草 野 滋 之
はじめに
現代社会で問われている最も大きな教育の課題は,人間性の開花を促す生活 と文化を自主的に創造していく担い手の形成にあるといってよい。この課題に 応えていくためには,わが国で展開されてきた自主的な文化活動の歴史を跡づ Iけて,その教育的意味を明らかにしていく作業が不可欠である。
本論文で対象とする「うたこえ運動」は,戦後の日本社会で展開された,主 として青年を主体とする合唱運動である。うたこえ運動をとりあげる意義は,
次の点にある。第一には,戦後の青年の自己形成において果たした役割の大き さである。うたこえサークルの活動に参加して,多くの青年たちが歌うことの 喜びを実感し,そのなかで強い共感によって結ばれた人間関係が生まれ,仲間 と共に生きる喜びを自覚していったのである。うたこえサークルのなかで多く の恋愛が生まれたことや,うたこえサークルとの出会いが後の人生の方向性を 確立する契機となった青年が多いという事実は,うたこえ運動が青年の自己形 成において果たした役割の大きさを物語っている。第二には,うたこえ運動が,
日本の音楽文化の性格を根本から問い直す意味をもっていたということであ る。それはこの運動の,音楽運動としての独自性に関わる点である。日本の音 楽文化は,明治期における西洋音楽の輸入によって発展していったが,それは 同時に前代にもあった芸術音楽と民衆音楽の遊離という問題をさらに拡大して いった。音楽における芸術性と民衆性の統一は,明治以降の音楽史のなかで,
常に問われてきた課題であった。戦前には,主として芸術家がいくつかの貴重 な試みをつづけてきた。しかし,その本格的な展開は戦後の課題として残され ていたのである。うたこえ運動のなかでは,外国や日本の民謡・歌曲が新しく
紹介・普及されると同時に,専門音楽家や民衆自身の手によって,戦後の青年 の生活意識を反映した新しい歌曲が創造された。これらの活動は,日本の民衆 の歌を豊かに発展させていくうえで,貴重な意味をもっていたといえよう。
このような意義をもったうたこえ運動に関する本格的な検討は,これまでほ とんどなされてこなかった。うたこえ運動にふれた文献や論文としては,まず 第一に運動の担い手たち自身による運動史の叙述や回想記がある(注1)。これら
は,中央からみた運動の概括的な叙述か,個人的な回想に留まっており,運動 の歴史的な意味の検討という点では不十分である。第二には,社会教育の領域 で進められてきた,1950年代のサークル運動に関する諸論文がある(注2)。これ らは,50年代のサークル活動に関する一つの総括的な研究を志向したものであ る。このなかでは,うたこえ運動に関して,戦後初期から50年代にかけての「サー クル運動の転換を推進していったいちばん太い流れ(注3)」であったという重要 な位置づけがなされている。しかし,その人間形成における意味は,歌を歌う ことによって青年を情緒的に解放し,話し合いや学習活動を進めていく基礎を 作ったという程度の意味づけしかなされていない(注4)。これは,うたこえ運動
に代表される,青年の芸術文化活動のもつ教育的な意義や文化史的な意義の把 握が弱かったことに由来している。
うたこえ運動の教育的意義と文化史的意義を明らかにしていくために,本論 文では以下のことを課題とした。第一には,運動の中心母体となった中央合唱 団の成立過程とその性格を探ることによって,運動の成立の歴史的な契機を明 らかにしようとしたことである。これは,うたこえ運動の歴史的性格を明らか にしていくうえで重要な課題である。第二には,うたこえ運動の民衆的性格を,
音楽的な側面と組織形態の側面において明らかにしようとしたことである。こ れは,戦後初期に展開された文化サークル運動が,1948−49年の占領政策の転 換による労働運動の抑圧に直面して急速に衰退していった一方で,うたこえ運 動が職場に広がり,50年代のサークル運動を生み出す大きな流れとなったこと の意味を明らかにするうえで重要な課題である。第三には,うたこえ運動の教 育的遺産を探り出そうとしたことである。この問題を,50年代の青年の自己形 成とうたこえ運動との関係の探究を通して明らかにしようとした。本論文は,
うたこえ運動を青年の自己教育運動として位置づけ,その成立と展開の歴史的 な契機と教育的遺産を明らかにしようとするひとつの試みである。
一,戦後初期における新しい音楽文化創造の胎動
←)音楽文化人による民衆音楽の構想
戦時下,音楽の創造と普及の自由を阻まれて戦争協力を余儀なくされた音楽 文化人たちは,敗戦を契機として新しい歩みを開始した。そのなかでも,戦前,
進歩的な音楽評論の論陣を張っていた山根銀二や園部三郎,プロレタリア音楽 運動(注5)の経験をもっていた関鑑子や原太郎等は・戦争に抵抗しえなかった日 本の音楽文化について厳しく問い直し,改めて民衆と音楽を結びつける方法を 模索していた。楽壇と強いつながりをもって音楽評論の仕事に力を注いできた 山根や園部と,プロレタリア音楽運動のなかで民衆に音楽を広げていくことを 実践してきた関や原とは,その民衆音楽の構想には質的なちがいがみられた。
山根は,山田耕搾との「音楽戦犯論争(注6)」として知られている楽壇批判を いちはやく展開していたが,一方で民衆の歌が生まれる必要性を次のように述
べていた。
「日本の国民はその日常生活のうちに満足な歌と称すべきものを殆んど持っ ていない。……かSる状態は日本に歌らしい歌が全く無いということと同じ である。歌らしい歌というのは,民衆の心の中に育くまれて自つと流れ出て くる人間的な歌であり,自然の歌である。本来いへばこれが流行歌なのだ。
日本でいう流行歌は自らはやる歌ではなく,はやらせる(レコード会社がレ コードという商品を売るために)歌であった点に,軍国主義者や官僚共が作っ た儀式的戦争歌とは外観こそ異れ,民衆の心情の自然な流露と距ること甚だ 遠い点で規を一にしている。……我々は良い歌がほしい。戦争が済んで歌う べきものが無くなったときに自然と口を突いて出る温い歌がほしい。それは 一切の抑圧から解き放たれた何の儀式張った形式主義の臭もない自由な芸術
である(注7)。」
山根は,多くの日本の民衆に歌われてきた軍歌や流行歌の性格を問題にして,
これらの歌が民衆の自然な生活感情と距るものであったことを批判していたの である。そして,軍歌や流行歌とは異なる,「民衆の心情の自然な流露」を表 現した新しい民衆の歌が創造されることを望んでいたのであった。新しい民衆 歌曲の創造という彼の主張の背景には,西洋における芸術音楽と民衆音楽の関 係把握があった。彼は,それを次のように述べている。
「かつて西欧では民衆の歌はトゥルバドールやミンネゼンガーの歌となって 芸術化され,又近代ではモーツアルトやシューベルトの芸術歌曲にまで醇化 されて,不朽の価値を獲たのだった。シューベルトのリードがなぜ美しいか といへば,そのような自然な発露が巧みに捉へられているからである。民衆 と作曲家は一体であり,作曲家の胸には民衆の生活から生まれる情感が流れ
かよっている(注8)。」
ドイツにおいては,民衆の歌が芸術歌曲を創造する基礎となり,民衆の生活 感情は芸術歌曲のなかに豊かに反映されていたのである。このように,山根は 西欧における民衆音楽の性格に対する理解を基に,日本の民衆の歌を構想して いたのであった。
山根と同様,園部もまた,西欧音楽が自由と人間性の発展を希求する民衆の 生活に支えられて発展してきたことの理解を基に,民衆の歌の意味を考えよう としていた。彼は,新しい時代の民衆の歌の意味について,次のように述べて
いた。
「闘いの歌は大衆行動のプラカードと共に叫ばれる。しかし人民がプラカー ドの担い手となる以前に,否最もありふれた日常生活の中で,彼等の生活心、
理の深奥につき入って,その人間性をゆり動かし,豊かにし,そして彼等に 新しい時代の息吹きを深く吸収させるような歌が生まれることこそ必要なの ではないだろうか。このような歌の魅力は闘いの歌に劣らず,自由人として のよろこびと誇りとを自覚させ,またそれへの憧れを強める筈である(注9)。」
山根は流行歌を問題としたが,園部は労働者のデモや集会で歌われる労働歌 をとりあげて,それが労働者の人間性を豊かにしていく点で不十分であること を問題としていた。そして,労働者が日常生活のなかで自然に口ずさむことが
でき,彼らの人間性を豊かにしていく歌が生れることを期待していたのである。
当時歌われていた労働歌は,「インターナショナル」や「赤旗の歌」等の戦前 から歌われていた外国の革命歌,「町から村から工場から」や「世界をっなげ 花の輪に」等の戦後に新しく創作された労働歌(注10)であった。これらの歌は・
メーデーや集会等ではよく歌われて,労働者にとっては身近な歌であった。し かし,その内容は,園部が指摘していたように,労働者の日常生活の表現とい う点では不十分なものであった。たとえば,「世界をつなげ花の輪に」の歌詞 は次のようなものであった。
一,太陽は呼ぶ 地は叫ぶ 立てたくましい 労働者 働く者の赤い血で
世界をつなげ花の輪に
我等みらいを語るもの 一番から四番 世界を一つに結ぶもの までくり返し 二,若者よ今 旗高く
行けさわやかな 朝風に 乙女のかみに 花かおり 解放のかねは 鳴りひびく 三,赤旗はゆれ 胸おどる 見よこの旗を 色そめた 人民の血の したたりは 我等の国の 花と咲く 四,大空ははれ 波光る あ5太陽の 情熱で 東と西の 兄弟よ
はげまし合って 戦おう
この歌詞の特徴は,第一に戦後になって解放された労働者の明るい感情や気 分が表現されていること,第二に労働者が共に団結して闘う姿が表現されてい ることである。かってない勢いで労働運動が高揚した戦後初期,この歌は,労
働者の闘争意欲を鼓舞していくうえで大きな力をもっていた。しかし,闘争に 立ち上がる以前の民衆の日常生活の表現という点では不十分であり,民衆の喜 びや悲しみ等の様々な生活感情からは距りがあった。園部が期待していた新し い民衆の歌は,民衆の生活感情のリアルな把握を通して,新たに創造されるこ とを課題としていたのである。
山根や園部の構想に対して,戦前にプロレタリア音楽運動の経験をもち,実 際に労働者と接するなかで民衆と音楽の結びつきを考えてきた関鑑子と原太郎 の構想は,民衆音楽のリアリティの把握において一歩進んだものであったとい える。関と原に共通した構想は,日本の民衆のなかで歌いつがれてきた民謡に 注目して,民謡のなかに日本人が生み出してきた音楽的遺産を探り出そうとし たことであった。関は,民謡が日本人の音楽性にとってもつ意義を発見していっ た過程を次のように述べている。
「戦争の悲惨の中に生きた青年たちは,大人子供のようなませた陰気な表情 をして,音楽するというのに読譜の練習がきらいであった。ある時は歌なんか 歌って革命ができるか,などと言い出す。私のまわりだけではない。おしなべ て日本中がそうであったと言えよう。この音楽の荒地に希望の花を見出したの はいつだったろう。何やかやとお祝いの小集会でちょっとしたお酒に頬をそめ,
順ぐりに歌いだしたのはほとんどがお国自慢の民謡だった。楽譜をおぼえる必 要もなし,天真欄漫の明るい笑顔で楽しむさまを見て,これこれと私の心は高 鳴った。常盤炭磧の若人たちも声はり上げて卓をたたいてうたってくれたのは,
炭坑の唄だった。青年の本心にふれたと思った(注11)。」民謡は,田植唄や石切 唄等の労働と結びついたものや,子守唄や祭りの唄等の生活と結びっいたもの 等,様々な種類のものがある。民謡に共通した特徴は,それが民衆自身の創造 によるものであり,民衆の生活や労働のなかで長い間歌いつがれてきたことで ある。それゆえ,民謡は日本の音楽文化のなかでも最も民衆性に富んだ音楽で ある。関は,読譜の練習はきらいな青年たちが,民謡や炭坑の唄を明るく自信 たっぷりに歌う姿をみて,民謡が日本人の生活のなかに浸みこんだ音楽である ことを再認識していったのである。
関の構想のもう一つの特徴は,民衆の音楽的創造性を尊重して,民衆が音楽
を創造する主体に成長していくことを期待していた点にあった。関は,労働者 が自分の生活感情を気軽に歌に表現していくことを,次のように提起していた。
「むずかしい理論はあとまわしにして,まず言葉を歌に,気もちを歌にする 簡単な方法だけでも勉強するように,ぜひおすすめしたいと思います(注12)。」
これは,労働者自身による作曲の提案であった。しかし,これを実現してい くためには,専門音楽家の協力が必要であったし,何よりも労働者自身が音楽 的な感動を深めていくことによって,音楽的な表現力や創造力を自覚していく
ことが必要であった。これは,戦後初期の段階ではまだ不可能な課題であった。
しかし,この関の構想は,後のうたこえ運動の展開のなかで開花していくこと になったのである。
一方,原太郎は,1948年に楽団「海つばめ」を結成して,各地の職場や農村 をめぐって音楽活動を展開していた。原は,楽団を結成した当時を振りかえっ て次のように述べている。
「当時,私はある石油会社につとめ,そこで組合づくり,党づくりにうちこ む余暇に中央合唱団の前身青共合唱団の指導グループに参加していたが,人 民的な芸術家としての自分の生き方をつかむという課題からいえば,戦後三 年,復員後二年になるのに,未だに棚上げのままだった。自分の音楽を直接 に人民の生活と闘いの中でうちきたえて行きたいとの願いが,渇くように胸 のうちにもり上がった。私は十五年前にプロレタリア音楽運動の中で構想さ れた芸術アジプロ隊のことなどを思いうかべた。……もちろん1930年代のひ どい弾圧の下では,このような方法が一つの運動としてなりたつはずもなく,
結局は当時のものとしては一片の空想でしかなかったが,今改めてこの形態
や方法が現実のものとして私の考えを占めた(注13)・」
原の構想の基盤にあったのは,戦前のプロレタリア音楽運動のなかで試みら れた芸術アジプロ隊の経験であった。この芸術アジプロ隊とは,政治的な宣伝 の手段として芸術を利用するという政治主義的な方法であったが,その経験は,
「人民的な芸術家としての自分の生き方」を模索していた彼の胸のなかに再び 甦ってきたのである。原は,この楽団にもう一つの新しい期待をかけていた。
それは,日本人の民族的遺産である民謡を民衆のあいだに広げていくことで
あった。彼は,1930年代のファシズム期の楽壇で論争されていた日本国民音楽 論(注14)に対して,それが,「西欧の音楽からの摂取吸収という欲求よりも西欧 的なものを能う限り払い落として,何かまったく別な系統を打ち立てようとの 欲求のほうを強く持っている(注15」と,その偏狭な民族主義的性格を厳しく批 判していた。そして,ロシアの国民音楽の例をあげて,西欧音楽の充分すぎる
ほどの吸収によってこそ,音楽の民族的遺産は発展すると述べていた。彼が,
音楽の民族性の本格的な探究に向かうのは戦後になってからである。しかし,
日本人の音楽の民族的遺産の探究という彼の構想は,民衆の生活に根ざした国 民音楽の創造という戦前からの構想の具体的発展であったといってよい。楽団
「海っばめ」の活動は,その出発点となったのである。楽団活動を通じて民衆 と直接にふれて,彼等の文化に接していくなかで,彼は民謡のもつ意義を再認 識していった。彼は,それを次のように述べている。
「実際農民の間なんかに今日なおたくましくのこっている生きた生命をもっ た本当の民謡がある。そういうものの中から,ほんとうに力のある,生命の あるものを発掘するという研究をまじめにやる必要があると思うんです(注
16)。」
彼は,農民の生活のなかに残っている民謡のなかに民衆の生命力を発見し,
民衆の生命が息づいている民謡の発掘と研究を真剣に考えるようになっていっ たのである。後の「わらび座」の活動は,この彼の構想の具体的展開であった。
関と原の構想の共通性は,民衆の音楽的創造性に注目して,民謡の音楽的遺 産を再検討しようとした点にあった。両者が,ここに注目するようになった契 機は,実際に民衆が歌い演ずる民謡のなかに,彼等の生命の息づかいを感じとっ
たことにあるだろう。それは,関や原にとって,民衆にとって音楽とは何であ るかを根本的に考え直す契機となったのである。山根や園部が,流行歌や労働 歌にかわる新しい民衆の歌の創造を期待していたにもかかわらず,彼等の構想 には民衆の音楽的創造性に対する把握が弱かったと思われる。この点に,関や 原と比べて,彼等の構想がリアリティを欠いていた理由が存在していたのでは
あるまいか。
(⇒ 民衆による音楽文化活動の胎動
音楽文化人たちのこのような構想に対して,実際の民衆の音楽文化活動は,
どういう状況にあっただろうか。敗戦直後から2−3年の時期,農村を中心と した多くの民衆のあいだに広がっていた文化活動は,やくざ芝居や演芸会等の 戦前から親しまれていた大衆芸能であった。農村演劇の指導者として知られる
山田民雄は,この時期のことを「全国の村々に爆発的に流行した「演芸会」時代」
であったとし,「村々はすさまじいばかりの演芸会熱であった(注17)。」と当時の 状況を述べている。その模様は,たとえば次のようなものであった。
「真夏の太陽が西に傾くころになると,ボリュームを高々とあげた拡声機が,
流行歌を村の隅々にまで流した。すると,あっちの集落から,こっちの集落 から,竹籠の中に重箱やどぶろくの入った一升瓶を背負った人たちが次々と 集まってくると,校庭にござを敷き,開演を待った。……幕が上がると,ひ と幕ごとに拍手の渦だった。踊りも歌もほとんどがやくざとマドロスもの だったが,「旅笠道中」などはとくに人気があって,アンコールの声がとんだ。
あれほど盛んだった軍歌は舞台に出ることがなかったが,誰もそれを不思議
とも思わなかった(注18)。」
村の演芸会で歌われた歌は,「旅笠道中」等の戦前から親しまれていた流行 歌であり,戦意を高揚するために歌っていた軍歌は全く影を潜めていた。この ように,やくさやマドロスの人情や哀感や踊りが,当時の民衆をひきつけたの は何故だったろうか。ある青年は,当時を回想して次のように述べている。
「あの時代に,人びとの心をとらえて離さなかったやくざとかマドロスとは,
いったい何んだったのだろうか。悪夢のような戦争から解放されたが,しか し依然として苦しい生活から抜け出せない人びとが生んだ狂い踊りだったの だろうか一。だが,わたしの心にはいまでも,青春を青春らしく生きること のできなかった男の,たった一つの青春の甘い匂いとして残っていることだ
けは確かである(注19)。」
敗戦は,民衆に虚脱感と解放感の混在した気分をもたらしたが,民衆の生活 は依然として苦しい状況にあった。やくざ芝居に表現された人情や哀感は,苦 しい生活の中で生きる方向性を模索していた民衆の心を慰め,お互いの苦しみ を分かち合えるものだったのである。そして,青年にとっては,徹底した軍国
主義の教育や宣伝から解き放たれて,行き場を失なった青春のエネルギーを燃 焼することのできるものであった。青年たちは,まだ自己の生きる新しい方向 性を見出してはいなかったのである。
農村でやくざ踊りが広がっていた一方で,職場はどういう状況にあっただろ うか。1946年3月に,戦前のプロレタリア文化運動の伝統をひいた進歩的な文 化組織である民主主義文化連盟が結成されて,文化人の指導によって職場では 活発な文化活動が展開されはじめた。音楽の分野では,敗戦から1年を経過し
た1946年8.月には,民文連と日本現代音楽協会の主催により,第一回目の「働 く人々の音楽祭」が実現して,多くの職場の合唱団や楽団が出演した。そして,
翌47年2月には,労働者の自主的な音楽組織である自立楽団協議会が結成され るというように,職場の音楽文化活動は急速な発展を示していた。しかし,そ こにはいくつかの問題点が内在していた。関鑑子は,職場の自立楽団活動の問 題点を次のように指摘していた。
「新しい今日の思想,生活の反映した,現実の労働者の生活に結びついた作 品こそ,吹奏者をも,聴衆をも,真に感動させるものだと考える。ここに自 立楽団の問題があることを知らなければならない。労働者は聴く立場から吹 奏する立場を獲得した。しかし,今日では創作する立場が絶対に必要になっ てきているのである。同じことが合唱についても,軽音楽についても考えら れる。大胆にいえば,自立楽団は今,ゆきづまっている。少なくとも,自立 楽団協議会は一つのゆきづまりに直面しているといえよう(注20)。」
関は,楽団や合唱団がとりあげている曲目を問題にし,曲目の内容が新しい 時代の労働者の思想や生活を充分に反映していないことを批判していたのであ る。そして,この課題を克服していく鍵として,労働者自身が創作活動に携わ ることを提起していたのである(注21)。この提起は,労働者の音楽文化活動を発 展させていくうえで重要なものであったが,これを実現していくためには,専 門音楽家の協力によって,労働者の音楽的創造力をひき出していくことが必要 であった。しかし,関はその具体的な方法については述べていなかった。曲目 の問題と同時に,関はサークル活動の形態を問題としていた。彼女は,それを 次のように述べていた。
「ここに一番考えられることは,音楽の問題を専門音楽家と自立音楽家とせ いぜい組合文化部員とで処理しようとしていたことである。組合全体,労働 者みんなの問題として提起されなかったことに問題があると思う。音楽は音 楽の好きな人に,演劇は演劇好きの人に一ここから自立が出発したことは当 然だったとはいえ,まかせすぎた嫌いがある。あくまでも組合全体の文化運 動,文化活動として,取りあげなければならないし,今日取りあげられ始め ようとしているかに見えることは,必ずこの一種のゆきづまりを打開するこ
とだろうと思っている(注22)。」
1947−48年にかけては,二・一ストの禁止を契機として,それまでの労働運 動や文化運動のありかたに対する反省がなされ,大衆的な文化活動の形態が模 索されていた時期であった。この関の文章もそれを反映して,職場の音楽文化 活動の大衆的な形態を作り出していく必要性が指摘されている。戦後初期の職 場の音楽文化活動は,曲目の面でも活動形態の面でもより大衆的なものに改革 していくことが必要とされていたのである。その改革の契機になったのは,
1948年2月の中央合唱団の誕生であった。
二,中央合唱団の成立とうたこえ運動の展開
←)中央合唱団の性格と関鑑子の指導性
戦後におけるうたこえ運動の出発は,1948年2月の中央合唱団の誕生に始 まったといってよい。中央合唱団は,当時の青年共産同盟(青共)の文化方針 に基づいて活動を展開していた,人形劇やコーラス等の文化工作隊の一つで あった青共東京コーラス隊が発展して創立されたものであった。それゆえ,中 央合唱団はその初期の性格として,政治的な闘争と結びつきながら歌を青年の
あいだに広げていくという文化工作隊としての性格が強かったといえる。
一方,指導者として迎えられた関鑑子の構想は,これとは少し異なるもので あった。先に述べたように,関は労働者の音楽文化活動の援助・指導に携わっ ていたが,1947年頃の時期には労働者の音楽文化活動は行きづまりに直面して
いた。中央合唱団は,このような行きづまりを打開して,労働者の音楽文化活 動を発展させていく中軸的な組織として,関の構想のなかでは位置づけられた のであった。合唱団員には,労働者の音楽文化活動を発展させていく主体にふ さわしい音楽的力量が要求されたのである。それは,関の合唱団指導の内容に よくあらわれていた。最初のレッスン内容として取りあげられたのは,声楽の 教科書である「コールユーブンゲン」であり,それを修了した後に課題曲として,
「コンコーネ五十番」,ムソルグスキーの「蚤のうた」やシューマンの「二人 の榔弾兵」等の曲が取りあげられた(注23)。このように,クラシック音楽の基礎 を着実に修得していくというレッスン内容に対しては,たとえば,「こんなも のなくても,歌さえ教えてくれれば,たたかいにすぐ役立つのだから,コール ユーブンゲンをやる暇があったら,もっと歌を多く教えてくれ」という意見が 出されたり,シューマンの「二人の郷弾兵」の内容が皇帝を讃えているという ことについての疑問が出されたりした(注24)。このような意見や疑問は,これま で音楽を専門的に学んだこともなく,政治的な意識の高かった青年たちにとっ ては当然のものであったといえる。このような反発に対する彼女の指導は,自 分の意見を押しつけることはせずに,青年相互の議論や自らの音楽的指導のな かで,音楽の魅力や意味を発見させていくというものであった。たとえば,あ る青年は,「二人の榔弾兵」をめぐる議論を契機にして「その歌曲の由来やら,
シューマンの伝記やらを一生懸命しらべる結果となり,それがかえって音楽へ の学習心を高めることになった(注25)」というし,また,「音楽に関して特にク
ラシックに対して無知。コールユーブンゲンも知らずにいた(注26)」という青年 は,関鑑子の指導を通して学んだものを,「音楽を知らずに入ったので,砂地 に水のごとく何でもスナオにうけ入れた一音楽する心ということ一(注27)」と表 現している。関の指導を通して,青年たちは音楽の基礎を身につけると共に,
音楽の魅力に目覚めていったといえるだろう。
青共の文化方針,関鑑子の指導性と同時に,中央合唱団の性格を規定してい たもう一つの大事な側面は,合唱団を構成していた青年たちの意識のありかtq の問題である。先に述べたように,戦後初期においてやくざ踊りに熱中してい た青年たちは,未だ自己の生きる新しい方向性を確立しきれず,青春のエネル
ギーをもてあましていた。この時期には,多くの青年が同様の意識状況にあっ た。しかし,敗戦からしばらくの時期を経て,それとは異なった新しい意識に 目覚めた青年たちが現われはじめた。青共の活動家であり,合唱団の中心的な 担い手となった青年たちは,戦後における新しい青年像の出現を示すもので
あった。その一人である土方与平(当時の青共文化部長)は,敗戦の衝撃から 新しい生き方を見出すに至った過程を次のように述べている。
「それまでに天皇制軍国主義教育によって頭にたたきこまれたすべての価値 観が,敗戦とともに音をたてて崩壊する中でとまどい,一時は生きるよりど ころを失なっていた私たち当時の多くの青年にとって,この牢獄から,そし て地下潜行から再び姿を現わした共産党,侵略戦争に最後まで反対して闘っ たたった一つの潔白な党の訴えは,はじめは奇異でもあり,またものすごく 新鮮なものでありました。それは私たちが飢えていた真実をおしえ,私たち に新しい生きがいをあたえるのでした。私もむさぼるようにしてこれらの演 説に耳をかたむけ,やがて札幌の共産党が開き出した 共産主義講座 に熱 心にかよい出し,前述の 自由文化クラブ (土方等が中心になって作った 自主的な学生文化サークル.筆者注)でもマルクス主義の勉強班が生まれま した。そして1946年の5月,私は札幌の青共の事務所をおとずれ,加盟の手 っづきをとったのです。北大予科2年,18歳の時です(注28)。」
敗戦と,それにひきつづく社会体制の変化に直面した青年たちは,一様にと まどいと価値観の動揺を経験せねばならなかった。土方もまたその一人であっ たが,彼が新しい生き方を確立していく出発点となったのは,共産党との出会 いによって過去の戦争に対する科学的な見方や,新しい社会の建設の方向性を 見出したことにあった。彼のように,過去の戦争の正しい性格を知ることによっ て,自覚的な生き方を確立していったという過程は,合唱団に集ってきた多く の青年にとって共通したものであった。大阪の電産労働者で,青共関西合唱団 の創立に参加し,幹部養成のために中央合唱団に一期生として留学してきてい た壇上佐和枝は,青共の活動家になった経緯を次のように述べている。
「正しい戦争が一夜にしてまちがいであったということを知らされたときの ショックは大変であった。生きる方向をうしなう一その中で青年共産同盟を
知りそこの活動家となる(注29)。」
彼女にとっても,敗戦によって,正しいと信じこまされていた戦争が侵略戦 争であったことを知った衝撃は大変なものであったことがわかる。彼女もまた,
青共の活動に携わることを通して新しい生き方を見出そうとしていた一人で
あった。
では,敗戦後の虚脱状態から立ち上がった彼等は,合唱活動に何を期待して いたのであろうか。東京外語大の学生であり,青共の文化活動家であった近江 幸正は,当時を回想して次のように述べている。
「焼跡の中から,混沌たる状況の中で平和と民主主義を求める声が高まりつ っある中で,新しい社会・新しい文化の創出を強く求めていた。中学(現日 比谷高)時代,作曲家梁田貞氏が音楽の先生で,日本・ドイツ等の歌曲に心、
を惹かれ,戦争中の軍国歌謡に変る平和希求の歌曲の普及の必要を感じてい
た(注30)。」
彼は,戦前から日本やドイツの歌曲に関心をもち,戦後の新しい条件の下で 平和を求める歌曲の普及を構想していたのである。彼のように明確な音楽観を
もっていなかった青年たちも,新しい文化にふれることを通して,人間の生き 方や文化のありかたについて考えを深めようとしていた。当時の青年に決定的 な影響を与えたといわれるソビエト映画「シベリア物語」は,民衆のなかで自 己の芸術を深めていく音楽家の生活と愛を描いた作品であるが,この映画を見 た青年たちは,ロシア民謡の美しさと,それが民衆の生活に息づいている姿に 感動したにちがいない(注31)。そして,音楽とは人々と共に生きる喜びを分かち 合うものだという確信を深め,合唱活動に対する夢をふくらませていったにち
がいない。
これまで述べてきたように,中央合唱団の性格を規定していたものは,青共 の文化方針,関鑑子の指導性,そして自己変革と社会変革の意識に目覚めた青 年の自覚的な精神であった。うたこえ運動は,こうして出発の歩みを開始して
いったのである。
(⇒ うたこえ運動の民衆的性格
発足した中央合唱団が取り組んだ対外的な活動は,第一に「みんな歌う会」
を通じて職場の青年に歌を広めていくこと,第二に地方公演を行うこと,第三 に「青年歌集」を発行したことである。これらの活動は,多くの青年たちに新 しい歌を広げていくうえで,きわめて大きな役割を果たした。地方公演活動は,
中央合唱団の演奏に刺激を受けて,中央合唱団と同じ性格をもった合唱団が結 成される契機となった(注32)。また,職場での歌う会の活動は,1年余りの期間 に東京都内の主要な職場に広がっていった(注33)。このように,短期間のうちに 新しい歌が青年のあいだに広がっていった要因は,その歌の内容が青年の要求
に合致していたからであり,歌う会活動の形態が,それ以前の職場の文化活動 にはない新鮮な性格をもっていたからである。この点に,労働運動が抑圧され て職場の様々な文化サークル活動が衰退していった一方で,うたこえ運動がそ の壁を突き破って,50年代の新しいサークル運動を生み出す大きな流れとなっ ていった要因がある。これは,うたこえ運動の民衆的性格を示すものであった。
この民衆的性格を,音楽の性格と組織形態の両側面についてそれぞれ明らかに
していきたい。
うたこえ運動の音楽的性格は,1948年9月に発行された「青年歌集」に収録 されてある歌の内容によくあらわれている。この「青年歌集」の編集に携わっ たのは,青共文化部長であった土方与平と合唱団の指導者である関鑑子であり,
また当時の合唱団の初代団長であった清宮正光(石川島重工の労働者であり青 共東京都委員会の文化部長も務めていた)の意見も反映されていたといわれ
る(注34)。この歌集の内容は,三つの柱から成り立っていた。第一には,「われ らの仲間」や「バイカル湖のほとり」等のソビエト歌曲やロシア民謡であり,
第二には,アメリカやドイツ,イタリア等の世界各国の民謡や歌曲であり,第 三には,「木曽節」等の日本の民謡であった(注35)。これらの歌は・軍歌や唱歌 や流行歌しか知らなかった当時の青年たちに対して,きわめて新鮮な印象を与 えた。たとえば,作家である早乙女勝元は,当時を回想して次のように述べて
いる。
「私は鐘紡に働く夜学生だったが,身体にしみついている歌といえば,軍歌 ばかりだった。私ばかりではない。それまでの日本人には,唱歌と軍歌の歴史
しかなかったから,中央合唱団のうたこえの新鮮さといったら,まさに衝撃 的だった。……まさに民主主義のきらめきを象徴するようなそのうたこえは,
春風のようにさえざえと凍えきった私の胸を解きほぐし,人びとの心をとり こにした。「我等の仲間」も「若者よ」も,あるいはソビエト歌曲の「小麦 色の娘」「泉のほとり」「仕事の歌」……数えあげたらきりがないが,歌とい うのは,こんなにも楽しくて力強くて心はずむものだったか,と目を見張っ
たものだ(注36)。」
当時の職場の歌う会では,日本民謡,ロシア民謡,ソビエト歌曲が最も愛好 されていたといわれる(注37)。彼の感じた衝撃は,職場の多くの青年にとって共 通したものであった。
この最初の「青年歌集」の音楽の内容は,50年代にうたこえ運動が全国的に 展開されていくなかで,更に豊かな内容に発展していった。1951年から55年ま でに発行された「青年歌集」の第1編から第4編の曲目の内容は,次の表の通
りであった。
第1編i1951年発行 第2編
i1953年発行 第3編
i1954年発行 第4編
曹№T5年発仁 計
ア メ リ カ 9 {曲
4(曲
2(曲 6曲 21曲黒 人 霊 歌 1 1 3 1 6
イ ギ リ ス 3 2 1 3 9
スコッ トラソド 2
0
1 0 3アイルラソ ド
0 0
1 0 1ド イ ツ 6 7 8 4 25
イ タ リ ア 4 2 3 3 12
ナ ポ リ 3
0
0 0 3フ ラ ソ ス 2 1 1 2 6
ス ペ イ ン
0
1 1 1 3ス イ ス
0
1 0 0 1ハンガリー・
@ ボヘミヤ
0
1 1 5 7
ポ ー ラ ン ド 0
0
10
1フ ィ ンラソ ド 0 0 1 0 1
デ ン マ ー ク 0 0 0 1 1
スウェーデン
0
00
1 1オ ラ ソ ダ 0 0 0 1 1
中南米・ブラジル
0
1 0 1 2中 国 2 5 3 3 13
朝 鮮 6 3 3 3 15
イソドネシア 0
0
0 3 3ロ シ ア 民 謡 10 3 3 2 181
ソ ビエ ト歌曲 10 11 12 9 42
日 本 民 謡 10 8 8 7 33
日 本 の
日 本 歌 曲 3 8 7 0 18
専門音楽家による
甯繧フ創作曲 6 9 11 7 33
歌1 青年による
甯繧フ創作曲 1 5 11 19 36
日本の労働歌・革命歌
5 4 3 0 12外国の労働歌・革命歌
8 7 50
20各編の巻頭に収録された曲目
第 ・「美しき祖国のために」 (岩上順一詞・関 忠亮曲)
1 。「若 も の よ」 (ぬやまひろし詞・関 忠亮曲)
編 。「われらの仲間」 (ソビエト歌曲)
第 。「仲 間 達」 (くすみまこと詞・宅 孝二曲)
2 。「親 友 の 歌」 (ソビエト歌曲)
編 。「心 の 歌」 (関 忠亮曲)
第 。「祖国の山河に」 (紺谷邦子詞・芥川也寸志曲)
3 。「平和を守れ」 (木谷健一詞・種市蔵一曲)
編 。「仲 間 達」 (くすみまこと詞・芥川也寸志曲)
第 。「原爆を許すまじ」 (浅田石二詞・木下航二曲)
4 。「世界の青春」 (ソビエト歌曲)
編 。「東京一北京」 (中央合唱団二十期生詞・寺原伸夫曲)
この歌集の内容にみられる特徴は,次の点にある。第一には,ヨーロッパを はじめ,アメリカ,アジア,ソビエト等,世界各国々の民謡や歌曲が豊富に取 りそろえられていることである。その範囲は各編毎に広がってきている。第二 には,そのなかでも,日本とロシア・ソビエトの民謡や歌曲が重要な位置を占 めていることである。特にソビエト歌曲は,歌集の巻頭に掲載されていること からも,当時の青年たちに広く愛唱されたことを示している。第三には,歌集 の各編の巻頭に掲載された曲に示されているように,専門音楽家の協力や青年 自身の力によって,戦後の青年の生活意識を反映した新しい歌曲が創造されて,
それが広く愛唱されたことである。この三つの特徴は,うたこえ運動の音楽的 性格を示すものであったといえるだろう。この性格について,もう少し立ち入っ
た検討をしてみたい。
第一の性格は,音楽の国際性の豊かさといえるだろう。これは,関鑑子の国 際的で民衆的な音楽観を反映するものであった。先に述べたように,関は,日 本人の音楽性にとって民謡が重要な意味をもっていることに注目していた。関 の日本民謡に対する注目は,世界各国の民謡や大衆的な歌曲のもっている民衆 性に対しても目を向けさせることになったにちがいない。民謡は,民衆の生活 から生まれたという点で民衆性に富んだものであったが,ヨーロッパでは,そ れが今日の芸術音楽の基礎を築いたという点で,普遍的な音楽要素を含んでい たといえる。関が民謡に注目したのは,民謡の民衆性と共に民謡の普遍的な音 楽要素が,民衆の音楽性を発展させていくことを期待していたからではないだ
ろうか。
第二の性格は,日本及びロシア・ソビエトの民謡や歌曲が重要な位置を占め ていることであったが,ここでは特にロシア・ソビエトの音楽の問題について 考えてみたい。先に述べたように,ロシア・ソビエトの音楽が日本に入ってき た経路は,外国で生活していた土方与平がそこで聞き覚えて口ずさんでいた歌 を採譜していったことや,「シベリア物語」等の戦後に上映された映画のなか で歌われた歌が広がっていったのが最初であった。その後,ロシア民謡・ソビ エト歌曲が日本に紹介されて広く普及していくうえで大きな役割を果たしたの は,ソビエト抑留者を中心にして1949年に結成されて活動を展開した「帰還者
楽団」(後に楽団「カチューシャ」と改称)と,ソビエトに抑留されていて帰 国してきた北川剛を指導者に迎えて,1950年頃から活動を展開し始めた「合唱 団白樺」の力であった。ロシア民謡・ソビエト歌曲が多くの青年たちに愛唱さ れた理由は,その音楽的性格のなかに青年の心情をひきつける魅力があったか らだと考えられる。その魅力の性格は,生活性・好情性・合唱性という三っの 点にあると思われる。たとえば,小泉文夫は「こと民謡に関する限り,ロシア・
ソヴィエトの歌が,最も美しいメロディーを多く持っており,その合唱による 歌い方も,他のあらゆる民族のものよりすぐれた要素であるという点について
は誰も異存がないであろう(注38)。」と,ロシア・ソビエトの歌が,旋律の美し さの点,合唱構成の点で,あらゆる民謡のなかで最も優れていることを指摘し ている。また,ロシア民謡・ソビエト歌曲がとりあげている歌のテーマは,生 活の多様な内容を表現しており,生活性という点でも優れていた。このような 性格は,それまでの日本の歌にはみられない性格であった。
第三の性格は,戦後の青年の生活意識を反映した新しい歌が創造されたこと であった。最初は,専門音楽家の力によるところが大きかったが,運動が広がっ ていくにつれて,専門的な音楽教育を受けていない青年の手によって,様々な 歌が創作されていった。このような青年の音楽的創造力に注目しで,林光は音 楽家としての立場から,次のような評価を述べている。
「わずか6.7年の間にずぶの素人が発揮するこの様な創造力というものは,
日本の音楽の将来に限りない光をなげかけるものであり,それ以上に,長い あいだいわれつづけてきた 国民音楽 というものの,最も素朴にして肝心な
芽がここにある,ということを示している(注39)。」
林は,素朴な形ではあるが青年が示していた音楽的創造力のなかに,日本の 国民的な音楽文化の基盤を作り出していく契機を見出そうとしていたのであっ た。また,芥川也寸志は,芸術音楽と民衆音楽が分離した日本の音楽文化の状 況を,「外にむかってそのすばらしさを誇示することはできても,内から支え
られるものが何もない」と表現し,日本の音楽文化を内側から支える態勢を作 るためには,「面倒でも生活の中にある音楽をみつけ出し,ほり起して行くこ とから始めなければなりません(注40)。」と述べていた。この芥川の見解も,日
本の国民的な音楽文化の創造という見通しのなかに,民衆が生活のなかから表 現しようとしていた音楽的創造性の意味を位置づけようとするものであったと
いえよう。
このように,民衆の音楽的創造性が尊重され,日本人の生活感情を表現する 歌曲の創造が強調されるようになった契機は,1952年末に開かれた第4回職場 音楽活動家会議と,第2回全国合唱団会議であった。会議では,各職場の歌う 会や,合唱団の活動状況を交流することによって,今後の運動の方向性が模索
されていた。このなかで,最も本質的な問題を提起していたのは,日本酒造か らの代表者であった。彼は,歌う会に参加している青年の様子を次のように語っ
た。
「うたう会に来る人は労働者のうちのほんの一部ではないでしょうか。職場 で「けつまずいてもころんでも」(中国の歌曲〉をうたったら,いいうただ けれどもやめてくれ,けつまずいたり,ころんだりするうたはいやだ,もっ と面白いうたを,そうなるまえのうたをおしえてくれといっている。青年歌 集をみた職場の青年は,「なんだ,おれたちの知ってるうたはひとつもない
じゃないか」といった(注41)。」
「青年歌集」にある民謡や歌曲だけでは,職場の青年たちの音楽的要求には 応えきれないという指摘であった。そして,問題の克服の方向性が次のように 語られていた。
「青年歌集には日本のうたが少い。たとえば「村祭り」とあるのでピーヒャ ラヒャラというのかと思ったらハイビルビルだし,草けいばにしてもドゥ ダーではなんのことかわからない。EI本のうたがほしい。……民謡はむずか しく数も少いのでほり出しも大切だが,流行歌・民謡から青年歌集へいたる 途中のうたがほしい。歌をつくるとき,みんなの心をいい切ったものがほし
い(注42)。」
これは,青年の生活感情に合致した新しい日本の歌の創造,という課題の提 起であった。この提起は,他の職場の代表者からも共感をもって受けとめられ
た。たとえば,東京機械からの代表者は,新しい日本の歌を創造していく必要 性を次のように述べている。
「うたでいえば,「どじょっこふなっこ」のようなうたが日本のうたこえの 真の姿ではないだろうか?……いま,私たちは,アメリカの音楽に対抗する 「日本のうたこえ」をつくらなければならないと思う。生ぬるいようでも,
ほんとうに日本人の気持をうたったうたを……(注43)。」
このような職場からの問題提起をふまえて,第2回全国合唱団会議では,各 合唱団の活動状況が交流されて,青年たちの音楽的な要求のとらえ直しが議論 された。このなかでは特に流行歌の問題が議論され,中央合唱団からの代表者 は,流行歌にかわる新しい歌の創造という問題を提起して次のように述べてい
た。
「もんだいは労働者の感情にこたえて何をあたえるか,これがわれわれの任 務だと思う。……みんな,うたううたをもっていない。だからその要求にこ たえ日本人の生活感情をうたったうたをつくらねばならない(注44)。」
労働者の生活感情,日本人の生活感情をとらえ直して,彼らの要求に合致し た歌を創造していくことの必要性が提起されていた。この課題は,音楽家に課 せられた創造上の課題であったと同時に,青年自身が音楽的創造に携わること によって,自分の生活感情を表現する新しい歌を創造していくことを促してい
たといえよう。
以上みてきた,うたこえ運動の音楽的性格の新しい意義は次の点にあったと いえる。第一には,青年の生活感情に合致した歌を,日本及び世界の音楽的遺 産のなかからとりあげたことである。これは,民衆が生活のなかで生みだして 発展させてきたものであり,民衆性という点で優れたものであった。同時に,
それらの歌は,芸術音楽の基礎を作り発展させていったという点で普遍的な意 義をもっていた。第二には,音楽家の協力と青年自身の創造によって,青年の 生活感情に合致した新しい歌を創造しようとしたことであった。これは,青年 のリアルな生活意識を表現する歌を広げ,青年の音楽的創造力を開花させて いったという点で,大きな意義をもっていた。
次に,うたこえ運動の組織的な形態であったサークルの民衆的性格について 検討していきたい。運動が広がっていく過程で,まず最初の組織形態となった のは,職場の「みんな歌う会」であった。関鑑子は,「みんな歌う会」にっい
て次のような構想をもっていた。
「組合に音楽好きをふやすにはどうしたらいいでしょう。それはみんな歌う機 会,みんな聴く機会を多くつくることです。」「このみんな歌う会を合唱団の 「仕事」にしてゆくことは,合唱団と大衆のよい交流になり,しかも音楽を
一般的にする一つの方法だと思っております(注45)。」
先に述べたように,戦後初期の職場の文化サークル活動は,労働運動に対す る抑圧を契機として,労働者の文化的要求に応えていく大衆的な活動形態が模 索されていた。関は,職場の音楽文化活動を更に大衆化していく方法として,「み んな歌う会」を構想していたのであった。この歌う会は,中央合唱団の働きか けによって,1949年頃から職場のなかに急速に広がっていった。このように,
急速な広がりを示した要因としては,占領政策の転換による労働運動の抑圧の なかで,職場を明るいものにして,人間らしい喜びや仲間との共感を味わえる 場を求める青年たちの要求が潜在的に広がっていたことがある。歌う会は,青 年たちの抑圧された生活意識を刺激して,彼らを解放していく契機となったの であった。この点に,歌う会とサークルの性格の類似性と本質的意義がある。
歌う会やサークルは,抑圧された青年たちの生活意識に解放の水路を開いたの であった。では,このような意義をもつサークルの民衆的性格はどこに求めら
れるだろうか。
大田発は,50年代のサークルの性格の前史を,日本の村の たまり場 に求 めて,その意義を「人間らしさがほとんど圧殺されているといってもいい村の くらしの中で,ここだけがほんがりした人間味をとどめたただ一つの空間だっ たともいえるのです(注46)。」と述べていた。また,清水幾太郎は,サークル活動 が発展していった背景には,職場の抑圧された人間関係からの解放を求める青 年たちの「家庭生活に見られるような,直接的で永続的で全面的な接触への飢 え」や「遠慮のない,シットリとした人間関係への憧れ(注47)」が強く存在して いたのではないか,と述べていた。この両者の見解は,村の たまり場 や日本 の家庭生活という,民衆が創り出していた人間関係の発展のうえに,サークル の性格を位置づけようとするものであった。サークルの民衆的性格は,この点 にあったといえるだろう。
うたこえ運動が,50年代の日本社会に急速に広がっていった要因は,これ まで述べてきたように,運動のもっていた民衆的性格に由来するものであった。
では,それは青年たちの自己形成といかに関わるものであったのだろうか。
三,うたこえ運動と1950年代における青年の自己形成
←う傷痕と抑圧からの解放を求めて
うたこえ運動が青年の自己形成にいかなる役割を果たしたかを明らかにして いくうえで,まず50年代における青年の自己形成上の課題を探ることから検 討してみたい。50年代の政治状況は,第二次大戦後の米・ソ両陣営の対立とい
う新たな国際的緊張の下で,日本の平和と独立という問題が最も大きな政治的 課題として争われていた。1950年頃から始まった全面講和の締結を求める運動,
1953年の内灘闘争に始まる各地での基地反対闘争の高揚は,平和と独立を求め る民衆の強い要求を象徴的に示すものであった。一方,青年をとりまいていた 社会的状況はどうであっただろうか。職場では,50年前後のレッドパージにょ
る組合運動の抑圧や,朝鮮戦争を契機とした生産需要の増大による労働強化が 進行しており,青年たちの生活意識は抑圧された状態にあった。また,農村でも,
戦後の農地改革によって近代的な社会関係が制度的に保障されていたが,社会 意識や人間関係の面では,戦前以来の半封建的な要素は未だ充分に克服されて いなかった。たとえば,ある青年は自分の職場の様子を次のように語っていた。
「余りにも学校に愛着と未れんを持ったまSそれでも何か期待を持って社会 という名の所へ片足いれたのですが,そのとたん感じたものは暗い圧迫そし て幻滅ばかり。あるものに従わなければ致命的,人間は打算的。純粋に生き ようとしていた私は窒息しそうでした。あんなに沢山の人のいる職場でお互 に正直に物が言えない。お互に感じたり考えたりしていることはかくして「か ら」を着ている。それだからみんな浅い所で調子を合わせている。そんな中 で私は考えることは自分の中にとちこもる様になってしまい学生時代底ぬけ