• 検索結果がありません。

キジル石窟仏伝図壁画『大劫賓寧王の帰仏』と転輪聖王の図像

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2022

シェア "キジル石窟仏伝図壁画『大劫賓寧王の帰仏』と転輪聖王の図像"

Copied!
13
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

Japan Societyfor HelleniStic-iSlam arcHaeological StudieS 2019

キジル石窟仏伝図壁画『大劫賓寧王の帰仏』と転輪聖王の図像

Qizyl mural painting “conversion of King Mahā-Kalpina”and an icon of Cakravartiraajan

井上 豪(秋田公立美術大学)

Masaru INOUE

Akita Manicipal College of Arts

 キジル石窟は中国・新疆ウイグル自治区クチャ近郊に営まれた大規模石窟群で、西域の 古代美術を代表する遺跡として広く知られている。窟総数は

300

を数え、その造営が長期 にわたっていたことを窺わせるが、多くの窟内には今も鮮やかな壁画が残っており、かつ て西域に栄えた仏教美術を体系的に伝える貴重な美術資料となっている。クチャは天山南 麓を走る西域北道の要衝として古くから栄え、「亀茲国」として史書にその名を留めてきた。

古代亀茲国の繁栄の様子は玄奘の『大唐西域記』はじめ多くの文献に記録されるが、広く 仏教が信奉され、特に小乗説一切有部を中心とした教学が盛んであったという1。キジル 石窟の大規模な造営は亀茲国に栄えた仏教文化の体現といえ、その壁画は彼らが奉じた仏 教思想の内実を示すものといえる。壁画の主題には様々あるが、特に目を引くのは側壁や 天井に描かれた説話図の数々で、いずれも説一切有部の律典などに収録された仏伝や本生 を描いたものと見られている。こうした壁画のうち、保存がよく画題も明瞭なものは図版 が公開され一般にも知られているが、多くはいまだ画題が特定されず依拠経典についても 不明なままである。特に経年劣化や人為的破壊により図像の不明瞭なものは、その存在さ え知られていないことが多い。西域の古代仏教美術はその重要性とは裏腹に、主要な部分 がいまだ謎に包まれているといってよい。

 本稿で取り上げるのは、壁画の説話図のうち主室側壁に描かれた仏伝図の一図像である。

キジル壁画における仏伝図の多くは、成道後の衆生教化エピソードのみを題材にしており、

各エピソードを一枚絵に描いて順不同に配置するというものである。従って図像はいずれ も釈迦を中心に諸人物を配した説法図の形をとっており、個々の説話の具体的内容は登場 人物の仕種や小道具などで間接的に示されている。こうした仏伝図はいわば釈迦の仏陀と しての事績を集めたものといえ、それだけに内容は多彩で、なかには一般にあまり馴染み のない画題も多く、そのため多くの壁画は画題が未比定となっているのである。

 本稿で論じる図像は第8窟、第38窟、第224窟の三窟に作例が見られ、元となった 説話がそれなりに知られたものであったことを窺わせる。これら三窟はキジル石窟の中で も比較的よく知られた窟で壁画の図版も紹介される機会が多いが、当該の図像はいずれも 破損が多く細部が読み取り難いため、あまり注目されることがなく、主題についても詳細

(2)

に論じられることがなかった。

 以下ではこれら壁画の図像について、諸作例を個別に復元しながら考察し、これまで知 られていなかった仏伝図の一図像として画題を特定してみたい。東西をつなぐ仏教美術史 の欠を補う資料となれば幸いである。

1.第38窟の作例

 現存する三作例のうち、まずは最も保存状態のよい第

38

窟の壁画から紹介していきた い。

 第38窟は谷西区に位置する代表的な窟で、側壁上端に並ぶ奏楽天人図からとった「楽 天窟」の名で知られている。窟形式は最も一般的な仏像礼拝窟で、方形プランの主室正 壁に本尊の仏龕を作り、その左右から後方にかけて右繞のためのトンネルを設けている2

(図1)。仏伝壁画は左右側壁にそれぞれ3点ずつ描かれているが、当該壁画はこのうち右 壁(本尊を礼拝する際の右手側)最奥部の一点である(図2)。中央に釈迦、その周囲に 多数の人物を描いているが、そのうち一人が仏座の前に蹲っているなど、暗示的な描写が 目を引こう。表面の破損が多く、また公開されている図版は画面左端が見切れていて、こ れを一見しただけでは図像の詳細が理解し難い。破損は全面にわたっているが、その主な ものは光背や仏衣を中心に顔料や金箔などを削り取った痕跡で、また擦過などによる細か い傷が広く散在している。キジル石窟の壁画は多くが同様の破壊を被っているが、よく見 れば光背や仏衣などはかなり「丁寧に」削られていて、かえって元の形が推定しやすいこ とに気付く。また描線や彩色は断片的ながら全体にかなり残存しており、その様子は図版 からもある程度は窺えよう。現地で壁画の状態を丹念に観察し、残存する部分を細かく描 き起こしていけば、図像はかなりの部分まで復元可能となる。図3は写真図版のトレスを 下敷きに細部を現地調査で補い、推定可能な破損箇所を破線で表した復元図である。登場 人物の顔ぶれや所作など、一見しただけでは理解しにくい部分も断片をたどればかなり復 元でき、説話図としての図像はほぼ完全に読み取ることが可能である。

 人物像を上段から順に見ていくと、まず最上段には頭光を伴う4人の人物がおり、そ れぞれ楽器や瓔珞を手にしている。これらは釈迦の事績を賛嘆する供養天人で、同様 の仏伝図には説話の内容に関わらず、決まって彼らが描かれている。向かって右、天 人の下方には比丘が2体描かれている。仏伝説話の多くには、主人公が釈迦の僧団に 赴いて教えを受ける場面があり、そのため仏弟子の姿もまた仏伝図の多くに共通して 描かれている。以上の諸人物はいずれも省略的に上半身だけが描かれ、いわば画面の 背景のような位置付けとなっているが、 中段以下の人物にはそれぞれ特徴が付けら れ、説話の内容に直接関わりがあることを伺わせる。まず仏弟子の下方にいる人物は 頭上に傘を差しかけられ、また頭部には頭光が描かれている。頭上に傘が描かれるの は王などの貴人に共通する特徴である。この人物は頭光を伴う特別な登場人物で、し かも釈迦の視線の先に描かれていることから、恐らくこれが説話の主人公と考えられ よう。その下に跪くのは傘を持つ童子、仏伝壁画では王の周囲によく描かれる侍従の

井上豪 キジル石窟仏伝図壁画『大劫賓寧王の帰仏』と転輪聖王の図像

(3)

ヘレニズム〜イスラーム考古学研究 2019

1

キジル第

38

窟概念図

2

キジル第

38

窟右壁・仏伝図

3

キジル第

38

窟右壁・仏伝図

(

復元描起図

)

一人である3。童子の前には蹲った人物がおり興味を引くが、この人物はよく見れば 合掌しており、懺悔や改悛の礼法である五体投地の場面と考えられる。また、この人 物は後頭部に大きな丸い帽子のようなものを着けているのが目を引こう。あまり見ら れない特徴であるが、同様の描写は第224窟右壁に例がある(図4)。これは釈迦を 賛嘆する執金剛神の姿であるが、後ろ向きに坐った後頭部に同様の丸い帽子状を着け ているのが理解されよう。一般に執金剛神は通常の人間とは区別され、先の供養天人 と同様に頭光が描かれる。この丸い帽子のようなものは、位置からいって頭光を後ろから 描いたものと考えられよう。光背を後ろから見る視点は珍しいが、同様の例は唐代の敦煌

(4)

壁画などに散見される(図5)。こちらではガラス器のような緑色半透明のものとして描 かれており、頭光としてはより分かりやすい。また図6は6世紀に遡る西魏の作例、敦煌 第285窟の例であるが、こちらではキジルと同様、不透明なものとして描かれている。

キジル壁画の場合、中央にリボンの結び目があるなど、いかにも帽子のように描かれてい る点が興味深い。キジルの画工たちは頭光をこのような帽子として理解していたのであろ うか。あるいは亀茲国でかつて盛んに演じられたという仏教演劇の中で、実際にこのよう な扮装があったのかもしれない。ともあれこの五体投地の人物も王と同様に頭光を負って いるわけで、描かれた位置から見ても両者は同一人物である可能性が高い。キジル石窟の 壁画では一つの説話を一つの画面で表すことが多いため、主人公が帰依に至った経緯など は異時同図法で表されるのが一般的である。この場合、主人公の王が前非を悔い、改悛し て仏法に帰依したという筋立てが推定されよう。

 次に画面向かって左側に描かれた2人物を見てみたい。供養天人の下方、先の王と対称 の位置には傘と頭光を着けたもう一人の王がいる。安坐して両手で身振りを表す姿は、対 面する主人公の王と共通していることが分かる。ここで改めて主人公の王を見てみると、

この王は釈迦の視線の先にいながら釈迦を見上げることなく、真直ぐに画面左方を向いて いる。ちょうど2人の王が顔を合わせる構図になっているのである。一般に仏伝図の主人 公は釈迦と目を合わせて合掌しているのが通例であり、本作例の構図はやや特殊な例とい える。互いに安坐して手振りを示す二人の王は、あるいは対立する立場で何事か言い合っ ているのではあるまいか。

 最後の一人は左下方に跪く人物で、こちらも頭光をもった王侯風の姿である。画面の隅 にあたるため図版が不鮮明で細部が伺いがたいが、実際に壁画を調査すると、この人物は 左手に弓、右手に矢をそれぞれ持っていることが分かる。ともに細い白線で描かれており、

右手の矢は鏃の部分に小さな花形が付いている。更に見れば、この人物は眉間に「第三の 目」が描かれている。この人物は王など通常の人間ではなく、何らかの神と考えられよ う。ここで注目したいのはこの人物が頭部に戴く宝冠の形状である。中央に大きな円形の 装飾があり、そこに瓔珞が掛けられているのが分かるが、その背後には上方に向かって広 がる扇形の装飾が見えている。画中の王侯や天人が着ける一般的な宝冠は円形装飾と瓔珞 のみで構成されるのが普通で、このような扇形の装飾が付く例は珍しい。そこで壁画の諸 作例を参照していくと、この冠は帝釈天に共通する特徴であることが分かる。図7は同じ 第38窟後廊の涅槃図に描かれた帝釈天の頭部である。同図は横たわった釈迦を中央に描 き、枕辺には最後の弟子である須跋陀羅尊者、足下には梵天、帝釈天、四天王が順に描か れるが、この帝釈天は先の壁画に見た人物と同様の宝冠を着けており、しかも眉間に第三 の目を持っているのが確認されよう。また図8は第80窟涅槃図の帝釈天、やはり同様の 宝冠を戴き額には第三の目が描かれている。涅槃図に描かれる帝釈天はいずれも同様の特 徴を持っている。更に図9は第77窟側廊上部の兜卒天説法図で、弥勒菩薩の坐像を挟ん で右に梵天、左に帝釈天を描いている。この帝釈天の宝冠には円形装飾や瓔珞がなく、宝 冠全体が上方に向かって広がる多角形の筒型を呈している。図7や図8の帝釈天は、この

Masaru INOUE, Qizyl mural painting “conversion of King Mahā-Kalpina”and an icon of Cakravartiraajan

(5)

Japan Societyfor HelleniStic-iSlam arcHaeological StudieS 2019

4

キジル第

224

窟右壁 仏伝図

(

部分

)

5

敦煌第

196

窟 大勢至菩薩

6

敦煌第

285

窟供養菩薩

7

キジル第

38

窟後廊涅槃図帝釈天頭部

8

キジル第

80

窟後廊涅槃図帝釈天頭部

(6)

多角形の正面に円形装飾や瓔珞を飾ったものだったのである。つまり帝釈天の宝冠に共通 する要素は、この上に広がる多角形の部分ということになる。この形状はキジル壁画の帝 釈天に共通して見られるもので、眉間の「第三の目」と並ぶ帝釈天の図像的標識となって いたことが窺えよう。こうした帝釈天独自の宝冠はインドやガンダーラの彫刻に由来する もので(図

10

)、やや形を変えながらも受け継がれていたことになる。

 以上、主要人物の様々な特徴を見てきたが、そこから指摘される内容として以下の四点 が挙げられる。

1.主人公は国王である。

2.王は五体投地し、悪行を悔い改めて釈迦に帰依する。

3.王はもう一人登場し、主人公と何らかのやりとりを窺わせる。

4 帝釈天が弓矢を持って登場し、主人公の帰仏に何らかの関与をしている。

ここから想像されるのは「悪王が善王に説得され、更に帝釈天に調伏されて帰仏に至る」

といったストーリーであろうか。

 次に同様の内容を描いた類例を検討し、画題特定の手掛かりとしていきたい。

2.第8窟の作例

第8窟は谷西区に位置する仏像礼拝窟で、窟形式や壁画様式は先の第38窟に準じてい る。壁画の配置もほぼ共通しており、主室側壁には仏伝図を3点ずつ、後廊には涅槃図を 描いている。また側廊の左右壁、ちょうど第38窟で仏塔を描いていた部分には、寄進者 と思しき貴人の姿が並んでいる。これが左右側廊の両壁に4体ずつ計16体を数えること から、ドイツ隊は第8窟を「十六帯剣者窟」と呼んだ4。当該の壁画は左壁最奥部、側廊 の入口に接した一点である(図

11

)。壁画の保存状態は極めて悪い。顔料の削り落としが 顕著で傷が全体に及ぶ点は第38窟と同様だが、こちらでは更に画面左方の人物が切り取 られ、しかも右方の人物は、側廊の寄進者像を切り取る際に壁ごと破壊されているのであ る。それでも左下方には跪いた童子の姿と王の方座が確認でき、また右下方では跪いた人 物が弓矢を持っていることが窺える。さすがに壁ごと破壊されていては観察のしようもな いが、幸いなことに、壁画が破壊される以前の状態をフランス隊が撮影しており、当初の 図像を確認することが可能である。これを元に作図したのが図

12

である。第8窟の仏伝 図は供養天人の数が多く、ほとんど顔しか見えないような混雑ぶりとなっている。そのた め全体が華やかな印象となっており、場面描写よりも装飾性が重視されていることが窺わ れよう。説話図としての説明要素は最小限に絞られ、登場人物は下段の2人のみとなって いる。まず画面右側、仏前に跪くのは弓矢を持った帝釈天である。宝冠の形状や、眉間に ある第三の目などが先の第38窟と共通していることが窺われよう。こちらも左手に弓、

右手に矢をそれぞれ持っているが、矢の先端に花形が描かれている点も共通している。帝 釈天と対称の位置、画面左下部には方座に坐す王がおり、ターバンを着けた髭面の侍従が 傘を差しかけているほか、童子が王を見上げて道化のような仕種を見せている。

 第8窟の描写から窺われるのは、説話の最も主要な場面、いわばハイライトシーンがい 井上豪 キジル石窟仏伝図壁画『大劫賓寧王の帰仏』と転輪聖王の図像

(7)

ヘレニズム〜イスラーム考古学研究 2019

9

キジル第

77

窟側廊兜卒天説法図・

帝釈天

10

ガンダーラ出土・シビ王本 生

(

大英博物館

)

11

キジル第

8

窟主室左壁・仏伝図 図

12

キジル第

8

窟主室左壁・仏伝図

(

復元描起図

)

かなるものであったかということであろう。画面左の王はいうまでもなく主人公の王と見 られるが、こちらでは合掌して釈迦を見上げているなど既に帰依した者として描かれてお り、従って五体投地の場面も省略されている。主人公の王と対立するもう一人の王も描か れず、主人公の帰仏に際して直接の契機となったのが、帝釈天の存在であったことが確認 されよう。帝釈天は前方に向けて弓矢を示すような仕種を見せ、この弓矢が特別なもので あることを窺わせる。単純に読み解くのであれば、主人公の王が改悛し釈迦に帰依するに

(8)

至ったのは、帝釈天の弓矢の功徳であったことになる。確かに、鏃に花を付けたこの弓矢 は何らかの奇跡を思わせるものといってよかろう。また、この帝釈天は釈迦の視線の先、

本来なら主人公がいるべき位置に描かれている。ところが帝釈天の視線は釈迦に向けられ ることなく、対面する王に向けられている。王は先に触れたように釈迦を見上げている。

視線が釈迦、帝釈天、王、釈迦の順に巡る構図は面白い。壁画を見る者の視点は、人物の 視線に沿って誘導されることになろう。これが意図的な構成であるとすれば、この場面の 展開としては、まず釈迦の奇跡により帝釈天が現れ、次に帝釈天が王を調伏し、最後に王 が釈迦に帰依するという流れが読み取れよう。これが説話のハイライト場面であったと考 えられる。

 次に3点目の作例を検討してみたい。

5.第224窟の作例

 第224窟は、先の二窟からは離れた東方の裏山、後山区に位置する仏像礼拝窟である。

窟形式、壁画様式ともに先の二窟と共通しているが、こちらは主室左右壁にそれぞれ上下 2段左右4列、計8点の仏伝図が並び、左右壁面を合わせれば合計16点に及んでいる。

数が多いぶん画面は小振りであるが、キジル石窟において側壁の仏伝図はこのように6~

8点ずつ描くものが多く、第8窟や第38窟のように大型の壁画を3点ずつ描くのはむし ろ例外的といってよい。第224窟の壁画からは、いわばスタンダードに近い過不足のな い図像が期待されよう。しかしながら、第224窟は図像研究の上では最も厄介な窟とい える。20世紀初頭のドイツ調査隊が大規模な壁画の剥ぎ取りを行っており、しかも資料 価値の高い人物像を重点的に狙って、まるで剥ぎ取り作業の練習のように小面積を多数切 り取っているのである。そのため現地の壁画は重要な手掛かりをほとんど失って図

13

の ような状態となっている。更に、切り取られた断片は後に市場に流出し世界中に分散して しまった。現在各地に収蔵される壁画断片は長らく原位置が不明、同時に現地では壁画の 欠落箇所の大部分が行方不明という状態であった。流出断片の原位置特定、あるいは失わ れた部分の同定は戦後になって断続的に行われ、近年までに大部分が特定されるに至って いる5。これら断片から個別に図像を描き起こし、先行研究の成果を元に壁画の原位置に 合わせたのが図

14

である。切り取られた壁画は周縁部分を破損しているため完全な復元 が困難で、また現地でもかなりの部分が剥落していて確認しにくい部分が多く、推定に頼っ た部分は少なくないが、主要な特徴が確認できる程度には図像が復元できた。

 この作例では釈迦は左向きに描かれ、視線の先には王と夫人、傘持ちの侍従がいる。3 人の頭部は現在アメリカのボストン美術館に所蔵されており、これが特定されたことによ り主人公の姿が復元された。この王は釈迦を見上げているが、合掌など礼拝の姿勢を取ら ず、むしろ何事かを語るような手振りを見せている。画面右方には跪く人物が2人おり、

このうち前方の人物の頭部前方に矢羽根が描かれているのが分かる。現地に残る体部と合 わせれば、先の作例と同様の弓矢を持った帝釈天が復元されよう。矢は3本確認できるが、

剥落箇所にも同様の矢が描かれていた可能性があり、正確な本数は復元できない。また弓 Masaru INOUE, Qizyl mural painting “conversion of King Mahā-Kalpina”and an icon of Cakravartiraajan

(9)

Japan Societyfor HelleniStic-iSlam arcHaeological StudieS 2019

矢を持った左右の手先は断片的ながら現地に残っており、右手に矢、左手に弓を握ってい るのは確実と思われるが、切り取りのため破壊され、複数の矢をどのように持っていたの か、また本来持っていたはずの弓も正確には確認できない。同様に頭部の宝冠も確認でき ないが、眉間に描かれた第三の目は明瞭に確認できる。帝釈天の後ろにいるのは光背のあ る王の姿で、これが主人公と対立する王ということになろう。第38窟ではこの王と帝釈 天の関係は必ずしも明瞭ではなかったが、第224窟では帝釈天と並んで坐している。ちょ うど対称の位置にいる王と夫人の関係にも似た配置といえるが、王と帝釈天が近い関係に あり、帝釈天がこの王を庇っているような関係性が窺われよう。なお、この部分はスミソ ニアン・アメリカ美術館の所蔵となっている。壁画の主題を示す最も重要な箇所が特定で きたのは喜ばしいが、重要な部分が失われ復元不能であるのは極めて遺憾といえよう。

 以上、これまで見たところを総合すれば、「悪王と善王が対立し、釈迦の奇跡により帝 釈天が登場、善王のために弓矢を用いた奇跡で悪王を調伏、帰仏に至らしめた」というよ うな内容が想定されようか。無論この想定は可能性に過ぎず、主観的な印象による想像も ないとはいえないが、図像の情報から最大限その内容を読み取るなら、むしろ必然的にこ のような内容にならざるを得ない。次章では、この想定を念頭に「帝釈天の弓矢による調 伏」「王の改心と帰仏」を描いた仏伝説話について検討してみたい。そこにもし「善王と 悪王の対立」「善王に対する帝釈天の庇護」などの描写があれば画題比定の確度は更に高 いことになる。

 

4.大劫賓寧王の帰仏譚 

釈迦成道後の事績を伝える説話は、説一切有部系の律をはじめ多くの仏典に収録されて いる。説話の数は膨大で、しかも漢訳のない説話がサンスクリット写本に収録されている 場合もあって照合は困難であるが、筆者が調査し得た限りにおいて、壁画の特徴に最も近 い内容を持つものは『賢愚経』巻7収録の「大劫賓寧品」6および『撰集百縁経』巻9声 聞品の「罽賓寧王緣」7である。両者は同じ内容の説話で、釈迦が舎衛国の給孤独園に滞 在中の話として語られる。当時南方にあった金地国の王、大劫賓寧王は武勇に秀で強勢を 誇っていたが、あるとき舎衛国の波斯匿王に使者を送って降伏を迫り、窮地に立たされた 波斯匿王は釈迦を訪ね救いを求めた。釈迦は転輪聖王に姿を変え、神通力で精舎を壮麗な 王宮に変えると、大劫賓寧王の使者に命じて王を呼びつけた。王は転輪聖王の威厳に衝撃 を受けるが、なおも自己の武力が優位であると考える。すると転輪聖王は臣下に命じて弓 を持ってこさせ、自ら弦を張って大劫賓寧王に渡したが、弓はあまりに強く、王はそれを 弾くことさえできなかった。ふたたび弓を手にした転輪聖王は弓に矢をつがえて易々と射 るが、矢は五本に増えて先端に光を発し、それぞれ大輪の蓮華を生じた。大劫賓寧王はこ の奇跡に触れて深く己を恥じ、釈迦に帰依して仏弟子になったという。

 大劫賓寧王の名はサンスクリット語「マハー・カルピナ」の音写で、『賢愚経』では「大 劫賓寧王」としているが、『撰集百縁経』では「罽賓寧王」としており、王名の訳が異なっ ている。また『撰集百縁経』では矢の先端に生じた蓮華の上にそれぞれ化仏が現れたとし

(10)

ているのに対し、『賢愚経』では蓮華上に転輪聖王がいたとしている。このように細部に は異同も見られるが、説話の内容自体はほぼ同一であるといってよい。この説話を簡単に 整理すると、

1.主人公、大劫賓寧王は武勇を恃み波斯匿王に降伏を迫る。

2.波斯匿王は釈迦に救いを求め、釈迦は転輪聖王に姿を変えて波斯匿王を庇う。

3.転輪聖王は強弓を差し出すが、大劫賓寧王は弦を引くこともできない。

4.転輪聖王は弓で矢を射て奇跡を現し、大劫賓寧王を改心させる。

5.大劫賓寧王は釈迦に帰依し仏弟子となる。

ということになる。これらの場面は先に見た壁画の特徴とほぼ完全に一致している。まず、

壁画の図像からは二人の王が対立している状況が推測されたわけだが、この説話に当ては めれば壁画の主人公は大劫品寧王、相手の王は波斯匿王、両者の対話は舎衛国の降伏をめ ぐるやりとりであったと理解できよう。経典では、波斯匿王を庇うのは帝釈天ではなく、

釈迦自身が化身した転輪聖王であるが、弓矢を用いて奇跡を現し王を改心させる展開は、

まさに壁画の描写と一致している。壁画では矢の先端に花形が描かれていたが、説話が語 る「矢の先に蓮華を生じた奇跡」を表していよう。更に注目したいのは『撰集百縁経』に 見える「時罽賓寧王見斯變已、向於化王五體投地、心即調伏。」との記述で、帰仏の際の 五体投地についても明記されている。第38窟にみられる描写はこの記述に基くものとい えよう。

 仏伝説話「大劫賓寧王の帰仏」の内容が、壁画の図像とほぼ一致していることを見てき たが、一点重要な部分に不一致がある。壁画が「帝釈天の弓矢」を描いているのに対し、

経典の説話では転輪聖王に変身した釈迦自身が大劫賓寧王を調伏したことになっているの である。この点が一致しない限り、壁画の画題が「大劫賓寧王の帰仏」であるとは断じが たいことになる。とはいえ壁画の基本的内容は説話とほぼ完全に一致しており、これと異 なる主題は壁画からは読み取りにくい。あるいは同趣の説話に帝釈天が登場するバリエー ションが存在したか、もしくは転輪聖王を帝釈天の図像に置き換えるべき何らかの理由が あったか、そのいずれかであろう。では、そもそも転輪聖王とは本来いかなる姿に描れる ものなのであろうか。

 

5.転輪聖王と帝釈天の図像

 転輪聖王は古代インドの伝説における理想の王で、高い徳を備え、武力を用いず正法を もって全世界を統治するという。仏典に登場する転輪聖王は一人ではなく複数いて、釈迦 自身も誕生した際に転輪聖王としての将来を占われており、また釈迦が前世において転輪 聖王であったことを語る説話も見出せる。転輪聖王は固有の人名ではなく、王の理想像を 示す称号のようなものといってよい。では、一般的な王と区別して転輪聖王を描く際、そ れはいかなる姿に描かれるのであろうか。

 転輪聖王の特徴的イメージとしては経典に「七宝の化現」が説かれ、インドなどではこ れが標識となっている。七宝とは輪宝、象宝、馬宝、珠宝、女宝、居士宝、将軍宝の七種

井上豪 キジル石窟仏伝図壁画『大劫賓寧王の帰仏』と転輪聖王の図像

(11)

ヘレニズム〜イスラーム考古学研究 2019

13

キジル第

224

窟主室右壁・仏伝図

〔中川原育子氏撮影(

1995

年)〕 図

14

キジル第

224

窟主室右壁・仏伝図

(

復元描起図

)

15

ジャッガヤペータ出土転・輪聖 王像

(BC1-AD1

マドラス州立博物館

)

16

キジル第

123

窟天井・七宝図

で、徳の高い王が身辺に備えるべき良馬や戦象、良臣、美姫などを象徴的に表したものと 考えられる。王が転輪聖王としての徳を身につけたとき、これら七宝が化現するとされて いるのである。図

15

はインド・ジャッガヤペータ出土の転輪聖王像、台座に立つ王の周 囲に輪宝や珠宝など七種の図像が配されているのが確認されよう。ところが王自身の姿に はこれといった特徴がない。つまり七宝が配されていなければそれを転輪聖王と特定する のは難しいことになる。また七宝を描いた壁画はキジル第123窟天井にも見出せる(図

16

)。ところがこれには王を表す図像が見出せない。いわば王としての理想を象徴的に描 いたものであり、具体的な人物としての王を描いたわけではないのである。実はキジル石 窟の壁画には、転輪聖王の姿を描いた図像が明確には特定されていない。仏典の記述を見 ても、転輪聖王の図像的特徴については参考になる記述がなく、「容貌端正」など抽象的

(12)

な表現ばかりで、具体的な身体的特徴や服飾などには特に言及がない。では説話図などで 転輪聖王を描く必要が生じた場合、古代の画匠は何を参考にそれを図像化したのであろう か。

 数ある転輪聖王説話の中で、辛うじて間接的に容貌を説いた例がある。ニミ王(尼彌王 または南王)説話と頂生王(マーンダートリ王)説話である。両者はともに地上の王とし ての徳が讃えられ、天上の王たる帝釈天に招かれ会見する場面がある。容貌に言及がある のはその場面である。経典の記述には「天帝人王貌類一種。其初見者不能分別」(『賢愚経』

頂生王品8)「南王容體、更變香潔、顏光端正、與釋無異。」(『六度集経』9)とあり、両王 とも容貌が帝釈天と全く同じで、忉利天の天人たちにさえ区別が付かなかったという。ニ ミ王や頂生王の説話はそれぞれ複数の経典に収録されるが、いずれにおいてもこの点は共 通している。具体的な容貌の直接描写はないが、王と帝釈天が同じ容貌であるとの記述は 極めて興味深いものといえよう。帝釈天と転輪聖王、並び立つ天地の王者は同様の徳を備 えており、その容貌までも同一というわけである。もっとも、そのように説かれているの はニミ王と頂生王だけで他の諸王については仏典に記述がないが、そもそも帝釈天との容 貌の一致は転輪聖王としての徳の表現なのであるから、それはニミ王と頂生王だけに限っ たことではなく、全ての転輪聖王に共通するものでなければならない。ならば帝釈天との 容貌の一致も、やはり全ての転輪聖王に共通する特徴でなければなるまい。転輪聖王たち はいずれも、帝釈天と同じ姿でイメージされていたことになる。

 壁画の図像に転輪聖王が描かれるとき、それを描き分けるためには七宝を描き込むか、

あるいは帝釈天の姿で表すということになろう。むしろそれ以外には描き分ける方法がな いといえる。ならば先の壁画に描かれていた弓矢を持つ帝釈天の姿は、実は帝釈天ではな く転輪聖王を意図している可能性が考えられよう。無論、「大劫賓寧王の帰仏」の異なる 説話バリエーションが存在した可能性も否定できないが、いずれにせよ両者の容貌が同一 である以上、壁画の図像は同じものになるのではあるまいか。

 様々な角度から考察してきたが、本稿で取り上げた壁画の画題は「大劫賓寧王の帰仏」

と結論しておきたい。

 キジル石窟の仏伝図壁画に見られる一図像について検討し、その画題を考察してみた。

作例はいずれも保存状態が悪く、しかも重要な部分が切り取られたり破壊されて全体の図 像が損なわれたものが多い。本稿では幸いにも古い調査写真や流出断片の研究成果に助け られ、図像を復元し画題を特定することができた。

 仏教図像は本来、経典や説法とならぶ仏教伝播の主要な媒体であった。壁画はあくまで 仏法を伝えるために描かれるものであり、見た者がそれを理解できるように描くのが普通 である。無論そこには仏教に対する一定の知識が求められ、また当時の社会における共通 認識が理解の前提となっていたはずである。古代仏教図像の解釈は現代の我々にとって決 して簡単なことではないが、それでも図像の特徴を合理的に検討すれば、そこからは相当

Masaru INOUE, Qizyl mural painting “conversion of King Mahā-Kalpina”and an icon of Cakravartiraajan

(13)

Japan Societyfor HelleniStic-iSlam arcHaeological StudieS 2019

量の情報を読み取ることができよう。無論、読み取られた情報が必ずしも仏典の記述と一 致するわけではなく、むしろ両者の照合で初めて図像の意味が判明したり、図像解釈の誤 りが正されることも少なくない。

 本稿では壁画の図像を仏伝説話「大劫賓寧王の帰仏」に比定したが、その過程で西域に おける帝釈天の図像と、それが転輪聖王の図像として描かれた可能性について指摘するこ とができた。壁画の「失われた意味」を探る試みはそれだけでも興味が尽きないが、そこ から浮かび上がる西域仏教の実像は、更に興味深い内容を含んでいる。西域壁画の図像学 は、仏教東漸の最も重要な一断面を明らかにし、また古代オアシス文化の実態を知るため の大きな可能性を秘めているのである。

1. 「屈支國,東西千餘里,南北六百餘里。國大都城周十七八里…伽藍百餘所,僧徒五千餘人,習學小乘教 說一切有部。」『大唐西域記』屈支国(大正新修大蔵経51 0870a17

2. 一般に「中心柱窟」とよばれることが多いが、図に明らかなように「中心柱」の名称は適当とはいえず、

本稿では「仏像礼拝窟」と仮称しておきたい。

3. 拙稿「キジル石窟仏伝図壁画「バドリカの継位」の図像的問題」(『てら ゆき めぐれ 大橋一章博 士古稀記念美術史論集』中央公論美術出版 20134月)

 「ギメ美術館蔵・キジル石窟壁画断片の原位置とその図像的意義」(『秋田公立美術大学研究紀要』1 

2014年3月)

4. これら寄進者像はドイツ隊によって切り取られベルリンに運ばれたが、第二次大戦の空襲で一部を除 き破壊されてしまった。

5. 上野アキ「キジル第3区マヤ洞壁画説法図(上)――ル・コック収集西域壁画調査(2)」(『美術研究』

3121980年)

 中川原育子「キジル第224窟(第3区マヤ洞)主室壁画復元の試み」(『シルクロード・キジル石窟壁 画の絵画材料と絵画技術の研究』科学研究費報告書 2016年3月)

6. 『賢愚経』巻7(大正新修大蔵経4 T04n0202_007 0398a190399a02 7. 『撰集百縁経』巻9(大正新修大蔵経4 T04n0200_009 0247c190248b25 8. 『賢愚経』巻13(大正新修大蔵経4 T04n0202_013 0440b07

9. 『六度集経』巻8摩調王經(大正新修大蔵経3 T03n0152_008 0049a18

〔付記〕本稿をなすにあたり、中川原育子氏から貴重な写真資料のご提供を頂いた。記して謝意を表したい。

参照

関連したドキュメント

単に,南北を指す磁石くらいはあったのではないかと思

ある架空のまちに見たてた地図があります。この地図には 10 ㎝角で区画があります。20

LUNA 上に図、表、数式などを含んだ問題と回答を LUNA の画面上に同一で表示する機能の必要性 などについての意見があった。そのため、 LUNA

• 燃料上の⼀部に薄い塗膜⽚もしく はシート類が確認されたが、いず れも軽量なものと推定され、除去

都調査において、稲わら等のバイオ燃焼については、検出された元素数が少なか

下山にはいり、ABさんの名案でロープでつ ながれた子供たちには笑ってしまいました。つ

大村 その場合に、なぜ成り立たなくなったのか ということ、つまりあの図式でいうと基本的には S1 という 場

SFP冷却停止の可能性との情報があるな か、この情報が最も重要な情報と考えて