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高野辰之の童謡論

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高野辰之 の童謡論

古代か ら近代に至 る日本の歌謡史の学術的研究によ り前人未踏二の分 野を 開 拓 して,大著 『日本歌謡史』(春秋社,大正15年)ほか多数の書物を著 し,他方では文部省小学唱歌教科書 編纂の仕事に携わって 「故郷」

,

「粍月夜」

,

「紅葉」など,今なお愛唱 される唱歌を世に遺 し た郷土の国文学者高野辰之 (斑山)はあま りに も著名である。 しかし, この偉大な学者 ・作 詞家が多 くのお伽話を書 き,童謡論を展開 していた事実に注 目する人は少ないであろ う。 本学の卒業生 岩井清美 さん (昭和60年卒業)は,高野の作詞の背景を調べ るため東京代 々 木に養嗣子高野正巳氏をお訪ね した折,斑山文庫 (旧高野辰之書庫)所蔵の吉岡向陽 ・高野 斑山共著 『家庭お伽話』の一冊を手に取 る機会を得た。正巳氏は,辰之があれほ ど庶民に親 しまれた小学唱歌を生み出したのは偶然ではない,それは彼がお伽話を次 々に作 って童心を 養 った結果であることを忘れてはならない と,語 られた とい う。 同様なことが,『赤い鳥』以降の文学運動に示 された高野の童謡論にもいえる。彼の考 えは 常に子 どもの側に立ち,子 ども自身の心情や興味 を反映 したものであったo また,その童謡観が 日本の伝統的な歌謡に対す る高野 自身の深い造詣に支えられていた事 実 も,忘れてはならないであろ う。 本稿では こうした視点か ら,北原白秋 ・西条八十 ら近代詩人が提唱 し実践 した童謡運動に 対す る高野の見解を,その著書 『民謡 ・童謡論』(春秋社,昭和4年)に拠 って考察 してみた い。(引用文中の仮名遣いは,すべて現代かなづかいに統一 してお く.) 民謡論 を基 盤 とした童 謡論 『民謡 ・童謡論』は 「民謡編」 と 「童謡編」の2部か ら成 る。第-部は大正13年(1924)夏 の北海道における講演,第二部は翌年 8月初等教育唱歌研究会の嘱に応 じて 行 なった 講 演 「童謡 と教育」の原稿である。前者は 『日本民謡の研究』 と題する書物にな り,同13年12月 春秋社か ら刊行 されている。昭和4年

,

「童謡 と教育」を合わせた一 冊の春秋 文 庫 『民謡 ・ 童謡論』 として,新たに出版 された。 同文庫本の自序によれば,著者高野は 「童謡」 とい う語を 「過去の 日本の童謡」すなわち 「わ らべ うた (童歌)」の意味に用いている。『赤 い鳥』以降のいわゆる芸術的 童謡 に対 して ほ 「童謡詩」あるいは 「新童謡」 と呼び,一応の区別をしている。 「第二 童謡編」は冒頭で次のように述べ る。 童謡は其の名の如 く子 どもがロに謡 う所 の歌である。其の歌の作者 も不明なら,作曲 者 も不明, また出来た時 も出来た所 も不明である。此の点は,前にい う民謡 と少 しも達

(2)

う所がない。 いや童謡は元来民謡の一部をなす もので,通常は成人の口に上 らず子 ども にだけ諌謡 され るので,特に童謡 と呼ばれているのである。 この,「童謡は民謡の一部」 とい う考えが高野の童謡観の根底をなしていた。彼 の 民謡論 は,『日本民謡 の研究』の序に述べ られているよ うに,「多年補正を加えている日本歌謡史の 草案か ら抄録」 した ものであるが,童謡論 も,その前半すなわち童謡 の本質を論 じた部分は そ うであった。長年 にわた って全国の歌謡を踏査 し史的考察を積み上げる過程で,形成 され た ものなのである。 以上の ことを念頭において, まず第一部の 「民謡編」か ら童謡論 との関連箇所 を 抜 き 出 し,要約 してみ よ う。 ふし 1. 歌謡 (曲節をつけて謡 う歌)の中で民謡は叙情詩に属 し,人の心に湧いた情 を単純 率直に表現 した ものが多い。 2. 民謡は何某が一定 の 目的の下に作 り上げた技巧歌ではな く,いつ, どこで,誰が作 り出したのか分か らないが, ともか く伝唱 されている歌である。それは民衆 の声,氏 衆の共産,民衆 の有す る天与の作詩気分が生み出した ものである。(『日本歌謡史』の 序説には技巧歌 も,「作 られた時や作者に対 しては何 の顧慮を も貸す ことな しに, 其 の歌の内容にまた曲調に共鳴 して民衆が これを謡 うよ うになれば,技巧歌は移 って民 謡 となった もの と解すべ きである」 ことが付記 されている。) 3. 民謡が新 たに作 り出 され る場合は,歌 と曲 との問に時 の前後がな く,全 く同一時に 生 まれ出る。

4.

民謡は作 り出された時 に記録 されず, 口か らロ- と謡い移 され,地理的に も次第に 広がってい く。 5.民謡は一般民衆の生活 と同様に多種多様で,世相を よ く反映する。 6 表現については,民謡は極めて通俗な語で卑近に述べ るのが普通である。 曲節 も概 して平易,軽快,其の時代人の情緒を痛切に動かす ことがで き,すべてが面倒臭 くな い。あ くまで も自然 の声である。 以上が高野の民謡論 の骨子をなし,童謡論の中にもそれ らが何 らかの形で含 まれている。そ こで,次に童謡論をみ る。 まず,童謡が 「児童の共鳴謝謡に よって成立」 している事実を,全国各地に流布 した蛍の うたを例にあげて説明している。「蛍来い 蛍来い。/ あっちの水は 苦いぞ,/ こっちの水 まり は 甘 いぞ,/黄金の椀で 水 くれ る,水 くれ る。」 この童謡は,「黄金の椀」 とい う表現か ら察す ると

,

「大分古い時代に誰か詩才のある大人が作 った ものらしいが

,

「子供がいいた く て, いえなか った所をよ く言い尽 くして居 り」, 曲も 「子供の気分 に しっ くり合」 っている。 そ こで広 く流布 し,歌詞 も曲も地方色を帯びて多少謡 い変えられつつ今 日まで伝 えられた0 この よ うに,童謡の中には子供 自身の 「天与の作詩気分が産 み出した ものでな く, ど うして も成人 の作であると認めなければならないものがある。」しか し 「元来子供に取 っては其 の歌 詞 の巧拙や,作者 の何人であるかの如 きは問題でない。ただその歌其 の曲が 自分 の好みに合

(3)

宇津 :高野辰之の童謡論 す るや否やで これを愛 唱 し, これを振 り棄て るのであ る。」「子 どもの性情 に合 しない ものが 愛 諭 され ることはない」 と。 では,「子 どもの性情 に合す るもの」とは何 か。高野 の考 えでは 「子供 の幼 い観察」,「少 な い経験」,「大人 よ りは奔放 な想像 力」に 「合致す る内容 の もの」であ った。 また,「祖 先 以 来 の伝統的 の思想 と曲調 とが厳 として存 してい る」歌 であ った。 次 に,高野 に よれば,童謡の歌詞 と曲 とは切 り離 し得 ない もので あ る。「在来 の童 謡は歌 と曲 とが同一時 に成立 して作歌者即 ち作 曲者で あった と考 えた い程 に其 の間に寸隙 の くい違 い もないのが多 い, いやそれで遺存 した もので あ ることを忘れてはならぬ」 と 言 う。 こ れ が,後に述べ る 『赤 い鳥』以降 の芸術的童謡運動への批判及至提言において,特 に強調 され る点で ある。 曲については,「構造は単純」,「音域 や高低の変移 も子 どもに とっては極めて 自然 な もの」 で あ り,「何 の面倒 もな く謡え る」。 この 「平易で短 曲である ことが童謡 の特色で」あ る, と して いる。 このよ うに高野は,童謡に も 「野の声」,「自然 の叫 び」,「民衆 の共産」 とい った民謡的 な 要素が含 まれている ことを重視 していた。「古来 の童謡は,其 の歌其 の曲が児童 の 手 に作 ら れなか った にせ よ,それが児童 の共鳴説謡 に よって成立 した ものであ る とすれば,児童 の精 神生活 の現れ として,大 いに これを尊重 しなければならぬ」 とも言 ってい る。 高野が以上 の よ うな童謡観 をあたためていた頃,鈴木三重吉は子 どもた ちのために 「芸術 fj三(1) として真価 ある純麗 な童話 と童謡を創作す る」最初 の文学運動 を興 した。大正7年(1918)7 月児童雑誌 『赤 い鳥』が創刊 され る。「この頃 の子 どもの うた って る唱歌は,大部分功利的 な 目的を持 って作 られた。散文的で,無味乾燥 な歌ばか りであ って,寒心 に堪 えない。私 た ち は もっと芸術味 の豊か な,即 ち子供等の美 しい空想や純 な情緒 を傷けないで, これを優 し く 青 くむ よ うな歌 と曲 とを彼等 に授 けてや りたい。」北原 白秋,西条八十,三木露風,柳沢健 ら が この三重吉 の呼びかけ に応 じ,『赤 い鳥』は毎号2第乃至4篇 の童謡 を掲 げて 着 々とそ の 意図を実現す る。 これ に刺激 されて次 々に生 まれ出た児童雑誌 『金 の船』(大正8年11月創 刊)や 『童話』(大正9年4月創刊)な ども,野 口雨情ほか多様 な詩人歌人 の新作童謡 を発表 し,世 は まさに創作童謡流行期 を迎えた。 時 あたか も第一次世界大戦後 のデモ クラシー思想が盛 り上 が り,教育界は 自由主義教育で 沸 いていた。官僚的,画一的,形式的な知育偏重 に対 して,個性 を尊重 し創造性 を伸ばす児 童中心 の教育が叫ばれた。海外か ら流れ込む芸術教育思潮 も,児童 の文芸,絵 画,音楽教育 に多大 の影響 を及ぼ した。『赤 い鳥』に始 まる童謡運動 は, こ うした時代 の 要求 にか な うも の として大 き く迎えられ ることになったのである。 高野が これ に無関心 でいたわけではなか った。 ない どころか,彼 もいわゆ る文部省唱歌 の 在 り方 には眉をひそめ,新 しい童謡詩人 に期待を寄せ る教 育 者 の 一人 だ った。 明 治42年 (1909)か ら約8年文部省小学唱歌教科書編集委員をつ とめ, 自ら も作 曲家 岡野貞一 と組 んで 「日の丸 の旗」,「紅 葉」(明治44年),「春 が 来た」(同45年),「春 の小

」 (大正元年),「故

(4)

注(2) 郷」

,

「瀧 月夜

(

同3年) な どを作 り,教科書 『尋常小学唱歌』に収めていたが,委員会 の内 柱(3) 部にあってほ決 して満足 してはいなか った。「童謡篇」の第三節 「童謡 と唱歌」に次のように 述べている。 およそ学校の教科書程 自由を拘束 され るものはない。唱歌にして も,文字文体 よ りは じめて,修身歴史地理理科等の他のあらゆる学科 と阻隔 させてはならぬのであって, 普 さに詩であるべ き唱歌 に,教訓 とか知識 とかの,第二第三 の 目的が含 まれているのであ る。 自由と解放 とを希 う詩人が, どうして これに満足 しよう。 唱歌 の編纂委員 として じかに苦渋を体験 していただけに,童謡運動-の共感 と期待は大 きか った と思われ る。続 いて こう言 っている。 美にのみあこがれ る人,情熱を生命 とす る人,殊 に形式美に飽 きた人,定型にはめた 技巧詩の生気に乏 しきを斥け る人,す なわち新 しい詩人諸君が, どうしてそれに允可を 与 えよう。新詩人諸君は学校で用 いる唱歌一切 に対 して 「功利的な り,詩にあらず,芸 術 にあらず 。』と考 えて,新 しい運動を起 して進んで 自己の作品を提供 した。 これがすな わ ち今童謡詩 と称せ られ る処 の ものである。 では,高野は この 「童謡詩」なるものを全面的に肯定 し,評価 していたか とい うと,そ う ではなか った。彼が多年 あたためてきた童謡観に合わない点 に対 しては,容赦 な く反論を加 えた。新童謡 も,子 どもに歌わせ ることを 目的 とす る限 り在来 の童謡 と同 じよ うな本質を持 つはずだ と,高野は考 えていた よ うである。以下 にその見解を と りまとめてみ よう0 芸 術 的童 謡 運 動 - の批 判 と提 言 初めに述べた ように, この 「童謡篇」は初等教育唱歌研究会 の依頼に応 じた講演 「童謡 と 教育」 の原稿であった。童謡運動について見解を述べ る前に次のように ことわ っている。 童謡の価値を論ず ることは,一般の詩歌,ひいては芸術の価値を評定す ることで,そ れは此の場合に於ての主 目的でな く, 目的はそれ と教育 との間に如何なる交渉を有せし むべ きかに存す るのである。但 しそれを説かんがためには,勢童謡の価値にも言及せざ るを得ない。 この場合の 「童謡」 とは 「わ らべ うた」ではな く,北原白秋 ・西条八十 らの新 しい童謡の こ とであろ う

。(

「童謡詩」 と一応の区別は した ものの

,

「童謡」 とい う言葉の意 味 合 いは この 辺 りか ら多少 あいまいになって くる。)高野には新 しい童謡に芸術的評価を加 える意図はなか った。それ らを教材 として児童に与える場合に生 じるであろ う問題 を,教育的見地か ら取 り 上げ ようとした。そのためには,上述の よ うな彼 自らの童謡観に基づいて論 じなければなら なか ったのである。 まず,全国に幾盲 といた童謡詩人の中か ら代表作家 として北原白秋, 西 条 八十, 野 口雨 情, 白鳥省吾,川路柳紅,富原幽の6人を挙げ,柳沢健,河井酔著,島木赤彦,竹久夢二, 西川勉をそれに次 く小者 と見ている。高野に よれば,彼 らは概ね 『赤 い鳥』創刊以後童謡詩の

(5)

宇津 :高野辰之の童謡論 41 創作に力を入れ, 西条八十の主張す る 「芸術的童謡」, 北原白秋の標桟す る 「童心童語の歌 謡」に同意 し,白秋が 『日本童謡集,1925年版』(新潮社,大正14年)の序に 記 した 以下の よ うな自信 と抱負を共有 していた。 明治の小学教育は堕落 した童謡の一面のみを見て,伝統ある正 しいよい童謡を も排斥 し去 った。そ うして之に換 うるに風土習慣の全然異 った泰西の歌詞 と児童の生活感情に 対 してあま りに無識な小学唱歌或は軍歌の歌詞を以って した。 こうして児童の生活はま さし く学校 と家庭 とに於て二分 されて了 った。何等の流通を も其処に は見 ら れ なか っ た。 この教育方針はたしかに過 っていた。何故かなら日本の児童は 日本の児童以外の何 者で もないからである。祖国の山川を揺藍 として育つべき我が民族の子弟が,ほしいま まに祖国の伝統から隔離 され,その常に直面 している郷土の自然から遮断 されて,真に 自由に生 き得 る途 とてある筈はないからである。 ここに於て大正の童謡復興は確かに意 義ある開展を示 した。従 ってまた一般 の芸術教育運動が世の児童の為の光輝 とな り救い となった。 白秋の この考えには高野 も異論はなか ったはずである。 しか し,八十が主張 した 「芸術的 童謡」 とその創作態度には教育的見地から大いに疑問を抱いた。 また,八十をは じめ多 くの 童謡詩人が,童謡につけられる曲に対 してあま りに も無関心なことに も,異 議 を 唱 えてい る。 八十の 「芸術的童謡」説に対 しては,『現代童謡講話』(新潮社,大正13年)中の文章を取 りあげて,次の ように言 う。 (同書には)童謡の意義を 「子 どもの謡 っていたもの又はいるもの」 と云 う私達の解釈 とは別に, - 児童 自身の創作にかかる詩 二 大人が筆を執 った童謡 の意に解 して,一に就てほ何 も説かず,二に就ては 「陳套な唱歌に対 して,新 しい唱歌 を提供しよ うと云 うのが 目的で,一言すれば芸術的唱歌を作 ってやろ う と云 う のであ る。」と率直に述べてあるo三重苦君は歌 と曲とを与えたいと云 う趣意であったが,是に 動か された西条君は固よ り曲に関して も意見を有 して居 られたに相違ないが,著述の中 には唱歌の一半をなす歌だけに就てのみ説明していられ る。そ うして芸術的 とい うに関 しては,人生の観照即ちもろもろの弛緩 した雑念を去 り,緊張 した真剣 な心になって, 人生の第一義を念 った結果であるべ きを説 き

,

「作者の人生に対す る真剣 な感 動が盛 り 込 まれていないものは, どんなに巧みに書かれてあって も,それは芸術品ではない」 と 断 じていられる。 高野は子 どもの幼い観察,経験,奔放な想像力に合致 し,子 どもの性情が単純率直 に表現 さ れたものを童謡 としていた。童謡を創作す る大人は,今 日的な表現でいえば,子 どもの背丈 にな り,子 どもの実感を共にしなければならない。 この高野の見解 とは大 きく異なる芸術童 謡説を,八十は更に具体的に,会心の作 「あしの うら」(『赤い鳥』大正8年5月)をあげて

(6)

説明す る。それは次の作品であ ったO「赤い カンナの/ 花蔭に/, に ょき り, 出 て い る/ あ しの うら ねし ひる 既。/主は誰や ら/知 らね ども,/ 白 く,小 さな/指五つO/朝来て,午来て/晩に 見 り か3) さわ う 辛,/母 さんに よく似た/脈。/ ち ょい と触れば/消え失せて,/赤 いカンナの/花ばか り。」八十の説明は次の通 りである。 具体的に言 って, この 「あしの うら」に よって私が示そ うとした も のは 何 で あった うた か ? 作者は この謡の中に如何なる感動を盛 ったか ? と問われたら,私は庭前の花井 に対す る白身の汎神論的信仰を この うちに歌 い含めたのであると答えよ う。宇宙の草木 は なぴら 土石- として神の意志の象徴ならざるものは無 い。或 日庭に咲 くカンナの花の誼を見て 私はその中に潜む神の心を感 じた。 この感 じの幻想化 された ものが赤 き花蔭に見える母 あ しの うら の白い暁 であったO云 うまで もな くこの場合 の母 とは,われ ら人間を生んだ大な る神の あ しの うら 象徴であ り,暁はその神 の部分的顕現である。すなわち形 こそ単純 ではあるが, この謡 の中に私は 自身の真実 な感動を仮託 したのであ った。(『現代童謡講話』。) これに対 して高野は言 うO なる程奥深い作品であ って,作者の真実の感動を盛 り込んだ立派 な象徴詩であ るが, これが小学校に於ての教材 に適す るや否やに就てほお互に篤 と考 えて見なければなるま いであろ う。(中略) 赤 いカンナの花に こめてある信仰は, これを児童に伝 うべ きであろ うか,又 この歌に よって其の信仰を容易に伝 え得 るや否やに就 ては考 えて見なければなるまい と思 う。 こうした幻想的,象徴的な歌が子 どもの感性に しっくり受け とめられ るとは,高野は思わな か った。 しか し,八十 としては, これ も 「陳套 な唱歌に対 して(詩人が)提供す る,新 しい唱 歌」であ った。「芸術的唱歌」であった。彼は,童謡 も 「詩 としての芸術的価値を 持 つべ き うえこ ものであるがゆえに,単に児童等の歓心をのみ求めた, ご機嫌 と りの謡であ っ て ほ な らな 注(4)

」 とし,童謡創作においては「作者 の歓喜が主,児童の歓喜が従 となる」といっている。「折 J Hー(5) 々あ ま りに芸術的に傾 き過 ぎて頗 る児童等の求む るもの とは縁遠い もの とな」 ることを自覚 してはいた ものの,童謡創作を児童のためよ りは詩人の自己表現の場 として とらえ る 気 拝 が,八十には強か ったのである。 これは高野には受け容れがたい ことであった。 次に,童謡 曲に対す る関心のなさについては,作詞 と作曲の分離状態を問題 にしてい る。 在来の童謡は必ず謡われ るものであった。そ うして作歌 と作曲 と分離出来 ないのが本 義であった。然 るに新 し く作 られた童謡は,歌 と曲 とはおおむね別人によって作 られ, 歌だけ出て,曲のついていないのが沢山ある。 上述の 『現代童謡講話』批評に も,高野は曲に対す る無関心 さへの不満を示 していた。童謡 の歌詞 と曲は本来 切 り離 し得 ない もの としたからである。一人の人間が作詞 と同時 に作 曲す ることは通常望み得 ないとして も,歌詞 と曲とは, あたか も作詞者すなわち作曲者であるか の よ うに

,

「寸隙の くい達 もない」ものでなければならない と,彼は考えた。 ところが,周知 の よ うに,『赤 い鳥』を代表す る北原白秋が創刊号か ら次 々に発表 した,わ らべ うた調の童謡 り す り す こ り す や,子 どもらしい詩境を うた った歌

,

「栗鼠,栗鼠,小栗鼠」

,

「と は せ んは」

,

「雨」

,

「お

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宇津 :高野辰之の童謡論 祭」,「赤 い鳥小鳥」 な どにほ,初めは曲がついていなか った。 ようや く大正 8年 5月,成 田 為三が西条八十の 「かな りや」(7年11月発表)に作 曲した ものが誌上 に掲載 され,広 く愛唱 されて, これが 『赤 い鳥』最初の ◆歌われ る童謡。 とな った。以後,成 田は この前人未踏の 分野に立 って毎月の ように作品を寄せ る。 しか し,(作曲については無知な筆者は 諸 家の説 をお借 りす ることしかできないが),成 田の曲は気品があ り美 しい ものの,従来 の 唱歌調か らほ とん ど抜け出ていなか った。白秋や八十 の童謡にしっ くり合 う作 曲は,果たせ なか った ようであ る。 これは石川義抱の曲に もいえた ことで, 白秋は 自作の 「あわて床屋」(『赤 い鳥

大正8年 4月)につけられた石川 の曲が 自分 の気拝 と相違 していることか ら, こんな感想を もらしている。「どうして も童謡は作曲しないで,子供達 の自然 な歌 い方 に ま かせ て しまっ た方が,む しろ,本当ではないか とも思われ ます 。」(『赤 い鳥』大正8年 9月。)「かな りや」 で好評を博 した八十 で さえ,その曲には不満であ った。 こう言 っている。「いい伴奏 だけを弾 いていただいて,それを聞 きながら,歌詞をじっと見ていて下す った ら,私 の童謡 の感 じが ほん とうに出は しないか, と, ふ と私 の空想で,そんな ことをお もい ました。」(同上 。)事 実,『赤い鳥』に発表 された白秋や八十 の童謡が必ず しもすべて作曲された わけで はなか っ たO山田耕作 と近衛秀唐 も成 田 と一緒 に 『赤 い鳥』に参加 したが,山田は,八十 の「山の母」 (大正8年11月)に作 曲した (9年 2月)はかは,昭和 3年 まで 『赤 い鳥』誌上 に曲をのせて いないo近衛 も八十 の 「鳥の手紙」(9年3月)な どに作 曲している (同年7月)が,歌 う人 はほ とん どいなか った とい う。ほかに も弘田龍太郎 ・草川信 らの作曲家が誌上で活躍 したに もかかわ らず,広 く子 どもたちに歌われ親 まれ る童謡は

,

「かな りや」をのぞいて,『赤 い烏』 か らはあま り出なか った とい うO こうした事実 とも関連 して,高野は,童謡詩人たちがせ っか く日本の民謡童謡風 に作 った 歌詞に,作 曲者が西洋的な民謡童謡風 の曲をつけることも問題 にあげている。伝統的なわ ら べ歌調の曲になじんできた当時 の 日本 の子 どもたちには,西洋の曲調は親 し みに くく, 「ち ょっと習えばす ぐ謡 えるような ものではな」か った。彼はそ こに も 「作歌 と作曲の分離」を 局, 「新童謡が随分多 く出,曲がついたの も沢山あるのに存外流布 しないのは, こうした理 由に よるのではないか」 と,作 曲家の反省を うなが している。 『赤 い鳥』 と同じ頃,『金の船』(大正11年6月か ら 『金の星』 と改題)では,野 口 雨情が 農村の土の香 りのす る童謡を次 々に うたいあげていた。「葱 坊 主」,「四 丁 目 の 犬」,「人買 船」,「七つの子」,「十五夜お月 さん」等 々,単純素朴な言葉の中に深い情緒をた た え た作品 であ った。「童謡は どこまで も唄 って味わ うべ きもの」とした雨情 に高野が共鳴 しないはずは なか った。大正9年3月以降は本居長世 が雨情 と組み,呼吸を合わせて作 曲した数 々の作 品 を世 に出している。わ らべ うたの施律を活用 し,美 しい伴奏をつけた 「十五夜 お月 さん」が ステージで発表 され ると,「ほん とうの 日本の子 どもの歌 を求めていた 日本人たちは熱 狂 し 注(6) て拍手 した」 とい うo Lか し高野は,それ らに一言 もふれていないO同 じ雨情が中山晋平 と 組 んで得た 「謹城寺 の狸雅子」その他,子 どもの世界に大 き く迎 えられ親 しまれた童謡 も, 高野の念頭 にはなか ったかの よ うである。 また,本居長世は大正10年3月以降 『童話』誌上

(8)

で も活躍 し,西条八十 とぴた り息の合った作曲をしている。「お月さん」(作詞 ・作曲ともに 大正11年4月)などは,正に歌詞 と曲とが 「寸隙の くい違いもない」作品であった。だが, 高野は これにも関心を示 していない。なぜか論評の対象を 『赤い鳥』関係にしぼ り,その他 については童謡詩人の名をあげるだけにとどめている。 講演 「童謡 と教育」には,以上2点のほかにも新童謡および童謡運動に対す る批評乃至提 言がなされているが,紙幅 も尽 きたので,それらの要約を以下に記 し,考察は後 日に残す。

新童謡の題材は清新,用語は児童に親 しみを感 じさせ,意は平明,形は 自由である。

自由な詩形は各章の字脚が皆違 うので自然に曲が長 くな り,児童の習得を困難にさせ る。

在来の童謡の弊を継 いで内容が空虚であった り,表現が隠約にす ぎて主憩の所在を認 知 し難い作品 もある。

学校用の教材 としては,およそ何学年の児童にといった配慮が足 りない。

用語は幼稚園か尋常一 ・二学年程度であ りながら,内容はそれ よ り難 解 な も の があ り,逆に,用語や引例が難 し過 ぎる作品がある。

新 しく作 られ る童謡が童心童語の歌であるように,教員は児童に代 って詩人に注文を 出すがよい。但 し,詩人の天分を尊敬 し,修正を願わず,新作を希望す るのがよい。

新童謡は趣味教材 として教課の中で児童に味わせ るのはよいが,創作を課す ることは 熟考を要す る。如何に詩形が 自由であって も,詩 と散文 とでは観察の仕方が違 い,容易 く詩美をとらえ得 る天分の子 どもと,逆 に,理路をた どる天分の子 どもとがある。成人 にもまさる作を出す ものがあって も,それを以て他を律すべ きでない。児童の観察 ・表 現は,其の其純 さと空想味の豊富に於て詩 と目すべ きもので,時 々立派 な作品に出逢 う が,それは人によって作 らせられたのではな く,出来たのであ り, これは高学年 まで継 続す るものではない。稀につづ くものがあれば特殊な指導をすればよい。詩的観察,請 的叙述に力を用いて教育 した結果 どうなるかは,今 日に於てはまだ予測 し難いところが ある。 お のず か 最後に高野は

,

「本当に童心童語」の歌で

,

「児童の心を養い」

,

「児童の観察や思考が 自ら 高められる」 よ うな童謡 と

,

「日本味を基礎 とし」

,

「児童が喜んで謡 う」曲が 続出 す ること を願 って,筆を描いている。 高野が西条八十 らの芸術的童謡をどれだけ理解 したかは疑問である。 しかし高野の童謡論 には,多年にわた る日本歌謡史研究 とい う広大な基盤があった。その実証的な研磨を通 して 民謡の,童謡 (わ らべ うた)の本質が浮き彫 りにされていた。民謡は庶民の謡,人間胸底の 琴線に触れる声であ り,わ らべ うた も庶民の子 どもたちの無邪気な感動,美 しい空想,純粋 な情緒を,そのままに謡い出している。子 どもの遊びの中から生 まれ,彼らの共鳴訊謡によ って広が り伝えられた童心童語の謡。高野は, これを どこまで も尊重 しつつ,『赤 い鳥』に始 まった童謡運動に期待し,同時に反論を寄せた。その論述には一貫 して子 どもたちへの温か

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宇津 :高野辰之の童謡論 45 い まなざし と,教育的 な配慮が伴 っていた。 高野は, いた って子煩悩だ った とい う。 日夜筆 を持つ生活 の中で,幼 い娘や孫に寝物語を (注)7 聞かせ るのを習 い とし, どんなに繁忙 な ときもそれだけは忘れなか った とい う。そ の,人一 倍深 い慈愛は広 く日本 の子 どもた ちに も向け られ ていた。彼は早 くか ら,20代の後半 か ら, 注(8) 数多 くの童話 を書 いてい る。本稿 の冒頭 に示 した 『家庭 お伽話』がそれ で,明治39年頃から 注(9)

4

3

年にかけて春陽堂か ら毎月

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日に発行 し

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篇で完結 した。毎回西洋 と日本 のお伽話 が収 められ,西洋 の部は吉 岡向陽,日本 の部は高野斑 山が担 当 した。主 として昔話や民話 の再話で あ るが,語 り口は楽 し く,それを手に した子 どもはすべ てを忘れ,夢中で読 みふけ ったであ ろ うと思われ る。続 いて

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年か ら

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年 にかけては 『家庭 お伽文庫』を, 同 じ吉 岡 と組み, 同 法(10) じ出版社か ら出 している。 この方 は19篇か20篇 で終 った よ うで あ る 。 これ らのお伽話集につ いては,後 日ゆ っ く り時間をかけて調査 したい と思 ってい るが, とにか く高野は,お よそ6 年 の間毎月子 ども向けの話 を書 きつづけた のであ った。彼 がいかに子 どもを愛 し, そ の童心 を養 い育 て る ことに意 を用 いていたかを,それ は物語 るであろ う。 文 部省小学 唱歌教科書編纂 の任についたのは明治42年,『家庭 お伽話』執筆 の最中であ った 。 自作 の唱歌が 『尋常小学 唱歌』に掲載 され るのほ,次 の 『家庭 お伽文庫』刊行 の年か らであ る。高野 の歌は,沢 山のお伽話 を次 々に作 って童心 を養 った結果生 まれた ものであ る と,義 嗣子正巳氏が言われたが, その通 りであろ う。 明治45年3月,第 3学年用教科書 に掲載 され た唱歌 「春 が来た」 な どほ,子 どもの心情 にぴた り迫 ってい る。「春 が来た 春 が来 た ど こに来たO/ 山に来た 里 に来 た,/野に も来たO/花 が さ く 花 が さ く, どこに さ く,/ 山に さ く 里 に さ く,/野 に もさ く。(以下略)」雪深い村落 には,遅 い春 が一斉 に訪れ る。 子 どもたちは歓声 を上げて野原を跳 び回 り,花 を求め鳥を追 って丘 を駆 け登 る。 これ こそ野 の声,わ らべ うたの世界であろ う。 硯学 高野辰 之は, こ うした子 どもたち と,その童心 の世界を こよな く愛 して童 謡 論 を 説 き,詩人 ・作 曲家 の童謡運動 に苦言を呈す る ことも辞 さなか った のであ る。 注 (1) 鈴木三重苦が 『赤い鳥』創刊のとき配布したプリン ト「童話と童謡を創作する最 初 の文 学的運 動」。 (2) 高野正巳氏によれば

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「雲雀」(明治34年 『中学唱歌』所掲)

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「池の鯉」(同44年 『尋常 小 学唱歌 第二学年用』)も辰之の作であった。また 「ふじの山」(同43年 『尋常小学読本』巻四)は巌谷 小 波 作詞とされているが,辰之によれば,これも彼自身の作であったという。(金田一春彦 『童謡 ・唱歌 の世界

』TOMO

選書。) (3) 小島美子 「童謡運動の歴史的意義(Ⅰ)」(『音楽教育研究』第10巻第9号,昭和42年9月)O (4) 西条八十 「童謡を書 く態度」(『童話』第3巻第10号,大正11年10月)。 (5) 同上。 (6) 金田一春彦 「西条八十と本居長世」(『童話』復刻版別冊 「解説」

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0 (7) 芳賀綬 「高野辰之博士の学問と人間像」(『信濃教育』第1164号,昭和58年11月)。 (8) 現存する 『家庭お伽話』のうちの昭和42年9月発行第34篇から速算すると,第一篇は39年の発行

(10)

となる。

(9) 『家庭お伽話』50篇は散逸 した ものが多い。高野家斑山文庫,国立国会図書館, 日本近 代 文学館 等に部分的に所蔵 されている。国立国会図書館は第18-29,31-41,44-50篇を収蔵。

参照

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