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佐藤家所蔵一枚摺物と大阪北の新地の舞台

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Academic year: 2022

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(1)

佐藤家所蔵一枚摺物と大阪北の新地の舞台

著者 笠井 純一, 肥田 晧三, 笠井 津加佐

著者別表示 KASAI Junichi, HIDA Kozo, KASAI Tsukasa

雑誌名 人間社会環境研究

号 41

ページ 125(1)‑141(16)

発行年 2021‑03‑31

URL http://hdl.handle.net/2297/00061485

Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by‑nc‑nd/3.0/deed.ja

(2)

125 人間社会環境研究 第41号 2021.3

佐藤家所蔵一枚摺物と大阪北の新地の舞台

  

人間社会研究域客員研究員(本学名誉教授)

笠 井 純 一

関 西 大 学 文 学 部 元 教 授

肥 田 晧 三

人間社会研究域客員研究員

笠 井 津加佐

Single Prints Owned by the Sato Family and Stage of Osaka Kita-no-shinchi

Guest Researcher Institute of Human and Social Sciences

(Emeritus Professor at Kanazawa University)

KASAI Junichi

Former Professor at Kansai University

HIDA Kozo

Guest Researcher Institute of Human and Social Sciences

KASAI Tsukasa

Abstract

 The Sato family at Osaka kita-no-shinchi owns a wide variety of single prints. These are collections of Komajiro Sato. At first glance, these collections seem unrelated to the stage and dances of kita-no-shinchi.

However, some of the single prints were original pictures of stage sketches used at Hokuyo-naniwaodori or Onsyukai of geiko, and another part was materials related to the stage set. Komajiro provided them to stage personnel, such as Tanaka Ryo, or used it to enhance his insight. To protect them from the war, he took them with him when he was evacuated. .

Keyword

Hiroshige Utagawa, Nagauta‟Sumida-no-shiki”, Kandaichiba-tennomatsuri, Ema of Sumikura-bune and Sueyoshi-bune, Tatehanko

(3)

要旨  大阪北の新地の佐藤家には、佐藤駒次郎が蒐集した多彩な一枚摺物が所蔵されている。これらは一見、北の新地の舞台や舞踊と無関係なコレクションのようにも思われる。しかし、一枚摺物のあるものは、北陽浪花踊や温習会で使われた舞台下絵の原画であり、あるものは舞台装置などに深く関わる資料であった。駒次郎はこれらを田中良など舞台関係者に提供したり、または自分自身の識見を高めたりするために蒐集し、浪花踊関係資料とともに疎開先に携行するなど、戦火から守り抜いて今日に伝えたのである。

キーワード

  歌川広重、長唄「隅田の四季」、神田市場天王祭、

  角倉船・末吉船絵馬、立版古

はじめに

  大阪北の新地の佐藤家

佐藤駒次郎(一八八一~一九五〇)が蒐集した、北陽浪花踊の映像フィ   1)には、芸妓扱店・永楽席の経営者であった ち、所蔵者を記さないものは、全て佐藤家の所蔵品である。 肥田晧三が執筆した。また図版は、一括して文末に掲げた。図版のう 純一が、同じく(二)(三)(四)については笠井津加佐が、(五)は 具絵である。(一)の解説と駒次郎または北陽との縁については笠井 製画、(四)「日本八景」の写真、(五)「立版古」とよばれる子供の玩 「大正十年神田市場天王祭」摺物、(三)「角倉船」「末吉船」絵馬の複 い。取り上げる一枚摺物は、(一)歌川広重の浮世絵『江戸土産』、(二) 地にとってどのような意味を持っていたのか、その一端をうかがいた 本稿ではそのうち特徴的なものを紹介し、それぞれが駒次郎や北の新 として、戦後も仕事を続けるために必須の資料であった可能性がある。 が疎開させて戦火から守ったものであり、彼が北の新地の芸能責任者 かしこれらの一枚摺物は、浪花踊に直接関わる資料とともに、駒次郎 て、こちらは駒次郎の趣味的コレクションのようにも考えられる。し 中には、浪花踊と一見無関係と思える多彩な一枚摺物も含まれてい ルム、番付、舞台下絵、写真アルバム等が多数保管される。またその

人間社会研究域客員研究員(本学名誉教授)

笠   井   純   一

関西大学文学部元教授

肥   田   晧   三

人間社会研究域客員研究員

笠   井   津加佐

(4)

一、広重『江戸土産』と「隅田の四季」

  佐藤家には、初代歌川広重(一七九七~一八五八)の浮世絵五枚が残されている(図

1~

『江戸土産』 5)。いずれも隅田川流域の光景を描いたもので、

  2)と称するシリーズの一部である。

  筆者は、これらの浮世絵を駒次郎が集めた理由は、北陽演舞場における舞踊「隅田の四季」の参考資料として、北陽浪花踊などの舞台美術を担当した田中良(一八八四~一九七四)

という仮説を立てた。以下にその推論を記そう。   3)に提供するためであった

主奏曲「隅田川四季」   「隅田の四季」は、四世杵屋佐吉(一八八四~一九四五)作曲の三絃

りをつけた舞踊である。『寿輔芸談』   4)に、二世花柳寿輔(一八九三~一九七〇)が振

で、早速「隅田の四季」に振りをつけて見ることになりました。 して舞踊の新しい世界を拓きたい、と悩んでいたところだったの 来上るとすぐ私のところへ持ち込んでくれたのです。私も何とか い舞踊の仕事をしたがっているのをきいて、「隅田の四季」が出 だけの音楽を作曲していたらしいのですが、どこかで、私が新し 四季」だったのです。佐吉さんは、その前から歌詞なしの三味線 らえたから私に振りつけてくれ、というのです。それが「隅田の 吉さんが訪ねて来ました。佐吉さんはいきなり、新しい曲をこし あれは確か大正八年の夏だったと思います。私の稽古場へ突然佐   5)には、次のように記されている。

  私は数年前から、東京の長崎さんのお邸や何かで、器楽の伴奏で創作舞踊のようなものを幼稚ながら、無鉄砲にやっていましたので、割合にすらすらと振りがつきましたが、一つには佐吉さんの曲がよかったことが尚のこと、仕事がやりよかったのです。

外の好評を博しました。その後、北の新地で再演しましたが、こ の演奏会に新町一流の芸妓が初演しましたが、曲が好いので予想   「隅田の四季」は大阪新町の演舞場で開催された杵屋佐吉さん の時も好評で、その年の芸者踊りの人気をさらってしまいました。

  さらに寿輔によれば、佐吉は「広重の絵から暗示をうけて作曲した」

  6)のだという。

  広重はその生涯に、多数の浮世絵を残した。隅田川を題材としたものも少なくない。佐吉が暗示を受けた浮世絵は、その何れであったのだろうか。杵屋佐久吉『四世杵屋佐吉研究』には、「隅田川四季」を聞いた平山蘆江(一八八二~一九五三)の評言が引用されている

どのものを案じ出した勇気と熱心がうれしい。 れはまだ未完成品であることをまぬがれぬ。ただ、佐吉がこれほ 〈まつり〉よりも広重八景の秋の部が私の心を動かした。が、こ   7)

  佐吉の「隅田川四季」には四部があり、それぞれ、⑴「墨堤の暁色」、⑵「両国の賑」、⑶「佃の篝火」、⑷「木母寺の雪」と題される。蘆江は、佐吉が暗示を受けた作品を「広重八景」と考えたようであるが、広重作の数ある「八景」物のうち、「木母寺」が含まれるのは『東都名所之内隅田川八景』のみであり、それは「木母寺秋月」の題であった

藤家には浮世絵が現存しない な料亭を描いたもので、⑴~⑶に相当する画は見当たらない。また佐 リーズは、『江戸土産』および『江戸高名会亭尽』だが、後者は著名 または秋の景色が描かれていて該当しない。木母寺の冬景を含むシ ある。木母寺はまた、『名所江戸百景』にも含まれるが、こちらも春 えない。蘆江のように、「八景」物に限定することは出来ないようで   8)。但し、これは秋景であるから⑷「木母寺の雪」の元画にはなり

切なシリーズということになろう。 佐吉が⑶⑷を同時にイメージしようとすれば、『江戸土産』が最も適 『江戸土産』と『名所江戸百景』の両シリーズに含まれる。すなわち、   9)が、⑶の佃島篝火を描いた浮世絵は、

  ここで、「隅田川四季」の場面⑴~⑷と、その元となった『江戸土産』の画(隅田川関係に限る)①~⑦を対照してみよう(表Ⅰ)。⑴に対する①は春景、⑷に対する②は冬景として適切である。また、⑥か

(5)

ら夏をイメージするのはおそらく容易であろう。しかし、⑦の白魚漁は冬から初春にかけて行われたらしいので

か。 ある。佐吉はこの画から、曲の興趣を呼び起こされたのではあるまい らめく篝火はちろちろと水面を照らし、幻想的な雰囲気を醸す優品で しれない。⑦は、暗がりに四ツ手網が浮かぶ斬新な構図で、左右に揺 だがやや印象が弱いので、佐吉は晩秋の情景として⑦を選んだのかも のは問題がある。ただ、秋の隅田河畔を描いた④は、整った美しい画  10)、これを秋の景物とする   表

Ⅰ.『江戸土産』所収の浮世絵と「隅田川四季」

  それでは田中良は、これらの浮世絵をいつごろ駒次郎から提供されたのであろうか。筆者は、大正一四年(一九二五)一〇月の「北陽温習会」に際してであったと考えたい。

  佐藤家には、この時の衣裳下絵(図

三月に北陽演舞場で開かれた「第八回鶯遊会」の舞台下絵(図 6)、および昭和九年(一九三四)

演された、第一回(図 が残されている。これらと、花柳舞踊研究会で「隅田の四季」が上 7) 8、一九二四.四)、第八回(図

一一)、第一九回(図 9、一九二七.

10、一九三四.一一)の舞台写真

討してみよう。  11)とを、比較検

  まず、「隅田の四季」の関係事項を年代順に整理すれば、表Ⅱの通りである。   表Ⅱ.「隅田の四季」関係略年表

  北の新地における「隅田の四季」初演は、大正一四年一〇月の北陽温習会と考えることが出来そうだが、ことはさほど簡単でない。まず先述の『寿輔芸談』記事に、大阪新町での初演 44の後、「北の新地で再 4

4」したとあるのに信を置けば、初演・再演は第一回花柳舞踊研究会(大正一三年)以前と考えるべきであろう。また寿輔の振付は速やかに行われたらしいので、少なくともその初演は、佐吉の作曲(大正八年)から程遠くない時期と推定される。ただ佐吉は、大正一二年五月までは北陽浪花踊に関わっていないので

結論を保留しておきたい。 花街における上演だけを数えたりした可能性も捨てきれず、この点は ども寿輔が、初演・再演の回数から第一回研究会を除外したり、大阪 以降、同一三年四月の第一回花舞踊研究会以前に絞られてくる。けれ もこれ以降であろう。こう考えると、「再演」時期は大正一二年六月  12)、北陽での「隅田の四季」再演   北の新地における「再演」が大正一三年四月以前であったとすると、田中良はこの上演に参画したであろうか。彼が北の新地と関わったのは、大正一二年五月の第九回北陽浪花踊が最初であるが、一場面の背景を考案するに止まった

 13)。また、図

子(芸妓)の顔までが美しく描かれている 佐藤家に残る他の衣裳下絵と比較して殊に丁寧に描かれた作品で、踊 6の衣裳下絵(大正一四年)は、 の強い意欲が、覗える力作といえよう。田中はこの下絵を以て、自己  14)。北陽の舞台にかける彼

(6)

の力量を北の新地関係者に示そうとしたのかもしれない。彼が北陽浪花踊の舞台を恒常的に担当するのは、この翌年以降であった。「隅田の四季」再演が大正一三年四月以前であった場合、これと田中は無関係であったと考えるべきではなかろうか。

  ここで、花柳舞踊研究会の舞台写真を見ておきたい。第一回(図 黒っぽく、図 8)は余り鮮明でなく、衣裳の裾も見えにくいが、踊り子の衣裳は

6とはかなり異なるようである。また第八回(図

(図 持物が手拭であり、衣裳の柄も中央の踊子のみ他と異なり、第一九回 9)は 図 10)でもやはり中央の衣裳が異なっているが、ともに色調や柄は であり 6に近い。図柄の決め手は、隅田川に特徴的な護岸のための「杭」 たらしく、図  15)、それは一見無粋に見えるが江戸情緒を象徴する景物であっ 重もはっきりと「杭」を描いている。 7にも図案化して画かれている。小さくではあるが、広   以上のことから、田中が第一回花柳舞踊研究会の「隅田の四季」に加わったか否かは明確ではないが、少なくとも大阪においては、大正一四年一〇月の北陽温習会が最初の参画であったと考えられる。駒次郎は温習会に先立ち、佐吉に暗示を与えた『江戸土産』の浮世絵数葉を田中に提供し、図

6を描いてもらったものと思われる。

二、「大正十年神田市場天王祭」摺物と第一七回北陽浪花踊

  佐藤家には「大正十年九月神田市場江戸天王祭絵巻」(あやその画、伊勢辰版)と銘打った揃いの摺物(六枚)がある。其一「五反大のぼり」/其二「連雀町熊坂山車」/其三「連雀町御神酒所」/其四「多町の積盤台と大松の造り物」/其五「多町の大万燈」/其六「通新石町歳徳神山車」    これらのうち、本稿では其一(図

11)、其五(図

12)、其六(図

の三点に注目する。まず、第一七回北陽浪花踊(昭和六年)で上演さ 13) れた「古今夢絵姿」の舞台下絵(図

14) える櫓様の建物など、両者の類似は顕著であり、図 市場」と大書された「大万燈」や、その背後の家並、さらに右手に見  16)を見よう。「江戸神社・神田

12が図 あることは疑いを挟む余地がない。 14の原画で   また、佐藤駒次郎が手控えとして作成した自筆の「舞台下絵見本帳」(仮称)にも、図

11~ 13の摺物と深い関係にある絵画がある。図 15の「江戸天王祭」と書かれた大幟は、図

け書かれているが、これは駒次郎が図 17の幟には「天王祭」とだ 描いたのであろう。図 の上部に本来書かれていたはずの「江戸」の二文字を無きものと見て 11の右側の大幟だけを見て、幟 17の「大万燈」も図

白いのは、駒次郎が図 12をモデルにしている。面 13の右半分だけを下敷きに、図

である。 16を描いたこと   これらの摺物も、北陽演舞場における踊りの舞台を作成するため田中良に提供したり、あるいは駒次郎自身が江戸情緒の参考にしたりするため、蒐集した絵画と考えて誤りなかろう。

三、「角倉船」「末吉船」絵馬の複製画と第一八回北陽浪花踊

  佐藤家には、寛永一〇年(一六三三)に描かれた「角倉船」(図

同一一年の「末吉船」(図 18)、

(愛蔵版)に写真が掲げられ、次の解説 要文化財)。この複製二枚は、第一八回北陽浪花踊(昭和七年)の番付 に奉納された扁額(絵馬)であり、戦前期は国宝であった(現在は重 19)の絵画複製がある。原本は京都清水寺

時の風俗の一端をも知ることが出来ます。 骨牌や双六や煙草盆や煙管などがありますから、これによつて当 此の図に依つて「御朱印船」の構造などが分ります、又三味線や  17)も付されている。

  第一八回北陽浪花踊は「産業の大阪」と題し、その第四場に「御朱印船」が置かれていて、番付には田中良による舞台下絵二枚(図

20・

(7)

す。 額面よりピントを得たもので今に其額面は清水寺に掛けてありま (マヽ) 清水寺に当時の船体乗組員等の模様を画ける掛額を献納した其 てそれ等の人達が海上の無事平穏と取引の成功を祈願する為京都 本年御朱印船を上演いたしましたのは寛永年間海外渡航熱勃興し 帆であります。 此場面は御朱印船より仇夢に移るつなぎの幕で背景の帆は同船の 節調面白く異国情調豊かに踊り狂ふ。 が「便り聞きたやヨウ辰巳が吹けばヨウ帰る初雁片便りヨウ」と 南蛮人数名とペルシヤ猫とを配し南蛮更紗着の船人六人の別踊子 易を営みたる豪華を極めた御朱印船上の舞台面にて船員としての 慶長、元和、寛永の頃屢々呂宋、暹羅、東京等に渡航して外国貿 すんシヤトンキン 付きの桟敷や船首の形態などに、絵馬の図柄が生かされたと思われる。 21)が掲げられ、左記の解説も付される。甲板の左右に置かれた屋根

 18)

  なお、佐藤家に残る「御朱印船」の舞台写真(図

22)には、図

た絵馬の複製に依拠するところが大きかったのである。 のに相違ない。田中良の舞台下絵「御朱印船」は、北陽から提供され 独特の旗が描かれているが、絵馬に描かれた旗をモデルに描かれたも 背景に踊る「南蛮人とペルシヤ猫」が写っている。両図の右手上部に 20を

四、「日本八景」の写真と北陽温習会

  佐藤家には、大阪毎日新聞社が刊行した「日本八景」の袋入り写真が残されている。「日本八景」とは、東京日日新聞社と大阪毎日新聞社が主催し、読者に景勝地の推薦・投票を求めた企画で、投票数と四九人の審査員(泉鏡花、岡田三郎助、河東碧梧桐、横山大観、竹内栖鳳、谷崎潤一郎、田山花袋、高浜虚子、土田麦僊、内藤湖南、黒板勝美、藤島武二、幸田露伴、小島烏水、北原白秋ほか)の審議でこれを決定した。読者の 投票は昭和二年四月一一日に始まり、五月二〇日に締め切られた。七月八日には、審査員の決選投票によって八景(室戸岬、十和田湖、雲仙岳、木曽川、上高地、華厳滝、別府温泉、狩勝峠)を選定している。

  北陽温習会で「日本八景」を取上げたのは同年一〇月で、田中良の舞台下絵が用いられた(一幕)

た企画なので、写真も参考にされた可能性が高い。 あり、田中がこれを見て下絵を描いたかどうかは未詳だが、時宜を得  19)。袋入り写真の発行日は九月五日で

五、佐藤家の「立版古」

  佐藤家に浮世絵版画の「立版古」(たてはんこ)を五点(一六枚)所蔵している(文末図版参照)。①  伊勢音頭恋寝刃古市之段  二枚続き  貞信画  大阪心斎橋安堂寺町冨士政七板②  歌舞伎大芝居切組燈籠  三枚続き  貞信画③  組上燈籠田舎源氏古寺之図  三枚続き  梅堂国政画  東京馬喰町綱島亀吉板④  組上燈籠舞台附物  五枚  東京浅草南元町牧金之助/東京両国尾関岩吉刊⑤  馬車組立  三枚続き  文部省製本所刊   以上の五点である。「立版古」は一種の消耗品であったので、現物そのものが、今日まで無事に残っていることが稀れで、この五点は、そのどれもが貴重品と言ってよい品々である。佐藤家蔵品の詳細を以下に記し、その貴重資料たる意義を説明することにしたい。

五、一

  立版古とは

 20)

  はじめに「立版古」の説明を記す。「立版古」(たてはんこ)とは、浮世絵版画の一分野で、大版(おおばん)の錦絵(タテ三八センチ×ヨ

(8)

コ二五センチ)の画面に描き込まれた人物・家屋・草花樹木などを、ハサミで切り抜き、それらの部品を糊で張合わせ、芝居の舞台のような立体の作品を組立てる。今風に言えば、錦絵のプラモデルである。江戸時代から大正時代の中頃まで、子どもの遊びとして流行し、子どもだけでなく、大人も一緒に興じたのであった。版画一枚から出来上る小さい作品から、二枚続き、三枚続き、大きいのは十枚続き以上のがあり、大小さまざまの作品が出来上る。夏に限定した遊びで(理由後述)、江戸・京・大阪の三都で、夕涼みの店先や床几の上に作品を飾り、そばに蠟燭やラムプの明かりを添え、夏の夕べのたのしみによろこばれたのであった。一流の浮世絵師が「立版古」の制作に筆を染めており、古くは葛飾北斎、北尾政美の名作が残っている。幕末・明治には江戸の歌川芳藤・梅堂国政、大阪の長谷川貞信らが良い作品を数多く画いた。立版古の原図は、出来上りを予想して、各部品を描き入れて作画するので、作者の工夫次第で作品の良し悪し、組上てる時の面白味がきまる。以上の画家たちは、そうした点で、すぐれた作品を多く残した。しかし、明治中期以後は、新作は無くなり、子どもの興味が他の新しい遊戯に移るにしたがい、「立版古」は徐々にその姿を消すことになった。作品の出来上った当初は、みんなで鑑賞して品物を大切にするが、年月を経ると作品は痛み、大事に保存されることがなく、消耗品で捨てられてしまう。後に残らないのがこの玩具の宿命なのであった。「たてはんこ」は、正しくは「切組燈籠」(きりくみとうろう)又は「組上げ燈籠」という。もともとお盆の供養に作られる燈籠が、江戸時代中期に玩具化したのが起源で、御所や巨刹で飾られた燈籠が元祖であった。今も民俗行事の津軽のねぶた、山鹿の灯籠踊、京岩倉の灯篭舞などは、こうした流れの上にある。「立版古」が夏だけの遊びであるのも、ここから来ている。「立版古」は「立版行」と記すのが、本来正しかったと思われる。「たてはんこう」が本当の呼び方であるが、約って「たてはんこ」となり、「は」を濁音にして 「たてばんこ」ともいう。「版行」(はんこう)は「刊行」と同義、「出版物」のことである。江戸時代には、書物、版画は「版行」「版行物」とも言っていた。版画を切り抜いて立てるので「立版行」と称するようになり、「切組燈籠」の略称として広く通用したのである。「立版古」の「古」は当て字である。いま「立版古」の遊びは滅んでしまったが、「俳句歳時記」の夏の季題に、かろうじて生命を保っている。五、二

表記そのままを記す。以下同断)   (長谷川)貞信画大阪心齋橋安堂寺町北入冨士政七板(版面の   大  しんぱん伊勢音頭恋の寝釼古市之段切組燈籠二枚続き   「伊勢音頭恋寝刃」は近松徳三作、

寛政八年(一七九六)初演の歌舞伎狂言、筋立てが巧妙で舞台が面白く大当りを取った狂言である。以来、東西の歌舞伎界で繰返し上演、人口に膾炙している。本作は、その古市油屋の場を「立版古」にしたものである。劇の主人公福岡貢は紛失した主家の宝刀を詮義している。貢に馴染みの遊女お紺、貢に恋慕する醜女の遊女お鹿、意地悪の仲居万野ら油屋の女性、刀を盗んだ悪者の徳島岩次、徳次、藍玉屋北六、さらに貢の家来料理人喜助が加わり、遂には惨劇に至る、その情景を取材している。油屋の二階座敷と階下座敷に八名の人物を配し、複雑な家屋構造が巧妙に作られ、人物描写が真に迫り、こうした精妙な描写は長谷川貞信の最も得意とする所であった。貞信の代表作の一つと言ってよい作品である。余談であるが、庭先の手水鉢の銘が「東呉」としてある。「東呉」はその頃大阪ミナミ阪町の有名な料亭で、〝東呉の鰻〟が著名であった。同時期の同一版元の貞信の他の作品に、同じく東呉の手水鉢を画いたのが存在するので、版元と画師と料亭の三者提携のコマーシャルだったのである。そのユーモアがよろこばれたのであろう。「立版古」は第一枚目の版面の隅に「組上の図」(出来上り図)が必ず画いてあり、それを見ながら、各部品に付けてある合印にしたがい、組上げる。貞信の

(9)

作品には刊行年月を記してないことが多く、本作は恐らく明治初年の作。長谷川貞信は大阪の立版古作りの第一人者である。

五、三

さず)   極  新板歌舞伎大芝居切組燈籠貞信画(三枚続き。版元名を記   芝居小屋の舞台が出来上る「立版古」である。大へん珍しい作品で、この「立版古」の残っていたのは奇蹟的と言ってよい程の貴重品である。江戸時代の大阪道頓堀の「中の芝居」(中座)「角の芝居」(角座)の舞台を模しているのであろう。組立てると、間口三八センチ、高サ三二センチ、奥行一五センチ、廻り舞台直径八センチの雛型が完成する。精巧に作図されているので、あたかも本物の芝居小屋に接している感がある。正面、舞台上部に〝にらみ鯛〟を据え、両脇に大手、笹瀬の紋がある。大手・笹瀬は江戸期大阪の代表格の贔屓連の名称、丸に大手の二字、笹竜胆(ささりんどう)に「せ」の一字、この二つの紋所は、大阪の芝居に吉例の付き物であった。その下、一文字幕(横幕)に「惣座中江」とする。上手・下手の出入り口、義太夫の床、御簾内の囃子方、舞台上部の吊り枝が備わる。下手出入り口の揚幕は「イ菱」中村雁次郎の紋である。雁次郎が人気役者になった明治二十年代の作と推定され、長谷川貞信の立版古としては後期の作品である。版元名を削り去った跡が見え、再摺品である。画面の隅に、舞台の引幕(大幕)、浅黄幕、吊り枝の替り品、舞台にのせる役者の芝居は、別に注文を受けて画くと、画家の追記がある。いずれにしても、大阪の伝統的な芝居小屋のカタチが写され、慶賀すべきことである。

五、四

    目十四番地辻亀綱島亀吉梓明治十九年月日出版   組   上燈籠田舎源氏古寺之図梅堂国政筆(東京)馬喰町二丁

  本作は柳亭種彦の連作小説「偐紫田舎源氏」(にせむらさきいなかげんじ)の一場面に取材している。「偐紫田舎源氏」は、文化一二年 (一八一五)に初篇が出て、三八篇まで続刊、紫式部の源氏物語の世界をとり入れ、大当りしたベストセラー小説である。古寺の場はその第六篇で源氏の君と夕顔の関係を模して物語が展開する。主人公「光氏」が心を寄せる「黄昏」(たそがれ)と野中の古寺に宿る。光氏の仇し心を恨む母の「凌晨」(しののめ)は、鬼女の姿を装い、光氏を刺そうとする。が、修験者に遂に折伏される。画師梅堂国政の作であるが、梅堂の作品はきわめて大振りなのが特色で、本作も間口七五センチ、奥行四五センチの大作である。荒れ果てた古寺、奥座敷の源氏車の豪奢な襖も凄惨な有様、破れ天井、屋根の雑草、縁の蜘蛛の巣、薄気味悪い古井戸、夕顔棚、地蔵尊、月明りも薄暗い。怪しい情景の中に、鬼女、光氏、黄昏、修験者の四人が居る。細部の描写が行届いて、とても良く出来た作品である。立版古は大半以上が歌舞伎芝居に取材するが、本作を歌舞伎で上演したかどうか。怪奇物として独自のものであろうと推量する。因みに、梅堂国政は、明治期の東京の立版古界の第一人者である。五、五

二枚)   組  (牧金之助刊三枚、辻亀綱島亀吉刊上ゲ燈籠舞台附物五枚   全五枚であるが、一枚一枚発行年月の異なる単独作品である。全作とも画者名なし。ここでは五枚が一体となった作として扱う。個々の名称と刊年、次のとおりA.組上け燈籠舞台附物  明治三一・三・二四発行B.組上燈籠附属絵  明治二七・八・一八発行C.組上ケ燈篭舞台附物  明治三三・五発行

   (以上三枚)東京浅草区南元町十五番地  牧金之助刊D.組上附属電機燈  明治二七・五発行E.組上附属霞の図  明治二六・七発行(以上二枚)東京日本橋区若松町十五番地両国深川屋尾関

(10)

亀吉刊

  Aは歌舞伎裏方の人たちが描かれている。浄瑠璃床(太夫と三味線)、大薩摩、長唄三味線、狂言方、つけ打、黒ん坊、下座囃子方(大太鼓、三味線、唄方、笛)の全一一名である。別に「大入」の大きい看板一枚。Bは画面を二分、右に一文字幕(花卉模様)、左に引幕を舞台上手、下手に寄せて束ねた所、上手は「しん上」の文字と熨斗の図、下手は団・菊・左・芝翫の紋を散らす。Dは画面を二分、右は電機燈の立版古、劇場の天井から吊下げるシャンデリヤ風の洋燈、風俗資料として大へん珍らしい。左は一文字(花卉模様)。C・Eは霞の図。Cは朱色、Eは紫色。舞台の背景に霞模様として使用するものらしい。東京独自のものか。大阪ではついぞ見たことがない。

五、六

  馬車組上

三枚次ぎ  文部省製本所発行

  立版古は「芝居もの」「風物もの」「風景もの」の三つの分野が作られたが、この洋風馬車は「風物もの」に属し、しかも開化の風物を写して、じつに貴重な風俗資料である。文部省監修であるのも権威付ける。作品としても良く出来ている。車上に紳士・淑女が座し、手綱を引く御者が鞭を振るう。馬は黒いマスクで眼かくしされている。従来の立版古世界では見ることのなかった、まさに文明開化の華と言うべきであろう。民間製の立版古は紙面一杯に描き込んであるが、これは余白を充分に取った所は、さすが官製というべきか。

五、七

  結語

  以上「立版古」の定義を述べ、佐藤家所蔵の個々の作品の説明を記した。佐藤家蔵品は小さなコレクションであるけれど、顕著な特色は、舞台機構に関わりある作が、意図的に集められたと見られることである。立版古の中でも特に変り種であるこれらの作品は、佐藤駒次郎氏が蒐集されたのであろう。長年にわたり北陽浪花をどりを監修し て来られた佐藤駒次郎氏は、舞台装置にも特に関心をもっておられたのである。だから佐藤コレクションに、これらの品があるのだと思う。

むすびにかえて   以上、佐藤家所蔵の一枚摺物のうち、北の新地の舞踊や舞台と関りが深いと思われるものについて叙述した。最後に、舞台作成をめぐる駒次郎と田中良他との交渉に触れておきたい。田中は駒次郎に対し、参考資料の提供を求めることがあった。

  昭和三年三月一二日、田中は駒次郎に葉書を送り、次のように依頼している。例の灘波橋及北浜辺のビルデングの参考写真が御手に入りましたら、至急御送り願へますまいか。但小生の大阪行は四月始めになりますから、或は此の場だけの下絵が其れからに願へれば尚結構、さすればスケツチを致します。右御願迠。

 21)

  田中は、同年五月の第一四回北陽浪花踊、第六場「大大阪」の舞台下絵を描くため、「灘(難の誤)波橋及北浜辺のビルデングの参考写真」を駒次郎に求めたのである。また、昭和九年四月一三日消印の葉書では、駒次郎に次のように報じた。「千代の盃」夢の泡雪の舞台下絵の写真、御送り下されまし御使、今正に拝掌仕りました。

 22)

  「千代の盃」は同年の第二〇回北陽浪花踊の題名で、

「夢の泡雪」は第五場である。舞台下絵は田中の作品だが、それが約半月後の開演を控えて駒次郎の手許にあるのを、何らかの事情で田中側に参照の必要が生じ、写真撮影と送付を依頼したのであろう。

  田中良以外にも、駒次郎から資料の提供をうけた者がいる。作歌者・木村富子(一八九〇~一九四四)は、昭和九年十二月十六日付の葉書で、駒次郎に「踊の御本」の礼を述べた。

(11)

先頃はまことに失礼申上候。又御多忙の折柄、わざ〳〵踊の御本をお送りいたゞき、難有御礼申上候。前節お約束の舞踊台本、本日出来いたし、ともかくも花柳家元へまでさし上げ置候。

 23)

  また同一二年一月二〇日付の葉書にも次のようにみえ。作歌のための資料を求めている。早速ながら、第二と第八、をんごくの唄だけがわかりかねますので、以上二つだけ御教示いたゞきたうぞんじます。田中先生にもおたづねいたしましたが一寸わかりませんので、お手数ながらよろしく御願申上げます。他の方はどうやら出来さうで御座います。

 24)

  岡鬼太郎(一八七二~一九四三)も、駒次郎から書籍の提供を受けたらしい。昭和三年二月二三日付葉書に次のように見えるが、作歌のための資料であったかどうかは未詳である。次にかねて恩借の御書籍、長らく留置申訳無御座候が、数日内ニ鉄道便にてなりと精々注意の上御返納可申上。

 25)

  以上のように駒次郎は、北の新地で上演される舞踊の舞台美術家・作歌者・振付者らと緊密な連携を取っていた。必要に応じて彼らに提供するため、日ごろから資料の蒐集を心がけたであろうし、そのことがまた彼自身の識見を高め、より優れた舞台芸術を生み出す原動力となったことは想像に難くない。舞台機構に関りのある立版古を集めたことも、踊りや芝居への強い関心を示すものである。佐藤駒次郎は花街の一経営者に過ぎなかったが、本稿で紹介した一枚摺物は彼の舞台にかける熱情を今日に伝えている。大阪北の新地の一つの特性は、このような人物を技芸責任者に据え

めようと志向したところにあったといえよう。  26)、芸妓の踊りを芸術の域にまで高 【注】

四一、二〇二一.三)を参照。  史料―佐藤家所蔵佐藤駒次郎宛書信(上)」(『人間社会環境研究』  1) 佐藤家については、笠井津加佐・笠井純一「大阪北の新地舞踊関係 の中本である。 子にした『絵本江戸土産』を嘉永三年(一八五〇)に刊行した。和装 同館ホームページによって閲覧した。また広重は、このシリーズを冊  2) 『江戸土産』は、東京都中央区立京橋図書館が所蔵している。本稿では、

三六、二〇一八)、および注 台美術家:田中良―佐藤家史料をもとに―」(『人間社会環境研究』  3) 田中良については、笠井津加佐・笠井純一「大阪花街・北新地と舞

 1)拙稿を参照。

 の第二三回芙蓉会(於日本橋倶楽部)であった。 であり、「広重の絵に題して」と傍題が付されている。上演は同年九月 絃主奏楽」の第一作は、大正八年(一九一九)作曲の「隅田川四季」  4) 杵屋佐久吉『四世杵屋佐吉研究』(糸遊書院、一九八二)によれば、「三    一九五七)。  5) 花柳寿輔「杵屋佐吉さんのこと」(『寿輔芸談』実業之日本社、

に記す。  6) 『花柳舞踊研究会記念画集』(一九三五)は、この曲について次のよう  杵屋佐吉が創始した三絃主奏曲の第一の作品で、広重の絵から暗示をうけて作曲したものです 墨堤の暁色、両国の賑ひ、佃の篝火、木母寺の雪といふ題にて、四季の情景を三味線と一管の笛にて現はした曲ですが、これは、それに振をつけた舞踊であります。

 7) 注  4)参照。なお、〈まつり〉は三絃主奏曲の第二作であった。

 8) 『隅田川八景(復刻版)』(アダチ版画研究所、一九七一)による。

料の一部が散逸した可能性は否定できない。 は未詳だが、戦時下の疎開とその後の数次にわたる引越等を経て、資  9) 佐藤家に「両国橋」および「佃白魚漁夜景」の二点が残されない理由

(12)

定文化財  10) 佃島の白魚漁につては、東京都中央区のホームページから「中央区指

kusei/syokai/tyuobunkazai/shirauokennjyoubako.html)。 12https://www.city.chuo.lg.jp/、白魚献上箱」を参照した(

 11) 『花柳舞踊研究会記念画集』によって掲げた。

年五月)以降であった。  12) 杵屋佐吉が北の新地に関係するのは、第一〇回北陽浪花踊(大正一三 になれる春日野の夜景を配したり」と記されている。 代式に書き現わしたる半井氏の新らしき試みに洋画家田中良氏の考案 番付には場面説明として「日本上古の歌垣と称するもの(中略)を現 ある。田中が参画したのはその第五場「春日の歌垣」だけであった。  13) 第九回北陽浪花踊は全体を「歌絵巻」と称し、第一場から第八場まで

かに描くのが常であった。  14) 田中は衣裳下絵を描くにあたり、人物の容貌までは描かないか、大ま 小学館、一九七五)を参照。  15) 隅田川の「百本杭」については「ひゃっぽんぐい」(『日本国語大辞典』 には、この場面の舞台写真も残されている。  16) 第一七回北陽浪花踊「古今夢絵姿」の第六場「江戸錦絵」。なお佐藤家  17) 『第十八回北陽浪花踊番付』(一九三二)による。

 18) 注  17)に同じ。

未詳である。  19) )田中良『舞台美術』(西川書店、一九四四。但し、舞台や踊の内容は INAX視立体紙景色』、株式会社、一九九三)がある。  術』一二、一九六六)、同「立版古つれづれ」(『立版古―江戸・浪花透  20) 立版古に関しては、肥田晧三「立版古考」(日本浮世絵協会『浮世絵芸

 21) 注 句読点を補った。  1)拙稿登載の翻刻文を参照。なお、本稿での引用に際しては、適宜  22) 注  21)に同じ。

 23) 注  21)に同じ。

 24) 注  21)に同じ。

 25) 注  21)に同じ。

ても北陽だけは一向にそれがない」と記される。 締大西熊吉氏、他廓には事務所演舞場に政争―ちと仰山だが―はあつ 度南地の森下父子と併称すべき人、佐藤氏に一切を任して悠然たる取 て佐藤駒治郎氏がゐた、佐藤氏は在来ずつと北陽の技芸部長として丁 (マゝ) 黒幕には故人小林剛三翁と佐藤お国夫妻が控へてゐた、小林翁を扶け に地味な北陽、芸者の数は少くつても芸自慢の土地柄、その芸自慢の  26)  中井浩水「回頭春の踊り」(『上方』四、一九三一)には、「派手な南地 付記  本稿は、筆者を研究代表者とする科学研究費助成事業「戦前期大阪花街の社会的機能に関する基礎的研究:芸能と社会との関係を中心に」(基盤研究

した。ご学恩とご芳情に、深甚の謝意を表します。 されただけでなく、共著者としてお名前を記すことを許可してくださいま 「五、佐藤家の立版古」は、肥田晧三先生に執筆をお願いしましたが、快諾 いただきました。厚く御礼申し上げます。なお、本稿の基幹ともいうべき 子氏、藤田勝也氏、研究協力者:大西秀紀氏には、貴重なご意見や情報を で概要を報告しました。当日参加された研究分担者:田村義也氏、塚原康 部です。本稿の一~四は、二〇二〇年九月四日、オンラインによる研究会 C18K00925課題番号:、二〇一八~二〇二〇年度)による研究成果の一   また大阪府立中之島図書館には、所蔵資料の一部を図版として掲載することをご許可いただきました。あわせて御礼申し上げます。(笠井純一記)

(13)

1.広重『江戸土産』と「隅田の四季」

図1「隅田つゝみ花さかり」① 図2「木母寺料理屋御前栽畑内川」②

図3「すみた川真乳山の夕景」③ 図4「花屋しき秋のはなその」④

図5「宮戸川あづま橋」⑤

(14)

図6 北陽温習会衣裳下絵(1925.10) 図7 第8回鶯遊会舞台下絵(1934.3)

図8 第1回研究会(1924.4) 図9 第8回研究会(1927.11)

図10 第19回研究会(1934.11)

北の新地衣裳・舞台下絵

花柳舞踊研究会舞台写真「隅田の四季」

(15)

2.「大正十年神田市場江戸天王祭絵巻」摺物と第17回北陽浪花踊

図11 其一「五反大のぼり」 図12 其五「多町の大万燈」

図13 其六「通新石町歳徳神山車」 図14 第17回北陽浪花踊「古今夢絵姿」舞台    (大阪府立中之島図書館所蔵番付)

図17 №65「神田祭 勢獅子」(⑵神田祭)

図15 №18「神田祭 勢獅子」(⑴神田祭) 図16 №39「神田祭 勢獅子」(祭)

№と「 」内は各頁に、( )内は冊子末の索引に、駒次郎が付した題。

佐藤駒次郎「舞台下絵見本帳」

(16)

3.「角倉船」「末吉船」の絵馬複製画と第18回北陽浪花踊

図18 「角倉船」 図19 「末吉船」

図20・21「御朱印船」の舞台背景(番付による)

図22 「御朱印船」の舞台写真

(17)

5.佐藤家の「立版古」

①-1

①「伊勢音頭恋寝刃古市之段」  ②「歌舞伎大芝居切組灯籠」  ③「組上灯籠田舎源氏古寺之図」

①-2

②-1 ②-2

②-3 ③-1

③-2 ③-3

(18)

④-A

④「組上灯籠舞台附物」   ⑤「馬車組立」

④-B

④-C ④-D

④-E ⑤-1

⑤-2 ⑤-3

参照

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