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Joseph Andrewsの宗教性をめぐって

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Joseph Andrewsの宗教性をめぐって

著者 能口 盾彦

雑誌名 主流

号 65

ページ 45‑66

発行年 2004‑03‑15

権利 同志社大学英文学会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000015195

(2)

45 

J o s e p h  Andrews の宗教性をめぐって

能 口 盾 彦

1742年1月に公表された『ジョウゼフ・アンドリユーズ』には,

r

パミラ』

(pαmela, or Virtue Rewαrded)及びその作者愚弄の意趣が込められたとさ れるが,

r

パミラ』のパロディ化をはかったとばかり決め付けられないので はないか.実際,

r

ジョウゼフ。アンドリユーズj を絢い交ぜの作品と定め る研究者も少なくないパロデイの名に相応しいのは,むしろ前年4月に匿 名出版された『シャミラ j(Shαmelα)のみに冠されるべし,フイールデイ

ング (HenryFielding)の真意は他にあるとするのが本論執筆の契機とな る.

1740年11月に匿名出版された『パミラ』の作者を,当初,フイールデイ ングはロンドン演劇界を牛耳っていたシパー (CollyCibber)の作と誤認し た 節 が 見 ら れ る . シ パ ー と は 従 姉 の モ ン タ ギ ュ ー 夫 人 (LadyMary  Monta伊)の仲介により,自らの処女戯曲『恋の種々相j(Love in Several  Mαsks)のドリユアリ・レイン座 (Drury‑LaneTheatre)での上演(1728 年2月16‑9日)に際して恩義を受けたが,忽ちフィールデイングと仇敵と なった人物である.匿名出版が決して珍しくなかった当時の出版事情から,

作者誤認は間々起こりがちであった.だがパロデイの矢面となるのは物語そ のものにとどまらず,その作者を取り違えては読者の興味は半減するだろう.

敢えて作者を思い違えた風を装い,主旨を展開するのも使法かもしれないが,

匿名作家が全く無関係で、予想だにしない人物となれば,パロデイ効果は削が

(3)

46  Joseph Andrewsの宗教性をめぐって

れてしまうのは必定.それでは『ジョウゼ、フ・アンドリューズ』発刊時,即 ち1742年1月に, wパミラ』の作者が市井のー印刷業者リチヤードソン (Samuel Richardson)と判明していた事実を,如何に捉えるべきかe フイ ールデイングがリチャードソンと面識を有していたとは考えられず,文壇で 何の遺恨も無いリチヤードソンで、はパロデイの格好の相手とはなり得ないの ではないか.wパミラ』に対する『ジョウゼフ・アンドリューズ jのパロデ イ説を裏付けるには,その行動原理を立証できるかに懸かり,次の論点に集 約されるのではなかろうか.

即ち,上述の条件下にあっても, wジョウゼフ・アンドリューズ』でなお も『パミラ』のパロデイ化を目論んだとするには論拠に乏しく,パロデイ説 立脚は推断に偏ってはいまいか.加えて, wジョウゼフ・アンドリューズ』

にアダムズ牧師 (ParsonAbraham Adams)を登場させたフィールデイン グが,興に入ってパロデイの意を途中で放棄したとされるが,それではアダ ムズ牧師が筆の走りから生まれた事となり,師の存在意義の弁証と矛盾を呈 することとなろう.ロンドンの有力印刷業者とは言え,リチャードソンの

『パミラ』執筆説をフィールデイングは『ジョウゼフ・アンドリユーズ』校 正時にはじゅうぶん承知していた筈である 2Wパミラ』の作者と内容を榔撒 欄笑せんとするフイールデイングが,全て承知の上で,なおも二番煎じを目 論んだのだろうか.パミラと対抗上,男の節操を主題に据えて話を進展させ ても早晩行き詰まることを,フイ}ルデイングはじゅうぶん心得ていた筈で ある.wジョウゼフ・アンドリユーズ』出版時には『パミラ』の原作者は判 明済みで,男と女の違いはあっても,フィーjレディングが前作『シャミラ』

と似通った趣旨,視点で物語の展開を図ったとは考えにくい後に 英国小 説の父"と称されたフィールデイングにとって,それでは余りにも貧困な着 想と言われかねない.ロンドンの印刷業界では名の知れたリチヤ)ドソンも 一介の商人にすぎず,後年,その彼をしてフィールデイングに物書きの方法 を教えてやったと標務されては 4フイールデイングの名折れとなろう.シ

(4)

Joseph Andrewsの宗教性をめぐって 47  パーへの反発ならまだしも,リチヤードソンと知った上で,再びパロディを 目論まねばならぬ必然性が一体何処にあるのか.こうした出版事情を知った 上での論戦が実効性に乏しく空しいことは,フイールデイング自身が一番よ く弁えていた筈である.この課題を究明することが,

r

ジョウゼフ・アンド

リューズ』執筆の意図解明に結びっくのではなかろうか,またそうありた

『パミラ』の副題に示唆される如く,同作品は宗教的示唆に富むことで知 られているが,

r

ジョウゼフ・アンドリューズ』も遜色無き作品で,後書が より聖書との因縁が深い点は証左に値する.

r

ジョウゼフ・アンドリューズ

J

の作中人物の命名法だが,主人公達には聖書に由来する名を,脇役には男女 の攻防を暗示する為なのか,狩猟のイメージを訪併させる名が付されてい る パ ニ ヤ ン (JohnBunyan)の『天路歴程j(Pilgrim's Progress)に見ら れる如く,神の啓示に遭遇した主人公が神罰に震え傑く例に事欠くが,

r

ヨウゼフ・アンドリューズ』の主要な作中人物の姓名が聖書に由来すること は間違いない.主人公ジョウゼフの名は聖書にその範が認められる.

r

新約

聖書j

r

マタイによる福音書」第1章第16‑25節等に見られる,イエスの母 マリアの夫,ナザ、レの大工ヨセフの名に由来するだろう.ヨセフの名はキリ スト教徒ならずとも馴染み深い6

r

ジョウゼフ・アンドリューズ』第1巻第 12章で,ロンドンから故郷を目指すジョウゼフが追いはぎに遭遇し,乱打 された上,身包みはがれる破目に陥る.その後再会した同郷の恋人ファニー と同行するが,横恋慕した田舎郷土 (theSquire)の執効な干渉と理不尽な 扱いに対し,ジョウゼフは神懸り的奮戦で彼女を救い出す.こうした彼の受 難と奮闘振りに,作者はヨセフの試練を重複させようとしたのではないか.

ジョウゼフの姓アンドリユ}ズはリチヤードソンのパミラを念頭に付せられ た経緯があり,キリスト十三使徒の一人であるアンドレに相応するのも間違

(5)

48  Joseph Andrewsの宗教性をめぐって いない.

クリスチャン・ヒーローはジョウゼフに止まらず,アダムズ牧師にも当て はまろう.牧師の姓であるアダムズは人類の始祖アダムを,さらに同師の名 は『旧約聖書.1

r

創世記

J

第11‑25章に登場する,ユダヤの祖アブラハムを 読者に連想させる.

r

ジョウゼフ・アンドリューズ

J

にあって,ロンドン上 京の途,ジョウゼフ及びファニ}と再会したアダムズ牧師は,共に故郷を目 指すが, ドン・キホーテとサンチョの同行を読者に想わせる同師が繰り広 げる道中記はピカロ小説の伝統を踏襲するようだが,アブラハムと他の族長 の俳佃と符合させる意図が隠されている.アブラハムがエジプトとカナン (Cannan) (神がアプラハムとその子孫に約束した土地

: n

日約聖書j

r

創世

J

第12章第5‑7節にある約束の地)を流浪した故事に則る.善良かっ素 朴,義憤に駆られる直情径行的な田舎牧師の人物像考案にフィールデイング は成功する.同師の性格作りには友人のヤング牧師が,また彼が振りかざす 説教及び訓話にクラーク (SamuelClarke)の存在も忘れてはならない8イ ングランドの数学者で神学者でもあったパロウ (IsaacBarrow)の信奉者 でもあるフイ}ルデイングが,主人公や設定にパロウから大いに影響を受け たとの説もある

『ジヨウゼ、フ・アンドリューズ jではタイトJレと姓名が合致する以外に,

聖書の故事との符合が顕著で、ある.

r

パ ミ ラ 』 の ヒ ロ イ ン が 持 つ 貞 淑 Cvirtue)にジョウゼフの純潔 (chastity)を対抗させる解決策は,凡庸なら ざる文人なら苦も無く思い付くであろう.パミラ凌辱を謀るMr.Bの化身 たるブーピ一夫人が,純なジョウゼ、フを誘惑する場面は,一見『パミラ』の パロディ然を呈するが,フイ}ルデイングはむしろ聖書に範を求めているの ではなかろうか。

n

日約聖書.1

r

創世記」第39章第718節に記されるヤコブ

(Yacob)の第11子ヨセフ (Joseph)とポテパル (Potiphar)の妻との関 係がそれである.ファラオ (Pharaoh)の役人で侍衛長を務めるエジプト人 ホ。テパルの妻が,眉目秀麗な奴隷ヨセフを誘惑する.ヨセフが奴隷となる謂

(6)

JosephAndrewsの宗教性をめぐって 49  れは,

r

旧約聖書j

I

創世記」第 30章第 23‑4節等から判明する.即ち,ラケ ルを母に生まれたヨセフは,父ヤコブに偏愛された為に兄弟の妬みを買って 奴隷として売られる.だが信仰を心の縁とし,翼民難辛苦を祇めた末,遂に全 エジプトの司となるe ポテパルの妻との出会いはヨセフが奴隷に零落した折 であった.ポテパルの妻は執効にヨセフを誘惑するも徒労に終わるや,憤癌 ゃるかたない同女は夫に謹言する.怒ったポテパルはヨセフを牢に繋ぎ,ポ テパルの妻との係わりは解消する.パミラ凌辱未遂の件を匂わせつつ,聖書 に範を求めるフィールデイングは,衆知の聖書の逸話を挟む事によって,パ ロディの域を越えた男女関係の構築を狙うのである.

ジョウゼフが追い剥ぎに傷を負わされ,運び込まれたのがタウワウズ (Tow‑wouse)の旅龍で,ベッドにあるジョウゼフを尋ねる村の牧師は『ジ ヨウゼフ・アンドリユ}ズ

J

第1巻 第 13章 に 登 場 す る パ ー ナ パ ス 師 (Parson Barnabas)で,同師の姓名から『新約聖書j

I

使徒行伝」第4章第 36‑7節に登場する聖パウロを助けたレビ人を読者は連想する.しかしなが ら,ここではパーナパス師は信仰心を欠いた飲んだくれの田舎牧師として描 かれている.同師の定見の無さは論理性に欠けるばかりか,追い剥ぎを許す か否かをめぐり,ジョウゼフにキリスト教徒としての寛大さが肝要と諭す (60) .恋人ファニーの危機に,ジョウゼフは旅の途中で、出会ったアダムズ牧 師と神がかり的奮闘の末,漸く彼女を助け出す.大団円を前にジョウゼフの 身元が判明し,晴れて肉親との再会を果たすが,こうした自己証明への道程 もヨゼフの試練の一端と捉えられよう.

18世紀半ばにあって,中世の絶対的権威の象般としてのキリスト教の威 信は既に失われ,民衆の信仰心は頓に希薄となった.物心両面の堕落した風 潮を日にした文人達が,社会改革の旗手たらんと願ったとしても,不遜とは 申せない.英国国教会広教会派に帰依したフィールデイングが 10登場人物の 命名に際し,自らの宗教理念に照らし,自己の道徳感を反映させたとしても 不思議は無い.当代の社会啓蒙を担う物書きとしての使命感が筆を執らせた

(7)

50  JosephAndrewsの宗教性をめぐって

とも定め得る.登場人物に『聖書jに由来する姓名や故事来歴をフイールデ イングが盛り込んだとしても,作者の敬良さや宗教心の深さを表すことにな らないのは断るまでもない.ジョウゼフを始めとする主人公が製難辛苦を共 にし,波乱万丈の人生を送らねばならぬ物語の展開に,神と人間の係わりが 暗示されるのも,近代小説への過渡期の特徴の一つであろう.

フィールデイングと説教集との繋がりは深く,

r

ジョウゼフ・アンドリユ ーズ』も例外ではない.そこには実在する宗教関係者の説教集以外に,アダ ムズ牧師が持参したとする代物も含まれよう.同牧師は自己の説教集出版の ためにロンドンを目指すが,故郷の自宅に置き忘れた顛末が面白い.これは アダムズ牧師の粗忽さ,金銭感覚,状況認識の欠如を端的に物語る。大切な 説教集を故郷に置き忘れたことを,ジョウゼフに指摘されて漸く気づく有り 様から,同師の軽率さと説教者との不具合いがアダムズ牧師には付きまと

つ .

『ジョウゼフ・アンドリユーズ』第4巻第14章でのダイダパーによる夜 這いの経緯から,アダムズ牧師の粗忽さは否定しがたく,聖職者らしからぬ 素行が同牧師の特徴である.夜陰に悲鳴を聞きつけたアダムズ牧師は,スリ

ップスロップ女史救援に駆けつけるが,夜半の椿事に相手を違えてとり逃が してしまう騒ぎがおさまり,自室へ戻る途中で部屋を間違えた牧師はフア ニーのベッドにもぐり込む.やがて大失態が明らかとなるや,アダムズ牧師 は As1 am a Christian, 1 know not whether she is  a Man or Woman. . .  They as surely exist now as in the Days of Sαul.  My Clothes are  bewitched away too, and Fα

nny's brought into their place." 11 (334)  と聖 書の故事を引いて,自己弁護に努める.アダムズ牧師が口にするサウルの時 代とは『旧約聖書j

r

サムエル記上j第28章第7‑25節に基づき,サウルが 変装して亙女のところへ出向き,サムエルを呼ぶ逸話に因む.サウjレと魔女

(8)

JosephAndrewsの宗教性をめぐって 51  との出会いを引用するアダムズに誠弁癖を指摘する向きもあろうが,牧師の 憎めない性格が窮地を救う.

アダムズ牧師の説教癖は止まるところを知らない.

r

ジヨウゼフ・アンド リユ}ズ』第4巻第8章で同師はジョウゼフに禁欲を説く.ここで引かれる の は 『 新 約 聖 書 j

r

マ タ イ に よ る 福 音 書

J

第5章 第 28節中の 端,

Wh080ever looketh on αWoman 80 α8 to lU8t αfter her." (308)であり,情 欲の罪深さをアダムズ牧姉は教え諭そうとする.聖書の一節を同師が端折る のも,以下の件が結婚の性愛に言及する為,師の主義に反するからである.

しかし同章冒頭で家族愛について口を差し挟むアダムズ夫人を前に,同師は 沈黙,反論の余地は無い.説教と実践に一貫性を欠く点で,アダムズ牧師は 偽善者と紙一重,同師の末っ子ジャッキー (Jacky)の溺死の報がもたらさ れる場面がこれを如実に物語る 12過度の感情を抑え,理牲を尊ぶべしと 常々口にするアダムズ牧師のこの狂乱振り,嘆き悲しむ姿にジョウゼフは驚

きを隠さない.

He stood silent a moment, and soon began to stamp about the  Room and deplore his Loss with the bitterest Agony. J08eph, who  was overwhelmed with Concern likewise, recovered himself suffi‑ ciently to endeavour to comfort the Parson; in which Attempt he  used many Arguments that he had at several times remember'd out  ofhis own Discourses both in private and publick, (for he was a great  Enemy to the Passions, and preached nothing more than the  Conquest of them by Reason and Grace) but he was not at leisure  now to hearken to his Advice.  (309) 

末子の悲運を嘆いては, Hadit been any other of my Children 1 could  have bom it  with patience;"  (309)と,自らの偏愛を追認するアダムズ牧 師だが,前述のヤコブに偏愛されたヨセフの悲運をアダムズ牧師が存ぜぬ筈

(9)

52  Joseph Andrewsの宗教性をめぐって

はない.知ってか知らずか,ジョウゼフに HadAbrahαm80 loved hi8 Son  1sααc,"  (308)云々と,アダムズ牧師は偏愛の非を諭す.アダムズ牧師の典 拠は,

r

旧約聖書j

r

創世記」第22章第1‑18節で,アブラハムがわが子イサ クを祭壇に捧げる逸話に基づく。息子が旧知の行商人に救われたことを知ら されるや,アダムズ牧師は喜色満面,小躍りする始末.漸く我に返った同師 は今度は感情に走るでないとジョウゼフを戒める.牧師の変身に Patience of Joseph, nor perhaps of Job, could bear no longer;"  (310)と,

ジョウゼフは反論する.ここで引かれるヨブとは,

r

旧約聖書j

r

ヨブ記

J

に 登場する敬度な義人に他ならない.だが忍苦,堅忍のモデルたるヨブにジヨ

ウゼフが准えられるのも,不釣り合いな印象は免れない.二人のこうした遣 り取りを聞いていたアダムズ牧師の妻は, ・・・, 1 am certain you do not  preach as you practise; for you have been a loving and a cherishing  Husband to me, .一"(311)と説教癖の夫を各め,夫婦愛を実践する夫の姿

を暴露して,

r

ジョウゼフ・アンドリューズ』第4巻第8章は終わる.説教 は聖職者の常套手段だが,アダムズ牧師による説教と実践の断差は顕著で,

偽善者の様相を呈する嫌いが無きにしもあらず.アダムズ牧師の描出から,

決して田舎牧師の理想化が図られていない事は否定できない.だがその聖職 者らしからぬ人間臭さが,また説教に固執すること無く,実践を伴う行動力 に読者は親近感を抱くことは間違いない.

川に落ちて 洗礼"されたアダムズ牧師の末子ジャックが,

r

ジョウゼフ・

アンドリューズ』第4巻第10章に,脱線話の語り手として 復活"を果たす.

読者と語り手,作中人物の関係を構築する脱線話で,

r

ウィルソンの物語

J

(III:  iii‑iv)や「レオノラの物語

J

(II:  ivvi)に類する.幼子にラテン語の 物語を朗読させる設定で,男の友情が破綻をきたす訓話の聞き手は,アダム ズ牧師一家とジョウゼフとファニー,さらに牧師宅を訪れたブ}ビー夫人等 の一行である.時折,アダムズ牧師が息子の読みを正し,ブービー夫人が朗 読を促す.アダムズ牧師の末息子が語る友情の破綻劇は聖書に由来する逸話

(10)

JosephAndrewsの宗教性をめぐって 53  にあらず,大団円を前にする幕開挿話の類にすぎない.但し,その論旨は他 の脱線話同様,道徳訓話の色彩が強い 13広く人間愛としての博愛,慈愛,

憐閣の情を語り手が説くのがフィールデイングの手法であり,説教めかしく 語られる脱線話の効用もそこにある.人の本分として節度を求め,聖書の逸 話を差し挟むアダムズ牧師の説教は我田引水の嫌いがあり,説法としては限 界がある.しかしながら,純然たる説教の形式は踏まぬが,脱線話同様,読 者啓蒙の役割を担っていると言って差し支えない.言行不一致を嫌う趨勢か ら,万人を納得せしめる説得力に欠けるが,その根底に流れる善良さ,人類 愛がアダムズ牧師の説教の特徴であろう.聖書に由来する逸話はあまねく世 に知られていることから,

r

ジョウゼフ・アンドリユーズ

J

をキリスト教的 叙事詩と定める事も可能で、 14アダムズ牧師の直情的言動に象概されるが故 に分かり易く,読者の感興を呼ぶのである.

牧師に説教は付き物だが,

r

ジョウゼフ・アンドリューズ

J

に登場する聖 職者と説教集の例を次に考えてみたい.

r

ジヨウゼフ・アンドリューズ

J

第 1巻第14章で旅龍に担ぎ込まれたジョウゼフは,偶然にも同宿でアダムズ 牧師と再会を果たす.アダムズ牧師は宿泊代金の担保として自己の説教集を 差し出そうとするが,宿の主人に敢然と拒否される.ジョウゼフの不測の事 態に備える田舎牧師パーナパス師が折りよく居合わせ,同師を交えて説教集 談義が始まる.

, 

after a long Duration

, 

concluded with bringing the nine  Volumes of Sermons on the Carpet. Bαrnαbαs greatly discouraged  poor Adαms; he said, 'The Age was so wicked, that no body read  Sermons: " (75) 

白らの体験から説教集の付加価値は無いとするパーナパス師は,納得しかね

(11)

54  JosephAndrewsの宗教性をめぐって

るアダムズ牧師に本屋を紹介する.本屋の台詞, butSermons are mere  Drugs. The trade is so vastly stocked with them, that really unless they  come out with the Name of Whitfield or Westley, or some other such great  Man, as a Bishop, or those sort of People, .." (79)から,高位聖職者や著 名な説教者の説教集は需要が見込まれるが,無名の田舎牧師では所詮無理な ことが明らかとなる.諦めきれないアダムズ牧師だが,

r

ジョウゼ、フ・アン

ドリューズ』第2巻第2章官頭の段落から,読者は牧師の説教集が旅装の鞍 袋に入っていないことを知らされる.この急転直下の展開は,フィールデイ

ングの軽妙な陳述の一端を物語る.

前世紀からの説教集出版の流行はフィールデイングの時代にピークを迎 え,著名な聖職者達が相次いで説教集刊行を競った.統計によると,王政復 古以来1730年代半ばまでに入千余点以上の説教が版にのぼったという.中 には前述のパロウやクラークに加えて,テイロットソン (JohnTillotson)  にホードリ (BenjaminHoadly)等15の高名な聖職者,説教者の名を見出 すことが出来る.フィールデイングの関心の程は前段でのアダムズ牧師の失 念の件からも明らかだが,彼が説教集全てに賛同したとは言い難い.メソジ スト派への反発は,ホワイトフィールド (GeorgeWhitefield)の説教集に 対するフィールデイングの筆勢からも窺い知る事が出来る 16一方,ウイン チェスタ}の主教であったホード1)師が唱えた評判高き説教として, 1717  年3月31日に公にされた''TheNature of the Kingdom, .or the Church, of  Christ"があるが,アダムズ牧師の説教にホードリ師の教えが色濃く反映さ れているとの説が在る 17学問僧であるパロウ師の説教とアダムズ牧師の相 関性についても,同様の指摘を見る 18フィールデイングと彼が信奉する英 国国教会広教会派の有力指導者との関係も無視し得ず,テイロットソン等の 説教集がジョウゼフやアダムズ牧師の人物像作成に貢献したとのパテステイ

ン説は首肯できるのではないか19

肝心要の説教集の置き忘れはアダムズ牧師の性格を如実に物語るが,説教

(12)

JosephAndrewsの宗教性をめぐ、って 55  集の中身が如何なるものかは読者に明らかにされていない.牧師自身も説教 の内容に言及しないが,ジョウゼフ等への

i l l l l

戒にしくは無く,問題は高位聖 職者から田舎牧師に至るまで,挙って説教集出版に奔走していた現況にある.

この社会現象をフィールデイングはジャーナリストの一員として捉えていた ふしが見られ,説教集出版の宣伝に彼が強い関心を払ったことが明らかにさ れている?テイロットソンやパロウ等の英国国教会広教会派の説教者や聖 職者に対して,賛辞を惜しまなかったフィールデイングではあったが,諸々 の説教集の中には胡散臭い代物も数えられなくはなかった.これまで劇作家 及びジャーナリストとして,観客や読者の存在を念頭に置くフィールデイン グにとって,法話に値しない説教集が無批判9 無原則に巷に氾濫するのは我 慢ならなかった.物書きとしての彼の自負心が許さなかったと言葉を換えて も良いだろう.当代の説教集出版ブームに対して,かなり批判的な姿勢でフ ィールデイングが対処した事が想像出来る.その際,高位聖職者や評判高い 説教者の説法が無条件に受け入れられたとは言い難く,フイールデイング自 らの宗旨,道徳規範に照らして説教集を勘案したものと推断されよう.こう したフイールデイングの説教集への関心の高さが,アダムズ牧師の説教集に まつわる逸話に集約されたのではないか.パーナパス師や本屋とのアダムズ 牧師の対話から,読者は当時の出版界の実情及び説教集出版の有り様を垣間 見ることが出来る.現実社会と虚構の世界との狭間は当然考慮されねばなら ぬが,作者の説教集への尋常ならざる関心の高さは払拭できない.

『ジヨウゼフ・アンドリューズ

J

には様々な職種の作中人物を数えること が出来るが,とりわけ聖職者が重要な位置を占めている.中でもアダムズ牧 師の存在は傑出し,田舎牧師の典型として今後も英文学史にその名が残るだ ろう.パーナパス牧師はジョウゼフの負傷がらみに登場するが,経済感覚に 長けた牧師である.十分の一税の過少を弁じ, Theyhad not been long 

(13)

56  Joseph Andrewsの宗教性をめぐって

together before they entered into a Discourse on small Tithes

, 

which  continued a full Hour, • . ."  (75)とアダムズ牧師と経済談義に傾注する姿 に,信仰を蔑ろにする聖職者の実態が描出されている.同時に説教集の出版 事情を伝える仲介役を同師は果たす.次いで登場するのがトラリバー牧師 (Parson Trulliber)で,その金満家振りは際立っている.

r

ジョウゼフ・ア

ンドリユーズj第2巻第14章の冒頭には, forMr. Trulliber was a Parson  on Sundα.ys, but all the other six might more properly be called a  Farmer."  (162)と示される事から,聖職者の農園経営を禁じたヘンリー八 世第21条第13項21に反することは明白で,同師こそ営農利殖行為に走る 田舎牧師の類型と言えよう.牧師の本分を疎かにし,営利行為に専心するト ラリバー牧師の姿にこそ,当時の「固い込み運動

J

(enclosure)に没頭する 田舎牧師の実態が示唆される。信仰とは全く無縁の同師だが,聖職者の出立 ちを極めて重視する.貧相なアダムズ牧師の姿を見て,細君の言葉 .. . ,  she believed here was a Man come for some ofhis Hogs."  (162)を疑わず,

同師を豚の仲買人と思い込む.漸く彼の誤解は解けるが, 1perceive you  have some Cassock; 1 will not venture to cααle it a whole one."  (164)と

アダムズの粗末な法衣をあげつらう一方,妻に対しては .. . , if Parsons  used to travel without Horses?"  (164)と主張するトラリバー牧師は,聖 職者を踊る偽善者として訊刺される.外見のみを貴ぶトラリバー牧師こそ,

『ジョウゼフ・アンドリューズ』の原著者序 (Preface)にてフイールデイン グが定義する,気取り(Affectation)の権化に相応しい.

The only Source of the true Ridiculous (as it  appears to me) is  Affectation. But tho' it  arises from one Spring only

, 

when we consid‑ er the infinite Streams into which this one branches, we shall  presently cease to admire at the copious Field it  affords to an  Observer. Now Affectation proceeds from one of these two Causes, 

(14)

JosephAndrewsの宗教性をめぐって 57  Vanity, or Hypocrisy: for as Vanity puts us on affecting false  Characters, in order to purchase Applause; so Hypocrisy sets us on  an Endeavour to avoid Censure by concealing our Vices under an  Appearance oftheir opposite Virtues. ..  (7‑8) 

トラリバー牧師の姿は世に蔓延する似非牧師の象徴とされ,明笑の的と化し,

糾弾されるべしとのフイールデイング、の意趣に適っている.

不特定多数の聖職者を象徴するトラリバー牧師とは別に,意図的に実名が 挿入される例が見受けられる.例えば,

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ジョウゼ、フ・アンドリューズ

J

で の宗教関係者の説教集の可能性をめぐり,ホワイトフィールドやウェスレー ならば増刷が保証されると前出の本屋に言わしめるが,ここでの狙いは著名 な伝道師に事寄せたメソジスト派訊刺にある.

これとは逆に,姓名が付されぬ例を護っか挙げてみたい.例えばウィルソ ンの隠遁生活振りを評して 22theSquire of the Parish representing me as  a Madman, and the Parson as a Presbyterian;"  (224)とあるが,狂人と 見紛う者を敢えて長老教会派と決め付ける件に,作者の英国国教会擁護,ス コットランド国教会への対抗心が窺える.長老教会への反発はパブリック・

スクールの教育論に端を発するアダムズ牧師の言葉 .. • , 1 had rather he  (a Boy at a Public School) should be a Blockhead than an Atheist or a  Presbyterian."  (230)にも集約されるのではなかろうか.

ファニーに横恋慕する郷士から彼女を救出して後,アダムズ牧師は旅篭に 居合わせた僧の訓示を聴き, 1believe 1 have preached every Syllable of  your Speech twenty times over:"  (253)と我が意を得たりと賛同する.ロ ーマ・カトリック教会の牧師と見定められるが,当の牧師は名前はおろか身 分さえも明らかにしようとしない.僧の沈黙には,英仏両国の多年に渡る交 戦の歴史が影を落としている.スチュアート王朝並びにジャコバイト勢力9

これを支援した仏国との長年の対立抗争から,イングランドでの反仏国,反

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58  JosephAndrewsの宗教性をめぐって

カトリック気運は厳しい法律規制へと進捗を見た戸この辺りの事情は1768 年に公表されたスターン (LaurenceSterne)原作の『センテイメンタル・

ジャーニー j(A Sentimentαl Journey Through Frαnceαnd Italy)に登場 する英国国教会の牧師ヨリック (Yorick)が,心もとない気持ちで敵対国の 仏国を漫遊する様と符合する.カトリック派の牧師と見られる名乗れぬ牧師

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名乗る自称聖職者のトラリバー牧師等の取り合わせが好対照を生み,時 の政情を具に映し出している.こう見てくると,

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ジョウゼフ・アンドリュ ーズ』で,イ也の職種と比べて聖職者が次々と例示され,様々な実態や各宗派 の特異な対応、が列記されていると言えよう.牧師と教団に相称される個と総 体の区分を成すことにより,具体性と普遍性を織り込もうとする作者の狙い が見えてくる。

フィールデイングが1740年3月から 4月にかけて『チャンピオン』紙に 連載した AnApology for the Clergy"を字句通りに解釈すべきでない.弁 護ではなくむしろ悪しき聖職者の定義書と言える列伝で,題名は仇敵シパー が1740年春に公にした自伝,

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我が生涯の弁IJ(An Apology for the Life of  Colley Cibber, Comediαn)を,フィールデイングが模したのであろう.同 紙にあって,パーナパス牧師やトラリバー牧師等の似非聖職者の原型が描出 されている.紙面で聖職者としての本分が定義されるのも,それだけ当代の 宗教界の腐敗や矛盾が噴出した為であろう.極貧の下層聖職者の生活実態は,

世渡り上手な高僧の者修な生活振りと対比をなす.高潔な治安判事として,

フイールデイングは聖職者の堕落に義憤を禁じ得なかった.かくて1742年 の年明けの『ジョウゼフ・アンドリューズ』刊行に至るのである.純朴な田 舎牧師の胎動に,最早,

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パミラ』のパロディ化の意は雲散霧消するのは当 然であろう.

ブーピ一夫人が管轄する教区の副牧師 (curate)24として描かれるアダム ズ牧師は齢50歳 6人の家族を抱える.僅か23ポンドの俸給を食む清貧な 聖職者も,身分は不安定で,情実が任免の鍵をにぎる.大団円を飾るーコマ

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JosephAIu1rewsの宗教性をめぐって 59  に,アダムズ牧師はパミラの夫ブーピー氏から 130ポンドの聖職禄 (Living) が附与される事から,牧師の任免権は権力者の手に委ねられていることが分 かる.その意味から,牧師の処遇をアダムズ牧師が弁じる『ジョウゼフ・ア ンドリユーズj第 2巻第 8章は,教会の任免権を探る上で実に興味深い章と 言えるかもしれない.しかも前章末は".• . , and then the latter (Adams)  beganasin the following Chapter, a Discourse which we have placed by  itself, as it  is not only the most curious in this, but perhaps in any other  Book." (132)と結ぼれている.鳥打ち紳士にアダムズ牧師は自らの半生を 語り,腐敗選挙に加担しなかった為に副牧師の職を喪失したことを師は明ら かにする.聖職を目指す息子を評するアダムズ牧師の言葉" . . , and the  other honest Gentlemen my Neighbours, who have all promised me these  five Years, to procure an Ordination for a Son ofmine, • • .tho', as he was  never at an University, the Bishop refuses to ordain him."  (135)から,

牧師の任命に資格は不可欠で,人脈が物言う現状が示唆されるa 現実と理想 の狭間を,家庭人アダムズが如何に折り合いをつけるかが難題で,粗忽で短 絡的な田舎牧師の世渡りは容易でない.善良で剛毅な'性格から,

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ジョウゼ

フ・アンドリューズ』第2巻第9章のファニー救出劇での乱闘場面に示され る如く,敢然と難敵に立ち向かう.このドン・キホーテまがいの言動から,

上手く対応しきれぬわが身に歯がゆさが募る筈だが,アダムズ牧師は全く意 に介しない.浮世離れしたアダムズ牧師のこの渡世振りが,逆に読者を魅了 するのであろう.一方,アダムズ夫人がブービ一夫人の機嫌を損わぬように 振る舞うのも,娘をスリップスロップ女史の後釜にと願う親心で,夫人の処 世術無くして牧師一家の生活は成り立たない.善良で慈善心溢れ,学識ある アダムズ牧師も,時に義憤を禁じ得ぬが,権力者の意向に沿わねば家族の扶 養も覚束ない.

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60  JosephAdrewsの宗教性をめぐって V 

フ イ } ル デ イ ン グ が 英 国 国 教 会 広 教 会 に 帰 依 し 25広 教 主 義 者 CLatitudinarian)として知られるパロウやティロットソンにホードリやク ラーク等の説教に親しみを覚えていたことは既述した通りである 26実際,

『ジヨウゼフ・アンドリューズ』にこれらの宗教関係者にまつわる記述が少 なくない.同作品のコンセプトにパロウの説教が導入されているとの主張も 在るほどだ27同物語第1巻第16章に挿入されているテイロットソンとは,

カンタペリー大主教で広教会派内の指導的人物であったテイロットソン尊師 に他ならない.さらに次章,第17章でアダムズ牧師が教会の繁栄に関し,

1 am myself as great an Enemy to the Luxu andSplendour of the  Clergy as he can be. . . Surely those things, which savour so strongly of  this Worldbecomenot the Servants of one who professed his Kingdom  was not of it:"  (82)と述べる一節があるが,これはホードリ主教の有名な 説教 官1eNature of the Kingdom, or the Church, of Christ"の論法を借 用・踏襲したものと考えられる戸クラークは神学者兼哲学者として知られ,

『アミーリア,]CAmeliα)等にも言及されている戸アミ)リアとブースの関 係に説話法の古典TheWhole Duty of Mαn (1659)の影響を示唆する研究 書 が あ る が 30

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人 の 本 文 の 全 て j の 著 者 , オ ル ス ト リ ー (Richard Allestree)はイ一トン校の元学寮長 (Provost)であった事から 31イ一トン 校時代のフイ}ルデイングは恐らく同書の朗読を耳にした事であろう?

フィールデイングと聖職者の繋がりは『ジヨウゼフ・アンドリューズ』に あって象徴的な意味を有する.アダムズ牧師とパーナパス牧師やトラリバー 牧師に,善良かつj青貧な牧師と聖職者とは名ばかりの似非牧師とが比較され ている.~チャンピオン j (1740年4月19日)紙上でフイールデイングが批 判の槍玉に挙げたのも,同類の教会関係者ではなかったか.紙面の一節

But in fact, a bad Clergyman is  the worst of Men: . . . And as a 

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JosephAndrewsの宗教性をめぐって 61  Clergyman cannot be supposed a Christian without being a good Man; " 33 

の行聞から,読者の念頭に浮かぶのは, トラリバー牧師紛いの聖職者の姿で はなかろうか.当時の聖職者の実態をスタックハウス (ThomasStackhouse)  は自著TheMiseriesαnd Great H,αrdships of the lnferior Clergy. .の中で 詳述しているが,フィールデイングも同書を参照した模様である 34聖職者 が本来の職務を怠り, ["囲い込み運動」に遭進しては私腹を肥やす田舎牧師 となり下がる.利権を漁り,猟官活動に専心する都会牧師の暗躍に,都会と 田舎,また上下を間わぬ宗教界の堕落を認めたフィ、ールデイングの義憤は抑 えがたいものであったに違いない.高位聖職者の華美で、者修な生活ぶりを見 聞きするにつけ,フィールデイングは下層聖職者の窮状振りに心を痛めた.

一部の特権階級とは対照的な貧乏牧師の暮らし向きは,スタックハウスの指 摘にもあるように,悲惨この上なかった.フィクションの世界とは言え,清 貧に甘んじるも,権力に掘ぴず,世俗離れした愛すべき田舎牧師として,ア ダムズ牧師はフイールデイングの信条に適った牧師像と定められるだろう.

市 吉

『パミラ』が1740年に公表されるや,信仰心溢れる作品として,英国各 地の教会で説教に引用される程までに絶賛された 35徳育を遵守した庶民派 のヒロインの生きざまが,当時の読者の共感を呼んだのであろう.このヒロ インの処世術に逸早く異を唱えたのがフィールデイングであり,

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シャミラ

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をもって世に問うた.パロデイとしての『シャミラ

J

は小気味良く,原作の 本質を違わず裁断して縫合する妙に,フィールデイングの楓刺精神が見事に 開花している.パミラの貞操をジョウゼフの純潔にすげ替える妙案に,彼の 諾諾精神が発揮される.

蓮っ葉娘シャミラの陰に見落とされがちなのが,恋人の破戒僧アーサー・

ウィリアムズの存在である.シャミラの主人ブーピー氏を交えた三角関係を 巡り,書簡体形式で取り交わすのが都会と田舎の牧師,ティクルテクストと

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62  Joseph Andrewsの宗教性をめぐって

オリバー両師である.定見無き二人の牧師に付和雷同する聖職者の実態が示 唆される.フィールデイングの人物描写で特筆されるのはこうした牧師達で あり,彼等の所業を暴き,聖職者の堕落を榔捻することが.

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ジョウゼフ・

アンドリューズ』にも継承され, トラリバー牧師を始めとする聖職者が登場 する.

笑劇を本領とする劇作家から小説家として,フィールデイングは文壇復帰 を画策した.その為には『パミラ』に対抗する新趣向を盛り込まねばならず,

司iI話志向として,宗教色を自作に描き込もうと考えたとしても不思議ではな い.

r

ジョウゼフ・アンドリューズjでは実在する聖職者や説教者の名が連 ねられ,彼等の説法がアダムズ牧師の口の端にのぼる例も少なくない.当時 の読者には恐らく馴染みの説教と写ったことであろう.聖書の故事や高僧の 説話を物語に織り込むことも作者は忘れない.多様な牧師を登場させて,聖 職者の実態を読者に提示する.フイールデイングの宗旨や信条に反する際に は,宗派や教祖達が批判の矢面に立つ.

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ジヨウゼ、フ・アンドリユーズjに あって,改俊の態をなすのは脱線話の語り手ウィルソン唯一人にすぎず¥ ト ラリバーやパーナパス両牧師らが前非を悔い改めることは到底考えられな い.彼等には宗教界の実状と社会の断面を提示する役割が課せられ,悔俊と は無縁であるのも,アダムズ牧師との絡みで合点が行く.信仰形式を貴ぶの ではなく,信仰実践を重視する英国国教会広教会派の宗旨がアダムズ牧師に 見事に具現化されている.

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ジョウゼ、フ・アンドリューズ』で[パミラ

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の パロデイ化を図ると見せて,実はフィールデイングはアダムズ牧師の描出に

自己の宗教心の体現化を目論んだのではないか.経済的な逆境にめげず,博 愛精神旺盛で,慈愛に満ちた行動力溢れる牧師の応報に,信仰心を欠く邪な 聖戦者の憂慮すべき実態への作者の批判精神が隠されている.英国国教会広 教会派の宗旨を是とするフイールデイングの宗教理念,求道的信心による実 践重視の信仰が,アダムズ牧師に巧みに昇華されていると言えよう.

(20)

JosephAndrewsの宗教性をめぐって 63 

1 Homes Dudden, Henry Fielding: His Life, Worksαnd Times (Oxford:  ClarndonPress, 1952), I:  351 II:  1101; Homer Goldberg, The Art of Joseph  Andrews (Chicago: The Univ. ofChicago Press1969), 13940. 

2拙稿,

r r

シャミラJとフィールデイングJ

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同志社大学英語英文学研究.129 ( 志社大学人文学会, 1982) 

フィールデイングのこれまでの執筆活動から,主題が重複する例は珍しく,文字 どおり手を替え品を変えでの創作振りであったからなお更である.時の宰相ウォル ボール (RobertWalpole)楓 刺 に 端 を 発 し た 1737年の 劇場封鎖令"(the  Licensing Act)により,演劇界を追われたフイールデイングであったが,劇作家

として1728年に処女戯曲『恋の種々相Jを世に問うて以降,ライデン大学留学の 時期を除き, 1730年からペンを絶つまでの7年余りの間に,大小25篇の戯曲を執 筆した.精力的に生み出された作品群を通観して凡庸の作とばかり言えず,ショー (George Bernard Shaw)をして,英国演劇史でシェイクスピアに次ぐ傑作の数々 と言わしめている.ショーの激賞はさておき,当代一流の劇作家として名を成した のは事実である.

4 John Carroll ed., Selected Letters of Sαmuel Richαrdson (Oxford: Clarendon  Press, 1964 )1334. 

当代の作品の多くに,名前から行動規範が容易に偲ばれる例が多く,

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ジョウゼ フ・アンドリューズ』もその例にもれない.負傷したジョウゼフを宿に運び入れる 駅馬車の親方 (coachman)であるフイツプウェル (TomWhipwell) (61)の例に 見られるように,フィールデイングの命名法にはロマンス擬いの手法が踏襲されて いる.ジョウゼフの女主人はブーピ一夫人 (LadyBooby)で,その名はアカオタ テガモ (ruddyduck)を意味し, 間抜け"を示唆するのも,パミラの夫がB氏で あることに依る.寡婦となった夫人の誘惑に対するジョウゼフの言動に,パミラと B氏に象徴される男女の攻防が茶化され,パロデイ説の論拠がおかれるが,アダム ズ牧師の扱いが問題となろう.淫らな女主人を補佐するのが侍女のスリップスロッ プ女史だが,スリップスロップ (Slipslop)とは だらしない"の意で,同女の言動 に節操とは無縁の中年女性が象徴される.ジョウゼフの恋人,ファニー (Fanny) は無学な田舎娘で,ファニーとはお尻,或いは pudenda"を指す事から,肉感的 なイメージを帯びている.このファニーとジョウゼフの恋の成就を知るや,怒り心 頭のブーピー夫人はファニーに横恋慕するダイダパー (Didapper)を防長ける.ダ イダパーとは カイツムリ"を意味し,伊達男の異様な体躯から, TheShape of  his Body and Legs none of the best; for he had very narrow Shoulders, and no  Calf; and his Gait might more proprlybe called hopping than walking."  (312) 

(21)

64  Joseph Andrewsの宗教性をめぐって

も背ける.ダイダパーの体躯はフィールデイングのパトロンであるリトルトン (George Lyttelton)の政敵,ハーヴェイ卿 (LordHervey)を模している.同卿の 脚の細さがダイダパーに郷捻されるが,同卿とポウプ (AlexanderPope)との論 争は有名で, wダンシアッド.1(Dunciad)の中でローマ皇帝ネロの寵臣スポラス (Sporus)として潮弄されている.ダイダパーの不首尾に,夫人は次善策として,

ジョウゼフ等の村内定住阻止にむけて謀る.ブーピー夫人に荷担する弁護士の名は スカウト (Scout)で,同氏は 偵察する"任務を帯びる.ブ}ピ夫人の執事はパウ ンス (Pounce)が勤め,パウンスが 烏や獣が飛び掛かる"の意から,ブーピ一家 での彼の蓄財振りが想像に難くない.ジョウゼフを我が物にせんと,虎視耽々とす るブーピ一夫人を巡る人物には狩猟にまつわる語桑が付され,そこに男女の攻防が 暗示されているのではなかろうか.

6 アリマタヤのヨセフ (Josephof Arimathealとして知られるユダヤ議会議員は,

キリストの死体を引き取って墓に納めた人物として知られ,中世伝説では聖杯 (Holy Grail)を運んだとされる.

~ジョウゼ、フ・アンドリューズ j の英文タイトルとして,“The History of the  Adventures of Joseph Andrews, and ofhis Friend Mr. Abraham Adams, Written  in Imitation of the Manner of Cervantes, Author of Don Quixote"とあることか

ら,

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ドン・キホーテjの影響下にあることは指摘するまでもない.

c., fHomer Goldberg, The Art of Joseph Andrews, 1445; Homes Dudden, HenrFielding, 1: 337; Wilbur Cross, The Histoη ofR ryFielding (New York: Russell 

Russell, 1963), 1:  342 2205.

8 宗教哲学者であるクラークはヤング牧師(フィールデイングの友人)と並んで、,

フィールデイングが理想とする牧師像と言われ,アダムズ牧師像にも影響したとす る説がある.

c .,fMartin Battestin, The Moral Basis of Fielding's Art (Middletown, Conn・‑ Wesleyan Univ. Press, 1967), 31 104:拙稿,

r

アダムズ牧師の系譜‑Joseph Andrewsを中心に‑J

r

同忘社大学英語英文学研究j41 (同志社大学人文学会,

1986) 

9 Martin Battestin, The MorαBasis of Fielding'Art, 89. 

10拙稿,

r

フイールデイングの宗旨とその背景J

r

同志社大学英語英文学研究.168  (同志社大学人文学会, 1997) 

11  Henry Fielding, Joseph Andreωs, ed. Martin Battestin, "The Wesleyan  Edition of the Works of Henry Fielding"  (Middletown, Conn.: Wesleyan Univ  Press, 1967), 334.以下,頁数は全て同版により文中に記す.

12  旧約聖書『創世記j第22章第118節でのアフヲハムが我が子イサクを犠牲に俸

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