居住支援としてのソーシャルワーク ―住環境改良 家 オクタヴィア・ヒルが求めたもの―
著者 成清 敦子
雑誌名 評論・社会科学
号 72
ページ 1‑30
発行年 2003‑12‑25
権利 同志社大学人文学会
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000004595
︹論文︺
居 住 支 援 と し て の ソ ー シ ャ ル ワ ー ク
││住環境改良家オクタヴィア・ヒルが求めたもの││
成 清 敦 子
︵文学研究科社会福祉学専攻博士課程後期︶
はじめに
近年︑わが国では︑高齢化を始めとする社会変動を受けて︑住環境整備への関心が高まっている︒社会福祉の分野に
おいても︑高齢者居住をはじめとして︑障害者や子どもにとって住み良い環境づくりへの取り組みが進められており︑
その要素となる住まい︑施設︑まちづくりのあり方が改めて問われている︒
中でも︑住まい︵住居︶は︑人間生活の基盤であり︑個々の居住者のアイデンティティ︵identity︶を形成する場所 である︒それは︑外界から身を守るシェルター︵shelter︶として︑また︑家庭生活を展開するホーム︵home︶として︑
人々の生活に重要な役割を担っている︒もし︑安全で快適な住宅を確保することができなかったり︑そこに心身の
!拠
り所
"なな状況に陥り︑社会的対困応を必要とする様々な難はをき求めたりすることがでな活ければ︑我々の日常生ニ
ーズを発生する︒それは︑生活上の諸問題を対象とする社会福祉がこれまで住宅問題との関係を密にしてきたことから
も明らかである︒
従って︑本稿では︑住まいをめぐる問題は歴史的かつ代表的な生活問題であるという立場から︑住宅問題発祥の地イ
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ギリスにおいて︑独自の福祉観のもと︑居住者︑すなわち住み手の営みを含めて住環境のあり方を問うたオクタヴィア
・ヒル︵OctaviaHill,1838−1912︶のソーシャルワークに着目する︒イギリス社会福祉の形成期︑噴出する住環境問題を目
前に︑民間から出された住まいのアイディアが後の住宅政策の発展に結実したことは周知の事実である︒その草分け的
存在として︑オクタヴィアは︑住環境への視点から︑居住支援としてのソーシャルワークを展開した︒ここでは︑ま
ず︑住宅をはじめとする住環境の改良に尽力したオクタヴィアの経歴を概観する︒その上で︑彼女の住居管理事業を福
祉・居住思想の体現として見直し︑社会福祉の歴史的展開におけるその意義を問うことを目的とする︒
蠢 住環境改良家オクタヴィア・ヒル︵OctaviaHill,1838−1912︶
1主な経歴
オクタヴィアは︑一八三八年︑イングランド東部ケンブリッジシャー︵Cambridgeshire︶のウィズビーチ︵Wisbech︶
で︑両親共に急進的な考えを持つ家庭に生まれた︒母方の祖父にあたるT・サウスウッド・スミス︵ThomasSouthwood
Smith,1788−1861︶は公衆衛生に関する権威であり︑父ジェイムズ︵JamesHill,1798−1872︶は︑社会主義思想を信奉する資
本家であった︒
しかし︑一八四〇年︑順調であった事業が失敗し︑一家はウィズビーチを去る︒各地を点々としたが︑ジェイムズが
極度な身体的・精神的疲労から家族を支えきれなくなり︑母キャロライン︵CarolineHill,1809−1902︶は娘達を連れて︑ 実家の近隣地フィンチリー︵Finchley︶に移り住むこととなる︒この間︑オクタヴィアは︑祖父のもとで医学報告書や
法律の抜粋を写す手伝いをしながら︑多くの社会運動家が訪れる環境の中で︑ヴィクトリア時代の都市における貧困問
題を意識するようになっていった︒ 居住支援としてのソーシャルワーク
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︵1︶その後︑一八五一年︑キャロラインが女性のための共同ギルド︵theLadies’Co-operativeGuild︶の管理を任され︑一
家はロンドンに移住する︒オクタヴィアは︑そこで生徒たちに玩具の作り方を教えるワークショップを手伝いながら︑
栄養失調や慢性病︑虐待︑非衛生など︑困窮する人々の生活実態に触れ︑貧困問題を現実のものとして強く認識する︒
特に︑住宅事情の劣悪さを痛感した彼女は︑キリスト教社会主義者であるF・D・モーリス︵︵John︶FrederickDenison Maurice,1805−1872︶やJ・ラスキン︵JohnRuskin,1819−1900︶らとの貴重な出会いを通して︑貧しい人々の暮らしを取り
︵2︶巻く住環境の改善を自らの責務として意識するようになった︒
その本格的な取り組みは︑一八六四年︑ラスキンから資金貸与の申し出を受け︑翌年︑ロンドンの南西地区メリルボ
ーン︵Marylebone︶で最も荒廃していたパラダイス・プレイス︵ParadisePlace︶に三件の集合住宅を購入し︑自らが家
主となったことから始まる︒幼時期に移り住んだ田舎の憧憬を遠い記憶に︑祖父のもとや共同ギルドでの手伝いなどを
通して︑早くからロンドンにおける貧困層の生活実態を目のあたりにしたオクタヴィアは︑スラムにおける
!住宅
"と
︵3︶
!住み手の生活
"reformhousingて良ための住居改︵し者い︶を展開の働のこ両方を改善すると労を念頭に︑貧しいっ
た︒事業は︑一八七〇年代の半ばに︑活動を支持する人々から不動産の提供を受けて︑約三︑〇〇〇名の借家人を抱え
るに至り︑一八九四年には︑教区会︵theEcclesiasticalCommissioners︶の協力を得て︑ロンドン南部の大規模な土地を
監督下に置くまでに拡大した︒後に︑彼女の住居供給管理は︑国内のみならず︑欧米をはじめとする諸外国へも普及す
ることとなる︒
また︑活動の広がりとともに︑オクタヴィアは︑ロンドンの排煙防止運動︵smoke-abatementmovement︶や︑都市や
地方におけるオープンスペース︵共同利用地︶を確保・保存する運動においても先駆的役割を果たし︑歴史的名勝およ
び自然的景勝地のためのナショナル・トラスト︵theNationalTrustforthePreservationofPlacesofHistoricInterestorNatural
Beauty,1895︶の創立メンバーとなった︒彼女はまた︑婦人教育活動を始め︑ロンドン貧困及び犯罪防止協会︵theLondon
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居住支援としてのソーシャルワーク
︵4︶AssociationforthePreventionPauperismandCrime,1868︶︑女子大学セツルメント活動︵theWomen’sUniversitySettlement︶に
関わるなど︑都市における住環境の改善に幅広く尽力した人物であった︵Bell,1942;Claynton,1993;Crystal,1997;Mur-
phy,1992;Whelan,1998;TheOcaviaHillBirthplaceMuseum展示資料;Hill,1956;岸本︑1978︶︒
蠡
オクタヴィアのソーシャルワーク││福祉・居住思想とその実践││
1思想的背景
漓
家庭環境
オクタヴィアが育った環境は︑社会問題を認識するに十分なものであった︒先に述べた通り︑祖父サウスウッド・ス
ミスは︑イギリス住宅政策が展開する基礎となった公衆衛生法︵一九四八年︶の成立に深く関わった人物である︒ロン
ドン伝染病病院︵theLondonFeverHospital︶の医師として︑さらには︑初代保健省行政長官︵CommissionersoftheBoard ofHealth︶の一人として︑伝染病︑公衆衛生の分野に貢献し︑ロンドン労働者居住改善協会︵theMetropolitanAssociation forImprovingtheDwellingsoftheIndustriousClasses︶などの活動にも努めた︵Clayton,1993,pp.5−7;Whelan,1998,p.1; Guy,1993,pp.15−16︶︒ スミスは︑ロンドンのイースト・エンド︵theEastEnd︶での熱病専門病院での経験から︑貧困地域に熱病が蔓延す
るのは︑貧しい人々が生活する不衛生な環境が原因であることを早くから確信していた一人であった︵Bell,1942,p.4,
6︶︒その先見の明による活動から︑
!ウ違いない︒サスるウッド・スミスにす長たい年月は汝をたえ記︑人々の心に銘︑
人間の救済者︑来るべきより幸福な時間のために︑家庭に空気と光りと健康と安全をもたらす者
"Le︵ ighHunt︶として
評価されるところである︵TheOctaviaHillBirthplaceMuseum展示資料︶︒ 居住支援としてのソーシャルワーク
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︵5︶また︑彼は︑ユニタリアン派︵theUnitarians︶の牧師として修業した後︑身体と魂の両方を癒すことを目指して医師
の資格を取得したといわれており︑その活動は︑単なる科学的な根拠を超えた自らの信念によるところが大きかった︒
スミス自身︑
!道的影響と同じぐらい徳身的感化を及ぼし︑家体に清整潔で︑新しく︑よく理手された住宅は︑住み族
に分別があり︑穏健で︑そして互いに思いやりある幸福な状態にする直接的な傾向を持つ︒この種の習慣的感情と︑一
般の財産や法律︑さらにそれらについてのより高い責務や社会的義務に対する敬意の形成との関連性を見つけることは
難しくない
"“angivenyJonathyOuvrthOuvryPapers”,bSmialtThePhihwoodsophyofHelohbyDr.Soutyて宗︑りお︶べ述と﹀︵︿教 的かつ道徳的観点からも住環境の改善に高い関心を持っていたことがわかる︵TheOctaviaHillBirthplaceMuseum展示資
料︶︒以上のような祖父スミスの姿勢は︑ヒル家の人々が社会的不平等に対する意識を高めるうえで大きな影響を与え
たといわれている︵Clayton,1993,p.7︶︒
実際︑オクタヴィアの両親は︑革新的な立場から社会問題に取り組んだ人物であった︒父ジェイムズは︑銀行業︑穀
物・羊毛取引などを営む資本家であると同時に︑ユニタリアンの立場から社会主義思想に基づく社会改革を目指した人
︵6︶物で︑その活動は多岐に渡るものであった︒例えば︑彼は︑信奉するR・オーエン︵RobertOwen,1771−1858︶思想の普 及を目的に︑ウィズビーチ︵Wisbech︶で最初の新聞︵TheStarintheEast,1836−?︶を創刊し︑聖職者の公的活動に反対し
︵7︶たり︑地方行政の腐敗を批判したりするなどかなり急進的な政治改革論を展開している︒また︑妻キャロラインととも
に︑貧困家庭への奉仕として︑小学校︵theWisbechInfantSchool,1837−?︶の開設にも寄与している︒キャロラインは︑ペ
︵8︶スタロッチ︵JohannHeinrichPestalozzi,1746−1827︶の教育論をイギリスで最初唱えた人物ともいわれており︑彼女自身︑
教育には非常に高い関心を持っていた︒ヒル夫妻は︑父兄たちとの交流を通して︑この学校を共同施設︵‘HallofthePeo-
ple’︶として利用することも提案し︑一般向けのレクチャーを開講するなどして︑地域協同の精神を育むための活動に も力を注いだのである︵Clayton,1993,pp.7−9︶︒
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居住支援としてのソーシャルワーク
︵9︶このような祖父や両親の考え方が︑オクタヴィアが貧しい労働者の生活実態に目を向け︑その改善に住環境がどれほ
ど大切であるかを認識するために︑少なからず影響を持ったことは想像に難くない︒
滷
協同ギルドでの経験
敬謙かつ進歩的な家庭環境で育まれた彼女の社会問題に対する認識は︑父が事業に失敗した数年後︑母と姉達ととも
に移り住んだロンドンでの生活によって裏付けられることとなる︒オクタヴィアは︑ウィズビーチでの家庭生活を遠い
記憶に︑緑豊かなフィンチリーを後にして移り住んだロンドンの印象をこう述べている︒
﹁ロンドンのあらゆる窮乏と荒廃が私にのしかかってきました︒⁝⁝そこで貧窮の実態に初めて触れました⁝⁝
大きな窓ごしに外を眺めて座っていた時︑雨と霧の中をロンドンの貧しい人々が通り過ぎるのを見ました︒土曜
日の夜︑トッテナム・コート・ロードで見たやつれた人々の顔を思いおこして泣きました⁝⁝︒そこで︑何故︑
悪の存在が許されるのかについて︑はじめて懸命に考えました︒﹂︵Bell,1942,p.13,14︶
それは︑オクタヴィアが︑はじめて大都会の現実に触れ︑その繁栄の裏側に交錯する貧困の実態にたたずんだ瞬間であ
った︒
この衝撃は︑母ミランダが請け負った女性のための協同ギルドを手伝いながら︑自らの社会的責務を見出すことによ
って解消されていく︒オクタヴィアは︑貧しい子どもたち︵raggedschoolchildren︶を対象に︑おもちゃの家具づくり
などを指導・管理する役目を任されたのである︒その活動を通じて︑彼女は︑生まれも持った芸術的な資質に加え︑人
を扱う才能を十分に発揮していった︵Bell,1942,p.13,17,18︶︒ 居住支援としてのソーシャルワーク
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興味深いことに︑すでにこの時︑オクタヴィアが子どもたちを援助するためにとったスタイルには︑独自のソーシャ ルワークを展開する素地を見ることができる︒姉ミランダ︵Miranda︶によると︑オクタヴィアはこの時︑一四才とい
う若さにして︑貧しい人々の境遇を理解し︑労働者が生活改善のために協同や同業者組合によって努力していることを
しっかりと認識していたという︵Darley,1990,p.38︶︒そんな彼女が協同ギルドでの活動を通して最も重視したのは︑
!友
として
"befriendingstyle 自て︑オクタヴィア︑身つ次のように述べい法にう︶︑彼らに寄り添こ︵とであった︒その方て
いる︒
﹁私は︑彼女たちそれぞれの気質を知っています︒⁝⁝私は︑各自に異なる対応をとるでしょう︒めいめいの
関心をひく方法を考え︑彼女達が言うことすべてに耳を傾け︑各自を全人格としてとらえることによって︑一人
一人が本当に抱えている問題がわかるようになるのです︒﹂︱Octaviawrotetoafriendabouttheschoolgirls︱
︵Payne,1997,p.2︶
﹁私は︑決まった規則を持っていません︒それは︑単に︑小さな事業では︑常にたくさんのことを変えていか
なくてはならないという理由からです︒しかし︑私たちは︑非常に喜ばしい秩序を持っています︒子ども達は皆
何をすべきかを知っており︑そのことに専心するようになるのです︒﹂︵Bell,1942,p.19︶
彼女にとって︑子どもたちは︑異なる人格を持つ個別の存在であった︒それ故に︑まず︑一人一人の声に耳を傾け︑
各自の主体性を最大限に尊重しながら︑最も効果的な援助の方法を探ることが大切であった︒そのために︑まず︑オク
タヴィアは︑子どもたちそれぞれの家庭︵eachchildren’shome︶をよく知ることに努めており︑彼女が家庭管理︵home
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居住支援としてのソーシャルワーク
making︶に関心を持つきっかけとなったといわれている︵Bell,1942,p.19︶︒こうした協同ギルドでの活動経験が︑後に
オクタヴィアが貧しい労働者のための住居管理事業に着手し︑そのための援助方法や手段を導く経験的な動機づけとな
っていることは明らかである︒
澆
宗教的信条
オクタヴィアの福祉・居住思想を追究する上で︑キリスト教との関係はたいへん重要である︒ロンドンの現実を目の
当たりにした彼女にとって︑社会に希望の光を求め︑そのために自らがなすべき社会的責務を見つける﹂ことができた
︵
ocialismSChristian︒といによるこ出ろが大きかった会︶のトのは︑キリス教と社会主義︵ !︶
もともと︑信心深いキリスト教徒の両親を持つオクタヴィアであったが︑彼女自身は︑幼少期にはっきりとした教義
に基づく宗教教育を受けていなかった︒母キャロラインは︑教育する側が信仰心を持っていれば︑子どもは神の存在を
無意識に吸収するものであると考えており︑その期待通りに︑オクタヴィアはキリスト教の教えを自然に受け入れてい
ったようである︵Bell,1942,p.15︶︒
そんな彼女の信仰心をより明確なものとしたのが︑ロンドンで︑友人の勧めで触れたキリスト教社会主義の教えであ
った︒その指導者たちが書いたパンフレットには︑彼女が苦悩していた社会悪に立ち向かう方法が示されていたからで
ある︵Bell,1942,pp.14−15︶︒それは︑﹁普遍の神の存在﹂のもと︑﹁人間としての平等な価値を見出せるような社会的秩 序﹂を創り出す協同の精神︵fellowship︶に基づくものであった︵松平︑2001,p.61,62︶︒
キリスト教社会主義者の中でも︑モーリスは︑オクタヴィアの人生にもっとも重要な影響を及ぼした人物の一人であ
った︒彼は︑T・ヒューズ︵ThomasHughes,1822−1896︶やC・キンズリー︵CharlesKingsley,1819−1875︶らとともに︑キリ
スト教社会主義運動の指導者で︑一九五四年には労働者学校︵WorkingMen’sCollege︶設立し︑校長に就任した人物で 居住支援としてのソーシャルワーク
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ある︒オクタヴィアが出会った時には︑イギリス国教会の聖職としてリンカーンズインの牧師を務めていた︵松村・富 田︑2000,p.1123︶︒オクタヴィアは︑リンカーンズインチャペル︵Lincoln’sInn︶で定期的に行われた礼拝に熱心に通う
ようになり︑そこでモーリスの説教に熱心に耳を傾けながら︑﹁彼の教えのなかに自らが必要とする答え﹂を見出して
いった︵Bell,1942,pp.14−15︶︒モーリスもまた︑オクタヴィアの熱心な信仰心とその才能を見抜いたのであろう︒間も なく︑彼女を労働者学校の女性労働者学級︵women’sclasses ︶の秘書として採用している︵Whelan,1998,p.2︶︒
キリスト教社会主義を通じた貴重な交流には︑彼女の生涯に貴重な機会をもたらしたラスキンとの出会いもあった︒
ラスキンは︑ラファエル前派︵Pre-Raphaelities ︶の運動を支持し︑精神的・道徳的な芸術論を展開した美術評論家であ
る︒芸術と社会とのつながりを重視する立場から︑社会道徳の退廃を攻撃し︑労働者の境遇改善を目指す社会運動家で
もあり︑労働者の組織化︑住宅の整備︑自然保護などの取り組みを通して︑社会改革の必要性を説いた人物である︵松
村・富田︑2000,p.656︶︒オクタヴィアが出会った当時︑ラスキンは労働者学校で講師の職にあった︒彼は︑オクタヴィ
アとの交流を通して︑彼女の芸術的資質とそれ以上に社会改良家としての素質を強く感じるようになり︑彼女が住居管
理事業を行うにあたって最初の支援者となるのである︵Whelan,1998,p.2,3,5︶︒
キリスト教社会主義を通して深めた宗教的な体験は︑オクタヴィアの神への信仰のもと︑貧しい人々への関心と社会
改革に対する熱意を確固としたものとし︑彼女が進むべき道を決定づけている︵Whelan,1998,p.2︶︒それは︑次のオク
タヴィアの言葉にも読み取ることができる︒
﹁今日における私の活動精神がキリスト教社会主義に多くを負っているのは︑その団体と早くからつながりを
持っていたからであることに変わりありません︒周囲の状況の必要性や可能性に応じて︑独自の方法を見出す必
要はありましたが︑その精神は︑彼らキリスト教社会主義の人々の言動に深く影響されてきたに違いありませ
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居住支援としてのソーシャルワーク
ん︒人生に初めて思い悩み始めていた時︑彼らの間にいると神が私を喜んでお導き下さったように思えたので す︒﹂︵ラドローへの手紙︑1875︶︵Bell,1986,p.17︶
オクタヴィアにとって︑多感な時期に出会ったキリスト教社会主義と︑キリスト教社会主義者たちとの交流は︑住環
境への視点からソーシャルワークを展開していくにあたっての重要な思想的基盤として位置づけることができる︒
潺
中産階級の信念
ロンドンでの職業経験や宗教的体験は︑若いオクタヴィアにとっても︑自らの経済的・精神的自立を促す時期でもあ
った︒その背景には︑一家の働き手として家計を支えなければいけなかったという個人的な理由と同時に︑中産階級特
有の信念が少なからず影響している︒P・マルパス︵PeterMalpass︶︵1982,p.206︶によれば︑オクタヴィアは︑早くか
ら自らの生計を立てなければならない境遇にあって﹁施し﹂としての慈善活動に参加することはなかったものの︑彼女
の住居管理計画には中産階級や上流階級の道徳的優位性に対する揺るぎない確信があった︒
一九世紀︑深刻化する社会問題への対応として︑多くの有産階級が︑﹁民間の自発的な自助努力﹂として︑福祉・教
育・医療に関する広範な慈善事業を展開した︒それは︑当初︑﹁ジェントルマン社会のパターナリズムとキリスト教精
神﹂に拠るものであった︒しかし︑その直接的な担い手となったのは中産階級であり︑一九世紀の慈善活動は︑自助
︵セルフヘルプ︶の精神を念頭に彼らの道徳思想を色濃く反映するものとなる︵村岡・木畑︑1991,pp.115−116︶︒オクタ
ヴィアが社会活動を展開する上で大きな支えとなったキリスト教社会主義もまた︑労働者の社会的な地位向上を目指す
社会改良運動として︑五〇年代に多くの知識人が賛同している︒
このような傾向は︑先に述べた通り︑もともと富裕で社会奉仕に高い関心を持つ家庭に生まれたオクタヴィアにも見 居住支援としてのソーシャルワーク
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ることができる︒彼女にとって︑信仰︑節約︑勤勉といった中産階級の徳︵Reader,1983,p.23︶と︑それに基づく社会的
善行は︑自らの生きる道標として自然に受け入れられたことだろう︒それは︑実際︑彼女の社会活動の指標にもなって
いる︒その一例として︑彼女がソーシャルワークを展開する中で示した女性観があげられる︒ヴィクトリア期︑慈善活
動における女性の活躍が著しく︵村岡・木畑︑1991,p.116︶︑その活動における性差については︑フェミニズムの観点か らも様々な議論が交わされていた︵井野瀬︑1994,p.234︶︒この点について︑オクタヴィアは︑社会的慣習に基づいて︑
家庭における女性の役割を重視する立場から一貫した姿勢をとっている︒それは︑従来の家族の形態を尊重し︑家庭的
な感情︑すなわち母性によって共感できる女性が︑階級を超えて貧困者の抱える問題を理解しうる社会奉仕家としての
資質を兼ね備えているという立場であった︵Crawford,p.202,1983︶︒このような伝統的な観点は︑後で述べるように︑彼
女が住居管理を行うにあたって中産階級の女性を募り︑その価値観に基づいて貧困者の生活改善を試みた点にも表れて
いる︵Malpass,p.207,208︶︒
以上のように︑既存の権威を受け入れつつ︑独自の宗教精神と道徳規範のもとで社会的正義を追求した中産階級の信
念︵Reader,1983,p.23︶もまた︑オクタヴィアの社会活動を特徴づける思想的な要素の一つであるといえる︒
2居住支援としてのソーシャルワーク
漓
住居管理事業への取り組み
asaformofsocialwork :
オクタヴィアが試みた住居管理事業は︑居住者と住まいの両方を改善するために︵improvementsofpeopleanddwell-
ings︶︑今日におけるソーシャルワーク︵socialwork︶の一形態として︑住居管理︵housingmanagement︶を行ったもの であり︵Malpass,1999,p.12︶︑その展開は彼女の福祉・居住思想を実践するものであった︒一般にオクタヴィア方式とい
われるこの住居管理は︑次の四つの要素に特徴づけることができる︒
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居住支援としてのソーシャルワーク
まず︑第一の要素として︑事業支援者︵investor︶の存在があげられる︵Malpass,1999,p.15︶︒オクタヴィアは︑ラス
キンから資金貸与を受け︑ロンドンのメリルボーンの貧しい一画パラダイス・プレイスに三件の住宅を£七五〇で賃借
契約し︑これを十分に管理することによって五%の利潤を達成することを約束した︒二人が事業を行うにあたって目標
としたのは︑﹁貧しい人々を過酷な居住状況と粗野な家主の影響から解放すること﹂と︑﹁彼らの暮らしを高潔にし︑家
庭生活を幸福かつ善良なものにすること﹂であった︵TheOctaviaHillBirthplaceMuseum展示資料
Whelan,1998,p.5︶︒ ; 次に︑第二の要素として︑住宅︵house︶があげられる︒オクタヴィアが購入した建物は︑たいていの場合︑かなり
︵
が関パラダイス・プレイスにすしる記録から読み取ることたとの点した状態にあった︒そ様破子は︑彼女が事業の拠損 !︶
できる︒
﹁しっくいは壁からはがれ落ち︑階段には屋根から漏れる雨水を受けるためのバケツが置かれている︒階段は
どこも真っ暗で︑手すりは住人がまきとして用いたため︑なくなっている︒大きな穴の空いた格子窓は︑部屋の
中に落ちている︒洗濯所は︑家主の所有する材木が山積みになっていて中に入れなくなっているので︑住人は彼
らの小さな部屋で︑料理をしたり︑寝起きしたりするのと同じように︑衣類の洗濯をしなくてはならない︒家の
正面にすえてあるゴミ箱は︑近くに住む者が誰でも利用することができ︑しばしば少年達がそこから多量のゴミ
を引きずり出し︑路地じゅうにまき散らした︒排水の状況も同様である︒裏通りはすべて壊れ︑大きな水たまり
ができていて︑湿気が外壁をおおっている︒一つの大きな汚い用水おけが住宅全体の水を引くようになっている
が︑実際︑それは漏れていて︑各家庭の蛇口に十分な水を供給することができない︒﹂︵Bell,1942,p.54︶
オクタヴィアは︑まず︑居住者のために住宅を早期修繕し︑共同設備を充実することを家主の重要な責務とした︒そ 居住支援としてのソーシャルワーク
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して︑家賃収入が増えるとともに︑住民ともに集える場所や︑子ども達や女性のための各種教室などコミュニティにお
ける生活の質を向上するための改善を施していった︒例えば︑メリルボーンに次ぐ住居管理となったフレッシュウオー
ター・プレイス︵FreshwarterPlace ︶では︑小さな土地を利用して︑住人が憩い︑子ども達が安全に遊ぶことができる 庭を設けている︒また︑一八八七年に建設されたレッドクロス・コテージ︵RedcrossCottages︶には︑居住者がいつで
も利用できるオープン・スペースや︑交流拠点としてのコミュニティ・ルームを併設するなど︑オクタヴィアの住居管
理におけるアイデアがふんだんに盛り込まれている︵TheOctaviaHillBirthplaceMuseum展示資料
Bell,1942,pp.63−64;Clay- ;
ton,1993,p.15;Payne,1997,p.23︶︒ さらに︑第三の要素として︑借家人︵tenant︶の立場性があげられる︒オクタヴィアは︑劣悪な住宅事情の原因が無 秩序な家主と借家人の関係にあると考え︵Malass,1999,p.12︶︑そのあらゆる関わりにおいて︑
!尊厳性の原則
"Principle ︵ ofPerfectRespectfulness︶と
!規則性の原則
"Strictness1997,,ynePap.erfectPrincipleofP求︵たし追︶を則︵のつ二の原
︵
40息な異なる貧しい階層では︑くは夫であり︑妻であり︑︑人々な︒彼女にとって︑廉価家賃で粗野な住環境にある︶ !︶
子であり︑娘であり︑家族のメンバーであり︑また︑個々の経歴︑性格︑希望︑憧れ︑魅力を持つ独立した人間であっ
た︵TheOctaviaHillBirthplaceMuseum展示資料︶︒そのような人間として対等な関係を前提に︑オクタヴィアは︑怠惰︑あ
るいは自堕落なかたちで貧しい生活を送っている人々が安定した住居を持つことができるよう︑彼らに居住者として責
任ある行動を求めた︒例えば︑彼ら借家人が家賃を規則的に支払うことによって︑家主は住居を良い状態で管理し︑必
要な箇所を即座に修繕するよう努める︒こうした互いの信頼関係が︑貧しい人々を勤勉で分別ある生活へと導くことが
できると考えたのである︵Malpass,1999,p.13︶︒従って︑借家人が彼女の求める規則に従った生活を伴わない時︑家主と
しての権力を行使することも辞さなかった︒その表れとして︑﹁大酒のみに部屋を貸さないとは言いません︒現に︑私
は︑彼らの多くを抱えており︑すべては︑私が彼らを追い払うべきか否かにかかっているのです︒﹂︵Malpass,1982,p.
― 13 ―
居住支援としてのソーシャルワーク
208︶という彼女の言葉には︑借家人を個人として尊重しつつも︑厳しく律する姿勢を伺うことができる︒
こうしたオクタヴィアの事業では︑単なる利益の追求や博愛とは異なり︑理性︑信仰︑不屈の精神によって︑借家人
と継続的に関わることが求められた︵TheOctaviaHillBirthplaceMuseum展示資料︶︒そのために採用されたのが︑ソーシャ
ルワーカーとしての住居管理婦︵以下︑ワーカー︶であり︑これが第四の要素となっている︒
女性ワーカー︵worker ︶の採用は︑オクタヴィア方式の要件である︒岸本︵1978,p.68︶によれば︑彼女のいう効果的
な住居管理には︑建築学︑家政学︑経済学︑社会事業などに関する幅広い専門知識や技術を身につけ︑さまざまな機関
との交渉︑家賃の徴収︑改善箇所の早期発見︑居住者の生活指導や相談業務などを通して︑借家人と継続的な関わりが
できるワーカーの存在が必要であった︒加えて︑通常︑日中に行われる訪問では︑たいてい各家庭の主婦が相談者であ
り︑その場合︑それぞれが日常に抱える問題を打ち明ける相手として信頼感を得るには女性の方が適性であった︒これ
らの点が女性ワーカー登用に深く起因しているといえる︒
さらに︑その直接的な担い手となった中産階級の婦人ボランティア︵volunteervisitors︶︵Payne,1997,p.5︶の役割は︑ オクタヴィアの住居管理事業をより特徴づけている︒マルパス︵1982,p.207;1999,p.13︶は︑後の慈善組織協会︵theChar- ityOrganisationSociety;以下︑COS︶との関係を踏まえ︑オクタヴィアの住居管理は︑キリスト教におけるいわゆる
贖罪の意味も含めた道徳的救済を背景に︑有産階級の女性ワーカーが借家人との個別の関わりを形成するために提案さ
れたソーシャルワークであったと分析している︒この点については︑オクタヴィア自身︑ロンドンの地区訪問員たちに
︵
て対︑自分達が貧しい人々にしちて果たすべき義務を持っはたが性るスピーチで︑﹁育ち良対く︑高い教養を持つ女す !︶
いることを確信するようになります︒おそらく︑ある種の激しい個人的感情が︑彼女を貧しい人々に対するキリスト教
の奉仕活動に突き動かすことでしょう⁝⁝︒﹂︵“VolunteerVisitorsamongthePoor”,1876年︶︵Payne,1997,p.67︶とはっきり述
べている︒事実︑彼女の事業からは︑トインビーホールの設立者の一人であり︑ハムテッドの田園郊外︵HampsteadGar- 居住支援としてのソーシャルワーク
― 14 ―
denSuburb︶で有名なH・バーネット︵HenriettaBarnett︶や︑フェビアン協会のメンバーで社会改良に尽力したB・ウ ェッブ︵MarthaBeatriceWebb,1858−1943︶ら著名な女性活動家が巣立っている︒ 加えて︑マルパス︵1982,p.208;1999,p.16︶は︑オクタヴィアが︑ワーカーと借家人の個別具体的な関わりを重視す
る立場から︑多くの中産階級の女性達を家賃徴収や財産管理の担い手として訓練しつつ︑その活動に直接的な指揮をと
らなかったことを指摘している︒彼女は︑ワーカー達を訓練した後︑家主と借家人が互いに守るべき一定の原則のもと
で︑彼女達の自主性に任せた自由な活動を最大限に認めるという方針をとっていた︒事業収支も可能な限り分散化し︑
オクタヴィア自身︑最終的にどれだけの住宅を管理しているかを把握していなかったという︒それは︑﹁日々の経験の
みが真の原則をより深く確信させる﹂︵“ALandladyofaDifferentKind”,1871年︶︵Payne,1997,p.38︶という︑メリルボーン
での活動当初から得た教訓に基づくものであった︒ここに︑対人援助におけるワーカーの役割を単なる専門性の確立に
求めず︑あくまでもその人格や経験による学びを重視したオクタヴィアの信念を見ることができる︒
滷
救貧に対する姿勢
asamemberofCOS :
以上を要素に積極的な事業展開を行ったオクタヴィアは︑COSとの関わりを深める中で︑救貧活動における立場性
を明確に打ち出していく︒慈善組織運動を導いたT・チャルマーズ︵ThomasChalmers,1780−1847︶の著作からかなりの影 響を受けていた彼女は︑E・デニソン︵EdwardDenison︶︑C・S・ロック︵CharlesStewartRock︶らとともに︑その
︵
︑的ーは︑個人の気質が社会困ン窮に陥る主な原因でありバメ立のを推進し︑COSの設に運貢献した︒彼らCOS動 !︶
無差別に施しを行うことは受給者をより傷つけ︑堕落させてしまうという考えを持っており︑中産階級の優位性と︑貧
しい人々はより良い生活改善へと導かれるべきであるという信条に少なからず基づくものであった︒従って︑オクタヴ
ィアやCOSの仲間たちにとって︑貧困者救済とは﹁貧困の罪から個人を救うこと﹂であり︑救済の可能性が見込まれ
― 15 ―
居住支援としてのソーシャルワーク
る
!価値ある貧民
"peoplemoralreformeservingdthe行うことがら彼のを動におけ活︵︶︵良改的徳道のそに象対を︶る 主たる目的となった︵Malpass,1982,p.207−208;岡本︑1973,p.29︶︒
先に触れた通り︑オクタヴィアは事業を展開するにあたって︑無責任で︑酔っぱらいで︑不潔な生活に甘んじている
借家人は︑住宅市場の暗部として存在するスラムと同じくらい劣悪な住宅事情に責任があると考えていた︒例えば︑彼
女は︑﹁人々の住居はひどいものです︒その一因は悪質な建築と設備にあると同時に︑その一〇倍は︑彼らの生活習慣
にも原因があるのです︒彼らを明日︑健全で手頃な住居に移転させてみて下さい︒彼らは︑それを汚し︑壊してしまう
でしょう︒﹂︵HomesoftheLondonPoor,1875︶と述べている︒後の労働者階級の住宅に関する王立委員会︵theRoyalCommis- sionontheHousingoftheWorkingClass,1884︶においても︑そのような人々を﹁有害かつ有罪な階級﹂と繰り返し言及し︑ そういった人々の増加を危惧している︵Malpass,1982,p.206︶︒このような貧困観は︑COSの活動を通して打ち出した
︵
idAportanceofviheingthePoorwithoutAlIm“Tgi1942,ng”74p.msll,Be︵︶という︑オクタ︶ヴい﹁﹂済救の者困貧︵ならよにし施 !︶
ィア自身の福祉思想に深く依拠していると思われる︒つまり︑彼女の住居管理事業は︑家主と借家人の関係で彼女が重
視した道徳的な含みに︑個別の啓蒙的な関わりよって救貧すべきであるというCOSの目的を裏付ける形で展開してい
ったと理解することができる︒
澆
居住支援としてのソーシャルワーク
socialworkforhousingsupport :
ソーシャルワークの先駆的活動を担ったCOSの活動は︑その当初から︑都市問題の改善について関心を持ってお
り︑クライエントの公衆衛生や労働者の住宅改良が︑貧困者の﹁経済的ならびに道徳的独立﹂のための重要な条件と考
えられていた︵高野︑1985,p.457︶︒しかし︑彼らの救済が︑貧困の社会的要因を十分考慮したものではなく︑その根本
的解決に至らなかったことは批判の多いところである︒そのようなCOSと協調しつつ︑道徳的感化を最優先したオク 居住支援としてのソーシャルワーク
― 16 ―
タヴィアの事業もまた︑社会改良として効果を期待できるものではなかったことは否めない︒ この点について︑ソーシャルワークの本質を問うZ・T・ブトゥリム︵Zofia.T.Butrym︶は次のように述べている︒ 生活上の問題に介入するには︑人︵persons ︶とその人が住んでいる社会的環境︵socialenvironments ︶の両方に目を向
ける必要がある︒それは︑ソーシャルワーク発展の歴史を通して︑人間が抱える生活上問題として抱える﹁内的な︵in-
ner ︶側面﹂と﹁外的な︵outer ︶側面﹂の両方を重視しつつ︑そのいずれに力点をおくかについてしばしば振れがあっ
たことからも明らかである︒COSは︑物理的環境のアセスメントに向けた様々な社会調査を行いつつも︑他方︑貧困
層が個人や家族として抱え持つ問題を﹁道徳主義的判断﹂に偏重してとらえたところに限界があった︒しかし︑それを
踏まえた上で︑オクタヴィア独自の視点として評価すべきことは︑﹁人間は︑環境によってつくられると同時に︑環境
をつくり出す存在である﹂という自らの信念を︑ソーシャルワーク活動を通して体現したことである︵Butrym,1986,pp.
2−3︶︒
彼女にとって︑貧しい労働者の家族及び家庭を幸福かつ善良なものとするためには︑それを物理的に守る住宅
︵house︶の存在が不可欠であり︑同時に︑貧しい人々の劣悪な住宅事情を根本的に改善するためには︑彼らの家庭生活
︵home/familylife︶を健全な存在とする必要があった︵WisbechTownCouncil,1999,p.31;岸本︑1978,p.63︶︒
﹁私は︑人々︵貧しい人々︶がどのような家庭を望み︑それがどれだけ変化に富むものであるかを早く理解す
るため︑彼らのごく近くで生活してきました︒今日︑私たちは︑各地域で︑その他の住宅と比べてより良い状態
で住宅を賃貸しています︒しかし︑住宅建設は︑私たちの主たる義務ではありませんでした︒私が最も重要であ
ると感じてきたのは︑常に住まいの適切な管理でした﹂︵括弧は筆者︶︵ReporttoFellowWorkers,1907︶︵Payne,1997, p.78︶
― 17 ―
居住支援としてのソーシャルワーク
そのために︑中・上流階級による救貧活動を家主の役割に結び付け︑住居管理というかたちで︑今日にいうソーシャ
ルワーク活動を展開した︒ここに︑オクタヴィアのアプローチの独自性を求めることができるのである︵Malpass,1982,
p.207︶︒
﹁各ブロックには︑異なるボランティア・ワーカーを配置しています︒彼女達は︑家賃の徴収︑清掃の監督︑
会計管理︑住宅の修繕や改善に関する助言︑入居者の選択などを行います︒また︑借家人の人々に対しては︑そ
の自立心を壊すことなく︑あらゆる個別援助を行います︒それは︑就職を支援したり︑貯金を預かったり︑花を
差し上げたり︑苗木の育て方を教えたり︑楽しい娯楽を準備したり︑彼ら自身を支援するためのあらゆる援助を
意味します︒もちろん︑家賃を集めるために毎週行われる訪問が︑これらすべての援助を行うための資金となる
のです︒そして︑住宅そのものの健全な管理こそが︑通常の地区訪問員が持つ以上により大きな道徳的な改善に
向けた力となるのです︒﹂︵LetterstoFellowWorkers,1933︶︵Malpass.1999,p.16,18︶
このように︑自ら培った福祉・居住思想を背景に︑住環境の側面から︑人間生活の回復を目指して︑
!人と環境
"と
いう対人援助の本質的関係を目に見える形で追求したオクタヴィアの住居管理事業は︑まさに
!居住支援としてのソー
シャルワーク
"︑斬新なアイディアは後そ年︑住居管理事業のの︒とでして評価することがきかるのではないだろうみ
ならず︑オープン・スペースを確保するためのキャンペーンや︑ロンドンの排煙防止運動︑さらにはナショナル・トラ
ストを通じた環境保全運動などにも活かされていく︒こうした取り組みは︑オクタヴィアが単なる物理的環境としての
住宅を超えて︑家庭生活としてのホーム︑地域生活としてのコミュニティ︑さらには生活環境との関係から社会全体と
して住まう環境をとらえ︑人間らしく住むこと︑すなわち居住のための環境がどうあるべきかを問う基本的視点を持っ 居住支援としてのソーシャルワーク
― 18 ―
ていたことを意味しているといえよう︒ 潺
事業の広がり
asthe“OctaviaHillSystem” :
住環境問題が深刻化するロンドンにあって︑労働者階級のための住宅を整備する運動が高まる中︑オクタヴィアが考
案したソーシャルワークとしての住居管理事業もまた貧困層を対象に次第に活動を広げていく︒しかし︑事業規模の拡
大に際して︑どれだけの住宅を管理し︑そこにどれだけの借家人を抱えているかなど︑その具体的な数値についてはほ
とんど関知していなかった︒なぜなら︑彼女にとって︑事業がどれほどの規模で展開されているかということはそもそ
もの目的でなく︑また一定の管理方式のもと︑ワーカー達は個々の活動を任され︑それは全体として組織化されたもの
ではなかったからである︒ただ︑晩年︑彼女がその活動範囲を仲間とともに行った調査によると︑一八七四年の時点
で︑約一五棟を管理し︑二︑〇〇〇〜三︑〇〇〇人の借家人を抱えるまでに至っていたという記録も残っている︒後
に︑教務委員会︵TheEcclesiasticalCommisioners/現ChurchCommissioners︶の委嘱を受けるまでの活動展開を含める
と︑一八〇〇〜一九〇〇の住宅やフラット︑総計一〇︑〇〇〇人を超える程度の住居管理を担っていたとも概算される
︵Whelan,1998,pp.10−11︶︒これらの数値から︑三件の住居管理に始まった事業は︑小規模ながらも民間活動としてそれ
なりの評価を受け︑多くの支援者を得てその規模を大きくしていったことが伺える︒
また︑オクタヴィア方式の成果は︑一八七〇年代以降︑リーズ︵Leeds︶を始め︑リバプール︵Liverpool︶︑マンチェ スター︵Manchester︶など︑地方都市への広がりにも見ることができる︵Bell,1942,p.86︶︒この流れは︑彼女の住居管
︵
!︶︵
︑オアイルランド︑ドイツ︑ラクンダ︑ロシア︑アメリカ︑ーっマ学んだワーカー達によて理︑スウェーデン︑デンを "︶
︵
HarloeMichaelいる︒M・ハロー︵先し︶は︑彼女の方法が︑て播ス伝フリカ共和国︑オート南ラリアなど各国へもア #︶
進諸国において︑民間供給による賃貸住宅や慈善組織や自治体などによる社会住宅では対応しきれない都市最貧困層に
― 19 ―
居住支援としてのソーシャルワーク
対する住宅供給に非常に効果があったといわれている︵qtd.inBell,2001,p.364︶︒
さらに︑少し時代を後にして︑オクタヴィアの斬新なアイディアは︑アジアにも波及している︒中島によると︑イギ
リス領であった香港では︑住居管理のための専門職が養成され︑住宅供給に市場原理が導入される一九八〇年代半ばま
で︑福祉の観点にたったソーシャルワークとしての住居管理が展開されている︒興味深いことに︑日本においても︑彼
女の理念を受け継ぐ試みを見ることができる︒その一例として︑第二次戦後の住宅難にあって︑都市勤労者のために住
宅供給を担った日本住宅公団︵現都市住宅整備公団︶が︑﹁団地を単に物としてとらえるだけでなく︑新たなコミュニ
ティの発生としてとらえる﹂という視点から︑住居管理システムを導入している︒そこでは︑対人援助サービスを担う
︵
えしな役割を果たした︒しか︑重一九六〇年代︑公団が抱要に住決ヘルパーが配属され︑民女が抱える生活問題の解性 !︶
る住戸数が増加するとともに︑効率的管理が優先されることとなり︑その役割には終止符が打たれている︵Bell,2001,
pp.364−367︶︒
蠱
社会改良家としての評価││時代の潮流の中で││
ヴィクトリア時代︵1837−1901年︶が終焉し︑第一次世界大戦を直前にイギリス社会が新たな変革期を迎えた時期︑オ
クタヴィアは六四年の生涯を終えている︒その死が国をあげての埋葬も考慮されたほど︑彼女は時代を代表する人物の
一人となっていた︒しかし︑彼女の社会活動家としての評価をめぐっては︑今なお多くの議論を呼ぶところである︒G
・マーフィーは︑この点を以下のように指摘している︒
オクタヴィア・ヒルの名前が今では︑あまり知られていないのは︑彼女の晩年の頃にその理由があった︒彼女 居住支援としてのソーシャルワーク
― 20 ―
は自発的な奉仕や社会的なケース・ワークの力に大きな信念を置いていた︒しかしこれらは両方とも︑都市の貧
困を救済するのにただ部分的に効果があるだけで限界があった︒貧困の組織的な社会調査の結果として︑世論は
いまや国民年金や福祉事業の必要を意識するようへと変わりつつあった︒一九〇五年に彼女が救貧法に関する王
立委員会に任命されたとき︑彼女の見解と他の委員のいく人かの人びととの見解とのあいだの大きな隔たりは歴
然としていた︒︵Murphy,1992,pp.182−183︶
一八世紀末の福音主義の復活以降︑家庭道徳や他者への奉仕を信条としてきた中産階級の人びとは︑﹁既存の階級秩
序を乱すことなく実現できる社会改革﹂︵井野瀬︑1994,p.233︶というヴィクトリア時代を象徴する社会的価値観のもと
で︑慈善活動に傾倒していった︒オクタヴィアもまた︑宗教的動機には多少の差異があるものの︑その体現者として︑
﹁議会が行う財政援助や法律の制定ではなく︑自助と自立の精神に基づく
!彼ら︵本文では
!労働者
"を受けている︶
の個々の熱意を第一に優先する改革活動
"2341998,p.59p.1994,﹂想理を﹂使天の庭家前を﹁と提に︑︵井野︑︶︑︶山横︵瀬 する中産階級の女性の協力を得て先駆的な活動を行ったのである︒それは︑まさに社会的良心︵socialconscience︶に
︵
cause︒基大義︵︶にづすく運動であったると題よのら自を消解の任問会社︑てっ !︶
しかし︑一八八〇年代以降の社会改良は︑フェビアン協会︵一八八四年︶の創設や独立労働党の誕生︵一八九三年︶
に代表される社会主義の復活や労働者界における新しい政治行動の高まりに︑国内ではC・ブース︵CharlesBooth,1840−
1916︶やB・S・ラウントリー︵BenjaminSeebohmRowntree,1871−1954︶らによる貧困の科学的実証と︑対外的には一八七
〇年代以降の帝国主義体制の台頭が重なり︑国民生活への積極的な国家干渉を求める時代へと移行していく︒女性の社
会的地位についても︑婦人参政権運動家の多くが戦争協力姿勢を示したことや職場進出などによって︑婦人参政権︵一
九一八年︶が実現する︒こうした新しい時代の潮流にあって︑婦人参政権や労働者の政治動乱︑さらには社会福祉を担
― 21 ―
居住支援としてのソーシャルワーク
︵
︒錯ィアの社会観は時代誤タなものとなっていくヴク一オ家としての役割に貫うして懐疑的であった国 !︶
このような背景から︑一九〇五年の救貧法王立諮問委員会への正式な参加は︑オクタヴィアが社会改良家としての革
︵
︒最されることとなったも批顕著な例となっている判をに性を評価されたと同時︑新彼女が併せ持つ保守性 "︶
オクタヴィアの社会活動家としての評価の二分は︑本国イギリスにおける住居管理事業の継承という点においても同
様である︒一つには︑他国に先んじた住宅政策を推進する段階にあって︑オクタヴィアの実践的な取り組みが公的なレ
ベルにおいてほんの一部しか導入されることはなかったことに表れている︒福祉国家の代名詞となった公営住宅におい
て︑彼女の手法は︑男性によって占められた有給の専門家団体による官僚主義的な管理にとってかわられた︒一九四〇
年代以降に台頭する集合主義︵集産主義︶︵collectivism︶の観点からすれば︑道徳的教化に偏重した貧困観などを背景
とするオクタヴィアの住居管理は︑労働者階級のための住宅整備に根本的な解決をもたらす手法ではなかったからであ
る︵Malpas,1982,p.208︶︒ 他方︑民間レベルでは︑オクタヴィア・ヒル・ハウジング・トラスト︵theOctaviaHillHousingTrust︶が︑現在の住
︵
housingassociations︒今タヴィアの事業の的日オ遺産となっているクり︑な宅協会︵︶の起源とる活動を長年行ってお #︶
この組織は︑一八八六年︑オクタヴィアが住宅問題に取り組む民間団体として設立したホルス・ストリート・トラスト
︵theHoraceStreetTrust︶を母体として︑一九七四年にロウ・ハウジングトラスト︵theRoweHousingTrust︶︑一九八九 年にラティマー住宅組合︵LatimerHousingSociety︶がそれぞれ合併してできたものである︒民間非営利団体として政
府や地方自治体︑住宅協会から融資や補助を受け︑ボランティアによる管理委員会のもと︑住宅の提供のみならず︑子
ども︑障害者︑高齢者︑失業者へのサービスまで︑地域支援を目指す幅広い活動を行ってきた︒二〇〇一年には︑その
資産をメリルボーン・ハウジング・トラスト︵theSt.MaryleboneHousingTrust︶へと移し︑新たな名称オクタヴィア・ 居住支援としてのソーシャルワーク
― 22 ―
ハウジング&ケア︵OctaviaHousingandCare︶のもと︑オクタヴィアの意志を継承しつつ︑住宅ニーズに応じた活動を 模索している︵TheOctaviaHillHousingTrust資料
ndes,2003,p.22Hiし・ニティをケアミ目指ュ供コや給宅住たしうこ︒︶ ;
た積極的な活動展開は︑福祉国家の破綻によってその基本的前提が見直される時代にあって︑オクタヴィアが行った民
間事業の意義を改めて再考すべき時期にきていることを示しているといえよう︒
おわりに
本稿は︑住環境改良家オクタヴィア・ヒルの思想的背景をもとに︑住居管理事業の展開とその歴史的意義を追究し
た︒その結果︑次のような点が明らかになった︒
第一に︑オクタヴィアの思想的背景を辿ると︑住環境への視点が比較的早い時期に形成されていることがわかる︒幼
少期の生育環境に加え︑ロンドンという大都市に出て早くから家計の一端を担う境遇にあって︑資本主義社会の潮流と
その底辺に強いられた人間的営みとはほど遠い生活環境を目の当たりにしたことは︑キリスト教社会主義という生涯に
わたる精神的支えを得て︑自らに社会的使命を課すこととなっている︒
第二に︑オクタヴィアが着手した貧しい労働者のための住居改善事業は︑彼女の福祉・居住思想を実践するソーシャ
ルワークの一方法として独自の展開を示している︒その内容は単なる住宅の改良ではなく︑﹁借家人﹂と﹁家主﹂が一
定の義務を負う平等な相互関係を前提に︑生活の基盤である住宅の適切な提供・管理︵management︶を行うもので︑
﹁住宅﹂︵house︶を媒介に住み手の生活の改善を目指す﹁住居﹂の改良であったといえる︒彼女にとって︑﹁住居﹂とは
﹁家庭﹂︵home︶であり︑家族が集い︑互いを尊び︑その一員としての役割を果たし︑子どもの健やかな成長を育む場
所であった︒この運動において重要な役割を果たしたのがソーシャルワークの先駆的役割を担ったワーカー達である︒
― 23 ―
居住支援としてのソーシャルワーク
彼女たちと共にオクタヴィアが目指した活動は︑居住者の道徳的・経済的自立や社会性の向上を目標に︑個々の生活問
題への対応から地域活動まで含む幅広いものであった︒それは︑当時の社会観や家族観を少なからず反映しつつも︑貧
しい人々の人間性の回復を目標に︑
!人と環境
"追にここ︒たっあでのもるす求ちのたかの助援人対いし新らか係関︑
!ソーワルャシーの居てしと援支住ク
"るての視点があ︒とこうして展開し家をタ提起したオクヴ良ィアの住環境改さ
れた住居管理事業は︑いわゆるオクタヴィア方式として国内外である一定の成果をあげている︒
第三に︑オクタヴィアの社会改良家としての評価は︑今なお多くの議論を呼ぶところである︒特に︑彼女の福祉・居
住思想が併せ持つ革新性と保守性をめぐっては意見が分かれるところである︒オクタヴィアの社会活動家としての評価
は︑本国イギリスにおける住居管理事業の継承性という点においても同様である︒福祉国家形成期︑オクタヴィアの住
居管理は︑労働者階級のための住宅政策プログラムに有効な手法とはみなされなかった︒しかし︑今日︑福祉国家の見
直し期を経て︑民間活動の役割が重視される潮流にあって︑オクタヴィアが行った民間事業の意義は︑その今日的展開
も含めて再評価されるべき課題が多い︒
貧困問題としての住宅問題の存在に気づき︑その解決に向けて︑自らの理念を実践するかたちで草の根の活動を展開
したオクタヴィア・ヒル︒彼女の視点は︑時代を反映しつつも︑社会福祉を実現するための住環境改良の必要性と同時
に︑社会改良のための社会運動と対人援助というソーシャルワークの本質を提起したものである︒それは︑社会福祉︑
とりわけ︑ソーシャルワークの観点からを住環境の意味を問う上で︑歴史的にも今日的にも多くを示唆するものである
と考える︒
︵付記︶
本稿は︑本学大学院文学研究科社会福祉学専攻岡本民夫教授のご指導により執筆し︑ご校閲を受けたものであり︑ここに深く謝
意を表します︒ 居住支援としてのソーシャルワーク
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◇本研究は︑﹁オクタヴィア・ヒルの社会活動︱社会福祉の歴史的展開における意義﹂︵一九九九年日本社会福祉学会第四七回大
会報告︶および﹁オクタヴィア・ヒルの住居改善運動︱活動の軌跡を訪ねて︱﹂︵二〇〇〇年日本社会福祉学会第四八回大会報
告︶を内容的に発展させたものである︒
注︵1︶女性のための共同ギルド︵theChristianSocialist-inspiredLadies’Guildとも︶︒一九世紀中頃︑キリスト教社会主義に基づいて
設立された共同作業場︒主として︑ロンドンの貧民地区の女性や子ども達に生活の糧となる教育と仕事を提供した︒その管
理を任された当時︑キャロラインは︑公衆衛生のパイオニアであるスミスの娘として︑また︑自身の教育に関する著作を通
してよく知られていた︵Murphy,1992,p.226−227;Bell,1942,p.13︶︒
︵2︶オクタヴィアとキリスト教社会主義の関係については︑松平千佳﹁オクタヴィア・ヒルの社会改良観︱ソーシャルワークと
しての住居管理の視点から︱﹂に詳しい︵﹃キリスト教社会福祉研究﹄第
320014号︑︶︒
︵3︶オクタヴィアの住宅問題へのアプローチは︑単なる物質的側面としての﹁住宅改良﹂ではなく︑住意識の改革も含めた住ま
い方の質的向上を世に問うものであった︒この点で︑本稿ここでは︑﹁住居改良﹂を訳語として用いている︒
︵4︶後の慈善組織協会︵theCharityOrganisationSociety,1870︶︒
︵5︶神の単一︵unitary︶にして不可分の力と人間の内なる善性を信仰する非国教徒︵Nonconformists︶の一派︒信仰における理性
の働きや自由の尊重など︑自由主義的かつ進歩的な主張は一八世紀の時代思潮に合致して多くの支持者を得た︒さらに︑彼
らの合理的傾向は︑一八世紀末︑アメリカ独立戦争やフランス革命の時期︑政治的・社会的急進運動へと傾倒していった
︵松村・富田︑2000,p.775;Murphy,1992,p.72︶︒
︵6︶イギリスの社会主義運動家︒協同組合運動︵CooperativeMovement︶の創始者︒マンチェスターの紡績工場の支配人から︑ニ ューラナーク︵NewLanark︶の大紡績工場の協同所有者︑管理人となり成功を収める︒世界最初の幼稚園や工場共済店舗を
創設︒労働者の待遇改善を訴え︑婦人と児童の労働制限の立法化に貢献︒一八二五年アメリカに渡り︑インディアナ州にニ
ューハーモニー共同社会︵NewHarmony︶を設立したが︑失敗︒イギリスのクイーンウッドでも失敗︒全国労働組合大連合
︵GrandNationalConsolidatedTradesUnion︶を組織したが︑政府の弾圧と内部の対立により崩壊︒マルクス主義者からは︑空 想的社会主義者の代表と批判された︵Pepper,1994,p.294;松村・富田︑2000,p.168,548︶︒
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居住支援としてのソーシャルワーク
︵7︶﹁彼は︑非凡なすばらしい事業の才能を持ち︑勤勉で行動力があり︑ほとんど超人的であった︒自由で︑進歩的で︑かつ親し
みある気質は誰をも進んで傷つけることなく︑逆に皆のためになることに努めた人物であった︒﹂︵CarolineHill:Memoirof
OctaviaHill︶︵TheOctaviaHillBirthplaceMuseum展示資料︶
︵8︶教育家︒一七四六年チューリッヒ生まれ︒貧しい児童を対象とした大規模教育のパイオニアとして︒農場経営を試みたのち︑
一七七四年︑浮浪児の教育に乗り出した︒何度かの失敗を経て︑ベルトウー︵ブルクドルフ︶で学校を開き︑そこで﹃ゲル
トルートはいかにしてその子を教えるか﹄︵1801︶を執筆︒この著書で︑教育過程とは子どもの生来の才能が徐々に花開き︑ 観察によって促進されるものだという独自の教育方法を展開した︵Crystal,1997,p.939︶︒
︵9︶﹁私は︑あなたの弟子である︒﹂︵OctaviaHillaged40,inalettertohermother︶︵TheOctaviaHillBirthplaceMuseum展示資料︶
︵
10新約聖書に依拠してキリス教トの社会的性格を重視し︑社︒動運ト︶一九世紀半ば︑キリス教のの社会性を主張した国教徒会
問題に関心を注ぐ意義を説いた︒教義や儀式に偏重したオックスフォード運動︵イングランド国教会刷新運動︶に対する反
動と︑労働者階級との接触が薄れた国教会体制への反省として︑一八四八年のチャーチスト運動︵Chartism︶の衰退以後︑ 活発化する︒自由放任主義︵Laissez-faire︶主義に反対して協同組合運動︵CooperativeMovement︶を積極的に推進し︑一八 五四年労働者教育促進のための労働者学校︵WorkingMen’sCollege︶を設立︒代表的な指導者は︑ジョン・ラドロー︑フレ ッデリック・モーリス︑キングズリーなど︵松村・富田︑2000,p.141︶︒
︵
11ーンは︑ロンドンでも有数の過密居住地区であったボルリ︵︶インナー・ロンドン西メ側︶に位置する︒当時︒
︵
1d1871”dKintDifferenafyladoan1997,42L40pp.−,ynePa“A2い︵︶るいてべ述て︶つは︶オクタヴィア︑に︵で︑この原則︒
︵
1PWestminsterarish3れわ行で︶たもの︵区教ータスンミロ︶一八七六年︑ンイドンのウエスト︒
︵
14されないまま拡大していたとこへの関心から始まった︒そ化織組年︶﹁COSは︑一八六〇代に︑貧困者への慈善が無作為れ
は︑真の慈善とは受け手を施し手から自立させるよう援助することであるというチャルマーズの教えに対する応答であった︒
彼の考えは︑裕福な人々が個別の関わりを通して貧しい人々を援助することにあり︑その一例として︑先の
!訪問協会
"vis-︵ itingsocieties︶の創設などに結び付いている︒COSとオクタヴィアの住居管理は︑この伝統を受け継いでいた︒﹂︵Malpass, 1982,p.207︶
︵
174p.1942,ll,Be5文のタイトルの論上を読みげている︵︶こで︑八︶オクタヴィアは︑一六合九年の慈善組織協会の会︒
︵
1achAndragogy:TroleofOctaviHDillandPaulNatrop”LeedsuthefBaaanVanGentosti“TheInvention6・V︵B︶・ゲン︵︶は︑ト ソーワルャシーしのてと援支住居ク
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StudiesinContinuingEducation,1994︶において︑オクタヴィアの活動がオランダのソーシャルワーク史に与えた影響につい
て触れている︒
︵
1OctaviaHillAssociation7ル協会︵が︶現在も活動を行っているヒア・ラ︶アメリカ合衆国のフィディルフィアでは︑オクタヴ︒
一八九五年︑貧困者居住の改善を目指して設立された︒当時の資料として︑OctaviaHillAssociationofPhiladelphia:APlanfor
theBuildingofSanitaryHousesforWorkingmen︵1986︶がある︒
︵
1friingManagersinSouthAcaH:femininityandurbangovernousn-onJenniferRmennsobiollW“OctaviaHi8︶は︵ンソンビロ・J︶︑ ment”︵JournalofHistoricalGeography,24,4,1998︶において︑一九三〇年代以降︑南アフリカ共和国で導入されたオクタヴ
ィアの住居管理事業の展開について述べている︒
︵
1365Bell,2001,p.9導︵として採用されたるーよに入︶︒ヘルパーパルは︶大学で社会福祉学また住ヘ居学を専攻した女性が︑試
みは短いものであったが︑各分野においては︑学問的見地からみても意義深い︑オクタヴィアの事業に関する記述や論考が
なされている︒例えば︑社会福祉学の分野では︑すでに大正期︑﹃慈善﹄が﹁都市における細民住宅問題﹂に対する有効な教
訓として︑オクタヴィアの事業を紹介している︵中央慈善組織教会︑1912,pp.37−47︶︒後に︑昭和二七年には︑﹃社会福祉 辞典﹄において︑﹁オクタヴィア・ヒル﹂の項目が設けられている︵日本社会事業短期大学︑1952,p.386︶︒さらに︑昭和四
〇年には︑岡村重夫が︑﹁社会福祉としての住宅管理−オクタヴィア・ヒルの管理方式について﹂︵大阪市立大学家政学部社
会福祉論集第
12・ 119653い証観点から評価・検するの論文を発表してる福祉オ号︑︶において︑ク会タヴィアの事業を社︒
︵
2lAReportonMethodsofSociaAndvance,GeorgeAllenandUnwi:on,ctiAyaruntVolBeveridge0間民活作三第作部三︑は動﹄︵︶﹃ 1948︶で︑OctaviaHill︵1838−1912︶の活動をとりあげている︒
︵
21たことにも表れている︒力よにる政党政治に対する不信感し示を女︶それは︑晩年︑彼女が性勢の参政権獲得に否定的な姿と
同時に︑男性と女性は︑本質的に異なる能力や活動領域を持っており︑相互補完的な役割によって世の中が成り立っている
という思いを抱いていたからである︵Bell,1942,pp.187−188︶︒
︵
22︑それを求める運動は絶頂で期︑公的な委員会や組織に女のもの人︶﹁⁝⁝この時期︑まだ婦参た政権は認められていなかっ性
を登用することが頻繁に行われていた︒この王立委員会においても︑ビアトリスの他にオクタヴィア・ヒルやヘレン・ボー
ザンケトなどの女性が選任されていたが︑彼女たちの起用もそのことを物語る︒﹂︵金子︑1997,p.164︶︒
ネビンソンは︑ビアトリス・ウエッブの社会改良観︑すなわち﹁国の政策によって社会を変えていく可能性﹂と対比して︑
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