松本卓夫と朝鮮半島
著者
洪 伊杓
雑誌名
関西学院史紀要
号
19
ページ
53-103
発行年
2013-03-25
URL
http://hdl.handle.net/10236/10557
松本卓夫と朝鮮半島
洪
伊杓
一、 はじめに 韓 国 の 初 代 来 韓 宣 教 師 で あ る ア ン ダ ー ウ ッ ド︵ 元 杜 尤、 H. G. Underwood ︶ の 一 人 息 子 で 日 帝 末期、 延禧専門学校 ︵現、 延世大学︶ の校長だった元漢慶 ︵ H. H. Underwood ︶ が、 宣教雑誌 ﹃ TheKorea Mission Field
﹄ の一九四〇年三月号に寄稿した ﹁皆さんを助けに来ました!﹂ の最初の部 分には日帝下朝鮮に定着した日本人たちの多様な姿を描いている。 下 関 か ら 釜 山 へ、 玄 界 灘 を 渡 っ て 来 た 多 く の 人 々 は 各 々 多 く の 目 的 を 持 っ て い る は ず だ。 彼 ら は 政 府 に よ っ て 発 令 を 受 け た り、 お 金 を 儲 け る た め の 事 業 を 目 的 と し た り、 あ る い は 鉱 山 や 工 場 で 働 く た め 、 そ れ と も 朝 鮮 と 満 洲 国 を 経 て よ り 遠 い 所 を 旅 す る た め に 海 を 渡 っ た は ず だ 。 朝 鮮 に は 有 能 な 日 本 の 官 僚 、 賢 い 日 本 人 事 業 家 、 立 派 な 日 本 人 教 師 、 ま た 朝 鮮 在 住 の 日 本 人 の 面 倒 を 見 る 牧 師 も た く さ ん い る 。 し か し 彼 ら と 違 い 何 人 か の 人 々 は 自 分 の 故 郷 を 離 れ て こ
の 寒 く 不 慣 れ な 朝 鮮 に 、 他 で も な い 朝 鮮 人 を 助 け る と い う 神 聖 な 目 的 を 持 っ て 入 っ て 来 た 。 当時、大部分の日本人は個人の成功、あるいは日本帝国の繁栄のために朝鮮に渡った。いくら 立派な牧師でもその大部分は在朝日本人のために韓国行を選択した。しかし彼らと異なり、韓国 と韓国人のために来韓した日本人がいることを元漢慶は強調している。その日本人は果して誰な のか。 前述した引用文が記録された日帝末期は、神社参拝は勿論、東方遥拜や皇国臣民誓辞の朗読な どがキリスト教の礼拜でも強要されるなど、精神的に日本と日本人に対する憎悪や敵対心が絶頂 に至った時代だった。朝鮮在住の日本人は、高圧的な官僚や暴力的な軍人あるいは警察、そして 利益のみを考える商人たちが大部分だったからだ。しかし、その中で自分の名誉と安全を顧みず に朝鮮に渡った人がいた。非難と誤解を受けることが分かりきっていた地に、信念を抱き渡韓し た 彼 は、 日 本 メ ソ ヂ ス ト 教 会 の 牧 師、 松 本 卓 夫 だ っ た。 関 西 学 院 神 学 部 が 輩 出 し た 日 本 の 代 表 的 な聖書︵新約︶神学 者 として、青山学院神学部の教授だった彼が、日中戦争や太平洋戦争で混乱 状態にある時代、なぜ朝鮮に渡り、朝鮮でどのような活動をしたのか、そして彼の足跡が持つ意 味と限界は何なのかについて考察する。 二、朝鮮行の背景とその過程 ︵ 1 ︶延専だけは守り抜かなければならない!
﹁朝鮮の生徒たちは朝鮮人教授の下で朝鮮語で教育されなけれ ば ならない﹂ という元漢慶 ︵ H. H. Underwood ︶校長の信念によって、日帝末期にも延禧専門学校︵ Chosen Christian College, 略し て C.C.C. ︶ で は、 鄭 寅 普、 金 允 経、 崔 鉉 培、 兪 億 兼、 白 南 雲 な ど の 有 能 な 朝 鮮 人 教 授 た ち が 教 え ていた。朝鮮語抹殺政策の下でも朝鮮語を正式な科目として採択し、教えた高等教育機関は延禧 専門学校のみで、なおかつ一九三八年に朝鮮教育令が改定され朝鮮語を教科科目から除くように 強要する際も最後まで延専文科だけは朝鮮語科目を開設し続けた。 中学校で日本語共用化に苦しんだ生徒が延 禧 専門に入学し、校内で朝鮮語を自由に使えるよう になったことは並みの嬉しさではなかった。当時の雰囲気は、ある会社で日本語を使わないで朝 鮮語を使うと五ウォン︵当時では巨額︶という罰金が課せられたというエピソードが新聞に美談 として紹介されるほどだった。ゆえに延 禧 専門の校内の雰囲気は外とは全く違う世界だった。平 壌 の 崇 実 専 門 学 校 な ど 多 く の 長 老 教 会 の 学 校 は、 一 九 三 七 年 一 〇 月 に 神 社 参 拝 の 強 要 を 拒 否 し て閉校願いを提出し、事実上学校が消えた状態だった。遠く間島地域から尹東柱や宋夢奎が延専 まで留学したのもそのためだった。朝鮮語を自由に使いながら学ぶことができる唯一の専門学校 だった延 禧 はこの暗黒の時代、彼らにとっては天国と言えるような、自由な雰囲気の中で有名な 尹東柱の美しい詩も創作された。 しかし、一九三七年日中戦争を経て一九三九年には日帝の延 禧 専門に対する干渉と弾圧が増し てきた。 ﹁大東亜共栄圏﹂ 建設を叫んで、 英米勢力の追放を叫び始めた。 アメリカは一九三九年八月、 日米通商条約を廃棄し、その結果日米関係は急速に悪化、とうとう一九四〇年九月に日本はドイ ツ、イタリアと同盟を結んで英米仏との緊張関係が深まった。国内では﹁国家総動員態勢﹂の確
立、戦時体制の整備という名の下でファシズム体制が より強化され、太平洋上での戦雲がさらに濃くなって 行った。 このような中、延専にも危機が迫って来た。総督府 は日本人教授の採用および教授採用の際に総督府学務 局の事前承認制度を強要し、一九四〇年には日本人理 事の増員を強要した。大東亜戦争の最終段階に入って は生徒たちが軍需工場に引かれて行き、甚だしくはア ン ダ ーウッドの銅像まで撤去され、その場に日本帝国 主義をほめたたえる﹁興亜維新記念碑﹂が建てられた。 その後、学校から追放された教授たちは﹁平和が来れ ば 私たちはまた学校をやりましょう﹂と語り合いなが ら涙を流したと伝えられる。 こ の よ う な 弾 圧 状 況 の 中 で も 元 漢 慶︵ H. H. Underwood ︶ 校 長 は、 あ ら ゆ る 蔑 み と 苦 痛 に 耐 え、 最後まで学校の主体性を守るために力を尽くした。こ のような大変な時期であれ ば あるほど、この学校が朝 鮮で生き残らなけれ ば ならないと信じた。そこで形式 的には最大限に 総督府の要求に応ずる姿を見せ、優秀 松本が日本に帰国した直後、本館の前のアンダーウッドの銅像(左)が撤去され、その場 に建てられた「興亜維新記念碑」(右)。(1942年)
な日本の帝国大学出身の朝鮮人たちを教授に採用する仕方で総督府が仕方なく彼らを認めるよう になった。日本人教授を採用する場合にも、キリスト者であり朝鮮の状況に同情的な人を採用す ることで総督府の直接的な意図を避けようとした。 Y というある教授は、一九三六年に赴任する 際 に 生 徒 た ち か ら 親 日 教 授 と し て 批 判 の 対 象 だ っ た が、 ﹁ 勉 強 に 励 み、 独 立 の た め の 人 材 に な り なさい﹂という激励の言葉を聞かせ、 生徒たちが驚いたり感激したりと金奎三教授︵元経済学部︶ が証言した 。 ︵ 2 ︶ 興業倶楽部事件と松本博士の招聘 一 九 三 八 年、 ﹁ 興 業 倶 楽 部 事 件 ﹂ が 起 こ っ た。 こ れ は キ リ ス ト 教 の 民 族 運 動 団 体 を 抹 殺 し よ う とする朝鮮総督府が計画した偽造された事件だった。結局、興業倶楽部の延 禧 専門最高責任者で 副校長を引き受けていた兪億兼を含め李春昊、崔鉉培などの延 禧 専門の教授が三ヶ月間の獄苦を 経験し酷い拷問にあった後、起訴猶予で釈放された。釈放されたが、東京帝国大学法学部出身の 兪億兼は、弁護士の職を退くことが強要され誓約しなけれ ば ならず、同時に延 禧 専門教授職と副 校長職を全て辞めることとなった 。 このような困難な時期に、日本で新約聖書学者として活躍し た松本卓夫教授が延 禧 専門と出逢ったのである。 アメリカ北メソ ヂ スト教会のミッションスクールである青山学院大学神学部で働いていた彼が、 延 禧 専門に赴任することについて、元漢慶の長男である元一漢︵ H. G. Underwood II ︶は﹁日本 人教授の採用を総督府がひどく強要するので、父が考えたあげく松本博士に何度も懇請して日本 から招聘しました﹂と顧み、李鍾英教授︵前延世大史学科教授︶は﹁松本教授は内心日本の侵略
政 策 と 軍 国 主 義 を 責 め て い る 人 だ っ た ﹂ と 評 価 し た 。 総 督 府 の 強 圧 な 政 策 か ら 延 禧 専 門 を で き るだけ守り抜こうとした元漢慶の努力が彼を朝鮮に導いたのである。 元 漢 慶 は 宣 教 雑 誌 で あ る﹃ The Korea Mission Field ﹄︵ KMF ︶ で 松 本 博 士 を 延 禧 専 門 に 招 く ためにどれほど努力したかを次のように記している。 我 が 大 学 に 健 全 な 日 本 の キ リ ス ト 者 を 教 員 と し て 採 用 す る こ と は 非 常 に 重 要 な 事 な の で、 私は二回も日本に渡って延 禧 専門学校 ︵ C.C.C. ︶ にふさわしい日本人を探したが、 無駄だった。 この問題について私たちは切実に祈りをささげ、 ある日、 東京にある青山学院の松本博士 ︵ Dr. T. Matsumoto ︶ が 朝 鮮 を 訪 問 し た と き に 私 た ち の 大 学 を 訪 ね て 来 た。 私 は 彼 に 私 た ち の 重 要な要請に対して率直に話し、 金や肩書きではない、 キリスト教と国のために奉仕する機会 が こ ち ら 朝 鮮 に も た く さ ん あ る こ と を 力 説 し た。 私 の 言 葉 が 終 わ っ た 後、 松 本 博 士 は 心 を 動かしたように関心を見せた。彼は席を外し、 午後私に電話をして再び会って現状況をもっ と 詳 し く 話 し て く れ と 願 っ た。 こ れ は 本 当 に 大 き な 勇 気 を 与 え て く れ た。 私 は 電 話 で 彼 に 単 刀 直 入 に 言 っ た。 ﹁ 我 が 学 校 に 来 ら れ ま す か。 ﹂ 彼 が 私 の 要 請 に 対 し て 本 当 に 考 え て み る と言った時、私は飛び上がるほどに嬉しかった 。 元漢慶は松本のような良心的で信仰深い日本人教授が確保されれ ば 、彼を立てて総督府の暴政 下でも延 禧 専門学校を完全に守り抜くことができると考えていた。しかし東京の青山学院と比べ ると途方もなく劣悪な条件の中で、松本は彼の家族を苦労させなけれ ば ならなかった。それにも
か か わ ら ず、 松 本 は も う ず い ぶ ん 前 か ら 朝 鮮 へ 渡 る こ と を 心 に 決 め て い た。 ︵ こ の 事 実 は 次 の 章 で検討︶ ︵松本博士が朝鮮へ来るためには︶多くの問題が散在し、 これは彼の犠牲が必要な事案だっ た。 ま ず 彼 は 彼 の 家 だ け で は な く、 彼 が 長 年 の 歳 月、 情 熱 を 捧 げ て 愛 さ れ た 教 育 機 関︵ 青 山 学 院 ︶ を 発 た な け れ ば な ら な か っ た。 そ し て 朝 鮮 で は 薄 俸 を 受 け な け れば な ら な い し、 見 知 ら ぬ 人 々 と 寒 い 環 境 で 暮 さ な け れ ば な ら な い、 多 く の 友 達 の 反 対 に 直 面 し な け れ ば な ら な か っ た。 彼 が 今 す ぐ 決 心 で き な い の は 当 然 だ っ た。 し か し 祈 っ て 相 談 し た 後、 彼 は 結 局 朝 鮮 へ 来 る こ と を 決 め た。 そ の 後 も 私 は ア ベ︵ Abe ︶ 博 士 と 青 山 学 院 の 学 長 に 同 意 を 得 る た め に 日 本 に 渡 ら な け れば な ら な か っ た。 ア ベ 博 士 は 日 本 中 の 他 の ど ん な 学 校 に も 松 本 博 士 を 送 る の は 気 が 進 ま な い が、 青 山 は 延 禧 専 門 学 校 の 利 益 の た め な ら 喜 ん で 損 害 を 受 け る と 話 し て く だ さ っ た。 日 本 メ ソ ヂ ス ト 教 会 の 監 督 も 同 じ く 拓 け た 考 え を 持 っ て い る 人 だ っ た。 松 本 夫 人 は 個 人 的 な 犠 牲 を こ こ ろ よ く 引 き 受 け、 よ り 困 難 な 環 境 で 大 変 な 生 活 を す る よ う な 人 物 で は な か っ た の に 、 す べ て を 謙 虚 に 受 け 止 め て く だ さ っ た。 と に か く 松 本 夫 婦 と 彼 ら の お 嬢 さ ん は 延 喜 専 門 学 校 の 仕 事 を 始 め る た め︵ 一 九 四 〇 年 ︶ 四 月 四 日 に ソ ウ ル に 到 着 す る 予 定 だ。 こ の 大 学 で 彼 は 宗 教 事 業 部︵ Religious Work Department ︶ の 責 任 を 引 き 受 け、 ま た こ ち ら は 授 業 の 時 間 割 を 調 整 す る 予 定 で あ る。 お 嬢 さ ん は 梨 花 女 専 の 音 楽 部 に 入 学 す る 予 定 で あ り、 これから延 禧 専門学校キャンパス内にある住宅で家族皆が共に住むようになる 。
︵ 3 ︶ 激励と非難を同時に受ける 元漢慶は次のように松本教授の活躍に期待していた。 東 京 に い る 宣 教 師 と 日 本 人 は、 私 に 褒 め 言 葉 と 同 時 に 非 難 を 浴 び せ た が、 私 た ち の 明 る い 未 来 に 激 励 を 惜 し ま な か っ た。 松 本 の よ う な 立 派 な 人 物 を 東 京 か ら 遠 い 地 へ と 連 れ て 来 て し ま う こ と に 対 し て は 大 き な 不 満 を 表 し た。 短 く 松 本 博 士 に 関 す る 紹 介 文 を 添 付 し た が、 こ れ だ け で も 彼 が ど れ ほ ど 優 秀 で あ る か を 知 る に は 困 難 で は な い だ ろ う。 彼 の 学 歴 や、 彼 の 著 書 と し て 現 わ れ た 学 問 的 成 果、 そ し て 二 〇 年 間 見 せ て く れ た 教 授 と し て の 能 力、 何 よ り も 私 は 彼 の 犠 牲 的 な 善 良 な 魂 を 高 く 評 価 し て い る。 彼 は こ ち ら へ 来 て 多 く の 困 難 を 経 験 す る だ ろ う。 新 し い 環 境 で 朝 鮮 人 と 西 洋 人 と の 調 和 を 生 み 出 さ な け れば な ら な い だ ろ う。 し か し こ の よ う な 困 難 に も か か わ ら ず、 彼 が 彼 の 能 力 と 真 実 の キ リ ス ト 教 精 神 を 土 台 と し て 大 き な 成 功 を 成 し遂げると信じ、さらに私たちの大学と朝鮮に重要な影響を及ぼすことを確信する 。 上記の記事のように元漢慶が日本のキリスト教界の人々から﹁激励と非難﹂を同時に浴びたよ うに、松本自身もそのような﹁激励と皮肉﹂を聞き苦悩していた。そのことが松本の当時の回想 録には次のように記されている。 同僚の中には、 松本はセンティメンタリスト︵ Sentimentalist ︶だ。身のほどもわきまえず、 遥々朝鮮の地に渡り行く何て、 と判断した。他の人々は、 青山で松本とは長い間の関係で切っ
て も 切 れ な い 結 び 付 き に な っ て い る の に、 そ れ を 断 ち 切 っ て 他 に 移 る と は あ ま り 非 現 実 的 な 行 動 じ ゃ な い か、 と 言 っ た。 い よ い よ 出 掛 け る 前 の 日 に 、 ベ リ ー 部 長 は 自 分 の 研 究 室 に 私 を 呼 び 入 れ て、 目 に 涙 を た た え﹁ ど う か 青 山 に 居 残 っ て く れ な い か ﹂ と 懇 望 さ れ た。 し か し 私 は、 今 で は 朝 鮮 行 を 神 の 御 召、 神 か ら の 厳 命︵ チ ャ レ ン ジ ︶ と し て 受 け と め て い る の で﹁ こ の 決 断 を も う 変 え る こ と は 出 来 ま せ ん。 行 っ て 参 り ま す。 ﹂ と 同 じ く 涙 を 流 し つ つ、 二 十 一 年 間 に 渡 る 神 学 部 教 授 の 任 期 間 に お け る 御 厚 情 を 深 謝 し、 熱 い 祈 り を も っ て お 別 れ し た の で あった。家内や娘も私と同じ決意であり、同行した 。 このように松本は多くの非難を受けながら、自分が日本で享受した名誉と安泰を全て捨ててま で玄界灘を越え朝鮮に向かった。五二才の彼がなぜ朝鮮を選んだのか。彼を朝鮮に導いたものは 何だったのか。 三、 朝鮮の青年たちとの出会い ︵ 1 ︶ 日本で出会った朝鮮の青年たち 松 本 の 回 顧 録﹃ 霊 は 人 を 生 か す ﹄︵ 一 九 八 八 ︶ の 第 二 一 章﹁ 京 城︵ ソ ウ ル ︶ に 行 く 一 九 四 〇 ∼四二年まで︵五二∼五四歳︶ ﹂には、 彼が安定した生活を捨てて朝鮮行きを決心することとなっ た動機が詳しく紹介されている。
青 山 学 院 の 神 学 部 に は、 京 城 か ら の 学 生 が、 ほ と ん ど 毎 年、 数 名、 も し く は 二、 三 名、 勉 強 に 来 て い た。 私 は 在 米 中、 親 切 な ク リ ス チ ャ ン 家 庭 に しば し ば 招 か れ て 楽 し い 時 を 味 わ っ た が、 帰 国 の 暁 に は、 日 本 に 留 学 し て い る 外 国 か ら の 学 生 を も て な し い た わ っ て 上 げ た い と 願 っ た の で、 時 々 朝 鮮 か ら の 学 生 諸 君 を 家 に 招 い て 寿 喜 焼 を 共 に し、 賛 美 歌 を う た い、 ゲ ー 1886年に建てられた東京の和英神学校建物(Philander Smith Biblical Institute)、 韓国と日本のメソヂスト教会の宣教を開拓 し た Goucher 博 士 を 記 念 し た Goucher ホ ー ル(Goucher hall, 1887)、 澁谷に建てられたこの建物はすべて1923年に起こった関 東大地震によって崩れ落ちた。 大震災以後再建された間島記念館(1929)と神学部ベリーホール(Berry Hall, 1931) ム を 楽 し ん だ り し た。 こ う し た 友 好 関 係 を 重 ね て い る 中 に、 彼 ら は 私 を 信 頼 す る よ う に な り、 他 の 日 本 人 に は 絶 対 に 打 明 け な い よ う な 内 心 に こ も っ た 感 情 を 洩 ら し て く れ る よ う に なった 。 青山学院は米メソ ヂ スト 教 会 が 日 本 に 建 て た ミ ッ ションスクールとして朝鮮 の多くの青年たちが夢を抱 いて留学した場だ。この学
校の重要な土台である ﹁美会神学校﹂ は最初の朝鮮宣教許可を高宗から受けたマクレイ ︵ Robert Samuel Maclay 1824-1907 ︶宣教師が一八七九年に建てた学校だった。 三年後の一八八二年に は﹁東 京和英神学校﹂と﹁美会神学校﹂が合併され﹁東京英和学校﹂と改称し、その中に神学部を置い たことが青山学院の神学部につながって行った。松本はアメリカの南メソ ヂ スト教会が設立した 関西学院神学部出身︵一九一二年卒︶だったが、以後アメリカのウェスレアン大学、ドゥリュー 大学、ペンシルベニア大学、シカゴ大学などで研究を終えて、その円満な人格と卓越した学問性 が認められ青山学院神学部の招聘を受けて教鞭を取ることとなった。 彼は朝鮮で ﹁三 ・ 一独立運動﹂ が起こった直後の一九一九年五月二〇日に青山学院に来たため、その頃出会った朝鮮人留学生は 彼に大変大きな衝撃を与えた。実際に三 ・ 一運動の契機となった東京留学生二 ・ 八独立宣言の主要 メンバーの中に青山学院の在校生が多数含まれていたことがそのことをよく表わしている。 当 時 は、 朝 鮮 全 体 が 日 本 総 督 府 の 統 治 下 に あ っ た の で、 被 統 治 民 に 対 し 不 当 な 処 置 が あ り 勝 で あ っ た。 彼 ら は こ う し た 日 本 ま た は 日 本 人 に 対 し て、 不 満 忿 懣 激 怒 反 抗 心 な ど を 内 に 抱 い て い た の で、 そ れ ら の 事 ど も を 私 に 打 ち 明 け て く れ た の で あ る。 こ う し た 彼 ら の 僞 ら ざ る 心 持 を 知 る に 及 び、 私 は こ こ に 極 め て 重 大 な 問 題 が あ る、 こ の ま ま に 放 置 し た ら、 あ る い は、 極 東 に 大 爆 発 が 起 こ ら ぬ と も 限 ら な い。 朝 鮮 統 治 を 軍 人 や 役 人 や 商 人 ら だ け に 任 せ て 置 か な い で、 真 に 朝 鮮 国 民 を 愛 し 真 実 の 友 と し て 交 わ り 協 力 す る よ う 努 力 す る よ う な 精 神 的 指 導 者 が、 使 命 を 感 じ て 彼 の 地 に 赴 く べ き だ。 こ ん な 風 に 私 は 痛 感 し、 こ の 考 え を 時 々 人 々 に 語 り、 そうした指導者の出現を待ったのであった 。
アメリカから帰って来るやいなや教鞭を取った松本は、朝鮮人の弟子との対話の中で大きな衝 撃を受け、朝鮮に対して特別な同情心を抱くようになる。彼が後日、延喜専門学校教授として朝 鮮へ行くようになったのが一九四〇年であるため、一九一九年から二一年余りの間、青山学院神 学部に留学した朝鮮人学生の大部分が彼と交流した可能性が非常に高い。これら朝鮮人留学生は 果たしてどのような人物だったのか。 2.8 東京学生独立宣言当時の東京 YMCA の姿 ま ず﹃ フ ァ ス ブ ン︵ 貨 水 盆 ︶﹄ を 書 い た 小 説 家 と し て 有 名 な 田 栄 沢 牧 師 と 韓 国 の 近 代 文 学 の 父 と 呼 ば れ る 金 東 仁 を あ げ る こ と が で き る。 田 栄 沢 は 一九一二年に日本に渡り、青山学院高等部文科を経 て一九一八年に同大学文学部を卒業し再び神学部に 入学した。この時、既に青山学院を一九一七年に卒 業した金東仁、そして明治学院大学に在学していて 朱 曜 翰 な ど と 朝 鮮 最 初 の 文 芸 同 人 誌 で あ る﹃ 創 造 ﹄ の同人として参加したが、 ちょうど一九一九年三 ・ 一 運動が起きる直前に東京で留学生たちを中心に進め ら れ た﹁ 二 ・ 八 独 立 宣 言 ﹂ に 参 加 し た。 一 九 二 二 年 に神学部を卒業した後、ソウルの監理教協成神学校 ︵ 現 監 神 大 ︶ 教 授 に 赴 任 す る ま で 一 九 一 九 年 か ら 三 年間、神学部で学んだ田栄沢は確かに松本教授と深
く交流し、彼に朝鮮青年の民族精神と心意気を感じさせたと思われる。 ま た そ の 時、 朝 鮮 Y M C A 会 館 で﹁ 二 ・ 八 独 立 宣 言 書 ﹂ を 朗 読 し た 主 人 公 も 青 山 学 院 大 学 に 在 学していたクリスチャン青年である尹昌錫だった。彼は壇上に上がり、まず神に祈りを捧げ独立 宣言書を朗読したと言う。金昌俊牧師︵一八九〇∼一九五九︶もここで言及しなけれ ば ならない。 彼 は 一 九 〇 七 年 に 洗 礼 を 受 け メ ソ ヂ ス ト 教 会 に 入 信、 崇 実 学 校 を 経 て し ば ら く 青 山 学 院 で 学 ん だ 後、 帰 国 し て 監 理 教 協 成 神 学 校 を 卒 業 し た。 一 九 一 九 年 の 三 ・ 一 運 動 が 起 こ っ た 時、 民 族 代 表 三三人中のキリスト教 界代表の一人として参与したため、青山学院神学部の初期朝鮮人留学生の 中 の 二 人 が 三 ・ 一 運 動 の 主 役 で あ っ た こ と が わ か る。 こ の 二 人 だ け を 考 え て も、 当 時 の 青 山 学 院 の朝鮮人留学生の民族意識を少なからず垣間見ることができる。 これだけではない。朝鮮戦争以後、教会再建に力を尽くした柳瀅基監督は、一九一八年三月か ら一九二一年まで青山学院神学部予科で学んだ。小説家沈熏の実兄である沈明燮牧師も一九三〇 年三月に青山神学部を卒業し、監理教協成神学校出身で YM C A 総務を歴任した具滋玉、大田第 一教会主任教師の後、監神大教授として従事した徐太源牧師、長老教会の神学者である宋昌根牧 師 ︵一九二六年卒業︶ 、韓神大学総長を歴任した民主化活動家金在俊 ︵一九二六∼二八年在学︶ 博士、 ﹁心の淸い人々は、幸いである、その人たちは神を見る﹂ ︵マタイによる福音書五八︶という聖 句を座右の銘とした詩人金東鳴︵元梨花女大教授︶も一九二八年に神学部を卒業した。開城教会 で青年運動を繰り広げソウル信光女中高校校長を歴任した閔英淑も青山学院神学部で学んだ。 文学部を卒業した人々の中にも、小説家白石︵本名は白 虁 行、一九一二∼一九九五︶が英文科 で学びながら一九三一年青山学院教会で洗礼を受け、一九三二年に優秀な成績を修め卒業をした。
一九三〇年代を代表する敍情詩人金永郎︵一九〇三∼一九五〇︶も徽文義塾を経て一九二〇年に 渡日し、青山中学部を経て英文科に入学した。しかし彼は関東大地震事件︵一九二三年︶の悲劇 を経験し、学業を半 ばに挫折した。以後、南メソ ヂ スト系統の開城ホスドン女学校出身の金グィ リョンと結婚︵一九二五年︶した後、創作に没頭した。韓神大︵前朝鮮神学校︶とセブランス医 学校︵現延世大︶で英語を教えた金三悦も青山英文科出身であり、 また培材学堂学生時代に三 ・ 一 運動の先頭に立って獄苦を経験した独立運動家張龍河も一九二一年に培材を卒業した直後青山予 科に進学した。 田栄沢牧師 金昌俊牧師 金在俊博士 宋昌根牧師 柳瀅基監督 白石(本名、白虁行)詩人 沈明燮牧師 金東鳴詩人 金永郎詩人 徐太源牧師
韓国キリスト教界や文学界の著名なリー ダ ーたちが、松本が働いた当時の青山学院で学びなが ら彼と交流したはずである。若い時代、日本帝国主義の不義に対して怒りを表わした予備牧師と 文人たちは、朝鮮が経験していた悲しみと苦しみに対して無感覚であった松本の良心に警鐘を鳴 らした主役たちだったのである。 し か し、 そ う し た 待 望 の 人 物 は、 仲 々 現 わ れ 来 な か っ た。 す る と 突 如、 そ う し た 必 要 を 痛 感 し て い る 当 人 こ そ、 献 身 挺 身 し て 局 に 当 た る べ き で は な い か、 と い う 考 え が、 心 に 浮 か ん だ。 私 は 愕 然 と し た。 私 は 事 の 重 大 で あ る の に 鑑 み て 強 力 で 有 能 な 大 指 導 者 の 出 現 を 待 望 し て い た の で あ る。 私 ご と き 弱 小 な 者 に、 何 が 出 来 よ う か、 と、 こ の 考 え を 何 度 も 打 ち 消 し、 も み つ ぶ し て い た の で あ っ た が、 ど う し て も こ れ を 堰 き 止 め る こ と が で き な く な っ た。 時 を 同 じ う し て、 京 城︵ ソ ウ ル ︶ 延 禧 専 門 学 校 校 長 ホ レ ー ス. H ・ ア ン ダ ー ウ ッ ド︵ H. H. Underwood ︶ 氏より招聘を受けたのである。ここに はさすがの私も不思議の感に 打たれたが、 改めて思いめぐらし祈りつづけた結果、 よし、 神の御召なら ば 従い行こう、 と決断するに 至っ た 。 このように、朝鮮と日本帝国の植民地政策に特別な関心がなかった松本は、青山学院大学に留 学してきた朝鮮人留学生たちとの出会いを通して大きな衝撃を受け、朝鮮人の日本に対する反感 をどのようにして回復すれ ば よいのかという思いに沒頭するようになっていった。
︵ 2 ︶ 朝鮮で出会った朝鮮の青年たち 朝鮮の地に到着した松本はその時の思いを次のように 回顧している。 朝 鮮 に 迎 え ら れ て 私 は、 京 城 郊 外 の 新 村 に あ る 延 禧 専 門 学 校 に お い て、 最 初 の 一 年 は 朝 鮮 総 督 府 と 米 国 人 校 長︵ H. H. Underwood ︶ の 橋 渡 し 的 も ろ も ろ の 仕 事 に つ き、 二 年 目 に は 副 校 長 に 任 じ ら れ た。 こ れ は 米 国 の 長 老 派 教 会 と メ ソ ジ ス ト 派 宣 教 局 と の 協 力によって創設された学園で、ホレース ・ G ・ アン ダ ー ウ ッ ド︵ H. G. Underwood ︶ 博 士 招 待 校 長 の も と 学 生 は 全 員 朝 鮮 人 学 生 た ち で あ り、 朝 鮮 に お け る 唯 一 の キ リ ス ト 教 主 義 の 学 校 で あ っ た。 ︵ 当 時、 崇 実 専 門 学 校 が 神 社 参 拝 拒 否 で 閉 校 措 置 さ れ た 状 態 だ っ た。 ― 筆 者 註 ︶ 三 〇 万 坪 に の ぼ る 校 地 を 有 し、 美 し い 山 野 の 中 に 建 て ら れ た 立 派 な 学 園 で あ っ た。 現 在 は 延 世 大 学 校 と 称 し て い る。 私 は 教 授、 学 生 た ちと親しみ、家庭的に楽しく交わりをもった 。 松本教授在職時代、延禧専門に通った尹東柱、階段最下の右側から二番目。
家 族 の よ う に 親 し く 過 ご し た 学 生 た ち の 中 に は、 尹 東 柱 と 宋 夢 奎 が 含 ま れ て い た は ず で あ る。 彼らは、一九三八年春から延 禧 専門に通い始め、一九四一年一二月二七日に四年課程を終え卒業 したため、松本の赴任期間と在学期間が重なるからだ。さらにその頃、延 禧 専門の学生数はわず か一〇〇人前後︵文科一年生は三〇人︶に過ぎず、尹東柱は聖書を学ぶ会とチャペルなどの宗教 活動に非常に熱心だったため、宗教教育を担当した松本とは直接会う機会が当然多かったはずだ。 一九四〇年から四一年にかけて松本から直接学んだ尹東柱の﹁聖書科目﹂の成績はそれぞれ八五 点 と 七 一 点 だ っ た。 ︵ 尹 東 柱 の 延 禧 専 門 学 校 成 績 表 参 照。 ; 宋 友 恵、 ﹃ 空 と 風 と 星 の 詩 人 尹 東 柱 評 伝 ﹄、 東 京 藤 原 書 店、 二 〇 〇 九 年、 p.280, p.299 か ら 再 引 用 ︶ 松 本 は 当 時 彼 ら と 共 に 送 っ た 延 禧 専門での日常を次のように記している。 当 時 は 日 本 の 朝 鮮 総 督 府 は 全 土 を 統 治 し て お り、 公 的 用 語 に 日 本 語 の 使 用 を 強 要 し て い た。 神 社 参 拜 も 毎 月 第 一 日 に 強 要 さ れ て お り、 諸 学 校 生 徒 学 生 ら は 列 を つ く っ て 南 山 に 登 り、 最 敬 礼 を さ せ ら れ て い た。 そ れ は 朝 鮮 の 人 々 に 取 っ て 極 め て 忍 び 難 い 苦 痛 で あ り、 屈 辱 で す ら あ っ た に 相 違 な い。 従 っ て、 少 な く と も 内 心、 日 本 及 び 日 本 人 に 対 し て 憎 悪、 不 信、 憤 怒、 反抗、 の念を燃やしていたことは、 祭するに あまりあるが、 彼ら学生は極めて純情で人なつっ こく、し ば し ば 個人的な問題について指導を求めて来たが、賞すべき若人たちであった 。 暴 力 的 な 皇 国 臣 民 化 政 策 で あ っ た が、 そ れ で も 延 禧 専 門 学 校 は ハ ン グ ル 使 用 と キ リ ス ト 教 教 育 の 自 由 が、 あ る 程 度 許 さ れ た 状 態 だ っ た。 尹 東 柱 は 延 禧 専 門 に 来 て す ぐ に 魂 の 平 安 を 感 じ
て、 そ れ ま で 中 断 し て い た 詩 作 を 再 開 す る こ と が で き た。 そ し て 鄭 炳 昱、 張 德 順 な ど と 深 く 付 き 合 い な が ら 彼 ら と 共 に 梨 花 女 専 の 協 成 教 会︵ ユ ニ オ ン ・ チ ャ ー チ ︶ に 出 席 し て 元 漢 慶︵ Dr. H.H.Underwood ︶ が主宰する英語聖書を学ぶ会などに も熱心に 参加したと言う。友人であった張 德 順 は﹁ 東 柱 と と も に ア ン ダ ー ウ ッ ド︵ H. H. Underwood ︶ 先 生 が 指 導 す る バ イ ブ ル・ ク ラ ス に 初 め て 参 加 し た 時 に 、 私 は 英 語 の 主 の 祈 り を 初 め て 覚 え る よ う に な っ た。 Our Father who are in Heaven... こ の 主 の 祈 り の 始 ま り を 朗 読 す る 時 は い つ も 東 柱 の 顔 が は っ き り 現 わ れ る。 ﹂ と 回 想 し、 後 輩 で あ る 鄭 炳 昱 も ケ ー ブ ル 夫 人 が そ の 後 継 続 し た 聖 書 ク ラ ス に 尹 東 柱 が 熱 心 に 参 加 し た と 証 言 し た 。 ア ン ダ ー ウ ッ ド 三 世、 元 一 漢︵ Dr. H.G.Underwood Jr. ︶ も 次 の よ うに当時の状況を回顧した。 1941年夏、延禧専門学校と梨花女子専門学校の 英語聖書クラスの生徒と共に。後の建物は W. M. Vories が設計し建てた梨花女専音楽館である。後列 右端が尹東柱、左から七番目が鄭炳昱。2列目の真 ん中にケーブル夫人。尹東柱はこの合同聖書クラス に属する梨花女専の女学生の一人にひそかに好意を 持っていたと鄭炳昱が証言している。(宋友惠、『空 と風と星の詩人:尹東柱評傳』、東京:藤原書店、 2009年、p.325.) 私 た ち 大 部 分 に お い て 去 年 ︵ 一 九 四 〇 年 ︶ は 苦 痛 と 失 望 の 一 年 だ っ た。 ⋮ 困 難 の 中 で も 私 は 希 望 を 見 つ け た。 ⋮ 昨 秋、 戦 争 の 最 終 段 階、 私 は ケ ー ブ ル 婦 人 の 代 り に 梨 花 協 成 教 会︵ Ewha Union Church ︶ で 聖 書 勉 強 会 を 引 き 受 け て く れ と い う 要 請を受けた。新しい学期が始まった
今 年 の 四 月、 こ の 聖 書 勉 強 会 は 急 成 長 し て 四 〇 人 を 越 え る 男 女 学 生 た ち が 参 加 す る よ う に な り、 毎 週 外 国 人 で あ る 私 と 共 に 聖 書 を 読 む た め に 集 ま る。 延 禧 専 門 学 校 の す べ て の 教 会 活 動 に 参 加 す る 上 級 生 た ち︵ 尹 東 柱、 宋 夢 奎 な ど を 含 み ︶ と 共 に 多 く の 新 入 生 が い る。 彼 ら は 英 語 を 学 び に 来 た と 言 う が、 彼 ら が 来 て 聖 書 の 驚 く べ き 御 言 葉 を 聞 く と い う 事 実 を 見 逃 し て は いけない 。 尹東柱の同級生だった柳玲教授︵前延世大学国文科︶は次のように証言している。 尹 東 柱 の 代 表 作 で あ り 力 作 が 皆 こ の 延 禧 専 門 時 代 に 作 り 出 さ れ た。 こ こ は 東 柱 に キ リ ス ト 教 精 神 と 同 時 に 自 由 思 想 を 教 え、 世 界 的 な 人 間 像 を 育 て た。 ⋮ そ し て 彼 の 力 作 の 中 で 一 番 有 名 な 三 三 編 が す べ て こ の 時 期、 延 禧 の 園 で 創 作 さ れ た。 す な わ ち﹁ 自 画 像 ﹂、 ﹁ 十 字 架 ﹂、 ﹁ も う 一 つ の 故 郷 ﹂、 ﹁ 星 を 数 え る 夜 ﹂、 ﹁ 少 年 ﹂、 ま た 特 に 彼 が 過 ご し た 寮 の 前 に 建 て ら れ た 彼 の 詩 碑﹁ 序 詩 ﹂ が ま さ に 彼 が 卒 業 を 控 え た 数 日 前 に 記 さ れ た の だ。 ⋮ チ ャ ペ ル は そ の 頃 講 義 以 上 に ア ピ ー ル す る 時 間 な の で、 東 柱 は な お さ ら 出 席 し な い 事 が な か っ た。 特 に ア ンダ ー ウ ッ ド 先 生 、 兪 億 兼 先 生 の メ ッ セ ー ジ 、 鄭 寅 燮 先 生 の 逹 弁 な ど は 今 で も 私 た ち の 頭 に 残 っ て い る 。 このように暗黒期の中でも延 禧 だからこそ可能だったキリスト教信仰生活体験の中で、松本は 常に黙黙と後援者として彼らの後ろに立っていた。 当時、 尹東柱と宋夢奎は彼のチャペルメッセー ジも聞いたはずだ。
朝 ご と に、 チ ャ ぺ ル︵ chapel ︶ で 感 話 を 述 べ、 自 分 の 真 実 な 思 い を 学 生 た ち に 伝 え る よ う 努 め る 外 に、 し ば し ば 彼 ら を 自 宅 に 招 い て、 お 茶 を 飲 み な が ら 親 し く 語 り 合 う こ と も し た。 同 僚 関 係 の 教 師 諸 君 と も よ く 談 笑 し た。 日 曜 の 礼 拜 は、 延 禧 専 門 学 校 と 谷 間 を は さ ん で 相 対 し て い る 梨 花 女 専︵ 現 梨 花 女 子 大 学 ︶ の 講 堂 で、 両 校 学 生 の た め に 催 さ れ て お り、 私 は そ の 礼 拜 主 任 を 委 嘱 さ れ、 毎 日 曜 に 礼 拜 説 教 を つ づ け た。 も ち ろ ん 日 本 語 で 語 っ た の で あ る が、 平 均 五 〇 〇 名 の 男女学生がよく出席し、 傾聴してくれた。そして、 私 の 在 任 中 に 五 名 の 朝 鮮 人 学 生 が 私 か ら 受 洗 し、 四 組 の 男 女 が 私 の 司 式 に よ っ て 結 婚 式 を 挙 げ た。 当 時 に お い て こ う し た 重 要 な 儀 式 を 日 本 に 託 す るのは他に例を見ないことであるとされた 。 当 時 の 戦 時 体 制 の 中 で 抑 え つ け ら れ て い た 朝 鮮 の 青 年 た ち と 直 接 会 っ た 松 本 の 心 境 は 複 雑 だ っ た だ ろ う。 し か し、 彼 は 最 大 限 朝 鮮 青 年 た ち の 自 由 な 学 問 延禧専門学校 YMCA 役員たちをキャンパスの内にある私宅に招待した松本教授の家族。
と信仰生活を守るために元漢慶校長を助け、死に物狂いで努力したようだ。また二階堂真寿のよ うな日本人教授も良心的な教育者だったと伝えられている。これら日本人教授までも帝国主義者 あるいはその協力者として簡単に判断して良いのだろうか。彼らには他の日本人たちにはなかっ た﹁キリスト者の良心﹂があり、それによって常に悩み自分を責めていた。今、彼らを﹁キリス ト者の良心﹂という新しい角度から再考することはできないだろうか。 三 、 松 本 卓 夫 の 植 民 地 朝 鮮 で の キ リ ス ト 教 教 育 活 動 ︵ 1 ︶ 延禧專門学校の副校長として就任 一 九 三 八 年、 興 業 倶 楽 部 事 件 の た め 副 校 長 だ っ た 兪 億 兼 が 退 い た 後、 校 長 元 漢 慶︵ H. H. Underwood ︶ も 外 圧 の た め 辞 退 せ ざ る を 得 な か っ た。 結 局、 一 九 三 九 年 三 月 二 二 日 に メ ソ ヂ ス ト教会の代表的なリー ダ ーだった尹致昊が新しい延禧専門の校長として就任する。しかし、彼は ﹁ 兪 億 兼 前 副 校 長 が 復 職 さ れ れ ば こ そ、 私 は 校 長 職 を 受 け 入 れ る ﹂ と し、 信 頼 で き る 協 力 者 と し て松本卓夫牧師をあげて、当時の苦悩を次のように日記に記している。 私 は 学 務 局 長 が 提 案 し た 延 禧 専 門 学 校 の 校 長 職 を 受 諾 す る と 言 っ た。 し か し、 二 ∼ 三 人 の 協 力 者 を︵ 許 可 し て く れ る 時 ︶ 受 け 入 れ る と 伝 え た。 彼 は 私 を 助 け る 主 な 人 物 と し て、 兪 億 兼 と 松 本 卓 夫 の 二 人 を 提 案 し た。 こ れ を 受 け 入 れ る こ と で、 私 は ひ ど く 悩 ん だ。 そ れ ほ ど そ こ に は 多 く の 干 渉 が あ る だ ろ う。 警 察、 中 央 及 び 地 方 の 当 局 者 た ち の 機 嫌 を 取 ら な け れ ば
な ら な い。 ︵ 略 ︶ 兪 億 兼 は 政 府 の 意 見 さ え 無 視 す る 警 察 と 軍 隊 に ま で 認 め ら れ た の で は な い。 果して私は健康を維持することができるのか 。 当 時 の 絶 望 的 な 現 実 に つ い て 元 漢 慶 は、 雑 誌﹃ The Korea Mission Field ﹄ で 大 変 毅 然 と し た 態度で、松本卓夫副校長の就任の知らせも公式的に行なった。この雑誌は当時、総督府が検閲す る対象だったので、膨れ上がった不満を最大限に和らげながら表現した。日本人教授としての松 1941年、尹致昊の延禧専門学校校長就任式で演説する姿。 後ろに元漢慶、兪億兼を含め、松本卓夫牧師も座っている。 設立者である H. G. アンダーウッドの写真が裏側正面にか かっている。 本に対する教職員たちの誤解と偏見を心配する姿 も見て取れる。 一 二 月 に な る と︵ 総 督 府 の ︶ 学 務 局 長 と 私 ︵ ア ン ダ ー ウ ッ ド ︶ の 同 意 の も と に、 尹 致 昊 博士が私の後任として任命されるだろう。 ︵中 略 ︶ 副 校 長 と し て 松 本 卓 夫 博 士 が 任 命 さ れ る こ と は 論 議 が 必 要 な 事 案 だ。 職 員 の 間 に お こ っ て い る 誤 解 が あ ま り に も ひ ど く、 学 校 の 設 立 精 神 を 失 う よ う な 危 険 性 も 内 包 し て い る か ら だ。 こ れ ま で、 私 は 多 く の 会 議 に 時 間 を 割 い た が、 そ れ は 現 在 の 状 況 で 苦 し む 人 々 と その痛みを分かち合う過程だった 。
しかし尹致昊は、松本卓夫、兪億兼と延禧専門 学校の未来を共に憂いた瞬間を非常にロマンチッ クに日記の中で記している。おそらく松本に対す る深い信頼から﹁小さくても力ある希望﹂を発見 したのだろう。 松 本 先 生 と 兪 億 兼 先 生 を 招 待 し て 夕 方 の 食 事 を と り な が ら、 私 た ち が 延 禧 専 門 学 校 ︵ C.C.C ︶ の 責 任 を 引 き 受 け て す ぐ に 実 行 し な け れ ば な ら な い 最 も 重 要 な 業 務 計 画 に つ い て 話 し あ っ た。 私 た ち の 会 議 は 五 時 に 始 ま っ た が、 帰 宅 し よ う と 別 れ た 時 は、 す で に 夜 九 時 だ っ た。 星 明 か り に 照 ら さ れ た 美 し い 夜 空 だった 。 ︵ 2 ︶ キ リスト教教育を死守するための闘争 前述したように、元漢慶校長が松本卓夫を延禧 専門学校に招いたことは、日帝の皇国臣民化政策 下で、できる限り良心的なクリスチャンの教授を 1941年3月10日、朝鮮監理会 ( メソヂスト ) 貞洞第一教会で挙行された延禧専門学校 の卒業式。この時、元漢慶 ( アンダーウッド2世 ) 博士は総長から退かなければなら なかった。その年の12月中旬にはアメリカのスパイ疑いで逮捕され、1942年5月末 まで牢獄で苦難を経験した。一番前に松本卓夫博士、その後に鄭春洙監督、元漢慶博 士が並んで立っている。
確 保 し、 キ リ ス ト 教 教 育 の﹁ 背 水 の 陣 ﹂ を 敷 く た め だ っ た。 一 九 四 一 年 三 月 一 〇 日、 貞 洞 第 一 メ ソ ヂ スト教会で行われた延禧専門の卒業式は、そのような期待と願いで満ちていた。 二 月 に は 経 営 理 事 会︵ Field Board of Managers ︶ が 召 集 さ れ、 私︵ ア ン ダ ー ウ ッ ド ︶ の 辞 任 案 が 通 過 し た。 同 時 に 尹 致 昊 博 士 と 松 本 卓 夫 博 士 を 各 々 校 長 と 副 校 長 と し て 任 命 す る こ と が 決 め ら れ た。 し か し 私 は︵ 一 九 四 一 ︶ 三 月 一 〇 日 に 開 か れ た 卒 業 式 を 主 宰 者 と し て 一 〇 二 人 の 学 生 た ち に 卒 業 証 書 を 授 与 し た。 卒 業 式 が 終 わ っ て 尹 致 昊 博 士 と 松 本 卓 夫 博 士 は 新 し い 組 職 を 再 編 し、 理 事 会 は 大 々 的 に 人 事 異 動 を 断 行 し た。 経 営 陣 の こ の よ う な 姿 は 非 常 に 正 当 で あ り、 私 も 同 意 す る 事 案 で あ る。 し か し、 私 は 何 週 間 か、 そ の 変 化 に 憂 慮 し た り 事 実 を 歪 曲 す る 人 々 を 安 心 さ せ る こ と に す べ て の 力 を 傾 け な け れ ば な ら な か っ た。 今 は 新 し い 経 営 陣 が し っ か り し て い る と 報 告 す る こ と が で き、 非 常 に 幸 せ で あ り、 こ れ 以 上 私 た ち に 困 難 が な い こ と を 信 じ る。 私 は 尹 致 昊 博 士 と 松 本 卓 夫 博 士、 兪 億 兼 先 生 に 対 し て 満 足 し て い る。 私 は 彼 ら が 大 学 の 設 立 精 神 と 二 五 年 間 続 い て 来 た 大 学 の 伝 統 の 下 で 学 校 を 運営することを願い、そうしてくれると確信する 。 松本卓夫も次のようにキリスト教学校の精神を守るため朝鮮へ来た自分の決心を次のように語 り、最後までその決意を守り抜こうとした。 私 は ひ と り の ク リ ス チ ャ ン と し て、 愛 と 理 解 と を も っ て 彼 ら に 接 す る よ う に 努 め た つ も り
で あ る。 そ れ が 私 の 渡 鮮 の 動 機 で あ り、 理 由 で も あ っ た は ず な の で あ る。 ど こ ま で 私 の こ の 願 い が 実 現 で き た か、 ど の 程 度 に 理 解 さ れ た か は 自 ら 計 り 知 る こ と は 出 来 な い が、 し か し 私 は彼らの間において楽しい毎日を過ごすことができたことを満足に思っている 。 元漢慶は一九四一年の苦しい時期に、尹致昊と兪億兼、そして松本卓夫三人に延禧専門学校の 運命を託した状態だった。朝鮮総督府の抑圧下で学校を守り抜く事がどれほど大変であるのかを 誰よりもよく理解していたからだった。 彼 ら︵ 松 本 卓 夫 な ど 三 人 ︶ の 引 き 受 け た 職 は と て も 難 し い 職 だ。 私 は 現 在 の 大 学 職 員 の 大 多数が彼らをよく補佐してくれていると思う。チャペル、 聖書勉強、 教授祈り会、 そして色々 な 他 の 宗 教 事 業 も 維 持 さ れ て お り、 ま た 私 は こ の 活 動 が こ れ か ら よ り 強 調 さ れ る と 信 じ る。 松 本 卓 夫 博 士 は 私 に こ れ か ら﹁ 夏 季 学 生 伝 道 団 ﹂︵ Summer Student Preaching Band ︶ の 企 画を追加し、夏休みに宗教リー ダ ーのための新しい集会計画を報告した 。 神社参拝が強要された厳しい時代、平壌と全羅道など多数の長老派系ミッション・スクールが 閉校していく中、キリスト教教育は必要ないとみなされ、行うことができなかった。しかし、松 本卓夫の主導の下、延禧専門では小さいながらも引き継がれていた。これについて元漢慶は実に 感激した。
私 は い つ も 授 業 に 参 加 し、 終 わ る 時 に 感 謝 の 祈 り を 捧 げ る。 少 な く と も 一 時 間 で も︵ 宗 教 の 授 業 を ︶ 私 た ち に 許 し て く だ さ っ た こ と に 感 謝 す る の で あ る。 何 故 な ら ば 、 私 は 神 の 御 言 葉 は 絶 対 に 空 虚 で は な く、 詩 編 の 記 者 が 言 っ た よ う に、 ﹁ 神 よ、 あ な た は、 い つ く し み に よ っ て 惱 む 者 の た め に 備 え を さ れ ま し た ﹂︵ 詩 篇 68 10、新改訳︶ と言えるからだ 。 体 系 的 な キ リ ス ト 教 の 授 業 の 実 行 と 存 続 自 体 に 感 謝 し、 感激する時代だった。元漢慶は奇蹟のような当時の授業内 容と松本卓夫の活躍を次のように自慢げに紹介している。 二 六 年 前、 延 禧 専 門 学 校 の 創 始 期 か ら 宗 教 教 育、 聖 書 の 勉 強 は 主 な カ リ キ ュ ラ ム の 一 つ だ っ た。 す べ て の 学 生 に 卒 業 す る ま で 一 週 間 に 二 時 間 の 宗 教 教 育 が 要 求 さ れ る。 こ れ は 二 六 年 間 ず っ と 行 わ れ て き た 伝 統 で あ り、 政 策 や 状 況 が 大 き く 変 わ っ た 一 九 四 一 ∼ 四 二 年 現 在 も ず っ と 施 行 さ れ て い る。 教 育 が こ れ 以 上 不 可 能 だ と 感 じ た 人 々 に 大 き な 感 動 を 与 え る だ ろ う。 何 年 か 前
学年 一年間の授業時間 商科(Commerce) 予科(Arts) 数物科(Science)
1 80 宗教の理解
Intro. to Religion Intro. to Religion宗教の理解 Intro. to Religion宗教の理解
2 80 キリスト教の理解
Intro. to Christianity 聖書の概論的理解Outline fo Bible 聖書の概論的理解Outline fo Bible
3 80 Philosophy of Religion宗教哲学 キリスト教の理解Intro. to Christianity Christian Theologyキリスト教神学
4 総240時間 Philosophy of Religion, Sociology of宗教哲学・新約社会学
か ら、 こ の 課 程 は 宗 教 事 業 分 科︵ Religious Work Department ︶ の 特 別 委 員 会 に よ っ て 改 定 さ れ、 入 学 時 か ら 卒 業 の 時 ま で 体 系 的 な 教 育 が 成 り 立 つ よ う に し た。 ︵ 略 ︶ 予 科 と 数 物 科 の 学 生 は、 二 年 生 の 時 に 聖 書 に 対 す る 概 論 的 理 解 を 学 ぶ。 学 校 の 副 校 長 で あ り、 日 本 の 有 名 な 聖 書 学 者 で あ る 松 本 卓 夫 博 士 が こ の 授 業 を 担 当 し て い る。 松 本 卓 夫 博 士 は 聖 書 学 者 で あ る の み な ら ず、 福 音 的 信 仰 を 持 っ て い る 信 実 な ク リ ス チ ャ ン で あ る。 学 生 た ち は 彼 の 指 導 下 で 聖 書 に 対 す る 広 い 眼 を 持 つ よ う に な り、 特 に 新 約 聖 書 に 対 す る 深 い 勉 強 を す る こ と が で き る。 延禧専門学校のチャペルの姿。 ︵ 略 ︶ ま た 松 本 卓 夫 先 生 は 数 物 科 三 年 生 の 学 生 に は﹁ キ リスト教神学﹂ ︵ Christian Theology ︶ という授業を教え て い る が、 こ の 科 目 は 幼 い 科 学 者 た ち に キ リ ス ト 教 信 仰 の 強 い 基 盤 に 対 し て 明 快 な 解 釈 を 提 供 す る た め の も の だ。 学 生 に 行 わ れ る す べ て の キ リ ス ト 教 教 育 課 程 は 上 の 表 を 参考にしてほしい 。 松本卓夫は新入生オリエンテーションの時も、直接、親切 に 宗 教 プ ロ グ ラ ム︵ Religious Programs ︶ を 学 生 た ち に 説 明 するなど、延禧専門学校の意慾的なキリスト教教育事業を展 開して行った 。 しかし、これに 対して総督府官僚は疑いと警 戒の眼差しを持っていた。尹致昊の一九四一年三月一五日の 日 記 を 見 る と、 ﹁ 総 督 と 総 警 な ど 政 府 の 高 位 官 僚 た ち と 会 合
を持ったが、 H ・ H ・アン ダ ーウッド博士、松本 卓夫先生、兪億兼、そして私は彼らがあちこちで 呼 ぶ の で 本 当 に く た び れ て 面 倒 だ っ た。 ﹂ と 書 い ている。松本卓夫は日本人だったが、むしろ韓国 人教育者たちと共に日本の官僚たちの干渉に苦し んだ。総督府の立場のみを代弁し、延禧専門を統 制しようとする日帝の走狗とは異なる態度を見せ た。 ︵ 3 ︶ 青 山 学 院 の 弟 子 た ち と 共 に﹁ 朝 鮮 神 学 校 ﹂ 創立 日帝の神社参拝強要のため、宣教師を中心に運 営 さ れ た 平 壌 神 学 校︵ 朝 鮮 イ エ ス 教 長 老 会 ︶ や 崇実専門学校などが閉鎖された。宣教師は皆去り、 財 政 の 支 援 も 打 ち 切 ら れ た。 し か し、 そ の 中 で 朝鮮人自ら朝鮮教会の牧師を教え、育てようとい う動きが見られた。勝洞教会の金大賢長老の寄付 金二五万ドルを快擲して得られた結果が、まさに 一九四〇年四月一九日ソウルの勝洞教会の中に設 1919年 3.1運動直後、初めて出会った宋昌根 ( 左 ) と金在俊 ( 右 )。先に青山神学部に留学 した宋昌根は、1926年に卒業し、金在俊を青山学院に推薦し、金もそれに応じて1926-28 年、青山学院神学部で勉強した。以後、二人はプリンストン神学校留学、朝鮮神学校設立 などすべて共にして、一生の同志として生きて行った。二人が青山学院で出会い指導を受け た松本卓夫との関係は、後日このように朝鮮神学校の創立にまで至ったのである。
立された当時唯一の長老教神学校であった ﹁朝鮮神学校﹂ ︵現、 韓神大学︶だ。この学校の創立に力を尽くした金在俊博士は、 一九三五年聖書批評学の受容可否問題で朝鮮イエス教長老会 と 葛 藤 を 経 験 し た、 所 謂﹁ ア ビ ン ド ン︵ Abingdon ︶ 単 巻 聖 書註釈事件﹂のため、 宋昌根、 韓景職と共に聖書の無誤説︵逐 字 靈 感 說、 verbal inspiration ︶ を 否 定 す る こ と で 宗 教 裁 判 に 近い攻撃を受けた事件だ。そのため宣教師の統制から解放さ れた主体的な神学研究と牧師養成を実現するための﹁朝鮮神 学校﹂の創立を主張したのである。彼の創立精神は以下の通 りである。 昔 の 人 も﹁ 百 年 之 計 は、 在 於 樹 人 ﹂ と 言 っ た の で、 人 を 育 て る の が 建 設 の 基 礎 原 理 で は な い の か。 し か し、 五 〇 年 以 来 の 朝 鮮 教 会 は 果 た し て ⋮ ど れ ほ ど 計 画 と 努 力 を し て 来 た の か。 ⋮ 偉 大 な 人 物 を 出 す こ と が で き な か っ た の は、 ま だ 朝 鮮 教 会 の 基 盤 が 磨 か れ て い な い こ と を意味するのではないか 。 しかし、解放以後の一九五三年、長老教の牧師職を追われ 1940年3月31日、朝鮮神学校の第1代校長である宋昌根博士就任式の写真(勝洞教会)。 以後の朝鮮神学校の姿。(ソウル竜山区の東子洞)
ると、金在俊などは韓国基督教長老会︵キ長︶を設立、朝鮮神学校︵現、韓神大学︶と共に分立 し韓国の重要な実践的プロテスタント教会の一つの教派としてこれまで続いている。このような 伝統を開拓していった金在俊、宋昌根など多数の人物が、松本卓夫が新約聖書学を教えた当時の ﹁ 青 山 学 院 神 学 部 ﹂ 出 身 だ っ た。 特 に 一 九 四 一 年 か ら 四 七 年 ま で 朝 鮮 神 学 校 で 教 授 と し て 活 躍 し た全聖天牧師も六年間奨学金を受けながら青山学院大学に通い、一九三七年に卒業、その後再び 神学部に進学し、 一九四〇年に卒業した。キ長教会を共に建て﹃基督公報﹄と﹁大韓基督教書会﹂ の編集部長を歴任した崔錫柱牧師も青山学院神学部出身である。松本卓夫の直弟子であった彼ら がそのまま﹁朝鮮神学校﹂とキ長教会の創立者になったのである。 さらに注目される事は、朝鮮神学校の設立直後、その運営に延禧専門の副校長として就任して いた松本卓夫も参加し、関与したという点である。韓神大学は公式的な学校史で、陳正律長老を 初代理事長として紹介しているが、実際には咸台永牧師が初代理事長であり、次期理事長を引き 受けた人物が他でもない松本卓夫だった。その後、一九四三年からは村山清彦が理事長を引き受 けた。一方、宮内彰、花村芳夫、村岸清洙、山口太郎などの教授と共に二代から三代まで理事長 を引き受けた松本卓夫、村山清彦も学生たちに直接教授したようだ。 こ れ に 対 し て、 高 神 大 学︵ 旧、 高 麗 神 学 校 ︶ の 催 ド ク ソ ン 教 授 は 韓 神 大 が 自 ら の 初 期 史 の 敍 述において、日本人理事長が二人も含まれたことを隠蔽するために歴史を歪曲したと批判してい る。朝鮮神学校の前職教授名簿を紹介する時にも、カナ ダ とアメリカ人教授はそのまま銘記した が、 日 本 人 教 授 の 名 前 は 抜 け 落 ち て い た と 朝 鮮 神 学 校 の 親 日 的 性 格 を 大 き く 浮 上 さ せ て い る 。 し
かし当時の朝鮮総督府の政策に批判的で、積極的に同調しなかった松本卓夫の一貫した姿を考え ると、朝鮮神学校の運営に日本人が参加したという理由だけで、日本政府及び朝鮮総督府の立場 と簡単に同一視することには再考の余地があるだろう。例え ば 、当時朝鮮神学校の教授だった全 聖天牧師は、一九四三年九月に抗日闘争の疑いによって京畿道警察局︵光化門所在︶に検挙され、 四三日間ひどい拷問を受けて病院に入院した記録がある。松本卓夫が朝鮮へ渡る直前、青山学院 神 学 部 で 教 え、 朝 鮮 で も そ の 関 係 が 続 い た 直 弟 子 の 歩 み を 捉 え る と、 ﹁ 親 日 的 ﹂ で あ っ た よ り は むしろ多分に﹁民族主義的・抗日的﹂であったからだ。とにかく、朝鮮神学校の創立史は、日本 の青山学院神学部・松本卓夫との深い関係を見逃しては説明することができない。これはキリス ト教教養及び神学教育が踏みにじられた時代、その小さな火種を引き継ごうと考えた一人の良心 的日本人牧師︵神学者︶の悪戦苦闘する姿を、再評価する事にもなるだろう。 四、 松本卓夫の日韓交流活動の成果と限界 ︵ 1 ︶朝鮮の教会に学びながら日韓の架け橋に 松本卓夫が延禧専門学校の副校長に就任した直後の一九四〇年春、朝鮮基督教連合会第三回総 会がソウルで開催されたが、 その時、 松本卓夫が特別講師として招かれ、 朝鮮人キリスト者のリー ダ ー た ち の 前 で ﹁ 新 約 聖 書 の 中 心 的 メ ッ セ ー ジ ﹂ と い う 講 演 を 行 な っ た。 こ の 時、 本 格 的 な 講 演 の 前 に 朝 鮮 に 渡 る こ と と な っ た 動 機 と 決 断 に つ い て 次 の よ う に あ い さ つ の 言 葉 と し て 伝 え て い る 。
唯 今、 身 に 餘 る 御 鄭 重 な 御 紹 介 に あ づ か り。 誠 に 光 榮 に 感 じ、 感 謝 に 堪 へ な い。 私 如 き も の が、 こ の 全 朝 鮮 基 督 教 會 の 代 表 的 な 方 々 の 集 會 に お 招 き を 頂 き、 皆 様 と 斯 く 主 に あ る 交 り に あ づ か る 事 の 出 来 る こ と を、 此 上 な き よ ろ こ び と 思 ふ も の で あ る。 實 は、 こ の 春 渡 鮮 以 来 私 は 出 来 る だ け 早 く 諸 氏 に お 目 に か か り、 御 挨 拶 を 述 べ 度 く 願 っ て い た。 今 日、 か か る 機 會 を 與 へ ら れ て、 満 足 に 堪 へ な い。 私 が 朝 鮮 の 地 に 参 っ た の は、 た だ 基 督 を 信 ず る 一 個 の 信 者 と し て、 朝 鮮 に お け る 同 じ く 主 の 御 名 を 呼 び 求 む る 同 信 の 方 と 相 知 り 相 交 り、 神 國 の 為 に 何 う か の 御 奉 仕 を 為 し 度 い と の 一 念 か ら に 外 な ら な い、 朝 鮮 傅 道 の 歴 史 は 既 に 五 十 有 餘 年 に 亘 っ て 居 り、 そ の 間、 幾 多 の 尊 き 犠 牲 が 拂 は れ、 ま た 數 多 き 指 導 者 の 輝 か し い 貢 献 が 為 さ れ 來 つ て ゐ る。 而 し て 今 や、 か か る 内 鮮 基 督 者 の 聯 合 會 が 結 成 さ れ て、 互 に 協 力 一 致 以 つ て、 福 音 の 宣 傅 に 當 り つ つ あ る。 實 に 祝 賀 に 堪 へ な い 處 で あ る。 私 も お く れ 走 せ な が ら、 走 せ 参 じ て 諸 氏 の 驥 尾︵ き び ︶ に 付 し、 御 指 導 に あ づ か り つ つ 御 用 に 當 る こ と と な っ た 事 は、 実 に よ ろ こ び に 堪 へ な い 次 第 で あ る。 こ の 午 後、 私 に も 何 か を 述 べ る 特 権 を 与 え ら れ た 事 を よ き 機 会 と し て、 我 ら お 互 が 基 督 教 と し て 共 通 に 持 つ べ き 信 仰 の 或 る 点 に 就 い て、 新 約 聖 書 を 通 し て、 新 た に 反 省 を 試 み 度 く 思 ふ。 言 を 換 へ て い へ ば 、 新 約 聖 書 の 根 本 的 な メ ッ セ ィ ジ は、 何であるかについてもう一度考へ度い 。 彼は自分が朝鮮の地に来た理由を﹁ただ基督を信ずる一個の信者として、朝鮮における同じく 主の御名を呼び求むる同信の方と相知り相交り、神國の為に何うかの御奉仕を為し度いとの一念 からに外ならない﹂とし、 ﹁協力一致﹂と﹁共通に持つべき信仰﹂に注目しようとしている。
ま た 一 九 四 一 年 三 月 二 四 日、 京 畿 道 警 察 部 長 が 作 成 し て 警 察 局 長 と 京 城 地 方 法 院 に 報 告 し た ﹁基督教朝鮮監理会︵メソ ヂ スト︶連合会に関する件︵京高秘第八三五号︶ ﹂という文書を見ると、 当時の監理教年会の風景が詳しく描写されている 。 民族運動の拠点だった監理教会に 対して相変 らず監視を続けていた当時の日帝政府の警戒心をうかがうことができる。この文書には﹁来賓紹 介﹂についても詳しく書かれているが、松本卓夫は延禧専門学校及び日本監理教会︵日本メソ ヂ スト教会︶の代表者資格で、その年会に参加した。このように松本卓夫は朝鮮へ渡ってから﹁学 院宣教﹂のみならず、教会の現場とも積極的に接触しながら交流した。その時ごとに松本が朝鮮 の教会に対して感じた思いは特別だった。 私 は 朝 鮮 の キ リ ス ト 教 連 合 会 の 依 属 に よ り 朝 鮮 全 土 を 三 回 に わ た っ て 巡 回 し、 諸 教 会 を 歴 訪 し、 説 教 を す る 機 会 を 与 え ら れ た。 い つ も そ の 熱 っ ぽ い 祈 り 深 い 会 の 雰 囲 気 に は、 圧 倒 さ れ る 思 い が し た。 時 に は、 二 千 余 の 男 女 が 開 会 時 間 の 一 時 間 も 前 か ら 着 席 し て、 さ ん び か を 合 唱 し た り、 熱 心 な 祈 り を さ さ げ た り し て、 私 が 壇 上 に あ ら わ れ る の を 待 っ て い た。 信 仰 的 熱 情 に お い て、 福 音 の 把 握 実 践 に お い て、 彼 ら か ら 学 ぶ と こ ろ 多 大 で あ っ た。 私 た ち 日 本 人 が 真 実 な 友 愛 の 心 を も っ て 接 す る 時 に は、 彼 ら は 素 直 に こ れ に 応 じ て く れ、 お の ず か ら キ リ ストにある一致和合を体験するのであった 。 松本は帝国日本の番人として朝鮮に来たのではなく、一人のキリスト者、伝道者として来たこ とが感じらせる部分である。そして彼は、海老名弾正や渡瀬常吉などのように﹁日本的或は皇道
的キリスト教﹂を朝鮮に移植し、朝鮮人︵韓国人︶を日本人として同化させようと来たのではな く、朝鮮教会の躍動性に学び、彼の言葉のように﹁真実の友愛﹂を通してキリストにあって一つ になろうとする一人だったのである。このような姿は彼の妻にも同じく見られる。 家 内 は、 何 と か し て 日 本 と 朝 鮮 と の 婦 人 た ち と の 間 に 、 親 睦 の 場 を つ く り た い と 願 い、 親 し く し て い た 当 時 の 総 督 府 学 務 局 長 夫 人 と 相 は か り、 両 国 婦 人 合 同 の 朝 鮮 料 理 研 究 会 を 催 す こ と と し た。 日 本 側 は、 総 督 府 役 人 方 の 夫 人 た ち 五、 六 名、 朝 鮮 側 か ら も 同 数 の 梨 花 女 専 の 教 師 た ち が 加 わ り、 每 木 曜 日 の 正 午 前 後 に 料 理 を と と の え、 和 や か に 食 卓 を 囲 ん で 楽 し く 語 り合い、 最後に 家内がピアノを弾き、 一同で二、 三のさんびかを合唱して散会するのであった。 こ う し た 親 睦 の 経 験 は、 こ れ ら の 婦 人 方 に 取 っ て 全 く 新 し い こ と で あ り、 し た が っ て ま こ と に意義深い企てであった 。 こ の よ う に 松 本 夫 婦 は 朝 鮮 教 会 の 開 か れ た 雰 囲 気 で 分 か ち 合 い、 ﹁ 支 配 者 と 被 支 配 者 ﹂ と い う 非人間的関係が繰り広げられる朝鮮の地で、キリストの愛で謙遜に近付き、赦しを求める思いで 每瞬間を送った。しかし、間もなく彼の純粋な願いも殺伐とする政治的現実の中で絶望の沼に落 ちてゆくのである。 ︵ 2 ︶朝鮮との別れ 一 九 四 一 年 一 二 月 八 日、 午 前 の 英 文 学 講 義 を 終 え、 元 漢 慶︵ H.H.Underwood ︶ は﹁ こ れ か ら
休 講 に な れ ば 、 し ば ら く 会 う 事 が で き な い と 思 い な さ い ﹂ と 学 生 た ち に 別 れ の あ い さ つ を し た。 一方、戦時体制に適合するため延禧専門学校の学則も改定された。一九四一年一一月八日の理事 会で尹致昊、松本卓夫、兪億兼は学則改訂研究委員に選 ば れた。この学則改訂研究委員の研究結 果によって、一九四二年に四年制だった文科、理科の授業年限が漸進的に三年に短縮され、その 学科課程が修正された。またこの過程で理事も多くの人が更迭され、一九四一年一二月一七日の 理事名簿を見ると、 尹致昊、 松本卓夫、 山中大吉、 丹羽、 ミシイ、 ゴナ、 梁柱三、 柳瀅基、 張奎明、 兪億兼、 李春昊、 辛鳳祚、 李正圭、 崔淳周、 曺喜炎、 元漢慶︵ H. H. Underwood ︶、 ミラー︵ E. H. Miller ︶、スコット︵ W. Scott ︶ などだった。この中でアメリカ人理事三人は太平洋戦争の勃発と 松本卓夫の辞任の知らせを伝えた朝鮮総督府官 報、1942年5月13日、第4584号、第18面。 同 時 に 理 事 会 か ら 除 名 さ れ た。 こ の 当 時 の 松 本 卓 夫 は次のような苦悩に包まれていた。 私 は、 後 の 生 涯 す べ て を 朝 鮮 に 捧 げ 尽 す 決 心 で 渡 鮮 し た の で あ っ た が、 支 那 事 変、 そ れ に 続 く 第 二 次 世 界 大 戦 が 拡 大 す る に つ れ て、 朝 鮮 の 日 本 に 対 す る 感 情 は 急 変 し、 彼 ら の 私 ど も 内 地 人︵ 当 時 の 呼 称 ︶ に 対 す る 態 度 は 今 ま で と 違 っ て、 と げ と げ し く な っ て 来 た。 日 米 の 対 戦 が 決 定 的 に な る に 及 び、 彼 ら の 悪 感 情 は 急 増 し、 朝 鮮 在 住 の 日 本 人 は 本 国 に 引 き 揚 げ る 者 も 出 始 め、
ま た 引 き 揚 げ ざ る を 得 な い 状 況 と な っ た。 私 自 身 の 進 退 に つ い て は、 慎 重 に 考 え 祈 っ た が、 一 応 一 時 的 に で も 帰 国 す ることが自他共に最善の道であろうと思い到るに及んだ 。 延禧専門の強制閉校と御用学校への転落の道を予想した松本 は、これ以上朝鮮にとどまることができないことを悟った。自 分の役割の限界を知ったのである。このように絶望的な状況に 陥ると、彼の朝鮮での生活も二年という短い期間で終わりを告 げた。一時的な帰国を念頭に 置いたが、結局二度と朝鮮へ渡る ことはなかった。親米的なキリスト教界の人物として烙印を押 されていた松本は、当時強制撤収されたアメリカ人宣教師たち と同じ思いを持っていただろう。 そのため彼は、 当時の日帝ファ シズムがほしいままにした戦争の悲劇を﹁戦火の魔手﹂と表現 したのだ。 私 ど も が 二 年 後 に 朝 鮮 を 去 っ て 帰 国 す る こ と に な っ た 際、 学 務 局 長 夫 人 が 朝 鮮 婦 人 方 一 同 を 自 邸 に 招 き、 ︵ 略 ︶ 私 ど も に 対 す る 送 別 の 宴 と さ れ た が、 こ う し た 接 待 は 朝 鮮 婦 人 に は 全 く は じ め て の 経 験 で あ っ た。 娘 裕 子 は 梨 花 女 専 の 音 延禧專門の生徒たちが軍服を着て、ソウルの神社と扶餘の神宮造営労務をした後の姿。 (1940年)
楽 部 に 在 籍 し て い た が、 戦 火 の 魔 手 が 及 ん で 来 る に 当 た り 米 国 人 宣 教 師 方 は 帰 国 さ れ、 家 内 も 娘 の 行 末 を 案 じ 東 京 の 学 校 に 送 る こ と に な っ た の で、 裕 子 の 梨 花 専 門 学 校 在 学 は 一 年 に 終 わった 。 以後、一九四二年八月一七日には朝鮮総督府の事前計画に基づいて、延禧専門を敵として処理 し、総督府学務局長が管理人になることで校長である尹致昊も校長職から辞退した。従って、形 式的であっても存続して来た財団理事会は解体され、総督府が任命する校長が赴任した。日本人 校長として初めて赴任した高橋濱吉は、総督府学務局の視学官であった時、延禧専門学校にし ば し ば 出張と行っては来て学校運営や授業状況などに対して抑圧的に振舞う人物だった。この時か ら延禧専門は準公立化の道を歩み、すべての施策が日本化、戦時動員体制に変わって行った。キ リスト教的な要素もすべてが皇国的、日本的キリスト教として強調された。 三ヶ月ぶりに高橋が辞任し、後任として総督府視学官だった中島信一が短期間管理したが、辛 島驍が一九四三年六月頃次の校長として赴任した。彼は京城帝国大学の法文学部で中国文学を教 えた人だったが、日本の大陸侵略の協議団体である﹁緑旗連盟﹂の主要人物だった。彼は赴任す るやいなや総督府政策に抵抗するとか日本に同化しようとしない教授たちを追い出し始めた。そ して、徹底的な日本化と植民地教育に拍車をかけた。以後、日帝は学校を再整理し、戦時体制に より円滑に利用するため一九四四年五月一〇日、いわゆる﹁戦時教育非常処置要綱﹂によって延 禧専門学校を閉校し、その翌日の五月一一日付けで﹁京城工業専門学校﹂をそのキャンパスに設 立するに至った。