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繝励Μ繝ウ繝・

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序にかえて

  

︱︱

﹃大隅流伊藤儀左衛門光禄伝﹄推薦のことば

千葉大学名誉教授・工学博士   大河直躬   近世の大工たちの活躍の成果は、現在残されている国宝・重要文化財 等の建築に見ることができ、世界的に非常に高い評価を受けている。こ れらは芸術的に優れているだけでなく、木造建築としての技術の面でも、 世界で最高の水準を達成していた。このような近世大工たちの技術の達 成のもつ意義は、 建築の領域だけに限ることはできない。かれらの設計 ・ 施工・積算等の技能は、やがて幕末期以降の製糸機械や織機などに応用 され、日本で産業革命が実現する基礎になった。   長野県の諏訪は、江戸時代後期に当時の日本で最も高い大工技術を生 み出し 、柴宮長左衛門矩 重 ︵一七四七∼一八〇〇︶や立川和四郎冨棟 ︵一七四四∼一八〇四︶のような当時の代表的名工を生んだ 。この地域 が水車を動力とした製糸機械を発達させ、やがて近代製糸業の中心地と なったのも、そのような大工技術の伝統があったからであろう。この伝

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統は現在の精密・電子工業まで及んでいるとも言える。   伊藤儀左衛門光 禄 ︵一七三八∼一八一三︶は、諏訪藩作事方︵現在の 建設部に相当する︶の筆頭大工棟梁の家の長男として生まれ、その職務 を受け継いだ。弟の長左衛門は母の実家村田家の養子となり、さらに柴 宮家の名跡を再興して柴宮長左衛門矩重を名乗った。長左衛門の作風を 受け継いだ人々は大隅流を称したが、そのなかには伊藤家の家系に連な る人が多数含まれている。ちなみに、本書の著者の一人の伊藤富夫氏は、 伊藤儀左衛門の直系のご子孫である。   伊藤家には、江戸中期以降の当主が筆記した覚書のほか、建築工事記 録 、図面 、絵図 、系図 、由緒書などが多数所蔵されている 。矢崎秀彦 ・ 伊藤富夫両氏は、これらの記録・文書を整理解読されて、このたび﹃諏 訪藩大隅流棟梁の記録﹄全六巻として刊行されることになった。その最 初の発刊が、伊藤家代々の当主の中でも最も大きな活躍をし、また多数 の記録を残した伊藤儀左衛門光禄の伝記である。   両著者は先に柴宮長左衛門の優れた伝記である ﹃大隅流の建築   柴 宮長左衛門矩重伝﹄ ︵一九九四年・島影社刊︶を刊行された。お二人は、 建築学や歴史学の専門家ではなく、他の社会的活躍を定年で退かれてか

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らのお仕事であるが、このような仕事を継続されていることに、私は心 から敬服し声援を送りたいと思う。   儀左衛門の生涯で一番感銘を受けることは、いかにも技術者らしい綿 密で慎重な仕事ぶりである。そしてその背後には、いろんな人間関係を 重視した穏和な人柄がある。このような人柄の存在も当時の建築技術の 発展に大きく寄与したであろう。この伝記は、建築学や歴史学に多大な 貢献をすることは勿論であるが、一般の読者にも大きな感銘を与えるも のと思う。

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目    

序にかえて

千葉大学名誉教授・工学博士   大河直躬 1

一、特別寄稿

  ﹃古事記﹄撰上千三百年に思う 諏訪大社宮司   平林   成元 10   大隅流と私︵社寺建築大隅流伝承︶ 有限会社下倉設計   下倉   孝繁 11   伝承を守り伝える石田組 石田組代表取締役   石田   喜章 13   先祖立川家の偉業を偲んで 諏訪立川流末裔   涌井みち子 15   わが青春と立川和四郎 諏訪市長   山田   勝文 17   諏訪と半田 半田市文化協会会長・半田市博物館専門員学芸員   山田    晃 19

二、大隅流・立川流の系譜

  伊藤家の人々 矢崎   秀彦 21   高島城改修と儀左衛門 伊藤   富夫 28   諏訪立川流の系譜 細川   隼人 30   冨棟一族と弟子について 吉澤   政己 32

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三、今に残る巨匠たちの作品

龍光山観音院︵小坂観音院︶⋮ 36   東堀正八幡宮⋮ 38   小井川賀茂神社⋮ 40   城 向山照光寺⋮ 41   小口薬師堂⋮ 44   西宮山広円寺⋮ 45   今井十五社神社⋮ 47   旧 林家住宅⋮ 48   白華山慈雲寺⋮ 49   熊野神社⋮ 51   諏訪大社下社春宮⋮ 53   諏訪 大社下社秋宮⋮ 56   苔泉亭︵旧塚越邸︶⋮ 59   手長神社⋮ 60   足長神社⋮ 62   風 穴山龍雲寺⋮ 64   岩久保観音堂⋮ 66   鼈澤山佛法紹隆寺⋮ 67   普門寺太子堂⋮ 69 臨江山温泉寺⋮ 70   瑞雲山江音寺⋮ 72   八劔神社⋮ 74   桑原町南町の道祖神⋮ 76 白狐稲荷神社⋮ 78   源海山高島院教念寺⋮ 79   福島御頭御社宮司社⋮ 80   諏訪大 社上社本宮⋮ 84   諏訪大社上社前宮⋮ 89   惣持院白岩観音堂⋮ 90   七社明神⋮ 91 田沢稲荷神社⋮ 92   三輪神社⋮ 93   壺井八幡神社⋮ 94   酒室神社⋮ 95   円通山宗 湖寺⋮ 96   古御堂⋮ 98   小林山頼岳寺⋮ 99   大天伯社︵矢嶋天伯社︶⋮ 100  齢松 山福壽院⋮ 101  瀬神社⋮ 102  医王山法隆寺⋮ 104  立岸山高栄寺⋮ 105  乙事諏訪社 ⋮ 106

諏訪地方の近世・近現代における名匠作品年表

109

あとがき

119

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鬼板(おにいた) 鰭(ひれ) 拳鼻(こぶしばな) 結綿(ゆいわた) 笈形(おいがた) 眉欠(まゆかき) 頭貫(かしらぬき) 脇障子(わきしょうじ) 板壁(いたかべ) 長押(なげし) 斗束(とづか) 丸桁(がぎょう) 虹梁(こうりょう) 蟇股(かえるまた) 束(たたらづか) 鳥衾(とりぶすま) 実肘木(さねひじき) 土台(どだい) 貫(ぬき) 大瓶束(たいへいづか) 架木(ほこぎ) 地覆(じふく) 平桁(ひらげた) 高欄こうらん 飛檐垂木(ひえんだるき) 地垂木(じだるき) 懸魚(げぎょ) 肘木(ひじき)  (出組) ※連三斗(つれみつど)

向拝

こうはい

(身舎

身舎)

母屋

も や

(身舎)

母屋

も や 作図・解説:五味光一 䕻

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桁(けた) 飛檐垂木(ひえんだるき) 手挟(たばさみ) 懸魚(げぎょ) 木鼻(きばな) 海老虹梁(えびこうりょう) 虹梁(こうりょう) 浜床(はまゆか) 登り高欄(のぼりこうらん) 擬宝珠(ぎぼし) 擬宝珠柱(ぎぼしばしら) 破風板(はふいた) 裏甲(うらごう) 軒付葺地(のきづけふきじ) 箕甲(みのこう) ※三斗(みつど) ※唐破風(からはふ) 向拝柱(こうはいばしら) 丸桁(がんぎょう) [向拝部分の屋根]  縋破風(すがるはふ)   いっけんしゃながれづくり

一間社流造の各部名称

向拝

向拝

こうはい

向拝

こうはい

(身舎)

母屋

も や 地垂木(じだるき)

(9)

だ い と

大斗

唐様

からよ

巻斗

ま き と

方斗

ほ う と

斗繰り

と ぐ

斗尻

と じ り

和様

わ よ う き

肘木

ひ じ ときょう

斗栱詳細

桁隠し 降り懸魚 拝み懸魚 懸魚名称 桁 丸桁 棟 場所 むね おが くだ が ぎょう けた けた

貝頭懸魚

かいがしら

梅鉢懸魚

うめばち (梅の花) (五葉)

切目懸魚

き り め   釘隠(六弁の花) くぎかくし

雁股懸魚

かりまた (四葉)

猪目懸魚

い の め (六葉)

懸魚の種類

げぎょ

懸魚

かぶら

(10)

ち ど り は ふ

唐破風と千鳥破風

か ら は ふ

起くり

兎毛通

うのけどおし

唐破風

懸魚

げ き ょ

照り

千鳥破風

面取率b/a 1/5 ∼1/5.5 1/6 ∼1/8 1/8 ∼1/10 平安 鎌倉 時代 室町 大面

糸面

おおめん いとめん

大面

几帳面

きちょうめん

向拝柱の面取り

こうはいばしら  めんと

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一、特別寄稿

   

﹃古事記﹄撰上千三百年に思う

諏訪大社宮司   平 林 成 元     今から一三〇〇年前の和銅五年︵七一二︶ 、現存する日本最古の歴史書﹃古事記﹄が撰上されました。   古事記の神話、国譲り=天上界︵高天原︶は天照大神が、地上界︵葦原中つ国︶は大国主命が統治をして おりました 。天照大神は 、大国主命のもとに使いとして建 御雷神を派遣させ 、﹁この国 ︵中つ国︶は 、皇孫 の治める国にして欲しい﹂と迫りました。大国主命は、二人の息子に答えさせます。兄の事 代 主 は承諾しま すが、弟の建 御名方︵諏訪大社の主祭神︶は、力比べを挑みます。負けて信濃国洲羽に逃げ、捕えられて命 乞いをする⋮⋮。   そこで、建御名方が何故負け 0 0 0 0 、何故諏訪に 0 0 0 0 0 逃げたのか?   を一考してみます。 ﹃古事記﹄が撰上された時代、七〇一年に律令制度が設けられ、七一〇年に平城京︵奈良時代︶に移ります。 大和朝廷が日本国家を統治するのです。そんな時代に﹃古事記﹄が編纂されたのです。天皇の権威は増大し、 大和朝廷が日本国家を統治するのです。全国それぞれの国を治めていた国 主 は、みな大和朝廷のもとに与 す る︵賛同し、 仲間入りをし、 力を添え従う︶ことによって国の統一が成し得るのです。そのことが﹁負ける﹂ という物語で表されていると思われます。   次に何故諏訪だったのか。奈良の地は、言うまでもなく日本の中心地でした。奈良に次いで文化が進み発

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展していた国は出雲であったと思います。諏訪の国も、持統五年︵六九一︶には諏訪大社に天皇が勅使を遣 わされるなど都にその名が響き大変有力な国であったのです。   葦原の水穂の国と言われるように 、稲作を中心とした時代です 。稲作りは 、暖かい地方は容易でしたが 寒い地方では困難でした 。大和朝廷の勢力範囲 ︵統一︶は 、稲作りができる地域ではなかったでしょうか まだ力の及ばない寒い東北地方などに稲作の技術を広め導き勢力範囲︵統一︶を拡張することが最重要であ ったと思われます。   稲作に最も大切な水雨・農耕・開拓の神を寒い諏訪の地に選び、この地を根拠地として活躍を願う根性の 強い神を鎮座させたのではないでしょうか。        ◇  ◇  ◇   なお、折しもこの期を一にして、平成二〇年︵二〇〇八︶七月より着手された諏訪の名匠の技の結晶であ る春宮幣拝殿及び左・右片拝殿と、秋宮幣拝殿及び左・右片拝殿、神楽殿の保存修理が竣工できたことを心 から嬉しく思うところです。

   

大隅流と私︵社寺建築大隅流伝承︶

有限会社下倉設計   下 倉 孝   終戦の昭和二〇年、国民学校高等科が新制中学校となり昭和二三年三月、第一期の卒業生として社会の荒 波の中に踏み出しました。混乱の世の中にあって就職先もなく、生活の目標を立てることもままならない時

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代であったなか、農業が唯一収入のある職業であったといえます。   そんな折に父を亡くし 、伯父から ﹁職人になれば喰い逸 れがないから﹂と勧められ 、縁もあって宮大工の 石田房茂棟梁に 、住込み仕着せ持ち五年間の徒弟奉公という条件で入門を認められ 、自宅を後にすることに なりました。素直にその気になれたのは、 中学生時代に月刊誌﹃平凡﹄の小説﹁黄金の椅子﹂で﹁大学卒業後、 就職難で鉄工場の職工から苦労の末に建築の設計士になり成功した﹂との話を読み 、私もそうなりたいと夢 見たことがあったからと思われます。   弟子入り最初の仕事は、木造二階建て小学校校舎の作業現場で、大工職人五人と通い兄弟子二人の中に加 わりました。弟子の仕事は刃物研ぎや鉋削りから始めるものだと言われていましたが、予想に反し親方の墨 付けの相方として慣れぬ壺 矩 ︵規 矩 術︶の手解きを受けることができました。   二年目には山門の新築に携わり、棟梁の図面を知る機会を得たことで、その元の図面と完成した山門の実 技を基に、毎日の仕事後の夜業で一〇分の一の模型を作りました。これを三年目の正月に我が家へ持ち帰っ た際に 、隣の大工さんがそれを見て ﹁他人に手伝ってもらっただろう﹂と言われたことを覚えております 。 その模型は今も我家に神棚として飾っております。   年季のうちに数棟の社寺の新築改築工事に従事しました 。特記できる仕事とすれば 、鐘楼堂の斗 組と 扇 垂木を任されて脇棟梁としての責を果たしたこと、土工事の土堀、コンクリートの練り方、トビの建て方、 銅板屋 根 葺 、特に杮 葺 屋根職人の仕事である軒付けの切裏︵蛇腹板︶や腹板の仕口と納まり等、本来の宮大 工職人の領域以外の仕事も経験したこと、またその指導を受けたことが今に繋がって役立っていると思いま す。   石田棟梁の作図作業を実際に見ることができたことは掛け替えのないことであり、今の私の原点でもあり

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ます。石田棟梁が部屋に籠り、製図板に向かって丁定規を当て、曲線描きの弓とカラス口による墨書きをし ていた姿が今でも目に焼き付いています。また、年季明け後に大工職人として石田棟梁の元で社寺建築工事 に従事し、二三歳の時には八〇坪の本堂を脇棟梁として新入りの弟子相手に墨付けを行い、無事上棟できた のも石田棟梁の温情と指導のお蔭と深く感謝しております。   こうした大隅流棟梁石田房茂翁との出会いが、素晴らしい伝統を私の骨肉の髄にまで染み込ませてくれた ことにより、私も大隅流の本流を汲む実技を知る設計者︵一級建築士︶の一人として世に認められるように なったものと自負しております。おそらく大隅流を継ぐ他の先人たちもそうであったに違いないと思われま す。ただ、近年の工事予算の緊縮や工事期間短縮のための機械導入などが、こうした伝統文化︵技術︶保全 の重要性を失わせる方向にあるのではないかと危惧しております。   今、社寺建築設計を業としていて、大隅流、立川流と聞くたびに先達の偉大な業績と技量の巧みを、これ から先に伝承していかなければならない使命を痛感しております。   ︵※大隅流の歴史等については他に譲り、私のこれまでの一端を記しました︶

   

伝承を守り伝える石田組

石田組代表取締役   石 田 喜   石田組の初代の師匠が柴宮長左衛門から独立したのが寛政八年︵一七九六︶と言われています。初代矢崎 善司の父親は木挽きでした 。きっと柴宮長左衛門さんに仕事でお世話になっていたのではないでしょうか

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そんな縁を頂いて弟子入りをすることができたのだろうと想像しています。   石田組初代矢崎善司は、矢崎豊前昭方とも名乗り、江戸時代に今の群馬県、埼玉県を中心に活躍をしまし た。初代善司には四人の息子がいて、長男專司が二代善司、四男彬之亟が三代善司を名乗りました。三男房 之進は、石田家に養子に入り、石田組の始祖となります。残念なことに矢崎家は絶えてしまいましたが、現 在の石田組は、初代矢崎善司からの名跡を継いで社歴としています。   初代矢崎善司の名が刻まれた魚 鼓 が、小諸市耳取の玄江院庫裏にあります。享和三年︵一八〇三︶の作で、 矢ケ崎善次郎と名が入っています。その後、耳取神社の建立を経て、群馬、埼玉へと活躍の場を広げていき ました。   当時の請負証文を見ますと、金何両、米何俵という記述があります。当時の工事費用は、米でも支払われ ていました。当時の工事は、寺院神社の境内に下小屋を造り、寺領地、社領地の山より木材を調達し、下小 屋で加工して建築をするということが一般的でした。このような作業形態は、木材の調達方法が変わった昭 和三〇年代まで続きました。工事に携わる職人には、諏訪から出向く者や、基礎工事等をする現地で調達す る人々がいました。諏訪から出向いた者は、農業の季節には帰郷して田畑を耕作したようです。   江戸時代に活躍した柴宮長左衛門の門下には善司のほか、伊藤安兵衛、小坂丈吉、花岡源内、伊藤喜惣次、 浅川豊八、矢崎玖衛門など優れた棟梁がいます。   明治になりますと活躍の場が長野県内に移り、諏訪を中心に県内の仕事が多くなりました。   石田組は、大正時代から昭和の初めにかけては社寺建築のほかに、学校の校舎、体育館、旅館の建築など も手掛けました。戦時中は多くの神社の社殿の建築にかかわりました。当時の建築は、出征しなかった職人 で工事が行われ、年配の方が多かったようです。昭和三〇年代からは神奈川県にもご縁を頂き、横浜市を中

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心に寺院、神社の建築をさせて頂いております。   皆様の思いを頂き、お陰様で二〇〇年以上にわたり社寺に関する業務に携わらせて頂いております。それ ぞれの時代の中で、意匠と技術は先輩から後輩へ、そしてまた次の時代へと受け継がれています。道具類の 進歩により施工方法、施工手順などは変化していますが、根底に流れる基本は変わりません。   先人たちの活躍があってこそ今があることを常に念頭に置いて、これからも社寺建築に思いを込め、伝統 を継承して参ります。

   

先祖立川家の偉業を偲んで

諏訪立川流末裔   涌 井 み ち 諏訪立川流は﹃広辞苑﹄に﹁江戸時代の建築彫刻の宮彫りの流派、宝暦の頃に信濃の国の人、立川和四郎 が大成﹂と記載された宮大工一門で初代冨棟は当時彩色の施された建築様式の多い中﹁素木﹂で業を成しま した。冨棟の技量の中には諏訪藩桶職の父塚原忠右衛門の木肌を読む極意﹁木目﹂を最大限に活用すること により清楚で流麗さを醸し出す技法を得たと考えられます。 特に二代冨昌は諏訪立川流を確立させた棟梁といわれる人物で、初代、二代父子が幕府の彫刻師に推挙さ れ、 静岡浅間神社に五〇年を費やし彫刻約五〇〇点をつけています。浅間神社再建は、 技術の研鑽の場であり、 塗 師 方頭取の絵師大石周我や中川梅園︵彫刻墨書き︶との親交がその後の作風に大きな影響をもたらし、ま た当時一世を風靡した﹃北斎漫画﹄から題材を得て巧みに組み合わせた﹁手長、足長﹂ ﹁乱獅子﹂ ﹁唐子﹂な

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どを彫刻作品に仕上げています。しかし﹁冨嶽三十六景﹂に見る北斎特有の砕け散る波濤ではなく、ふくよ かさに富んだ楕円形の波濤とし、瑞雲も楕円形で統一されています。 私の先祖宮坂常蔵昌敬︵※︶一般的にはマサヨシですが立川一門はショウケイと敬愛して呼びます。常蔵 昌敬の母は初代冨棟の娘、そして二代冨昌の娘を妻として立川家一門の中で東海地方に常駐して豊川稲荷の 造営にあたり活躍した匠です。 常蔵昌敬は当時の社寺建築設計図、彫刻下絵図、縮図を収めた手控帳など約一七〇〇点を、宝珠を筆で描 いた木箱など数箱の中に、寺社ごと和紙袋に分類された物と記入のない図面、彫刻下絵図︵原寸大︶など膨 大な資料︵宮坂家文書︶を遺しています。常蔵昌敬の孫、府川一信︵※︶はこの宮坂家文書を確認するため に持ち、社寺を訪ねて行きました。この宮坂家文書が立川流一門の足跡を裏付ける重要な資料として諏訪市 の文化財指定を受けています。 交通手段の乏しい時代に熱心に祖先を追う祖父に両親︵北沢清、静子︶が同行し、その後両親と私、叔父 夫妻︵石井茂︶が引き継ぎ、現在は夫︵次郎︶とその遺志を継ぎ、所在確認、彫師銘や請負文書などを探す 活動を続けています。 立川流一門は諏訪市角間町の近隣に居住し、角間川近くに工房をもち、各地の建築現場に彫刻を運んでい たと言われ、日本の﹁アールヌーボー﹂だと称されています。常蔵昌敬が常駐していた東海地方には数多く の社寺が建立され、その現場にも諏訪の工房から彫刻が運ばれていたとも考えられます。中でも愛知県半田 市は、市内三十一輌の山車を保有し、そのうち九輌に写実性に富んだ彫刻が組み込まれ、亀崎地区は山車を 含め国重要無形民俗文化財に指定されています。 諏訪地域における立川流は、県内外の研究者により﹁立川流建築彫刻保存研究会﹂として長年立川流一門

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の社寺建築の調査、発掘に取り組み、各地の情報収集に努めています。また諏訪地域の愛好者が集い、郷土 の宮大工立川流一門の足跡を辿る見学、研修会を﹁諏訪立川流建築彫刻の会﹂として開催し、見聞を広める 活動を続けています。 なお、塚原家は、後に島木赤彦︵アララギ派歌人︶を輩出しています。 ※宮坂常蔵昌敬︵一八〇二∼一八六三︶建築彫刻には立川姓を名乗る。 ※府川一信︵一八九一∼一九七九︶本名宮坂開示。金工師として幕末から明治にかけて活躍した府川一則 に師事し、職養子として迎えられ、エリザベス女王戴冠式に天皇陛下の贈り物として持参した﹁鳳凰に 瑞雲の図﹂銀製葉巻入れ箱を制作した彫金師。

   

わが青春と立川和四郎

諏訪市長   山 田 勝 ﹁立川和四郎、一三歳の時﹃ああ、もう桶屋職人はいやだ﹄と思い立ち、自分の才能を伸ばすべく、江戸へ と旅立ちました。云々﹂と、立川和四郎には、私の好きな物語が残され語り継がれています。   もう三〇年ほど前になると思いますが、角間町商店街で新聞広告をすることになりました。ちょうど、私 の父が中心的立場にありましたので、諏訪へ帰り山田養蜂場で仕事をしていた私がその担当になりました。   南信日日新聞の下三段ほどを使い、内容は自由にせよとの企画でした。早速取り掛かったのが、各店をス ケッチし、甲州街道両側に配置し、今でいうロードマップが出来上がりました。各店の店名とキャッチコピ

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ーを入れたマップが出来上がりましたが、何か新鮮味に欠けると思い、マップの隅に物語を入れることにし ました。そこでこの地の物語を探し始めると、出てきたのが立川和四郎でした。   当時 、角間町内では歴史に詳しい 、栄増園 ︵注︶のご主人に相談に上がりました 。﹁これはちょっと話が 難しくなるぞ﹂と言いながらも快諾をいただき、原稿を書いてくださることになりました。栄増園さんの原 稿は難しい表現や難解な部分がありましたので、許可を得て私が今風に書き下ろしました。回数は忘れてし まいましたが、何回かの連載を組むことになりました。   そこで出てきたのが 、﹁立川和四郎一三歳の時に⋮ ⋮ ﹂となるわけであります 。立川和四郎が最初に手掛 けたのが ﹁角間十王堂﹂になります 。十王堂には建設されるまでの経緯があり 、諏訪頼水お殿様 、亀姫様 、 永明寺が登場し、十王堂建設までの物語が進んでいきます。こんな広告が紙面に載るようになると、八剱神 社の総代さんがある資料を見せてくれました。それは八剱神社の寄付名簿でした。角間町の中に立川和四郎 の名前があり﹁当時、一戸なしに寄付をしているから、これで角間橋から何番目の家かわかるはずだ﹂と教 えてくれたこともありました。   立川和四郎が多くの建築を手掛けてこられたのは、諏訪に大隅流があったからだと思います。大隅流は今 も健在です。両派が競い合い、ともに伸びてきた歴史は、諏訪にとっての大きな財産だと思います。 ︵注︶ 栄 増 園 は、江戸時代の創業で諏訪藩御用菓子屋も勤めた和菓子・茶葉販売店。一九九四年閉店。

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諏訪と半田

半田市文化協会会長・亀崎潮干祭保存会会長        半田市博物館専門員学芸員   山 田     亀崎中切組力神車を飾っている彫刻を意識しはじめたのは、小学校の低学年の頃だと思います。祖父や父 からこの彫刻は、諏訪の和四郎という人が彫ったものだと誇らしげに聞かされたものです。家の先祖が、こ の彫刻を諏訪へお願いに行き完成されたものと知り、子供心に素晴らしいと思い、詳しく調べてみようと考 えていました。   半田の山車を飾る立川流の彫刻は力神車が最初でありました。根拠となったのは、望洲樓三代目成田新左 衛門の手記と言われていますが 、その手記は残念ながら見たことはありません 。それに代わるものとして 親戚の成田英勝氏が所有する﹃三世成田新左衛門小傳﹄によると﹁中切車が山車を作るに会し、君はまたそ の事に参加する。かって、秋葉寺を詣でたとき、梁間の神人の彫刻が非凡なるを観て、その巧みに託したく、 諸寺の僧にたずねる。奇しくも僧が言うには、この信州諏訪の工匠立川和四郎の作であると、君は直ちに諏 訪に赴き、和四郎に懇請する。和四郎すなはち︵亀崎に︶来て彫刻し、数年に完成する﹂と書かれています。 これは神前神社の社司池田邦教︵大正三年九月一一日から昭和三年二月一〇日まで勤めた︶により肖像と共 に書かれたものであります。   力神車の彫刻は、二代目立川和四郎冨昌と娘婿の立川昌敬の傑作で、文政九年︵一八二六︶五月には下絵 が完成していました 。子供の頃から見慣れていた彫刻でしたが 、諏訪大社上社拝殿虹梁上の ﹁子持竜﹂ 拝殿右側の ﹁鶏﹂ 、左側の ﹁粟穂に鶉﹂や左右片拝殿の ﹁乱獅子﹂を初めて観たとき大変驚きました

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社秋宮の彫刻もモチーフが同じで、観るたびに新たな感動を覚えます。   半田の山車には 、江戸時代には一一輌に 、現在は九輌に立川流の彫刻を観ることができます 。ほかにも 、 秋葉社の本殿をはじめ立川流の建築彫刻が楽しめます。諏訪と半田の百八十数年にわたる深いかかわりを強 く感じます。

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二、大隅流・立川流の系譜

   

伊藤家の人々

矢 崎 秀   伊藤儀左衛門は 、元文三戊午年 ︵一七三八︶伊藤弥右衛門の惣領として 、諏訪 郡 上桑原村普門寺郷に生 まれた。弥右衛門は諱 をはじめ矩 安 、のちに光 福 といった。このこともあってか儀左衛門も諱をはじめ貞矩 のち光 禄 と変えた。名を改めた年次はいずれも明らかではない。   伊藤家は古くより諏訪藩作事方大工棟梁の家柄であった。母は諏訪郡小和田村北小路の村田佐野右衛門矩 眞 の長女であった。村田家も古い家系の郷士であったが、矩眞の祖父矩純代の明暦二丙申年︵一六五六︶に 作事方に召し出されたと同家系図はいう 。したがって藩作事方棟梁家同士の婚姻で 、 父弥右衛門の出生は 正徳四年 ︵一七一四︶ 、母は享保二年 ︵一七一七︶生まれ ︵村田家系図︶だから 、父二五歳 、母二二歳の子 が儀左衛門である。母の俗名は分からない。   儀左衛門には、弟が四人、末に妹が一人あった。すぐの弟は長じて商人になり上諏訪桑原町に移住し、店 を構えて屋号を﹁ふじや﹂といった。次を庄右衛門といい、これは小和田村の大工藤森吉兵衛の養子となり、 やがて養父名を継ぎ吉兵衛政房と称し、建築彫刻の腕が優秀で大変活躍した。   次が長左衛門で、父弥右衛門の四男、延享四丁卯年︵一七四七︶の生。母の実家村田家は、妹が迎えた婿 が佐野右衛門矩芳で、作事方棟梁であった。この矩芳は不幸にも、長男が夭逝、二男矩 能 もまた、江戸で修

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業中の一九歳で早世、やむなく姉の子、当時一六歳の長左衛門が望まれて村田家の養子となり、矩 固 と改名 したようである︵村田家系図︶ 。   むろん作事方棟梁職を継ぐ修行に精励することとなり、もって生まれた才能と俊敏な素質でめきめき腕を 上げていった。しかしこの矩固は、長ずるに及んで作事方棟梁の生涯をつくづく考えた。この天才児の目に は、毎日のお城勤めが常凡で退屈なものに映り、思うままに才腕を振るうことのできる自由な境涯を渇望す るようになったものと思われる。   かくして村田家の後継たる家系から離脱して、おそらく三〇代末か四〇代の初め、武家柴宮の名跡を興し 柴宮長左衛門矩重と名乗り、普門寺村に本拠を構え、寺社建築の芸術家として本領発揮となった。そしてつ いには諏訪大隅流の始祖ともいわれるべき人物となったが、この大成には、陰に陽に兄儀左衛門の庇護の力 が働いていたことはいうまでもない。   さて、その次の弟は元右衛門といい、諏訪藩江戸常居の御徒目付久保田茂太夫の養子となり、大工からは 離れて江戸勤めに終始した。末に一人妹があり、この格別にも可愛がられたであろう娘は、伊藤家の別流で 普門寺村の大工太次右衛門に嫁す。したがってこの有能な大工も義弟となって、儀左衛門の覚書にしばしば 登場する。   上桑原の普門寺郷は、戸数百戸ほどの村であったが、伊藤まき 0 0 は最大で、戦前は全戸数のほぼ半数を占め ていた。この伊藤家には幾つかの系図がある。その一つに、 儀左衛門の筆跡と思われるものがあり、 そこには、   先祖伊藤但馬ト申由   数右衛門屋敷より伝吉屋敷江出候由   先祖伊藤但馬守ト申   数右衛門屋敷ニ居住候由   但馬守より弥右衛門迄之内数代之内不相知尤流人也

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  上宮江附居棟梁大工致候由   頼岳院様︵諏訪藩初代藩主諏訪頼水︶御代   御大名ニ被 成為   棟梁大工 被 仰 付   伊藤儀左衛門迄五代   ニ相成候   として、系図が書かれている。これには細字の記入があり、なお別人の筆跡の追記も見える。ここに﹁上 宮江附居棟梁大工﹂とは諏訪大社上社の御作事や大工であったもので、それより儀左衛門まで代々大工を受 け継いできたと思わせる書き様である。   また 、流人也とあるのは 、別の系図の付記に 、﹁日根野織部正様高島城﹂築城の際 ﹁伊藤家之者供松本領 ニ夕子村上田領鞠子村江夜中引越﹂などとある 。 苦難の時があったが 、﹁文禄元年諏訪因幡守頼水公上州惣 社江御国替之節伊藤七郎左衛門召連﹂ ﹁慶長六丑年再諏訪江御帰り被遊候﹂などとあり 、伊藤家が諏訪藩主 に棟梁として仕えた経歴は、甚だ由緒深い。 ︵中略︶   儀左衛門が五代目となる先祖は弥右衛門光武で、長兄長右衛門、次兄市郎左衛門ともに分家し、末弟が本 家を継いで藩作事方棟梁となった。その次兄の市郎左衛門の子孫が太次右衛門で、これに儀左衛門の妹が嫁 いだというわけである。   さて、本家弥右衛門光武には四男あり、惣領権兵衛光之が藩作事方の株をもって隣接地に分家し、本家は 二男庄左衛門が継ぐ。手長神社境内に現存する旧本殿︵現弥栄神社︶の近年発見された棟札は大工伊藤庄左 衛門となっている。三男久兵衛も四男弥兵衛も大工になった。弥兵衛の書いた神社本殿の絵図︵享保一七年

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伊藤庄兵衛 ︵※ A ︶ ︵一七三五∼一八一八︶ 伊藤久兵衛 三男 伊藤弥右衛門 二男・庄左衛門 手長神社旧本殿 伊藤市郎左衛門 伊藤太兵衛 伊藤弥右衛門光福 ︵一七一四∼一七八〇︶ 矩安・権兵衛 岩久保観音仁王門 ・芝金杉 上屋敷 伊藤弥右衛門光貞 ︵一六八五∼一七二六︶ 手長神社旧本殿 伊藤権兵衛光之 ︵一六九二没︶ 長男・分家 女 ︵妹︶ 女 ︵姉︶ 村田佐野右衛門 ︵一七一九∼一七九四︶ 小松家より養子

大隅流系譜

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宮坂長左衛門矩純 ︵一六三七∼一六七八︶ 宮坂七兵衛矩道 ︵一六五八∼一七三〇︶ 後に村田姓 村田佐野右衛門矩眞 ︵一六八二∼一七五五︶ 宮坂七兵衛有貞 伊藤弥右衛門光武 三男 伊藤市郎左衛門 二男 伊藤弥兵衛 四男 足長神社本殿絵図 ︵未確定︶ 伊藤安兵衛 ︵一七八六没︶ 傳吉

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伊藤弥治郎光直 ︵一八〇八∼一八八七︶ 儀惣左衛門 伊藤喜惣次光實 ︵一八一五∼一八六一︶ 亀蔵・分家 白狐稲荷社本殿 村田佐野右衛門矩真 ︵一七八六∼一八五一︶ 矩直 八剣神社拝殿 村田佐野右衛門矩武 ︵一七五八∼一八〇〇︶ 濱家より養子 村田長左衛門矩重 ︵※ B ︶ ︵一七四七∼一八〇〇︶ 矩固 ・伊藤家より養子 ・後 に柴宮姓 村田佐野助矩能 ︵一七四五∼一七六二︶ 二男・江戸修行中早世 伊藤太兵衛豊義 ︵一七七五∼一八五五︶   小松某     女 伊藤弥右衛門光房 ︵一七七八∼一八二八︶ 儀惣治 ・儀左衛門 ・初代儀 左衛門弟子     女 長男・二男 早世 伊藤太次右衛門 ︵一七四一∼一八一四︶     女 ︵一七五二生︶ 五男・御徒目付久保田家に養子 ︵一七九七没︶ 伊藤元右衛門 伊藤長左衛門 ︵※ B ︶ 四男 ・矩固 ・矩重 ・村田家に養 子・後に柴宮姓 諏訪大社下社春宮幣拝殿 ・瑞雲 寺本堂・照光寺本堂 伊藤吉兵衛政房 ︵一八〇九没︶ 三男・庄右衛門・藤森家に養子 伊藤利右衛門 ︵一八〇八没︶ 二男・桑原町﹁ふじや﹂店主 伊藤儀左衛門光禄 ︵一七三八∼一八二八︶ 長男・貞矩 法華寺本堂 ・泉長寺本堂 ・高島 城石垣・岩久保観音堂 ※印は同一人物 村田矩明 長男・早世    女

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伊藤弥右衛門 ︵一八二九∼一九〇五︶ 弥傳次 石田文雄 ︵一九二一∼︶ 桑原石田組 石田房茂 ︵一八九〇   ∼一九八四︶ 矢崎林之亟照恭 ︵一八三二∼一八八二︶ 四男・ ︵三代善司︶ 福寿院山門 ・瀬神社本殿 矢崎房之進 ︵一八二〇∼一八九〇︶ 三男・房吉・石田家へ養 子 足長神社舞屋 矢崎善之助 二男 矢崎善司矩慶 ︵一八〇八∼一八四五︶ 長男・仙次・専司・国次 郎・国太郎︵二代善司︶ 足長神社拝殿 伊藤安兵衛 ︵一七九〇∼一八七四︶ 安衛 諏訪大社上社本宮御天水 宮・瀬神社舞台 花岡源内豊之 ︵一八一〇∼一九〇二︶ 柴宮長左衛門弟子 江音寺堂宇・諏訪大社上 社前宮十間廊 矢崎玖右衛門元形 ︵一七六二∼一八二七︶ 久右衛門・柴宮長左衛門 弟子 三輪神社本殿・酒室神社 本殿・善光寺山門 矢崎善司昭方 ︵一七七二∼一八四〇︶ 専 司 ・ 善 次 郎 ・ 豊 前 ・ 照 方 ・ ︵初代善司︶ ・柴宮長左衛 門弟子 下 仁 田 諏 訪 神 社 本 幣 拝 殿 ・長野原常林寺本堂 ・ 真徳寺欄間・泉長寺本堂 伊藤傳蔵 ︵一七六六∼一八三二︶ 貞生 高国寺庫裡・鐘楼堂・本 堂・諏訪大社上社本宮神 楽殿 伊藤庄兵衛 ︵※ A ︶ ︵一七三五∼一八一八︶

大隅流系譜

(2)

伊藤文弥 ︵一八五〇∼一九〇五︶ 長男 伊藤保作 ︵一八六一∼一九三〇︶ 二男 伊藤左久二 ︵一八六五∼一九四五︶ 三男 旧林家住宅 石田芳造 長男 石田国次郎 ︵一八五〇∼一九三七︶ 二男 石田茂喜 ︵一九五一∼︶ 石田喜章 ︵一九五三∼︶

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一〇月の年号と伊藤弥兵衛の署名入り︶は、足長神社本殿の設計図と見られるものであるが、平成六年一二 月、諏訪市指定有形文化財となった。   権兵衛光之の子弥右衛門光貞は、当時流行の疫病のために四二歳で没し、一カ月後、妻もまた同じ疫病で 死亡した。   その子弥右衛門光 福 はまだ一三歳の幼少 、このため本家の傳吉が藩作事方棟梁を代行し 、享保二〇年 ︵一七三五︶二二歳になった光福に引き継いだ 。この傳吉の子庄兵衛は儀左衛門より三歳年長 、まずは同年 代で互いに助け合うこととなる。   また、母の実家村田家はというと、長左衛門が去ったのち、神戸村の濱新左衛門の子を養子に迎え、佐野 右衛門矩武という。儀左衛門は側面から何かと面倒を見ている。また村田家の分家宮坂清三郎もほぼ同時代 の作事方棟梁であった。   儀左衛門の妻の父土橋佐左衛門は御徒目付であり 、儀左衛門とともに行動する機会がしばしばあったが 子孫などこの家のことは分かっていない。   儀左衛門の長男次男は、不幸にも二人とも早世し、芹ヶ沢村の百姓佐兵衛の子を養子とした。弟子入りし ていた有能な少年を見込んで養子としたらしい。弥右衛門と祖父名を与え、一四歳のとき村の由緒の岩久保 観音堂新築にあたり箱棟を作らせたりしている。やがて長女と結婚。一歳ながら姉さん女房であった。二六 歳で御作事や見習勤めを仰せ付けられ、名前を儀惣次と変え、やがて父名を襲ぎ儀左衛門光房といった。次 女は下諏訪町の三輪玄賀に嫁した。   儀惣次の子は男子二人、女子二人。長男弥次郎は御作事方に勤め、二男亀蔵は大工として独立、特に彫り 物に優れ、白狐稲荷神社を立てた。この神社は建物の美しさとともに彫刻がまた格別に見事であり、諏訪市

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の文化財に指定されている。女子一人は、文出村の百姓新右衛門妻、他の一人は塗物師として諏訪藩に仕え た裏町の飯島佐兵衛の妻になった。 ︱︱﹃大隅流伊藤儀左衛門光禄伝﹄ ︵長野日報社刊︶引用

   

高島城改修と儀左衛門

伊 藤 富 夫     伊藤儀左衛門は一介の大工棟梁という枠にはとても収まりきらない傑出した能力の持ち主であったと思う。   天明六年、諏訪高島城の天守石垣築き直しの大工事は、儀左衛門にとって一世一代の大仕事であった。工 事を施工するにあたって、天守閣を解体せずに吊り上げて固定し、石垣を根石から積み直すという大胆極ま りない工法を提案し、渋る重役奉行たちに経済性、安全性などを粘り強く説明して、やっと説得にこぎつけ て工事に取りかかった。   まず天明五年、天守閣屋根を全面的に葺き替え、石垣の工事は天明六年二月二八日に細工はじめの儀式を 行った。これには、惣御奉行前田和左衛門様以下御普請奉行工事関係者が出席した。それから約十カ月、儀 左衛門の思惑どおり工事は進行したが、誤算といえばこの年は雨が多く、これには儀左衛門も閉口した模様 である。もう一つ、工事中の九月、公方様が薨去され一カ月工事が中断したことだった。ただし事故らしい 事故もなく、一人のけが人も出さず、儀左衛門の指図どおり気負いもなく淡々とこの工事を完成させた。そ の技術力、判断力、統率力の確かさは並みのものではなかった。

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  当時手当てできた機械、材料、道具の類はごく限られていて、今日の発達した土木技術とは比較すべくも ない粗末なものであった。また、他国領とは隔絶されており交流もままならなかった江戸時代、小大名家の 一棟梁が大胆な土木工事の高度な技術をどのように身につけたのだろうか。 ﹁切腹覚悟﹂という言い伝えもあるが、儀左衛門の記録などを調べてもそのような差し迫った雰囲気を感じ させるものは何一つ見当たらない。よほど慎重に計画を練り、見通しを立て、確信をもって進めた工事に相 違ない。   並はずれた発想力、実行力、説得力、そしてその人柄は、儀左衛門﹁天性のもの﹂であったろうが、それ と自助努力によって一層磨きがかけられたことも想像にかたくない。   工事最大の山場といわれる天守閣を石垣の上に下ろす段階で公方様が薨去され、喪中につき一時工事が中 止となって、江戸の鳶職、ほか大工、石工等もすべてそれぞれに一旦帰宅させた。一カ月して工事を再開し たとき、江戸の鳶職は頭以下一人も呼び戻すことはなかった。このあたりにも儀左衛門の自信と余裕の程が 感じられるのである。 ︱︱﹃大隅流伊藤儀左衛門光禄伝﹄ ︵長野日報社刊︶引用

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諏訪立川流の系譜

細 川 隼 人     諏訪の宮彫として知られる立川流立川家は、元は塚原家から分かれたもので、その塚原家は甲州巨摩郡塚 原村に塚原三河守頼衛まで代々住んでいたが、武田勝頼滅亡後諏訪郡上原村和泉殿橋に居住し、それより後 は御城下手長御柱小路北方へ引き移った。   諏訪藩主頼忠の、天正一八年︵一五九〇︶武州奈良梨・羽生・蛭川への移封に際して御供し、後に上州総 社に移り、慶長六年再び諏訪に移るまで絶えず御伴して、以後代々桶職として諏訪藩に仕えて一〇俵二人扶 持を食んでいた。   初代立川和四郎は、この塚原家の忠右衛門泰義の二男として延享元年︵一七四四︶に生まれた。長男凉雲 の早逝後は 、父の業を学ぶべきでありながら 、毎日絵画に没頭して桶の製造などに手をつけようとはしな かったという 。一三歳のとき 、父に叱られたのを機に家を出て 、江戸大丸呉服店に入ったが 、翌宝暦七年 ︵一七五七︶ 、本所立川通りに住む幕府御用達建築彫刻家初代立川小兵衛富房︵注︶につき建築の技を学んだ。   和四郎は 、よく師事して技を上げたために多くの弟子の中で特に愛されて 、富房の富の字を貰い ﹁冨棟﹂ と名乗り、さらに立川性を許されて、職養子となるよう懇望されたが、これを断って二〇歳の時に諏訪に帰 った。   翌明和元年︵一七六四︶二一歳で初めて郷里諏訪角間町の十王堂の建築を請け負って完成させた。   この頃諏訪には大隅流の伊藤儀左衛門や弟子の柴宮長左衛門の工匠が腕を振るっていて、その宮彫りを観 た冨棟は、現在の腕では到底匹敵することはできないと思って明和三年︵一七六六︶二三歳で再び江戸に出

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て、名工小沢五右衛門常足︵古沢三重郎︶について宮彫りを学び、同五年諏訪に戻って上諏訪角間町に一家 を構え、小澤屋和四郎の屋号を付けて建築請負業を開いた。   安永三甲午年︵一七七四︶一一月一七日諏訪郡永明村塚原に白岩観音堂を建築した。二重扇垂木、向拝付 四間四面の宮彫り修業後の第一作である。 ︵注︶最初の師匠、立川小兵衛冨房は当初、大隅流︵平之内大隅守が木割法に工夫を施して始めた代表的一 派で 、湯島聖堂や日光東照宮の家光廟 、芝の台徳院の建築がある︶の出であったが 、﹁鎌倉曲 尺 ﹂を使用す ることによって自らの一家を成した名匠で、住居にちなんで立川流と称した。 ※鎌倉曲尺 ﹁尺﹂という字は、象形文字で親指と人差し指を広げて物に当てている形を表している。初めは中国の殷の 時代に定められたと言われている。このときの一尺は今の六寸位であったが、時代や地域、用途によってそ の長さが少しずつ異なってきている。大宝律令以後の尺の推移についてはよくわかっていないが、奈良時代 から鎌倉時代までに一尺が百分の三︵三分、約九ミリメートル︶ほど伸びている。   曲尺とは元々は大工が使用する指 矩 のことであるが、それに目盛られている尺のことも指すようになった。 曲尺がほとんど変化しなかったのは、建築技術は師匠から弟子へと伝えられるもので、政治の影響を受けな かったためである。   江戸時代には、特に尺についての規制はなかった。 ︱︱﹃信濃﹄論文加筆引用

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冨棟一族と弟子について

吉 澤 政己   (一)  和四郎と四郎治について   立川和四郎冨棟は、史料でみると天明八年︵一七八八︶の手長神社拝殿造営までは、和四郎冨棟を名乗っ ているが 、寛政八年 ︵一七九六︶の善光寺五重塔絵図には ﹁立川内匠冨棟﹂と記し 、以後の造営史料には 、 光前寺三重塔を除くすべてに内匠︵冨棟︶と記されている。   冨棟は寛政元年 ︵一七八九︶ に善光寺大勧進表門を造営し、 同四年 ︵一八九二︶ に上洛している ︵細川論文︶ ので、このどちらかの機会に内匠を受領したと考えられる。ただし、寛政九年︵一七九七︶に竣工した五社 権現本殿の文書には、 ﹁諏訪和四郎方﹂とあり、 静岡浅間神社造営の被損方与力の文書︵文化四年︵一八〇七︶ 、 細川論文︶にも﹁和四郎父子﹂とあるので、一般には内匠冨棟ではなく和四郎と呼ばれていたとみられる。   一方 、冨棟の長男 ︵和四郎冨昌︶は 、はじめ和蔵冨興と称し 、長岡神社本殿の造営では亀松冨興と称し 、 冨棟の生前に着手して没後に竣工した小河内神社本殿︵箕輪町︶や内々神社本殿の場合は和四郎冨興と称し ている。その後、文化一二年︵一八一五︶竣工の諏訪神社本殿︵伊那市︶から和四郎冨昌と記されるように なる。文政一二年︵一八二九︶の高鳥谷神社本殿では京都中井門人立川内匠冨昌と称し、これ以降では冨昌 が記したものには内匠冨昌、施主側の記したものには和四郎冨昌の名称がみられる。   このことから、 ①冨棟は和四郎冨棟を寛政八年︵一七八九︶以前に用い、その後は内匠冨棟を名乗った。 ②冨昌は冨棟没後に和四郎を名乗るが、冨棟の生前に契約された建築では和四郎冨興と称し、二代目和四郎

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として契約した建築から和四郎冨昌を名乗った。   立川家の墓地︵諏訪市上諏訪︶には、冨棟の墓石の手前に、冨昌、冨保の墓石が並び、その脇に﹁文政六 年六月十九日俗名立川半兵衛﹂と記す小さな墓石がある。この墓石は三男と推定されるが、名は四郎治では ない。四郎治については、細川論文では﹁三男四郎治は父や兄と共に工に従って相当の腕を振るったが青年 にして没した﹂とのみ記されている。治右衛門の名は、文化七年︵一八一〇︶竣工の内々神社本殿まで一度 も記されず、また、同一二年︵一八一五︶竣工の諏訪神社本殿︵伊那市︶棟札には四郎治冨保とあり、その 後は四郎治の名が消え、治右衛門冨保の名が記されるようになる。史料で見る限り、四郎治↓四郎治冨保↓ 治右衛門冨保は同一人物と考えられる。 (二)  冨棟一族の役割分担   冨棟の息子の和蔵冨興︵冨昌︶と四郎治冨保は、寛政一二年︵一八〇〇︶の無極寺本堂の造営から名を連 ね、冨興は翌年の長岡神社本殿の造営から現場の実質的な棟梁となったとみられる。この翌年に立川流﹁番 匠祭事式法伝授状﹂を出していることもこれを裏付けている。   冨保︵次男︶は冨興︵長男︶と三歳違いで、冨棟の時代には冨興と共に父の現場に従い、光前寺三重塔の 造営で棟梁格の大工に成長したと考えられる。また、冨興が二代和四郎冨昌となった初期にも共同して造営 に当たっているが、中期以降は大きな仕事︵秋葉神社楼門、秋宮神楽殿︶で名を連ねるに止まっている。冨 棟没後の冨保は 、﹁建築 ・彫刻の図案に妙を極め 、上諏訪清水町に分家して中沢屋と号して建築請負をしな がら建築図案や設計に応じて居た﹂ ︵細川論文︶とするから 、冨昌の施工には加わらなくても 、設計や積算 を分担していたと推定される。

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立川流系譜

立川和四郎冨棟 ︵一七四四∼一八〇七︶ 白岩観音堂・諏訪大社下 社秋宮幣拝殿・左右片拝 殿・手長神社拝殿・今井 十五社神社本殿 立川和四郎冨昌 ︵一七八二∼一八五六︶ 和蔵冨興・亀松冨興・高 齋綾彦・萬齋・茶齋 諏 訪 大 社 下 社 秋 宮 神 楽 殿・諏訪大社上社本宮幣 拝殿・左右片拝殿 立川治右衛門冨保 ︵一七八五∼一八五九︶ 四郎治・冨方 宗湖寺本堂 立川半兵衛 ︵一八二三没︶ 千村家へ養子 立川和四郎冨重 ︵一八一五∼一八七三︶ 和蔵 広円寺本堂 みち ︵一八三七没︶ 宮坂伝蔵 ︵一八三一没︶ 上原市蔵正房 冨棟の弟子 慈雲寺本堂 ・津金寺 仁王門 立川専四郎冨種 ︵一八一七∼一八八八︶ 啄齋 諏訪大社上社本宮幣拝殿 脇障子 冨 ︵一八一一∼一八六九︶ 立川昌敬 ︵一八〇二∼一八六三︶ 宮坂常蔵 ・恒造 ・冨昇 ・ 昇敬・冨 平 壺井八幡神社 立木音四郎種清 ︵一八三一没︶ 立川音四郎・冨昌の弟子 下諏訪学校龍門 立川和四郎冨惇︵冨淳︶ ︵一八四七∼一八八八︶ 和蔵 教念寺欄間 立川尚冨 ︵一八五六∼一九二五︶ 立川湘蘭 ︵一八六四∼一九四三︶ 松代 旧塚越邸茶室欄間 立川冨尚 ︵一八八六∼一九四九︶ 義清 立川義明 ︵一九一八∼︶ 清水虎吉好古斎 ︵一八五五∼一九一三︶ 冨種の弟子 旧林家住宅欄間・仏壇

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  宮坂昌敬︵一八〇二∼一八六二︶の母親は冨棟の娘である︵細川論文︶から、昌敬は冨棟の孫となる。宮 坂昌敬の名は、尾張・三河・遠江方面の建築に集中していて、信濃ではほとんど確認できない。昌敬の名前 を明記した資料が信濃にはなく、尾張・三河・遠江に多くあることは、彼が立川和四郎︵冨昌︶の名で請け た工事の中京方面における責任者であったと考えられる。   なお 、弟子については 、冨棟の時代には 、秋宮拝殿の脇棟梁を務めた宮坂長兵衛を筆頭に 、小松七兵衛 上原市蔵、神沢八之亟が多くの建築に携わり、二〇年以上に亘って行動を共にしている。冨棟時代の後半は、 七兵衛、 市蔵らが棟梁格の実力をつけ、 長兵衛が引退し、 代わって茂田井︵立科町︶の田中円蔵、 高木村︵下 諏訪町︶の小口直八、諏訪の増沢奥五郎などが弟子に加わっている。 ︱︱論文﹁立川和四郎冨棟の建築と大工集団について﹂抜粋

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三、今に残る名匠たちの作品

龍光山観音院(小坂観音院)

観音堂 ︿市指定有形文化財﹀    落成正徳五年︵一七一五︶    大工牛山善助︻下諏訪町下之原大工︼ ・花岡磯右衛門   古昔は正福寺︵昌福寺︶と称する諏訪大社上社の社坊となってい たが、昌福寺が川岸の駒沢に移転したあとは諏訪藩の祈願所︵中興 開基は諏訪出雲守忠澄 = 後の二代藩主諏訪忠恒︶となり 、別当と して昌福寺が兼務した。   明治四年 ︵一八七一︶ 、新義真言宗醍醐派から昌福寺の末寺とし て観音院の院号が与えられ、明治四四年、新義真言宗智山派の公称 寺院となり現在に至っている。本尊は、十一面観世音菩薩。   現観音堂は正徳五年︵一七一五︶諏訪安芸守忠虎︵四代藩主︶に より造営されたものである ︵棟札が現存︶ 。その当時 、堂宇が建立 小坂観音院観音堂 岡谷市湊四︱一五︱二二 電話〇二六六︱二三︱四四五八

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された経緯や、それに要した材木、費用を調達した寄付の内容が記載されている﹁観音御堂御建立帳﹂を要 約すると、 ﹁最近、観音堂が傷んできたのを見た花岡内蔵亟は、正徳四年六月一八日、駒沢昌福寺の別当︵寺務長︶の ところへお金を持って行き、お堂の建て替えを願い出た。昌福寺では小坂村の名主花岡五郎兵衛と年寄を呼 びお金を預けた。三月二八日、寺の関係者が材木を伐る作業の休憩時間にお堂の棟札を剥がしたところ、先 代のお殿様がお堂を建てたことが判り、七月三日、昌福寺別当の宥圓から郡奉行所へ費用負担について取り 計らいの願い書を出した。観音堂の建立は藩主のお声がかりで、諏訪藩領内の村々からの寄進と出役により おこなわれた﹂   と書かれている。   彫物の時代的な特徴は、頭木鼻や組物の木鼻にみられる扁平で上向きな象鼻で、宝永五年︵一七〇八︶に 伊藤弥右衛門光貞によって建てられた手長神社旧本殿 ︵境内弥栄社本殿=諏訪市指定有形文化財︶ 、正徳五 年 ︵ 一七一五︶に渡辺元右衛門 ︵東堀村︶によって建てられた神田千鹿頭社本殿 ︵松本市指定有形文化財︶ の木鼻とよく似ている。ただし伊藤弥右衛門や渡辺元右衛門の建築が禅 宗 様 の肘 木 を用いているのに対し、 牛山善助が建てたこの観音堂と宝永六年︵一七〇九︶に牛山平左衛門︵諏訪郡下之原村︶が建てた天竜寺文 殊堂︵県宝、丸子町︶は和様肘木を用いている。 ︱︱吉澤政己﹁小坂観音院観音堂   建築資料調査報告書﹂引用 ﹃岡谷市の文化財﹄ ︵昭和五五年・岡谷市教育委員会刊︶では、小坂観音院について、 ﹁正徳五年、大工は牛 山善助・花岡磯右衛門で、大隅流の立派な建築である﹂とある。牛山善助は長左衛門の父伊藤弥右衛門とと もに藩作事方大工棟梁であったがために肯けることもできる。牛山善助は平左衛門に近い作風ながら、白

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造 を主とし、虹 梁 、木組、こぶしなどに長左衛門の先駆を思わしめ るところも見受けられる。とはいえ、屋根の作風その他に隔たりが 大きい。 ︱︱矢崎秀彦﹃大隅流の建築   柴宮長左衛門矩重伝﹄ ︵鳥影社刊︶抜粋

東堀正八幡宮

本  殿 ︿市指定有形文化財﹀    落成寛保元年︵一七四一︶    大工山田清五郎︻東堀村大工︼   拝  殿 ︿市指定有形文化財﹀    明和三年︵一七六六︶ 東堀正八幡宮拝殿 岡谷市長地柴宮一︱四︱一三    大工山田清五郎︻東堀村大工︼    彫物伊藤儀左衛門・宮坂次右衛門︻大隅流︼   舞  ︿市指定有形文化財﹀    落成安永年間︵一七七二∼一七八〇︶    大工不詳

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  鎌倉時代の初期にはすでに鎮座している古社である。祭神は誉 田別尊︵応神天皇︶で、古くは 宗 王を合祀したといわれる。   寛保元年︵一七四一︶再建と考えられる本殿は一 間社流造で、向 拝柱の木 鼻 の彫刻など見事である。拝殿 は棟 札 によると、明和三年︵一七六六︶に東堀村大工山田清五郎、彫物師伊藤儀左衛門らによって再建され た。儀左衛門は大隈流の巨匠で、向拝の滝の彫刻や、縁下の三 手 先 の組物などはすばらしい。 ︱︱﹃おかや歴史の道   文化財めぐり﹄ ︵岡谷市教育委員会刊︶加筆引用 東堀正八幡宮拝殿向拝獅子と獏 東堀正八幡宮拝殿虹梁の竜 諏訪大社系の神社で用いられる御 門 屋 系の拝殿。正面の向拝と縁下羽 目 に凝った彫刻︵虹梁上=竜・唐破 風内=麒麟等・縁下羽目=波︶をつ けている。このような白木造の彫刻 の多用は、安永・天明以降全国的に 普及するが、この建物はその早い作 例である。 ︱︱八十二文化財団ホームページ 州の文化財﹂引用

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小井川賀茂神社

本  殿 ︿市指定有形文化財﹀    落成宝暦一四年︵一七六四︶    大工 高木傳之亟 ︻下諏訪友之町大工︼ ・山田清五郎 ︻東堀 村大工︼    彫物柴宮長左衛門︻大隅流︼ ︵安永五年=一七七六頃か︶   小井川賀茂神社は小井川字金山に鎮座し、上賀茂社とも呼ばれ る 。葵祭で名高い京都の賀茂神社より勧請したと言われている 。 祭神は 別 雷 命 ・誉多別命︵応神天皇︶ 。﹁小社神号記﹂に﹁賀茂 大明神往古小社也 。明和元甲申年 ︵一七六四 ・ 八月二日改元︶宮 殿造営﹂とある。由緒書きには宝暦︵一七五一︶以降二石四斗二 小井川賀茂神社本殿 岡谷市加茂町三︱六︱八 電話〇二六六︱二二︱三六三八 合の神事免との記載がある。 ︱︱信州岡谷観光サイト﹁旅たびおかや﹂抜粋   宝暦一四年︵一七六四︶四月一日の日付が記された賀茂神社の棟札には伊藤儀左衛門も柴宮長左衛門も名 前がない。しかしながら、   ここには間違いなく長左衛門の作品とみられる﹁蘇鉄に兎﹂の彫刻その他があるのに、棟札にその名は見

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当たらない。長左衛門は、宝暦一四年、一七歳の少年。如何に彫刻の腕が優れていたとしても、この年齢で 彫刻師としてこの建築に参加はなかったに違いない。 ︵中略︶   賀茂神社本殿の彫刻について、大河先生は語られる︵平成九年六月七日付信濃毎日新聞︶ 。 ﹁仮説だが 、 本殿を建てた後 、しばらくしてから改修し 、その時に長左衛門が彫刻を施したのではないか 二十代の作品と思う。技術はしっかりしているが円熟していない﹂と。   まさに仰せの通りである。では改修したのは何時か。   長左衛門は 、明和三年 ︵一七六六︶柴宮拝殿建築の年二〇歳 。賀茂神社の彫刻は 、以後四 、 五年以内にち がいない。 ︵中略︶三一、 二歳の春宮とは規模の点で比較にならないが、春宮正面持 送 の牡丹を思わせる賀茂 神社の木鼻の牡丹など、小品ながらその片鱗を思わせる。 ︱︱矢崎秀彦﹃大隅流伊藤儀左衛門光禄伝﹄ ︵長野日報社刊︶抜粋

城向山照光寺

本堂 ︿市指定有形文化財﹀    落成寛政四年︵一七九二︶    大工柴宮長左衛門矩重︻大隅流︼ 薬師堂 岡谷市本町二︱六︱四三 電話〇二六六︱二二︱二三一四

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   落成文政九年︵一八二六︶    大工藤森広八包近︻高部村上社宮付大工︼   山門 ︵旧諏訪大社下社神宮寺仁王門︶    落成弘化三年︵一八四六︶    大工立川和四郎冨昌︻立川流︼ 鐘     落成寛政三年︵一七五〇︶    大工不詳 土     落成嘉永三年︵一八五〇︶    大工万右衛門 蚕霊供養塔    落成昭和九年︵一九三四︶    大工石田房茂︻大隅流︼ 龍象の水屋    落成平成一八年︵二〇〇六︶    大工小松金治︻大隅流︼   院号は瑠璃院。 真言宗智山派。 本尊は金剛界大日如来。 寺格は常法談林所。 中部四十九薬師霊場十一番札所。 照光寺本堂正面内陣欄間の「迦陵頻伽・笙を吹く天女」 照光寺本堂正面内陣欄間の「迦陵頻伽・琴を弾く天女」

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  開創は不詳であるが 、﹁延喜式﹂初見の ﹁岡屋牧にゆかりの古寺院あり﹂とされる古刹である 。秘仏薬師 如来像には白鳳三年︵六七五︶の銘がある。山寺地籍には鳴沢から引水した鎌倉時代と判定される遺構等が 発見されている。   応永二年︵一三九五︶下社神宮寺宝珠院の憲明法印が中興。文明年間︵一四六九∼一四八六︶に今井四郎 兼平の末孫今井兵部兼貫が堂宇を再建した。享徳元年︵一四二五︶紀州金剛峯寺末寺となり、諏訪下社の別 当寺である神宮寺一等末寺であった。 照光寺山門   明暦二年 ︵一六五六︶ころ山寺から現在地に移る 。明和三年 ︵一七六六︶ から二度焼失し、現在の本堂は第一八世法印清源が寛政五年︵一七九三︶に 建立。   明治の廃仏毀釈で諏訪大社下社神宮寺が廃寺となったため、千手観音・仁 王像などとともに神宮寺仁王門が照光寺に移され た。明治四四年、大覚寺直末より現在の智積院に 転派する。   本殿には殿様座敷、御家老座敷が現存する。 ︱︱照光寺ホームページ抜粋   本堂は 、当初は茅 葺 寄 棟 造 であったが 、昭和 二五年から二六年に銅板 瓦 棒 葺 の入 母 屋 造 に変 更し、またその時期に正面向 拝 の付加、内部天井 の変更、左手奥の縁側の付加、正面のガラス戸と

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その上の欄間の付加などの改造をおこなっている。ただし外陣の欄間、内陣の装飾、背後の位牌壇等の、長 左衛門の手法が発揮されている箇所は、当初の姿をよく残している。   本堂の建築軸部で長左衛門の特色を最もよく示すのは、正面の差 鴨 居 三本に彫られた若葉と呼ばれる唐草 模様で、深い彫り込みと唐草の反りの先端の丸い形がそうである。それ以外では、内部の下記の部分が長左 衛門らしい作風を示す。 一 、外陣の欄間彫刻 中の間正面 ︵迦陵頻伽︶ 、右の間正面 ︵松 ・鳳凰 ・桐︶ 、左の間正面 ︵松︶ 、中の間 ・ 左右の間の境︵波に竜︶ 一、内陣の正面の琵琶板︵組物の間の羽目︶ 蓮︵金箔押し︶ 一、須弥壇高欄の蕨 手 蓮の蕾 一、通称殿様座敷の書院の欄間竹に雀︵一部破損︶ 一、裏堂の位牌壇の欄間波に蓮花︵極彩色︶ ︱︱大河直躬﹁文化財調書﹂抜粋

小口薬師堂

本     落成天保一二年︵一八四一︶ 岡谷市銀座二︱一五︱一一

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  小口薬師堂の本堂は天保五年 ︵一八三四︶に焼失したが 、同 一二年に四六両二分で二代立川和四郎冨昌によって再建された 。 冨昌六〇歳の時の、円熟した名作の一つである。   向拝は唐破風とし、木鼻には象と獅子を配し、大屋根の千鳥破 風と向拝の唐破風との組み合わせ、また正面の唐子の彫刻など実 に見事な建築である。 ︱︱﹃おかや歴史の道   文化財めぐり﹄ ︵岡谷市教育委員会刊︶引用

西宮山広円寺

本  ︿市指定有形文化財﹀    落成安政四年︵一八五七︶    大工立川和四郎冨昌︻立川流︼   岡谷市小口区字屋敷沿いにあるが、もとは字寺下にあったといわれ創立年代など不明である。本尊は薬 瑠 璃 光 如 来 で、この薬師信仰は中世に仏教の民衆化につれて各地に普及し、薬師堂の建立がみられるように なったものである。 ︵中略︶ 岡谷市堀ノ内二︱七︱二二 電話〇二六六︱二二︱七七八三

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   大工立川和四郎冨重︻立川流︼   明治一二年︵一八七九︶調査の﹁寺院明細帳﹂によれば、 ﹁文 禄三年 ︵一五九四︶創立開山雲栄﹂とある 。雲栄は元和二年 ︵一六一六︶八五歳で没している 。天保一四年 ︵一八四三︶の 火災で古記録 、什物一切を失ったのち 、安政二年 ︵一八五五︶ より再建に着手し 、同四年に完成したのが現在の本堂である 。 浄土宗鎮西派 、もと下諏訪来迎寺の末寺であったが 、明治三〇 年に知恩院直末となった 。 ︱︱﹃おかや歴史の道   文化財めぐり﹄ ︵岡谷市教育委員会刊︶ 抜粋   一棟の建物が本堂、庫裏、舞台の三つの施設を兼ね備えた建 築である。座敷は、歌舞伎舞台にも使用できる造りになってい る 。座敷の外に面する桁行四間の上部に背の高い虹梁を架し 、 広円寺本堂 その下方を全部開放できる。内部の中央間仕切りも取り外せるように工夫がされている。 ︱︱八十二文化財団ホームページ﹁信州の文化財﹂引用

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舞  ︿市指定有形文化財﹀    落成享和元年︵一八〇一︶    大工不詳   国道二〇号線に通ずる今井十五社線に沿った字海 途 田 に鎮座し、祭 神は建御名方神・八坂刀売神・御子神十三神を祀る。   古く今井の村が今より南方、現岡谷工業高校付近にあったころは乾 ︵北西︶の方に当たったが、 中山道の開削とともに現在の場所に移って、 坤 ︵西南︶の方向に当たる位置となった。   本殿は初め石宮で、 社地林の南小平にあったが、 寛政二年 ︵一七九〇︶ 峯の平に 、初代立川和四郎冨棟の手により板宮を建立 。一〇月八日 、 ご神体を移した。この板宮は焼失してしまった。石宮は白山社の社祠 として現在に至っている。  

今井十五社神社

本  殿 ︿市指定有形文化財﹀    落成文久三年︵一八六三︶    大工今井萬蔵重光︻今井村大工︼ ・花岡源内・石田房之進・矢崎林之亟照恭︵三代善司︶ ︻大隅流︼ 岡谷市神明町四︱二︱一

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  享和元年︵一八〇一︶に舞屋が建てられたが、市内でも珍しいくぐり 舞屋である。現在の本殿は、文久三年︵一八六三︶六月棟梁今井萬蔵重 光の再建であることが棟札によって知ることができる。 ︱︱﹃おかや歴史の道   文化財めぐり﹄ ︵岡谷市教育委員会刊︶   本殿は一間社流造、正面軒唐破風つき、杮葺、白木造である。

旧林家住宅

居  ︿国指定重要文化財﹀    落成明治二〇年︵一八八七︶∼明治四〇年 旧林家住宅 岡谷市御倉町二︱二〇    大工伊藤佐久二︻大隅流︼    彫物清水虎吉好古斎︻立川流︼   旧林家住宅は木造瓦葺二階建の居宅︵明治三〇年代︶と、土蔵造瓦葺二階建旧宅︵明治二〇年代︶など六 棟からなり、総床面積は二八五坪、大工棟梁は大隅流一四代伊藤佐久二である。   数ある製糸家の邸宅のなかで特徴的な一つは、 旧宅と茶室と洋館が隣り合わせに接していることである。茶 室 は 松 ・ 竹 ・ 梅 材 を用いて、純和風に仕上げ、洋館は信州の洋風住宅としては最も早い時期に属し、天井の

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金唐紙や壁・床の寄木細工など華やかな装飾に仕上げている。これは、当時の製糸家が世界に目を向けて外 国人の接待に和風・洋風両面の接待に心を配っていたことが知られる。 ︱︱﹃おかや歴史の道   文化財めぐり﹄ ︵岡谷市教育委員会刊︶引用 下諏訪町東町中六〇六 電話〇二六六︱二七︱八一七一

白華山慈雲寺

山  ︿町指定有形文化財﹀    落成安永五年︵一七七六︶    大工柴宮長左衛門・藤森吉兵衛︻大隅流︼ 本  ︿町指定有形文化財﹀    落成文化五年︵一八〇八︶    大工上原市蔵︻立川流︼   臨済宗建長寺派の寺院として、正安二︵一三〇〇︶年に開山 を一 山 一 寧 、開基を金刺遠江守義貞として創建。本尊は十一面 観音。応安元年︵一三六八︶鋳造の梵鐘は、第二次大戦下の金 属供出を免れて現存し、県宝に指定されている。また、町指定

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