米国の貿易交渉と貿易促進権限
瀧 井 光 夫
目 次 はじめに 1.3 件の FTA 締結から批准に至る過程 (1)コロンビア、パナマ、韓国との FTA (2)追加交渉と協定の修正 2.貿易促進権限のメカニズム (1)貿易促進権限による審議過程 (2)3 件の FTA の審議状況 (3)貿易促進権限の源泉 3.貿易促進権限失効下の貿易交渉 (1)米国憲法と貿易促進権限 (2)貿易促進権限の失効と復活の必要性 おわりにはじめに
米国には他国に例をみない貿易促進権限(旧法ではファスト・トラック権限)という独特な制度 がある。貿易促進権限は、大統領が外国と非関税障壁削減の交渉を行い、合意された協定を国内 法化(批准1)する際に欠かすことができない制度である。ブッシュ政権下で締結されたコロンビア、 パナマおよび韓国との自由貿易協定(FTA)は締結から 5 年余を経てようやく批准されたが、批 准されるまでの過程でさまざまな事態が発生した。 本論は 3 件の FTA の批准までの過程と貿易促進権限の関係を検証し、貿易促進権限が失効し ているなかで新たな FTA である TPP 交渉が行われている現状に注目する。はじめに 1 で 3 件の FTA を概観し、追加交渉が行われ協定が改定された経緯などを検討する。次に 2 で、貿易促進 権限による批准までの手続き、貿易促進権限創設の経緯、米国憲法との関係などから貿易促進権 限のメカニズムを明らかにする。最後に 3 で、3 件の FTA でみられた貿易促進権限の規程を逸脱 した事象を考察し、併せて貿易促進権限復活の必要性を論じる。1.3 件の FTA 締結から批准に至る過程
(1)コロンビア、パナマ、韓国との FTAブッシュ第 43 代大統領が締結したコロンビアとの FTA は 2006 年 11 月の締結から 5 年を経て、 同じくパナマおよび韓国との FTA は 2007 年 6 月の締結から 4 年半を経て、2011 年 10 月 21 日と もに批准された。すでにパナマでは 2007 年 7 月、コロンビアでも 2007 年 10 月、批准手続きが終 わっている。韓国も 2011 年 11 月 29 日李明博大統領が国会で成立した関連法案に署名したことに よって批准手続きが終わったので、3 件の FTA はともに 2012 年 1 月 1 日に発効する予定である。 これによって、ブッシュ政権のゼーリック通商代表(現世界銀行総裁)が精力的に交渉を進め、8 年間に 16 ヵ国と締結した 11 件の FTA がすべて実施に移される。また、米国が 1985 年にイスラ エルと初めて FTA を締結して以来、発効済(12 件)および発効予定(3 件)の FTA は合計 15 件となる(表 1)。 表 1 米国の FTA:交渉と発効、貿易促進権限との関係 94.4 失効 02.8 復活 07.6 失効 年 大統領 通商代表 FTA 相手国 交渉開始 協定締結 協定発効 貿易促進権限 1981 レーガンⅠ ブロック (1981-85) イスラエル 1984.1 1985.4 1985.6 1985 レーガンⅡ ヤイター カナダ 1986.5 1988.1 1989.1 (1985-89) 1989 G.H.W. ブッシュ (1889-93)ヒルズ NAFTA 1991.6 1992.12 1994.1 1993 クリントンⅠ カンター NAFTA 補完協定 1993.8 1994.1 (1993-97) 1997 クリントンⅡ バーシェフスキー (1997-2001) FTAA 1998.4 (2005.11中断) ヨルダン 2000.6 2000.10 2001.12 シンガポール 2000.12 2003.5 2004.1 チリ 2000.12 2003.6 2004.1 2001 G.W. ブッシュⅠ ゼーリック (2001-05) オーストラリア 2003.1 2004.5 2005.1 モロッコ 2003.1 2004.6 2006.1 CAFTA-DR 2003.1 2004.8(各国別に発効) エルサルバドル 2006.3 ホンジュラス 2006.4 ニカラグア 2006.4 グアテマラ 2006.7 ドミニカ共和国 2007.3 コスタリカ 2009.1 南部アフリカ 2003.6 (2006.4 中止) バーレーン 2004.1 2004.9 2006.8 パナマ 2004.4 2007.6 ペルー 2004.5 2006.4 2009.2 コロンビア 2004.5 2006.11 タイ 2004.6 (2006.9 中止) 2005 G.W. ブッシュⅡ ポートマン UAE 2005.3 (2007 中止) (2005-06) オマーン 2005.3 2006.1 2009.1 シュワブ マレーシア 2006.3 (2008 中断) (2006-09.1) 韓国 2006.6 2007.6 2009 オバマ アルガイエ(代行) カーク (2009.3-) TPP 2010.12 枠組み合意 2011.11 (注) 大統領名の後のⅠ、Ⅱは 1 期、2 期。通商代表のカッコは在任期間。CAFTA-DR は The Dominican Republic-CentralAmerica-United States Free Trade Agreement.TPP(Trans-Pacific Partnership)は原加盟 4 カ国(ニュージーランド、シンガポール、ブルネイ、チリ) と新規加盟 5 カ国(米国、オーストラリア、ペルー、ベトナム、マレーシア)の 9 カ国。カナダとの FTA は後に NAFTA と統合した。 カナダを含め、CAFTA-DR を 1 件とすると、2012 年 1 月 1 日時点で発効済の FTA は 12 件、発効予定の FTA は 3 件となる。 (資料) USTR (2007 ~ 2011)から筆者作成。
米国がコロンビアおよびパナマと締結した FTA は、通常の FTA のように相互に関税および非 関税障壁を撤廃するものではない。米国は特恵供与によってすでに両国の産品をほぼ無税輸入し ているため、FTA 締結によって米国に対して関税および非関税障壁を撤廃するのは、主にコロン ビアおよびパナマの両国で、これが他のFTAとは大きく異なる点である。コロンビア産品に対して、 米国は 1991 年から実施しているアンデス特恵貿易法(ATPA, Andean Trade Preference Act)2 によって、約 90% の品目に関税を免除しているが、コロンビアは米国の農産物に平均 20%、自動車・ 同部品には 17.4% など、全品目で平均 12.5% の関税を課している3。一方、パナマ産品に対する米 国の関税もカリブ海諸国援助構想(CBI)および一般特恵関税制度が適用され、無税ないし低率 だが、パナマの対米輸入では農産物が 15% など米国産品に対して平均 7% の関税が課されている4。 FTA が発効すれば、コロンビアでは米国農産物の 77.5% の品目、パナマでは対米輸入額で半分 以上が即時に無税となる5。関税、非関税障壁の撤廃に加えて、両国との協定には越境サービス取 引および政府調達市場の開放、知的財産権、直接投資に対する保護規定の強化などが盛り込まれ ており6、米国の財・サービス貿易の拡大に効果をもたらす。なお、米国が実施した FTA のなか では、コロンビアとパナマとの協定だけが FTA ではなく貿易促進協定(TPA, Trade Promotion Agreement)を正式名称としているのは、相互の関税撤廃ではなく協定相手国の関税撤廃に主眼 が置かれているためではないかと思われる。 2010 年における米国の対コロンビア貿易は、輸出 121 億ドル、輸入 157 億ドル、対パナマ貿易 は同 61 億ドル、4 億ドルであるのに対して、米国の対韓貿易は輸出 388 億ドル、輸入 489 億ドル と大きく、米韓 FTA は NAFTA(北米自由貿易協定)に次ぐ貿易規模を持つ。米韓 FTA が発 効すれば、80% 以上の米国製工業製品に対する韓国の関税(平均 6.2%)および貿易額でみて 50% 以上の農産物に対する韓国の関税(平均 54%)が、ともに即時撤廃される。米韓 FTA では、コ メおよび関連製品 16 品目、食用大豆、オレンジ(9 ~ 2 月輸入分)などが韓国の自由化対象から 除外され、関税撤廃は牛肉・玉ねぎが FTA 発効 15 年目、リンゴは同 20 年目といった品目もあるが、 米韓 FTA における韓国の自由化率は、品目数、貿易額のともに 99% 強と極めて高い7。 米国際貿易委員会(USITC)は、関税および関税割当の撤廃だけで米国の対韓輸出は 97 ~ 109 億ドル増加し、同様に米国の対韓輸入も 64 ~ 69 億ドルの増加が見込まれるとしているが、越境サー ビス取引、政府調達市場の開放、知的財産権の保護、さらに規制の透明性確保などの諸規定は米 国の対韓輸出拡大に寄与すると報告している8。 (2)追加交渉と協定の修正 3 件の FTA 締結後、ブッシュ政権には 2 年~ 1 年半の任期が残されていたが、この間にブッシュ 政権が批准のための努力をしなかったわけではない。とりわけ 2006 年 11 月 22 日締結されたコロ ンビアとの FTA については、労働問題を中心に民主党からの批判が高まっていたが、2007 年 5 月 10 日、ブッシュ政権は議会指導部との間でより高度な労働、環境条項を加えて FTA 協定本体 を修正することで合意に達した。この合意は「5 月 10 日協定」(May 10 Agreement)9と呼ばれ
るもので、FTA 締結相手国に ILO の中核的労働基準10および多国間環境条約11の完全な履行を 求めるほか、知的財産権、政府調達、投資さらに米国港湾の安全保障に関する合意事項も FTA に取り込まれることになった。このため、「5 月 10 日協定」は、単に政府・議会間の協定にとどま らず、ペルー以降の米国が締結するすべて FTA に適用される基本原則となっている12。この合 意に基づいて修正されたコロンビアとの協定は、2007 年 6 月 28 日、両国間で調印され、パナマと の協定も同日、この合意を反映した FTA 協定が両国間で締結された。協定修正後、ブッシュ政 権は議会工作を活発化し、コロンビアの実情把握のため視察旅行への参加を呼びかけるとともに、 コロンビアの労働問題が改善された状況を報告している13。 こうしたなかで、2008 年 4 月 8 日、ブッシュ大統領はペローシ下院議長(民主党)らの反対に もかかわらず、コロンビアとの FTA を批准するための実施法案(HR 5724)を下院に提出した。 しかし、翌 9 日には同下院議長の指揮により、同法案に対して貿易促進権限法に基づく審議手続 き(後述)を適用しないことを求める決議案(H.Res.1092)が民主党から提出され、10 日、下院 本会議は賛成 224、反対 195 でこの決議案を可決した14。決議案が可決されたことによって、これ 以降、ブッシュ政権は批准手続きの推進を諦め、3 件の FTA の先行きはすべてオバマ政権に託さ れることになった。 オバマ政権は政権発足後、「コロンビア、韓国、パナマとの 3 件の FTA の問題点を迅速に明確 化する」との方針15を発表して政府間交渉を進め、2010 年末までに各国との合意が成立した。まず、 コロンビアとは、2010 年 4 月 7 日、「コロンビアにおける労働者の権利保護に関する行動計画」が 調印され、労働者の権利を守る労働省の新設、480 名の労働監督官の採用、刑法の改正、米国政 府との実行計画案の調整、行動計画の進展に関する両国政府の定期点検など詳細な行動計画と実 行期限が規定された16。同様にパナマについてもオバマ政権の要請によって 2009 年から一連の労 働法の整備が進み、下請け労働者の権利保護、使用者による労組介入の規制、輸出加工区におけ る労働者の保護などが規定された17。 また、タックスヘイブンであるパナマの税制については、2010 年 11 月 30 日、米国はパナマ政 府と税制の透明性を強化するための租税情報交換協定を締結し、2011 年 4 月 18 日発効した18。こ の結果、コロンビア、パナマとの FTA を民主党が受け入れる条件は整った。米国が交渉相手国の 国内法制の改善にまで関与するのは、相手国が輸出促進のため「底辺への競争」に陥ることを防 ぎ、不当な対米輸出の拡大を予防するためである。なお、コロンビアおよびパナマにおける労働、 環境規制の整備に米国が協力するためのキャパシティ・ビルディングの規定も両国との FTA には 盛り込まれている。 一方、米韓 FTA については、民主党が自動車貿易ルールの改善と韓国の牛肉輸入規制撤廃を 求めていたが、交渉は 2010 年 12 月 3 日決着した。これによって、関税撤廃スケジュールが緩和され、 米国は韓国車に対する 2.5% の関税を協定発効 5 年目まで維持し(2007 年に締結された協定では 即時撤廃、その他の韓国車は協定発効 3 年目に撤廃)、韓国は米国車に対する関税を 8% から 4% に即時半減し、5 年目に完全撤廃(同じく即時撤廃)に修正された。また米国は新たに韓国車に対
する特別セーフガードの導入と韓国の安全基準や排ガス基準など非関税障壁の削減を韓国に認め させた19。これらの合意は 2011 年 2 月 10 日、両国間で文書が交換され、2007 年に締結された協 定本文が改定された。結局、牛肉については再交渉は行われなかったが、自動車交渉の成果は米 自動車業界、全米自動車労組(UAW)および議会から歓迎され、これによって米国が米韓 FTA を批准する条件が整った。 こうした追加交渉と協定の修正および改定作業を経て、ようやく 2011 年 5 月から議会は協定 の批准手続に相当する実施法案を審議する段階に入ったが、ここでもうひとつの障害が審議を遅 らせる大きな要因となった。問題は、2011 年 2 月 12 日に失効した貿易調整支援(TAA, Trade Adjustment Assistance)の復活を FTA 批准の前提とするオバマ大統領および民主党指導部、財 政赤字の削減を強く求め、経費がかさむ TAA の復活を断固阻止するベイナー下院議長を中心と する共和党指導部、この両者の対立である。TAA 復活法案を米韓 FTA 実施法案に付帯させるよ うとする民主党20と両法案を切り離そうとする共和党との攻防は、2011 年の夏期休会後も決着せ ず、結局、両法案を切り離すが両法案を同時並行して審議し、規模を縮小した TAA を復活させ るとの保証をベイナー下院議長から得て、オバマ大統領は 10 月 3 日関連文書21を議会に送った。 その 10 日後、3 件の FTA 実施法案は、李明博大統領の国賓としての訪米が始まる前日の 10 月 12 日に可決成立した(大統領の署名は 10 月 21 日)。
2.貿易促進権限のメカニズム
(1)貿易促進権限による審議過程 米国では、FTA など二国間、複数国間、および GATT・WTO の多国間で締結された通商協 定を批准する、つまり協定を実施に移す法案(implementing bill)を審議、可決する手続きは、 従来はファスト ・ トラック権限(fast track authority)と呼ばれ、現在は貿易促進権限(trade promotion authority)と名称を変えた独特の制度によって詳細に規定されている。貿易促進権限 は 2002 年通商法の一部である 2002 年超党派貿易促進権限法(PL107-210、以下貿易促進権限法) によって定められているが、貿易促進権限法は時限法であり、当初の有効期限(2002 年 8 月 6 日 ~ 2005 年 6 月 30 日)が 2007 年 6 月 30 日まで延長された22ものの、その後の延長はなく、2007 年 7 月 1 日以降は失効している。ただし、コロンビア、パナマ、韓国との FTA はすべて表 1 およ び 2 のとおり、2007 年 6 月 30 日以前に締結されたため、実施法案の審議を含むすべての手続きは、 以下の①~⑧に示した貿易促進権限法の規程が適用される(末尾の数字等は同法の条文番号)。 貿易促進権限法によると、まず協定交渉の過程では、 ① 大統領は交渉を開始する 90 暦日前に交渉開始の意思を書面で議会に通告しなければならない 2104(a)(1)。通告前および通告後、大統領は上院財政委員会、下院歳入委員会およびこれら委 員会の委員長等からなる監視グループ(Congressional Oversight Group)と協議しなければな らない 2104(a)(2)。 ② 大統領は協定を締結する 90 暦日前に議会に協定締結の意思を表明し、直ちに官報(FederalRegister)にその旨を発表しなければならない 2105(a)(1)(A)。 さらに、協定が締結された後、 ③ 大統領は、協定締結後 60 暦日以内に協定との整合性が求められると考えられる既存の法律の暫 定リストを議会に提出しなければならない 2105(a)(1)(B)。 ④ 大統領は交渉の詳細を USITC に提供し、USITC は協定締結後 90 日以内に、協定が与える米 国経済、産業、貿易、雇用への影響、重大な影響を受ける産業の競争力、消費者の利益に関す る評価報告書を大統領、議会および USTR に提出する 2104(f)(1),(2)。 ⑤ 大統領は、協定の最終テキストを協定実施法案の草案、協定実施のための行政措置に関する声 明およびその他必要な資料とともに会期中の議会に提出しなければならない 2105(a)(1)(C)。(た だし、議会への提出期限は規定されていない。) ⑥ 実施法案の審議権限を持つ下院歳入委員会および上院財政委員会は、模擬マークアップ(mock mark-up)と呼ばれる非公式会合を開き、大統領が提出した実施法案の草案について意見を述 べ、変更点などを提案する。もし各委員会で見解が異なる場合は、両委員会が模擬協議(mock conference)を持つ。これら意見等を大統領が最終的に議会に提案する法案に取り入れるか否 かは大統領に任される23。上記の模擬マークアップおよび模擬協議は協定締結後から実施法案 の議会提出前までの間に行う。 上記までの作業を経て大統領が議会に提出した実施法案は、上下両院で審議が開始される。た だし、貿易促進権限法は大統領による実施法案の議会提出期限を定めていないため、法案の提出 時期は大統領の意向を反映して決められる。 ⑦ 大統領が提出した実施法案は歳入にかかわる関税率の変更を伴うため、下院が先議する。上下 各院における実施法案の採決は単純多数決で行う。上下各院は実施法案に修正を加えてはなら ない 2103(b)(3)。 ⑧ 下院の委員会審議は 45 立法日以内、下院本会議の審議は 15 立法日以内とする。上院の審議期 間は委員会および本会議ともに各 15 立法日以内とする 2103(b)(3)。 ⑨ 可決された実施法案は大統領に回され、署名を得て公布される24。 こうした詳細な手続きに加えて、貿易促進権限法の冒頭には、締結する貿易協定の全般的な交 渉の目標が 9 項目〔2101(a)〕および主要な貿易交渉の目的が 17 項目挙げられている〔2101(b)〕。 これらの項目を遵守して大統領が貿易交渉を行っているかどうかも、議会の重大な関心事項であ る。前者の 9 項目は、より開かれた公正かつ互恵的な市場アクセスの確保、貿易障壁の削減、国 際貿易システムの強化、米国の生活水準の向上および完全雇用の促進などであり、後者の 17 項目 には、米国の輸出市場拡大、サービス貿易拡大の措置、対外投資に対する障害の除去、知的財産 権の保護、電子商取引および互恵的農業貿易の促進、労働と環境基準の強化などが挙げられてい る。1988 年包括通商競争力法のファスト・トラック権限にも同様の交渉目標と交渉目的が列挙さ れているが、前者は 3 項目、後者は 16 項目と少なく、2002 年の貿易促進権限法にある完全雇用の 促進や労働と環境基準の強化は含まれていなかった。労働・環境問題を貿易交渉の主要な目的の
ひとつとして明記したことは、貿易促進権限法の大きな特色である。 (2)3 件の FTA の審議状況 上記の手続きは、コロンビア、パナマ、韓国との FTA ではどのように守られたのだろうか。 表 2 は大統領および委員会の行動を時系列で示したものである。これによると、大統領が交渉 開始の意思を議会に表明してから交渉を開始するまで、3 協定ともに 90 日以上が経過している点 を除けば、手続きは貿易促進権限法が定めたスケジュールに従っている。規程と大きく異なるのは、 上下各院における審議日程である。3 件の FTA は、下院は委員会も含めて 10 月 6 日から 12 日まで、 上院は同 12 日から 13 日までの短期間で審議を終了し、実施法案を可決した。審議期間が貿易促 進権限で定めた最大 90 立法日を大幅に下回ったのは、オバマ政権が李明博大統領の到着前に米韓 FTA 実施法案を可決するよう議会に強い圧力を掛けた結果、下院規則委員会が各 FTA 実施法案 の審議を 90 分、実施法案と同時に審議することになった TAA・GSP(貿易調整支援・一般特恵 関税制度)復活法案の審議を 1 時間にそれぞれ限定したことによる25。 票決結果は表 3 に示したとおり、単純多数決のため 3 件の実施法案はすべて可決されたが、下 表 2 貿易促進権限法に基づく審議過程 大統領および委員会等の行動 コロンビア パナマ 韓国 大統領、交渉開始の意思を議会に表明 2003.11.18 2003.11.18 2006.2.2 大統領、交渉開始 2004.5.18 2004.4.25 2006.6 大統領、協定締結の意思を議会に表明 2006.8.24 2007.3.30 2007.4.1 大統領、協定締結 2006.11.22 2007.6.28 2007.6.30 大統領、現行法の変更点を議会に報告 2007.1.17 2007.8.24 2007.8.27 政府間の追加交渉合意、公文の交換 2007.6.28(May 10 Deal による協定の修正) 2011.2.10(自動車関税撤 廃時期の延期等) 下院歳入委員会、公聴会開催(3FTA 同時開催) 2011.1.25 2011.1.25 2011.1.25 下院歳入委員会、公聴会開催(3FTA 個別開催) 2011.3.17 2011.3.30 2011.4.7 下院歳入委員会・上院財政委員会、模擬マーク アップの開催と実施法案可決 2011.7.7 2011.7.7 2011.7.7 大統領、協定最終テキスト、協定実施法案、行 政措置声明を議会に提出 2011.10.3 2011.10.3 2011.10.3 下院歳入委員会、マークアップ協議開催 2011.10.5 2011.10.5 2011.10.5 同マークアップ協議で実施法案を採決 (賛成:反対) 24:12 32:3 31:5 採決された実施法案番号 HR3078 HR3079 HR3080 下院規則委員会、各実施法案と TAA/GSP 法案 の同時審議を決定 2011.10.6 2011.10.6 2011.10.6 下院本会議、審議開始 2011.10.11 2011.10.11 2011.10.11 下院本会議、審議終了、採決 2011.10.12 2011.10.12 2011.10.12 下院本会議、採決結果(賛成:反対) 262:167 300:129 278:151 上院財政委員会、マークアップ協議開催 2011.10.11 2011.10.11 2011.10.11 上院本会議、審議開始、採決 2011.10.12 2011.10.12 2011.10.12 上院本会議、採決結果(賛成:反対) 66:33 77:22 83:15 可決された実施法案を大統領に提出 2011.10.13 2011.10.13 2011.10.13 大統領、署名、制定 2011.10.21 2011.10.21 2011.10.21 公法番号 PL112-42 PL112-43 PL112-41 (注) マークアップとは法案を議会に提出するための最終的な仕上げ作業をいう。下院歳入委員会および上院歳入委員会の模擬マークアップ は当初 6 月 30 日に予定されていたが、TAA の審議方法に反対する共和党委員がボイコットしたため、7 月 7 日に開催された。 (資料) House Report 112-237,238,239, USTR Home Page, Thomas(The Library of Congress) 等から筆者作成。
院歳入委員会のマークアップ協議(表 2)においても、また下院および上院本会議(表 3)におい ても、コロンビアとの FTA に対する反対票が最も多く出されている。反対票の比率は、下院歳 入委員会 33.3%(パナマ 8.6%、韓国 13.9%)、下院本会議 38.9%(同 30.1%、35.2%)、上院本会 議 33.3%(同 22.2%、15.3%)と高い。FTA に対する民主党員の賛成票は、共和党員のそれに比 べればはるかに少ないのが慣例となっているが、コロンビアとの FTA に対する民主党員の賛成票 の割合は他の 2 件の FTA の半分でしかない。本会議の審議で最も白熱したのはコロンビアとの FTA で、民主党のレビン・ミシガン州選出議員はコロンビアと締結した労働に関する行動計画の 確実な実行と FTA の発効をリンクさせるべきだと発言した26。これは、民主党議員が依然として コロンビアにおける労働問題に大きな懸念を抱いていることを示すものである。 すでにみたように、ブッシュ大統領が提出したコロンビアとの FTA 実施法案は 2008 年に民主 党提案の決議案が可決され、同法案審議に貿易促進権限を適用することができなくなった。実施 法案の審議は 1 回しかできないため、再審議は不可能という解釈もあったが27、結局下院歳入委 員会は再審議の実施を決定し、また規則委員会は法案修正を禁じる決定を下したため、実質的に 貿易促進権限法に基づく審議手順が適用されるのと同じことになった。 なお、審議方法を巡って民主、共和両党間で対立が続いた TAA 復活法案は、GSP 復活法案と 合体した法案として、FTA 実施法案が可決されたのと同じ 10 月 12 日に上下両院でそれぞれ可決 された。また、アンデス特恵貿易法の復活法案は、コロンビアとの FTA 実施法案の一部として同 日可決された28。 (3)貿易促進権限の源泉 貿易促進権限法が議会に対して通商協定実施法案の修正を禁じたのは、大統領が締結したケネ ディ・ラウンド合意の一部の国内法化を議会が拒否し、大統領の対外交渉に対する信頼性が著し く損なわれた 1968 年の前例に起因している。 通商交渉によって関税を引き下げる場合は、1934 年互恵通商法 350 条によって大統領に関税引 き下げ交渉権が与えられ、既定の範囲内の関税率の変更であれば、大統領は議会の審議を経るこ 表 3 FTA 実施法案、TAA・GSP 復活法案の党派別票決結果 法案 法案番号 下院本会議 上院本会議 賛成 反対 賛成 反対 D R I D R I D R I D R I パナマ HR3079 300 66 234 0 129 123 6 0 77 30 46 1 22 21 0 1 69.9 22.0 78.0 0.0 30.1 95.3 4.7 0.0 77.8 39.0 59.7 1.3 22.2 95.5 0.0 4.5 コロンビア HR3078 61.1 11.8 88.2262 31 231 0.0 38.9 94.60 167 158 5.49 0.0 66.7 31.8 66.70 66 21 44 1.5 33.3 90.91 33 30 6.12 3.0 1 韓国 HR3080 64.8 21.2 78.8278 59 219 0.0 35.2 86.1 13.90 151 130 21 0.0 84.7 44.6 54.20 83 37 45 1.2 15.3 93.31 15 14 6.71 0.0 0 TAA・GPS HR2832 307 189 118 0 122 0 122 0 70 52 17 1 27 0 27 0 71.6 61.6 38.4 0.0 28.4 0.0 100.0 0.0 72.2 74.3 24.3 1.4 27.8 0.0 100.0 0.0 (注) 各法案の上段は人数、下段は構成比%。D は民主党、R は共和党、I は無党派。 (資料) THOMAS, The Library of Congress (http://thomas.loc.gov) のデータを基づき筆者作成。
となく、一方的に関税布告権限(Tariff Proclamation Authority)を行使することによって関税を 変更する権限が認められた29。互恵通商法 350 条は 1962 年通商拡大法まで 30 年間、合計 11 回30 更新、延長され、1967 年に失効したが、1974 年通商法によって復活し、一部失効した期間はあっ たが、2002 年貿易促進権限法まで延長された(表 4)。 このように、ケネディ・ラウンド交渉(1964 年 5 月~ 1967 年 6 月)当時は、関税については大 統領に引き下げの権限が与えられていたが、非関税障壁(NTB)については、大統領に削減の権 限は与えられていなかった。問題となったのは、ケネディ・ラウンド交渉で米国が締結した ASP(米 国販売価格)制度の撤廃と国際アンチダンピング(AD)協定への参加という2つのNTB協定である。 議会は、大統領が締結したこれらの NTB 協定は議会が大統領に与えた関税交渉権限を逸脱する として、ASP 制度の廃止を拒否するとともに、AD 法を変えず、国内法と国際協定が対立する場 合は、国内法を優先するとする法律(PL90 ‐ 634)を制定し、国際協定を履行しなかった31。 東京ラウンド交渉(1973 年 9 月~ 79 年 7 月)では関税の引き下げ以上に NTB の削減が重視さ れるようになったため、米政府はケネディ・ラウンドの二の舞を避け、NTB 削減交渉においても 関税交渉と同様の権限を大統領に与える方法を検討した。政府が 1973 年 4 月、議会に示した案は、 表 4 通商協定権限およびファスト・トラック権限の推移 通商法の名称 施行日 通商協定権限の新設・延長・失効 関税関連協定交渉権限 1930年関税法 1930年6月17日 1934年互恵通商協定法 1934年6月12日 1962年通商拡大法 1967年~74年失効 非関税関連協定交渉権限 ファストトラック権限 1974年通商法 (HR10710、PL93-618) 1975年1月3日 第101条で復活 第102条で新設 第151条で新設 1979年通商関税法 (HR4537、PL96-39) 1979年7月26日 1980年1月2日の期限を1988年1月2日まで延長 1984年通商関税法 (HR3398、PL98-573) 1984年10月30日 1988年1月2日の期限を1991年5月31日まで延長 1988年包括通商競争力法 (HR4848、PL100-418) 1988年8月23日 1991年5月31日の期限を1993年5月31日まで延長、さらに1994年4月15日まで延長 1994年4月16日から2002年8月5日まで失効 2002年超党派貿易促進 権限法 (HR3009、PL107-210) 2002年8月6日 第2103条(a)で復活 第2103条(b)で復活 第2103条(b)(3)で復活 2005年6月30日の期限を2007年6月30日まで延長 2007年7月1日から失効 (注) 通商協定権限とは米国大統領が外国との通商協定を締結する権限をいう。 (資料) Destler(1997)、Shapiro(2006)等から筆者作成。
大統領が議会に国際協定を提出した後、上院か下院の一方が 90 日以内にこれを否決しない限り、 協定は承認され、関連する米国法が修正されるという「立法拒否権」に基づく措置であった。しかし、 上院財政委員会は、政府案の立法拒否権は違憲の可能性があるとして検討の対象とせず、特別通 商代表部(STR、USTR の前身)とともに代替案を作成した。この代替案が議会の支持を得てファ スト・トラック権限として 1974 年通商法に取り込まれた。これが現在の貿易促進権限の源である。 1974 年通商法で新設されたファスト・トラック権限はその後、1979 年通商協定法、1984 年通商 関税法、1988 年包括通商競争力法によって更新、拡充され、1975 年 1 月から 1994 年 4 月 15 日ま でほぼ連続して効力を維持してきた。ウルグアイ・ラウンドの終了後、クリントン大統領はファスト・ トラック権限の復活を目指したが、十分な支持が得られず、結局ファスト・トラック権限のないま ま 7 年半が過ぎ、2002 年超党派貿易促進権限法によってファスト・トラック権限は貿易促進権限 に名称を変えて復活した(表 4)。 この間、1984 年通商関税法によってファスト・トラック権限は GATT の多角的貿易交渉だけで なく、2 国間の FTA 交渉にも適用できるようになり、米国初の FTA であるイスラエルとの協定 に適用された。また、1988 年包括通商競争力法によって、大統領が議会への通知や協議を行わな い場合には、ファスト・トラック権限の適用を停止する条項を新設し、議会の立法権限の強化が図 られている。1974 年通商法によるファスト・トラック創設以降、ケネディ・ラウンドのような失敗 を繰り返すことなく、多角的協定では東京ラウンドおよびウルグアイ・ラウンド協定が国内法化さ れ、FTA ではファスト・トラック権限が切れていた期間に締結、発効したヨルダンとの FTA32を 除き、米国が締結したすべての FTA はひとつの例外もなくファスト・トラックないし貿易促進権 限が適用されて発効した。この意味で、ファスト・トラック権限ないし貿易促進権限は、米国の通 商政策の遂行上欠くべからざるものである。
3.貿易促進権限失効下の貿易交渉
(1)米国憲法と貿易促進権限 次に、大統領が通商協定を交渉・締結する権限について、大統領の外交権および議会の立法 権との関係から見ておく必要がある。この問題については、次のような渉外問題担当弁護士の説 明がわかりやすい。「憲法 2 条 2 節 2 項は大統領の条約締結権を規定しているが、憲法のいう条 約(treaties)は広範な一連の取極め(agreements)を意味し、どのような条約を大統領が締結で きるか憲法は明言していない。そこで初めて 1934 年互恵通商協定法が大統領に貿易協定(trade agreements)を交渉するという特定の権限を与え、互恵的な関税障壁の削減を含む貿易協定を 交渉するために、議会は大統領に更新可能な権限を委任した(Congress delegated renewable authority to the President)。1974 年通商法はこの権限を非関税障壁の交渉に拡大し、同時に貿 易協定に関する審議を迅速化するファスト・トラック権限を創設した。ファスト・トラック権限の もとで、大統領は貿易協定を交渉する権限を委任され、議会は限定された期間内に貿易協定を審 議し、賛否いずれかの票決を行うことができる。つまり、議会は議会に提案された協定にいかなる修正も加えることができない。2002 年通商法は貿易促進権限を 2007 年 6 月 30 日まで延長し、同 時にアンデス特恵貿易法(ATPA)、貿易調整支援(TAA)および一般特恵関税制度(GSP)に 関する条項も同法のなかに取り込んだ。」33 上記の弁護士の説明から、貿易促進権限は、①憲法2条2節2項が規定する大統領の条約締結権限、 ②同 1 条 8 節 3 項の議会の通商を規制する権限、③同 1 条 1 節の冒頭で規定された議会の立法権、 ④同 1 条 7 節 1 項が定める歳入関係法案の下院先議権、⑤同 2 条 2 節 2 項で大統領が行う外交を 上院が監視する権限、⑥下院歳入委員会および上院財政委員会が掌理する歳入立法権限34、といっ た大統領および議会がもつ様々な権限をバランスさせた巧妙なメカニズムであるということが理解 できよう。前述のように貿易促進権限法が協定交渉の開始から批准までの手続きを詳細に規定して いるのは、実施法案の修正が禁じられているため、対外交渉を行う大統領と通商法制を制定する議 会との間で綿密な情報の交換と実施法案の調整を行う必要があるからであり、またそうした調整を 通して、大統領および議会がそれぞれの権限をチェックし合い、権限の均衡を図っていると考えら れる。 なお、外国との貿易交渉権限は議会に属すと解釈し、その根拠を通商条項として知られている 憲法 1 条 8 節 3 項(議会の通商規制権限)に求める見方もあるが、通商条項は州に対して通商規 制権限の行使を禁止する根拠とする35もので、対外通商交渉権限とは関係ないものである。 (2)貿易促進権限の失効と復活の必要性 貿易促進権限法が効力をもっている期間内に締結された貿易協定は、貿易促進権限法の規程に 従って協定実施法案を迅速に審議する。すでに見てきたように、この原則に従って、米国がコロ ンビア、パナマ、韓国と締結した 3 件の FTA 実施法案が審議され、協定内容に修正を加えられ ることなく可決された。しかし、3 件の FTA の交渉過程には、いくつかの問題がある。 第 1 に、協定が締結された後に、議会と政府との合意である「5 月 10 日協定」が取り極められ、 これによって締結済みのコロンビアとの FTA 協定が修正された(表 2 参照)。パナマの場合は、 FTA 協定が締結される前に 5 月 10 日協定が結ばれていたから協定修正も止むを得ないと思われ るものの、韓国は協定の修正を拒否したという36。力関係で交渉が左右されるとすれば、これはも とより好ましいことではない。また、労働基準の強化については、すでに貿易促進権限の交渉目的 のなかに明記されているにもかかわらず、5 月 10 日協定が結ばれ、これが貿易促進権限法の条文 よりも大きな影響を及ぼした。これも理解しがたいことである。 第 2 に、貿易促進権限法が失効した後においても追加交渉が行われ、この交渉によって協定本 体が改定され、改定された協定が批准の対象になっていることも理解しがたい。コロンビアとパ ナマの労働および税制の問題は、協定本体との関係は薄いように思われるが、韓国の場合は、米 国内の強い要求を受けて行われた交渉のやり直しである。交渉はすべて貿易促進権限の有効期間 内に行われなければならず、期限後に行われた合意に貿易促進権限法は適用できないはずである。 貿易促進権限法が期限切れとなって 4 年近く経過してから行われた交渉の合意が協定本体に取り
込まれたことは、明らかに貿易促進権限法を逸脱する。 これら 3 件の FTA は、交渉の開始から貿易促進権限法が存在していたが、そうでない FTA も ある。ヨルダンとの FTA は特異で、交渉の開始から実施法の審議、可決に至る全過程で貿易促 進権限法が存在していない。シンガポールおよびチリとの FTA の場合は、協定締結の約 1 年前 に貿易促進権限法が制定されたが、議会との意見調整がもっとも必要な交渉開始から 1 年半の間 は大統領の通商協定権限は失効していた。 さらに大きな問題は、貿易促進権限が失効し、関税引き下げだけでなく、非関税障壁の削減に ついても大統領に交渉権限が委任されていない状況が続いているなかで、WTO のドーハ開発ア ジェンダ交渉が続けられ、2010 年 3 月からオバマ政権が TPP への参加交渉を開始したことである。 ウルグアイ・ラウンド交渉当時は、米国のファスト・トラック権限の有無が交渉に大きな影響を与 えた。交渉参加国は米国の対応を注視し、議会は交渉の進捗に合わせてファスト・トラック権限 の延長を認めてきた。貿易促進権限法が失効しているなかでの合意は、場合によっては米国議会 が合意された交渉結果を修正する可能性があるという、かつて各国が抱いた強い懸念はどこに行っ てしまったのだろうか。クリントン政権が 1997 年に FTAA(米州自由貿易協定)の交渉開始を目 指して、(結局成功しなかったが)ファスト・トラック権限の復活に努力したような姿勢、あるい はブッシュ大統領が 1 年越しの議会との調整の末に貿易促進権限法を制定したような熱意がオバ マ政権に見られないのはなぜなのだろうか。 ブッシュ政権が貿易促進権限を獲得できた背景には、繊維産業に対する保護主義的措置の約束、 鉄鋼セーフガードの発動、国内補助金を大幅に拡充した 2002 年農業法の成立、TAA の大幅拡充 などの「補完的な国内政策」の多用にあったとする見方もある37。財政赤字縮小が喫緊の課題と なり、党派間の対立が激化している現在では、ブッシュ政権のような対応は望むべくもないが、米 国が主導権を握って TPP 交渉を進めているにもかかわらず、貿易促進権限が失われたままになっ ている現状は異常である。交渉相手国が安心して米国との交渉を進められるようにするためにも、 早期に貿易促進権限を復活させるとともに、上述した韓国の再交渉、コロンビアとの協定の修正 といった事態の再発を防がなければならない。 過去の事例から見るとおり、貿易促進権限は更新のたびに党派間の争いが激化し成立が困難と なる傾向がある。こうした事態を回避するためにも、貿易促進権限の恒久化、貿易自由化を進め るために必要な TAA の貿易促進権限との一体化などについても検討が進むよう期待したい。
おわりに
米国の貿易政策や FTA に関心を抱いて長年研究対象のひとつとしてきたが、かつてファスト・ トラック権限と呼ばれ、いまは貿易促進権限といわれる制度については国内での研究成果は多くな く、誤解もあるように思われる。筆者は 2007 年夏から半年間、まさにリーマンショック勃発の直 前までニューヨークのコロンビア大学ビジネススクール日本経済経営研究所に客員研究員として在 籍し、講義を聞き、図書館に通う機会を得た。在籍中、たまたま学内で開かれた米韓 FTA シンポジウムに参加し、交渉に直接当った金鉉宗通商交渉本部長の話を聞き、意見交換もできた。また、 当時コロンビアの図書館にもなかった Hal S. Shapiro の近刊本に偶然巡り合って大きな刺激を受け たこともある。これからも貿易促進権限がどのような形で復活されるのか、されないのか、注視し ていきたいと考えている。 注 1 米国の場合、条約の批准とは違い、FTA を発効させるための議会の手続きは批准と言わず、「FTA 実施法案 の可決」というのが正確であるが、ここでは「批准」という用語を便宜的に使用した。 2 アンデス特恵貿易法(ATPA)はボリビア、コロンビア、エクアドルおよびペルーの 4 ヵ国を対象に 1991 年 から実施されているが、米国は 2008 年 12 月麻薬撲滅対策が不十分なボリビアを対象から外した。ペルーは 2009 年 2 月米国との FTA が発効し、コロンビアも 2012 年 1 月に FTA が発効する予定のため、ATPA の対 象はエクアドルだけになる。ATPA は 2011 年 2 月 12 日で期限切れとなったが、今回 2011 年 10 月 21 日発効 した米国・コロンビア貿易促進協定実施法第 501 条によって、特恵措置は 2011 年 2 月 12 日に遡及し、2013 年 7 月 31 日まで延長された。なお、アンデス特恵貿易法は 2002 年 8 月に施行された 2002 年通商法(Trade Art of 2002, PL107-210)のDivision C によって改正され、名称もアンデス貿易促進麻薬撲滅法(ATPDEA)に変った。 3 House Report 112-237-United States-Colombia Trade Promotion Agreement Implementation Act, B.
Background.
4 House Report 112-238-United States-Panama Trade Promotion Agreement Implementation Act, B. Background. 5 House Report 112-237 および同 112-238. 6 米国が締結する FTA には相手国の経済規模とは関係なく一律に WTO を上回る貿易ルールが盛り込まれてい る。その状況については滝井光夫(2012)を参照。なお、直接投資に対する保護規定の強化とは、投資家対国 家紛争解決(ISDS)手続が新規に設定されたことをいう。コロンビア、パナマおよび韓国との FTA ではいず れも実施法案の第 106 条で規定されている。 7 この段落の記述は、House Report 112-239-United States-Korea Free Trade Agreement Implementation Act, B. Background およびジェトロ(2008)2 ページによる。 8 USITC(2007) 9 「5 月 10 日協定」 の詳細はジェトロ(2007b)参照。 10 中核的労働基準の 5 項目は以下のとおり。結社の自由、団体交渉権の承認、強制労働の禁止、児童労働の禁止、 雇用・職業における差別の排除。 11 多国間環境条約とは次の 7 つの環境条約をいう。絶滅の恐れのある野生動植物の国際取引に関するワシントン 条約、オゾン層破壊物質に関するモントリオール議定書、廃棄物等の投棄による海洋汚染防止に関するロンド ン条約、全米熱帯マグロ類委員会の設置に関する米国とコスタリカとの間の条約、水鳥の生息地として重要な 湿地に関するラムサール条約、国際捕鯨取締条約および南極の海洋生物資源保存条約。ただし、米国は FTA 締結相手国がこれらすべての国際条約に加盟することは求めず、条約上の義務に抵触しないことを重視してい る。
12 FTA 実施法案に付帯されているそれぞれの House Report によると、ペルーとコロンビアとの FTA は 5 月 10 日協定によって「修正」(amend)されたと書かれているが、パナマおよび韓国との FTA は同協定を「反映」 (reflect)していると書かれている。 13 CATO(2008)によると、ウリベ大統領の就任後コロンビアにおける暴力事件は大幅に減少し、非合法武装グ ループに殺された一般市民は 2002 年の 2,087 人から 2007 年には 358 人、労働組合員に対する殺人は 205 人か ら 25 人、誘拐事件は 2,882 件から 515 件に減少している。 14 ペローシ下院議長が、ブッシュ大統領による米コロンビア FTA 実施法案の提出に反対したのは、①コロンビ アにおける労働組合員に対する殺人事件が減少したとブッシュ政権は主張するが、同国が労働組合員にとって もっとも危険な国であることに変わりはなく、コロンビア政府の改善努力が不十分であると下院民主党が判断 し、民主・共和両党間にコロンビアにおける情勢認識に大きな隔たりがあったこと、②それにもかかわらず、ブッ
シュ政権が模擬マークアップを開いて実施法案の内容を両党間で調整せず、一方的に同法案を議会に提出した こと、による。一方、ブッシュ政権が実施法案の提出を急いだのは、大統領選挙を 2008 年 11 月 4 日に控えて、 貿易促進権限法による審議日数を確保するためには、法案提出は 4 月 8 日が限界であると判断したからである。 ペローシ下院議長が決議案を可決して、実施法案の審議を阻止したことに対して、ニューヨーク・タイムズ、 ウォールストリート・ジャーナルなどの有力紙やバーグステン国際経済研究所長など有識者は、下院民主党を 厳しく批判した。しかし、同下院議長は、決議案を可決したのは米コロンビアFTA実施法案を葬るためではなく、 民主党の反対多数によって実施法案が否決されるのを回避するために取った措置だと主張している。なお、下 院決議案の賛成票 224 の内訳は民主党 218、共和党 6、反対票 195 の内訳は民主党 10、共和党 185 で、賛否は 民主、共和両党をほぼ二分された。詳細は滝井光夫(2008)参照。 15 USTR(2009)p.4. 16 http://www.ustr.gov/about-us/press-office/press-releases/2011/april/release-colombian-action-plan-related-labor-rights(2011 年 11 月 1 日閲覧) 17 http://www.whitehouse.gov/sites/default/files/panama_trade_agreement_labor.pdf (2011年11月1日閲覧) 18 http://www.ustr.gov/trade-agreements/free-trade-agreements/panama-tpa (2011 年 11 月 1 日閲覧) 19 http://www.whitehouse.gov/sites/default/files/fact_sheet_increasing_us_auto_exports_us_korea_free_ trade_agreement.pdf(2011 年 10 月 24 日閲覧) 20 貿易促進権限法によると、貿易協定実施法案には貿易協定を実施するために「必要かつ適切な」(necessary and proper)条項が含まれていることが条件となっているが、TAA を米韓 FTA に付帯することは「必要か つ適切」の条件に合致すると民主党指導部は主張した。 21 大統領が議会に提出する文書とは別に、USTR が上院財政委員会のマークアップ協議のために用意した 3 件の FTA に関する協定、追加交渉の合意文書など多数の資料は、次のサイトから一括して見ることができる。 http://www.ustr.gov/about-us/press-office/press-releases/2011/june/info-links-pending-trade-agreements-taa-preference-pr(2011 年 10 月 28 日閲覧) 22 貿易促進権限法は 2005 年 6 月 30 日を期限としているが、議会が大統領の延長要請を承認すれば 2007 年 6 月 30 日までの延長が可能となる〔2103(b)(1)(c)〕 。こうした継続条項が貿易促進権限法に付けられたのは初め てのことである。 23 Shapiro (2006) pp.21-22. 一般に法案は議員によって議会に提出されるが、Committee on Ways and Means (2003)p.236 には、FTA 実施法案を議会に提出するのは大統領と明記されている(as the President formally submits the legislation, the bill would be introduced by the Majority Leaders of the House and Senate)。 FTA 実施法案以外でも、大統領が法案を議会に提出する場合がある。最近の例では、アメリカ雇用法案 (American Job Act、予算規模 4470 億ドル)が 2011 年 9 月 12 日オバマ大統領によって議会に提出された。なお、 毎年 1 月、大統領が議会で行う一般教書演説では、行政府の長として大統領が議会に立法化してもらいたい プログラムを示し、これに基づいて有力議員がイニシアティブをとって法案を提案する。予算教書でも同様の プロセスがとられる。脇山俊(1977、162 ページ)によると、このように実質的な意味での大統領提出法案は、 議会に提出される法案の約 5%を占めるが、可決される法案の中では約 8 割を占めている。 24 Committee on Ways and Means (2003) pp.235-240、943-967、下院歳入委員会(2005)234-238 ページ、滝井 光夫(2007)参照。 25 日機輸通商問題弁護士情報(速報、2011 年 10 月 11 日) 26 同上 27 滝井光夫(2008)37 ページ。 28 注 2 参照。 29 1934 年以前について大統領の関税交渉権限をみると、1930 年スムート・ホーレー関税法 336 条の伸縮関税条 項によって、大統領は関税委員会による上下 50%以内の変更勧告が妥当と判断した場合、これを承認し、関税 率の変更を布告することが認められている。また、伸縮関税条項は 1922 年のフォードニー・マッカンバー関税 法 315 条ですでに法制化されている(小山久美子(2006)38-39 ページ)。なお、CRS (2005) p.2 は 1890 年関 税法 3 条が大統領に関税交渉権限を与えた最初であり、最高裁は Field v. Clark. 143 U.S. 649 (1892)で同法 を合憲と判断し、その後制定された大統領の交渉権限についても 1997 年に合憲の判断が下されたと書かれて いる。 30 1937、40、43、45、48、49、51、 53、54、55、58 年の 11 回。佐々木隆雄(1997)83-88 ページ参照。
31 ASP 制度とは、1920-21 年の大不況によって衰退した米国内産業を保護するため、輸入品に対する関税評価額 を当該品目の輸入価格ではなく高い米国内の販売価格とすることによって実質的に関税率を大幅に引き上げる もので、1922 年フォードニー・マッカンバー関税法によって制定された。その後、輸出の減少や輸入品価格の 上昇などから自動車業界や農業団体などはこの制度の撤廃を求めたため、ASP制度の対象範囲は縮小されたが、 ケネディ・ラウンド交渉当時でも、特定の化学品などには ASP 制度が適用されていた。この制度の廃止を求 めたのは化学品に競争力をもつ EC である。ASP 制度は東京ラウンドの交渉結果を国内法化した 1979 年通商 関税法によって撤廃された。Destler (1997) p.6 およびより詳しい経緯はドライデン(1996、上巻)166-208 ペー ジ参照。 32 Shapiro は、ファスト・トラック権限が更新されていない期間中にヨルダンとの FTA の交渉が開始され、批准 されたのは、イスラエルとの FTA と同様に強い政治的な支持があったからであるとしている。Shapiro (2006) p.156. 33 White & Case LLP の通商弁護士 Mr. James J. Shea が筆者の質問に対して 2007 年 12 月 13 日付の電子メー ルで回答したもの。 34 CRS (2001)p.3 を参考にした。 35 木南敦(1995)。 36 ジェトロ(2007b)2 ページ (No.5030)。 37 藤木剛康(2004)。 参考文献 CATO(2008), Free Trade Bulletin No.32, A U.S.-Colombia Free Trade Agreement: Strengthening Democracy and Progress in Latin America, February 7.
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