〔第五回早稲田大学大学史セミナー講演録〕
大学史に学生は入っているか
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『小樽商科大学百年史』の経験から││荻 野 富士夫
はじめに
皆さん、こんばんは。本日はこういう機会を与えていただき、お礼を申しあげます。
集中的に『小樽商科大学百年史』を執筆したときから数えれば、ちょうど一〇年くらい経ちます。すっかり忘れか
けていたところに、大日方純夫先生からお声を掛けていただき、この機会にもう一度編纂当時のことを思い出して、
『百年史』の一つの経験ということをお話させていただこうと思います。
タイトルにある「大学史に学生は入っているか」ということですが、私はそこをあまり詰きつめて考えたことはな
くて、当然入って然るべきという、そういうかたちで最初から関わってきたように思います。「どのように入れるべ
きか」という点について、大いに考えねばならないことでした。
ごく私的なことでお話をしますと、一九七六年、大日方先生や私の恩師でもある鹿野政直先生が小学館のシリーズ
で『大正デモクラシー』を書かれました。そのなかで、「〝改造〟の時代」という章に「小樽の青春」という項を設け
られて、次のように書かれていました。
はげしく移ろうとする時代に、知識人はどう対処すべきかを否応なくせまられるようになっていた。そのなかでも学生は、生
活といちおうきれているだけに、事態を純粋に抽象化して追いつめる特権をもった存在としてある。
そこでは、小樽高商期の小林多喜二、伊藤整らに言及されていました。そして、この項の叙述のもととして参照さ
れていたのが、一九六一年に刊行された『緑丘五十年史』でした。この『緑丘五十年史』のなかで、実業学校におけ
る「学園のルネサンス」という、「ルネサンス」という非常に印象的な言葉を用いて、小樽高商が創立してから一〇
年余りのところの状況が描かれていたのです。
鹿野先生のご本のなかでもその個所は印象深いところだったのですが、まさかその一〇年後にそこに赴任すると
は、もちろん思ってはいませんでした。赴任するに当たって、この記述のことが記憶によみがえりました。
それからもう一つ私個人のことで言うと、一九八七年一〇月に赴任をして三一年間在職したことになりますが、
ちょうど真ん中くらいのときに、改めて小林多喜二が視野に入ってきました。多喜二自身の生まれは秋田ですが、四歳
で小樽に移り、そこで思想形成や文学形成を行ったわけです。私の元々の、特高警察などの研究からいえば、多喜二
ももちろん視野に入っていましたが、二〇〇五年頃から多喜二に関するシンポジウムへの参加を求められたり、ある
いは二〇〇八年には多喜二の『蟹工船』が大きな脚光を浴びたりという状況のなかで、私自身も改めて多喜二への関
心を深めて、全集などを読み進めていったということがあります。当然そうなれば、小樽高等商業学校に在学をして
いた多喜二、あるいはその前後の学生たちへの関心というのも高まってきた、生まれてきたということになります。
二〇〇七年、『戦前文部省の治安機能──「思想統制」から「教学錬成」へ──』という本を校倉書房から出して
いただきました。特高警察、思想検事、治安維持法とテーマを進めてきたときに、早稲田の場合でもそうですが、や
はり戦前の社会運動のなかに占める学生運動の役割は大きく、同時に学生運動を抑え込む学校当局、大学当局あるい
はその元締めとしての文部省などが浮上しました。そういう部分を有する治安機能に着目しました。学園警察・教育
警察と言ってもいいわけですが、治安体制全般の理解のためには、それらも考えていかなければということが、この
『戦前文部省の治安機能』になりました。そこでは「思想統制」・「教学錬成」、「思想善導」される対象としての学生
のあり方というようなものが視野に入ってきました。小樽高商の学生運動と学校当局の対応にも必然的に目が向きま
した。
一 年史編纂における二つの前史
1 戦前の年史編纂構想から『緑丘五十年史』まで
具体的に年史編纂ということで二つの前史のことについて、まず申し上げたいと思います。この『百年史』は二〇
一一年に刊行されました。多くの大学ではその『百年史』とか『五十年史』とかという、そこから大体編纂の刊行が
始まっていくのに、小樽の場合は「創立一〇〇年の二〇一一年にちゃんとできた」というふうに褒めていただきまし
たが、それはこれから述べるような一〇年くらいの助走期間があったからなのです。
小樽高等商業学校の官制上の設置は一九一〇年ですが、実際に学生が入ってきて授業が始まったのが一九一一年の
四月です。現在の開校記念日は新制大学としての開学記念日で七月になっていますが、そこに何とか間に合わせると
いうかたちで進行しました。
それまでの年史編纂については、先ほど申しました『緑丘五十年史』がありますが、その前にも何回かの試みがあ
りました。
一九三六年、創立二五周年を迎えるに当たって、先ほど述べた「学園のルネサンス」という第二代目校長の一〇年
余りの後半の方は少し停滞気味、だれ気味になってきましたので、それに対する「学園沈滞」打破という声が高まり
ました。そのとき年史編纂というかたちで、過去の振り返りを通じて現状を打破していこうという、そういう試みが
なされます。当時の応援団長渡辺耕一は、「建校の大理想を再認識して学園の永遠の生命の為に我々は何等かの形式
に於て寄与する処なくてはならぬ」(『緑丘』第八七号、一九三五年五月)と檄を飛ばしました。
『緑丘』というのは新聞部による学生新聞です。半官半学の性格で、もちろん学校当局の関与があるわけですが、
月刊の新聞が開校後一〇年くらいから一九七〇年代前半くらいまで三百何十号まで出ておりました。これは図書館に
大体そろっておりましたので、三巻本の縮刷版というかたちで刊行をして、それが今回の百年史で学生の姿を描いて
いくうえで大きな資料源になりました。
ただ、この創立二五周年の試みは掛け声だけで実現しないままに終わります。それから次の創立三〇周年の段階も
まだ沈滞状態が続いているという学生・教職員の認識のなかで、やはり過去の歩みに学び、現状の沈滞を打開すると
いうかたちで、学園史を編纂しようという機運が高まったようです。一九四〇年度の応援団長高田勇は「私は緑丘史
の必要を痛切に感じてゐるものです。現在は歴史の中の一ポイントに過ぎませんから、歴史の流れを知らずしては現
在の自己の地位を知ることは出来ません。それで自分は緑丘史の必要を痛感してゐるのです。その緑丘史の中に真の
緑丘精神といふものを見ることが出来ると思ひます」(『緑丘』第一三四号、一九四〇年四月)と述べています。しかし、
これもやはり実現に至りません。
その後、三五年というやや中途半端なところですが、戦時下において『三十五年史』の編纂作業が学校当局によっ
て始められました。その編纂に至る経緯はわかりません。敗戦後まで三年、四年続いた作業で、原稿が半分くらい
残っています。三編構成で、三人の校長の在任期間に沿って時期区分をしています。
初代は渡辺龍聖という早稲田出身で、倫理学や哲学が専門です。経済学や商業学ではなく、教育行政の手腕を買わ
れて小樽に赴任をした校長の時代が第一編。第二編は、創立間もなく京都大学の助教授から小樽に赴任した伴房次郎
という民法の先生の時代。ほぼ生え抜きの第二代校長です。この時代に「学園のルネサンス」が開花し、多喜二や伊
藤整らも自分たちの文学活動を展開できたわけです。それから第三編は、この人も生え抜きですが、
correspondence
という「商業英語」の専門家である苫米地英俊校長。戦前から戦中、戦後直後まで在任し、その後は政界に進出します。この三人が、それぞれ一〇年ずつくらい校長を務めていた。
ちょっと余談になりますが、校長がそれぞれ一〇年くらい在任し、長期政権というかたちになりますが、これが現
在の小樽の一つの特色を形作っていきました。高等商業学校という官立の実業専門学校というジャンルでは、小樽は
全国で五番目の創立ということになります。一橋が最初で、二番目が神戸、それから三番目、四番目が山口と長崎と
いうことで、全部西に寄っていますので、実業教育への要望の高まりを受けて日露戦後に新しい高等商業学校をつく
るときには、東京より北につくろうということになり、北海道に行ったわけです。その後も含めて、高等商業学校は
全部で一二つくられます。戦後の新制大学として小樽だけが単独で昇格をして現在に至りますが、他の、たとえば山
口にしても、長崎にしても、現在の長崎大学や山口大学のそれぞれ経済学部になって、地方国立大学というものが成
立をしているということになります。
そういうなかで、たとえば横浜や和歌山、滋賀の各高商では文部官僚が天下って二、三年で替わるという校長の在
任スタイルが比較的多い、ですから校長としてのカラーというのはあまり出てこないのに対して、小樽高商の場合は
一番北に位置し、自然環境も厳しいということもあってか、文部官僚の天下りがなく、二代目、三代目は生え抜きの
教員、実際には教頭格であった、ナンバー2の先生が校長に昇格をしました。その結果、「緑丘」という学校の個性
が非常に強く打ち出されました。そこが、他の高等商業学校との違いではないかと思います。そこで、今回編纂をし
たこの『百年史』もやはり戦前の高商期は校長を中心とした時期区分になっています。
話を戻しますと、当初の構想では『三十五年史』の第一編、第二編、第三編の、第六章または第七章に、「生徒関
係事項」を叙述しようという計画であったようです。もちろん第一章のところは学校の校則という制度史的なものに
なります。その時点で、各編の最後の方ですが、生徒関係のものを入れていくということが意識的になされていたよ
うです。実際の執筆に入ると、少し構成が変わります。「第一篇、沿革篇」の第七章に「生徒関係事項」が置かれ、
そこが第一期、第二期、第三期という校長の在任期にそった構成となって残っています。戦後、しばらくしてこの編
纂は中止され、一部の原稿が残りました。
その後、新制の大学、小樽商科大学というかたちになって、五〇周年を迎えたときに学園史の編纂が具体化をしま
す。それが冒頭で紹介しました『緑丘五十年史』です。緑丘ということでシンボルカラーが緑ですので、こうした緑
の装丁の本となりました。この第一部は「学園の歩み」、それから第二部は教職員を中心とする「回想編」というか
たちで、それほど分厚いものではないのですが、よくまとまっており、鹿野先生も参照されました。
第一部のところは、当時小樽で「経済思想史」・「経済史」・「社会思想史」、あるいは「経済原論」なども担当され
ていました浜林正夫先生──その後、東京教育大学を経て一橋大学に行かれ、二〇一八年にお亡くなりになりまし
た──が、まだ三〇代後半で実質的に単独執筆をなされました。数少ない歴史関係の教員ということに加えて、浜
林先生のお父さん、浜林生 いく之 の助 すけという人物が小樽高商時代の「英文学」の名物先生であったということ、先生ご自身
も大学のすぐそばの緑町でお生まれになり、小樽中学を卒業し、大学は一橋に行くわけですが、一橋卒業と同時に二
三歳の若さで小樽に赴任をしたという、そういう経歴もこの本の執筆の背景にあります。
この『緑丘五十年史』の小樽高商期は先に触れましたように、校長の在任期にそって時期区分・章区分がなされ
ています。そのなかで、学生に関する叙述は第一章の渡辺校長のところは「学園生活」、第二章の伴校長のところは
「昭和初期の学園生活」、第三章の苫米地校長のところは「学生生活の「新体制」」という項目になっております。た
とえば、第一章と第二章では、それぞれ次のように学生の生活ぶりを描いています。
学生はよく飲み歩いたらしい。それに町の人たちも新しくできた高商生には憧れと親しみをみせ、「高商の生徒さん」とよば
れて大いにモテたのである。学生が一番よく飲みにいったのは、公園通りを下がって、第二大通りとの交叉点左角にあった高
橋ビヤホールで、……このビールの味を知らぬうちは卒業できないといわれたほど、皆飲みにいったものだといわれる。
*不況としのびよる戦争の気配とを学生が気づかなかったわけではないだろう。しかしそれにもかかわらず、まだこの当時には
今と違ったのどかさもあった。就職難に脅えながらも学生時代を楽しむ余裕があり、言論・思想の統制が強化されるなかにも
リベラリズムは根強く残っていた。物質的にも今の学生よりは恵まれており、家庭教師などをして学資をかせいでいる学生は
きわめて少なかった。
これらでお分かりになられますように、大変読みやすく、分かりやすい文章です。しかも、やはり小樽で生まれ、
小樽で生活し、また小樽で教えているという、そういう浜林先生ならではの叙述スタイルというものが確立されてい
ると思います。
『五十年史』の「結び」のところには、「かえりみれば渡辺初代校長の創業以来、伴、苫米地、大野、加茂と五代に
わたる校長・学長の献身的な労苦と、教職員・学生の一致した努力と、同窓生・地元市民の熱意あふるる支援とに
よって、われわれの学園は今日の輝かしい地位を築きあげることができた」とあります。「緑丘」と愛称された小樽
高商・小樽商大の年史編纂には、このように「教職員」とともに「学生」の存在がごくあたりまえで、かつ不可欠な
ものとして意識されていたのです。そして、百年史編纂にあたっては、これらの年史編纂を意識・フォローするかた
ちで、進めてきました。
2 百年史編纂への助走
私は一九八七年に小樽商科大学に赴任をしますが、いずれ来たるべき一〇〇周年に向けて『百年史』に関わらざる
をえないだろうという予想や覚悟は当初からありました。具体的にそのために九〇年代になってからだったと思いま
すが、少し予算を付けてもらって、学内の「史」の付く先生方に呼びかけて「小樽高商史研究会」という活動を始めま
した。年に三、四回研究会の活動をしたり、あるいは旅費をいただいて国立公文書館などの調査をおこないました。
それが具体的なかたちになったのが二〇〇一年です。学内全体でも一〇〇周年へのステップとして九〇周年が意識
されておりましたので、それに向けて「私たちも関わろう」ということで、一つは高商・商大の「九〇周年展」を市
立小樽文学館との共催で開きました。実際の展示としては、物の資料はなかなか残っておらず、どうしても新聞とか
写真のパネルが中心になってしまうわけですが、それでも五〇〇点以上を準備して、かなり広い場所で展示をしまし
た。特にOBの方々には喜んでいただいたように思っております。このときの資料収集が、具体的に百年史の構想に
生きてきました。
小樽高商・商大の「九〇周年展」は、次のような時期区分で展開をしました(『展示目録』)。
Ⅰ 小樽高等商業学校の創立 五 学生生活 Ⅱ 充実する小樽高商 六 受難の学生生活 Ⅲ 戦時下の小樽高商 四 戦争と高商 Ⅳ 小樽経専から小樽商大へ 五 戦後の学生生活 Ⅴ 新制小樽商科大学の基礎確立 四 学生生活の様相 Ⅵ 高度経済成長期の小樽商大 二 学生生活の変化 Ⅶ 改革のなかの小樽商大、二十一世紀へ 四 学生生活の様相
学生に関しては、それぞれ各章に「学生生活」という節を設けました。たとえば、『展示目録』の「Ⅰ」の「学生
生活」のところでは「全国から集まった学生たちは、校長から「紳士たれ」と呼びかけられた。多くは四つの寮で日
夜をともにし、高唱乱舞して練り歩くストームや運動会・外国語劇などに青春を謳歌するなか、産業調査会の調査研
究や国内外の修学旅行などの勉学にも励んだ。地獄坂を登り降りしつつ、設備的には十分ではないが、創立当初の清
新な活気に満ちた環境のなかで「緑丘スピリット」が育まれていった」という解説を付しました。
これと同時に九〇周年の記念事業の一つとして、先ほどの高商史研究会のメンバーであった倉田稔先生、今西一先
生と三人の共著というかたちで、『小樽高商の人々』(北大図書刊行会、二〇〇二年)を刊行しました。力不足でほぼ高
商期だけにとどまりました。
第一編 小樽高商の校長群像 第二編 「高商アカデミズム」の人々 第三編 小樽高商に学ぶ 一 草創期の学生たち
──「緑丘スピリット」の醸成 二 文学への旅立ち──多喜二と整 三 大正デモクラシー下の学生たち──軍教事件前後 四 戦時下と戦後の学生たち──繰上げ卒業・学徒出陣・民主化第一編は先ほどの三代の校長の群像を通して、緑丘という学校の個性が形成されてきたことを叙述しています。第
二編は「高商アカデミズム」と呼ばれる大西猪之助・手塚寿郎・南亮三郎、さらに何人かの外国人教師を取り上げて
います。そして、第三編で「小樽高商に学ぶ」として、学生たちの姿を描きました。真ん中に「多喜二と整」という
節を挟みましたが、草創期の学生たち、大正デモクラシー下の学生たち、そして戦時下と戦後、民主化のところの学
生まで何とか叙述しました。この学生群像は私が担当しました。
二〇〇頁ほどのこの本は初めから教職員、学生全員に配布することを前提に書きましたので、なるべく読みやすい
もの、実際に手に取って読んでもらえるものをと工夫したつもりです。卒業生や一般の方々には、書店を通じて市販
しました。再版までいきました。
この二つの、「九〇周年展」開催と『小樽高商の人々』刊行を通じて資料収集などをしたことが、その後の『百年
史』の編纂に大きく寄与することになりました。
一〇年余の助走期間の間に、学内の図書館を中心に、東京、あるいは戦前の姉妹校であった各高商のある名古屋、
和歌山、長崎、山口などに資料収集に行きました。
この過程で、『百年史』編纂のイメージの原型となる
写真に出会います。
幸いにも商大の図書館には毎年の卒業アルバムは大体
残っていますが、それらに収録された写真の多くはき
ちんときれいに整列をした、いわば公式の記念写真で
す。教員や学生の生活ぶりが彷彿とするような、動き
のある生き生きとした写真はなかなか見当たりません。
そこで、アルバムとは別に保存されていた雑多な写真が
入っている箱のなかを探したところ、小さい写真が出て
きました。これを大きく引き伸ばしてもらって、「九〇
周年展」のときに一番大きいパネルにしてメインの場
所に置きましたし、『小樽高商の人々』、そして『百年
史』や写真集にも収録しています。
この写真には撮影された時期について何も説明が書い
てありませんので、映っている情景から判断することに
なります。現在の小樽商大は一〇〇年前に小樽高商が創
「校庭で憩う学生たち」
(『小樽商科大学百年史』口絵)
立した場所にそのままあります。場所は変わらないまま、地獄坂を上ったところ
にあります。ただ創立以来の建物は、残念ながらすべてスクラップ・アンド・ビ
ルドで残っていません。この写真には本館の一部が写っています。時期的には北
海道ですので五月上旬頃がちょうど桜の満開で、学生たちはまだ学生服を着てい
ますし、なかには薄いコートを着ている学生もいる。やや肌寒い感じで、ちょう
ど昼休みか何かの風景です。
時期を特定する手がかりとなったのは、「日本コロンビア」という旗です。な
ぜそんな旗があるかというと、おそらく高商の校歌のレコードと関連していま
す。校歌ができたのは一九三一年で、その夏休みに日本コロンビアにグリークラブ
の学生たちが行って吹き込み、それがレコード盤として発売をされています。そ
うすると、校歌のできた翌年くらい、おそらく一九三二年か三三年に新入生らに
向けて学内で販売されている場面と推測されます。多喜二が卒業してから一〇年
近く経ち、「緑丘ルネサンス」も停滞が始まるかなという、そんな頃の写真です。
私はこの写真を見つけて大変気に入り、その後活用することになりますが、こ
こにあるような、学生の姿が彷彿とするそんな『百年史』になればいいなと思っ
たわけです。これはそういう点では非常に大きなきっかけとなった写真でした。
公式の記念写真の多い卒業アルバムですが、それでも丹念にみていくと面白い
写真も見つかります。たとえば、寮から顔を出して日なたぼっこをしているよう
「日向ぼっこ(寮生活、1935年)」
(『小樽商科大学百年史』口絵)
「映画館で」
(『小樽商科大学百年史』口絵)
な学生の姿や、一九四六年の原節子主演の映画「わが青春に悔いなし」(黒沢明監督)のポスターの前でポーズをとる
学生服の学生たちなどですが、こういう写真も少しずつアルバムのなかには混じっていますので、それらもうまく活
用できたらと考えました。
私は「小樽学」というオムニバス形式での半期の授業を担当していましたが、これを一〇〇周年の数年前から自校
史教育に特化することにしました。前半の半分を私が担当し、創立から現在に至るまでを概観する。後半は野球部、
スキー部、テニス部、剣道部などの、現在まで続いている運動部の顧問の先生や職員にお願いをして、野球部の歴史
や剣道部の歴史を話してもらうという授業です。一〇〇周年後も私が在職中は、この「小樽学」という全学共通科目
を用いて自校史教育をやってきました。一年生を中心に、毎年二〇〇人前後が受講してくれました。
なお、先の「九〇周年」展の数年後、その展示物の半分くらいを活用して学内の空き教室を利用して大学史料展示
室ができました。さらに一〇〇周年には図書館の三階に恒久的な施設として再オープンし、一般市民にも公開される
ことになりました。
この大学史料展示室には「小樽学」の自校史教育の一環として、学生たちを案内します。座学ではあまりピンとこ
ない学生たちも、高商期の建物群のジオラマやパネルの写真、卒論や卒業証書などの実物に接すると、歴史と伝統を
実感するようです。とりわけ説明では、現在の学生たちと重なる部分と、それから今の現在の学生たちからは想像も
つかないようなものに焦点をあてます。後者の方でいうと、たとえばノート制度です。この授業形式は戦後のしばら
くまで残っていました。私自身も一九七〇年代後半の大学院生のときに、明治維新史研究で著名な石井孝先生から
ノートにひたすら筆記するという授業を受けました。先生がご自身のノートから、あるいは自分の論文から読み上げ
ていく、学生はそれを書き写すという授業です。
これは大変苦痛で、ノート制度に対する批判は古くからたくさんあるわけですが、それでも頑張ってノートを取る
と、前期が終わるころには、ある程度、体系的なものができることになります。そういうノート制度は日本の高等教
育の長い伝統で、多くの人文・社会科学系の学校ではどこでもおこなわれていたものですが、現在の学生にとっては
想像もつかないものです。史料展示室には寄贈していただいたノートがあり、真面目な学生だったようで試験前には
赤鉛筆で線を引いて復習している痕跡も読み取れます。その現物を学生に見せます。
一方で、現在とあまり変わらない勉強法を確認することもできます。たとえば、現在の英語教育はいろいろと進歩
していますが、少なくとも私が高校・大学でリーダーの英語教育を受けたときにはテキストの行間のところに訳文を
書いていくような、そんな英語の勉強の仕方をしていました。実はそれは悪しき伝統ともいうべき勉強法で、戦前も
同じようにそういう勉強の仕方をしていた。英文解釈のテキストが図書館に寄贈されていましたので、それを開いて
みると、行間にたくさん訳文が書いてあるわけですね。そうしたものも展示すると、多分しばらく前までの学生だ
と、「あ、おんなじようなやり方で勉強をしている」ということが分かります。そういう親近感とでもいうべきもの
を持つようです。
同じような例をもう一つ上げると、定期試験のテスト用紙があります。たまたま戦前の「財政学」のテストの採点
の束が一つ残っていたのですが、その罫線のある論述用紙のかたちは、現在も商大で通常の論述試験で用いられるも
のとほとんど変わりません。ですから、この試験用紙の束を展示しておくと、「こういう試験の仕方は変わっていな
い」ということがすぐに感じ取られます。
このように学生たちにとっていえば、自分たちの想像がつく範囲と想像がつかないような、そういう勉強の仕方
を、大学史料展示室の見学を通じて少しでも実感をしてもらおうというのが、自校史教育の一環としておこなったこ
とであります。
それからもう一つは、これは小樽の特色として現在に至るまで「緑丘会」というOB会の組織が強いんですね。サ
ンシャインシティの五十何階の所にその本部があり、そこで定例的な会合をずっとやっています。それはこういう
『百年史』などの記念事業のときには大変大きなかたちでいろいろな助力をしてくれましたし、現在ではとくに就職
の際の助力をしてくれています。時にはうっとうしいような部分もあるわけですが、その緑丘会の存在をやはり意識
しながら、『百年史』については編纂を進めてきたように思います。
二 『小樽商科大学百年史』の編纂
1 編纂方針の確立へ
具体的に『百年史』の通史編について申し上げたいと思います。以前に書いた文章を確認したところ、多分一番初
めの頃のものとして二〇〇四年のメモが出てきました。そこでは「在学・在籍する大学への親しみ・理解を生み出す
ために」と書かれていました。そのメモ中にある「特に学生に向けて」と「九大などの実践」という部分は、自校史
教育を率先してやっていた九州大学の事例に学びたいということを意識していたようです。
佐藤能丸さんの『大学文化史学』(芙蓉書房出版、二〇〇三年)という提唱が、その少し前になされていましたので、
それに学び応えるというようなことも意識したと思います。
二〇〇六年のメモでは、少し具体的なかたちになっていきます。その時点で、通史編は一冊とする、それから写真
集を作る、できれば資料集も作るという三点セットを考えていました。その通史集のところでは、「教育研究の変遷
と特性を基軸にしつつ、教職員・学生の学園生活での実際や小樽や北海道という地域との関わりなどを交えて、日本
と世界の近現代史のなかでそれらを明らかにする」という意図を書きつけています。
その頃は具体的によりどころとする資料について、ある程度、見通しがついてきた段階です。現在、商大には人事
関係の文書が比較的よく残っていますが、残念ながら学生生活の一番基本にある教育の、たとえば時間割であると
か、今でいえばシラバスのようなものですね。そういうようなものは断片的にしか残っていないということも分かっ
てきました。
教授会などの記録も残っていないため、創立以来の学校の動きをカバーするものについて、創立からすぐに発刊
された『校友会雑誌』、それから一〇年くらいして創刊された新聞の『緑丘』の存在が頼りになりました。これらに
よって、たとえば教育課程の再編・カリキュラム改革などについては、その経過や概要などを含めてある程度記事と
して掲載されます。また、それらに対する学生たちの不満、批判、愚痴なども載ってきますので、これらを十分に
使っていこうという見通しをつけました。
二〇〇七年三月に基本方針として、四つの「史」を基軸に、この一〇〇年の歴史を書いていこうという方針が確定
しました。
一
四つの「史」を基軸に、一九一一年から二〇一一年までの一〇〇年の歴史を、前史を含めて、現在の視点で再構築する。
「教育史」
どのような教育理念が掲げられ、実践されたのかどのような教育(授業)が実際に展開されたのか
どのような人材が輩出されたのか
他の高商との比較史
北海道高等教育史のなかでの位置 「学術研究史」 どのような学術研究がなされたのか
「小樽学派」 北の外国語学校 先駆的な管理科学
「学生生活史」
どのような学生生活であったのか運動・文科系、寮・下宿、思索・意識 「地域社会史」 どのような小樽/北海道/北方圏との関わりがあったのか
まず「教育史」ということで、どのような教育が行われていたのかということです。それから二つ目が、どのよう
な研究がなされていたのかということで、「学術研究史」となります。小さな学校ではありますが、何人かの著名な
経済学者、英文学者もいらっしゃいましたので、そういう「小樽学派」と呼ばれたような人々、あるいは「北の外国
語学校」と呼ばれたような語学教育、あるいは文学研究の充実が念頭にありました。
北大は現在でこそ総合大学ですが、戦前においては札幌農学校からスタートして、理学部や医学部を中心とした理
系の学校でしたので、北海道全体のなかでいうと、高等教育の人文社会科学系の学校としては小樽高商ということに
なるわけですね。それは図書館の蔵書というようなことにおいても、戦前の高商期の段階においてはある程度充実し
ているということになります。それから戦後には、今でいう情報処理の先駆的なものですが、「管理科学」という領
域に着目し、いち早く学内に学科として設けたということがあります。
こういう学術研究、それからそれに関わる教育がどうなされてきたのかというのが、前半の二つの「史」です。そ
れからもう一つの史が、今日の主題でもある「学生生活史」ということになります。どのような学生生活であったの
か。勉学については教育史のところで論じるとして、サークル活動のようなものですね。運動部・文科系、あるいは
学生たちの日常の寮や下宿の実相をできるだけ具体的に描きたいと考えました。
小樽高等商業学校は三年制の学校です。大部分は卒業後、社会に出ていく。一部の学生は大学に進学します。一年
生は入学すると、自宅通学することができる者以外、ほぼ全体の三分の二くらいは四つの寮に入って一年間をそこで
過ごします。二年生、三年生になると寮から出て、街に下りて下宿生活をすることになります。そういう生活のなか
で、学生たちが何を思索し、何を意識していたのかというようなことも視野に入れたい。
それからもう一つの「史」は、そもそもこの学校が小樽にできるという、その意味で小樽や北海道と切っても切り
離せない、地域のなかででき上がった学校ですので、そのことも叙述をしたい。少し広げて「北方圏」ということも
そのときには考えていたのですが、この四つ目の「史」については、残念ながら、創立のところ、新制大学に転換を
するところ、あるいは戦後に短期大学があったわけですが、そういうものを創設するところでは、比較的地域との連
携は見えつつも、一般的なかたち・日常的なかたちではなかなかそれらは叙述できなかった部分であります。
二〇一一年に、もう執筆に目途が立った段階で「編纂の現況」という文章を書いております。一章は創立のことで
すので、「第二章以降において、各時期の特徴や全般的な事柄を第一節で述べ、教育の様相を第二節で」どんな授業
が展開されたか、それから「研究の様相を第三節で、そして学生生活を第四節で叙述するというスタイルをとる」。
これは、この「先の、「四つの「史」」の観点を盛り込みたいという意図に基づいている」というふうに書きました。
2 編纂の実際
実際に編纂された『百年史』は、次のような「目次構成」となっています。各章の「学生生活」については、小見
出しまであげてみます。
第一編 小樽高等商業学校の軌跡
第一章 創立前史
第二章 緑丘の創立──渡辺龍聖校長期
第四節 学生生活の始動
寄宿舎の生活 ストームと「研究以外面会謝絶」 校友会の結成 運動部の始動 外国語部大会 弁論部大会 緑丘吟
社 小樽の三年間 南亮三郎筆禍事件
第三章 緑丘の充実──伴房次郎校長期
第四節 学生生活の展開
悪太郎「高商生活 思出の記」 学生生計調査『校友会々誌』から新聞『緑丘』へ
『緑丘』論調の変化
校友会改革の試み選手制度批判 応援団長の公選 共済部 校歌の選定 修学旅行の変容運動部の活躍 文化部の活動 道外の巡回講演へ 外国語劇の盛況『松本栄司遺稿集』から 夭折
第四章 戦時体制のなかの緑丘──苫米地英俊校長期 第四節 学生生活の戦時化
学生論の活況 食糧事情の悪化 体力・体位の向上 学生生活の統制へ
報国団・報国隊 迫る戦争の影 勤労動員 閲覧禁止図書
第五章 緑丘の再建──大野純一校長期
第四節 学生生活の再建
食糧難のなかで 学友会の結成 ボート部の全国制覇 文化部の活動
共済組合の発足 渋顔の図書館 寮の再生
「灰色の丘」
授業料値上問題
第二篇 小樽商科大学の軌跡
第六章 新制商大の出発
第三節 窮迫する学生生活
厚生施設の貧困
「寮をのぞく」
大学祭 学生委員会 学生の社会的関心
北大との定期戦 五楽園
第七章 商大の基礎確立へ
第四節 疾風怒濤の学生生活
自治委員会の結成と活動 智明寮の誕生 商大生の実像 続・小林多喜二の記憶
第八章 拡充期の商大
第二節 学生の社会的変容
生協の創設
「商大闘争」への前走
事務棟封鎖から全学ストライキへ教室封鎖の思想性と解除の論理 一般学生の動き 封鎖解除 一三項目要求収束へ 七〇年代の学生運動
「時代に浮遊する商大生」
パタゴニア遠征
第九章
「商科系単科大学」としての発展へ
第二節 現代の商大生
生活実態調査から 札通生と女子学生の増大
「商大のいいとこ、わるいとこ」
学生たちの活躍
第一編が「小樽高等商業学校の軌跡」で、第一章が「創立前史」。なぜ小樽に創ったかということです。第二章か
ら第五章までが校長の在任期間、先ほど申し上げたような理由での、校長の在任期間での時期区分と叙述ということ
になっております。
各章の第四節のところでは、たとえば第一章では「学生生活の始動」として「寄宿舎の生活」、「ストームと「研究
以外面接謝絶」」、「校友会の結成」などを取り上げ、こうした小見出しのところで一ページから二ページずつ書いて
いくというスタイルを採っています。
一〇〇年の歴史の六:四で、時期としては戦後が、つまり新制大学の方が長くなっているわけですが、実際の叙述
は逆転をしていて、戦前高商期が六で戦後の新制大学期が四という配分になってしまいました。もう少し新制大学期
について叙述すべきでなかったかという批判がなされています。まさにそのとおりなのですが、それはひとえに戦前
の高商期の方が面白いという、そこに力を注いだ結果を反映しています。
結局、資料編については余力がなくて、そこまではできませんでした。現在「緑丘アーカイブス」というかたち
で、ここで用いた資料の大部分はネット上で見ることができるようになっていますので、一応それが資料編に相当す
ることになります。そこでは原資料が出てきます。
『北に一星あり──写真集小樽高商・商大の百年』と題した写真集については、一〇〇周年の二〇一一年時点で在
籍をしている教職員、それから学生全員に配布いたしました。そういう前提で写真集を作りました。それはソフトカ
バーのものにしたのですが、ハードカバーにしたものを市販いたしました。こちらは素人の私のレイアウトになって
しまったものですから、写真がいろいろ盛り込みすぎており、やはり工夫の余地があったのではないかという批判も
ありました。次のような目次構成です。「学生生活」に関する項をあげます。
Ⅰ 小樽高等商業学校の創設
9 寮
11 校友会の活動
Ⅱ 緑丘の充実
11 軍事教練と反対運動
11 入学・就職戦線の明暗
11 『校友会々誌』から新聞『緑丘』へ
11 運動部の活躍と文化部の活動
21 巡回講演・外国語劇の盛況
21 学園生活のあけくれ
22 小林多喜二と伊藤整の在学
Ⅲ 戦争と緑丘
21 入試の激化と就職「黄金時代」
21 迫る戦争の影
21 戦時下の学生生活
21 学徒出陣・勤労動員
Ⅳ緑丘の再建 11 緑丘の戦没者
Ⅴ新制商大の発足 11 学生生活の再建
11 学生生活の諸相
Ⅵ 商大の基礎確立へ
11 一九六〇年前後の学生生活
〈緑丘の青春Ⅰ──小野邦夫写真集から(一九五七─一九六〇)〉
Ⅶ 拡充から改革へ
11 大学大衆化のなかで
〈緑丘の青春Ⅱ──ある卒業生の「商大バンカラ寮生活」(一九七二─一九七六)〉
11 「商大闘争」
11 現代の商大生
全体で五三の項に分け、基本は見開きで一つのテーマというかたちでまとめました。約四割にあたる二〇項を、広
い意味での学生の関連テーマとしています。それらで取り上げたのは、Ⅰでは旧「寮」と「校友会の活動」、Ⅱのと
ころでは「軍事教練と反対運動」から「小林多喜二と伊藤整の在学」に至るまでを入れています。Ⅲの「戦争と緑
丘」では「入試の激化と就職「黄金時代」」から「緑丘の戦没者」まで、五つの学生を中心とした動きで展開してお
ります。戦後の新制大学期のところでは、学生に関わるテーマをうまく盛り込めなかったというのが率直なところ
です。見開き二ページで一つのテーマを取り上げますが、それぞれ冒頭に簡単な解説の文章を付しています。たとえば、
次のようなものです。
21 学園生活のあけくれ
経済不況にともなう生活の窮乏に苦しむ学生たちは学生消費組合をめざしたが、学校側の拒否などで断念し、1931(昭
和6)年
12不相談部のほか、古本や用た品の仲介譲渡をおこなるあ月、至「共済部」の設立にる。にアルバイトの斡旋などう
ほか、事業部として食堂を北海ホテルに、文房具や日用品の販売を丸井今井に委託する。
11年5月
21日の『緑丘』第
11号には
「高商ランチ、開化丼、其他美味しい、安い食物、飲物、多量に用意して居ります」という「緑丘食堂」の広告が載る。
北大予科との定期戦を主宰する応援団の団長選挙が、
11のたたいてれば叫が」滞沈丘年緑ら「か折た。っがあり盛に代め、
その打破をめざし、選挙戦では「団結せよ」の檄が飛び交った。
娯楽の中心は映画と音楽で、小樽の映画館やカフェー、ビアホールがにぎわった。三年生では半分が喫煙者である。
21 戦時下の学生生活
1930年代後半の新聞『緑丘』には、戦争の影に不安を抱きつつ、学問や人生について煩悶する論が多く掲載されてい
る。卒業=就職にほぼ直結する高商の学生にとって、その存在意義や主体性のあり方について、自負と不安が交錯した。「祖
国への愛」と「自己否定」を主張する論がある一方で、多くの学生は時勢の急転にとまどいを感じていたようである。
その一方で、食糧事情の悪化という現実に直面せざるをえなかった。1941(昭和
11)年の新学期から食堂が閉鎖され、
学校では「代用パン」を配給する。学生の体重は減少した。それでもまだ街の食堂は営業しており、
12年4月には学生ホール
新設とともに食堂が再開された。戦中よりも戦後に、食糧事情の窮迫はひどくなった。
報国団が創設されても、
11年秋の学徒出陣まで運動各部の主眼は北大予科戦の勝利だった。音楽部や文芸部の活動もつづい
ていた。
11年代後半、北海道外出身者が増えるにつれ入寮者が増加し、
11年には四つの寮で217名を数えた(下宿生は317名)。
11年4月、文部省の「皆寮制度の早期実施」の指示をうけて、学校敷地のすぐ下に、第五寮となる清明寮が設置された。戦局
悪化のなかでストームは禁止されたものの、アカデミックな雰囲気な
どの寮の良き伝統はまだ残っていた。
11 学生生活の再建
1946(昭和
21)年6月
21日の『緑丘』第199号は、「食糧難
益々深刻」として「今は唯空腹と栄養失調の青白い顔の学生……寮生、
その極を行く」と伝える。やや状況が改善すると、次にはインフレが
襲う。アルバイトのために、三割が授業の出欠に影響があったと答え
ている。寮では「自治制」が復活した。寮祭や対寮試合などで、寮生
の喜びは爆発する。一方で、寮の〝アパート化〟も生じはじめた。
11いれ、さ成結が会友学きべうと年現再の会友校の期商高月、5次
第に学生主体の自治獲得の方向に進む。
11月、運動部のなかでボート
部が琵琶湖で開かれた国体で優勝したことは、ひときわ光を放つ。
11
年2月の全日本スキー大会ではジャンプで優勝し、総合でも4位に
入っている。北大予科との定期戦も復活した。
11年の大学祭から外国
語劇が復活した。講演部でも
11年から夏期巡回講演をおこなっている。
『百年史』と写真集でやや意識的に取り込んだのが、漫画です。
新聞『緑丘』のほかにも、地元の『小樽新聞』・『北海タイムス』
「校風漫画」 (『読売新聞』 1916年5月5日、
『小樽商科大学百年史』 159頁)
「就職難」 (『緑丘』 22、 1928年2月8日、
『小樽商科大学百年史』 247頁)
(いずれも現在の『北海道新聞』の前身)などに、学生の勉学・生活や時勢を風刺する漫画が散見しましたので、全体的
な固い調子を和らげる意味でもそれらを活用しました。大学史料展示室にもパネルにして展示しています。
三 『小樽商科大学百年史』で「学生」をどのように叙述した
か
1 「学生生活史」
・「教育史」を中心とする叙述における史料的な制約
それではこの『百年史』で「学生」をどのように叙述したのかというところですが、公的な文書には学生の状況が
分かるようなものは少ないのが実情です。わずかに一九四一年六月一六日付で文部省に送った「小樽高等商業学校ニ
於ケル食糧状況報告」(庶務係「文部省往復綴」、一九四一年)は、戦時下の学生の窮迫ぶりを伝えるものです。北海道内
において「最モ恵マレザル地位」にある小樽の配給事情の悪化や、代用食としての「郷土パン」(小麦粉に各種野菜を
混ぜたもの)の割高なことなどを述べた後、下宿生・寮生・通学生の実状の深刻さにふれます。代用食は米食よりも
約三割五分高く、雑費も倍となっているため、「学費総額ニ於テ二割余増加」という状況です。二寮の場合、「一週二
十一回中米食(米七分、豆三分)七回、代用食十二回、二回欠食」だったと訴えます。そして、四一年六月の節米実施
以降、学生たちの「体重減少」し、郷土パン代用時には半数以上の寮生に下痢や腹痛の患者があったとしたうえで、
こうした「体位並ニ健康ニ及ボセル影響」を強調し、次のように「将来ニ対スル希望」を述べています。
発育旺 ざかリノ青年ノミ集合セル学校、寄宿舎ニ一般家庭並ノ配給ニテハ、不足ヲ生ズルコト当然ナリ。又市街地ヲ遠ク隔レタル
山上ニアル本校ノ通学生モ、又下宿ヨリハ弁当ヲ供与セラレズ、而モ下宿ニ米ノ配給アリトノ理由ニテ、学校ノ食堂ニハ一粒
ノ米モ配給セラレザル現状ニ於テハ、通学生ニ欠食者ヲ生ジタルコトアリ、現在モ尚一個ノ郷土パン若クハ一袋ノ乾パンニテ
飢ヲ一時凌グニ過ギズ。寄宿舎モ亦公然欠食日ヲ設ケ、各自ニ食ヲ求メシムルガ如キハ、訓育上甚ダ面白カラズ。更ニ又近年
本校卒業生ノ約八割ガ入営スル事実ニ鑑ミ、体位低落ハ国家ノ為甚ダ憂慮ニ堪ヘズ。本省ニ於テ関係各省ト合議セラレ、学生
ニハ軽労働者並ノ給米及代用食確保ニ付特別ノ考慮アランコトヲ切望ス。
これは食糧の特別配給を要望するという陳情の文書ですが、高商期の公文書においてこうした内容は例外的です。
やはり学生の勉学・生活に関しては、『校友会雑誌』や『緑丘』新聞に学生自身が書いているものを最大限に活用す
るほかありません。あるいは『小樽新聞』や『北海タイムス』などの当時の新聞などから、そういうものを拾ってい
くことになります。
高商創立後まもなくの『小樽新聞』に「高商評判記」・「続高商評判記」という二度の連載があります。初代の渡辺
校長のプロフィール、名物先生のエピソードなどに加えて、「生徒気質」の回(一九一二年二月一九日)では「出身学
校を尋ぬると中学が四十七名、商業が二十五名、学校より学校に直ぐ連結された人も固 もとより少なからねど、実世間の 競争場裡を潜つて来た人も亦鮮 すくなくない──満洲に就職し、樺太に教鞭を執り、別子銅山の事業に参じた夫々の生
活、甲種商業学校教諭、税関官吏、新聞社員たりし各自の経歴、数ふればまだあらう、嘗て高等学校、医学専門、高
等師範或は慶応義塾に学籍を置いた人もある、リフアインドの紳士型もあれば、粗彫りの純学生もあると云つたやう
な十人十色」という具合です。
また、一九一六年五月五日の『読売新聞』には連載「校風漫画」の第六九回に小樽高商を取りあげ、漫画の解説と
して、次のように記しています。
小樽ではたつた一ツの専門学校とあつて珍重がられ、大事がられる事夥しく、特に小樽の町人共はこれを世界最高の学府の如
く思ひ過ごし、同校生徒とさへ見れば誰彼のけじめもなく神の如くに敬愛して、其前には随喜の涙を惜しまない位。其子孫に
限らず其遠い親戚の者一人にても同校に籍を有する者があれば、一家一門の誉 ほまれとして天上天下に誇に足 たると称するほどだから、
生徒は常に小樽全市の羨望の的となり、鳥なき里の蝙 こう蝠 もり同然、その王侯気取の鼻息すさまじく、其暴君的権威は正に陰鬱極ま
る北海の蒙を啓かんとするの慨がある。
全体として誇張気味で揶揄たっぷりですが、当時の小樽区民が高商生を「敬愛」し、「羨望」したことは事実であ
り、それに便乗して高商生の「鼻息すさまじく、其暴君的権威」を振りかざす言動もあったろうと思われます。
次に、この『緑丘五十年史』の第二部のところには、教職員や卒業生の回想類が多数収録されておりますので、今
となっては非常に貴重な資料です。それから現在に続く緑丘会というOB組織が機関誌を出していますが、それらの
なかにOBの人たちの学生時代の思い出、先生の思い出やサークル活動のことについて書かれていることも参考とな
ります。なかには、ごく一部ですが、非常に結束の強い学年などは独自に『同窓誌』を編んでいます。戦時下の学生
だった方たちが編んだもののなかには、ほかでは得難い貴重な証言と記録が数多く含まれていました。
2 入学から卒業まで 学生のサイクルに照応して
一〇〇年史編纂で留意したことは、入学から卒業まで、学生のサイクルに照応するかたちでそれに関わることを並
べていくことです。
まず、入試です。いくつかの時点の入試問題なども、それぞれの時代状況を反映しますので、紹介しています。一
九一二年度版の『諸官立学校入学試験問題集』によれば、小樽高商の試験科目は英語・数学・国語及漢文(以上、各
三時間)と、地理(一時間)および「将来ノ志望」を記す作文という多さでした。英語では「勤勉は成功の父にて忍耐
は其の母なり」などの和文英訳が、数学の幾何では「直角三角形ニ於テ、斜辺ノ上ノ正方形ハ他ノ二ツノ辺ノ上ノ正
方形ノ和ニ等シキコトヲ証セヨ」などの証明問題が課せられています。
また、アジア太平洋戦争開戦直後の一九四二年三月の入試では、英作文の問題として「去年の十二月八日に始まつ
たこの戦争は、古今未曾有の大戦争である。この戦争がいつどの様に終るかは誰にも分らないが、我々は如何なる困
難に遭遇しやうとも断乎としてこの戦争を戦ひぬかねばならぬ」が出題されています。
現在では一般的となった推薦入試ですが、実は創立初期からあったということがわかりました。このことは推薦入
試をくぐってきた現在の学生たちにも驚きのようです。
それから授業について、さまざまな学生たちの同時代の感想を新聞『緑丘』を中心にピックアップしています。
二、三あげると、次のようなものです。先ほど取り上げたノート制度に関連して、『緑丘』第八七号(一九三五年五月
一五日)の「緑丘学人 もんたぁぢゅ(新入生の巻)」欄には「第二景 講義」で、次のような一こまが描かれています。
合併教室、約百五十人程居並ぶ後の方で居睡 ねむりする者あり教 授 茲に於て法律は(学生熱心に筆記する、鼾 いびきの音付近よりクスクス笑声起る)…… 故意又は過失により他人に対し障
害を与へたものに学生C 早いです教 授 故意又は過失により学生D
(至極真面目に)先生、コイのコイはどんなコイを書くんですか(忽ち大爆笑、居睡りしてゐた学生、驚いて飛起き、
訳も分らずに奇声を発して笑ふ)
いつの時代も学生を悩ませた試験をみると、再試験や落第などの事態を避けようとカンニングに走る学生もいまし
た。一九三三年二月二四日付の『小樽新聞』「三三年春行状記」には、試験を前にしたある高商生の姿──「彼はホ
ンの申し訳的にノートの整理をする、まるで出席簿みたいに、サボツたところだけが真つ白に抜けてゐる彼のノート
だ、サボラないやつのを借りて、ブランク一頁埋るごとに白銅十銭一枚をその報酬として机の上に置く、それが二十
銭になつたとき、机からポケツトとの中に置きかへて、彼は街の喫茶店へ出かけて行く、そこで彼は一杯のコーヒー
を一時間かかつて飲みながら、つらつら試験地獄の抜け道カンニングの新技巧を考へる」──が描写されています。
学生たちの関心事として、就職・卒業に関することも当然記述しなければならないことでした。社会と経済状況に
学生の就職は翻弄されますが、『緑丘』第一三号(一九二六年一二月一五日)の「新卒業生百七十名の就職問題、目睫
に迫る」という記事では、次のように「当局は推薦を惜む勿 なかれ」と要望しており、学生たちの切迫感が伝わってき
ます。
這般は今年の申込先の中にて最も有望なりと観られて居た大阪野村銀行(注 現りそな銀行〔大和銀行〕)に成績優秀なる者五人を推薦して、東京に於ける面会の結果、一名の採用者も見なかつた。吾人は学園新卒業生百七十余名の中に同銀行の希望条件に適合し得る人物が皆無なりとは考へ得ない。勿論学校当局としては公平なる推薦を為さんとすれば、勢ひ成績得点の順に拠るの他無い次第であるが、申込先の所謂成績優良なる条件は一種の極 きまり文句であると云ふ丈の如才なさが有つて欲しい。又今年よりは未だ一回の推薦を受けざる者が多数有るとき、同一人を二度三度にわたつて推薦するが如き推薦法を改められん事を切望する。毎年の例よりして、今年も亦之有ることを予想して、学生間に早くも不平の声高まるを聞く。
一九三〇年代半ば以降は、就職「黄金時代」を迎えます。『小樽新聞』では「就職難は昔の夢 緑ヶ丘の春朗らか」
(一九三六年三月六日)と、「就職大量決定に春はほゝゑむ 小樽高商の人気」(一九三七年三月六日)とされ、第一次世
界大戦期に匹敵する「黄金時代」と評されました。こうした就職「黄金時代」は、日中戦争の本格化によってさらに
拍車をかけられた軍需景気の賜物でした。
3 課外活動
寮についてみると、これも初期、戦時下、あるいは戦後に寮が統合された段階など、いくつかの節目があります。
戦後の状況として、一九四九年一〇月一五日の『緑丘』第二一三号には「寮をのぞく」というルポルタージュが載っ
ています。第五寮(清明寮)がなくなり、北斗・正気・文行・玉乃井の各寮は飽和状態ながら、建物の古さや修繕維
持費の欠乏からくる荒廃ぶりは、「掃けば掃くほどごみが出るので、なるべく箒を持たない方がきれいだと言ふのも、
こゝならでは見られぬ奇現象である。だから布団は畳くづにまみれ、歩いたゞけで、ものすごい埃が舞ひあがる」と
いうほどのすさまじさです。とくに「おかゆ、すいとん、おじや、いもの食生活は〝どん底〟で、各自各々の夜食に
始めて固い飯にありつける始末、魚を下げたり、野菜物を持つて夕方坂を上る寮生の姿は、今では常識となつた」と
あります。
次に部活です。まず、いわゆる文化祭のなかで一つの名物となっていたのが外国語劇です。「北の外国語学校」と
呼ばれたように、英語以外にフランス語、ドイツ語、それから初期の段階から中国語、ロシア語がありました。途中
からスペイン語が入ってきます。そういう点では語学のバリエーションは非常に豊富であり、さらに授業時間数の多
さも目を引きます。なおかつそれぞれの語学にネイティブの先生が配置され、日本人の先生とネイティブの先生の二
人でやっている、そういうかたちで外国人教師の数は他の学校に比べて多い。今はありえないことですが、当時は特
に初代の渡辺校長が文部省から腕力で予算をぶん取ってくるということでこの質量充実を実現させたようです。四〇
人ほどの教員の内の六、七人は、常に外国人教師が占めていました。
そのなかにはずっと十何年もいるような名物先生もいれば、たとえばオックスフォード大学を出てすぐやってくる
ような若い先生もいます。それはイギリスにおける日本近代史研究の先駆者の一人リチャード・ストーリーという先
生ですが、彼はちょうど日中戦争全面化の時期に三年間の任期でやってきて、日本の政治・社会・文化に強い衝撃を
受け、その後、それを自分の研究テーマにしました。こういう外国人教師の指導の下で外国語劇が行われ、このとき
だけは小樽市民にも学校が開放されて大にぎわいとなります。新聞も劇のあらすじを紹介するほか、何日にもわたっ
て写真を載せるなど、破格の扱いをしています。一九三一年の外国語劇大会を「多年の懸案を解決して 画期的成功
を収む」という見出しで、『緑丘』第五八号(一一月三〇日)は次のように報じました。
恒例の外語劇大会はあらゆる意味に於て学園の誇り得る事業の一つであり、常に圧倒的な支持期待を持たれて居るが、本年度
に於ては更に廿周年を記念し、将来のよりよき大会の発展を基礎づくべく、其の経営、演出、等に従来にない新味を加へ、文
字通りの熱狂的称賛を得た。
大会は例年より一ヶ月早く、去る十三日、十四日両日に亘つて催されたが、折柄の星夜の事とて晩秋の静な一夜を、エキゾ
チツクな情緒にしたらんとする人達は、老ひも若きも、紳士も淑女も交へて、等しくやゝ興奮したる輝かしき面持にて立錐の
余地なき場内に坐し、開幕を待つ有様であつた。
場内は各部出し物のポスターを以て飾られ、右側及背後には椅子を並べて観客に便宜を与へ、又入場者は各々パンフレツト
を持てることとて、劇の進行と参照して細部に迄立入つて鑑賞するの心よさを得せしむる事、申分なき光景を示した。
会場整理に当つた応援団は近来になき統制振りを示し、八百、九百の観衆をして混乱の中に陥らしむることなく心よく応待
を与へ、観客は何れも満足の意を表して居た。
演出振りの清新さと云ひ、監督の経営的手腕と云ひ、応援団の統制振りと云ひ、あらゆる意味に於て、本年度の大会はよき
道しるべを示し得た。而し背後には校友会会員大衆及び職員の理解ある、熱烈な支持のあつたことは決して見逃し得ない。
学生たちの張り切りぶりもよく伝わります。
第四章第四節では「報国団・報国隊」について取り上げています。戦時下にあって、それまでの運動部・文化部
が「報国団」に再編されました。なかでも中心は「武ヲ練」ること、つまり鍛錬部で、全学生は強制的にいずれかの
班に属し、毎週「鍛錬日」が設けられます。一九四一年五月七日の最初の「鍛錬日」には、「校庭に各班毎に整列し、
皇居遙拝、鍛錬実施上の注意を受けた後、約二時間に亘つて最初の鍛錬を行つた。各班は夫 それ々 ぞれ道場に、プールに、山
上グランドに、校庭に、国防競技場に、或は遠く手宮グランドに報国団綱領に則つて剛健なる鍛錬を行ひ、頗る良好
なる成績」(『緑丘』第一四七号、四一年五月二五日)を残したといいます。
応援部は一度解散となったものの、まもなく「推進隊」として復活します。「推進隊は、報国団の中にあつて、報
国団長の命を受け、率先躬 きゅう行 こう、報国団の各班の運営を円滑ならしめる推進力となる」(『緑丘』第一四七号)ことが求
められ、隊長は校長によって任命されました。にもかかわらず、報国団の結成後も依然として運動班関係は北大予科
戦や高専大会を主要な活動としていました。ある学生の報国団への期待は「文化的なスポーツ的な相互のつながり」(『緑丘』第一四四号、四一年二月二五日)というものです。
戦局の悪化する前までは、文化部の活動も以前と変わりません。音楽班では「音楽の真の喜びは自ら演ずるところ
にあるといふことも真理であらう。されば班員は各部に属して練習に努め、本年は校内発表会をも開催せんと意気込