序 プロクロス哲学における基本的な四つのTaSig jjZTOLYei-CjoaLg SeoAoyLK﹁︵prop. 14-20︶を中心にI 梗 概 論 ︹コプロクロス哲学における﹁四つの段階﹂は最も基本的な体系組織。 ︹二︺この章で扱う﹁存在者﹂は一般的な意味であって狭義のそれではない が、善一考とは明確に区別される。 ︹三︺本稿の目的 第一章 存在者の三つの区別 ︹四一存在者の三区分⋮⋮不動者、自動者、被動者 ︹五︺その証明全体の二段構造と証明の前提となる事実︵被動者の存在︶ ︹六︺その証明の第一段階二︶⋮⋮被動者間の原因と結果は円環もしない し無限遡源もしない。 ︹七︺同右︵二︶⋮⋮不動者が存在する。 ︹八︺右の吟味⋮⋮不動の第一動者は存在者であっ七善一者ではない。 ︹九︺証明の第二段階︵一︶⋮⋮自動者の存在証明のテクスト ︹百同右︵三⋮⋮自動者の存在証明 ︹一二第一章の結論と吟味 第二章 自己帰還者と非物体性 ⊇一︺右の区別の概要⋮⋮⋮自動=自己帰還=自己認識=非物体︵=魂︶ 第一節 自動者と自己帰還者 崎 文 明 大文学部哲学教室︶ ︹Ξ︺自動=自己帰還 ︹一四︺その証明︵一︶⋮⋮﹁自動的なもの﹂においては﹁動かすもの﹂h﹁動 かされるもの﹂ ︹三︺同右︵二︶⋮⋮自動の三つの場合 ︹一六︺同右︵三︶⋮⋮第一の場合︵物体︶と第三の場合︵人間︶ 二七︺同右︵四︶⋮⋮第二の場合︵魂︶、その活動は自分自身に向いている。 ︹ス︺第一節の結論と吟味 第二節 自己帰選者と非物体性 ︹一九︺自己帰還者=非物体的。﹁テーゼ﹂とその﹁証明﹂のテクスト ︹言︺その証明 三︺第二節の結論と吟味 第三節 自己帰還者の実体と物体との分離 ︹三一︺自己帰還者の実体は物体から分離している。 ︹豆︺その証明︵一︶⋮⋮要点とテクスト ︹ご四︺その証明︵二︶⋮⋮第一前提︵自己帰還者の実体が物体から分離して いないならその活動も分離していない。︶ ︹二五︺その証明︵三︶⋮⋮第二前提︵するとそれは自分自身に帰還しない。︶ ︹二六︺第三節の結論と吟味 第三章 各段階(taSic)の区別の原理 第一節’異なる段階 ︹一石︺分与者は被分与者に与える性質を固有に持っている︵命題一八︶
七
六
高知大学学術研究報告 第三十九巻 ︵一九九〇年︶ 人文科学 ︹夭︺auTO TO eIvqlとesse ipsum ︹二九︺その証明︵一︶⋮⋮要点とテクスト ︹三−︺その証明︵二︶⋮⋮与えたものに先在している性質は第一義的に在 り、与えられた性質は第二義的に在る。 ︹Ξ︺その証明︵三︶⋮⋮その論理的証明のテクスト ︹三︺その証明︵四︶⋮⋮一一一つの可能性のうち二つが否定される。 言こ第一節の結論と吟味 第二節 同一の段階 ︹一品︺同一の段階に属するものはすべて第一義的にその性質を持つ。︵命題 一九︶ ︹翌︺その証明︵一︶⋮⋮﹁証明﹂のテクスト ︹Ξハ︺その証明︵二︶⋮⋮或る段階に属する性質がその段階の構成員に等 しく存在していないならば、その性質は第二義的に在る。 ︹毛︺第二節の結論と吟味 第四章 四つの基本的な段階︵ま″︷a︸ ︹一穴︺結論の先取り⋮⋮四つの段階 第一節 魂と物体の区別 ︹元︺その証明︵一︶⋮⋮fアクスト ︹四Ξその証明︵二︶⋮⋮魂は物体に自動性を分有させている。第二節 知性と魂の区別
旦︺その証明二︶⋮⋮fアクスト
酋心その証明︵二︶⋮⋮魂は分有によって知性の絶えざる直知作用に与
がる。
第三節 一考と知性の区別 ︹四三その証明︵一︶⋮⋮・アクスト ︹ 四 四 ︺ その証明︵二︶⋮⋮知性は二、一者はI。一者は知性より普遍的。 ︹望︺第四章の結論 結 論 ︹四六︺思想源泉︵一︶⋮⋮総論 ︹四七︺思想源泉︵二︶⋮⋮プーフトン﹃パルメニデス﹄の﹁無限の一者﹂と︻存 在する︼者﹂ ︹哭︺思想源泉︵三︶⋮⋮プーマ’トン﹃ティマイオス﹄の﹁製作者﹂と﹃法律﹄ の﹁知性﹂ ︹四九︺結論 註序 論 二︺ プロクロス︵心芯−などは、その著﹃神学綱要﹄において、はじ めに︵第一章︵︱︶︶二者﹂︵ま?︶の超越性と内在性を確立し︵命題一 ︱六︶、その次に︵第二章︶﹁善﹂︵TO ayaSov)のそれらを確立すると同 時に両者を結び付けて﹁善一者﹂︵TayaSov fi to ev︶となし、これを万 有の根源として確立している︵命題七−十三︶︵2︶。そして、この後に︵第 三章︶﹁存在者﹂︵ま曾︶全体を三つの﹁段階﹂︵衣びn︶に分かち、はじ めの﹁善一者﹂と合わせて、都合四つの﹁段階﹂︵衣″広︶に階層分けする のである︵命題十四−ニ○︶。 ﹃神学綱要﹄においては、﹁善一者﹂を確立した後直ちに、この﹁四つ の段階﹂に言及しているところから解せられるように、この諸段階はプ ロクロス哲学においてその骨格たる最も基本的な組織であると考えられ 四つの段階とは、具体的に言えば﹁善一者﹂、﹁知性﹂︵0 き冑︶、﹁魂﹂ ︵ご言弥︶、そして﹁物体﹂︵ま呂石︶である。ここでは、善一者を除く 三つは総称して﹁存在者﹂と呼ばれている。 ︹二︺﹁存在者﹂というこの語に対して次のこ七に注意しなければなら ない。 同書の第三章において、﹁存在者﹂という語は二つの意味で用いられて いる。ひとつは、一般的な意味での﹁存在者﹂であって、善一者を除く すべての段階に属するものを包括している。既述の存在者はこの意味で 用いられている。いまひとつは、狭義の﹁存在者﹂である。これはいわ ゆる﹁存在者﹂−﹁生命﹂︵fi4wTi ︶︱﹁知性﹂というtriad / Triade三 つ組︶の一つの構成要素を指している。︵但し、拙稿においてはこの意味 の存在者には言及しない、︶ しかし﹁存在者﹂という語は、一般的な意味であれ狭義であれ、﹁善一 者﹂を決して含まず、それと明確に区別されているが、これはプロティ ノスこ畠一回つ︶を受けている。われわれはこの区別に特に注目しなけば ならない。なぜなら、これが西洋中世の思想世界に一種の衝撃を与え、 おそらくこれを苦しめたであろうからである︵3︶。というのも西洋中世哲 学における﹁一者﹂は﹁善﹂であると共に、﹁存在者ないし存在﹂である のみならずまた﹁知性﹂でもあるからである。
︹三︺ さて、本稿の意図は、プロクロス哲学において、かかる最も基
本的な﹁四つの段階﹂が如何にして出現してくるかを、﹃神学綱要﹄第三
章のテクストに従って詳細に考察するにある。
第一章 存在者の三つの区別
︹四︺ プロクロスははじめに存在者全体を﹁動﹂の観点から三つに分 ける﹁命題十四のコアーゼ﹂︶。テクスト曰く、 ﹁すべての存在者は不動であるかあるいは動かされるかのいずれ かである。そしてもしそれが動かされるのであれば、自分白身によ って動かされるかあるいは他者によって動かされるかのいずれかで ある。また一方もしそれが自分自身によって動かされるのであれば、 自動的であり、他方もしそれが他者によって動かされるのであれば 被動的である。それゆえ、すべてのものは、不動であるか、自動的 であるか、被動的であるかのいずれかである。﹂︵4︶ つまり、存在者においては﹁不動のもの﹂︵TO aKLVTlTOv)'﹁自動的な もの﹂︵まaUTOKiVTlTOv)そして﹁被動的なもの﹂︵TO exepoKivriTov)の 七七 プロクロス哲学における基本的な四つのTaEic ..ZToiYELoiais QeoXoyuvhズprop. 14-20)を中心にI ︵岡崎︶七八 高知大学学術研究報告 第三十九巻 二九九〇年︶ 人文科学 三つが見られるのである。これらの三つもいわゆるTri乱eの一つであ り、ペリパトス学派の伝続から由来したものとされる︵5︶。ところで、結 論を先取りすれば、まず、﹁不動のもの﹂とは﹁自らは動かずただ他者を 動かすだけのもの﹂を意味し、具体的には﹁知性﹂を指している。これ はアリストテレスのいわゆる﹁思惟の思惟﹂(vorioecog voriaic。︵6︶︶たる ﹁不動の第一動者﹂︵TO TrpWTOV KlVOiJV OtKLVTlTO庖∼︶に対応する。 また、﹁自動的なもの﹂とは﹁動かすものであると同時に動かされるも の﹂を意味し、具体的には﹁魂﹂を指している。これはプラトンの﹁自 分自身を動かし、すべての運動の始源である∼﹂﹂ところの﹁魂﹂︵宇宙霊 魂︶に由来する。 最後に、﹁被動的なもの﹂とは﹁他者によってただ動かされるだけのも の﹂を意味し、物体・身体を指している。︵ただし、不動者が知性であり、 自動者が魂であることは、第三章の命題十四から十九まででは直接言及 されずに一般的に議論され、命題二〇になってはじめてそう同定される のである。このように一般的議論を先行させ次第に限定していく論述の 仕方は同書の特徴でもある。︶ ︹五︺ ところで、一般に、論理的に証明されたものは必ずしも実在す るとは言えない。なぜなら論理が適用される範囲は実在のそれと異なり、 かつ前者は後者よりも広いからである︵9︶。 プロクロスもこの点に留意し、﹁存在者﹂全体を三つに区分した後これ らが実在することを証明するのであるが︵命題十四の﹁証明﹂︶、そのた めに几つの事実﹀を論証の前提として導入する︵10︶。それは、﹁被動的な もの﹂︵物体・身体︶は存在している、という経験的事実である。 そのテクストは言う。 ︵I︶﹁被動的なるものが在るのであるから、不動のものもまた在ら ねばならないし、それらの中間に自動的なものも在らねばならな I○ ︵11︶ rv﹂ ここに﹁被動的なるものが在るのであるから﹂を事実として提出し、 前提としていることが明確に読み取れる。そしてこの事実から﹁不動の もの﹂と﹁自動的なもの﹂の実在性を引き出す。その順序は先項︹四︺ にあげたテクストに見られるように、先ず存在者全体を﹁不動のもの﹂ と﹁動かされるもの﹂とに二大別して、その次にさらに﹁動かされるも の﹂を﹁自動的なもの﹂と﹁被動的なもの﹂とに二細分する︵12︶。そして 都合三つの存在者を引き出すのである。
︹六︺ 右のテクストに続いてその﹁理由﹂がつけられている。それは
二つの部分からなる。その第一段階ではこう言われている。
︵1︶﹁もしすべての被動的なものが他の動かされたものによって動
かされるなら、それらの動は円環をなすかそれとも無限に遡源する
かのいずれかである。しか七、いやしくもすべての存在者が根源︻ア
ルケー︼によって限界付けられ︵命題十一︶、動かすものは動かされ
るものよりも優れている限り︵命題七︶、それらの動は円環をなして
いるのでも無限に遡源するのでもない。してみると何らかの不動の
第一の動かすものが存在するのである。﹂︵13︶
もし、ただ﹁被動のもの﹂のみが実在するとした場合には、﹁被動のも
の﹂は他の﹁動かされたもの﹂によって動かされるのであるから、そこ
には二つの可能性がある。すなわち、その原因︵作動因︶と結果の連鎖
は円環をなしてめぐるか、それとも無限に遡源するかのいずれかである。
しかしそれらはいずれも成立しない。なぜなら、すでに命題十一にお
いて﹁すべての存在者は根源・第一原因によって限界付けられている﹂
ことが保証されているからである︵14︶。
したがって、これは第一原因を上限とした原因・結果の一つの連鎖系
列を作っていることになる。それでは、これはどういう系列であろうか。
︹七︺ 目下問題とされる系列は、命題七﹁他のものを生むことができ るものはすべて、生みだされたものよりもすぐれている﹂︵15︶によると、 ﹁優劣関係の系列﹂となる︵ここで﹁より優れている﹂とは﹁第一原因に より近い﹂ことを意味する。︶ なぜなら、﹁生む﹂は広い意味で﹁動﹂であるから、命題七を﹁動﹂に 適用すると、﹁動かすもの︵原因︶は動かされるもの︵結果︶よりも優れ ている﹂ことになるからである。 ところで、この優劣関係を待った﹁動﹂の連鎖系列は限界付けられて いる︹六︺のであるから、これを遡行した頂点には第一のものが存在し なくてはならない。だがそれは被動者︵=被動的なもの︶ではない。な ぜなら、もし被動者なら、この最高の被動者を動かすさらにより優れた 動因が他にあることになり、したがって最高の被動者はその系列の頂点 となることはできないからである。ゆえに、この﹁動﹂の系列の上限に は、﹁被動者﹂︵﹁動かされるもの﹂︶の段階を超えて﹁動かないものでし かも他者を動かすもの﹂、この意味で﹁不動の第一の動者﹂が存在してい なくてはならないことになる。 これが、証明の第一段階の結論である。︹八︺ しかしながら、ここに注意しなければならないことが二つ見ら
れる。
そのひとつは、証明の第一段階の論の流れからすれば、被動者を動か
すものは﹁必ずしも︿不動の動者﹀であるばかりではなく、また︿自動
的なもの﹀でもあり得るのではないか﹂という疑問が生じることである。
確かにもし初めから三つに区分された存在者が念頭におかれていたの
であるならばそういう疑問も生じるであろう。しかし、この証明の全体
構造は、既に述べたように︹五︺、第一段階ですべての存在者を﹁動かさ
れるもの﹂と﹁不動のもの﹂とに二大別し、第二段階で﹁動かされるも
の﹂を﹁自動的なもの﹂と﹁被動的なもの﹂とにさらに二細分するとい
う形になっている。したがってこの証明構造からいけば、その第一段階
でプロクロスの念頭にあるのは、﹁不動のもの﹂と﹁動かされるもの﹂の
二つのみであって、両者の区別が問題となっているのである。それゆえ
ここで言う﹁被動的なもの﹂とは、厳密な意味のそれ︹四︺ではなくて、
むしろ多少ゆるく﹁自分によって動かされるもの﹂も含む﹁動かされる
もの一般﹂を指していると考えねばならないであろう。
第一段階では﹁不動のもの﹂が﹁動かされるもの﹂から分離されて確
立するのである。第一段階をそう解釈すれば、続く論証の第二段階の意
図もより正確に理解することができるであろう。
またさらに、注意しなければならないもうひとつの点は、﹁不動の第一
動者﹂はあくまでも存在者の一つであって、存在者の領域を超えた万有
の根源’・第一原因ではないということである。なぜなら、この﹁動﹂の
連鎖系列は﹁広い意味で︿動﹀にかかわるもの﹂︵不動の動者もまたネガ
ティブに﹁動﹂にかかわる︶の領域︵=存在者︶を出ることはできない
が、これに対して第一原因は﹁動﹂にネガティブにさえかかわらないか
らである。
︹九︺ さてこうして﹁不動のもの﹂の実在性が確かめられたのである
から、次に、﹁自動的なもの﹂の実在性の証明に移る。これが証明の第二
段階である。そのテクストはこう言っている。
︵2︶﹁しかしもしそうであるなら自動的なものもまたあらねばなら
七九 プロクロス哲学における基本的な四つのxa^iQ 。ZT0ixeLa)aL5 BeoXoYiicfi” (prop. 14-20)を中心にII ︵岡崎︶八〇 高知大学学術研究報告 第三十九巻 こ九九〇年︶ 人文科学
ない。なぜなら、すべてのものが静止していると考えた場合、第一
に動かされるものはいったい何であろうか。それは不動のものでも
なく︵不動のものは本性上動かないからであり︶、また被動的なもの
でもない︵被動的なものは他の︹動かされた︺ものによって動かさ
れるのであるからである︶。したがって、第一に動かされるものは自
動的なものであることが残る。これこそ被動的なものを不動のもの
に結合するものだから、これはある仕方で両者の中間にあり、そし
て動かすものであると同時に動かされるものでもある。なぜなら、
両者の一方︹=不動のもの︺はただ動かすのみであり、他方︹被動
のもの︺はただ動かされるだけであるのだからである。﹂︵16︶
︹一〇︺ ここでは、﹁不動のもの﹂が実在するとなれば﹁自動的なもの﹂ も実在することが証明される。 すべてのもが静止していた場合、﹁第一に動かされるもの﹂とは一体何 であろうか。 それは﹁不動のもの﹂ではない。なぜなら、﹁不動のもの﹂は本性上動 かないからである。またそれは﹁厳密な意味での被動的なもの﹂でもな い。なぜなら、﹁厳密な意味での被動的なもの﹂は﹁他のもの﹂によフて のみ動かされ、したがってその﹁被動的なもの﹂よりも先に﹁他のもの﹂ が動因として存在していなければならないからである。 それゆえ、﹁被動的なもの﹂が存在する限り、﹁他者によらず自分自身 によって動かされるもの﹂が、先ず初めに存在していなければならない ことになる。 これが﹁自動的なもの﹂である。﹁自動的なもの﹂は基本的には﹁動か されるもの﹂である。そしてある意味で﹁不動のもの﹂と﹁被動的なも の﹂との中間にあって、両者の性格をいねば兼ね備えている。すなわち、 ﹁第一に動かすものであると同時に動かされるもの﹂でもある。 これが第二段階の結論である。 二こ そしてここから全体の結論に至る。テクスト曰く。 ︵H︶﹁それゆえ、すべての存在者は不動のものであるか、自動的な ものであるか、被動的なものであるか、のいずれかである。﹂︵17︶ ここに、すべての存在者が三つに区分され、そしてこれらが実在する ことが証明された。すなわち、﹁不動のもの﹂、﹁自動的なもの﹂そして﹁被 動的なもの﹂が実在するのである。 ここで三者の関係を整理しておこう。先ず、﹁動かされるもの﹂の観点 からすれば、これには﹁自動的なもの﹂と﹁被動的なもの﹂が含まれる が、このうちで前者が﹁第一のもの﹂となる。ところが次に、﹁動かすも の﹂の観点からすれば、これには﹁不動のもの﹂︵=﹁不動の第一動者﹂︶ と﹁自動的なもの﹂が含まれるが、このうちで前者が第一のものとなる ︵18︶o そして﹁動かすもの﹂の方が﹁動かされるもの﹂よりもより先である から、結局﹁不動の第一の動者﹂がすべての存在者のうちで﹁第一のも の﹂となる︵しかしこれは第一原因ではない︹八︺︶。 とは言っても、この箇所だけでは、不動の動者と自動者との関係が十 分に明らかになったわけではない。 だが存在者のかかる分類においてアリストテレスの知性︵不動の第一 動者︶とプラトンの魂︵宇宙霊魂︶がプロクロスなりの仕方で位置づけ られ、その体系組織の中に組み込まれていると言うことができるであろ第二章 魂と物体の区別 ︹コー︺ プロクロスは同書第三章においてさらに続いて魂と物体とを 区別するが、それも先の三区分と同様に﹁動﹂の観点からなす。その概 略はこうである。 魂は自動的なもめであるが、その特徴は﹁自分自身を動かす﹂という 点にある。では﹁自分自身を動かす﹂とは一体何を意味しているのであ ろうか。それは﹁自分自身へ帰ること﹂︵npdc。eavr6 ejtioTpEcpeiv)を意 味している。すなわち魂の自動性は自己帰還性を意味しているのである ︵命題一七︶。しかも、自分自身に帰ることができるものは﹁非物体的﹂ である︵命題一五︶。またそれは﹁物体から分離した実体を持っている﹂ のである︵命題一六︶。このようにして﹁魂﹂と﹁物体﹂を区別する。 だが、右は四つの基本的な段階︵芯ぴn︶を構成するために避けて通る ことができない区別であるばかりではなくて、ここ︵第三章︶では直接 に述べられていないが、次のような重要な意味も持っているのである。 第一に、この区別は後の命題に受け継がれて﹁魂の不死﹂が結論され る前提となる︵命題一八六、一八七︶︵19︶。 第二に、この区別はストア派の魂論への反駁となる。ストア派は魂を 物体的なもの︵火的な気息︶と考えていたからである︵20︶。 さらに第三に、﹁自分自身へ帰る﹂とは﹁自己認識﹂を意味している︵命 題八三︶︵21︶。ストア派も﹁自己へ帰力観想する﹂という意味での自己認識 に重要な意義を見出しているが、しかし新プラトン派はストア派におけ るよりもさらに深い意義をこの﹁自己認識﹂に認める。つまり、自己を 認識することは、確かに一つの孤立したものとしての自己を認識しはす るが、しかしそればかりではなく、また自己は可能的にはすべての段階 八 − を含んだものであると認識することでもあるとされる︵苔。これは、プロ クロスに﹁汎神論﹂︵Pantheismus︶の熔印が押されるひとつの根拠とな る。 第三に、プロクロスにおいては、魂は非物体的でありそして自己認識 をする。だが、かかる﹁自己認識性﹂と﹁物体からの分離性﹂との結合 は既にアリストテレスの中に現れている︵23︶。やはりここにもプロクロス は先行する哲学の成果を自己の哲学体系の中に組み込んでいるのが見ら れる。その意味でもプロクロス哲学は古代哲学のある種の総括たるの位 置を占めていると言うことができるであろう。 以上の意味で、魂と物体の区別は、かかる新プラトン主義の重要な要 素につなかっていく意義を持つと言うことができるであろう。 第一節 自動者は自己帰還者 二三︺ そこでまず、魂の﹁自動性﹂と﹁自己帰還性﹂の結合から検 討していくことにしよう。それは命題一七においてなされている。 その﹁テーゼ﹂のテクストはこう述べている。 ﹁第一に自分自身を動かすものはすべて、自分白身へ帰ることがで きるものである。﹂︵24︶ ﹁自分自身を動かすもの﹂︵自動者︶とは、動かす﹁主体﹂︵動者︶が同時 に動かされる﹁対象﹂︵被動者︶でもあることを意味している。他方また、 ﹁自分ぽ身へ帰るもの﹂︵自己帰還者︶とは、帰る﹁主体﹂と帰・る﹁目標・ 対象﹂とが同じであることを意味している。この意味で右の﹁テーゼ﹂ は、﹁自動的なもの﹂と﹁自己帰還するもの﹂とを結合しているのである。 では一体、それは何故であろうか。 ゛二四︺ その証明が続いて述べられる。そのポイントはこうである。 プロクロス哲学における基本的な四つのTa£ic 。2Toi.xELttiaL5 QeoXoyid]” (prop. 14-20)を中心にI ︵岡崎︶
八二 高知大学学術研究報告 第三十九巻 ︵一九九〇年︶ 人文科学 二︶ まず自分自身を動かす場合を三つに分けて、各場合を検討し︹T︺ ︵︱︶ ︵2︶ ︵3︶︺、 ︵二︶ 自分自身を動かすものは、動かしかつ動かされるものであって、 ﹁自分自身へ向かう動を持つ﹂となし、これが﹁自動﹂ということで ある、とする︹︵4︶︺。そして結論に至る︹︵H︶︺。 テクストはその﹁証明﹂をこう述べている。 ︵I︶﹁もしそれが自分自身を動かすのであれば、その動かす活動も 自分自身へ向いており、そして動かすものと動かされるものとは同 時に一つである。﹂︵25︶ ﹁自分自身を動かすもの﹂︵自動的なもの︶は、その活動︵?君1石︶が 自分自身に向けられている。そして、右記の如く︹一三︺﹁動者﹂︵主体︶ と﹁動かされるもの﹂︵対象︶とが同じである。それは何故か。
︹一五︺ さらにテクストはその理由をこう述べている。
︵I︶﹁その理由はこうである。それは、一方では或る部分によってI
動かし、他方では別の部分によって動かされるか、あるいは全体が
動かしかつ動かされるか、あるいは一方では全体が動かし、他方で
は部分によって動かされるか、あるいはその逆であるか、のいずれ
かである。﹂︵26︶
まず自分自身を動かす仕方を三つに分ける。第一は、全体の内で﹁動
者の部分﹂と﹁動かされる部分﹂とが別々である場合であり、第二は、
全体がっ動者﹂であると同時に﹁動かされるもの﹂でもある場合であり、
第三は、全体が﹁動者﹂でありその部分が﹁動かされるもの﹂であるか、
もしくはその逆の場合である。
以下順次に各場合を吟味していく。
二六︺ まず第一の場合である。そのテクストはこう述べている。
︵2︶﹁しかしもし動かすものと動かされるものとがそれぞれ別の部
分であれば、・それはそれ自身に即して自動的でないことになるであ
ろう。というのも、それは自動的でない部分から成っており、だが
外見的には自動的であると思われるが、本質的にはそうではないの
だからである。﹂云︶第一の場合は、全体が﹁動かす部分﹂と﹁動かされる部分﹂とに分かれ
るのであるから、少なくとも後者は、それ自身においては自動的ではな
くて被動的である。したがって、全体は被動的部分を含むゆえ、全体と
して自動的に見えるとしても、本質的には自動的ではないのである。こ
のような場合は物体にしか当てはまらない。なぜなら、全体と部分に分
けられ6 ものば物体であるからである。
例えば、一本の列車を考∼てみれば、全体が自動的に見えても、しか
しその中の機関車が動者であり、客車が被動者である。
次に、前後するが、第二の場合をとばして第三の場合を見てみよう。
そのテクストはこう述べている。
︵3︶﹁ところでもし全体が動かして部分が動かされる、あるいはそ
の逆、であるなら、両者には同時に同じ観点において動かし動かさ
れる何らかの︹共通の︺部分が在るだろう。そしてこの部分が、。第
一に自動的なもの︻=最初に自分自身を動かすもの︼である。﹂︵28︶
全体が動かしその部分が動かされるのであれば︵あるいはその逆であ
っても︶、少なくとも﹁動かしかつ動かされる﹂部分が共通に在らねばな
らない。この部分が﹁自動的なもの﹂となる。
その例として、プロクロスはおそらく人間を考えているのであろう。
人間は魂と身体の複合である。その一方の部分である魂が第一に意識を
起こして人間全体︵魂と身体の複合︶を動かす。そして少なくとも魂は
﹁動かし動かされる﹂共通の部分となる。
︹一七︺ 最後に第二の場合であるが、これが本来の自動的なものであ
る。テクストはこう述べている。
︵4︶﹁ところでもし一つの同じものが動かしかつ動かされるのであ
れば、それは自分白身を動かすものだから、自分自身へ向かう動の
活動を持つであろう。だがこのものは、これが活動する目標︵=自
分白身︶ へ向かって、帰つていることになるのである。﹂︵29︶
全体が動かしかつ動かされるのであれば、動かし動かされるものは一つ
の同じ自分である。その場合、自分を動かす動の﹁活動・働き﹂は自分
自身を目標とし自分自身に向かっていることになる。これが﹁自分自身
に向かって帰ること・帰還﹂である。
二八︺ 以上から結論に至る。テクスト曰く、
︵H︶﹁それゆえ、第一に自分自身を動かすものはすべて、自分自身
に帰ることができるものである。﹂︵30︶
ゆえに、第一に︵最初に︶自分自身を動かす﹁動﹂を起こすことがで
きるもの︵自動的なもの︶はすべて自分自身に帰還することができるも
のである。ここに自動性と自己帰還性が一致する。これが結論である。
こうして証明が終わる。
ところでこの命題十七では直接未だ言及されていないが、自分自身に
向かう活動・働きとは﹁自己を直接認識する﹂という活動・働きに他な らない。したがって、自己認識するとは﹁自己へ帰還する﹂ことと同じ となる。そしてこれを第一に最初になすものが、後に命題八三︵31︶で定式 化されるごとく、具体的には﹁魂﹂である。 第二節 自己帰還者は非物体的 ︹一九︺ 次に、自分へ帰還するものはすべて非物体的であることが述 べられる︵命題一五︶。 そのテクストはこう述べている︵同命題の﹁テーゼ﹂︶。 ﹁自分自身に帰ることができるものはすべて非物体的である。﹂︵32︶ すでに述べたように、自分に帰還するとは自己を認識することであり、 認識するものは当然のことながら物体ではあり得ない。 だが、彼の証明は、自己認識までには言及されずに、﹁物体は自分へ帰 還することは本来できない﹂ことを示すことによってのみなされている。 そのテクストはこう述べている︵同命題の証明部︶。 ︵I︶﹁物体のいかなるものもその本性上自分白身へ帰ることはな い。その理由はこうである。 ︵I︶ もし何かへ帰るものはそれが帰る目標に結合されるのであれ ば、確かに明らかに自分自身へ帰る物体の全部分もまた、その全部 分と結合することになるであろう。というのは、帰るものとそれが 帰る目標との両者が一つになったとき、これがまさに自分自身へ帰 ったことになるのだからである。しかし、このことは、物体の。場合 には、一般に可分なるものすべての場合にも、不可能である。とい うのも可分なるもの全体は、その諸部分が分離しているゆえに、つ まり異なる諸部分が異なる空間をしめているから、自分自身の全体 八三 プロクロス哲学における基本的な四つのTd£ic 。ZToixei-uoig SeoAoYiKTi” (prop. 14-20)を中心にI ︵岡崎︶八四 高知大学学術研究報告 第三十九巻 ︵一九九〇年︶ 人文科学 に結合されることはない。︵2︶したがって、どんな物体もその本性 上自分白身へ帰り、その結果全体が全体へ帰る、ということはない。﹂
︹二〇︺ ここでは、物体は自分自身に帰還することはできない、と結
論を先に述べて︵I︶、その理由を続けている。それを追ってみよう。
一般的に言って、或るものが帰る・帰還するとは当のものの目標と結
合することである。したがって、右を﹁自分自身に﹂帰る・帰還するこ
とに当てはめると、これは、帰還者︵動者︶と帰還目標︵対象︶とが一
つになることを意味する。
ところで、物体とは諸部分に分かたれるものであり、また逆に諸部分
から複合されるものである。そこで、もし物体が自分自身に帰還するの
であれば、その物体の諸部分の全体がまさに当の諸部分の全体と結合し
て一つになるであろう。
ところがしかし、このことは物体の場合には本性上不可能である。ヽな
ぜなら、物体の各部分はそれぞれ別々の空間を占めてお互いに排除しあ
うのであるから、自分が自分の全体に結合され一つになることはそもそ
も不可能であるからである。
したがって、物体はどんなものであっても、その全体が全体に帰り、
かつ一つになるという仕方で結合することはない。
︹二こ そこから結論へ至る。テクストはこうである。 ︵H︶﹁それゆえ、もし何かが自分自身へ帰ることができるものであ れば、ぞれは非物体的なものであり部分をもたないものである。﹂︵34︶ それゆえ、自分自身へ帰還することができるものは、全体と部分という区別のないところの非物体的なものであることになる。これが結論で
ある。
命題一五ではまだ魂にも自己認識にも言及されずに、抽象的にただ自
己帰還者は非物体的であるとのみ証明されているが、自己帰選者を具体
的に魂とするなら目下で問題とされている事態がやや具体的となる。
魂にはふつう知的部分や感覚的部分等があると言われるが、しかしそ
れは空間的に分かたれた諸部分を持っているわけではない。そうではな
くて、その機能が分かたれているのである。
したがって、魂は一つの全体として、ときには感覚的にときには知性
的に働く。だが、感覚的に働くにせよ知性的に働くにせよ、その時々に
おいては一つの活動によって働く。言い換えれば、魂は、部分から成り、
或る部分は働いているが、別の部分は休んでいる、というあり方をして
いるのではなくて、常に一個の全体者として感覚的に働き、また一個の
全体者として知性的に働く。
かかる存在者が目下問題ときれている非物体的なものとしての魂なの
である。
第三節 自己帰還者の実体と物体との分離
︹二二︺ 前節では、自分自身へ帰るものは非物体的であることが明ら
かにされたが、次に、このものは完全に物体から分離していることが明
らかにされる︵命題一六︶。それはテクスト︵同命題﹁テーゼ﹂︶でこう
述べられている。
﹁自分自身へ帰ることができるものはすべて、あらゆる物体から分
離した実体を持つ。﹂︵35︶
自分自身へ帰ることができるもの︵魂︶の﹁実体﹂は物体から分離し
ていると言うが、この考えはすでにアリストテレスに見られる。アリス
トテレスの﹃霊魂論﹄ではこう言われている。
﹁ところでもし魂の働きあるいは様態の何ものかが固有のもの
であるなら、魂は︵身体から︶分離されることができるだろう。﹂
︵36︶
ここでは、﹁もし魂の働きや様態が固有のものであるなら﹂という条件 下で魂の分離性が語られている。ここの﹁固有﹂(1610v)とは﹁魂にとっ て固有﹂である、つまり身体に依存せず魂にのみ﹁独自にあるもの﹂で、 身体から﹁切り離されているもの﹂という意味である︵37︶。したがって、この箇所では﹁固有﹂は﹁身体からの分離﹂を意味すると言えよう。し
たがって、右の命題は、
﹁もし魂の︿働き﹀が身体から分離していれば、魂の︿実体﹀もまた身
体から分離していることができるであろう。﹂
という意味に理解され得る。
プロクロスの証明構造においてもやはりアリストテレスと同様に、﹁そ
の働き・活動が身体から分離している﹂という前提︵第二前提︶があり、
そこから﹁その実体も身体から完全に分離している﹂と結論されている。
この点でもプロクロスはアリストテレスを受け継ぎむしろこれを徹底
させている。
︹二三︺ さて、その証明であるぺこれは次のような要点を持ってい
二︶ 実体の方が活動よりも優れている。
︵二︶より優れているとは、物体からより分離していることである。
三︶ ところで、自己帰還者の活動は物体から分離している。
︵四︶ よって、自己帰還者の実体の方がその活動よりも一層物体から分
離している。
さて具体的にそのテクストはこう述べている。これは証明の第一前提
である。
︵I︶﹁もし自分自身に帰ることができるものがいかなる物体からも
分離していないとするなら、それは物体から分離したどんな活動も
持たないであろう。
その理由はこうである。
もし実体が物体から分離していないなら、実体から出る活動が
物体から分離していることは不可能である。なぜなら、いやしく
も実体は物体を必要としているが、活動は物体にではなく自分自
身に属しているゆえに自足的である、とするなら、活動は実体よ
りも優れていることになろうからである。したがって、何らかの
ものが実体に即して物体から分離していないとするなら、活動に
即しても同様であるかそれともなお一層物体よりも分離していな
いかのいずれかである。﹂︵38︶
︹二四︺ 証明は背理法を用いている。
第一前提は﹁もし自分自身に帰ることができるものがいかなる物体か
らも分離していないとするなら﹂とテーゼを否定した命題を仮定してい
る。
するとそこからの結論は﹁それは物体から分離したどんな活動も持た
ないであろう﹂と帰結されている。
そして続いてその理由が付されている。
︵Iブもし自分自身に帰ることができるものの実体が物体から分離し
ていないなら、
八五 プロクロス哲学における基本的な四つのTctSic 。2T0i。YeLa)oig SeoXoyiK惣(prop. 14-20)を中心にII− ︵岡崎︶八 六 高知大学学術研究報告 第三十九巻 ︵一九九〇年︶ 人文科学 ︵2︶ その実体から由来する活動が物体から分離していることは不可 能になる、からである。 とされて、さらにその理由が以下に付されている。敷行してまとめるな ︵i︶ まずその前提として、存在者の活動はその実体から出、よっ て存在者の実体は活動よりも優れていることになる。 ︵︰11︶ 実体は物体を必要としている︵=物体に依存している︶’のに、 活動が物体ではなく自分自身に属していてその結果自足的であ るとするなら、活動が実体よりも優れていることになる。︵命題 九︵39︶︶ ︵111︶ しかしこれは前提︵1︶に反する。 ︵・Ⅳ︶ よって、活動もまた物体に依存しているか、それともなおI 層物体に依存している︵属している︶かのいづれかである。 それゆえ、﹁自分白身に帰ることができるもの﹂の実体が物体から分離 していないとするなら、必然的にその活動もまた物体から分離していな いことになってしまうのである。 ︹二五︺ そうすると一体どうなるのであろうか。次に第二前提である。 そのテクストはこう言っている。 ︵H︶﹁しかし、もしそうであるなら、それは自分自身へ帰らない。 なぜなら、自分自身に帰るものは物体とは別のものであって︵命 題一五︶、物体から分離された活動を持っており、そしてそれは物 体を通して働くのでも物体と共に働くのでもないからである。と いうのも活動も活動の目標も決して物体を必要としないからであ るo﹂︵40︶ これをもう少し詳しく分析すればこうなるであろう。 T︶ もし、﹁自分自身に帰ることができるもの﹂の実体が物体から分 離していないとするなら、それは必然的にその活動もまた物体か ら分離していないことになってしまう︵第一前提︶。 ︵2︶ もしそうなら、それは﹁自分白身へは帰らない。﹂ その理由は ︵i︶ 命題一五から明らかであるように、自分白身へ帰るものは非 物体的である。 ︵︰n︶ したがって、その実体から出る活動も非物体的となる。つま り物体を通してまた物体と共に働くのではない。。 ︵なぜなら、その活動もその目標も決して物体を必要とせず依 存もしていないからである。︶ ︵3︶ すると﹁自分自身へかえることができるもの﹂が﹁自分自身へ 帰らない﹂ことになり、これは矛盾である。 これが第二前提の帰結である。 だが、このような矛盾が出てきたのは、そもそも第一前提の仮定︹二 四︺が間違っていだからであ・る。
︹二六︺ そこから結論へ至る。テクストはこう言っている。
︵m︶﹁それゆえ、自分自身に帰るものはあらゆる点で物体から分離
している。﹂︵41︶
よって自己帰還者は完全に物体から分離していなければならないので
ある。これが第三節の結論である。
ここで自己帰還者として具体的に﹁魂﹂を考えると、魂の自己帰還は
自己認識であるが、その自己認識は完全に身体から分離していることに
なる。言い換えれば、自己認識は身体でもまた身体の現実態・機能でも
ないゆえに、魂は自己認識の際に、身体を認識するのではなく、身体の
条件なしに、魂白身を認識するのである。
それではかかる自己認識とは一体いかなる認識であろうか。ここでは
しかしこれについては具体的忙語られていない。
第三章 各Tagicの区別の原理 第一節 異なる段階 ︹二七︺ 以上は、魂と物体の区別であるが、しかしそればかりではな くて、より一般的に拡張されたぷalLc間の区別の原理﹂の考察が必要と なる。 それは︿他のものに臨在することによって他のものに或る性質や力を 与えるものは、それ自身が何よりも先ずその性質や力を固有に純粋に持 っている﹀と言う原理である。 プロクロスはこれを次のような一般的な命題にして表している︵命題 一八﹁テーゼ﹂︶。 ﹁存在することによって他者に或る性質を分与する者はすべて、第 一義的に、これが被分与者達に分け与える性質そのものである。﹂︵42︶ 右の一般的な命題を魂に適用すれば、魂と身体どの﹁動者−被動者﹂関 係はよく説明され理解されるであろう。またこれは、ひいては、魂・生 命を身体的なものと考える唯物論的思想︵具体的にはストア主義︶に対 する反駁にもつながる︵43︶。 ︹二八︺ また、ここで﹁存在すること自体によって或る性質を分与す る﹂と言われているが、この﹁存在すること自体﹂(auTO TO elvaOとは 如何なる意味であろうか。これについて少し言及しておかねばならない であろう。 それは、トマスーアクィナスにおける﹁存在自体﹂(esse ipsum︶と表 現が非常によく似ている。しかし両者は同じ意味ではない。 トマスにおける﹁存在﹂︵aS︶は、これを持っているものの完全性す べてを含んでいる。言い換えれば、或るものの存在は、そのものの﹁全 存在﹂(totum esse)として、そのものが持っているあらゆる完全性を含 み、かつそれらの源となっているのである。 しかし﹃神学綱要﹄の右の箇所で言われている﹁存在すること自体﹂ とは、トマスと同じ﹁全存在﹂の意味ではなくて、被分与者︵=分有す るもの︶に﹁内在すること﹂を意味している。﹁内在するもの﹂︵=分有 されたもの︶は或る性質・力である。したがって、被分与者はそれ︵= 分有されたもの︶が内に﹁存在することによって﹂︵Tco elvai。 [与格]︶ 分与者の性質・力を帯びるのである。 例えば、﹁火﹂は、それ自体で熱く、熱そのものと言えよう。この火は 他者を熱くする。この場合、﹁火﹂は熱の﹁分与者﹂であり、他者は熱の ﹁被分与者﹂である。この火が、他者に熱を分与しかつ熱いと言う性質を 与えている。つまり他者に熱を﹁内在させている﹂のである。しかしこ の火は他者にただ﹁熱い﹂と言う性質のみを分与するのであって、この 他者の持つそのほかの完全性︵形相︶すべてを分与させているのではな い。 また、魂においても、これは身体に﹁存在を与える﹂のではなくて、 これが身体に﹁内在することによって﹂、身体に﹁自動性﹂を与える。な ぜなら、魂は﹁自動性そのもの﹂であるからである。しかし魂は、身体 に身体が持つ存在や他の完全性を与えたりはしないのである︵44︶。 この点で、トマスの存在︵9S︶とは大いに異なるとしなくてはならな 八七 プロクロス哲学における基本的な四つのTctSic ..ZTOLYeLcooLS eeoXoYiKriズー召・に公︶を中心にI ︵岡崎︶八八 高知大学学術研究報告 第三十九巻 二九九〇年︶ 人文科学 いであろう。 ︹二九︺ さて、次にこの命題の証明であるが、この全体は比較的単純 な構成をしている。その要点を示せばこうなる。 ︵I︶﹁存在することによって他者に分与する者の性質﹂︵例えば自動性︶ は第一義的にあり、﹁与えられた者のその性質﹂は第二義的にある。 ︵1︶ その理由はこうである。 両方の性質のあり得る関係は次の三つの場合である。 ︵・I︶ 全く同じであるか、 ︵︰11︶ 共通のものが全くないか、 ︵一m︶ 一方は第一義的にあり、他方は第二義的にあるか、 のいずれかである。 ︵2︶ 第一の場合が否定される。 ︵3︶ 第二の場合も否定される。 ︵H︶ よって、残るところ第三の場合である。これより結論に至る。 さて、その証明を逐次検討して行こう。そこでそのテクストを見よう。 T︶﹁もしそれが、存在すること自体によって或る性質を与え、 そしてそれ自身の実体から分与をなすのであれば、一方、与えられ た性質は与えるもの自身の実体よりも劣っており、他方、それであ るところのもの︹=実体︺は︹与えられた性質︺より偉大であり、 より完成している。いやしくも何かを存在させる者はすべて、存在 させられた者の本性よりも優れているのだからである︵命題七︶。そ れゆえ、与えた者自身において先在している性質は与えられた性質 よりし優れている。たしかに与えた者に先在している性質は与えら れた性質の本質をなしているが、しかし前者は後者と同じではない。 というのも前者は第一義的に在り、後者は第二義的に在るからであ るo一︵45︶ ︹三〇︺ 或る者が他の者の内に﹁存在すること自体によって﹂或る性 質を与えるということは、元の或る者自身の﹁実体﹂︵=当の性質自体︶ から他の者にその性質の分与をなすことである。そして当然のこ’とであ るが、﹁与えられた性質﹂は与える者自身の﹁実体﹂︵=当の性質自体︶ よりも劣っており、逆にその﹁実体﹂は﹁与えられた性質﹂よりも優れ 偉大であり、かつ完成している。 なぜなら、或る者が自らの性質を与えて他の者をその性質の者として 存在させた場合、存在させた者は存在させられた者の本性よりも優れて いるからである。このことは命題七においてすでに一般的な形で証明さ れていた︹七︺。 この事態をもう少し明確にするなら、与える者に先在している性質は ﹁分有されないもの﹂であり、与えられた性質は﹁分有されたもの﹂であ る︵46︶・そして前者は与える者の﹁実体﹂であり、他者に依存せず、その 意味で﹁第一義的に﹂在るが、後者は与えられた者の本質をなすが、し かしそれは前者に依存し、その意味で﹁第二義的に﹂在る、と言われる。
︹三二 右で﹁テーゼ﹂の十分な説明がなされていると思われるが、
テクストではさらに﹁第一義的に在り、第二義的に在る﹂ことが論理的
な仕方で説明されている。それは証明の形をとっている。テクストはこ
う述べている。
︵I︶﹁つまり、①両者の各々は同じであり両者には同じ定義があ
るか、それとも②両者には共通のものも同じものもまったくない
か、それとも③一方は第一義的にあり他方は第二義的にあるか、
のいずれかであらねばならない
︵2︶ しかし、もし同じ定義があるとするなら①、前者は原因で
あり、後者は結果であることにならないはずである。また、前者
がそれ自身に即してあり、後者は分有する者においてあることに
もならないはずである。また、前者は作るものであり、後者は生
じたものであることにもならないはずである
︵3︶ 次に、もし両者が同じものを何も持っていないとするなら
②、一方が存在によって他方を存在させることにはならないはず
である。後者が前者の存在を少しも共有していないからである。﹂
︵47︶
︹三二︺ 右のテクストを検討してみよう。﹁与える者自身に先在してい る性質﹂と﹁与えられた性質﹂の関係は、論理的には可能性として三つ ある。 第一は、両者に同じ定義が属する場合である。言い換えれば両者は同 義的に︵∼司o∼白︶在る場合である。 第二は、両者に全く共通性がない場合である。 第三は、両者の一方が第一義的にあり、他方が第二義的にある場合で ある。言い換えれば両者が異義的に(aequiv︵︶cum︶在る場合である。 以下それらの場合を検討する。 第一の場合、両者の内の一方︵=与える者自身に先在している性質︶ が原因となり、他方︵=与えられた性質︶がその結果となる区別もなく、 また前者が実体として独立に在り、後者が分有者に依存じて在るという 区別もない。さらに前者は作る者t存在させる者であり、後者は生じた 者・存在させられた者であるという区別もないことになる。 しかし、事実はそうではないから、第一の場合は成立しない。 第二の場合は、両者に共通のものがまったく無ければ、一方が他方を 存在させることにはならないし、一方が他方に分与することにもならない。
しかし実際はそうではない。したがって第二の場合も成立しない。
︹三三︺ このようにして、残るところ第三の場合となる
そのテクストはこう言っている。
︵H︶﹁それゆえ残るところ、存在すること自体によって一方が他
方から或る性質を分け与えられる場合、与える者はそれが与える性
質を第一義的に有しており、他方被分与者は与える者の性質を第二
義的に有していることになる。③﹂︵48︶
結局、先の二つの場合を検討した結果それらは否定されて、論理的に
は第三の場合が結論として残される。すなわち、与える者は﹁与える者
自身に先在している性質﹂を第一義的に所有しており、与えられた者は
その性質を第二義的に所有していることになる。
命題一八は一般的な形式で述べられている。その意義をもう少し明確
にするためにこれを具体的に﹁魂﹂と﹁身体﹂とに当てはめてみよう。
﹁身体﹂は一見したところ自動的である。しかしそれは真の自動性では
ない。なぜなら身体は死によって自動性を失うからである。それゆえ身
体の自動性は第二義的に存在しているに過ぎない。右で証明した命題一
八によれば、第二義的な自動性が存在しているならば、第一義的な自動
性が先在している。それが﹁魂﹂である。
このように魂と物体・身体の区別が命題一八の一つの具体的な意図で
あると言えよう。
しかし命題一八は、魂と身体のみならず、一般的に二つのレベルの異
なった段階に当てはまる。言い換えれば、命題一八は各段階の区別の原
理なのである。
八九 プロクロス哲学における基本的な四つのTctlic ..ZTOLYELwaLC 9eoXoYUcfi" (prop. 14-20)を中心にI︱ ︵岡崎︶九〇 高知大学学術研究報告 筈二十九巻 ︵一九九〇年︶ 人文科学 そこで知性と魂との段階にこれを当てはめてみればどうであろうか。 直知活動︵=知性認識作用︶は魂にも知性にも存在している。しかし ﹁魂﹂の持つ直知活動は一瞬間においてなされるのであり、或る時には働 き、また別の時には休止しているという仕方で存在している。それゆえ、 魂の直知活動は第二義的な作用と言うことができるであろう。命題一八 からすれば、第二義的な直知活動があれば、第一義的なそれが先在して いるはずである。これが﹁魂﹂と区別された﹁知性﹂である。知性が先 在させているこの作用は、一瞬ではなく永続的な直知活動の働きである。 またそればかりではなくて、さらにこの命題は一者と知性との間の区 別にも当てはまるのである。 第二節 同一の段階 ︹三四︺ 次に、同じレベルのtaSic (段階︶において在るもの共に共通 する性質について見ておかねばならない。魂の段階に属するすべてのも の︵例えば宇宙霊魂、人間霊魂、動物霊魂等々︶は自動性を持っている。 ﹁自動性﹂はこれらのすべての魂に共通に普遍的にまた永続的に存在して いて、しかもこれらのいずれにも第一義的に存在しているのである。ま た知性の段階においても﹁直知活動・思惟﹂は知性の段階に属するすべ ての知性に第一義的に存在している。命題一九においてその事態が論理 的な形式で明らかにされる。そのテクストはこう述べている。︵命題一九 ﹁テーゼ﹂︶ ﹁諸存在者の何らかの本性に第一義的に内在するもの︵性質︶はす べて、その本性に即して定められているものすべてに一つの定義に したがってかつ同様の仕方で臨在している。﹂︵49︶ ﹁諸存在者の何らかの本性に第一義的に内在するもの﹂とは魂の段階であ れば﹁自動性﹂、知性の段階であれば﹁直知活動・思惟﹂である。そして それらのすべての性質は、その本性に即して定められているすべてのも のに﹁一つの定義︵ざべoらにしたがって︶つま・り︿普遍的に﹀かつ﹁同 様の仕方で﹂、さらに言い換えると︿常に変わらずに永続的に﹀、臨在し ていると言うのである。 ︹三五︺ ではその証明を見てみよう。そのテクストはこう言っている。 ︵I︶﹁もしそれ︹性質︺が、その本性に即して定められているもの すべてに同様の仕方で臨在せず、或るものには臨在し別のものには 臨在しないとするなら、それはその本性に第一義的には存在せず、 或るものには第一義的に、別のものつまり分有するものには第二義 的に存在していたことは明らかである。 ︵H︶ なぜなら、或る時にはこれに在り別の時にはこれに無いよう なもの︹性質︺は、第一義的に在るのでもなくそれ自身に即して在 るのでもなくて、偶然のものでありそしてその上うな仕方で在るも のに外からやって来たものであるのだからである。﹂︵50︶
︹三六︺ この証明を順に追ってみよう。
︵I︶ 或る段階において、その段階に在るものはすべて一つの本性にお
いて定められている。例えば、どんな魂もどこまでも魂としての本性を
持っており、知性もそうである。
しかしもし、それの本来持っている性質が同一の段階に属するすべて
のものに﹁同様の仕方で﹂存在していず、或る者には存在し他のものに
は存在していないとするなら、その性質はすべてに普遍的に存在してい
ないことになろう。
言い換えれば、或るものには第一義的に存在し、別のものにはそうで
なく第二義的に存在していることになろう。つまり後者は当の段階に属
していないことになろう。 ︵2︶ そのわけは既に述べられている。﹁同様の仕方で﹂存在していない ものとは、永続的ではなく、或る時には存在し別の時には存在しないと 言う仕方で存在しているものである。これは偶然的なものであり、それ ゆえ、この性質はこのものの外からやって来たものである。これは第二 義的にあるものであって、決して第一義的にあるものではない。したが ってこのものは、当の段階に属さず、このものを分有するものの段階︵当 の段階の下の段階︶に属していることになろう。 ︵3︶それゆえ、或る段階に属しているもの共において、それらの内に第 一義的に内在する性質はすべて、一つの定義にしたがって普遍的に、か つ同様の仕方でしかも永続的な仕方でそのもの共に臨在しているのであ る。これが結論である。
回一七︺ この命題を知性と魂の段階に当てはめると次のようになる。
魂の直知活動は、或る時には働き或る時には休む。魂のこの作用は偶
然的である。つまりこれは魂に第二義的に在るものであり、分有された
ものとして存在している。したがって魂は知性の段階には属していずに、
その下の段階に属することになる。
これに対して、知性は、第一義的に直知活動を持っており、永続的に
普遍的にこれを持っているのである。
ここに魂と知性の区別がI層明確になされるぼ理がある。
命題一九は知性と魂の各段階の区別を一つの目的としているが、この
適用は知性と魂とのみに限られるわけではない。そこでこの命題を﹁魂
と物体﹂に適用してみよう。
身体︵物体︶は生きているときには自動性を持っている。しかし死ね
ばそれを失う。したがって自動性は身体︵物体︶にとって偶然的である。
換言すれば﹁永続的﹂ではない。また、無生物の物体は元々被動的であ
九 −り如何なる場合でも自動性を持ってはいない。したがって物体であれば
どんな物体も﹁普遍的に﹂自動性を持っているわけではない。つまり物
体の自動性は物体の外からやって来たものである。命題一九によればか
かる﹁物体﹂は﹁魂﹂と同じ段階に属することはできない。︲ここに魂と
物体の区別は再確認されるわけである。
このように命題一九は、各段階間の区別をなす原理である命題一八の
言わば補助的命題と言うことができるであろう。これらの二つの原理に
よって各段階の区別がなされる。
第四章 四つの基本的な段階︵応″︷a︸ ︹三八︺ 以上の考察と諸結論から、プロクロス哲学の骨格とも言うべ き基本的な四つの段階︵芯″広︶が導出されるのである。これをなすのが 命題二〇である。これは言わば命題一四からの考察の総まとめの位置を しめ、しかも第三章の思索の頂点とも言うべきものである。以下にこれ を検討してみよう。先ず結論を先に述べよう︵命題二〇の﹁テーゼし。‘ ﹁魂の実体はすべての物体を超えており、知性的な本性はすべての 魂を超えており、一者はすべての知性的なヒュポスタシス︹基本的 原理︺を超えていか。﹂︵51︶ ここに、﹁一者﹂︵ま7︶、﹁知性﹂︵0 ぎ冑︶、﹁魂﹂︵ご1弥︶、﹁物体﹂ ︵まqa石︶の四つの段階が結論されている。 しかし一般にプロクロスの哲学体系はドッズがまとめているように ︵52︶九段階に分けられているが、これは言わば完成された最終の組織体系 とも言うべきもので、いまここに現れた四つの段階は最も基本的な組織 であり、’プロクロス哲学の体系を理解する糸口になると考えられる。 プロクロス哲学における基本的な四つのTctSic 。ZT0iY8iMaig BeoAoYLK惣(prop. 14-20)を中心にI− ︵岡崎︶九二 高知大学学術研究報告 第三十九巻 二九九〇年︶ 人文科学 第一節 魂と物体の区別 ︹三九ブまず最初に、﹁魂の段階﹂と﹁物体の段階﹂の区別である。こ れはすでに述べられたことから明らかであろう︵︹十二︺−︹二六︺︶。し かし多少面倒でもテクスト︵命題二〇の証明部︶にしたがっていま一度 プロクロスの思索の足跡を追ってみよう。 そのテクストはこう説明し ている。 T︶﹁すべての物体は他者によって動かされるが、自分白身を動か すことはもともとできない。しかし物体︵身体︶は魂と共同するこ とによって自分から動き、魂によって生きる。そして一方、魂が臨 在する時に物体はある意味で自動的であるが、他方、それは魂を欠 く時には被動的である。というのも、物体はそういう本性を自分自 身に即して持っているからであり、また魂は自動的なものという本 性を持っているからである。つまり、魂はそばに在るところのもの ︵物体︶に自動性を分け与えるからである。だが、魂が存在すること 自体によって分け与えるもの︵自動性︶は、はるかに第一義的な意 味で魂そのものに属している︵命題一八︶。 それゆえ、魂は物体を超えている。というのも、魂は実体に即し て自動的なものであるが、かたや物体は魂の分有に即して自動的な ものとなるのだからである。﹂︵53︶