経 済 的 一 側 面
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(2) 86. ︸﹂こでその後のイスラヱルの歩む道を象徴する蒲謡を一っだサあげてみょう︒1荒れはてたシォンの都路をたそが九ど. して︑彼等も彊引な政策をとりつづけた︒ユルサルム楴殿の破壌とともに︑イスラエルのすべては終つたかに見えた︒. とつても商業路として︑経済的︑政治的︑軍事的にエジプトと小アジア︑メソポタ︑ミヤを結ぶ重要な経路のかためと. 危機は霜頂に達Lた︒曾つてパレスチナはエジプトとバビロニア︑アツシリアの争奪の地であつたように︑ローマに. についてはすでに前にふれたのでここでは省路するが︑兎に角ローマ軍の進入とともに︑彼等の宗致的國家的生活の. る歴史であることを︑前提としてこの時代の律法問題を考える必要がある︒パリサイ派の律法學者の種々の精楴活動. 際倉したが︑しかしイエスの時代こそ悲惨ないわばイスラエルの民族史上最も暗黒な時代である︒むしろ異常に過ぎ. 要た示唆をあたえている︒しかしこれらの聞題について今ここでふれる饒裕はない︒イスラエル民族は多くの苦難に. た経過︑奴隷制の緩和︑ヨベルの年︑安息日の設定︑隣人愛の祀會観などはグロティウスをして︑彼の國際法への重. て動的な役割を果して歴史を動かしてきた︒たとえぱ遊牧杜奮から農耕文化への移行にみられる壬ーゼ五書に示され. 常の愛革に際し彊力な力を嚢揮し︑ときには柔軟に泣倉の偏つたカの綾和に努力し︑ときには浄化するなど︑きわめ. 特に律法學者バリサイ派の活動による︒イスヲエルの宗致原理はいわぼ生活のすべてを支える安定力として常に異. である︒宗教上の幾つかの重要な講原理をイスラエルの共同麗の政治杜會︑経済耐會にも生活の指導原理としたのは. 規定する原理である︒それは隣人に始まつて杜會︑國家にたいする生活の諸規定︑諸理論の鶴系をもつ宗致的世界観. を語る場合︑勿論宗致的な律法を中心にしてはいるが︑箪にそれだけに留まらず︑ユダヤ民族の生活全域にわたつて. ユダヤ致は一般に一宗致振と考えられがちであるが︑今日の吾々の宗致概念ではあてはまらない︒ユダヤ致が律法. ( −). 626.
(3) 87. ヲ. ピ. き葬儀の列がつづいていた︒學生たちは彼等の敬愛する律法學者を埋葬するためであるといつていた︒この行列をロ. ーマの警鯖兵さえ妨害もせずに通過を許した︒そのとき都城の門前で一行は立ち止つた︑學生達は棺をおろし︑おほ. ひをあけると︑ラビ・ヨハナソ・ベン・ザッカイ︵ヵき暫旨︸旨自印目σgN巴︵斤巴︶があらわれた︑この老齢の奪い. ラビは無事にローマの総督のもとにゆけるように學生達にわざわざ枢で運ぽせたのである︒突然の白髪のラビの出現. に驚くヴェスパシアヌス︵く窃雷阻曽豪︶に︑彼はこの世に遺すただ一つの願いをきいてくれるように懇願した︒し. かしそれは直接民族や︑聖都ニルサレムという間題ではたく︑ヤブネ︵旨巨①︶に學校をたてて欲しいということで. あつた︒高漫なヴェスパシァヌスは笑いながらこれを許したといわれる︒律法を學ぶ學校をたてるト﹂とが︑イスラエ. ルσ思想をのこしいつかは民族を再輿させるただ一つの遺された道であつた︒イエスの時代パレスチナは農耕︵牧蓄. をも含む︶生活を基礎とした楠政政治は艦りを皆げ︑律法學者の時代となつていた︒この時代にはイスラニルは最早. 軍なる農耕民族ではなくなつた︒彼等は本來農耕民族であり︑ヨセプォスが﹁よく耕され︑庭園のような観を呈して. いる場所﹂としてガリラヤを讃えているのは︒あながち故國への無隈の讃鮮であるとぱかりいえない︒砂漠は周邊に接. がつてはいたが︑勤勉な努力と工夫により︑荒野立陵や谷静に石と芙を取り除いて美しい耕地がつくられていた︒詩. 篇二八ノ三にあるように︑バレスチナの参の雨も︑肥沃な土壌も洗い去ることはなかつたし︑井戸や疎水も整備され. ていた︒季節が順調であれぱパレスチナの農夫は千均して他地域の五倍以上も︑豊作であれぼ藪十懐もの牧穫をあげ. たといわれる︒それは自國内の食糧として充分であるのみならず︑國外にも輸出した︒小菱裸菱などの穀類以外に︑. キャベツ︑玉ね喜︑レテ豆︑あぶら茶︑アスパラカスなどを産し︑ひさごは貧民の常食であり特に果物が豊富で︑葡. 萄︑なつめ︑梛子︑オリーブ︑いちじゆく︑シトロン︑あんず︑なし︑りんご︑マルメロなどがあり︑特にユダヤ︑. サマリヤの葡萄酒は良質で國外に評制であつた︒オリーブもまた豊富で艮質のものはガリラヤ地方のもので︑特にグ. 927.
(4) .88. シ・ハラブ︵o易ぼ目巴き︶の産は盲味のある上質晶の代名詞となつていた︒その他イス.フエルの主要な財源にはな. つめ榔子油や香料があつた︒その他香水やばら油をとるためのばらの栽堵も行われ︑死海︵ソドムの海︶からは襲や ダールが國内の需要はもとより海外にも輸出されていた︒. 女にユダヤ人は機敏で手先きが器用であるために手工業の方面でも長じていた︒後述するようにタルムード賓料か. ら︑吾々は無藪の手仕事についての讃美の言葉を見出すことができる︒おそらく︑これは第二紳殿破壌後のタγナィ. ームの葎法観を示すものであろうが︑しかしイエスがナザレの大工︑家蓄のくびき作りであり︑タルソスのパゥロ. ︵サウロ︶が天幕製造人であつたことを薪約聖書は偉えており︑長老ヒレルは壱こりとして働いたことがあり︑ラビ.. エホシュア・ベソ・ハナニヤは鍛冶の技に長じていた︒またラビ・ネフニヤは井戸掘り︑ラビ・エフーダはバン製造. 人︑ラビ・ヨハナンは靴屋︑ラビ・エフーダは築製遣人︑ラビ・エホシュアは製粉の仕事にたずさわつてをり︑枚塞. すれば際限がない︒タルムードからこの當時の手工業を大鴇四十種以上あげることができる︒手仕事は父から子にう. けつがれる︒タルムードには大工と大工の子︵乞晶員■σ彗乞晶雪︶というような表現があるように︑特にある仕事. に長じている技は家族以外に偉えないという覇は︑いづれの國を問わず類似した現象である︒更に手工業の嚢達は全. ﹁かめをケフ. 都市︑全邑が一つの職業を螢むといつた現象を呈する︒マグダラ︵︑ミグダルサボアヤ雪轟︷︑ぎ雲好象−ω註o︑印着︶. は布の染業がさかんであり︑ケファール・ハナニヤ・ケファール・シヒγは陶器製造で知られていた︒. 了−ル・ハナニヤに運ぶこと﹂︿無駄なことをするたの意であろうVは富時の諺にさえなつている︒.その他セフナリ. スは織物︑︿この都市はヘレニズムにたてられた都市で︑いわゆるセブォリス文明とLてキリスト致護生の重要た條. 件となつたと誰く學者もある︶︒ナザレの町はいうまでもなく大工と木工の町であつた︒おそらくイエスの時代には主 ■ 入と家族及び二三の職人からなる小さな家内工業が行われていたことは︑タルムードに﹂﹁アシュペアの上廠布製造の. 928.
(5) 89. 家族L. ﹁陶番製造の⁝⁝未クィ■ームの同屠著﹂などの表現によって知られる︒その他べート・カッダiド︵瓶製造の. 家︶︑べ−ト・ツーバ︵染織の家︶とも呼んでおり︑べ−ト・イツィーラハ︵σ①まく︑邑§9︶という疹合更に大きな 人手を用いた家内工業であつたらしい︒. ・﹂のように手工業︑家内工業の分化はみられるが︑しかしまだ大部分はミシュナやバライク︑種晋書で語つている. ように︑自作農︵バァアル・ハァバイートニぎ︑巴ぎ−冨ε︑オイコデスポテース︵之さ箒9まミ︵一で︑農業に從事. するかたわら副業として手仕事を行う場合が多かつた︒特にガリラヤ地方には多く︑イエスは大工を專業とし■たの. ではなく︑技がすぐれていたので︑需めに藤じて木工を製作したと説く學者もいる︒兎に角この自作農はイスラエル. の生活緯持者であり白ら所有する耕地を耕して生計を支えることのできた農民暦を指す︒こうLた自作農民はガリラ. ヤ地方に多く︑村落を形成しているが︑普通の概念でもはや村でなくなつても︑依然ケファール・ナフiム ︵内路彗 2印プo嘗︶︑ケファール・サバ︵斥①︷胃窪一旨︶などとよばれた︒. しかし小作白作などの概念は時代と場砺あるいは生活環境によつて一概に規定できない︒牧穫の蓄積︑貯蕾ができ. ず︑僅かな経済的憂動のために貧農におちいるものがあつた︒二一年の凶作︑あるいは働き手の病氣などでたちまち. 財産︑土地を失い︑目傭い努働者となり︑あるいは他の裕幅な自作農︑地主への借財のゆえに︑奴隷に賓られること. もある︒このような貧農の子弟は長男を除いては子供蓬は自らの努働力だけしかもたない日傭い螢働者として他の白. 作農︑地主に鯵われ︑事情によつては失業者として︑または乞食︑盗賊の群に投じたものもある︒. 土地に彊い勲着をもつ農民の中にはいうまでもたく生産の申堅となりイスラエルの穀類︑野茱︑果物などの敢引の. 基礎をなすものがいたし︑マッカベア時代・特にヘロデ王時代には王族や大祭司と深い麗係を虹つ地主暦︑あるいは. 商人で廣大な土地を研有する者もあらわれたが︑ローマの大地主︵5窯昌蟹竃︶程の耐禽的影饗はなかつたといわれ. 929.
(6) 90. る︒彊晋書でオイコノモス︵9§ミミ︵︶︑エピトローポス︵巾良﹃モ§η︶は︑こうした地主の財産を管理し︑地主は. 都市に居佳し︑放行中の間︑地主の財産を管理し︑所有地を見廻わる家令のごとき者が存在していた︒. パレスチナの職人や螢働者は律法の定めるところにしたがつて︑六年の契約がなされていたが︑ローマ時代になり. 一日でも雇われる者がでたために︑シェキールヨーム︵日傭い︶という語ができた︑こ㌻した日儘いの大部分は︑前. にのべた貧農や濠藩した自作農︑家業をつがない家男い三男であつた︒これらはもはや土地を所有せず富農に雇われ. るリークトース︵−︑ρ暮o艘・︶ともよぱれ︑このような者の多い村はケファール・イクタイヤと呼ばれていた︒特定の. 按術をもつ職人はポエール︵君︑色︶とよぱれているが︑これはおそらく幅晋書の中で誰も雇つてくれないために怠. けてくらす﹁目雇い﹂の話︵マタイニ一〇ノ一−七︶と同じであるかもしれない︒ミシュナ︵匡一穿冨︶トセプク. ︵↓oω艮蟹︶ではこのようた螢働者にたいする地主︑雇主の契約不履行︑損害の賠償を規定しているが︑これらは第二. 紳殿以後の文献であり︑もつぱら律法學著の理論的なもので︑現實生活には適用されなかつたらしい︒. イスラエルの耐會構成の中でその他重要な成員をあげると︑︵請負人︶というのがある︒これは地主︒富農から仕. 事を請負い螢働著を雇つて講負つた耕地の租税を梯い︑牧穫の二分の一︑三分の一︑四分の一をうけとる︒. エリーム︵︑Φ冒員小作農︶は地主から種子︑器具︑家蓄などを農耕に必要なものを借りうげて土地を耕し︑牧穫高. の二分の一︑三分の一︑四分の一をもらう︒イエスの時代パレスチナは白作農︑小自作農が比較的仁多かつたので︑. ローマのコロヌス︵Oo−O⁝ω︶程の祀含問題は一般的でなかつたという説もある︒しかしエリームと地主との闇に紛. 糾や敵螢が生じマタイ偉の﹁悪い夫﹂の比職も生れている︒︵二一ノ三三−四二︶. 右にあげた努働者は律法上ぱ濁立した人聞であり︑その欝働力竺買られはしたが︑彼等の身麗が異國人に費買され. 石ことはなかつ丈︒イスラエルの奴隷については︑奮約聖書やタルムードに諸種の規定があり︑イスラエルの各時代. 930.
(7) 91. の豫言者︑律法學者によつて強いヒュiマニズム︑隣人愛の立場から制限を行い︑またヨベルの年たどの解放の策を. 講じた︒奴・隷は六年目ごとに解放されるがゆえに︑ローマや他の東方諸國の奴隷のように終身の奴隷の意識はなかつ. た︒主人と奴隷の闘係は軍純た素朴な生活が支配していた時代には︑律法の定める秩序が保たれ︑奴隷にたいする残. 虐な行爲を戒めるヒューマヒズムの精疎がゆきわたつていた︒︒︵それゆえユダヤの學者の申にはイスラエルの奴隷制. ﹁日傭﹂とは明らかに異つ. の存在を否定している者もある︶︒しかしイエス時代には過去の律法の講規定と全く逆の方向へと進んでいた︒イスラ. エルの奴隷は自分の仕事や主人をえらぶ穫利をもたない鮎からみて︑前期の﹁雇われ人﹂. ている︒﹁ヘブライ人の奴隷を得る者は︑主人を自分でえらぶ者である﹂︵9ま易巨目曽︒︶の主張も︑イエスの時代 には︑軍に律法解緯の理論にとどまつていたようである︒. ヘブライ入の奴隷はその主人の所有であり︑精紳的にも身麗的にも主人の所有であつた︒奴隷は主人の食卓の残り \ 物を食べた︒云ひつけを守らぬ場合︑答で懲められた︒︹エドアルト・マイヤー︵向庄§a買ξ胃︶はローマの奴隷制. の悪影響を彊調している︺︒ヘブライ人の奴隷はイエス時代以前には藪も少く経済的文化的な役割は重要でたかつた. がイエス時代の政治的宗致的た愛動において重要な役割をなしたことを無硯できない︒このヘプライ人そのものの奴. 隷以外に︑ティレ・シドソから運ぼれてきた奴隷に﹁カナーンの奴隷﹂がある︒彼等はイスラエルの耐會で重要な役割. をはたしていないし︑宗致や政治運動に参加しないが︑彼等の進出は他國の場合と同じように︑イスラエルの耐禽機. 構におそろしい弊害をおよぼす結果を生んだ︒すでに﹁カナーンよ呪われよ︑彼は奴隷の奴隷の兄弟となるであらう. −−﹂︵Ω9窃げ㊤3とあるように︑カナーン︵カツシイトも同じ︶の奴隷は︑怠漫で放縦︑無恥で淫蕩であつたと. いわれる︒しかもカナーンの奴隷の債格はヘブライのそれよりも比較にならない程低く︑今までのイスラユルの律法. によつて保護されていた場合と異り︑全く物晶同穣の扱いをうけていた︒これらの奴隷は特別の帽子︵ぎ巨︶をかぶ. 93i.
(8) 902. せられ︑あるいは鉛を頚や衣服にっけ︑記號がっけられていて︑逃亡してもすぐ捕えられた︒奴隷の仕事の上の損審. や︑その他身覆上の傷害を加えられた場合︑奴隷白身ではなく︑その主人に賠償が支沸われたことはいうまでもな. い︒彼等は鞭や革の鞭でたたかれ︑不具になつたとき︑はじめて自由の身となつた︒彼等の仕事は薙多であるが︑主. なものをあげれぼ︑裁縫︑理髪︑パン造り︑料理︑眞珠みがぎ︑子弟の養育︑歌手︑踊り子たどがある︒彼等は法葎. 上は家庭を持つたり︑緒婚する自由はなかつたが︑實際には個々の事情により一概にいえない︒ヘロデの弟︑フェロ. しらつた錨の圏がユダヤの貨轄である︒マッカベア王家の海外貿易の政策は一貫してをり︑同時に凋立Lたイスラエ. にさえ通商したと偉えられている︒そデ4ソにあるマッカ︑ベア王家の墓碑には小黍の穂︑葡萄の房︑いちぢゆくをあ. ヤの商船は地申海︑黒海はもとより︑ナイル・ユウフラテス︑フランス︑スペイγ︑キレー︑不1︑カルタゴ︑インド. と要求しているのは︑宗致的な理由よりも︑ティレ・シドンに劣らぬ良蒔た海港都市を必要としたからである︒ユダ. 來地申海滑岸の諸都市がユダヤの支配に屡するようになつたが︑たえず滑岸地域の佳民にユダヤに饒属するか︑否か. 態の改善︑ガリラヤ地方の開拓以外に︑一﹂のヘレ畠ズムの秩勢に乗じた海外貿易にあつた︒シモン・マゾカベウス以. 業貿易の中心とたりギリシア商人との接鰯するようになつた︒マッカベウス王朝のとつた政策はパレスチナの農業扶. ︿ノニイ︵争彗o邑︶などはこれを示している︒ヘレニズムにはいつてギリシアの諸都市とならんでエルサレムは商. に學んだのである︒ネヘミヤ記にでてくるレシュユール︵−霧oぎ♪商品交換行商を意味する︶︑ハノート︵g昌oけ︶︑. 統治の時代には︑パレスチナの商業はカナーγ人によつて握られていた︒イスラエルは︑彼等から商業の方法を家第. ら商業貿易に依存した民族ではなく︑農耕が主であつたことは預言書などの出輿をあげるまでもない︒ペルシヤ帝禺. イエス時代において特筆しなければならないのは蘭業の護達である︒イスラエル民族はフェ昌キヤのように最初か. ⊥フ︵冨津o轟︶ぱ女奴隷を情婦としていたが︑ヘロデをもつても二人の闘係を引きはなすことはできなかつた︒. 躯.
(9) ルの再建と繁榮の基礎となつた︒ ■ このような海外貿易の襲展は當然國内の商業を活緩化し︑ヨオーム・コニシヤハ︵きo昌ぎ易筈市の日︶羊︑エルサ. レムヘの季節毎に集る巡濃や祠祭日などで取引が盛んになり︑市の日は次第に延長して途にシヨゥキーム︵︑ぎ老a昌. 常設の市︶が設げられた︒パレスチナの主要た輸出晶はさきにのべた小菱︑オリーブ︑葡萄酒︑果吻︑香料などであ. り︑タルムードにあがつている商晶は四百種目以上もあり︑そのうち二二〇種目位は外國製晶である︒商晶の名稽︑. たとえぼ﹁サンダル﹂︵ω彗o巴一︵ミPoサαζo定︶﹁プィリオーン﹂フェルト帽勺巨−ooP辻ζoミ︶スダール︵︿ンカチ. 窒註ユω邑弩ぎ曽︶などがヘブライ語の語にはいつてきたことは特記する必要があらう︒商業ルートはエジプトバビ. ロ皇ア地方など近隣の國々に網の目のようにひろがり︑ユダヤの商人の藪はろぱや醗駝によるネメレート︵z⑦昌巴g. 険商︶と同じ位塘えたといわれる︒アレクサンドーロス・ヤンナイウス治世以後︑かなり大規模の商人があらわれ︑. ディナルのみならず︑タレント貨轄をあつかう金融業著があらわれ︑また爾替屋もあらわれている︒カルバ.シァブア. ︵穴巴げ印ωげ與げ目凹︶︑ニコデモス・ベン・寺コリオン︵Zざo①①冒昌⑰げ①b◎oユo自︶︑ティシート・︿ア・カサーフ︵↓ω岸ω旨. ブ印 内與窪昆︶︑エリアザール・ベン・︿ルスーム︵同−①軸Nφ﹃σ①目饒與お賞昌︶︑マルタ・・バース.ボェトウス︵竃饅ユげ印. 要な地位を占めているぱかりでなく︑富裕であつた︒以上はイエス時代のイスラエルの経済的な構成の概略にすぎな いo. ( 二). 樺法學者によつて集成されたタルムードに見られる特質としてまづ肩につくのはイスラエルの讐働観で︑勿る︒シェ. 933. ぎまω8亭易︶などはタルムードに揚つている富裕者の名である︒その他エルサレム在佳の貴族階級は赴會的に重. 93.
(10) 94. でイでは失のようにいつている︒﹁努歓を愛し︑支配を瞥み︑穫力を瞥め﹂︵艮﹃ぎ>σO員. 一ノ一〇︶讐働すること. はイスラエルにおいて至上命令であつた︒遠く潮ればアダームが楽園を追放されたとき︑額に汗してパンを食べるこ. とを碑より命じられている︒これは一般にオリエント世界のペシミズムと解緯されているが︑しかし他面宗致史の立. 場からみれぱ︑救いが約東されているがゆえに︑むしろ人聞の爲すべき行爲のあり方の規定であるともいえる︒彼等. の世界は徹底した螢働の世界であり︑この勢働は﹁︿律法をV學ぶために手のわざを身につけよ﹂一︵旨一亭︒む夢刈目︶と. いう目的観をもつ︒すなわち手のわざ︑努働は律決を學ぶ手段となつている︒紳の致えは螢働を通して知られるので. ある︒それゆえ﹁手のわざを身につけずに︑葎法を學ぶ者は無意味であり︑罪へ導く﹂︵雪艮①・>げO旨忙︶ことを. 意味する︒律法を理論として考えずに︑あくまでも現實に則して︑生活の中からみてゆこうとする︑したがつて律法. の研究にたづさわる者に特別な職業意識はない︑この難はギリシアの哲學者やい︒わゆる思想家といわれる人々の生活. と努働の考え方といちぢるしい封照をなすものといえるであろう︒イスラエルは歴史上多くの苦難に出會つているが. ゆえに︑勢働を重んずるようになつたという解緯は當つていない︒彼等は實存の申にたえず努働の意義を學びとつ. た︒それゆえユダヤ的な表象世界と思惟方法に生きたイエスが大工の仕事をしていたということは︑何ら比楡的に考. えたり︑梯の子が賎しい俊象をとつたと解緯をする必要はない︒﹁手のわざ﹂をもつこと︑﹁努働﹂はユダヤ殖禽では. 誇りであり︑葎法學者となるために︑手のわざを持つことが必須の條件となつてをり︑これは宗致にたづさわる者の. 特灌意識︑を防いだ︒ラバン・ガマリエールは﹁勢働のわざを身につけているものは︑何にたとえられるか︒石垣でか. こまれた葡萄の山に等しい︑⁝⁝﹂︵9創.H︑︑︶といひ︑父親の子供にたいする義務は︑﹁割穫をほどこし︑律法を學ぼ. せ︑威人したら妻をとらせ︑手仕事を學ばせる−⁝﹂ことにある︒︵o声墨茗︶︒彼等の生活は二目の三分の一を葎. 法の研究に︑三分の﹂を所りに︑三分の一を螢働にささげることにあるL︵声旨器げ・竃窃〇一岩5冒︶手のわざ︑努. 934.
(11) 95. 働は實践的な行動的たイスヲエル人の思惟方法の給晶である︒無から蒋が創蓬したように︑行爲による生活の充實を. 理念とする︒紳の創造の信仰が︑人間に創造的な︑生活行爲を命ずる︒楴の創造の行爲に比べれぱ人問の行爲は微々たる. ものにすぎないにしても︑人間もこれに關興することによつて生存の意味を見出すのである︒ラバン・ガマリエール. はいう﹁この世の吾等の手のわざとむすびついた律法の研究こそ最もすぐれたものである︒何となれぱこの二つのこ. ︵ヵ二①巨宗︒O巨8自︶と種言Lている︒. とに淡頭することは罪を忘れさせるからである︒︵罪に仕へることがないからである︶︵>σO夢 ㌣−N︶したがつて ﹁息子に手のわざを致えたい父親は息子に盗みを致えるのと同じである﹂. 子僕に封する戒めとして﹁人は父や旭父から偉えられた手のわざを棄てたり︑かえたりしてはならない﹂︵崖寿①一. トびo艘電︶ともいつている︒ラビ︑エフーダは働くために︑肩にかごをかついで﹁偉大なるかな手のわざ︑手のわざ. こそ主を崇める!﹂と弟子達に語つたと偉えている︒︵乞︑︷.亀旨︶このような手のわざの讃美は﹁辞の塑幅は手のわざ. をなす者の上にのみある﹂︵国鼻①>ぎ撃9︶﹁紳はくイスラエルがV手のわざをなさぬかぎりて︑︿イスラエルにV. 留まらないであらう︒﹂︵国淳①>ぎ蟹3にも見られる︒. ラビ・メイールいう﹁人は息子に潔められた手仕事を學ぶようにさせたさい︑そして富める者も貧しい者もいづ. れをもく人間としてV奪敬させたさいく異本によれぱ富む者も貧しい者にも所りなさい︒V伺故ならぼ手のわざその. ものには貧富はないから︒貧富は手のわざと麗わりがない︒むしろこれは人間各自の慾望にもとづくのであるから︒﹂. ︵o巳宝︶手のわざ︑労働の意義を致へること︑貧富の間題は特にイエス時代になつて重大な問題となつていたが︑. 兎に角ラビ達は磐働の意義を︑先づ人々に自費させ︑律法の成就を目ざしたのである︒最早國家を形成することの不. 可能なイスラエル民族が︑葎法を中心として聖なる芙同鶴を理念とする︒磐働の意義と律法の意義を知り且つ實行す. ることが︑もはや祭司制度の上に立たない葎法學者達が理念としたイスラエルであり︑・﹂れによつて民族の頚魔を防. 935.
(12) ぎ︑生活の再建を企てたのである︒. 手のわざ︑砦働は嘗然農耕の讐働をも含み︑これに封するラビ達の聾明が樽えられている︒. ﹁農耕にたづさわるも. のにとつて︑わざは最もよきく生活のV保誰であり︑健康と精碑の安らいを輿える﹂︵﹄︑げ饒昌︒艘N畠︶﹁汝が目己の耕. 作によつて得たものを︑た左へ嚢菱を・食べたくを︑大地を耕すのは人問のっとめで山竃︒一二︑σ︑昌︒け一一閑吉一. ﹁出來上つたパンを頼りにする者の生活は確實ではない︒﹂︵竃⑦冨oぎま藺畠︶﹁︿イスラエルのV人は白已の土地を賓. つてはたらない︒﹂︵︸實①ω巨乎肉ぎ註︶︑﹁働く土地をもたぬ者は人闇ではない︒﹂︵尋団一宛叫σ﹄問︶この最後の畠一一暴は. 土地所有の耕作をイスラエル農業の理想とLたものである︒家の言葉はイェス時代よりははるかに後であるが︑﹁未. 來には手工業者と農耕者と同盟するであらう︒﹂︵弓o﹃旨穴〇一一彗ぎ︶という表現は偉統的な律法學者の思想的内容を. 暗示しているとおもわれる︒. すでにのべたように穀物︑オリーブ︑葡萄︑香料などの農耕生活と︑これにともなう手工業がイスラエルの國家形. 威の基礎であり︑毛ーセの楴政政治の理念であるとおもわれる︒農耕牧蓄にもとづく豊白口目な比職は奮約聖書のいたる. ところにあり︑豫言者が清熱をもつてえがいた理想の世界は︑イスラエルの民が皆葡萄︑オリーブの樹蔭に坐る質素. な自作農の生活である︒これは丁度ヨーロツパ申世の修道院がイタリアの自作農σ生活を模範にしたのと似ている︒. このような理念は律法學者にも受纏がれ︑イスラエル共同耐奮の倫理意識となつていたと老えられる︒したがつてイ. スラエル民族の宗藪と倫理はまず第一にバレ又チナの.土地と結へついた経済的な濁立を保つことが璽言着や律法寡者 の聾明の本質的な動機であつたと思われる︒. 農業と手工業にたいする態度に比べて商業に数しては著るしく漕極的である︒清極的であるばかりか︑否定的であ. る︒すでにベソ・シラーの智想の書では﹁商人は不正から逃れることは難かしい︒小商人は罪から逃れることは難か. 936.
(13) 97. しいL︵ω岸竃己霧︶と銭べ︑﹁敢引は人々に富をあたえるが︑またどん底にも突き落す︒しかし手のわざは苦難のとき 1帖 にも汝を保つであらう︒﹂︵撃邑5串ざ8︶と手工業と農耕を賞揚している︒ラビ・シモγベソ・エリエゼールもいう. ﹁商責をする野のげものや島をみた者があるか︒彼等は句の恵いもなく生きている︒吾々人間は主に仕えるために創. られている︒:⁝﹂︵o員ω畠︶いアバ・グリイヤはいう﹁息子に騒馬の乗手︑騒駝の乗手︑理髪師︑船員︑小賓人にさ. せてはならない︒彼等の商賓は盗賊の商賓であるから﹂︵9ダω︒︶これに数しラピ・エフーダは﹁騒馬の乗手は多く. は悪いが︑賂駝の乗手は誠實である︒船員は員面一目であるが︑馨業にたづさわるものは地獄におちる︒﹂︵ρ巨ω品︶とい. つている︒㌧﹂のような愛化はラビ達の間で商業にたいする見解は一定していなかつた︒むしろ現實生活を規定するた. めにその都度解羅が加えられたと老えられる︒LかLヒレルはいう﹁鎗り商責に漢頭する者は︑賢くならない﹂︵>σoま. 讐︶とか︑﹁取引をひかえ目にし︑律法に漢頭せよ﹂︵>げO暮宅︶というラビ・メイールの言葉は農耕︑手ヱ業の欝働. が樺法の成裁のための手段として債値をみとめられているのに比べて︑殆んど蔑硯乃至は否定しようとしていること. がうかがわれる︒このようなラビの聲明は一般原則からみれぱ公平た見解でたいようにみえる︒しかしイエスの時代. の歴史的現賛からみるならぱ一膝同清の験地がある︒イスラエルの都族のうち︑ニフライームはカナーンの北部の豊. 饒な地域に定佳し︑早くからカナーソの文化の影饗をテげたといわれるが︑イスラエルの國家形威後の宗致的文化的. 危機は繕えずカナーソから侵入した︒カナーγ人はイスラエルにおいて殆んど商人の代名詞に近く︑イスラエルの農. 産物は主として彼等の手を経て海外に輸出された︑墾言すれぼイスヲエルの経癖的た致命傷は地中海の海港がカナー. ソに占められていたことにある︒この覇については各蒔代の指導者が苦心したところであり︑カナーソの経済カ︑及. び宗致はイスラエルに侵入してたえず宗致史上まれにみる唯一碑致と多紳教の相剋となつて璽言者の奮超をうながし. た︒唯一碑致の多鱒致にたいする戦いはカナーγぱかりでなく︑アッシリア・バビロニア・エジプト・シリアなどと. 937.
(14) 98. の關係もあるが︑イ又ラエルが宗致を淳化し純棒た信仰にまで高めたがら︑同蒔にこの信仰を保持するために︑異致. の風俗習慣︑特にカナーンの商業カにたいして︑経済的な潤立性をはからうと苦心Lた︒奮約聖書には商業︑取引に. 關する肯定否定の聲明はない︒それ故ヘレニズム︑特にイエス時代に至るまでは︑一般に考えられているよラな意味. で︑ユダヤ人は商業民族ではたく・農耕・手ヱ業の民族である︒ローマの麦配にはいるとともにイスラエルの商業の. 嚢達は顯著とたつた︒國家は喪失し︑國家的基盤とならぶ碑殿の再度の壌減は打撃であつた︒完全にローマの一麗州. となり︑ギリシア︑カナーソの蘭業はローマの政治カと結びついてパレスチナに侵入し︑民族酎會を更に分解し頽. 嬢化を促した︒このようた異民族の商業化を防止するために︑もはや國家をもたず碑殿をもたずに︑精紳の凌り所を. 聖書に求め信仰にもとずく斌會共同彊の組織化を律法學者ははかつた︒彼等が璽言者の理想を目穣とし︑共同杜會を. 堅固にさせるためには︑イスラエルの土に根ざした農耕手工業の磐働を基礎にしたのは當然である︒そして子弟に律. 法を致え︑︵少年の組織的致育はシナゴーグで行われた︒︶あるいは組合︵古代イスラエルにおいて駝に小規模ではあ. るが欝働者の宿舎の形態で︵イザヤ七ノ三︑エレミヤ︑三ノニ一︑匿代史上四ノニ三︶組合が存在していたともいわ. れているがヘレ呈ズム以後︑パレスナチはもとよりディアスポ三フのユダヤ人によつて相嘗大親模な手工業の組含︑. 爾業の組合が活動していた︶︑内部における生活の扶助︑組合闇の協同が行われた︒ラビ達の商業に關する聲明はこの. ような事情を考慮しなけれぱならないL︑明らかに商業一般ということを問題にしているのではなく︑口﹂マの麦配. とともに侵濠した異致徒の商業カとそれに巻き込まれ︑商業化する・目民族の傾向に蟄虚するものであつた︒. 吾々はこの時代の現賛は今まであげてきた螢働にたいする奨働︑商業にたいする否定的な態凄とは正反蟄であつた. と︑考えられる︒いいかえるならぼ律法學者の多くの聲明にもかかわらず︑農民の土地は人手にわたり︑肩儀もいまた. 奴隷となり︑手工業著の生活にも破綻を生じ︑口iマの商業によるヘレニズム化の傾向は急遼にすすんでいた︒それ. 988.
(15) 99. ゆえ棒法撃著達の警昔はむLろこのような事態に蟄するものと解してよい︒木エス時代において経済的な崩壌をもた. らしたものは︑特にヘロデの重穐をあげなげれぱならない︒ローマ以前のマツカベア王朝におげる徴税については不. 平はきかないが︑ヘロデの時代にたつて︑買ーマの重穐の軽滅の歎願にユダヤの使節が展々ローマに赴いてをり︑ユ. ダヤ戦争のごとき事件の原因もここにもとづいている︒ヘロデは宮殿︑異致徒の紳殿を薪たに建て︑自國以外にダマ. スカス︑ティレ︑シドソ︑ベイルート︑ビブロス︑トリポリス︑ア︒ツコーなどにたてた︒アンティオキアの都は遣を. テローナイ. ハ〒ルトロ4. ︵Ω①匡員徴税人︶は行政機闘︑公共團彊から穐の取立を講負う職業であるが︑. ヘロ. 大理石で敷きつめ︑アテiナイのアクロポリスには彼の彫像が祀られたといわれるが︑これに反しイスラエルにはた えず重穐を課した︒ゲビーム. デの頃は盗賊︑悪薫︑人殺しなどと呼ばれた︒徴規請負人と罪人は蓮語で種晋書では同一硯されていた︒セレウコ. ス王朝では土地︑果樹︑麗︑家蓄への課挽︑一人頭税︑婚姻規︵王冠税︶があったが︑ローマは家屋︑道路︑小委︑都. 市居佳︵入居︶の税︑水の税など生活必需のものにまで及んだ︒ユダヤの総督になることはローマの政冶家がローマ. の政界へ登場するための有力な財源であり︑ローマの指令よりは更に苛醗た敢立てを行い︑徴税人は更にこれを何倍. かに重くした︒プリ皇ウスによればパレスチナの家内工場で生産された商晶の原慣の百倍でローマ市場で責買された. といわれる︒更にイスラエルの手工業︑農民の生活をおびやかしたものはさきにあげたカナーγの奴隷の流入であ. る︒葎法の奴隷制へのヒューマニズム的な反援と︑奴隷保護の法令の全彊系は殆んど口iマの政策の箭には無力化し. てしまつiた︒苛規のために自作︑小作農は土地を奪われ︑日傭馨働者となり︑あるいは奴隷に責られ︑ローマ人の地. 主や︑その他富裕者のもとで働いたが︑過熱たイスラエルの日傭欝働者と︑奴隷との競争は結果は明瞭である︒彼等. はカナーソの奴隷よりはるかに低い立場におかれ︑手に職あるものでも賃銀は低かつた︒それゆえいわゆるポエリー A・ベテリーム︵OC①言二︺9¢=昌失業の手工業着︶が増加していつた︒. 939.
(16) た︒しかしラビ蓮には急激なイスラユルの共同祓禽の分解がすすめぱ︑すすむ程︑彼等は共同殖舎の保存するための. 蒲極的な方法で︵爲し得る最後の線で︶樺法を中心とする民族の結合をはかり︑生活の頽嬢の傾向をくい止めようと. した︒しかしこのような律法の防壁をつくることにより︑また彼等の律法にたいする嚴格な精補が高まるにつれ︑現. 940. イェスの時代急激に非エダヤ人︵異致徒︶が移佳してきた︒それは軍陵︑商人︑その他であるが︑イスヲェルの宗. 致と芙同縫を守るためには︑最早瞬境で防止する軍事カも國家の統治穫もなかつた︒彼等は自園の内部において爾者. の場合︑混鼠をさげるために︑また彼等の生活を異致徒の文化から守るために︑巖しい法令を設げた︒・﹂れは消極的. な態度であり︑多くは閉鎮的であるが︑ト﹂のような生活の崩壌と混観の申において蔵り立つたものであることを前提 一目イiム としなけれぱならない︒二三の例をあげると﹁彼等異致徒︵Ωo饒旨︶は淫蕩のためにけがれ︑⁝⁝流血のためにけが. ズム文化︶の侵鰺︑商業の襲達は一時にLかも急激に來た︒商業の護達自髄は前後の歴奥的事構を考慮に入れたけれ. 異致徒にたいするこのような態度は商業にたいする場合と同じである︒國家の滅亡︑疎殿の破壌︑異致徒︵ヘレ呂. たならぽ逃げ︑彼等の手の動きを防ぐようにせよ﹂︵弓.>︒N胃φ3. ヤ︶の婦人は異致徒と一入でいてはならぬ︑彼等は淫蕩であるから﹂︵>.S轟N一︶﹁イスラエル人は異致徒と出合つ. が根こそぎに絶やされるところ︑讃美せよ︑吾らの土地から偶像が根ナ﹂そぎに絶えることを!L︵団籟§彗ら一︶■﹁︵ユダ. 目後まで物を責買してはならない︒﹂︵︾・爵轟〜︑︶﹁異致徒の食べるパγを食べてはならない︒﹂︵︾・N睾o︒濯︶﹁偶像. 浴場を貸せてはたらない︒彼等は安息日に沐浴するから﹂︵>.s§鴫︶﹁異致徒の祭りの三目前から︑また祭りの三. るから︒﹂︵>︒N弩印.巳︒蜆︶﹁異致徒に土地およびこれに附鰭﹂た竜の室貿つてはたらない﹂︵声冒轟宅︶﹁異致徒に沐. れている﹂︵>・冒轟N−H︶﹁イスラエル人の子供を異致徒に哺筑させてはならない︑彼等は偶像崇拝のために養育す ○. 00. ぼ自然のいきほいであり︑ヘレ;ズム文化の交流も本來は彼の硯野を廣くさせ︑生活を豊かにさせるべきものであつ. ユ.
(17) ユ. 01. 實の勢いは反蟄の方向にむかい︑イスヲエルの民族の生活を指導するカを失つていつた︒律法への忠實さはそれ自彊. 重要な意味が認められるけれど︑彼等の糖楴には現實の歴史の把握に鉄けるものがあつた︒. 律法嚴守のラビ達が宴言したハラカに蟄しておそらく成立年代は後代に麗するものであらうが︑タルムードの申に. ︵斥o轟︸︶. という人物に次のように語らせる. ハガダ︵プ轟邑嘗︶の一群がある︒これは律法そのものを否定するのでぼないが︑律法が現實生活とかけはなれている. 矛盾を読語や警え話でついている覇非常に與味深い︒. たとえばモーセがシナイ山の啓示をうけたとき︑ともにいたコラ. ﹁⁝⁝そこにはただ十誠だげあつた︑他の犠牲の規定や︑祭司への鱈物︑祭司のつげる総︵祭司の特灌を示す︶もな. かつた︒−・⁝﹁︵弓印寿鼻ωぎg︸内o§g︶︑これは律法の眞の意味が何であつたかを反省させ︑宗致はまづ純樺た宗. 致感情にかえらなけれぼならないこと︑および祭司制度を批判する︒爽の警え話は特に痛烈である︒﹁コラの語るの. に︑ある日一人の寡婦と二人の孤兎が自分の畑を耕さうとすると︑モーセが來ていうのに︑﹁おまえ達に一つの鋤で. 牛と馬を用いてはならない︒という︒彼等が種を蒔こうとすると﹁おまえ達は畑に異る種をまいてはならぬ﹂とい. う︒彼等が刈入れるとモーセは﹁落穂を残して置け﹂という︒彼等が納屋を作らうとすると︑﹁祭司に十分の一の施. ﹂をせよ﹂という︒寡婦は耕地室買つて︑二匹の羊を買い︑彼が生れると︑アーロソがやつて來て∴﹁初子は私に賜. 物としなさい︑初子を潔めて楠にささげよ﹂とあるからと命じた︒彼女が羊と地を苅ると﹁そのすぐれたものを與え. よ﹂と命じた︒彼女は最早祭司の要求に耐えられず︑羊を殺してLまう︒するとアーロンは﹁牛羊のいづれにせよ犠. 牲を棒げるものは︑その肩︑煩︑胃を祭司に験げよ﹂と命じた︒そこで彼女は自分で廃いて食べようとするとアロー. ソは﹁すべて播祭とするものは祭司に屡する﹂といつて︑皆奪つていつた︒このように祭司は固窮している者を律法. を引合いに出して虐待したのである﹂︵o﹃︑向冒g①p−雪・雲轟童宗げ簑四名亙8oσ︶このくガダの例はこれの祭司. 94i.
(18) 律法の言葉を引用している︒葎法護守の人友に猷けている酉を彊く少しどぎつく示している︒しかし吾︑はこれを裏. い︒. ︵顯旨ブp賢s︶は直議すれぼ土地の昆とか︑ひいてはイスラエルの. ︵一ノ一八︶. 書酒を歓み︑子供と饒舌し︑アム・ハア・アレーツの伸間に加わる者は︑世界からはみ出す者となる﹂︵旨・>げ◎暮. ず︑アム・ハフ・アレーヅは敬慶を鉄く﹂︵勺ポ拳o爵︸藺︶とのべ︑ラビ・ドーサ・ベソ.ハルキナスは﹁朝ねむり︑. 者︶︑律法を學ぶ者︵邑冒5 ぎぎ旨︶︑ハベール︵ぎ冨H賢者の子︶がある︒ヒレルは﹁致養なき者は罪をおそれ. ブiル︵巨ポ致養たき者︑民衆︑俗人︶の語がある︒更火これと反蟄概念をなす者にハカーム︵げ凹〆印員智慧ある. 通説である︒ラビ文献によれぽアム・ハア・アレーヅは律法を知らない者の意にとられている︒これと類似の語に. はイエス時代の律法學者やタソナイーム︑アモライの葎法學者において重要た意義喧もつようになつたことは一般の. エズラ︵一〇ノ一一㍉ネヘミヤ一〇ノ三一などによれぱ︑イスラエルに移佳した異致徒をもいみする︒しかしこの語. 昆を意味する︒エゼキエル書ニブ一九では統冶者と雇別される廣い昆衆暦を指してをり︑工ひ︑︑︑ヤ︑. いたかにふれてみたい︒アム・ハア・アレーヅ. 以上の難を考慮にいれて最後に葎法で屡々取上げられている﹁アム・ハア・アレー−ツ﹂が當時どんな意疎をもつて. r︑. 三). きな活動力を果し得る機能をもちながら︑それをせず︑蓮に民衆の精紳的物質的な重荷となつていた事賓は箏われな. の祭儀上の世俗的た務めしかLなかつた︒律法撃者の活動を除いて︑この禁司達は本來ならばイスラエルの殖倉に大. 央地方を通じて一萬八千人位の祭司がいたと推定されている︒察司達は︑直−マの力の背後にかくれてごく狭い範園. 書きするようたことを︵−特に繭晋書の中に−︶この鴬蒔の察司の扶況に見る干︑しができる︒バレスチナには賞蒔中. 102. 942.
(19) oo;︶律法學着は常に律法を求める者と求めない者︵アム・︿ア・アレーヅ︶とに俊別する︒アム.ハア.アレーツは. 稚倉の上暦にゐようと︑下暦であらうと︑また地方の民衆であらうと︑都倉に佳んでいようと間題はない︑ただ律法. いうか︒シェマをタベに朝に唱えない者である﹂︵宙①§ぎ亭ミ昏︶﹁人間に四つの型がある︒﹃私のものは私のもので. あり・汝のものは汝のものである﹄という人は割穫をうげた︵遺徳的な︶人であり︑﹃私のものは汝のものであり︑. 汝のものは私のものである﹄という人はソドムの人︵アム・ハアアレーツ︶である︒﹃私のものは汝のものであり︑. 汝のものは汝のものである﹄という人は敬虜な人である︒﹃汝のものは私のものであり︑私のものは私のものである﹄. という人は無諦論者である︒﹂︵竃.>σoま蜆︑自︶これを見ても明らかに遣徳的た唆別であり︑規定であることが分か. る︒律法の告無に無知な者︑卑しい者︑異邦人との混血の佳民︑怠墜な者などが含寺帖れる︒ヒレルのさきの言葉は彼. 等が宗致的︑倫理的な關心にうすいがゆえに非難されているのである︒Lかしながら祭司制度の上からみれぼアム.. ハァ・アレーヅが察儀的な潔めを行わず︑したがつて律法のさだめる十分の一税を納めない人々であり︑いわぼイス. ラユルの律法の親定からはみでている人々である︒Lかし棒法の規定からはみでている人々は殆んど律法や律法に近. い事栖さえ知る機會をもたない地方の佳民︑特に農民をも含む︒あるいは徴規人とか︑陵商︑商業にたづさわる人々︑. あるいは葎法を守りたくてももはや守ることのできない漢落して回傭いや奴隷となつた多くの農民など︑兎に角もは. やイスラゴルの律法の理念が示す塞礎から麹脆し︑芙同砒倉の構成員としての生活意志をもち得ない人々であつたと. おもわれる︒ ︵無論奴隷には律法の彊制力はない︶共同雄倉から麹晩したとはいつても律法學者の理念からみてのこ. とで︑現資にはさきにのべたような芙同碓會そのものの崩壌と分裂に外たらない︒ラビ.ヨハナγ.ベン.ザツカイ. は﹁おお︑ガリラヤよ︑汝は律法を嬢う︑汝は終には反滋者を生むであらう︒﹂︵−ω罫g嵩唖︶といつている︒ガリ. 943. 毒ザこれ專るか守らないかによって規定されている︒ラξリ一ゼ︑ルはいう︒・アム.一ア.アレ︑ツと纂を. 103.
(20) ラヤは農民が多く︑アム・ハァ・アレーヅが多かつたらしい. ︵ガリラヤの間題については別の機會にゆず. たい︶︒. しかもエルサレムの葎法學者の圏外にあつた人々︑群集︵︸吠×ンo︵︶︑このブム・︿ア・アレーヅにノ・エスは致えを. ぎ一一①g︶の箏鼠︑ゼロデ黛の奮起からイエスの﹁紳の國﹂の宜言に至る. る︒それにもかかはらず後向きであつた騎を否定できない︒しかしながら彼等が困難な事情のもとにあつて彼等が多. に渡頭するだけであつた︒ラビはハラカの聾明は抱東力を失い︑不用となる日がいつか來るであらうと聲明してはい. わめて優れていたにもかかわらず︑民族の宗致理念に役立つよりも︑遇去の理念を存綾するために必要な生存の防禦. 活上の制度化であつて︑もはや生活を指導するよりは︑生活に鞍立するものとなつた︒個々の.フビ達は個人的にはき. 念をもつてイスラエルを教わうとしたにもかかわらず︑當時の現實にたいして後同きであつたし︑璽一一暑の理念の生. とともに︑貧富の差は大きくたつていつた︒律法學着はこの時代の倫理的な中心となつて︑モーセ五書︑預昌一目者の理. てい.た︒ローマの苛酷な統治への指導麿への怒りは繕肇的た階悪を生み出した︒そ←てアム・ハア.アレーツの塘大. した︒曾つてのイスラエルの指導麿は自已の安逸をむさぽる以外に能事はなく︑芙同誼會を指導する力には全く鉄げ. は劔をもつて立上つたがこれらはことごとく敗惨を喫した︒他の者は律法を巌格に守ることにより未來を室しく期待. までの幅の廣い民衆の動きをみることができる︒困窮化し異致徒ローの支配を腕しようとする志す人々︑彊健な人々. 吾々はイエス時代にバル・コヘバ︵︸胃. 剋は異致徒との争ひより劇しかつたといわれる所以は前逸の諸事清から充分納得できるであらう︒. はイエス時代の秩況を浮び上らせてくれる︒律法を守る人々ハベリーム︵臣σ①一ぎ︶とアム.︿ア.アレiツとの相. ら晩落した人々だけを意味するものではなく︑その申には倫理的な批判を含んだにしても︑タルムードの種︑の賓料. の樺法への嚴格な饒依と誇りを毛つことを意味するが︶無硯したアムハア・アレiツは必ずしも経済的に共同碓會か. 読いたということは想懐するのに難くない︒律法學者がその圏外にあるものとして否定L︵否定することは彼等白信. 104. 9桝.
(21) くの文献をのこし︑過去の宗致理念を燥存し︑芙同肚會を生き永らえさせた努カは大きい︒イスラエルと同じ扶況に. あつた他の諸民族が白已の文化を完全に喪失L︑民族そのものが減んでいつた事實から論謹できる︒. ヘロデのとつた経濟政策からさきにのべた事情を考慮するならぱ︑律法學者はきわめて消極的であつたにもかかわ. らず︑イスヲエルはローマ世界の経済の申にはいり︑國際的な経済の一軍位となつたこと︑したがつて自立的た共同. 遍性をもたなければならななかつたことを示す︒更にアム・ハァ・アレーヅの護生は苛酷な悪の王國︵ローマ.ヘロ. デ︶にたいし疎の國の理念で鐵照をたす︑宗致の再生がなされた︒生きる目的を失い︑生活の擦り所を喪失したアム. ・ハア・アレーツに先づ生への意義を興え︑廣い頑野のも︒とにたつ生活の再輿︑文化の形成はイエスの﹁楠の國﹂の. 宣言によつて芙通の倉言葉とたつた︒生への意義の確認は︑信仰の確認にほかたらない︒紳の國の種晋を読き︑これ. に身をもつていきるすぐれた彼の人格を通して意味があたえられた︒過去の律法から演緯して現實を規定せずに︑律. 湊の本質︑宗致感情をよみがえへらせることが必要であつた︒いいかえるならぱ理念と現實の調和が必要であつた︒. キリスト致はユダヤ共同姓舎から分離し︑世界の歴奥の申にはいつていつた︒しかしキリスト致とユダヤ致は周園の. 諸多の事清をも老慮にいれるにしても︑爾者には決定的な宗致そのものの思惟の相異があるとおもわれる︒この間題 については別の機會に論じたい︒. ︸巴o芭o邑ω争竃弓巴昌自庄ωL﹂竃胃易oo5ω巨ま匝ご賓己§ω巨−げ巴竃−量ω−5二;1↓彗箏筆昌一昌⑦ζ旨−&一宛豊阻o器. ω冒α旨目■αq⑦目甘昌−冒ま目g昌一ω.>1■暮oまN〆<一旨豊ωo︸ヒ竃胃gF内訂易目突一−−庁①冒︷↓−冒霧oh言誓ω︑﹃﹃①. 竃窪ωぎF>.肉創①易ブ9旨⁝〆O冒冒①目け實N巨昌乞.ド巨ωけ§O庁一. 9{5. 砒倉としてよゲはコスモポリタγとしての傾向が彊くなつたこと︒これは當然宗致そのものが異致徒をも含み得る普. ]o『.
(22)
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態度はキリスト教的原罪思想とは一応何ら関係のないものである︒
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弱められた自由意志の弱さであり、その欠陥だけであった。そのような自由意志にはキリスト
ミイがインドにおけるキリスト教の宣教活動にきびしく批判的であった
して,人間研究の一部なのである。 」 (PE, p.1) 32
プリッグズも,「優雅な楽々