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間接伝達的真理についての諸研究(I) : 真言に向けてのアナロジカルな解明

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〔依田女子短期大学紀要 第10集pp.1-25,1990〕

間接伝達的真理についての諸研究(I)

― 真 言 に 向 け て の ア ナ ロ ジ カ ル な 解 明 ―

清 水 茂 雄

Studien zur mittelbar-mitteilenden Wahrheit (I)

―Analogische Erklarung zu Shingon―

Shigeo SHIMIZU

間接伝達(mittelbareMitteilung)はキェルケゴー ルの哲学の核心を理解する上で重要な意義を もつ概念 の一つである. しか し,この概念は,単にキェルケゴー ルの思想にとって重要であるばかりではなく,一般に, いわゆる主体的真理に関わる思考にとっても重要であ ると考え られる. 間接伝達 とは,簡単に言えば,曲がった仕方で事柄 を伝達するということである.しか し,(Thelongest wayaboutistheshortestwayhome)という格 言 の言 うように, このような 「曲がって」伝える様式 こそかえって最 も真直 ぐな伝達を可能にしているので ある.一般に真理 とは何か個人的見解を超えた普遍的 ・ 客観的なものと考えられている故に,それを伝達する 際にも伝達者は主観を交えず正確にその内容を伝える ことが求め られる.それ故

,

「曲が った」 仕方で事柄 を伝達 しようとすることは, もしも伝達 されるべき真 理内容が普遍的 ・客観的である限 り,許 されないもの となろう.個人的見解を超えた真理を伝達する際には, 人 は 「間接伝達」を斥 けようとするだろう.或 る人が 真理を見出 したとすれば,その人にとってそれは確実 でなければならない. そして真理内容が確実であれば あるほど,それを 「曲がった」仕方で伝えねばならな い理由を見つけることができな くなるのである. たとえば,自然科学者が或 る理論を思いっき,そ し てすべてのデータがこの理論によって説明されること が実証された場合, この真理 はこの科学者にとって確 実なものとなり,普遍性と客観性がこれに付与される. そ して この真理を伝達 しようとする時には, この人 は で きるだけ正確に伝えようと努力す るだろう.誤解を 与えないように気を配 るだろう.そのような状況の下 で 「曲がった」仕方で伝達 しようとす る理由は全 くな いのである. もちろん,事柄が通常の説明の仕方では十分に伝え られないと判断された時には,工夫をこらして伝えね ばならない場合 もある.たとえば,微積分の概念を小 学生に直接に提示 したとしても理解 されないと判断さ れた場合.人 は段階的に教えてゆこうとす るだ ろう. しか し, この場合.そうした段階を経 た後,いざ微積 分の概念を示そうとする時には

,

「直接的 に」 伝達す るのであって,微積分の概念そのものの伝達に関 して 「曲が った」仕方で伝達 しているのではないのである. つまり, この場合,直接的に伝達す るために間接的手 段を工夫 したのであって,事柄 自身の伝達 は本質的に は 「曲がった」仕方 となってはいないのである. へ-ゲルは言葉について次のように述べている.「言 葉 は思想の所産であるが,言葉において もまた,およ そ普遍的でないようなものは何一つ言われえない.

1

)

つまり.およそ言葉によって伝達 されるものは普遍的 な ものであり,普遍性 と言葉とは切 り離 され得ない関 係にあるのである.そ して言葉が この よ うに普遍的な 事柄を伝達する役割を持 っているとみなされている限 り,その事柄を 「曲がった」仕方で伝達 しなければな らない理由はないと言える. それでは,伝達が 「曲が った」仕方で行なわれる場 合 とはどのような場合なのであろう.何 らかの意味で 伝達 されるべ き事柄の中に普遍性,客観性が欠 けてい -

(2)

1-飯田女子短期大学紀要 第10集(1990) る場合にそのような伝達が可能 となるのであろう.吃 ぜな ら,すでに述べたように,普遍的 ・客観的真理を 伝達する際には, とりたてて 「曲がった」仕方で伝え る必要 は認められないか らである.しか し, その事柄 は単 に普遍性が欠けているだけのことであろうか.ヘー ゲルの言 うように, もしも普遍性がないならば,おそ らく言葉による伝達 も不可能であり,間接伝達 もまた 不可能 となるように思われる.たとえば,全 く個人的 な感情については

,

「言葉にな らない」 などと言 われ る.伝達 されるべ き事柄の中に普遍的なものが 「欠け ている」場合に伝達 は 「曲がった」仕方になる, と言 われた時のこの 「欠 けている」 とは単に普遍性がない とい うことではないのである. 一体,へ-ゲルの言 うように言葉 は単 に普遍的なも のを伝えるだけの存在なのであろうか.生まれて間 も ない赤ちゃんが

,

「アア」 と言 う時, 我 々はそ こに何 かの言語の原初的形態 を感 じ取 る. 赤 ちゃんの この 「77」を通 して,我々は言葉の源を見 る思いがする. それは普遍的なもの以上の何かである.つまり,伝達 が 「曲が った」仕方 となり得 る可能性を もつのは,そ の伝達 によって伝え られるべき事柄に普遍性がないの ではな く,む しろそれ以上の ものがあるためと考える べ きである.では普遍性以上のその何かとは何であろ うか. 伝達 されるべ き事柄が主体的な性格を持っ場合.伝 達 は 「曲が った」仕方をとる理由を持っのである.つ まり,伝達 されるべ き真理が単に普遍性一色で色どら れているのではな く,そこに個的な色調が現われてい る限 り,間接伝達の必然性 も生 じて くるのであ る. 伝 達 される事柄の中に, このような個的なものが介在 し て来 る時には,ヘーゲルが

,

「言葉 はただ普遍者だけ を表現する」 と語 りつつ,彼自身が表現 しようとした 普遍的真理 と言葉の役割 との問に問題性を見なか った 場合 とは別 の事情が生 じて来 る.つまり,普遍者を表 現する言責を使 って,普遍的ならざる事柄を伝達する 時に生 じる問題性が立 ち現われて くるのであ る.言葉 が 「表現」のために存在 しているところから

,

「伝達」 のために存在することへと移行する場合,そこには一 つの問題性が生 じて くるのである. もちろん

,

「個」 といって も, た とえば.私 という 個 は天 にも地にも唯一の ものであるが,その個がまた 普遍的で もあるということもある.つまり,すべての 私以外の 「私」 も私 と同一形式の自我の普遍性をもっ ている.従 って,そういった意味からすれば,主体的 真理 といえどもやはり普遍者を表現する言葉を使って 伝達 されえる, と考え られ もしよう.だが, このよう にとらえられた 「個」 は,やはり何 といって も 「考え られた」ない しは

,

「考え られ る限 りでの」個 であ っ て真の意味での個ではないと批判 されることもできる. 実際,ヘーゲルを批判 したキェルケゴールの思想は, 普遍にどのように して も摂せ られない個 の真理の立場 に立 って展開されたものであり,それ故 ,彼の思想 そ の ものの中に伝達の問題性が現われることがで きたの である.つまり,キェルケゴール自身の把握 している 事柄を伝達するに際 して,それを 「どのように表現す べきか」 と・いう単純な問題以上の問題が,まさにその 事柄が主休的性格を持つ故に,登場 して くるのである. そ して こうした問題性は,結局,問題性 のある伝達を 行なうということになり, このことは反省を生 じさせ る.それ故,キェルケゴールの思想が真 に主体的なも のに定位する限 り,そこにはおのれの思想 を伝達す る ことの可能性 と方法に閲 し,反省を行なわざるを得な い必然性が生 じて くるのである. しか し,個の真理,ない しは主体的真理は,全 く普 遍性を持たないとも言えない. というの も,主体的真 理 といえども何 らかの形でみずか らを伝達 しようとす るのであり.そのような意味では,一種 の普遍性を持 つと考えられるか らである. もちろん,この場合には, 普遍 は

,

「表現 されるべきもの」ではな く,「伝達 され るべきもの」 という特徴を持つ. たとえば,最 も主体的な真理を語 っていると考え ら れている次のような言責は,ヘーゲルの 「言葉 はただ 普遍者だけを表現す る」 という領域を超え出ていると は思えない.「弥陀の五劫思惟の願 をよ くよ く案ずれ ば,ひとへに親鷲一人がためな りけり.」2)すなわち, 「本殿」が 「菓昆鷲一人がため」である事は, また他の個 別者において も成立することとして,その意味で普遍 者が上の引用においては表現されているのであ る. それでは次の言葉 はどうであろうか. 「見 よ.一 に して単純であり給 う神にしてはじめてこの-なるもの, 私が魂 の内 なる城 と呼ぶ ところに入 り給 うので あ る.」3)このエックハル トの言葉 は一種の メタファー と考え られ,必ず しも親鷲の言葉 と同じ性格を持つ も のではないが, メタファーによって指示 されている事 柄 は

,

「言葉はただ普遍者のみを表現する」という命題 では収 まり切れないものを含んでいると考えられるの

(3)

-2-清水(読):間接伝達的真理についての諸研究(I) である. こうしたメタファーで指示 され る事柄 は, 他の個別者にもその通 り起 こるという意味での普遍性 を持っているのではな く, その点 で先 の親鷲 の言 糞 とは異なる言葉の出所 となってい るのである. エ ッ クハル トの言葉がある象徴性を持つのは,伝達 される べ き事柄が真の意味で主体的なものとなっているか ら である. ところで,上記のエ ック-ル トの言葉 も,何 らかの 意味で伝達 している以上,そこには親鷲の言葉 とは異 なる意味での普遍があると考えられる.主体的真理の 伝達に関 して措定せ られるこのような普遍性は,その 真理の伝達 を特徴付ける根拠 となるものであり,単 に 伝達内容の本質を特徴づけるだけでなく,伝達 その も のを本質的に規定するものである. ところで,個的真理,主体的真理が伝達 され るべ き ものとなることは何故に可能なのかという問題 につい てキェルケゴールも触れている.彼は恋愛の場合に例 をとって説明 している.或 る女性に愛情を抱いている 男性がこの愛情を内面性の問題 として大切にしている 時,そこでなお恋人に自分の愛情を伝えたいとすると, その時には直接的な伝達は不可能である, とキェルケ ゴールは述べている.つまり,内面に引きとどめてお くべき愛情 も,やはり外に対 して伝え られることを求 める本性があるというわけである. ここでは,内面的 な愛情を持 っているというそのことを恋人に知 って も らいたいわけであり, この場合,伝達 とは 「理解され ること」を求める行為 という意味を もつ.従 ってこう いう場合には,直接的に愛を打ち明けることはできな くなるのである.だが, このような例示的説明によっ ては,主体的真理が伝達されるべ きものである根拠を 十分に明 らかにしえたとは言えないだろう.個的真理 が伝達 され るということの背後には,なん らかの意味 での普遍性がなければならない. もしそうでなければ, 全 く単なる個人的な感情 と区別されな くなるであろう か ら. しか しこの普遍性は,言語によって表現 される ような普遍性ではな く,む しろ伝達の様式を本質的に 規定す るようなものと考えるべきである. この二つの 区別は,上記の親鷲の言葉 とエックハル トの言葉の差 違 として 「感 じとって」 もらいたい. どちらも一種の リアリティがあるのだが, エックハル トの言葉にはそ の底に一つのアンリア リティが顔をのぞか してい る. メタファー的性格 は,単に伝達内容を修辞的に表現 し たために出てきたのではな く,伝達内容その ものが根 拠 となって出現 して きたのである. このように 「言責 は普遍者を表現す る」 という命題 が成立 している立場 (表現的な場) とは別の立場 (伝 達的な場)に立 って この場所に属する論理を明 らかに しようとする試みが この小論を含めた諸研究の課題で あり, こうした諸研究が明 らかにするその 「伝達的な 場」を我々は, とりあえず 「間接伝達的真理」 と呼ぶ ことにす る.4)こうした 「伝達的な場」 に立 った この 場所の解明自身.普遍者の表現ではないのであり,一 種のア ンリア リティを有するものとな っていなければ な らない,(このことは,後で明 らかにされ るよ うに, 詩性を持つということである. ただ し,文学作品にな るということではまった くない.)そのような理 由で ●●● 「間接伝達的真理」の解明 (ときあか し) は詩作的 と ならざるを得ない宿命にあり,以下の論述 も単なる客 観的事実の報告とか,普遍的真理の表現 という意味を 本質的には持たない.(ただ し,何度 も繰返 して言 う がこれは創作では全 くない.創造的ではあるが.) さて,間接伝達的真理 は,主体的真理 と関係 し, し か もそれの伝達の様式を決定する根拠 自身であること を示 したが, そのことは, この真理が,言葉によって 表現され得 る普遍性を持つのではな く.む しろそれ自 身が 「言葉」の出生地になっているという意味での普 遍性を持 っていることと受け取 ることがで きる. この 場合,注意すべきことは, この真理が,伝達の本質を 規定するといって も.それは,表現の仕方を決定する ということではないということ,つまり,言葉の使い 方 とか修辞法 といった表現の仕方を決 めるということ ではないということである.そのような理由で,間接 伝達的真理 は

,

「伝達的真理」なのである.すなわ ち, 間接伝達的真理は,一方で,主体的真理の本性を もつ 故に,キェルケゴールの 「間接伝達」の思想に適合 し た伝達様式を取 り, それ故

.

「間接伝達的」 であ ると ともに,他方, こうした伝達様式の根拠そのものであ り,従 って

,

「伝達」において真理 は真理 と しと存在 しているが故 に

,

「伝達的真理」なのである.

1

.

間接伝達的真理 の「伝達」のアナ ロジカ

ルな解明と真言について

緒言で示 しておいたように,間接伝達的真理 は伝達 的真理であり,みずか らの伝達の根拠で もある. その ことは, この真理 は,みずか らの伝達のいわれとなっ

(4)

-3-飯田女子短期大学紀要 第

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)

ているのであり, この伝達にとっての存在理由であり, 従 って, この伝達のいわれを解明できるということを 意味する.つまり,伝達的真理 は, いっでもみずか ら の伝達の 「何故に」を語 ることがで きるし,また語 ら ざるを得ないわけである.それ故.間接伝達的真理は みずか らの伝達を解明する.間接伝達的真理 は,みず か らが伝え られねばな らぬ 「何故」を知 っているので あ り, しか もこの 「何故」を伝達す ることができるの である. しか し, もちろん, この 「何故」の伝達 も間 接伝達的になされねばならないが,それは,伝達者が 伝達的な場 に立脚する限 り,可能 となっていなければ な らない. このように,伝達的真理 が

,

「伝達」 のい われ となっていて, このいわれを語 る場合, それ は, 間接伝達的真理の 「伝達すること」の解明であり,我々 は, これを間接伝達論 と名付けるべ きと考える. しか もこの解明は,一つの詩作 となっているのであり.そ れ故,一種のアンリア リティを持つ. このようになさ れる間接伝達論は,従 って,それ自身が,間接伝達的 真理 の解 明の一端 とな って いるのである. つ ま り, 「間接伝達論」は,間接伝達的真理 の本質的 な表現で ある.「間接伝達論」は,間接伝達的真理の 「伝達」を 解明することで, これの表現 となっている. さて,間接伝達的真理は,それ自身,おのれの伝達 のいわれとなっていて,それ故に, この伝達を解明す る. このことは, このいわれを語 り出すということで あり, この出来事 は,言語の事柄 となると考え られ, 我々は, このようにして出現 した言葉を 「真言」 と呼 ぶ.「真言」 は. それ故

,

「間接伝達論」を出生 す る 「初めの言葉」である. また,逆に

,

「間接伝達論」は 真言 の展開 となっている.「真言」は.間接伝達的真理 が

,

「伝達的真理」である故に生まれたこの真理のいわ ば 「息子」であり, この真理 と同格的である.間接伝 達論 は, このように,真言を秘めているのであり, こ うした秘め られた真言 を探 し出す ことが,逆に言えば, 間接伝達論の意義になる. また,間接伝達論的諸概念 の概念性は,真言的と呼ばれるべ きである. ところで, ここで注意 しなければな らない ことは, 「真言」はある特定の宗教,つまり, 真言密教 におけ る根本概念 としての 「真言」 とは区別 されねばな らな いということである.後の論の展開によって.我々の 「真言」の特徴が,密教の 「真言」 と似て くる場 合 も あるか もしれぬが,それは.密教か ら教えられたゆえ ではな く,我々の 「真言」の解明によって必然的に生 じてきた帰結であるにすぎない. もっとも,真言密教 の 「真言」の存在論的な存在可能性,つまり. そもそ も宗教の中に真言が存在できるのは何故なのか という 問題を考えるならば,我々の 「真言」は伝達的真理の 中に真言が生 じて くる必然性 において見出されてきた のであるか ら,密教の 「真言」 と関係す る可能性があ るか もしれない. このような意味での真言 は,間接伝達的真理の 「伝 達すること」を解明す るこの真理自身か ら出て きた一 つの出来事 として,直接的伝達の要素を全く持たない. その意味で 「孤立的」であるが,だか らといって,全 く謎の言葉にとどまるというものではない. というの ち,真言 は,根源的な言葉の出来事だか らである.そ れは,みずか らの言葉の出来事を通 じて, この出来事 のいわれを伝達するか らである.つまり.言葉がおの れの出生の秘密を語 るという事が生 じているのである. ところで,通常の言葉 は,それ自身の出生の理由をそ れ自身が伝えているのではない.「この花 は赤い.」 と いう言葉において

,

「赤 い」も「花」も, 更 には こうし た単語を結んだ文 も, これ らの言葉自身の出生の理由 を語 っているわけではない.言葉はただ使われている だけであり,誰 もその言葉の生 まれたわけを聞 こうと はしない. もちろん たとえば.(Beispiel)という言 葉の語源は何かと問 うことはで きる. しか し, この場 合 も言葉 はまだその本当の出生の秘密を明かに してい るわけではな く.使われているのであり,使い古 され ているのである. しか し,言葉はその中に真言を秘めている.それ故, 言葉の中にあるこうした真言を聞き出す ことは可能で ある.使 い古 されて,使われるだけの言葉の中に,真 言を聞 き出す ことは, この言葉が本来伝えようとした 事を伝達 し, これを解明することであり.同時にそれ は, この使い古 された言葉を解釈することに相当する. つまり

,

「解釈」は,間接伝達論的には

,

「真言への道」 である. ところで,真言は,間接伝達的真理の伝達のいわれ を語 るのであって,すべての言葉の底にあるものとは いえないと考え られよう. しか し.言葉 の出来事 は, 伝達の出来事であり,言糞が単 に使用されるものでは な く,言葉が起 きているそのことに注E]すれば,それ は.伝達的真理の伝達 となっていること,従 って,そ れの伝達することについて も語 り出 していることを認 めることがで きるだろう.

(5)

-4-清水(茂):間接伝達的真理についての諸研究(I) さて,以上のことを確認 した上で,次に,キェルケ ゴールの間接伝達論 と間接伝達的真理の解明とがどの ように結びつ くかを論 じる. すでに述べたように,間接伝達的真理は,自分の伝 達 を解明する. これが最 も本来的な意味での 「間接伝 達論」であり,真言が語 り出される. しか し,言葉に 秘 められた真言が聞 き出されて いない場合 には

,

「真 言への途上にある間接伝達論」は存在可能である.我々 はこうした途上的間接伝達論をアナロジカルな性格を 持っものと考える. こうした,真言への途上にある間 接伝達論 も,間接伝達的真理の一つの解明になってい るのであるが,ただ し,それは 「アナロジカルな解明」 となっているのでなければならない.キェルケゴール の間接伝達論 は,間接伝達的真理のアナロジカルな解 明 ともなっているのであ り,そ こには,隠れた真言が 探 し出せるのである.そ してそのことは,すでに述べ たように

,

「解釈

,つまり,キェルケゴールの間接伝 達論を解釈することに相当するのである. ところで

,

「真言への途上にあ る」 言語 は, 本来的 にアナロジーである.中世哲学 においてアナロジーは.

(

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)

として存在論の中核を成す概念 に 関与 していることはよく知 られている.エ ックハル ト もまたその存在論においてアナロギアの考えを取 り入 れている.そ して,それは神と披造物の存在関係の説 明 に使用 される. 「事物がアナロギア (琉比)の関係にある場合,一方 の類比物に存するものは,本質的に他方の類比物にお いては存 していないのである.例えば,健康 は本質的 にはただ生物にのみ存するのであって,食物や尿の中 には存 しないこと,石の うちに健康がないのと同様で ある.か くして,原因によってひきお こされたすべて の ものは本質的に存在するものである故に,その原因 である神は本質的に存在すろものではあり得ない.

5

)

エックハル トによると,原因 とその原因によって生 じた結果の関係はアナロジカルな関係にあると言われ る.たとえば,神が披造物を創造する際には, まず神 の言葉が出生 し, この言葉に基づいて披造物が創 り出 される.それはちょうど家を造 る人が精神の中に家の 観念を抱 き, これに基づいて家の形姿を創 り出 してゆ くにも似ている.出来上がった家の形の中には観念 は 存在しない (観念は頭の中にある)が, その観念 に応 じて形姿 (形相)は存在 しているのである.家 の形 は 観念のいわば反映であり. こうした関係はアナロジカ ルな関係 と言われ るのである. ところで こうした関係が存する時, たとえば.ある 人がある建築を見て, この建築物の原因,なぜ このよ うな存在が出来たのかを知 ろうとしたとすれば,その 人 は,建築家の元の観念を知ることによってそれをか なえることができよう.事物の形相か ら事物の原因を 認識するとは, このように,概念を得 ることに相当す るのである. 間接伝達論の場合 も同様なのであるが, しか し,そ こでは概念を得 るということが目的とされているので はない.建築物の場合であれば. その建て物の形がな ぜそうであるかは,建築家の精神の中にある観念,つ まり概念を知れば了解 される. しか し,間接伝達論 に ついては, なぜそれがそのような形 (論理的形姿 と考 えて もらいたい)であるのかは,伝達的真理そのもの を得 ることによって しか明 らかにな らない.ところが. 伝達的真理 は 「伝達的」である故 に, ただ同 じ間接伝 達によっておのれを現わす しかないのである.つまり, 真言を語 るのである. それ故, もし何 らかの言語現象 が,間接伝達的,あるいは間接伝達論 的であ るな ら, それは,真言によって 「解釈」 される.我々は. この ような 「解釈」を特に

,

「転法華的解釈」 と呼ぶ. こ れに対 し,先の建築の例の場合のように,形相か らそ の概念をつかんでその形相の存在原因を認識するよう な一種の解釈

「法華転的解釈」 と呼ぶ. キェルケゴールの間接伝達論は,主体的真理の伝達 の本質を解明 しているのであり,同 じく最 も主体的な 本質を もつ,間接伝達的真理の間接伝達論とアナロジ カルな関係 にある.従 って,我々は, キェルケゴール の間接伝達論を 「転法華的解釈」できるのであり, ま たそうしなければ矛盾を生 じて しまうのである. とい うのも,間接伝達 とは何かをその原因において,概念 的に認識 したとすれば,そこでは直接的に理解 されて いるのであり,従 って本質的に直接伝達可能 であ る. しか し.間接伝達 とは何かを直接伝達するということ は,矛盾を引き起 こす ことになるか らである. ところで,すでに述べたように,間接伝達論 は,本 来的に,その存在可能性の根拠を もつのであ り,それ 故,現実的に存在することは可能である.我々は,キェ ルケゴールの間接伝達論が,本質的には,その存在可 能性の根拠を持ち,それは彼の立場が徹底的な主体的 真理に根ざ していたことと深 く関係す ると考えるので ある. もちろん,彼の立場には.一つの途上性がある -

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のであり.そのため,その間接伝達論 も,アナロジカ ルな性格を本質的に持 っていると考えなければな らな い.彼の間接伝達論 は,真言への途上 にあるもの とし て,間接伝達的真理の 「アナロジカルな解明」を して いるのであり,我々はそれを 「転法華的解釈」するべ きなのである.そしてそれ こそ,キェルケゴールの間 接伝達論を,直接的伝達するという矛盾を犯す ことな く,理解 し,解釈する唯一の根拠付けられた道なので ある. ところで, もし上記のようであるとすると,間接伝 達論 とは,わか らないことを,わか らない言葉で置き かえるにすぎないのではないか という疑問が提出され るか もしれない.なるほど, このよ うな事態 は

,

「密 教的」である. しか し,真言は.「伝達的」真理 に属 す る出来事であり,本来的には,最 も 「伝達的」なの である. ドイツ語の(mitteilen)が(nit), つ まり 「共 に」 と(teilen),つまり 「分 ける」 か ら成 るよう に.伝達 とは

,

「共に分かちあ う」 ことで もあ り. そ の意味で,真言 は,最 もよく 「共に分かちあう」 こと か ら出て きていると考え られるのである. さて.真言に関 して,いわば定義のようなものを述 べたが,真言の存在根拠については,それを語 るとい うことが,間接伝達的になるため,存在論的な規定性 においては出来ない. しか し,真言 は,伝達的真理の 「伝達」を解明 しているのであり,間接伝達論 的な存 在の出生 の地盤 となっている.つまり,真言は,間接 伝達論的なロゴスの場の存在を出生する.我々は, こ うして開かれた間接伝達論的な領域が思考の最 も固有 な所在の場所 と考える.思考はそれ故,本来的に,間 接伝達的真理の解明をす ることをおのれの自然本性 (natura)とする.思考の 「存在」の意味は, このよ うに,間接伝達論的に明かされる. 一般に我々は,存在論的立場から,存在のいわれを 記述 しようとす る道をとる限 り,そこには,間接伝達 論的な領域が待 っていると考える.つまり,真言が語 り出されなければな らな くなる. このように,事物を 思考によって,解明 し,解釈す る場合,最後的に開か れて くる間接伝達論的な領域を 「言 (こと)が ら」 と 名付けることにする.つまり,思考は, ここでは,事 象を思考するのでな く,思考することで,言が らを営 むのである.思考が何 らかの意味で 「論的」な性質を もや ・ .しか も本質的に言葉 と関わるの も・それがその 自然本性 (っまりその出生のところ)において言がら を営むが故 と考え られる.その場合,思考は,一種の 詩作 となり.アンリア リティを生 じさせねばならない. そ して,思考が事象を思考することから,言が らを営 むようにな り, アンリアリティを得 るよ うになること も ア ンリア リゼーシ ョン(unrealization)と呼ぶ ことにする.6) もちろん,思考が言が らを営むようになり,真言を 語 るようになるには.それが,主体的真理である間接 伝達的真理の解明になっていることでもある故に,忠 考する主体の言が らへの還元が必要であ る. 従 って, アンリア リゼーションは,一つの実存的運動 となって いなければならない.真言への道,間接伝達的真理の アナロジカルな解明は,思考のアンリア リゼーション の道であり,実存的運動の下でなされるのである.

2

.

キ ェルケゴールの間接伝達論 の解釈 を

通 しての間接伝達的真理の解 明

A.間接伝達論的概念としての 「

二重の伝達」

と「

秘密」

すでに示 したように,間接伝達的真理 は,伝達的真 理であ り,伝達す ることにおいて真理となっている. つまり,伝達す ることがこの真理 自身の存在そのもの である.そ して.伝達的真理 としてのこの真理は, 自 分のその「伝達すること」の根拠も 伝達することで解 明するのである.そこに,間接伝達論的 な出来事が出 現する理由があり.そのことは,そこに省(reflexion) が生誕するということを意味する.我々 はこうした省 の出来事を言語現象ととらえる限 り,これを真言 と名 付けたのであった.従 って,間接伝達論 は真言が語 ら れているということを示す ものである. さて,間接伝達論が

,

「省」という本質 を持つという ことは,アナロジカルな間接伝達論において も,アナ ロジカルに妥当する.主体的真理が真に存在 している 限 り, そこには,みずか らの伝達を反省する必然性が 働いていると考え られる.そ して こうした反省を提示 する限 り,それは伝達論として記述 され るのである. たとえば. キェルケゴールの思想 も,その中には,伝 達の仕方への内省が組みこまれている. そして,エ ッ クハル トの教説の中にも,常 に自分の語 る言葉への反 省が入 っているのである. こうした反省 は,たとえば, 言語哲学 というような,言語を思考の対象として取 り 扱おうとす る場合における反省 とか,言語に関する問

(7)

-6-清水(読):間接伝達的真理についての諸研究(Ⅰ) 題をみずか らの哲学の一部門として考察する場合の反 省などとは,質を異にしている.それは,みずか らの 思想を展開する時の伝達の仕方への反省となっている のであり, この思想の内容 と本質的に関係する.そし てこの場合.注意すべきことは, この反省が当の真理 から必然的に出ているという点である.つまりこの真 理は,その伝達への反省を必ず伴なうのであり,その 意味で, この真理は,その伝達に関 しては,反省にお いて成立 しているとも言える. こうした意味では,こ の真理は,何 らかの意味で

,

「曲がっている」 ない し は,曲転 している. このように,思考が主体的思考になり,アンリアリ ゼーションへと道をとるようになる時には,一種の曲 転 した言葉が語 り出されねばならないと考え られ,こ のことは.言語の質に変化が生 じるということを意味 する.つまり.言葉が曲事云する言葉として存在 し始め ることによって,言葉は,真言的性格を持ち始めるの である. 以上のように,間接伝達論は,反省的な性格を持つ ことが理解されたと思 うが, このことは, この反省的 性格が偶然的ではなく,必然的であるが故に,みずか らが語り出そうとする真理の伝達が一つの問題性を持 ち始めるということを意味する.つまり, この伝達に 関 しては,何 らかの形で反省的に解明される必要があ ることを伝達者は感 じ,問題性を見出すのである. しかし,何故に,みずか らが認識 している真理を言 語によって伝達 しようとする時.その伝達を反省的に 解明しようとするのかは,真言への途上にある伝達者 の立場か らは明 らかにされることはない。だが,たと え途上にあるといって も,伝達するということに問題 性があることを認識 している伝達者は,主体的真理を 伝達 しようとしていることに変わりないのである.そ して,こうした真言への途上にある間接伝達論は,ア ナロジカルに,間接伝達的真理の伝達を解明 している のであり, このような立場に立 った間接伝達論は.自 からの伝達を 「説明」する.というのも,この論には 根拠が欠けるからである.真言への途上にある間接伝 達論は.本質的に学問的根拠を欠 き, 説明的 になる. そして,そうした説明に根拠を与え, これを体系的に 明らかに しようとすることは,すでに述べたように, 「間接伝達論を直接伝達する」 という矛盾に直面する ことになる. しかし,間接伝達論そのものには根拠は あるのであり,間接伝達的真理がまさにそれなのであ る. 従って,キェルケゴールの間接伝達論は,その立場 か らの特徴としては,第-に,反省的であること,第 二に.説明的,つまり根拠付けによる解明のできない という意味で非学問的であることという性格 を持つ. もちろん,だからといって,彼の間接伝達論は単なる 意見であるのではなく,実存論的に根拠付けられるべ きものである.そして,一般に.実存の立場の実存論 的可能性の根拠については,ハイデッガーの問題領域 になると考え られる.実存が実存論的に論 じられ得る 可能性があると洞察 した点で,ハイデッガーは実存の 立場を超越する地平を見出しているのである.そして, その地平は,間接伝達論的な境で もある. さて,キェルケゴールの間接伝達の思想は彼の著作 活動と関係 し.そ してその活動の動向と彼自身の宗教 的経験 とは重 なり合 っている. キ ェルケゴールは. r著作家 としての私の活動について」の中でみずか ら の著作活動とその活動の主体の主体的消息 との間の関 係について次のように書いている. 「自然精通者が網の中の糸の交差か ら, ただちにど のような芸術通の小動物がそこにいるか,何 ものの網 であるかを認識するように,洞察力のある人は, この 著作には,原著者 として一人の人が属 し, この人は著 作家としての固有性において

,

「唯一つの ものを欲 し ていた」ということを認識する

.

7

)

そしてこの箇所に引き続いて, この 「一つの もの」 について,それが 「宗教的なもの」(dasReligiblse) であり,反省(Reflexion)に入れ られるべ き もので あること,そ して,この反省を通 して

,

「愚」(Einfalt) へと取 り戻されるべきものであることが示されている. 従 って

,

「鋭い洞察者」は. この著作家の著作活動 は 道であり

,

「愚へと到達すること,そこへと書 くこと」 であるとみなすであろう.と言われている. すなわち,キェルケゴールの著作活動の全休を動か していたものは

,

「宗教的なもの」であ り, そ してそ れは反省を通 じて愚へと到る一つの運動を行なうこと が示されている.彼によれば, こうした宗教的なもの の運動はそのままそれの伝達をも特徴付けるのであり, 反省 という過程 に対応す る伝達 の様式 も反 省的 な ものとなる.そしてこれがキェルケゴールの言 うとこ ろの 「間接伝達」に他な らない.彼 は盲のような意味 での特徴的な伝達の本質を次のように簡潔に述べてい る.

(8)

-7-鎌田女子短期大学紀要 第10集(1990) 「

r

反省における伝達

J

とは,真理へあざむき入れ る こと(hineimi ・uschenindasWahre)である.」8) 更に同書の中でキェルケゴールは,宗教的なるもの が反省の運動か ら再び単純性を取 り戻 し,愚へ と至 る と,そ こで伝達 は.今度 は 「直接伝達」(unmittelbare Mitteilung)になると言 っている. それ故. キェルケゴールの著作活動を通 じて底辺 と なっていた 「宗教的なもの」が反省に置 き入れ られる 限 り, そこでの伝達が間接伝達 とな り,その反省が終 わって再び単純性が取 り戻された場合には,間接伝達 も姿を消す と受け取 らなければならない.そしてその 場合,間接伝達 とは過渡的なものであったと解 される. 実際,同書の中で彼 は次のような言葉を語っている. 「この運動 (反省)は愚へ と到達 したのであるか ら, 伝達はおそかれはやかれ直接伝達の もとに終わ らなけ ればな らない.」9) キェルケゴールの立場 においては, こうした考えは 一貫性を持 っていたものと考え られる. このことを明 らかにするため,簡単にいわば図解的に彼の 「間接伝 達」について説明 してお く. ただ し,彼の間接伝達論 についての論究は後で十分に扱いたい. キェルケゴールにとっての最大の関心 は,キ リス ト 者 として生 きるということであった.しか し,彼の ま わ りには,むしろ数多 くのキ リス ト教徒がいる. とこ ろが彼等は真にキ リス ト者ではない.彼等 は,何 らか の錯覚 の中にある.そのような状況の中で,真 のキ リ ス ト教 を示すには,直接的に語 って もむだであ る.自 分 も同 じ立場に立 ちなが ら, ちょうど家の中に友人 と して変装 しなが ら入 りこみ,その家の中の家財 を盗 み とるどろばうのよ うに,相手の錯覚を破 り,これを奪 い取 らなくてはな らない. これが彼のとった伝達の仕 方である. このような伝達の仕方においては,伝達者 は,自分の立場か らいったん離れ,伝達の相手 の立場 に変装 して立たなければならない.そこに

,

「真理へあ ざむき入れる」 という言糞が語 られる理由がある. だが,そのようにして伝達の相手の錯覚を破 った後 では. もはや間接伝達によってその人に伝達す る必要 は全 くない.故に,直接伝達がいずれなされねばな ら ないのである. 我々の間接伝達的真理の場合には,錯覚 しているの は,キ リス ト者ではないキ リス ト教徒ではなく,言葉 の中に在 る存在者であり,錯覚が破れるとは,言下の 消息 (言葉の下) に気付 くということである.言下の 事 について伝達するには,言葉の中にいわば変装 して 人 らねばな らない (なぜな ら,言下のことは言葉では ないのだか ら). このように変装 して入 って きた言葉 の世界において,そこの家財をうばい取 ることで,言 下のことが伝達 されるのである.単に言葉の世界に言 下のことが 「表現」 されるだけでは,言下のことは満 足 しないはずである.むしろ言下のことは言下のこと を 「伝達」 しなければならないはずである.そしてそ の場合には,キェルケゴールの間接伝達のように伝達 するのがこの言下のことの必然である.一般に, もし も真の意味で離言が経験 されるな ら,そこでは,表現 ●● よりも上述の意味での伝達が主眼となる.故にその場 合 には,間接伝達的な伝達が現われなければならない. (これが,私がエックハル トの言語が間接伝達的性格 を持つと言 う理由の一つである. なぜな ら,エックハ ル トは,神 は一切の言葉を超えていると述べているか らであり, しか もエック-ル トはその神 との合一を説 くか らである.) なお.「真理へあざむき入れる」 に関 して, 更 によ り理解 しやすい説明のために,法華経の r響喰品」の 有名な 「三界火宅のたとえ」を示 してお く. 我々衆生 は, ちょうど燃えさかる家の中にいなが ら それに気付 くことなく玩具に興 じているこどもに似て いる. これを観た父親がこどもたちを火宅か ら脱出さ せるため, こどもたちの気 に入 りそうな三つの車を示 し,それを与えるか ら家か ら出て くるように呼ぶ. こ どもたちはこの誘いに乗 っ′て火宅から脱れ出る.する と父親はこども達に約束の三車を与えず一つの大草を 与える. 以上が 「火宅のたとえ」の大略であるが, ここでは 一つの 「あざむき」が行なわれている.つまり,父親 (如来)はこどもたち (衆生)に三つの車を与え ると約 束 しておきなが ら,それとは別の ものを与えるか らで ある.言下の消息の伝達において も, このような意味 での 「あざむき」が看取 される. しか し,それがどう いう意味の 「あざむき」であるかを概念的に論 じよう とす ると,それは間接伝達論的な解明ということにな るのである. さて,キェルケゴールの間接伝達が

,

「反省 におけ る伝達」であることが示 されたのであるが, 一体, 「反省」 とはどのような ものとして とらえ られている のであろうか. キェルケゴールの考えている 「反省」 とは,より厳 -

(9)

8-清水(読):間接伝達的真理についての諸研究(Ⅰ) 密に言うな ら

,

「二重 の反省

」(

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と 呼ばれているものである.彼は次のようにこれを説明 している. 「内面性の反省 は,主体的思考家の二重の反省であ る.思考 しつつ彼 は普遍的なものを思考する.しかし. この思考の中に実存 し,そ してそれを彼の内面性にお いて獲得するものとして,彼はますます主体的に孤立 する

.

1

0

)

ここには言外にヘーゲル哲学への批判が聞 こえて く るが

,

「反省」 とは我々が通常考 えてい るよ うな悟性 的反省 (思考における反省)ではないことが示 されて いる.悟性的反省 においては. その反省によって反省 する主体が存在を獲得するということはない.しかし, キェルケゴールの 「反省」においては,反省において 存在が獲得されるのである. ところで.

r

哲学的断片」で言われているように,主 休性 は真理であるとともに非真理で もある. 従 って, 二重の反省において主体 として実存 し始める思考者は, 非真理を自覚するようになる.そ して,非真理 とは罪 のことなのであるか ら,主体的思考家は,二重の反省 においてみずか らの罪性を自覚するのでなければなら ない.キェルケゴールの言 うところの 「反省」 とは. このような意味での反省であり,悟性的反省を しなが ら,それ とともにその悟性的反省を している当の思考 する主体の非真理性を反省する,その意味で 「二重の」 反省なのである.それ故, この反省においては罪 とい うことが問題にな り,直接,キ リス ト教の教えと関係 する.実際,キェルケゴール自身 も次のように 「反省」 を説明 している. 「

r

宗教的なもの.)の反省を経 て r愚Jlへ と至 る運動 は,キリス ト教的運動

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で ある.」11) 次に, このような二重の反省の中で伝達 もそれに巻 きこまれ,それに応 じた形の伝達が現われる.上述 し たように, この反省においては反省の主体 は非真理 と なるのであり,罪が自覚 される. ところで罪の自覚は, その主体の個的真理であり,普遍に摂せられない. こ の時,反省は,反省 している当の主体 に関わっている のであり,そこでの伝達において も,伝達者その もの と関わって くるのでなければな らない.つまり,普通 行なわれている伝達のように,伝達者がその伝達に関 わ らないのではな く,二重の反省における伝達は,伝 達する当の主体 と関わり, この 「関わり」を反映 した ものとな らなければならない. このような事情を次の 引用がよく表わ している. 「伝達の形式は伝達の表現 とは別のものである.盟 想が言葉の中にその正 しい表現を見つけた時,それは 罪-の反省を通 して適せ られるのであるが,次に第二 の反省が来 る. これは伝達の伝達者に対する固有の関 わ りに関係 し,実存する伝達者のイデーへの固有の関 わ りを再現するものである.」12) ここで,二重の反省 と 「伝達者が関わる伝達」 との 間の関係を更 に詳細に考えておきたい. 非真理 とは罪のことであり,罪はある個人の個の本 質に属する事柄であり,・普遍的な考察の対象 とな らな ●●●●● い.罪 は,個 としての主休 とそれに関係す る神 との現 実的関係だか らである.罪が存在 している所では,潤 が個 として存在 していなければならない.キェルケゴー ルの 「単独者」 とはこのような存在者である.二重の 内省においてほ, このような個が存在を得ているので ある.それ故, こうした個が存在 している所でその個 の真理が伝達 され るものとすれば (伝達の可能性 につ いてはこの立場においては根拠付けられないというこ とに注目して もらいたい.),当然,普遍的なものを思 考 してはいないこの個の現実性を伝達す るしかないこ とになる. もちろん 個が個 として神 と関係を持 って いる時,そこで個 に開示 されて くる事柄を概念的に表 現 し伝達できるのではないかという問い も提出されよ う. しか し.そうした個が個 として在 る所で個 に開示 された事柄が,普遍者であり,概念的な表現によって 伝達 され得るということは一体何によ って保証 され, 根拠付けられるというのか ? む しろ, そのよ うな個 に開示される真理 も.個の存在 (実存) になるという ことで しか明かされることはないと考えるのが妥当で あろう.従 って,個的真理が伝達可能 とすれば,それ は,個の存在を伝達するようなものとなると考えるの が自然である.すなわち,二重の反省における伝達 と は

,

「実存伝達」 と考え られる. そ して, 実存伝達 を する者 は,伝達す ることで, 自分の存在を伝達 しなけ ればな らないということになる.なぜな ら,伝達者が 伝達するものは,おのれ自身の存在 (実存)だか らで ある.従 ってこうした実存伝達が可能 とすれば,存在 を伝達することができるということであ るのだか ら, 伝達を可能に している根拠 自身は,存在を与ええる根 拠を同時に含んだ ものとなっていなければな らない. この根拠は,伝達者の自己の根底にあるものと考え ら

(10)

-9-飯田女子短期大学紀要 第10集(1990) れるのであるか ら,伝達 は伝達者 と固有な関わりを持 つのである.従 って,実存伝達が可能 とすれば,その 可能性の根拠は存在を伝達す ることができる. 以上のように

,

「二重の反省」 がなされる限 り, そ の反省において知 られた事柄の伝達に際 して は,伝達 者 自身の実存をも伝達 しなければならなくな り,か く して,伝達 は伝達者と関わるようになることが理解 さ れたと思 うので.次にその場合,伝達が何故

,

「真理 へあざむき入れる」 ことになるのかを考えてみたい. これについてはすでに簡単な説明を しておいたが, よ り詳細に検討 してみよう. 二重の反省の中にある思考者は,単に普遍的真理を 思考するだけでな く, この真理を自己自身の こととし て体得 しようとす る. このことは,思考者自身がこの 真理になることを意味する.そ してこうしたあり方を とる存在が実存 と呼ばれるわけである. このような実 存 において罪が自覚 され,そうして 自己のこ うした非 真理そのものに真理を与えて くれる神 との関係 も生 じ るのである.(

r

哲学的断片」参照) ところで,実存 というあり方ではない場合,人は一 つの錯覚の中にあると言えよう.つまり,彼 は実存 し ていないが故に.みずか らの非真理性に気付 くことは な く,む しろみずか らの内に真理があると錯覚 してい る. この状況は, ソクラテスの場合の状況に似ている. 誰 もが自分には知が少 しもないのにあると思 いこんで いる. ソクラテスは, 自分が何 も善美のことについて は知を持 っていないという点で他の人より知者である と気付いている.実存の場合には,無知ではなく,む しろ関係性における一つの錯覚が気付かれる.それは 周知の 「死に至 る病.=こおける 「自己」 の定義か らも 明白である.罪は,神 との関係性の規定である. ソクラテスが,相手の無知を知 らしめ,無知の知に 到 らしめる方法は 「知の産婆術」 と呼ばれている.彼 ●●●●●● の中にあるものは,教え与えるべ き何かある ものでは な く,端的に 「無知」である. 自分が何 も知 ってはい ないという知を伝達するには,いわゆる知識 を教えこ む方式の伝達 とは全 く異 なる方法を取 らなければな ら ないことは容易に察せ られよう. ソクラテスは,伝達 す る相手の思考の中に入 りこみ,その相手が持 ってい た もの (厳密には,持 っていると思われるもの)を奪 い取 るのである.つまり,錯覚を気づか しめるのであ る.まことに,錯覚は唯一.錯覚を していたと錯覚者 が自分で気付 く以外にそれを教える方法はないわけで ある. ところで, こうした 「知の産婆術」 において注目す べき事は, この伝達において伝達 の相手 は

,

「在 ると 思われたもの」ではなく

,

「在 る もの」 を伝達 された という点である.すなわち, ソクラテス的な 「間接伝 達」 は,存在を伝達する仕方であると解釈 される.そ して こうしたソクラテス的な伝達様式をキェルケゴー ルもまた採 るのである. 伝達すべ きことが らは,キェルケゴールにあって も, 何かあるものではない.実存を伝達す ることこそ,莱 存する伝達者の伝達の目的である.実存 において は, 無知が知 られているのではな く,非真理が自覚されて いるのである.そのような場合.当然. ソクラテスと 似たような伝達にな らざるを得ないだろう. ソクラテ スと同様,他者の思考の中に入 りこみ,その相手の自 己の真の姿を知 らしめるであろう.か くして伝達 は, 「真理へあざむき入れる」 という特徴を持つ もの とな るのである.伝達 の相手 に, 自己の真 の姿 を気付か しめることをもくろむ伝達 は 「真理へあざむき入れる」 という特徴をもち, これが 「間接伝達」 を特 色 付 け る. ソクラテス,キェルケゴールの伝達に共通すること は,その伝達において何かあるものを他者に伝えるの ではなく,む しろ伝達の相手が持 っているもの,ない しは,持 っていると思われているものを奪い取 ること で,その人の本来の自己の現実性 に気付かせることを 主眼にしているという点である. しか し,間接伝達が もしもそのようなものであるとす るな ら,伝達者自身 が,何 ものをも持たない本来の自己になっているので なければな らない.つまり,伝達者は 「無的自己」 と なっている必要がある.伝達者が このように無的自己 になっていてはじめて

,

「何か あ るもの」 を伝達す る のではない伝達,つまり間接伝達が可能になるのであ る.従 って,間接伝達 は,無的自己が自己を伝達す る 伝達様式である. だが, こうした論証は,一種の帰納的論証であって, 本当の意味での厳密な論証ではないことは明 らかであ る. ソクラテスとキェルケゴールの伝達 に共通的なこ とか ら,一般的に間接伝達の必然性を帰納 したにす ぎ ない.最 も厳密な間接伝達の必然性の論証は,間揺伝 達論的に, それ故,間接伝達的真理の解明を通 して行 なわれるのである.13) というの も,先の説明では,何故,無的自己が伝達 -10

(11)

-清水(読):間接伝達的真理についての諸研究(I) をするのかという理由,そ して更に根本的には,伝達 す ることと 「自己」はどのような関係にあるのかが少 しも明 らかになっていないか らである. しか し,それ で も我々は,間接伝達が,何 らかの意味で自己伝達 と いう術語に依拠 しなが らその本質を解明せ しめられる ものであることを認めて次に進みたい. 自己伝達 はどのようにして可能であるのだろう.伝 達の相手をその人 自身の自己の現実性,あるいは本来 性 に直面 させるためには, この伝達が鏡 となればよい と考え られる.そうすれば,伝達者は,何 ものも伝達 の相手に伝えずに, しか も,その人を自己に直面 させ ることで自己の本来性に気付 くようにさせることがで きる.伝達の相手 は, 自分 自身を伝達されるのである. この伝達 においては,伝達者の自己の現実性が伝達の 相手へ伝わ りなが ら, しか も,伝達の相手の自己が伝 達 されるのである.我々はこのような特徴性を rn 乱 と名付ける. 自己伝達 は,逆説を形成す るのである. 逆説は間接伝達論的概念であり,従 って,真言的性格 を持っ.間接伝達 に塩気があるとすれば,それは逆説 という塩によるものなのである. さて,以上の考案をここで簡単にまとめてお こう. 1・キェルケゴールの間接伝達 とは・二重の反省に

l

よって自己の本来性 に立 った伝達者が披伝達者を その人 自身の自己の本来性に気付か しめるような 伝達であり,従 って. 自己伝達 と呼ばれるべ きも のである.

2.1

の伝達は

,

「真理へあざむ き入れ る」 ことに よって遂行される. そしてそれは, この伝達が逆 説を形成することに相当す る. 次にこのような特徴を持っ間接伝達 は,一体,具体 的にどのように為 されるのであろう. 自己の本来性に 気付いた伝達者は, どのように して 「真理へあざむき 入れる」ような伝達を行なうのであろう. こうした問 題に関係 していると思われる術語が 「二重の伝達」で ある.キェルケゴールは

,

r

キ リス ト教の修練」の中で 次のようなことを語 っている. 「間接伝達 は,伝達を二重化する伝達術であり得る. この術 は, 自分自身 (伝達者)を純粋に客観的にみな し,いかなる者で もないものに し,そ してそれか ら途 切れることな く,質的な対立を一つにすることに存 し ている

.

」14) 自己の本来的姿に気付いた者 は,そこで開示される 真理を伝達する場合,何 らかの意味で,伝達の相手が その人の自己を自分で兄い出せるように伝達 しなけれ ばな らない.つまり,そのように開示 され た真理 を. あたか も報告するように伝えるのではなく,そうした 真理を得ている自己そのものを伝達す る必要があるの である.そ して,そのような伝達を行なうということ は,一つの術 (Kunst)に相当するとキェルケゴール は意識 していたのである.間接伝達,つまり自己伝達 を具体的に遂行することは

,

「あざむ く」 とい うこと であ り.術策を用いるということなのである. この点 が,間接伝達が 「曲がった」仕方で行なわれるという ことの意味であ り, ここに間接伝達の最 も特徴的な性 格がみられる.そ して, このような術 (策)の成立に は,伝達者が無になるということが必要 なので ある. 伝達が 「真理へあざむき入れる」 ことを本質的特徴 と して持つようになるためには.伝達者 は,そ してその 自己は,無的となっていなければな らない.そ して, 無的であることによって,伝達者は,何かあるものを 伝達することができな くなるのである. この時,伝達 は一種の銃を伝達の相手に送る.鏡が鏡 としての機能 を果たすには,鏡自身,無的本性を持 っていなければ ならないように,伝達において鏡の機能が生 じるには, 伝達者,そ して伝達 される事柄が無的本性を持 ってい る必要があるのである. こうした伝達の中に,伝達の 相手 は,一つの鏡を見 るのであ り, それが彼自身の自 己なのである.彼 は逆説に面す ることになる. 上述のことを,具体的に例で示す ことにする.たと えば,或 る人が

,

「池 に雁が集まっている

.

」 と語 った としよう.伝達の相手が,それを,事実の報告 として 受 け取 る限 り, この伝達は直接伝達である. しか し, 伝達者が無的自己となっていて

,

「池 に雁 が集 まって いる.」 と語 る時,伝達者 は事実 を単 に報告 して いる のではな く, 自己を伝達 しているのである. この伝達 に接 した人 は,逆説に面するのであ り

,

「池 に雁 が集 まっている

.

」 という言糞の中に鏡 を見つ けるのであ る. とい うのも,伝達者が もしも真 に無 となっている 限 り,すべて彼の伝達 はその無を伝えるような ものと なっているか らである. ソクラテスの言葉 もよ く注意 するなら, そうした主体性の影が背後に見え隠れ して いる. ただ し

,

「池に雁が集まっている

.

」 という言葉 を何 かの事柄の象徴,たとえば

,

「池」を神

,

「雁」 を人間 の魂の象徴であると.伝達者 も伝達の相手 も考えてい る場合には,それは厳密な意味での間接伝達ではなく,

→ 1

(12)

1-飯田女子短期大学紀要 第10集(1990) む しろ直接伝達に属する. さて, 次に我 々が考えなければな らない ことは, 「伝達 の二重化」 ということである. 無的自己による 自己伝達 としての間接伝達 は, どのような意味で 「伝 達を二重化する術」 と言われるのであろう. まず我々は次のように 「伝達 の二重化」 を理解す ることができる.間接伝達 は,二重の反省における伝 達であり,伝達する者 は,主体的思考家 として,第-に普遍的な真理を思考 し,つづいて第二に, その真理 自身を会得 し,そこに実存 しようとす る.それ故, こ の伝達 に接する者は,同様の二重の反省を行なうこと によってこの伝達を受け取 ることがで きる.従 って伝 達 は二重性を持っ, と.キェルケゴール自身 もまた以 上のことを裏付けるように次のような言葉を語 ってい る. 「たとえば次のようなものは間接伝達であ る. たわ むれ と真筆が構成 されていて, この構成が弁証法的結 び目となっているように構成 されて いる場合. - そ して,伝達者自身,誰で もない ものである場合. もし 或 る人がこのような伝達 とかかわりあ うことになる場 合.彼は自分で自分か らこの結び目を解かねばな らな い

.

1

5

)

ある言論の中に弁証法的結び目,つまり,質的な対 立が結 びつけられて一つになっている事があ る場合, この伝達に接 した人 は,そうした結び目が何故に結ば れ得たのかを主体的に解釈 しようとする.同一の主体 性 において. この結び目は結 ばれ, 解かれ るのであ る. それ故

,

「伝達の二重化」 とは,一般的に解釈す る ことを伴 う伝達を言 うものと考え られる.だが,たと えば.「天が開かれた」 という言葉を受け取る時で も, 我々は,まずこの言葉を伝えられてか ら,それを何か の象徴 とみて,解釈 しようとす る.それどころか,お よそ言葉による伝達 は何 らかの意味で上記の二重性を 持つ. それ故

,

「伝達の二重化」 は上述 のよ うな理解 では,十分 に明 らかにされてはいないのである. それでは

,

「伝達の二重化」 とは一体,何を意味 し, どのように特徴付けられるのであろう. 上述 の簡単な考察か らわか るよ うに

,

「伝達 の二重 化」 とは何 らかの意味での解釈の過程を含む伝達であ る. しか し,たとえば.暗号の解読において も伝達の 重複 はある. しか し.暗号文 と.先に挙げた 「弁証法 的結び目」 とは異なる所がある. それは.暗号文の解 読 には,解読者 も,更にその暗号を作 った人 も特に主 体的になり,実存 している必要がないのに対 し

,

「弁 証法的結び目」を作れる者は,無的自己となっていな ければな らない し,それを解 く者 もまた同一の無的自 己でなければな らない,という点である.つまり

,

「弁 証法的結び目」の解釈には, 自己的同一性が要求され るのである.先の例をもう一度挙 げるな ら

,

「池 に雁 が集まっている」 と語 り出 している主体的なるものこ そ, この伝達において伝え られるべきものであり, こ の場合.「池に雁が集まっている」とはどのようなこと を述べているかということが伝達 され るのではない. む しろ, この伝達 によってこの伝達を してい伝達の主 体が伝達 されているのである. この伝達に関わる者は, それ故. この伝達をな している主体的なるものに自身 がなることによって,伝達者の真意を理解できるので ある.それ故

,

「伝達の二重化」とは,伝達することで 伝達者 もまた伝達 される場合を言 うのである. この伝 達 においては,何を伝達するかということともに, ど のように伝達するか もまた伝達 されるのである. キェルケゴールは次のような言葉を語 っている. 「実存することに関係づけ られているすべての伝達 は,或 る者,つまり伝達者を要求する.すなわち,伝 達者は伝達の重複である

.

1

6

)

実存することに関わる伝達,つまり自己伝達 におい ては,伝達 されるべき内容は, 自己の内にある何かの 形相ではな く,端的に自己存在である. その ことは, 伝達する者 とその伝達内容 とが不可分離的であること を意味する. 自己伝達においては,伝達者が伝達 され るのである. もちろん, このことは伝達者の肉体や心 が実体的に他者に送 りこまれることを意味するのでは ない. ところで,伝達者が伝達 されるとは更 に深 く考える ならば,伝達することを伝達するということになるだ ろう. というのも

,

「伝達者」 とは, 肉体 や心理学的 な意味での心なのではな く.伝達 されるべきものに し て しか も同時に伝達する主体だか らであ る. つ まり, 「伝達者」 は.伝達するということの根拠 をそれ 自身 の中にもつ自己的真理そのものなのであ る. それ故. 「伝達者」 は,伝達することを伝達す るのであ る 「伝 達すること」 は,何 らかの意味で, 自己と関わ りあっ ているのであり, この関わりの根源も 間接伝達 は伝 達するのである. 自己伝達 と特徴付けられた間接伝達 は,伝達することで,伝達することを伝達するのであ

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-清水(茂):間接伝達的真理についての諸研究(I) り,おのれの伝達の意味を伝達 しているのである. こ のような伝達 は,直接伝達 とは全 く異なることは明白 であろう.なぜな ら, 自己伝達 とは異なる伝達 は,そ の伝達 とは別のことを伝達するか らである.たとえば, 「今日は雨です

.

」 という言糞が交わ された と しよ う. この伝達においては,伝達することと,その伝達にお いて伝達 されるべ きことは区別 される. ところが,間 接伝達においては,伝達することは,伝達 されるべき ことが らと関係するのであって,従 って

,

「今 日は雨 です

.

」 は, もしもこれが間接伝達 であるとすれば, 主体的消息を語 っているのであ る. もちろん

,

「今 日 は雨です.」が間接伝達になるには

,

「伝達者」 が要求 され,伝達者 は無的自己となっていなければならない. 披伝達者は

,

「今日は雨です

.

」 の中に,主体性 を兄 い 出すのであり, この晩 伝達は直接性を持たなくなり, 逆説が形成されるのである. 「伝達を二重化する」 ということを,我々は以上の ように解釈する. 自己伝達 としての間接伝達 は,伝達 することがみずか らの伝達の内容 となっているのであ り,伝達的な真理の本質上の在 り方なのである.伝達 においてみずか らの伝達を伝えることによって, この 伝達に関わる主体 は.同 じ伝達をす ることができる者 となる.従 って,その場合,単 に個々の伝達における 言葉の意味が分かるのではな く,すべてが一挙に分か ることになる.なぜなら,すべての言菜 は同 じ一つの 伝達を伝達 しているか らである.間接伝達においては, 「池に雁が集まっている.」も「今日は雨です.」 も同 じ一つのことを語 っているのである.同 じ一つのこと をこの二つの言葉 は象徴 しているのではな く,同 じ伝 達をしているのである. 一般に, もしも我々が何事かを真理 とみな して語 る 時には,それは 「存在」に属 していなければならない. 単なる主観的な意見でな く,真理とみな し得 る事柄は 必ず 「存在」に属 している

.

「存在」 に属す ると考え られる事柄を語 る限 り.人 はそれを 「在 るがままに」 語ればよい.従 って,伝達 はこの場合,直接伝達 とな る. しか し

,

「無」に属する事柄の場合

,

「在 るが まま に」人 は語 るわけにはゆかない.というの も 「無」は 「存在」 に属さないか らである.人は 「無」を 「無 さが 如 くに」語 らなければならないのであ る.「無」 をそ の 「在 るがままに」語 ることは不可能であ り.無につ いては 「無 さが如 くに」語 らざるを得 ないのであ り, その限 り,事柄 とそれの伝達 は矛盾 しないのである. 無についてはいっ もこのような 「如」 という性格が付 いて くる.加 とは,結局

,

「無」が 「在 るがままに」 伝 達 されるのではないこと.つまり 「存在」 とは別秩序 に属することを示す言葉 と考え られる. ところで, ド イツ語 の (Wie)が

,「

∼のよ うに」 とい う意 味 と 「どのように」(How)の意味を持つ よ うに

,

「如」 は また

,

「如何 に」 とい う意味 を伴 な ってい る.「無」 を伝達することは,根源的な 「いかに」の伝達 となる のである.つまり

.

「無」 の伝達 は

,

「在 るが ままに」 伝達するのではない故に,いっ も根源的 に

,

「どのよ うに して伝達すべきか」 ということが伝達を構成 して いるのである.それはつまり,無の伝達 は

,

「いか に」 を伝達する伝達 となっているということに他ならない. 「無」の伝達 はいわば

,

「苗に浮 いた」伝達にな らざる を得ないのである.そ して,伝達の中に,構成的に伝 達の仕方に対する反省を含むということは, こうした 伝達をする伝達者にとっては,主体的な反省をすると いうことと等根源的に属 しあうことを意味 し.同時に そのような伝達 は二重的な本質上の性格を持っのであ る.伝達者が無的自己になればなる程,伝達 もまた反 省的となり.「いか に伝達す るか」 を伝達す る伝達, 最 も根源的に伝達することを伝達す る伝達 となるので ある. さて,我々は,キェルケゴールの 「二重の伝達」 と いうことが, どのような意味を持つのかを考察 し,一 ド 般に,間接伝達 とは,反省的な伝達であ り, 自己伝達 であることを導 き出 してきた. それは,伝達において, 「いかに」を含むのであり,またそれを伝え るのであ る.そ してそのようなことがで きるには,伝達者が無 となっている必要があるのである. ところで,間接伝 達 とは, このように根源的に 「いかに」を含むとすれ ば,そこには,最終的に, どのように して も伝達で き ないということが含まれている.「いか に して も伝達 できない」 ということがあって初めて 「いかに伝達す べきか」 ということが出て くるのである. しか もこの 伝達の不可能性 と 「いかに」は不可分離的であり,前 者は後者に時間的にもまた秩序的にも先であるという ことはない. しか し, こうした伝達の不可能性を,間 接伝達の最 も根源的な根拠 として取 り出 して考察す る ことはできると考え られるのであり.我々は, この根 源的な伝達の不可能性

「不伝」 と名付 けてお く. 「不伝すること」 は 「いかに」が出て くることであ り, 伝達が間接伝達的 とな ることを意味す る.「いか に」 - il聖‥

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