メイヤロフの「差異の中の同一性」概念
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(2) 北海道教育大学紀要(人文科学・社会科学編)第64巻 第2号 JournalofHokkaidoUniversityofEducation(HumanitiesandSocialSciences)Vol.64,No.2. 平成26年2 月 February,2014. メイヤロフの「差異の中の同一性」概念 千 葉 胤 久 北海道教育大学旭川枚倫理学研究室. MayeroffsConceptofIdentity−in−Difference CHIBA Tanehisa. DepartmentofEthics,AsahikawaCampus,HokkaidoUniversityofEducation. 概 要 メイヤロフによれば,ある人をケアするとは,その人の要求にケアする者が応答することに よって,その人の成長と自己実現を助けることである。このような意味でのケアにおいて,ケ アする者とケアされる者との間に成立している関係のことを,メイヤロフは「差異の中の同一 性」と呼んでいる。本稿の目的は,「差異の中の同一性」を,ケアする者の観点,ケアされる 者の観点,ケアする者とケアされる者の相互の観点から考察し,その意味内容を明らかにする ことである。ケアされる者に関しては,ケアされる者が「それ自身が本来持っている権利にお いて存在するもの」として認められていること,ケアする者とケアされる者相互の関係に関し ては,相互的な信頼関係が築かれていること,ケアする者に関しては,ケアする者がケアされ る者の生を追体験し,ケアされる者と共同感情を形成していること,これらのことが「差異の 中の同一性」に基づいたケアの実現には必要であるということを本箱では確認する。. はじめに. メイヤロフの『ケアの本質』は,ケアとは何であるかを正面から論じ,ケアそのものに関して踏み込んだ 議論を展開している希少な文献のひとつである。メイヤロフによれば,ある人をケアするとは,その人の成. 長と自己実現を助けること(tohelphimgrowandactualizehimself)であり,その人の「成長したい」と いう要求(need)にケアする者が応答する(respond)ことによって,その人の成長と自己実現を支援する ことである(Mayeroff1971,p.1.13頁)1。メイヤロフにおいては,こうした意味でのケアが成立するために は,ケアする者とケアされる者の間に「差異の中の同一性(Identity−in−Difference)」という関係が成立し. 1邦訳のある欧文文献の引用・参照箇所の指示にあたっては,「p.」ないしは「S.」の後のアラビア数字で原著のページ数 を,「頁」の前のアラビア数字で邦訳のページ数を示すこととする。.
(3) 千 乗 胤 久. ていることが本質的に必要であると考えられている。. 本稿の目的は,ケアにとって本質的に必要な条件である「差異の中の同一性」について,それがケアする 者とケアされる者との間のいかなる関係を意味するものであるのかを明らかにしていくことにある。本稿で. は,ケアする者とケアされる者の間の「差異の中の同一性」という関係を,ケアされる者の観点,ケアする 者とケアされる者との相互の関係の観点,ケアする者の観点という三つの観点に分けて考察することにした い。「差異の中の同一性」におけるケアされる者に関しては,「それ自身が本来持っている権利において存在. するもの」としてのケアされる者ということに着目して,ケアされる者を「それ自身が本来持っている権利 において存在するもの」として過するとはどのようなことか考察する(第1節)。「差異の中の同一性」にお けるケアする者とケアされる者との相互関係に関しては,ケアする者とケアされる者との間の「信頼」関係 を取り上げて,相互的な「信頼」とはどのようなことであるかを明らかにする(第2節)。最後に,「差異の 中の同一性」におけるケアする者に関しては,「差異の中の同一性」が成立しているときにケアする者がケ アされる他者に対してとる態度はいかなるものであるべきかを考察することにする(第3節)。. 1 「それ自身が本来持っている権利において存在するもの」としてのケアされる者 メイヤロフによれば,ケアは相手の要求に応答することであるが,これは相手の言いなりになる「他者の 志向まかせ(being“otherdirected’’)」(Mayeroff1971,p.10.23頁)とは異なる。他者の言いなりになるこ とには,いくつかの場合が考えられるが,それらのいずれもケアとはかけ離れたものであると言わざるをえ ない。例えば,他者に全く関心がなく,他者がどうなろうと構わないと思っているとき,他者のことを考え るのは面倒で厄介なことであるので,そうした面倒を避けるために他者の言う通りに振舞うということが考 えられる。このような仕方で他者の言いなりになることは,他者の成長の方向の適切さや応答の適切さに対 する配慮を全く欠いており,その意味で決してケアとは言えない。また,他者の命令に絶対に服することを 求められる仕方で他者の言いなりになるならば,こうした自他関係は支配一被支配関係に陥っており,この 場合もケアしケアされる関係にあるとは言いがたい。. では,ケアにおける自他の関係,すなわちケアする者とケアされる者との関係はどのようなものでなけれ ばならないのか。メイヤロフは,ケアにおいては「合一(union)」の関係が成り立っている必要があるとい う。ケアする者は自分がケアする対象を自分自身の「延長のように身に感じとる。またそれと同時に,その 対象が本来持っている権利ゆえに(initsownright)私が尊重する確かな存在として,私とは別なものと してそれを身に感じとる」(Mayeroff1971,p.7.18頁)というかたちでの合一の関係がケアには必要である とされる。. この合一の関係は,「他の人に不健全に依存することや,ある信念・信仰に教条的にしがみつくことのよ うな寄生的な関係にみられる,他のものとの合一の感情とは異なっている」(Mayeroff1971,p.7.18頁)。 これら二つの合一関係の違いは,相手を「それ自身が本来持っている権利において存在するもの」として認 めているか否かにある。例えば,わが子をケアする父親は「その子を,その子自身が本来持っている権利に おいて存在するもの(existinginhisownright)と認め,成長しようと努力している存在として尊重する」 (Mayeroff1971,p.1.13頁)のでなければならない。ケアにおける合一の関係においては,ケアする者は 自分がケアする相手を「それ自身が本来持っている権利において存在するもの」と認めていなければならな いのである。. だが,「それ自身が本来持っている権利において存在するもの」として認めるとは,どのようなことなの であろうか。ケアにおける合一の関係,これが「差異の中の同一性」と呼ばれる関係であるが,論文「ケア.
(4) メイヤロフの「差異の中の同一性」概念. することについて」においてメイヤロフは,この合一の関係を「差異の中の同一性」と呼ぶことができるこ とを指摘しつつ以下のようなことを述べている。. 「ケアにおいては,私たちは相手の人を,別個の対象と感じとらえているのであるが,同時に,私たち と一体をなしているともとらえている。この関係は“差異の中の同一性”ということができる。私たち は相手と一体である(同一性)と感じると同時に,相手のもつかけがえのない独自性(uniqueindi− viduality),また自分自身のもつ独自性(差異)を,よりしっかりと意識するのである。この関係にあ る同一性とは,私たちが他者とは関係なく,互いに独自に存在しているという感覚を失うことからくる 一体感とは異なっている。これはたとえば,お互い各自が,自己としての自らの全人格的統一性を喪失 してしまうような共生関係にみられる。自分の子供を,自分が欲するような存在であって欲しいと願っ たり,あるいは,自己主張のために自分の子供を利用することをまず第一に考え,そうした観点で子供 をとらえるような父親は,子供のケアをしていることにはならない。」(Mayeroff1965,p.463.186頁以 下). 相手を「それ自身が本来持っている権利において存在するもの」として認めるとは,「相手のもつかけが えのない独自性」をしっかりとわきまえ,意識することであると考えられている。つまり,「それ自身が本 来持っている権利において存在するもの」として認めるとは,相手をひとりの独立の人格として認めるとい うことを意味すると言ってよいだろう。先の引用文の最後で言及されている父親の態度,つまり子どもを自 分の利益や満足を得るための道具として利用することを第一に考える態度は,子どもをあたかも自分の所有 物であるかのように扱っているのみであり,子どもを独立の人格として過していないことの例として挙げら れているということができる。. このことに関連してメイヤロフは,ケア関係において重要なのは,ケアする者が相手それ自身の価値を感 じ取って尊重することであって,ケアする者の必要を満たしてくれる価値を相手がもっているかどうかはケ アにおいては重要ではない,と主張している(Mayeroff1971,p.8.20頁)。また,ケアにおいてケアする者 はケアされる者の価値を感じ取ることが必要であるが,その価値の感得は,「ある特質があるがゆえにその 人に価値があると考えるように,価値というものを,ある人に外から付与するようなことではない」のであ り,その人の内に「本来そなわっている価値を感得する」ことであるとも述べている。例えば,自分の子ど もをケアする父親は,「その子供に本来そなわっている価値を感得する(experienceworthinthechild)」 (Mayeroff1965,p.464.188頁以下)のである。これらのメイヤロフの主張から,ケアにおいてケアされる 他者の有する価値は,道具的価値や手段的価値ではなく,ケアされる他者それ自体が有する内在的価値であ ると考えられていることが見て取れる。. このようなメイヤロフの見解には,カントの考える「人格・人間性の尊厳」と重なり合う主張を見て取る ことができる。カントによれば,価値は「相対的価値」としての「価格(Preis)」と「内的価値(innererWert)」・. 絶対的価値としての「尊厳(Wtlrde)」とに分けられる(Kant1785,S.434f.146頁)。「価格」は物件の価値 であるのに対し,「尊厳」は人格・人間性の価値である。物件の価値としての価格は,相互に比較可能であり,. 優劣を評価することができ,それゆえに物件はその価値に応じて交換可能である。これに対して尊厳として の価値は「無条件的で比較を絶した価値」(Kant1785,S.436.149頁)であり,相互に比較することが許され ず,それゆえに尊厳を持つもの同士を交換可能なものとして扱うこともできない。人は物件として他と比較 可能な価格としての価値を有するのみではなく,人格・人間性として,他と比較不可能な尊厳としての価値 を有するものでもある。したがって,人は物件として比較可能な価値を有するものとしてのみ扱われてはな.
(5) 千 乗 胤 久. らないのであり,他と比較不可能なかけがえのなさという意味での尊厳を有するものとして過されねばなら ないのである。. メイヤロフがケアにおいて重要性を認めない「ケアする者の必要を満たしてくれる価値」や「ある特質が あるがゆえにその人に」あると考えられるような価値は,カントの言う「価格」という物件の価値にすぎな い。そのような物件の価値の観点から人を見るだけであるならば,それは人を道具的価値・手段的価値の観 点から見ただけにとどまるのであり,他者をそのような観点からのみ見る者は自分のために人を利用しよう とする態度を有しているにすぎないのである。これに対して,メイヤロフが重視する「かけがえのない独自 性」および「本来そなわっている価値」は,カントの言う「尊厳」のことであり,「それ自身が本来持って いる権利」とは,いかなる属性を有しているかに関わらず人として存在しているかぎりその存在することが 認められる権利としての「人権」のことであると考えることができる。どのような特質・性質を持つもので. あるかに関らず存在するだけで価値を認められるものとして他者を認める,すなわち他者の尊厳を尊重する ということが,「それ自身が本来持っている権利において存在するもの」として認めるということの内実で ある。「差異の中の同一性」における「差異」という表現のうちには,相手の尊厳を尊重することができて はじめて,相手を利用するだけの利己的な態度を越えたケアする態度が実現できるという主張を見て取るこ とができるのである。. 2 ケアする者とケアされる者との間の「信頼」 ケアに必要な要素のひとつとしてメイヤロフは「信頼(trust)」を挙げている。この信頼は,ケアする者 がケアされる者を信頼することとケアされる者がケアする者を信頼することとの,二つに区分することがで きる。ケアする者がケアされる者に対して示す信頼とは,ケアされる者が自らに固有な仕方で成長すること ができることをケアする者が信じることであり,たとえケアされる者が過ちや失敗を犯したとしても,その 過ちから彼は学ぶことができると信じるという仕方で相手を信頼するということである(Mayeroff1971, p.27.50頁以下)。このようなケアする者の示す信頼は,ケアされる者が犯した過ちや失敗を許すことができ る寛容さをケアする者が有していることによって,はじめて生じてくるものであるということができる (Mayeroff1971,p.24.44頁以下)。 ケアされる者がケアする者に対して示す信頼も,ケアする者がケアされる者に示す寛容さ(と信頼)があっ てはじめて生じてくるものであるということができる。ケアされる者がケアする者に示す信頼に関して,メ イヤロフは以下のようなことを述べている。. 「もし相手が私のケアを通じて成長していくならば,その人は私を信頼しなければならない。というの は,私を信頼できてはじめて,その人は私に対して率直に自分自身をさらけ出すことができ,私も相手 をよく知ることができるからである。……〔中略〕……学生は教師を信頼しなければならない。そうす れば,学生は自分の弱点を教師に示すことができ,“正体を見破られる’’ことを恐れることもなくなり,. それによって教師としては,指導をどこからはじめ,何をなさねばならないかについて適切な見解を出 しやすくなるのである。」(Mayeroff1971,p.57.99頁以下). ケアされる者がケアする者に対して示す信頼とは,ありのままに自分の弱点をさらけ出したとしても,そ のことによってケアする者に見捨てられることはない,彼は共にいてくれる,とケアされる者が思うことが できることであるといえるであろう。このような信頼は,学生と教師の例に即して言えば,学生が自分ひと.
(6) メイヤロフの「差異の中の同一性」概念. りの力で持とうとしても持てるものではなく,教師がすでにその学生に対して寛容さと信頼を示しているこ と,そして,そのような信頼を寄せられていることを学生が自覚できていることによってもつことができる ものである。「自分の弱点をさらけ出したとしても,見捨てられることはない」という思いを学生が持つこ とができるようになるためには,学生が弱点をさらけ出して失敗を犯しても,実際に教師がその学生を見捨 てることなく,その失敗を許すという寛容さを示すことが必要であり,それによってはじめて学生は「見捨 てられることはない」という思いをもつことができる。このようにケアされる者がケアする者を信頼してい るとき,ケアされる者は自らを隠すことなく自らのありのままを見せることができるようになる。. 「自分がケアされていると知っているとき,そのケアされているその人の立場からみると,“相手とと. もにいる’’ということはどのようなものなのであろうか。相手が私とともにいれば,私はひとりぼっち だと感じはしないし,理解されていると感じている。それも,おざなりな理解ではなく,私の身になっ てみればどう思うかを相手が知っていると私が感じているから,理解されていると感じるのである。私 は,彼がありのままの私を見ようとしているのを知っている。それは,私に関する判断を下すためでな く,私をたすけるためなのである。私は,ありのままの自分以上に見せるために自分自身をことさらか くす必要はない。それどころか,彼に対して率直に自分自身でいることができ,彼も私に率直になるこ とができ,それで,彼が私をたすけやすくすることができるのである。相手が私の気持を汲んでくれて いると知っていると,私は自分自身,そして自分の世界をもっともっと真に見つめることができるので ある。」(Mayeroff1971,p.55.95頁以下). ケアする者に信頼されていることを自覚できているケアされる者は,自らのありのままの存在をケアする 者が受け容れてくれ,肯定してくれることを信じることができる。そして,そのことを通じて自らも自らの ありのままの存在を肯定し受け容れることができるようになる。このように,ケアに必要な要素としての「信. 頼」に関するメイヤロフの議論には,いわゆる「自己肯定感」に関する議論と関連する内容を見て取ること ができるのである。. 自己肯定感を高めることが重要であるという主張は数多く見られるが,それらを見ていくと,同じように 「自己肯定感」という言葉を使用していても,そこで語られている自己肯定感には,大きく分けて二種類の 異なったものを見出すことができることに気づく2。ひとつの自己肯定感としては,「セルフ・エステイーム (自尊感情)」や「自己有能感」といった言葉で語られる自己肯定感を指摘することができ,これと区別さ れるいまひとつの自己肯定感としては,試みに造語するならば,「自己存在肯定感」とでも呼ぶことのでき る自己肯定感を指摘することができる。. この二種類の自己肯定感の違いは以下のような点にある。自己有能感としての自己肯定感は,自分のうち に,何らかの「よさ」(比較可能な価値)・「できること」(能力)を見出していることによって,自己を肯 定できている状態のことである。これに対して,自己存在肯定感としての自己肯定感は,自分の「わるいと ころ」・「できないこと」・「ダメなところ」も含めて,全体として,いまここに自分が存在することをあ りのままに肯定できている状態であり,自己の存在それ自体を肯定できている状態である。自己存在肯定感 とは,さらに言えば,自分が「ただ存在していること」を自ら肯定することができ,許すことができている 状態であるということもできる。. 自己有能感としての自己肯定感を育てることは,さまざまな教育の場面で重視され,主題的に取り組まれ. 2 二種類の異なった自己肯定感に関しては,高垣2004が参考になる。特に,172−192頁参照。.
(7) 千 乗 胤 久. ているものである。例えば,道徳の時間において,「自分のよいところ」と「他人のよいところ」に気づく ことができるようになることを目指す授業や,「できるよう努力する気持ち・がんばる気持ちの大切さ」に 気づくことを目標とする授業が行われることがあるが,これらは,自己有能感としての自己肯定感を育てよ うとする授業の典型であるということができる. 。このような授業の重要性は大いに認められるべきではある. が,これだけで自己肯定感のすべての面にわたって目を向けることができたと考えるべきではないであろう。. カントの言葉を借りて言えば,これらの授業は,人間の「物件としての価値」を高めること(あるいは,す でに「物件としての優れた価値」を有していることに気づくこと)をねらいとしてはいるが,人間の「尊厳」. という価値を取り上げたものにはなっておらず,それを尊重することの重要性を主題的に取り上げたものに はなっていないという限界を有しているのである。. 自己有能感としての自己肯定感を育てることは,能力をより優れたものにすること,できなかったことが できるようになることを目指すことであり,ある人が成長することを援助することであるということもでき る。したがって,それはメイヤロフの言う意味でのケアであるということができる. 。しかし,メイヤロフの. 言うケアは,ケアされる相手を「それ自身が本来持っている権利において存在するもの」として認め,相手 を「尊厳としての価値」を有するものとして認めることを必要とするものでもあった。ある人を「尊厳とし. ての価値」を有するものとして認めるとは,その人の「物件としての価値」がいかなるものであったとして も,たとえそれがとるに足らないつまらないものだったとしても,それに関わらず,その人の存在自体は肯 定し認めるということである。これは,ケアする者がケアされる者に示す信頼のうちに含まれているべきも のでもある。ケアする者によって,ケアされる者の存在それ自体が肯定し認められることによって,はじめ てケアされる者は自己存在肯定感としての自己肯定感を持つことができるようになり,自らを隠すことなく, ありのままの存在をケアする他者に示すことができるようになるのである。ケアする者とケアされる者との. 間に相互の信頼関係が形成されてはじめて,ケアされる者は自己存在肯定感としての自己肯定感を持つこと ができる。自己有能感としての自己肯定感をもてるように支援することだけではなく,自己存在肯定感とい う意味での自己肯定感をもてるように支援することもまた,ケアの目的のひとつであるというべきである。. 教育というケアの場面においても,自己有能感としての自己肯定感を育てるだけではなく,子どもたちが自 分は他者に無条件に受容されているという体験をもつことができ,そのことによって自己存在肯定感として の自己肯定感を感じることができるようになるよう支援することも,教育というケアの目的のひとつとして. 重要なものであるといえるだろう3。. 3 「差異の中の同一性」においてケアする暑がとるべき態度 前節までの議論において,ケアにおいては,ケアされる者を「かけがえのない独自性」・「尊厳としての 価値」を有する者として過することが必要であることが確認されたが,ケアされる者を「かけがえのない独 自性」を有する者として過するとき,ケアする者はケアされる者をどのように意識し,ケアされる他者の何 をどのように感じ取ることが必要なのであろうか。ケアする私はケアされる相手・他者にどのような態度で 接するべきなのだろうか。このことに関して,メイヤロフは以下のようなことを述べている。. 3 自己存在肯定感としての自己肯定感は,自分がいくら努力してもそれだけで得られるものではない。それは,他者との関 わりの中で,他者から与えられるもの,他者による無条件の受容・許容があってはじめて生じうるものである。学校教育に おいて自己存在肯定感を育むためには,学級活動,保健室・相談室等の活動において,子どもたちが自己の存在そのものの 他者による受容・許容が体験できるよう,それらの活動のあり方を見直していくことが必要であろう。.
(8) メイヤロフの「差異の中の同一性」概念. 「自分以外の人格をケアするには,私はその人とその人の世界を,まるで自分がその人になったように 理解できなければならない。私は,その人の世界がその人にとってどのようなものであるか,その人は 自分自身に関して,どのような見方をしているかを,いわば,その人の目でもって見てとることができ なければならない。外から冷ややかに,あたかも相手が標本であるかのように見るのではなく,相手の 世界で相手の気持ちになることができなければならない。その人にとって人生とは何なのか,その人は 何になろうと努力しているのか,成長するためにその人は何を必要としているのかなどを,その人の“内. 面’’から感じとるために,その人の世界へ“入り込んで’’いくわけである。……〔中略〕……相手の気 持ちになるといっても,私は自分自身を見失うわけではない。私は自分のアイデンティティを保ってお り,相手と相手の世界に対する自分自身の反応をよく意識している。相手の目に映るようにその人の世 界を見るといっても,その人の世界に対するその人の反応と同じ反応を私も持つ,ということではない。. だからこそ相手の世界の中で,私は当人を援助することができるのである。たとえば,その人ではでき ない何かを行うことである。ところで,彼が困惑していることを認識するには,私が困惑しなければな らないということではなくて,私が内面的に彼の困惑を“感じる’’がゆえに. ,私は彼をその状態からた. すけ出すことができる位置にいるのである。」(Mayeroff1971,p.53−54.93頁以下). ここでは,「差異の中の同一性」においてケアする者がとるべき態度が語られているのであるが,ここで メイヤロフが指摘していることをより詳しく検討するために,シューラーの「同情・共感(Sympathie)」 に関する議論を参照することにしたい。シューラーは『同情の本質と諸形式』において,一般に多義的に理 解されている「同情・共感」を現象学的に詳細に分析し,以下の四種類のものに分類している。その四種類 とは,(1)相互感得(Miteinander−ftlhlen),(2)共同感情(Mitgeftihl):共歓(Mitfreude)および共苦(Mitleid),. (3)単なる感情伝播(diebloL3e Geftlhlsansteckung),(4)真正な一体感(die echte Einsftlhlung)である。こ れら四種のものそれぞれに関して,その内容を確認した上で,メイヤロフの主張との関連を明らかにしてい きたい。. (1)相互感得. 一人の愛する子どもの亡骸を前にした父と母が,互いに同じ苦しみ,同じ痛みを共に感じている。このよ うな仕方で人々が互いに同じ感情を共に感じていること,これをシューラーは相互感得と呼ぶ。これは,単 に二人の人が別々に同じ感情を持つこととは異なり,共同で同じ感情を感じていることであるが,これはま た,他者の感情を対象化した上で他者と同じ感情を感じ取ることとしての共同感情とも異なるものである (Scheler1912,S.23f.41頁以下)。相互感得は,先のメイヤロフの言葉で言うならば,「その人の世界に対 するその人の反応と同じ反応を私も持つ」ことにとどまっており,その意味で相互感得は,ケアする者がケ アにおいてもつべき態度とは異なるものであるということができる。. (2)共同感情(共歓・共苦). 相互感得が,例えば一人の愛する子を失ったという苦しみという一つの事実を父母が共に互いに感じてい ることであるのに対して,共同感情はある人Aの苦しみをある人Bが感得して同様に苦しむということで あり,Aの苦しみとその苦しみを感じ取って苦しむBの苦しみという二つの異なった事実を共同感情には 見て取ることができるのである(Scheler1912,S.24.43頁)。あらかじめ述べておけば,この共同感情が, ケアされる者との間に「差異の中の同一性」の関係を有することになるケアする者がケアされる者に対して もつことになる感情であるということができる。シューラーの指摘する四種類の「同情・共感」のうち,メ.
(9) 千 乗 胤 久. イヤロフの言う「差異の中の同一性」を理解する上で最も重要なのは,この共同感情としての共歓・共苦に あるということができる。. ケアにおける共同感情の必要性を詳しく検討するためには,シューラーが指摘している共同感情と追感得 (Nachftlhlen)との区別に注目する必要がある。「追体験(Nacherleben)」ないしは「追随的生(Nachleben)」. とも呼ばれる追感得と共同感情・共同感得(Mitftlhlen)とは区別されるべきであるというのが,シューラー の同情論の基本となる考え方のひとつであるが,どのような点で両者は区別されるのか。シューラ一によれ ば,共同感情が何らかの仕方で他者と同じ感情を有することを意味するのに対して,追感得は単に他者の有 している感情を認識し(erkennen),理解する(verstehen)ことであり,他者の感じているのと同じ感情. を有することまでは意味しない4。追感得においては,他者と体験を「共に分かち合うこと(Teilnehmen)」 なく,「無関心に(gleichgtlltig)」他者と向き合うこともできるのである(Scheler1912,S.20.35頁)。追感 得は,他者理解であり直接的な他者知覚である。われわれは喜びを笑いにおいて知覚するのであって,喜び を推論(類推)や投射的な感情移入,模倣などによって知るのではない(Scheler1912,S.20f.36頁)。また シューラ一によれば,共同感情は,追感得においてあらかじめ理解され把握された他者の体験に付加される ものであり,他者が歓んでいることや苦しんでいることを把握し理解する追感得が生じていることが,共歓 や共苦という共同感情が生ずるための前提になっている(Scheler1912,S.19f.33−35頁)。言い換えれば, 共同感情は追感得に「基づけられている」のである。. メイヤロフの「差異の中の同一性」における「差異」の確保は,シューラーの言う追感得が機能している ことによって果たされるということができる。追感得は他者の体験を他者の体験として認識的に理解するこ とであるとともに,他者の体験を追随的に生きることで追体験することでもあるが,この追体験としての追 感得は,ケアする自分がケアされる「その人とその人の世界を,まるで自分がその人になったように理解」 することを可能にするものであり,かつ「相手の目に映るようにその人の世界を見るといっても,その人の 世界に対するその人の反応と同じ反応を私も持つ,ということではない」ということをも可能にするもので あるからである。自他が同一の感情を抱いているという意味での同一性を有しているにしても,その同じ感 情のそれぞれを,自分の抱いているそれと他者の抱いているそれとを混同せず区別できているのは,他者理 解としての追感得が機能しているからである。このように見てくるならば,メイヤロフの「差異の中の同一 性」においては,ケアする者の意識のうちで追感得が機能していることが必要であるということができるで あろう。. では,追感得とは区別される共同感情はどうであろうか。一見すると,共同感情までは必要としないと言 うことができるようにみえる。先に引用したメイヤロフの言葉の中でも,「彼が困惑していることを認識す るには,私が困惑しなければならないということではなくて,私が内面的に彼の困惑を“感じる’’がゆえに, 私は彼をその状態からたすけ出すことができる位置にいるのである」と言われているからである。果たして. 共同感情はケアにおいて全く不要なのであろうか。そうではないであろう。追感得は,シューラーの言うと おり,他者の体験を共に分かち合うことなく,無関心に他者と向き合うこともできることであるがゆえに, 追感得のみでは必ずしもケアへと動機づけられることはないからである。共歓・共苦という共同感情は,他 者への関心と配慮を喚起し,ケアへと動機づけるものとして,ケアにとって重要なものである,というべき. 4 シューラ一によれば,この両者の区別を混同する誤りを,投射的な感情移入説(dieTheoriederprojectiveEinftlhlung) は犯している(Scheler1912,S.19.33頁)。感情移入説論者は,感情移入(=追感得)においては,他者の感情の認識のみ ならず,他者の感情を実際に感情として感じ取ることもなされていると考えているが,感情移入において得られるのは,他. 者の感情の認識にとどまるというのがシューラーの主張であろう。.
(10) メイヤロフの「差異の中の同一性」概念. であろう。「差異の中の同一性」において展開されるケアは,追感得に基づく共同感情によって動機づけら れるものである,ということができる。 では,メイヤロフの「彼が困惑していることを認識するには,私が困惑しなければならないということで はなくて,私が内面的に彼の困惑を“感じる’’がゆえに,私は彼をその状態からたすけ出すことができる位 置にいるのである」という言葉はどう解釈することができるのであろうか。ケアに必要とされる「私が内面 的に彼の困惑を“感じる’’」ことは,他者が困惑の感情を有していることを認識(追感得)し,そのうえで,. その他者の困惑の感情と同じ質の感情を感じる(共同感情)ことができていることであり,追感得にもとづ く共同感情のことを意味しているということができる。ケアに不要とされている「私が困惑すること」は,. あくまでも「私が私の困惑を感じること」であり,「私が他者の困惑を感じること」とは区別されるもので ある。この「私が困惑すること」は,以下で見る「感情伝播」や「一体感」において感じ取られる「困惑」 にとどまるのであって,追感得に基づく共同感情において感じ取られる「他者の困惑」ではないのである。. t3)感情伝播. 感情伝播とは,例えば「酒場やお祭りのときの快が,たったいままで悲しみに沈んでいた人びとを捲き込 んで『伝播し』,その結果,かれらがこの快のなかに『一緒に引きずりこまれる』」(Scheler1912,S.25f.45. 頁)ことがあるように,喜びや悲しみなどの感情が人びとの間で,人から人へと伝染していくことである。 この感情伝播において注意しておく必要があるのは以下のことである。例えば,苦しみの感情伝播において は,他者から私へ苦しみの感情が伝染することがあるが,そこで感じられている苦しみは,あくまでも私の 苦しみであって,他者の苦しみではないということである。ここに共同感情としての共苦との違いが見て取 られる。. 「苦しみそのものはまさに反対に共苦によっては伝播しない。むしろ苦しみが伝播するまさにその場所 から,共苦は完全に閉めだされる。なぜなら,苦しみはもはやわたしにとって同じ尺度で他人の苦しみ として与えられるのではなく,むしろ苦しみのイメージを回避することによって廃棄しようとわたしが 努力するところのわたしの苦しみとしてあるからである。」(Scheler1912,S.28.49頁). したがって,感情伝播だけではケアを行うための前提条件が整ったというわけにはいかない。感情伝播に おいてまず第一に問題とされ,配慮が求められるのは,自分の感情(自分の苦しみ)であり,他者の感情(他 者の苦しみ)ではないからである。例えば,佐藤義之の挙げている例を借りて言えば,同室の他者のいらだ ちが感情伝播的に私にいらだちを引き起こした場合,私は他者のいらだちを和らげるよう行為をするのでは なく,その部屋を出ていくことで,感情伝播的に生じた私のいらだちという感情に対処することが可能であ る5。仮に,感情伝播によって生じた感情に促されて何か他者に働きかける行為をとったとしても,それは 感情伝播によって生じた自分の感情を(それが歓びの感情であれば,それを)維持する,あるいは(それが 苦しみの感情であれば,それを)変更するための行為,つまり自分のための利己的な行為に留まる可能性を もっているものなのである。このように感情伝播によって行われた行為は利己的なものにとどまるものであ. 5 佐藤2009,34頁参照。また,同書の34−35頁においては,感情伝播だけでは「利己的な態度」にとどまり,「他人を他人と して扱う共同感情」のみが,利己性を乗り越えて,「他人のため」といえる行動を動機づけることになるとシューラーが考 えていたことが指摘されている。この指摘もまた,「他人のため」の行為であるケアのためには共同感情が必要となるとい. う本論での議論を展開する上で参考になった。.
(11) 千 乗 胤 久. りうるがゆえに,感情伝播だけでは他者のための行為であるケアを行うための前提条件が整ったというわけ にはいかないのである。. 先ほど,メイヤロフの言う「差異の中の同一性」の関係を理解する上で重要なのは共同感情であるという ことを確認したが,共同感情とは異なるものとして理解されるべき感情伝播はケアする者にとって全く無用 なものであるということになるのであろうか。確かに,感情伝播のみでは,自己の感情を感じ取っているの みであって,それに基づく行為は自己のための行為であり,他者のための行為であるケアではなく,感情伝 播のみでは適切なケアをすることはできない。しかし,他者の感情を単に認識するのみである追感得を越え て,共同感情に至るためには,他者と同種の感情を自らも感じる働きが必要であり,感情伝播は後述する一 体感などとともに,他者と同種の感情を自ら感じ取る働きの一つであるということができる. 。このように見. てくるならば,感情伝播はそれのみでは,適切なケアを行うことには至らないものの,適切なケアを行うた めに必要な共同感情が可能となるための基礎を提供してくれる作用として,ケアにおいて一定の役割を認め ることのできるものであるということができる6。. (4)一体感. シューラ一によれば一体感とは,感情伝播の極限の場合であり,自我が他我に,あるいは他我が自我に同 一視され,一方に取り込まれてしまうことを意味する。一体感においては,私があなた・彼・彼女の内に, あるいはあなた・彼・彼女が私の内で生きることになるのである。 この一体感の具体例としてシューラーは以下のようなものを挙げている。いわゆる未開の民族のもつ原始. 的な思考における一体感(=先祖と子孫の原始的一体感),古代の秘教における神との一体感,催眠術にお ける催眠術をかける者とかけられる者との間に見られる一体感,強者に対する弱者の積極的な自己隷属にお ける弱者の強者への一体化,マゾヒズムとサディズムにおける一体感,性愛における陶酔感における一体感 (=秘教における自然への忘我的な一体感の基盤),愛の同一化(=親子の愛,母子の愛,身体的・空間的 に自分の一部であったという事実に由来する一体感,忘我的献身という意味での母と子の間の一体感),最 高の形式の一体感としての「神秘的合一(uniomystica)」等々が,一体感の例として挙げられている (Scheler1912,S.30−44.52−75頁)。. こうした一体感は,極限的な感情伝播であり,それゆえに一体感もまた追感得,共同感情から区別される (Scheler1912,S.44.74頁)。一体感は自他が一体となって,あるいは自他融合状態において,一つの感情が. 感じ取られていることであるがゆえに,ある感情を共に感じることを含まず認識のレベルにとどまる追感得 や,他者の感情と自己の感情の二つの感情を認識し感じ取っている共同感情から区別される。 感情伝播が共同感情を可能にする前碇条件になっているということを先に確認したが,一体感は極限的な ものとしての感情伝播であるがゆえに,一体感に関しても同様のことを指摘しうる。シューラ一によれば,. 追感得,共同感情,精神的了解,これらは一体感という,「他者所与性(Fremdgegebenheit)」のもっとも 原始的な基底の上に建てられるものである(Scheler1912,S.42.70頁以下)。その意味で,一体感はケアに 不可欠な追感得・共同感情を基礎づけるものとして,ケアにおいて,ある一定の役割を果たしうるものであ るということができる。. 6 このことは,本節のはじめで引用したメイヤロフの言葉において,中略のかたちで省略した箇所において,メイヤロフが. 以下のように述べていることと対応しているということができる。「私は成長したいという私自身の心からの欲求をよく理 解し,それにこたえることができてはじめて,相手に関しても,その成長したいという欲求や努力が理解できるのである。 言い換えれば,他者の中に私が理解できるものは,私が自分自身の中で理解できるものだけなのである。」(Mayeroff1971, p.54.93頁以下). 10.
(12) メイヤロフの「差異の中の同一性」概念. しかし,こうした内容を持つ一体感に到達するためには,自らの「精神的個体性(geistigeIndividualitat)」. を忘却し,「精神的尊厳(Geistes−Wtlrde)」を自ら放棄し,自らの衝動的な生に身を任せなければならない (Scheler1912,S.46.78頁)とされる以上,こうした一体感は,それ自体としては,メイヤロフの議論にお いてケアの必要条件とされている「差異の中の同一性」としての一体感を意味しえない。シューラー. の挙げ. る一体感は,忘我的なものとして,自他の差異を消滅させるものであり,その意味でそれは,「差異の中の 同一性」という意味での一体感とは区別されるものとしてメイヤロフが挙げた「寄生的な一体感」と同種の ものであるといわざるをえない。. このようにシューラーの挙げる一体感と「差異の中の同一性」とはあくまで区別されるべきものなのであ るが,シューラーの言う一体感との違いを意識するとき,「差異の中の同一性」という一体感のもうひとっ の意味が見えてくるということもできるのである。これまで「(差異の中の)同一性」のひとつの意味とし ては,同じ感情を有しているということが見て取られてきたのであるが,同じ感情を有しているということ だけであれば,シューラーの言う一体感というかたちでもそれは可能であったわけである。同じ感情を有し ていることとは異なった意味でも「一体感」や「同一性」を考えることができるのではないだろうか。ここ. で参照したいのは,メイヤロフの以下のような言葉である。. 「ケアにおける同一性の感覚というのは差異の意識を含んでいるのであり,他者と自分たちの間の差異 の意識は,両者の間の一体感も含んでいるのである。そこには,私たちを一緒に包んでくれている何も のかに,私たち双方が共にかかわっているという感覚があるのである。」(MayerofE1965,p.464.187頁). ここには,同一の感情を共有しているということとは別の意味での同一性・一体感を見て取ることができ る。「私たちを一緒に包んでくれている何ものか」とはいったい何であろうか。その「何ものか」に「私た. ち双方が共にかかわっている」と言われていることに注目しよう。ケアにおいて,ケアする私とケアされる 他者の双方が「共にかかわっている」のは,まさにケアすることそのことである。したがって,「私たちを 一緒に包んでくれている何ものか」とは,ここでは,わたしとあなたが共同であなたのケアを行っていると いうことそのことが生成している場のことであり,この「両者の間の一体感」とは,あなたの「成長したい」. という要求に私とあなたが共に応えようとしているという一体感であり,あなたをケアすることにわたしと あなたの「双方が共にかかわっているという感覚」のことである。そして,この「共にかかわっている」と いうことは,シューラーの挙げる多くの一体感の例とは異なり,忘我的に実践されるのではなく,自他の間 の「差異の意識」を持ちつつ実践される。言い換えれば,私とあなたという二人の異なった人格が「共にひ とつのケアすることにかかわっている」ということを自覚しつつケアは実践されるのであり,そのことが「ケ アにおける同一性の感覚というのは差異の意識を含んでいる」という言葉で言い表されているということが できる。「差異の中の同一性」という「一体感」は,自他の差異を自覚した上で感じ取られる自他の共同性 という一体感であり,この点にシューラーの取り上げた忘我的な一体感との違いを見て取ることができるの である。. おわりに 本ノ稿は,メイヤロフのケア論のキーワードのひとつである「差異の中の同一性」に関して,ケアする者, ケアされる者,そしてケアする者とケアされる者の相互の関係という三つの観点から,「差異の中の同一性」 という表現に込められている意味を明らかにすることを目指してきた。「差異の中の同一性」に関して本稿. 11.
(13) 千 乗 胤 久. で確認することができたことの概要をまとめ直すならば,以下のように言うことができるであろう。 「差異の中の同一性」という関係においてケアする者は,ケアされる相手である他者を一人の尊厳を持つ 独立の人格として過することが必要である。ケアする者がケアされる者を尊厳ある人格として,その存在そ のものを肯定するとき,存在そのものを肯定された相手は,ケアする者を信頼することができるようになり, ケアする者に対して自らのありのままの存在を示すことができるようになる。ケアされる者がありのままを. 示してくれることによって,ケアする者はケアされる他者がどのような感情を有しているのか適切に把握し 感じ取ることができるようになる。「差異の中の同一性」の関係にあるケアする者とケアされる者は,共に 同じ感情を感受するのではあるが,それは自他融合状態での忘我的な感情の共有ではなく,自他の感情の個 別性を冷静に認識した上で成立する共同感情である。それゆえに,共同感情にもとづいたケアは,ケアする 者の勝手な思い込みによる対応から自由でありうるのである。また,ケアする者とケアされる者との「差異 の中の同一性」としての一体感は,ケアする者とケアされる者とが自他の差異を自覚しつつ「共にケアを行 うこと」としてのケアの共同性をも意味している。このケアの共同性ゆえに,ケアにおいては,ケアする者 もケアされる者も,一方的に相手から支配されることから自由でなければならないのである。 メイヤロフのケア論の特徴としては,「差異の中の同一性」の主張のほかに,他者をケアすることは自己 をケアすることにつながるという「ケアの相互性」の指摘を挙げることができる。この指摘は,ケアをケア する者の自己犠牲に終わらせないために何が必要であるかを考察する上で重要な指摘を含んでいるが,本稿 では取り上げて検討することができなかった。また,ケアの目的である自己実現に関しても,そもそも自己 実現とはいったいどのようなことか考察することも重要なことであったが,これも本稿では扱うことができ なかった。いまのところの見通しとしては,「ケアの相互性」,「ケアの目的としての自己実現」のいずれの 問題に関しても,アリストテレスの議論(「ケアの相互性」に関しては彼の友愛論,「ケアの目的としての自. 己実現」に関しては彼の幸福論)のうちに,それらの問題を考察する上で参考になる見解を見出すことがで きると考えている。メイヤロフとアリストテレスの議論の比較研究を通じて,メイヤロフのケア論の射程を 測ることが今後の課題である。. く参考文献〉. Kant,Ⅰ.1785Grundleg〝ngZurMd郎hysikderSitten.=1999GrundlegungzurMd郎hysikderSitien,PhilosophischeBib− 1iothekBd.519,FelixMeinerVerlag.(邦訳:1989『道徳形而上学の基礎づけ』宇都宮芳明訳,以文社.)なお,原著の引 用・参照箇所のページ表記は,哲学文庫版の欄外に記されているアカデミー版全集のページ表記を使用している。. Mayeroff,M.1965‘‘OnCaring”,inlhiernationalPhilos坤hicalQuarier&,Vol.Ⅴ,No.3,pp.462−474.(邦訳:1987『ケアの 本質:生きることの意味』田村真・向野宣之訳,ゆみる出版,183−215頁.). 19710nCaring.=19900nCaring,HarperCollinsPublishers,HarperPerennialpaperbackedition.(邦訳: 1987『ケアの本質:生きることの意味』田村真・向野宣之訳,ゆみる出版,13−181頁.) 森村修2000『ケアの倫理』大修館書店. 中野啓明・伊藤博美・立山善康(編)2006『ケアリングの現在:倫理・教育・看護・福祉の境界を越えて』晃洋書房. 中野啓明2006「メイヤロフとハルトのケアリング論」,中野啓明・伊藤博美・立山善康(編)2006所収,67−78頁. 佐藤義之2009『感じる道徳:感情の現象学的倫理学』晃洋書房.. Scheler,M.1912WisenundFbrmender$ympathie.=1973肋SchelerGesammelte肋rkeBd.7,FranckeAGVerlag.(邦 訳:2002『シューラー著作集 8:同情の本質と諸形式』青木茂・小林茂訳,白水社.) 高垣忠一郎2004『生きることと自己肯定感』新日本出版社.. (旭川校准教授). 12.
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