善道(生没年不詳)という二人の人物によって著わされたものである。この二人に関して望月信亨は、次のような推論を提示している。
此の二人の事蹟は明かでないが、多分大行の門人、若しくはその法孫であらうと思はれる。真福寺本戒珠伝巻中に相州(河南省安陽県)日光寺道鏡の伝を挙げ、
(中略)年代等は挙げて居らぬが、或は此の道鏡が今の念仏鏡の作者かも知れぬ。(中略)又同戒珠伝巻中に泗州(安徽省泗県)善豊の伝を挙げ、彼は少にして出家し、道禅師の観経を講ずるを聞いて専ら白毫観を 修し、元和十三年(西紀八一八)白光を感じて寂したことを伝へてゐるが、此に道禅師といふのは、或は今の善道を指すのではないかと思はれる。若し然りとすれば善道及び道鏡は、貞元、元和頃の出と見ることが出来るやうである。
(中略引用者『中国浄土教理史』〔法藏館、一九七八年〕
二九三―二九四頁)
このように、『往生浄土伝』に立伝された「道鏡」と、同書の善豊伝に見られる「道禅師」とを、『念仏鏡』の著者である道鏡と善道に比定するのである。もちろん確証のあるものではないが、この説は現在も広く支持されている。いずれにしても、『念仏鏡』には大行に関する言及が極めて多いので、著者が大行の弟子筋の人間であることは確実だろう。
一方、本書の成立時期については、古くから意見の相違が見られる。たとえば矢吹慶輝(一八七九―一九三九)は、大行を僖宗時代(八七四―八八八)の人としており、『念仏鏡』の成立はそれ以後と考えていたと思われる。望月は前 ()30
()
31
()
32
()
33
()
34
述のように、善道・道鏡の活動は「貞元、元和頃」(七八
五―八二〇)と推測しており、三宅徹誠や伊吹敦らも『念仏鏡』を、八世紀末から九世紀初頭の文献としている。
しかし近年の加藤弘孝の研究によって、本書は安史の乱
(七五五―七六三)以前の天宝年間(七四二―七五五)の成立であることが、ほぼ明らかとなっている。よって本稿もこの説に従い、『念仏鏡』を唐中期の文献として扱う。
次に本書の撰述目的だが、『念仏鏡』の冒頭では次のように述べられている。
今、念仏鏡は念仏の人に照明し、永く疑惑を断ずる者なり。之に依って奉行すれば、必ず苦輪を出ず。
(『大正蔵』四七・一二一頁・上)初めの「照明念仏之人」という記述は、意味が取りにくい。しかし本書には念仏者の理想像として、たびたび善導や大行の言行が取り上げられる。そこから類推するのであれば、「念仏の人(である善導や大行の言行)に照らし合わせて」という意味になるだろうか。そうであるならば本書 の目的は、善導や大行などを念仏者の模範として、その事跡を顕彰しながら、浄土教に対する様々な疑惑を断ち切ることにあった、と言えるだろう。 事実、本書は「第一勧進念仏門」から、「第十一念仏出三界門」までの十一門で構成されるが、三階教や弥勒信仰、禅宗などを批判する「第十釈衆疑惑門」の分量が最も多い。この点からも『念仏鏡』が、他の仏教的伝統に対して浄土教の優位を示すことに、大きな関心を持っていたことは明らかである。 では、この『念仏鏡』において、善導の三心釈はどのように受容されているのだろうか。次に、この点を見ていきたい。
三―Ⅲ、『念仏鏡』における三心釈の受容 本書が『観経』の三心に言及するのは、「第一勧進念仏門」である。この一段は冒頭で、
帰信は罪を滅すること恒沙にして、称念は福を得るこ ()35
()
36
()
37
と無量なり。凡そ念仏せんと欲さば、要ず信心を起こすべし。若し当に信無くんば、空しくして獲る所無かるべし。
(『大正蔵』四七・一二一頁・中)と述べられているように、信心の発起が念仏の要となることを明かす箇所である。ここは様々なかたちで信心の内容を説示するが、その中ほどでは『浄土論』の「五念門」、「四修」、『観経』の「三心」、『文殊般若経』の「一行三昧」が取り上げられる。これらは順序こそ異なるものの、明らかに『往生礼讃』「前序」の影響を受けたものであろう。
その三心の箇所は、以下の通りである。
上品上生は、若し衆生有りて彼の国に生まれんと願ずれば、三種の心を発して即便ち往生す。何等をか三とする。一には至誠心。二には深心。三には回向発願心なり。三心を具すれば、必ず彼の国に生ず。何者か至誠心。身業に専ら阿弥陀仏を礼す。口業に専ら阿弥陀仏を称す。意業に専ら阿弥陀仏を信ず。乃至、浄土に 往生して成仏まで已来、退転を生ぜず。故に至誠心と名づく。深心は即ち是、真実に信を起こして、専ら仏名を念じ、浄土に生ずることを誓う。成仏を期と為して、終に再び疑わず。故に深心と名づく。回向発願心は、所有の礼念の功徳をもて、唯浄土に往生して速やかに無上菩提を成ずることを願う。故に回向発願心と名づく。此れは是、観経の中の上品上生の法なり。
(『大正蔵』四七・一二二頁・上)明言はされていないが、ここに見られる三心の解説は、明らかに『往生礼讃』の以下の記述に基づくものであろう。
必ず彼の国土に生ぜんと欲せば、観経に説くが如し。三心を具して、必ず往生を得。何等をか、三と為す。一には至誠心。所謂、身業に彼の仏を礼拝す。口業に彼の仏を讃歎し、称揚す。意業に彼の仏を専念し、観察す。凡そ三業を起こすに、必ず須らく真実なるべきが故に、至誠心と名づく。二には深心。即ち是、真実の信心なり。自身は是、煩悩を具足せる凡夫、善根薄 ()38
少にして三界に流転して、火宅を出でずと信知す。今、弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声一声等に及ぶまで、定んで往生を得しむと信知して、乃至一念も疑心有ること無し。故に深心と名づく。三には回向発願心。所作の一切の善根、悉く皆回して往生を願ず。故に回向発願心と名づく。此の三心を具すれば、必ず生ずることを得るなり。若し一心少けぬれば、即ち生を得ず。
(『大正蔵』四七・四三八頁・下)ただ両者を比較すると、幾つかの特徴を指摘することができる。まず至誠心だが、これを善導は身口意の三業にわたって具すべき「真実」であるとしていた。同様に、浄影寺慧遠(五二三―五九二)も『観無量寿経義疏』(以下『浄影
疏』)において、至誠心を「実心」としている。しかし『念仏鏡』では「真実」について言及されず、代わりに三業にわたって「専」が強調される。もちろん深心の箇所では「真実起信」とされているため、『念仏鏡』は三心に「真実」の要素を見ていないわけではない。むしろ『念仏鏡』の著者は、三業が「真実」であることの具体性を、 「専」の一点に見定めたとも考えられる。 次に深心だが、両者は共にこれを信心とし、疑いの無い心であるとしている。ただ、善導は深心に「自身」を「信知」する側面と、「弥陀の本弘誓願」を「信知」する側面とを見出しているが、『念仏鏡』の深心理解に、このような二面性は見られない。特に「機の深信」に該当する記述が、全く見られない。これは、大幅な改変であると言えるだろう。 最後に回向発願心だが、善導はこれを、自身が積んだ善根を回向して、往生を願う心であるとしている。『念仏鏡』の回向発願心理解も基本的には同じであり、敢えて言えば、回向するのが「礼念」の功徳に限定されている点と、「速成無上菩提」が積極的に視野に入れられている点とが、相違となるだろうか。しかしどちらも、善導の回向発願心釈を、大幅に逸脱するものではないと思われる。 では、どうしてこのような差異が生じたのだろうか。まず、『念仏鏡』の三心理解は『往生礼讃』を受けたものであると考えられ、「散善義」の影響を看取することができない。また『念仏鏡』の中に、『観経疏』からの明らかな ()39
()
40
()
41
()
42
引用が無いのも事実である。そのため『念仏鏡』の作者が、『観経疏』を参照していなかった可能性も、あるのではないだろうか。もしそうであったならば、『観経』三心が「上品上生法」となっている理由も説明できる。
しかしこれだけでは、「機の深信」が削られた理由までは説明できない。そこで次に、当時の思想状況について検討を加え、この問題に取り組む糸口を探ってみたい。
三―Ⅳ、『念仏鏡』と三階教 善導と『念仏鏡』は共に、疑心との対比を通して深心を語る点では一致している。しかし『念仏鏡』は深心を、二種の「信知」とはしていない。特に「自身是具足煩悩凡夫」という自覚、すなわち「機の深信」が全く示されていない。もちろん『念仏鏡』は凡夫の往生を否定しないし、滅罪の問題にも言及している。しかし「罪悪生死の凡夫」という自覚を、信心の内実として見出すということはされないのである。
これは、なぜだろうか。理由の一つとして考えられるの は、三階教との対論である。前述のように『念仏鏡』は、他の仏教的伝統に対して批判を展開しており、ここに『念仏鏡』の撰述目的の一端があると考えられる。そして「第十釈衆疑惑門」の三階教批判の一つに、以下のようなものが見られる。
問う。三階は悪衆生を称す。念仏は是、好衆生か。はたまた是、悪衆生の彼か。答う。是、悪衆生にあらず。何を以て知ることを得る。一経に准じて云わく。若し念仏する者は是、人中の芬陀利華なり。此華は諸華の中の極好なり。若し念仏する者は一切人中の最好なるが故に、以て喩と為す。諸罪を滅除するが故に是、好衆生なり。
(『大正蔵』四七・一二七頁・上)ここではまず、三階教徒が「悪衆生」を自称しているとされる。確かに信行の『対根起行法』には、次のような記述が見られる。
六には一人一行仏法。一人は自身、唯是悪人なり。一 ()43
行は法華経に説くが如し。常不軽菩薩、唯一行を行ず。自身已外に於いて唯、如来蔵・仏性・当来仏・仏想仏等の敬作有り。故に一行と名づく。
(『三階教の研究』四九四頁)これは三階教の中心思想の一つ、「普敬」に関するものである。三階教では、自分一人だけを悪人として、『法華経』所説の常不軽菩薩のように、如来蔵等の四仏を敬うことが行われた。しかもこの四仏は、釈尊のような具体的な覚者ではなく、一切衆生の本体であり、一切衆生そのものを指している。たとえば「当来仏」を敬うということは、全ての他者を未来の仏として敬うということになる。三階教は自分一人にのみ悪を認め、他の全ての衆生を仏として敬うということを、思想と実践の中心に据えているのである。つまり、自身が「悪衆生」であるという自覚に立つということは、三階教徒の基本的な立場であったと言えるだろう。
これに対して『念仏鏡』は、念仏者も同じ「悪衆生」なのかという問いを立て、経典を根拠にこれを否定している。 すなわち念仏者は、「好衆生」であるとするのである。つまり三階教徒と念仏者の在り方は、全く別物であることを強調していると言えるだろう。
このような主張が為された背景としては、朝廷による三階教の禁圧が考えられる。智昇の『開元釈教録』によれば、開元十三年(七二五年)には三階教典籍の「禁断除毀」など、かなり厳しい弾圧が命じられたようである。そして善導思想に三階教の影響があるのは事実であり、二種深信の思想形成に間接的な影響を与えている可能性も否定できない。そのため『念仏鏡』は累が及ぶことを避けるために、三階教的色彩のある部分を意図的に改変し、差異を強調しようとしたのではないだろうか。
もちろん三階教の機根観と、善導の「機の深信」は、本質的に同じものではない。すでに述べたように、三階教は衆生の判別能力の欠如を問題とする一方、実践能力の有無は問わなかった。これに対して浄土教が問題としたのは、衆生の実践能力の欠如である。つまり三階教と善導の人間観は、この点において異なるものなのである。
しかし『念仏鏡』は、このような差異を明示するのでは ()44
()
45
()
46
なく、機の自覚を信心の内容から削ることを選んだのではないだろうか。
次に「法の深信」についてだが、『念仏鏡』は深心を解釈する際に、「本願力」という表現を直接には用いない。また『念仏鏡』全体を見ても、『無量寿経』の第十八願文が引かれることはない。『観経』や『阿弥陀経』の引用は多いが、『無量寿経』の経名が出されるのは「准無量寿経云。乃至一念即生浄土」という一箇所のみである。そのため先行研究の中には、「善導が『無量寿経』第十八願を根底とした称名念仏を打ち出したのに対し、『念仏鏡』ではいくら念仏の勝行性を述べたところで、念仏が阿弥陀仏によって誓われた因願酬報の行としない」と論じるものも見られる。
しかしながら『念仏鏡』に、本願や他力に対する言及が無いわけではない。たとえば「第二自力他力門」では、次のように述べられている。
自力は猶、凡夫の脚足を損壊して、速やかに行くこと能わざるが如し。他力は、転輪王の虚空に飛騰して、 四天下に往くが如し。輪宝力に乗ずるが為の故に。仏願力に乗ずることもまた、是の如し。一念の頃に西方に往生して、不退地に住することを得。余門の修道は猶、陸地の歩行の如し。念仏の修道は猶、水路の船に乗ずるが如し。里数極めて多くして、また固からず。念仏往生はまた是の如きの功を用いて、極めて少早に菩提を証す。念仏の法門は、阿弥陀仏の本願力に乗ずるに由るが故に、速やかに疾く成仏す。余門に超過すること百千万倍なり。
(『大正蔵』四七・一二二頁・下―一二三頁・上)類似した記述は『論註』、『安楽集』、『浄土十疑論』等にも見られる。ここでは自力修行が「陸地歩行」に、他力念仏が「水路乗船」に喩えられており、その他力は「阿弥陀仏の本願力」に置換されている。そのため『念仏鏡』が、他力・本願力を無視しているとは言えないだろう。また、深心の解説に際しては「専念仏名」という表現が使われており、口称念仏による滅罪を強調する箇所も見られる。そのため、本願と称名が無関係であると見做されているわけ ()47
()
48
()
49
()
50
()
51
ではない。
ただ『念仏鏡』の言う「念仏」は、称名に限るものではない。「第一勧進念仏門」の中には、次のような記述が見られる。
又、無量寿経論に云わく。念仏に五種の門あり。何者をか五と為す。一には礼拝門。身業に専ら阿弥陀仏を礼す。二には讃嘆門。口業に専ら阿弥陀仏の名号を称す。三には作願門。所有の礼念の功徳をもて、唯極楽世界に生まれんことを願求す。四には観察門。行住坐臥に唯、阿弥陀仏を観察し、速やかに浄土に生まれしむ。五には回向門。但、念仏・礼仏の功徳、唯浄土に往生して速やかに無上菩提を成ぜんと願ず。此れは是、無量寿経論の中の念仏法門なり。
(『大正蔵』四七・一二一頁・下)このように『浄土論』所説の「五念門」全体が、「念仏」と位置付けられている。また本書でも『往生礼讃』と同様に、「一行三昧」に対する言及は見られるが、 又、文殊般若経は、相貌を観ぜず、専ら名号を称するを、一行三昧と作す。(中略)仏を見たてまつることを得んと欲するも、また一行三昧と作す。速やかに浄土に生まれることを得んと欲するも、また一行三昧と作す。此れは是、文殊般若経の中の念仏往生の法なり。
(中略引用者『大正蔵』四七・一二二頁・上)とあるように、「観相」と「称名」の優劣を論じる文脈にはなっていない。つまり『念仏鏡』の言う「念仏」とは、様々な実践を包摂したものなのである。観察や持戒を選捨して、称名一行の優越性を主張することに、本書の関心があるとは言えないだろう。
四、結びにかえて
善導の三心釈――特に「二種深信」――は、日本の浄土教思想に極めて大きな影響を与えたものであった。しかしながら中国では、注目された形跡がほとんど見られない。本稿ではその理由を、唐代の思想状況に尋ねることを試み
た。
その際に注目したのが、天宝年間の浄土教文献であると考えられる、道鏡・善道の共著『念仏鏡』である。本書は『観経』の三心に言及しており、しかもその解釈には明らかに善導思想の影響が看取される。また、禅宗や弥勒信仰などを批判する内容を持っており、当時の浄土教がいかなる思想状況の中にあったかを探る上でも、最適の文献であった。
そして『念仏鏡』の三心釈受容で特徴的だったのが、「機の深信」に関する言及が見られないことである。それどころか本書は、「悪衆生」を自称する三階教を批判し、念仏者は「好衆生」であると積極的に主張していた。ここから本稿では、浄土教の側が三階教との差別化を図ろうとしていた可能性を指摘した。当時の三階教は朝廷から弾圧を受けており、三階教との差異を強調する理由は、十分にあったと考えられる。もちろん、三階教の機根観と善導の機根観は、似て非なるものである。しかし中国において「機の深信」が顧みられなくなった一因に、このような唐代の思想状況も関連していたのではないだろうか。以上の ような可能性を指摘して、本稿の結びにかえたい。◆凡例
一、漢文を引用する際は、基本的に筆者が書き下し、適宜整文した。また句読点等を付した。一、引用文中に旧字体がある場合には、全て現行の字体に改めた。また仮名は全て平仮名に統一し、左訓等は省略した。一、主な引用文の出典は、次のように略記した。
『定本親鸞聖人全集』(法蔵館)→『定親全』
『真宗聖教全書』(大八木興文堂)→『真聖全』
『大正新脩大蔵経』(大蔵出版)→『大正蔵』
註『真聖全』一・六〇頁。『真聖全』一・五三二―五四一頁、参照。『真聖全』一・六四八―六四九頁、参照。原文は「このか、たつねに」だが、誤記と思われるので、筆者が修正した。近代においても曽我量深(一八七五―一九七一)などによって、「機の深信」に新たな思索が加えられている。柴田泰「二つの善導観―日中善導比較考―」(『インド思 ()1
()
2
()
3
()
4
()
5
()
6
想と仏教文化』、春秋社、一九九六年)、参照。宗暁(一一五一―一二一四)の『楽邦文類』では、廬山の慧遠(三三四―四一六)に始まる蓮社の継祖の第一に、善導を位置付けている。『大正蔵』四七・一九二頁・中―一九三頁・上、参照。また志磐(生没年不詳)の『仏祖統紀』でも善導は、蓮社七祖の第二祖とされている。『大正蔵』四九・二六〇頁・下、参照。『真聖全』一・五五九頁。『真聖全』一・六五二頁。水谷幸正は、至誠心は懺悔心であるとする。「唐善導の至誠心について」(『鷹陵史学』三・四合併号、鷹陵史学会、一九七七年)参照。「善導教学における三心釈の形成―特に二種深信の形成に関して―」参照。柴田泰山『善導教学の研究』二(山喜房佛書林、二〇一四)二一頁、参照。『安楽集』『真聖全』一・四二一頁。『安楽集』『真聖全』一・四二一頁。廣川堯敏「敦煌出土七階仏名経について―三階教と浄土教との交渉―」(『宗教研究』二五一、日本宗教学会、一九八二年)、宮井里佳「善導浄土教の成立につての試論―『往生礼讃』をめぐって―」(『北朝隋唐・中国仏教思想史』、法蔵館、二〇〇〇年)、柴田泰山『善導教学の研究』二・二一 ―五二頁、参照。なおマイケル・コンウェイは、論文「『安楽集』第十二大門における『十往生経』の引用の意図について」(『大谷学報』九八(一)、大谷学会、二〇一八年)の中で、善導の深心釈の背景に道綽の思想がある可能性を指摘している。しかし本稿では、この点について十分に検討することができなかった。今後の課題としたい。『真聖全』一・六六六頁。『真聖全』一・二六九頁、参照。上杉文秀『善導大師及往生礼讃の研究』(法蔵館、一九三一年)四一三頁、参照。『真聖全』一・四四二頁。『真聖全』一・二六九頁。『真聖全』一・五七頁、参照。「散善義」『真聖全』一・五三四頁。「玄義分」『真聖全』一・四五〇頁。拙稿「智昇と三階教―『集諸経礼懺儀』の造意と入蔵理由に関する一考察―」(『印度学仏教学研究』六七(一)、日本印度学仏教学会、二〇一八年)、参照。大行の伝記資料としては、この他にも『浄土往生伝』や『仏祖統紀』、種々の碑文が残されている。これらの内容を精査している研究には、加藤弘孝の論文「『念仏鏡』の時代相―大行の事跡を基軸として―」(『東アジア仏教研究』一 ()7
()
8
()
9
()
10
()
11
()
12
()
13
()
14
()
15
()
16
()
17
()
18
()
19
()
20
()
21
()
22
()
23
()
24
()
25
()
26
四、東アジア仏教研究会、二〇一六年)がある。本稿も大行の事跡については、加藤の研究を参考にしている。この記述を初めて紹介したのは、望月信亨(一八六九―一九四八)であると思われる。「唐大行和上と道鏡等の念仏鏡」(『浄土学』一〇、大正大学浄土学研究会、一九三六)、参照。『真聖全』一・六五二頁。『真聖全』一・六一二頁、参照。『大正蔵』四七・一二一頁・上。『真福寺善本叢刊』第二期・六(臨川書店、二〇〇四年)一四一―一四四頁、参照。『真福寺善本叢刊』第二期・六・一三九頁。加藤弘孝の論文「唐中期における善導観の特質―『念仏鏡』の「誓願証教門」を中心に―」(『浄土宗学研究』四四、知恩院浄土宗学研究所、二〇一七年)では、この望月の説がより深く検討されている。『三階教之研究』(岩波書店、一九二七年)一〇六頁、参照。三宅徹誠「『念仏鏡』について―著者及び成立年代―」(『印度学仏教学研究』四七(一)、日本印度学仏教学会、一九九八年)、参照。伊吹敦「『念仏鏡』に見る八世紀後半の禅の動向」(『東洋学論叢』二八、東洋大学文学部、二〇〇三年)、参照。 加藤弘孝「『念仏鏡』引用の「法王本記」」(『印度学仏教学研究』六四(一)、日本印度学仏教学会、二〇一五年)、「『念仏鏡』の時代相―大行の事跡を基軸として―」、参照。『真聖全』一・六四八―六五一頁、参照。「散善義」では、「「至」は真なり、「誠」は実なり」(『真聖全』一・五三三頁)とされている。『大正蔵』三七・一八四頁・下。『浄影疏』では深心を、「慇至心」(『大正蔵』三七・一八四頁・下)とする。『浄影疏』では回向発願心を、「求去心」(『大正蔵』三七・一八四頁・下)とする。善導は「散善義」において三心を、九品全体が具する心であるとしている。『真聖全』一・五三二頁、参照。加藤弘孝「『念仏鏡』に見える善導と金剛の対論の事跡について―唐中期浄土教家の対三階教姿勢と関連して―」(『印度学仏教学研究』六七(一)、日本印度学仏教学会、二〇一八年))、参照。『大正蔵』五五・六七九頁・上。三階教の弾圧については、西本照真『三階教の研究』一三〇―一四二頁、参照。『大正蔵』四七・一二二頁・上。山崎真純「『念仏鏡』の一考察―善導教学との関連を中心に―」(『真宗研究会紀要』四五、龍谷大学大学院真宗研究 ()27
()
28
()
29
()
30
()
31
()
32
()
33
()
34
()
35
()
36
()
37
()
38
()
39
()
40
()
41
()
42
()
43
()
44
()
45
()
46
()
47
()
48
会、二〇一三年)一〇頁。『真聖全』一・二七九、三四八頁、参照。『真聖全』一・四〇五―四〇六頁、参照。『大正蔵』四七・七九頁・上、参照。 ()49
()
50
()
51