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トランセンデンタリズム研究の 近年の傾向について

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トランセンデンタリズム研究の 近年の傾向について

後藤昭次 この翰告は,ここ10年ほどの間にアメリカの研究誌に発表された研究論文を紹 介したから,アメリカのトランセンデンクリズム研究か,これまでの研究業績をふ まえながら今日どのような状況にあるのか,どのような方向を目指そうとしている のか,といった事を考えようとしたものである。しかし,その事を考えるに当って さえ,今日のアメリカ人にとって,一世紀以上も前のニューインクラント・の一地方 に開花した思想が何であるのかという問題を抜きにしては考える事はできないてあ ろう。今日のアメリカ人にとってのみならず,トランセンデンクリズムに関心をい だいて研究している私たちにとっても,それはいう迄もなく肝要な問題であり,私 もこの報告を準僻している間,たえず考え続けた事ではあったか,この栽告ではそ の点は必ずしも十分に論じられてはいない。その問題は,大事な問題であるだけに,

単行本などの形で出版された業績を主体として雑誌論文を併せ見るべきであり,雑 誌論文のみを紹介する目的で書かれた本報告では,問題をその点にまで及ぼすのは かえって不都合であろうと考えたからである。必要と思われる場合に限ってのみ単 行本に多少言及するにとどめた。

この報告を書くに当っての次の問題は,すべての論文を読み且つ紹介することか できないとすれば,どのような基準で,どのような論文を紹介するかという事であ った。論文として秀れているものだけを取り上げるというのも一つの方法であろう し,年毎に重要なあの一ないし二篇ずつという選び方もあろうし,トランセンテン タリストー人につき一篇ずつという紹介も考えられなくはない。しかし,必要な雑 誌のすべてか入手できた訳ではなかったので,上のいずれか一つの方法に徹底する ことかできないと分った時,私が本報告でとった方法は,できるかぎり年毎に ̄篇 以上を取りあげ,雑誌の種類やテーマに片寄り過ぎることなく,しかも,できるだ け多くのトランセンデンクリストに関する論文を紹介するということに落着くこと になった。私はもちろん,この方法に十分満足している訳ではない。もっと筋の通 った方法に徹底すべきであったとも考えるのだが,そのためには今回入手できなか ったものも含めて論じる必要があるのだから,それは次の機会を待つこととし,今 はただ,これまでマイナーとして片付けられ殆どかえりみられることのなかった卜

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ランセンデンクリストたちの中に再考の価値あるものがありはしないかという年来 の疑念がこのような方法を私にとらしむる結果になったことを一言いい添えて,以 下に,年を追って報告してみたいと,思う。

D・qordonRohman, 〃ThoreauosTranBcendenta1Steward-

Bhip",mmerBonSocietyQuarter1y,44(1966),72-7zはソ

-ロウが,自分の仕事なり義務なりを隣人たちに弁護したいという気持ちを強く持 っていたという点に注目して,その面からソーロウおよび同時代精神の特質を考え ようとした論文である。

筆者のローマンによると,運動としてのトランセンデンタリズムの挫折の原因は,

個人的良心と社会的良心を結合できなかったことで,多くのトランセンデンクリス トたちか非妥協的な「自己教養」を求め,一般の人たちからは「非常に利己的な」

人たちと見られていたことはソーロウのことばにも見えている。そこでエマソンは 大衆の中に入り込んでゆくことを求めたし,プラウンソンも,大衆に訴えるために は大衆に共感する必要かあるから「そのような禁欲主義」はよくたいといい,ソー

ロウもまた「偉大な意味における世界の良き市民」たることを求めた。

しかしソーロウのゆき方はエマソンともプラウンソンとも違って,超越的な自侍 の理念によるものであった。キリスト教的な職業観を復活せしめることによって良 き市民の意味を訴えようとした。

ソーロウは一方では,「できるだけ自由に,関わり合いを持たずに生きたい」と 考えなから'他方では「時代を改善し」たいとも考えた。彼は魂を求めてさすらう だけの単なるロマン主義者ではなかった。そのうえ,ピュリタニズムの影響の強い 社会では,労働は絶対の必要で,宗教は世間を捨てることによってではなく,世間 を聖化することによって成立した。宗教と世間的事業は対立せず,シーザに返すこ とは神に返すことであった。労働は禁欲的な修養でもあり,精神的目標ともなった。

ソーロウもまた,自分の仕事か人類にとって祝福となるような全的生活を求め,仕 事は高度の意味における修養であって,〃Wユュユit(work)notrather

beeユevatingaeaユadder,themeanBbywhichweare traneユated?〃と云う。ここに”ユadder"という興味深い語か使われてい るのだが,これは義務や労働についての観念の変遷を暗示しているのである。

職業をネ甲聖視した初期プロテンクの考え方はジョン・コットンの〃TheOhrie-

tianOaming〃に良く現わされていて,ここにはソーロウの考えに一脈通ずる もののあることを読取とることかできる。ソーロウは絶えず,自分の生命に課され た”errand”あるいは”thechie盃end"を問い続け,〃theBmpユe

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ユi宝e”あるいは”theob11gationtoobeythehigheBtdiotate〃

を求めた。

だが,ここにも問題はあった。それをヘッジのことばでいえば,”adwe11er intheduBt〃と〃adenizenofthat1andwherea11truth andbeautyBpring”とのギャップである。ソーロウもまたこの問題を意識し てはいた。対立するかに見える二者を結合するものは「神と人間につかえるものだ」

といったコットンはすでにこの問題を解決していた。やがて日記の中に”エmuBt notbemyeeユで,butqodoBwork,andthatiBa1wayBgood”

と書く時,ソーロウもまたコットンの意識に近かった。しかもソーロウの中には,

宇宙や物質のすべてを神聖化するものがあって,Waユdenには自然に対する神聖 なアプローチか随所に見られ,ウォルテンに浴することは「宗教的な経験」てある とも書かれている。といっても,ソーロウはキリスト教の来世観にまで共鳴してい たのでは決してない。ソーロウにとって成功とは,あの世でではなく,この世の生 に花を咲かせることであって,〃ahigher,purerdedicationtoユ並e〃

にこそ,それはあった。そして,彼の生活を利己的と評した町の人たちに対する答 も,その中に含まれていた。それはまたソーロウの,ニュー・イングランド・プロ テスクンテイズムに対する挑戦でもあった。その意味でソーロウは同時代における 倫理上の反逆者であり,その限りにおいて社会的反逆者として耐えてゆく他はなか

った。

以上のようにソーロウの義務観をピューリタンの職業観と考え併せているところ か,この論の特徴といえるかも知れない。ピューリタンの職業鰯が具体的にトラン センデンクリスト達によって,どのように受け継がれたかは確かに興味深い問題の ように思われる。しかしそれを十分に論じた研究は,今のところないようである。

JohnB・Wi1Bon,〃AFa11enエdo1o笠theTranscendenta-

ユユBtB:BarondeCIerando〃,OomparativeLiterature,19

(1967),554~540

1850年にmizabethPeabodyは,BaronJoBephMoriedeGe-

rando,Deperfectionementmoraユ(1824)を翻訳・出版している。

また,その二年後には同じ著者のLeViBi℃eurdupauvre(1820)を抄訳 出版している。Peabodyかこの著者のものを知ったのは,WiユユiamEユユery

Ohannmgを通しであったという。この二つの翻訳書を当時,書評したジョージ.

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リブ゜リーは,このフランスの哲学者を「強力なドイツ,思想家たち」の先駆といって

ク ク

いる。同じ頃,エマソンもC}erandoの且isUoirecomparEledeBByB七emes dephユユoBophiereユativrementauxprユncユpedeBconnaユBBanceB humaineB(1804)を読んで,涕二のベーコンを期待していた。エマソンが自 然の中に発展的な過程のあることを学んだのも,この著者のものを読んでからだと いわれている。0.B・Frothingham,TranBcendentaユユBminNew

mngユand(1876)でも,たいていのトランセンデンクリストたちは恐らく

●●

MadamedeStaeユやCIerandoを通してドイツ哲学を学んでいたようだと指 摘されている。ジョージ・リプリーーは,Gerandoが哲学を見事にポピュラーに語

っていること,人間性を喝破し,ドイツ哲学を基礎としていることなどを語り,折 衷主義の四ツ原理theexiBtenceo定deity,thefreeagencyo至

man,immOrtaユity,man1BvOCatiOntOmOraユPrOgreBBを支持し

ている。

WiユユiammユユeryOhanningか1858年にボストンで行なった講演

”SeユゼーOuユture”はGerando,Duper宝ectionementmoraユの要約 に近いものであった。しかしチャニンクも後にはqoethe,damesPierpont

GraveB,Pユato,PeBtaユozziなどに(劫ることか多く,したがって研究者も この,思想家について言及する例はほとんどない。

はじめのうちはエマソンも期待を持っていたようだか,1858年の日記には,は っきりとした不満を書きつけているし,オルコットもフランスの折衷主義には不満 で,「皮粗な哲学」と云っている。Ⅱ.H・Hedgeも同じ考えであった。初めのう も,たいていのトランセンデンクリスト達は,フランスの哲学を通してドイツ哲学 を学んでいたようであるか,次第にドイツ語で直接ドイツ哲学を読むようになって いった。さらに1850年以降になると,ドイツの超越哲学と,ドイツやイギリスの 骨相学者たち-JohannBpurzheim,FranzOaユユ,QeorgeOombe-

の思想か流行して,フランスの折衷哲学は影かうすくなってしまった。Spurzheim やOombeかアメリカで講演した頃の骨相学の流行は大変なものであった。

しかし,すべての人間に四つの性”nature" ̄BeneUaユ,BOC1aユ,inte- ユユectuaユ,moraユを認めた点では,Gerandoは骨フトE隊を準備していたといえ るであろう。その人間中心,思想はトランセンテンタリズムに吸収され,それかあっ たればこそ,先天的`思念や直感力を否定したロックの哲学かトランセンデンクリス

ト達によって否定されることになったのである。

チャニング,リブ゜リー,ピーポテイといった人達には熱烈に愛読されたC}erando

も,エマソンにとっては「あまりにもありきたり」に見えたというか,それか時代

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の上にのこした功績については,エマソンといえども認めるにやぶさかではなかっ

た。

以上の内容からみて,論文はQ6randoの位置づけを雁めようとしているようで あるが,必ずしも,その再評価を主残しているようでもない。あまりにも無視され 過ぎてきた思想を,もう一度見直したという感じに終っているようだか,そのため の十分な論述も資料の提示も行なわれていないような気がする。私の読みえた限り では,最近の論文にはこのフランスの哲学者に対する研究はなかった。ただ,ジョ ージ・リプリーか恐らくは最も熱心なフランス哲学の紹介者であったようだから,

リプリーの研究には無視できない哲学者であるようにも思われる。

0.CaroユユHiユユis,”BrownBononNativeNewEng1andf NewEngユandQuarterユy,40(1967),212~226.

これは一つのまとまった論文というよりは,下準備のための資料の整理というつ もりで書かれたようなものなので,私もそのつもりで以下に紹介してみる。

プラウンソンは哲学・宗教・政治などの面ではなばなしく活躍したので,とかく プラウンソンのニュー・イングランド的側面は忘れられてきた,というのが,どう やらこの論文を書いた筆者の視点らしい。

ホーソーンやエマソンと同じく,プラウンソンもまた,ニュー・イングランドの 伝統がピュリクニズムの土壌の上に培われたものであることを強く意識していた。

そういう環境に自分か育ったことを喜んでいたし,コンクリグイショナルであった 彼は,コングリグイショナリズムをニュー・イングランド・ピュリクニズムの最良 の部分と考え,トランセンデンクリズムでさえ,ピュリクニズムの過去に新しい理 想主義を加味して再生したものと考えた。したがってScar1etLetterのよう な作品は,ピュリタンの偏狭と不寛容を不当に誇張しているように思われた。

ピュリクニズムに次いでニュー・イングランドの形成にあずかったのは,町の組 織(townorganユgation)であった。カトリックに改宗してからではあったか,

プラウンソンはジャクソニアン・デモクラシーのことを”mobocracy”と呼んで いるか,それは多数者偏重の政治で,ニュー.インクラント゛の〃smaユユーtrad1- tion”にそぐわないものだからであった。地方的性格もまたこの伝統の産物に他 ならなかった。コネチカットのヤンキーをだしにして,あたかもニュー・イングラ

ンド全体,アメリカ全体の性格のごとくに認した』.F・Oooper,TheSQQ-

moneLにはひどく'憤慨した。プラウンソンには,ヴァモントの性格か最も勤勉で,

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道徳的で,自由への愛情が強く,独立への熱意か烈しく,それと極端に反対なのか

。ネティカットのように思われていた。

また,発音にしても文章にしても,ニュー・イングランドにはニュー・イングラ ンドの性格かあるのだから,南部や外国の作家のまねをしてはならない,というの がプラウンソンの考え方であった。したかって,そのようなニュー・イングランド 性格を保持している作家のエマソンを,プラウンソンは尊敬した。そしてニュー・

イングランド人は,もっともっとニュー・イングランドの伝統を大事にし,それを 生かしてゆくべきであった。しかしプラウンソンは,ニュー・イングランドの開花 はカトリシズムにおいて頂点に達するものと考え,ニュー・イングランド人は,自 分たちか自覚する以上にカトリック的なのだ,ともいっていた。

この筆者は恐らくプラウンソンのニュー・イングランド的性格を探ることによっ て,ピュリクニズムの意味を捉え,ニュー・イングランド文化とピュリクニズムと のかかわり合いをつきとめたいと考えているようである。その上さらに,カトリシ ズムとの関係か捉えられれば更に興味ある一面かニュー・イングランド文化の中に 浮かび出ることであろう。

KennethWaユterOameron,〃ThoreauandOres七eBBrownBonR mmerBonSocietyQuarterユy,51(1968),55~74.

ソーロウはハーヴァード大学三年の時,一時学校を離れている。それは1855年 12月6日から,翌年:の5月20日までのことであった。初めコンコードの自宅に帰 り,当時カントン(Oanton)の町でコニテリアン派の牧師をしていたプラウンソ ンの紹介で,6週間ほどカントンの小学校の教員をした。のちにチャニングの語っ ているところによると,この時プラウンソンはソーロウにドイツ語の勉強と海外の

トランセンデンクリズムを熱心にすすめたようである。

この期間,ソーロウはプラウンソンの家族とも親しく交わり,Fire七Oongre- gationaユChurch(ユニテリアン)てはプラウンソンの説教も聞いたようだ。

インディアンについても話し合う機会は多かったであろう。プラウンソンの主催す るSouthOantonLyceumにも出席したものと思われる。ソーロウの来る半年ほど前の 5月24日にプラウンソンが行なった講演は,大変な評判だったので,ソーロウも恐ら くはそれを読んだにちがいない。(筆者はその講演を論文の末尾に再録している。)

そこで,ソーロウがカントンに出かけていったと,思われる1856年の1月から2 月にかけての頃,プラウンソンは NewViewBo歪OhriBtjLanity,Societyi

andtheOhurchの執筆の最中であった。この本はその年の秋に出版され,出

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るとすぐソーロウは買い求めている。

プラウンソンは,このカントンという保守的な農村での生活に満足してはいなか った。こういう社会では自分の新しい考えも理解されなかった。したかって,ボス

トンに出るため,1856年5月にはカントンを去るのである。

一方ソ-Fウは,6週間のカントン滞在ののち再びハーヴァードに帰ったのであ るか,帰って来たソーロウは以前とちかって,宗教や教会の現状に対する不満をす っかり強めていたという。当時の友人ペリー(AmoBPerry)の手紙によると,

以前は一緒にギリシア語その他の学校の勉強を熱心にしていたソーロウか,プラウ ンソンと一緒に生活してからは,すっかり人間か変って,もう学校の勉強などには 見向きもしなくなっていた,という。そして自然に対する関心かこの時から決定的

なものになっていた。

それては,プラウンソンかその時ソーロウに何を語ったのか。ソーロウは何を聞 いたのか。いずれにもその時の記録はない。想像する他にすべはないか,その前後 のプラウンソンの著作から,プラウンソンか語ったと思われるのは,以下のような

ことである。

今のニュー.イングランドの学校教育では道徳的・知的側面か極端に軽視されて いる。もっと深く考えるということが教えられなければならない。知的・道徳的感 情の上に立って,自由な制度を護る斗士か養成されなければならない。

宗教とは神聖なるものの概念ないし感情であり,神秘に向かってゆくものである。

イエスは物と霊との中間にあって,両者を合一せしめるものである。対立させるも のではない,とかく,内と外を対立させて,外を軽視するのかこれまでの傾向であ った。そのために,アイデアリズムや,ミスティシズムか生まれてしまった。

一般的にいって,プロテスクンテイズムには宗教的性格かない。それは哲学上の マテリアリズムと共存してきた。外界に重きを置く精神は感覚をもって認識の根源 とする。今日の教会はあらかた,真の宗教や知性の発展に好意的ではない。真理の ためには教会に属す必要などない。

プロテスタント諸国では効用か重んじられ,勤勉か説かれてきた。その反動とし て神秘か求められ,バイロン,ワーズワス,シェリーの詩か生まれた。物質と精神 の統一のためには,人間性を認める一般原理かなければならない。神と人間か一人 の人間の中に結合されるとき初めて両方が神聖なものとなる。クザンを頂点とする フランスの折衷主義は,人間,自然,神の三者か全く同一の法則をもっていること を示した。ここに統一か生まれたのだ。

たとえば,この考えを目ざしているチャニンクなどは,人間の中に神性を認め, 両者の関係を神と子との関係のようなものだという。このような考えを貢ぐとき,

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奴隷制は排除され,勤勉も神聖なものとなり,肉体もまた同じである。教師か生徒

に教えることは,そのような意味での神である。

そしてプラウンソンはソーロウにBendaminOonB七ant,〃DeユaReユエー gionconBidereedanBBaSourceDBeeF1ormeBetBeBDeve-

ユopementB〃およびFeユユon,”Re1igionandtheOhurch”,さらに

シュライエルマッハの作品をすすめている。

以上の要約の通り,この論文は記録にないものを想像で論証しようという試みに 挑戦しているのであるか,ソーロウか同時代のトランセンデンクリスト達からどの ような影響を受けたのか受けなかったのかという問題は非常に大きな問題であるだ けに,誰しも知りたいところである。しかし何故ソーロウか学校の勉強に興味を失 って自然に向ったのか,その点はこの論文も触れていない。プラウンソンかソーロ ウに与えた影響は予想できるか,プラウンソンとの交友の結果はただちにソーロウ の自然とは結びつかないのである。この点もまた研究者たちの関心を呼ぶところで

あるにちがいない。

Leonardqiユユey,”TheTranBcendentaユiBminWaユden〃,Prai-

rieSchooner,42(1968),204-20Z

Wa1denの第五章に”MyeerenユtyierippユedbutnoteurfP1edq という文章か見えるか,ここにはソーロウの感じたニュー・イングランド超越主義 の本質かある。彼によると,究極的認識のためには感覚を超越しなければならない という。ソーロウは自然の中に入り込んで神を経験しようとする。”エgoand

comewithaB七rangeユibertyinNature".というか,この”a

Btrangeuberty〃というのはいささか逆説め<ことばである。それは「休息 というものは決して完壁なものではない」からである。ソーロウの入り込んで行っ た自然は,静的な自然ではなく,躍動する生命のある自然であった。森がもっとも

森らしいのは嵐の時なのである。

ところでwaユdenが正確な事実に満ちているのはDarwin,YoyageOfa Natura1ietRoundtheWor1dの影響にもよるようだか,科学的な観察が 真理への道だとはソーロウは考えていない。現実を吸い込んで生命と宇宙の神秘に

達するためには芸術的想像力かなければならなかった。

ソーロウの生活したウォルテン池畔を,人はよく「荒野」と呼ぶか,ソーロウは むしろ,はじめはコンコードに畑を買いたいと考えていたのである。金かなかった

のである。

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直感的認識を求めたソーロウの目標は,屋桑のようなものである。そこへ個我を 没入させ,個人的情熱を解消させるのであるか,といって,それは個我を失なうこ

とではない。

ソーロウはよく自らを「情緒のない男,感情を持たない男」といったし,隣人た ちにとっては,つき合い難い男だったであろう。しかしソーロウにとっては,それ も「詩」のために必要なことであった。

ソーロウの”Smoke〃という詩の中に出てくる”mame"は,破壊をもたら すのではなくむしろ神に至るヴィジョンであり,イカルス伝説が逆用されているの である。ソーロウの想像力や詩的イメージはよく,眼に見えない境界を越えて飛び 立ってゆく。そして「新たなる,宇宙的な,より自由な法則」を求めてゆく。ある いは「より高い存在の秩序」を求めてゆく。Wa1denの最後に「強く美しいカプ ト虫」のメクファーによる高貴な飛翔の描写かある。このカプト虫の求めるのか超 越的真理である。この虫は平和ではあるか,エネルギーと興奮に満ちている。つま

りそのような現実か〃riWユedbutnotru透ユed”なのである。

筆者は研究者であると同時に詩人である。この論文もソーロウの「詩」を問題と して,小さなテーマの中にソーロウの特質を,ソーロウの超越的真理を,捉えよう として書かれたもののようである。ソーロウの詩作品の中にではなく,代表的な散 文の中に「詩」の特徴を見ている。当然,逆説もある。それはソーロウの文章か詩 的であることによるのであって,これもまたソーロウ研究者たちの避けて通る訳に いかない問題である。私の読みえた限りでは,最近のものの中にはこの種の文章か非 常に少なかったように思われた。短い論文ではあるか,ここに紹介したゆえんであ

る。

NathanLionB,"TheFigureofWユュュiamm11eryOhann1ng", MichiganQuarterユyReView,7(1968),120~126.

この論文は,ニュー・イングランド超越主義の開花を準備するのにチャニングほ ど大きな貢献をしたものはいない,という立場から書かれているのであるか,本文 の多くはチャニング思想の紹介に近いあののように思われるので,ここでは,結論 にあたる部分だけを簡単に紹介するだけにとどめたい。

チャニングは時代の指導者というよりは,むしろ革新者である。新しい時代の開 拓をうながすさまざまな可能性を刺戟し,かつ拡大した。その人間性中心の宗教は,

人間が生れなからにして神聖な良心と能力を持つという信念に根差していた。彼の

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主張の中から生れた精神の自由と自己教養は,トランセンデンクリズムの最初の火 花となった。オルコットの教育思想の背後にも,パーカーか不易と流行をキリスト 教の中に区別した思想の背後にも,そして云うまでもエマソンやソーロウやホイト

マンの思想の背後にもチャニンクの影はついているのである。

car1F・Strauch,〃HatredIBBwiftRepu1Bions:EmerBon,

MargaretFuユユer,andOtherB”bS七udユeeinRomanticiBm,7

(1968),65-105.

この論文はかなり長いものなので,限られた紙面では十分に紹介できないので,

主要な部分のみを紹介することにしたい。筆者のねらうところは,エマソンか MargaretFuユユer,OaroユineSturgiBDAnnaBarker,Samueユ

qrayWardらと交わした書簡の中に,ロマン主義思想の典型的な表現を見よう とすることにある。題名はエマソンの詩”TheViBit〃の中の

工至LovehiBmomentoverBtay,

HatredoBBwi歪trepuユBionBpユay・

からきている。

文通の時期は1856年9月16日から,1844年8月50日までで,はじめエマ ソンかフラーの手紙への返事を遅らせていると,フラーが冗談に次の手紙で

”unBympathizユng,unhe1pruユ,w1Be,gocdman”と呼びかけたり している。しかし徐々にエマソンのほうにも好意か生まれて1858年の末頃には熱 心な文通に発展する。1858年10月21日から1840年5月50日に至る時期は

『ダイアル』誌を中心とする文学的文通の時期である。お互いに感傷的な表現は見 られない。フラーの心に恋愛感情か発展していることをエマソンは1840年9月末 頃まで気かつかなかった。その後のエマソンの態度かきわめて冷静なものであった ことは周知の通りで,フラーはこの失意から比較的早く立直ったようである。1840 年11月頃以降の文通は再びもとの調子を取戻している。

1841年4月22日,エマソンはフラーに宛てて,身体の具合の良くたいことを 伝え,〃thewoodB8bfieユds&mygardenwiユユheaユme”と書 いているか,それは1858年10月に書かれた詩”MuBketaquid〃の”Aユュmy

heartB/MygarOLenBpadecanhea1〃・からきている。またスクージス に宛てて1841年6月4日1口庭仕事のことに触れて”toreapabetter

harvesthomitthanpeaBユet七uceapp1eBQpearB”と書い ているのは,1858年の詩"TheApoユogy”の”ABecondcropthine

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acreByieユd,/WhichエgatherinaBong”・からきている。また エマソンは1841年10月25日にウォードに宛てて”wiユdountamabユe,

aユユーcontainingNamre〃といい,自然の中に象徴を見抜く”thepurged eye”のあることを訴え,”WheretofmdtheeuphraByandrue thatBhaユユmake七hepurgation?〃と書き送っているか,それは 1841年1月の『ダイアル』に載った詩〃TheSph1nx"の”Rue,myrrh andcumminrortheSphinx,/Hermuddyeye●てCO]ear/"

からきている。

もちろん,上の例とは逆に書簡のことばか詩に利用されている例もある。1840 年5月17日,エマソンはフラーに宛てて自分は”no七bユaepheme〔his〕

motherNaturewhohaBnotceaeedtoehow〔、m〕new BユユdeBinherrevoW1ngユamp”といっているか,それか1842年の夏 頃に書かオした”TheBkeptic”という詩では〃Per缶ormance-hatlngNe-

meBiB/WユthdrawBtheprizeユユkeapaintedBmde,/And anewbaub1eisBuppユユed〃・となる。この種の例は〃TheProbユeM

”TheMユracユe”,”Threnody”,”May-day”などにも見られる。〃SeP-

tember”や〃April〃もフラーとの文通から生まれた作品であり,とくに

〃Monadnoc”はフラーの影響か明らかな作品である。

早くも1858年8月にエマソンはフラーから画集を見せてもらい,当時の日記に も美術に言及した文章かあるか,”OdetoBeau可”はそこから発展したもの である。もちろんこの詩は,その数年前の〃BaccuB"とも関連を持つか,さらに

"PaintingandScuユpmre”や〃LoBBandOain"とも関連している。

そして,ここで強調されているプラトニックな思念は,さらに”Initiaユ,Dae-

monicandOeユeBmaユLove”へと引継がれてゆく。また1840年10月 5日に,パーカーとクレイか結婚した際の稔子は日記にも見えるか,”TheDae-

monicLove〃の第一スタンザかそ゛の時の様子をうたったものであることは云う までもない。

"CMveAユユtoLove”はカロライン宛ての書簡(Aug.?c、20?

/Sept、18,1840)の内容と照応し,”Forerunners”とも関連する。い らだたい、気分の”mt1ennedeユaBo6ce〃はモンテーニュの作品から想を

えているか,これは1845年10月(恐らく10日)のフラー宛ての書簡に〃the matchユeBerriend”と記されているものである。この詩の後半部の主題は,

フラー宛ての書簡(1840年9月29日)から生まれたもので,この時の文通で論 じ合われた”aBユaviBhconformity”と”atruththatiBenti-

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reユycourageouB”との対照は更に"Park〃という詩の主題となる。

筆者は以上のほかにもいくつかの例をあげて説明したのち,最後にこうつけ加え ている。この論文は,批評のために書かれたのではなく,批評に必要な材料を集め て整理したのである,と。雑誌論文の性格からいって,このように資料の整理を主 眼として書かれた文章が多く見られるのはごく普通のことであって,これらか後に どのような形の著書となり,あるいは新しい批評・研究となってゆくかは,自ずと 別の問題である。

Robert BiOnBO歪 TheNew

D・Arner,〃HawthorneandJoneBVery:TwoDimen-

Satirein‘mgotiBm;orTheBoeomSerpent,〃

mngユandQuarterユy,42(1969),267-275.

ホーソーンの〃TheEgotiBm;orTheBoBomSerpent”か道徳.倫 理上のテーマを描いた認刺作品であることは,以前から知られていることだ。作者 の意図は主人公Eユユietonの孤独,その非日常的な性格,それへの調刺であるが,

この作品の意図に,個人的な面と迫徳的な面の二つかあることを認めたのは Aユ造redM・Marks,”TwoRoderユckBandTwoWormB:dmgomBm;

orTheBoBomBerpentaBPerBonaユSatire〃,PML』1,LXXエV

(1959),607-612だけてある。しかしこの論文にしてからかⅡユユユBton を、.A・Poeのカリカチュアだと誤解している。Poeではなくて,セイラムの 神秘詩人JoneBVeryなのである。つまりMarksはホーソーン作品の副題の由 来をボーの〃TheFaユユortheHouBeo壬UBher?"TheDomain

ofArnheim?”TheOonquerorWorm”などに求めているか,確証は得 られない。Veryの書簡の中の〃TheboBomエdoユhehadhadto

BacrificewaBBeauty”.(TcHenryBeユユCWS,Dec、221858)

こそ,ホーソーン作品の副題のヒントだったのである。

ホーソーンかこの書簡を見たかどうかはともかくとして,Veryの考えに接する 機会はあった。当時Veryは”theboBomBerpent”をかかえ込んでいる人 物を調べていて,BronsonAユcott,SamueユWardGrayなどを分折し,

次かホーソーンの番であった。当然ホーソーンは良い気j寺はしなかった。Herki-

merという彫刻家は実によくホーソーンに似ている。

Veryとの関連を主張することは,必ずしもボーとの関係を無視することではな い。恐らくホーソーンの念頭にはこの両者かあったかも知れないか,作品の宗教的 な調子からいっても,ボーはVeryのイメージの中に解消しているのである。ホー

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ソーンはEユユiBtonを町の〃newaPOBtユe”といっているが,エマソンもか ってVeryのことを”abraveBaint"と呼んだことかある。ホーソーンは

〃TheHaユユorFantaey”の中でVeryの精神的傲慢を非難しているか,

"EgOtiBm"の中の描写にはこれと関連して読まるべき個所が多い。ホーソーン の使用するBnakeの象徴は疑いなくVeryに対する非難とて読まれるべきである。

しかし,この作品の中でのホーソーンの正確な立場はどうかというと,決して容 易には分り難い。ⅡユユiBtonは決して現実のVeryその人ではない。ホーソーン がVeryの孤立を認刺していることは認められZ、としても,ⅡユユiBtonの敵たち も偽善の罪を犯しているのである。作者の調刺はその両方にわたっている。結末で はホーソーンは,皿ユiBtOnにのみ,現実社会への復帰を用意しているのである。

その時ホーソーンの心にあったのはVeryであって,皿ユユBtonではなかった,と

いえるかも知れない。

この論文はホーソーンの作品の読み方に一つの意見を出そうとしているのである か,主人公のモデル問題はともかくとしても,象徴性の強い作品だけに作者の意図 をめぐって解釈はいろいろになされうるであろう。主人公のモデルをジョーンズ・

ヴェリーと仮定してみるのも,この作品に対する一つのアプローチであり,ホーソ ーンやヴェリーが,孤独と社会の問題をどのように考え,また解決しようとしてい たかを知る手かりにはなるように思われる。孤独と社会という問題は,トランセン デンクリスト達の一様に直面した重要な問題であって,エマソンやソーロウに独自 の解決法かあったように,ホーソーンにも自らの態度かあったであろう。プルック・

ファームに於ける挫折の経験から生まれたThemithedaユeRomanceと比較 して考えれば更にその問題は興味ある展開を示してくれるにちがいない。

JohnB・W11Bon,〃TheAeBthe七icBo歪TranBcendenta1iBm〃,

mmerBonSoCietyQuar七erユy,57(1969),27~54.

ニューイングランド・トランセンデンクリズムの特色は〃Aユユartiemoraユ〃

という点にあった。エマソンは”TheconBc1ouButUeranceofthought,

byBpeechoraCtion,toanyend,iBart”.といい,パーカーは

〃ユovenneBBoranobユe1ife”こそ究極の芸術と考えた。エリザベス・

ピーポディは,グレイター(FranciBGraeterはハーヴァードのOhar1eB FeUon教授の弟子)との交際を通じて,教育の中で果たす芸術の役割の重妄性 を学んだ。クレイクーによると,美的感受性は”theBubBtantiaユdivinity

ofthehumanBouユ〃であった。

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ピーポディは早くからギリシア精神について勉強していたし,オールストン

(WashingtonAユユB℃onはニューイングランドの画家詩人でイタリアに留学)

の絵を見ていた。オールストンはチャニンクの義弟で,ドワイト(JohnSuユユー iVanDwight)の親友であった。その影響でボストンにはミケランジェロやラ ファエルに対する関心が広まり,またオールストンにしたかってイタリアに渡り OanovaやThorwamBenの指導を受けたニューイングランド画家は多い。

ピーポディも芸術観はオールストンから学んだと TheLaBtE▽eninRw1t

AユユBtonandOtherEBBayB(1886)の中ていっているか,オールスト

ンの芸術観によれば,芸術は”SpiritofMan”の表現であり,その目的は人 間を”theheavenユybeing”に高めることであった。したがって直感は悟性 や感覚の上にあるものであった。また「ダイアル」誌創刊号のMargaretFu-

ユユer,〃RecordofエmpreBBユonBProducedbytheExhibitionB o圭Mr.△ユユBton1BPic七ureB1ntheSummerorl85Wも,詩的 ならざる社会における詩的精神の重要性を強調し,アメリカにはそのための基盤が なく,ピューリタンの思考様式や産業社会的習慣がデリケートな情緒の育成に不向 きでお為にも拘らず,そうした中て芸術を達成し得たオールストンを賞賛している。

ピーボデイは,〃theinBpiratユonofaBentimentoranidea”

によって自然をうつすものを最高の芸術と考えたが,それはOo1eridge,Biog- raphicLiterariaから学んだものであった。また 」abe

文章ではピーポディは”aeBthetic”ということばを”deB1gnatingthat phaBeoゼhumanprogreBBwhichBubordinateB七heindividua1

tothegeneraユ,thathemayreappearonahigherpユaneof individuaユity〃と説明しいるか,これはのちにマシュー・アーノルドか

〃qreeks]pontaneityofconBcユouBneBB”と呼んだところのもので,

理性によって恒久的価値あるものを,そうでないものから識月|」するということであ

った。

このような考え方はフラーについてもいえることで,フラーは1840年7月の

『ダイアル」に発表した”ShortEBBayonOriticB”の中で批評家をBub- Jective,apprehenBive,comprehenBiveの三種に分類し,最後のタイプ の批評家を理想とした。フラーには,文学者たるもの”aDivine1dea”を伝 えなければならないという考えがあって,その点ではフィヒテやカーライルと共通 であった。つまり優れた芸術家は”anaユOgieBOfuniverse〃を認識し,ま た"anaDBoユuteprユncipユe”に立つものでなければならなかった。

AeBtheticPaperBに〃OriticiBm〃という文章を書いているウォード

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(Samue1GrayWard)は,急、速に商業文明化してゆく社会だけに,今こそ ギリシア精神力泌要だといい,ドワイト(JohnBuユユユvanDwight)の

”MuBic”も批評の基準をギリシア芸術の伝統に求め’ピューリタニズムのリゴ

リズムを克服するのは芸術の他にはないと説いている。それについてはピーポデイ やフラーも同様の意見をもっていたか,ピーポディのパンフレットTheArtiBt 型Q4-目-1二旦旦l2p-些旦些旦迫旦Z9bjec七匹△mericauEdLUcation

(1869)ては,古典時代に見られる芸術家と技術家の統合の理念か説かれている。

勿論,この種の考えはエマソンにも,そしてジョージ・リプリーにもあったが,ど ちらかといえば美的な問題としてよりは倫理的な問題として捉えられていた。しか し,トランセンデンタリスト達は,ギリシアやルネサンスの精神や芸術に近づくに つれて,プラトンやカントに対する興味は次第に失っていったようである。といっ て,すべてのトランセンデンクリスト達の考えか似ていたというのではなく,例え ばエマソンはフラーの芸術観を感傷的であるといって批難していZ、し,フラーの芸 術観が印象批評的であることはハウ(JuユユaWardHowe)も指摘している。

また0.P・クランチもエマソンと同じくラスキンのlJodernPainterBを愛読 し,イタリアで四年間ルネサンス芸術を学んだ。アメリカに芸術を育てる土壊のな いことを嘆きなからも,その宗教的な性格のゆえに,ルネサンス期の彫刻・絵画以 外のものにはあまり関心を示さなかった。

W、H・チャニングはオールストンからラファエル,ミクランジェロ,レオナルド について学び,16世紀イタリアの芸術・建築についてはかなり詳しいノートを作 っていた。1849年にヨーロッパに旅したクラーク(JameBFreemanCユar-

ke)もルネサンス芸術を学び,その印象的ながらも鋭い観察を”Literature andArt”に記録している。彼はフラーと違って,芸術を(文学のことばででは なく)芸術のことばで批評してい為。1869年にヨーロッパを訪れたジョージ・リ プリーは芸術の方面にはそれほど関心を示していないが,エマソンの芸術観に対し ては,哲学的教養に欠け,独創性がない,と批難している。セオドー・パーカの場 合は,やはりイタリアに渡っているか実用性という面に特に関心を示し,「ミクラ ンジェロよりはむしろフランクリンのような人間でありたい」という。つまり

〃TheユoveユiveBBofnobユeユife,--thatiBbeau七yintme Bightofmano全qod〃・こそ願わしいというのであるか,その意味では彼 もまたプラトン主義者であったというべきであろう。

このようにトランセンデンタリズムは,ピューリタン的ヘプライズムに古典的伝 統を混入し,19世紀ドイツ思想を通って,新たなるヘレニズム,新たなるヒュー

マニズムの珪想主義を生み出していった。

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この論文は,トランセンデンクリスト達かヨーロッパの芸術に触れながら,それ をどのように摂取し,アメリカ社会における芸術の位置づけをどのように考えよう

としたか,といった問題に対する一つの答を示そうとしている。それと同時に,多 くの同時代人たちが,当時のアメリカ社会かピューリタニズムのリゴリズムのため に,また急速な商業・産業の発展の波のために,芸術的教養をつちかうための基盤 を持たないことを強く不満に思っていた事実も指摘されていろ。エマソンとソーロ ウの芸術観には直接触れてはいないか,この論文からわれわれは,トランセンデン クリスト達の中にはヨーロッパの伝統を学び摂取することによってアメリカ精神の 中に新しい美の伝統の基盤を打ちたてようとした人たちと,エマソンやソーロウの ように,むしろアメリカの自然を通して新しい哲学と芸術の創造を目指そうとした 人たちのいたことを知るのである。そのように分けて考えてみても’エマソンとソ ーロウの自然観かちかうように,ヨーロッパの芸術的伝統をひたすら取入れようと した人たちの考えもまちまちで,互いに非難し合ったりさえもしている。芸術観と いう点だけからみても,トランセンデンクリストという一つのクループでまとめる のは不都合なほど多様な集団であったというべきであろうか。

Pau10.Wi11iamB,”ThePerBieienceofOranchlB泡noBiB,i

EmerBonSocユetyQuarter1y,57(1969),41~46

クランチの詩、nCSユB”は,詩を発表し始めて四年目の1840年7月の『ダイ アル』詩に載った初期作品の一つであり,同時にクランチのトランセンデンダルな 情熱の強かった時期のものである。『ダイアル』誌上に発表されたクランチの作品 は,この詩のほかに14篇の詩と5篇の散文かあるか,1842年頃にはクランチは もう絵に関心を移し,トランセンデンクリズムとも離れてゆく。そして結果的には クランチは”mnOBiB”の詩人として知られるようになった。だが,クランチ自身,

mnOB1B”のような初期の詩にはない詩的価値か後期の詩にはあると考えていた のは,正しいといえるであろう。しかし同時に,後期の作品か平板で装飾的で,初 期の詩に見られる輝きを欠いていることも認めなくてはならない。ところがクラン チは晩年,つまりトランセンテンタリズムかすでに過去の時代のものとなった頃に,

かえってエマソン的な思想に関心を示し,自分かトランセンテンクリズムの詩人で

あることを自ら認めていろ。

なるほどmnOBユB”をよく読んでみおと,トランセンテンクリズムの観念とイ メージか見事なバランスで捉えられている。冒頭のスタンザは思想よりも感情

(feeユing)の優位をうたい,その直感的認識の表現はワーズヮス的である。第 二スタンザから第四スタンザまでは人間的孤独の必然性をうたう。いわばロマン主

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義的憂愁であ沿・第四スタンザでは,よく使われるトランセンテンクリスト特有の,

光と闇のイメージか展開される。光と闇の分離,つまりこの両者の有機的統合の挫 折は,個人を弱体化きせ港。葬五スタンザでは,一時的ではかないものがうたわれ る。トランセンデンクリスト達は,自然を流動的なものと考えた。それゆえ,物体 の象徴の背後に有機的同質性を直感認識することによって,thephenomenaユ なものからthenoumenaユなものへ移行しなければならないと考えた。エマソン はNatureの中で自然を言語として捉えたか,クランチは,WhatiBBociaユ

company/ButababbユingBtream?/WhatourwiBephiユo- sophy/Butthegユancingo歪adream?とうたっている。

第六,第七のスタンザでは,この分離が克服される条件を示している。それは有 機的視点によみこと,内的霊感によることによっててある。クランチはこれを光と 雨のイメージの融合でうたう。エマソンの"Brahma”と似ていなくもない。

この詩はどちらかといえば明解であみため,かえって,歪められたトランセンテ ンタリズムだなどと誤解されてあきたので,やはりクランチの正しい理解のために は晩年の”TheWorkBhopandtheBronze”,〃SanBorondon”,

〃TwoViewBo至工t〃,〃ThePineBandtheSea”,〃Pennyro-

yaユ”,”TheBecederB”などの円熟した作品をも考えあわせるぺきであろ う。また目eta2(1874)なども非常に優れた作品である。

クランチは詩,絵画,散文,童話,音楽と多面的な才能に恵まれていた。決して 時代のリーダーではなかったが,その影響力は大きく,トランセンデンクリズムの 重要な要素であった。HenryJameB,WiユユiamWetmoreStoryand

HiBFriendB(1905)はそのことを的確にいいあてている-”……a painter,poet,muBician,mi1dandmeユanchoユyhumoriBt,

〔Oranch〕producedpicturedthattheAmericantraveユユer BometユmeBacquiredand1e江verBeBthat七heAmericancom-

piユerBometimeBincユudeB〃.

この論文はクランチの正しい評価をねらったもののようであるか,クランチ自身 か多面的な活動をしていたために,これまではいずれの分野においても,十分な研 究はなさオしたかったようでああ。この論文もクランチの詩人としての-面を取上げ ているにすぎず,この論文の結末で指摘されているように,もしクランチの同時代 に対する影響力か無視できないものであったとすれば,彼に対する研究はむしろ今 後を待たねばならないというべきであろう。その意味の問題提起をもこの論文はし

てい為のであろう。

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BernardRoBe二t、aユ, 〃The Dia1,TranBcendenta1iBm,and

MargaretFuユler〃,DngユユB1Lエ」anguagelL匹旦且,Ⅷ(1970),28~

56.

「ダイアル』誌を直ちにアメリカ・トランセンデンクリズムと結びつけて考える のは正しくたい。この雑誌の最初の二年間は,マーガレット・フラーが編集の実権 をにぎり,執筆量も異常に多かったので,トランセンデンタリズムの雑誌というよ

りはむしろマーガレット・フラーの個人雑誌だったのである。

これまでのフラーの伝記によると,彼女の執筆量の異常な多量は,編集の必裏【か らきたこととされているか,それは事実ではない。エマソンは相当量の原稿を用意 して持ち込んだか,にべもなくフラーにことわられていろ。ローエルもことわられ ているし,さらにソーロウの”Service:QuantieBortheRecruit"かことわ られたのは有名な話である。他にニューイングランドの牧師パーマー(mdwardPa1-

mer)もエマソンを通じて原稿を送ってことわられているか,エマソンは何度か自 分の意見の通らないことに失望をおぼえ,もっと寛大な雑誌になってほしいと訴え

ている。

フラーの編集のプレインはごくわずかで,buBinesBmanagerのジョージ・

リプリーのほかにはフラーの個人的な弟子たちだけであった。その上リプリーか最 初の年の9月にプルック・ファームの仕事で去ってしまうため,雑誌はほとんどフ

ラーの独走的編集によることになった。

エマソンを通して持込まれたパーマーの原稿は,意見を求めるためリプリーの手 に渡り,結果的には拒否されることになったか,この原稿には二つの論点かあった。

その一は,キリスト教も,ユダヤ教かそうであったように,次なるものに道を譲る ことになおであろう。その二は,私有財産制は人類最悪の不幸の根源である。こう した内容のゆえにこそエマソンは強力に推薦したのであった。

エマソンとフラーの最初の対立は1840年6月に起きている。創干1号に載鳥筈の エマソンの原稿かはずされたことを,エマソンは編集上のふとした手違いによるも のと理解してはいたか,ページ数か勝手に制限されたような印象に対しては不満を 抑え切れず,その点を訴えている(フラー宛,1840年6月21日付)。

さらに創干|」号が出ると,編集上の/Ni'かな点にわたって二人の間に書簡か交わさ;rし てい為か,この時点でエマソンは-で歩後退し,フラーの実権か確立したようである。

しかしエマソンは寛大な態度を示しても,例えばプロンソン・オールコットなどは 自分の腺稿〃DayBfromaDiary〃の拒絶を屈辱と感じ,烈しい怒りをフ ラーに書き送っている。もちろん,フラーの十分に気に入らない脱稿の載った例も あるか,そういう時は新人の育成という弁解かなされた。フラーの編集上のだいた

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いの基準は,romantictaユeB;eBBayBbyTheoorerarker;comn-

mentaryonartandmuSic;1iterarycriticiSm;discuSSion o企qermanユiteratureandthought,eSpeciaユユythatreユating toOoethe.といったものであった。パーカーを除けば大部分はフラーの執筆で 占められた。

三年目,つまり1842年の夏から1844年春の最終号に至る編集はエマソンの手 でなされ石ことになる。雑誌の性格は一変すみ。ゲーテおよびドイツ文学論は姿を 消し,ソーロウの手になる東洋哲学の選や古典の訳が載る。パーカーの原稿は少な くなり,CharユeSLane(オールコットのイギリスの友人)の社会批評が出ろ。

音楽評論に代って社会評論か載り,主としてnM.0.Fouier,JameSPier-

pontOreavesなどに関した話題か取り上げられみ。これから考えると,かつ てのフラーの物語などはいかにもロマンチック,知的,精神的で,トランセンデン クリズムとはあまり関係かなかったといわなければならない。

この論文は『ダイアル』の最初の二年間の編集実権をにぎっていたマーガレット・

フラーをめぐって,フラーと雑誌との関係を論じている訳であみか,ここに指摘さ れているような問題は,少くともこれまでのフラーの伝記にはなかったことである。

論者はここで,『ダイアル」誌の少くとも最初の二年間かトランセンデンクリズム と結びつかないことを主張す為のだが,もしそうだとすれば,フラーをトランセン デンクリストと考えてきたこれまでの定説にも反論していみことになる。「ダイア ル」に載った彼女の物語はともかく,彼女の評論もまたトランセンテンタリズムと 無縁であったといえ為かどうか,その点はまだ考え患余地かあるであろう。編集者 として独断的であったことと,思想家としての彼女の性格は,また別の視点に立っ て考えるべき問題かも知れない。

EUzabethA・MeeSe,〃IrranScendentaユエSm:TheMetaphySicS ortheTheme”,△mericanLiterature,47(1975),1~20.

トランセンテンクリズムを哲学・美学上の運動として捉える考え方は,しばらく おろそかにされてきた。トランセンデンクリストには宗教家,文学者,政治家,そ の三つを兼ねた人,そのどれにも属さない人などかいる。この運動を,どれか一つ に限定しないで,綜合的にメクフィジクスとして捉えない限り彼らの共通性を理解 することはできない。KennethBurke,”工,nye,Ay-mmerBonIs

EssayJNatu唖:ThoughtsonTheMachineryorTranscendence”

( TranSCendentaUSmandltsLegaCy,ed・byMyronSimonand

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ThorntonH・rarsons)はトランセンテンスということばを定義して”the buiユdingofterminiStic〔Symboユユc〕bridgewherebyone rea]mis江anscendedbybeingviewedユュキermSQ童area1m

`beyondit,〃.といっていZ、。自然界のものは,それに対応する精神界のもの との対応で見られ,それによって新い、次元の領域か倉U造されてゆく,これこそは トランセンデンクリスト達に共通すみメタフイジクスの精神構造ではなかったろう

か。

つまりトランセンテンクリズムは,認識者と対象とか交感によって啓示を作り出 す象徴的な思考方法で,それによって人間経験の限界か超越さ】れろ。現存在のレベ ルが高められ,一から多へ,値から普遍へ,主観から客観へ,ミクロコスムからマ クロコスムヘと自由に交感し,移行すお。このようなものは,なにも新しいことで はなく,むしろ人間の歴史と同じ位に古いものでお系か,具体的に身近な例を考え みとすれば,スウェーデンポルグの愛読者であったリード(SampSonReed)を 無視すみことはできない。

ObServationSontheClrowtho名theMind

SampSonReed, lま

エマソンの型atureより10年早く出てい鴇.アメリカ・トランセンデンタリズム の基調である交感の理念の形成に一役をになったこの本の中て,リードは認識にお ける想像力の役割と,精神の自然界への投入とを強調してい湯。物と精神の法則は 本来,関連しているもので,神聖な真理は無時間の超越的領域に属する。そこで過 去と未来は現在のうちに集約され,記憶と予想は意識の中で合体する。つまり永遠 はMindに属するということだ。

対象の内なる真理を認識すると,そのイメージは精神(mind)に形成される。

その際,意識は眼の働きを通して活動する。眼は"thePointatwhichthe unitedraySo壬theSunwithinandtheSunwithout,COnver-

geintoanexpressionofunity"である。この眼による瞬間的認識か 精神に浸透してゆくのであるから,精神は無意識的に真理を保有するのである。リ

ードのことばを引用していうと,精神は自然界に存在し,〃thesameBpirit whichgiveBUfetoeveryobdectbywhichitiBBurround-

ed,initveryun1tonwithnatureitwiユユcatchagユimp-

BeofitBeユ歪,UkethatoぜpriBtinebeautyunitedwith mnocenCe,atherownnativerountain”を感じているものだという。

リードの文芸観もやはりこれと同様で,詩は神の創造を人間的立場から類推した ものであった。つまり詩とは自然のイメージを使って真理を説明したもの,この世 界は神の鏡であった。想像力はDevineBeingと一致すみとき,創造となる。詩

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