南アジア研究 第28号 012書評・名和 克郎「三尾稔・杉本良男(編)『現代インド6 環流する文化と宗教』」
8
0
0
全文
(2) 南アジア研究第28号( 2016年). 化との交渉を描いていく。 「人々は変化に一方的に呑み込まれてきたわ. けではない」ことを民族誌的に示した優れた論考だが、議論が D 村か らチョードリーへと横滑りしていくこと、にもかかわらず北インドでは 比較的珍しいチョードリーの「女性交換」に起因するこの事例の特異 性を、より広い文脈の中に位置付ける作業を行っていないことが、本 稿をより広い文脈の中に位置づけつつ読むことを困難にしている。 第 2 章(常田夕美子)は、ますます増加する農村から都市、さらに は海外への人の移動を前提として、農村、都市、さらには海外が、変 化しつつある状況の中でいかにつながれているのかを、彼女が親密ネッ トワークと呼ぶものの再構築の過程として描く。社会構造に還元され ない個の間の関係性の再編を詳細に描く作業はそれ自体重要だが、評 者にとって興味深いのはむしろ、常田の民族誌的な記述に現れる、常 田自身の議論の枠組に必ずしも収まりきらないように見える現象であ る。例えば、「いや、彼の嫁は必ず私たち家族、親戚、姻族が決める。 絶対勝手に恋愛結婚はさせない」(58 頁)という語りは、「親密ネット ワーク」のあり方自体が具体的に変容する中で現れる新たな可能性の みならず、それが持ちうる困難さや潜在的な軋轢をも、同時に示唆し ている。こうした点で、親密ネットワークの可能性に焦点を当てた常 田の議論は、その理論的想定を超えて読み直されるべきである。 第 3 章(中谷哲弥)は「デリー都市圏における近隣関係の構築と変 容」と題されているが、実質的には特定の東パキスタン避難民コロニ ーの長期的な変動を論じている。チッタランジャン・パークについての 詳細な記述と分析は、確かに「多様な人口流入によって構築され、流 動的に様々な事象が織りなし交渉する『場』としての都市の性格を如 実に示している」(93 頁)が、この事例が他の形で成立してきたデリー 内及び近郊の様々な居住地に対して持つ特異性、またそれが北インド、 インド、さらには南アジアの都市の特徴、そして都市一般に関する理 解の更新にどのように結びついていくかは、論じられていない。 第 4 章(高田峰夫)は、南アジアからの移民史を概観した後、タイ の二つの南アジア系移民コミュニティ、チエンマイのバングラデシュ系 ムスリム・コミュニティ及びバンコク、プーケットの「ネパール人」コ ミュニティの事例を取り上げる。高田は結論部で「ネパール人」の移 動について、「彼らはネパールの片田舎からたとえばプーケットに軽や. 136.
(3) 書評 三尾稔・杉本良男 (編) 『現代インド 6 還流する文化と宗教』. かに移動するが、その移動ルートを見るならば、カトマンズの知人宅、 バンコクの空港近くの親戚宅等の非常に密な人間関係に根差した場を 飛び石のように移動するのであって、決して何のしがらみもない、無 色透明の空間を駆け抜けるわけではない」(116 頁)と論じる。常田の 論文とも重なるこの指摘により、問いは再び、「宗教や民族、家族関係 等に根差した具体的な個人間のつながり」、「その総体たる南アジア的 人間関係のネットワーク」(117 頁)の内実へと戻っていくのだが、 「南 アジア的」「総体」を論じることの是非については、ここで一度立ち止 まって考えるべきではないか。むしろ本章は、「インド」や「南アジ ア」といった枠組を相対化する論考としても読める筈である。 第Ⅰ編の四つの論文が、基本的には自らのフィールドワークに基づく 民族誌的なものであったのに対し、第Ⅱ編「インド的なるものをめぐる ポリティクス」からは、主に文献レヴューに基づく論文も登場する。第 5 章(松川恭子)は、1990 年代以降のインドの新しいメディア状況の形 成を、衛星放送導入等によるメディア独占の終焉とその帰結、携帯電 話の普及と社会への影響、インターネット上の社会関係、の三点につ いて概観する(ただしインターネット関係の紙幅は少ない)。「現在」 という語に曖昧性が付きまとうのは、先行研究に基づく記述が大部分 を占めるため致し方ないとも言えるが、やはり気になる。また、「イン ド」イメージの変容や多元化を論じるなら、具体的な番組内容の分析 が欲しい。なお、インターネット電話が「実家の両親や夫が、一人で いる時の女性の行動を監視するという意味合いを持つ」(145 頁)とい う指摘は、常田が焦点を当てた事象の裏面を照らし出している。 インドの舞踊文化の(あるいは「と」)グローバル化の問題を扱う第 6 章(竹村嘉晃)は、植民地期以降のバラタ・ナーティヤムの再編成と 変容、インド人移民コミュニティのみならずトランスナショナルなネッ トワークとの接続により生じたグローバルな循環とさらなる変容、さら にそのインドへの環流のプロセスを跡づける。「インドの身体技法を基 盤とし、欧米社会における芸術世界で生成されたこれらの作品は、西 欧芸術的な価値づけや規範と共に再びインドに『環流』している」 (176 頁)というのが本稿の結論であるが、この事態を逆に見れば、西洋の 「芸術」概念がインドに至って変容を遂げ、西洋に環流する過程とも捉 えられる。この二つの立論の一方により、他方よりもドラスティックな. 137.
(4) 南アジア研究第28号( 2016年). 変容が描かれるのであれば、そこには明らかな不均衡が存在することに なる。この点は、後に論じる「環流」という語の妥当性の評価に直結 する。 第 7 章(杉本星子)は、インドの布とモードファッションを扱う。「グ ローバルなファッション市場で高く評価されるインドのモードファッ ションを特徴づけるのは、伝統と現代の融合であり、それはインドの 伝統的な手仕事の技すなわち手工芸によってつくりだされる」 (189-190. 頁)という出発点にも拘わらず、実際に論じられるのは、インドの布 とりわけ「カーディー」を巡る植民地期以降の視線と実践の交錯の歴 史であり、それにより生じた様々なアンビバレンスや逆説的事態の連 鎖である。「かつてインドの独立運動のシンボルであったカーディーは、 グローバルなファッションの環流のなかで、ナチュラルな価値をまとう 贅沢な手仕事の象徴となった」(210 頁)という結論は、第 6 章のそれ に比べて顕著にアイロニカルな調子を帯びている。 こうしたアイロニカルな視線を最も強く宿しているように思われる のが、第 8 章「『インド』をめぐる知の変容」(杉本良男)である。「わ れわれのインド・イメージは、西洋出来の『インド』を内在化したイ ンドのエリート知識人を通じた、東西の相互作用の結果としての想像 と創造の産物である……。そのうえで、人類学が検討すべき課題は、そ うしたイメージがエリート知識人を通じてイデオロギーとして現実的 な意味をもち、さまざまな問題を引き起こしていることを、あくまでも その実態に照らしながら、東西の『知』のあり方そのものにまで定位 して批判的に検討することである」(220 頁)という二文が、本章の企 図を余すところ無く伝えている。だが、例えば執筆者が「ガーンディ ーは、南アフリカで自らのインド人性に目覚めたのち、いかにもヒンド ゥー古典哲学に通暁しているかのごとくふるまった。……ガーンディー のヒンドゥー教、ヒンドゥー哲学への理解はそれほど深いものではなか ったが、イメージ戦略は功を奏し、現在もインド・ナショナリズムの 精神的支柱として崇め奉られている」(231頁)と書く時、強い違和感 を禁じ得ない。そもそも著者は如何なる基準で、彼のヒンドゥー哲学 への理解の深さを測定したのだろうか。恐らくここで生じているのは、 西洋起源のインド学の成果への、間接的で無自覚なただ乗りである。桂 紹隆は、本シリーズ第 5 巻でアンベードカルの仏教理解を再検討する際. 138.
(5) 書評 三尾稔・杉本良男 (編) 『現代インド 6 還流する文化と宗教』. に、「仏教の長い歴史のなかで、仏教徒たちは、常にブッダの教えの原 点に戻りながら、それぞれの時代と土地に相応しい仏教を再構築して きた」(70 頁)と論じる。ここで「ブッダの教えの原点」を実体的に 前提することの危険性を指摘することは容易だが、もしその部分にカ ギカッコをつけられるとしたら、学ぶべきは、現代の文献学者のこうし た姿勢ではないだろうか。自らの言葉と思考に切り込むことなく超越 的に振る舞おうとする「系譜学」は、オリエンタリズムの無自覚な頽 落形態に他ならないからだ。 第Ⅲ編が扱うのは宗教である。第 9 章(山下博司)は、東南アジア へのタミル系移民の歴史を前提として、マラヤ地域におけるヒンドゥー 寺院のあり方の変化を「アーガマ化」の概念を一つの核として記述し、 さらに東南アジア等国外に司祭を送り出すインドの養成学校について、 自身の調査に基づき、タミルナードゥの政治の変遷との関係等も含め 詳細に論じている。下されるのは、 「寺院ヒンドゥー教には……国外の 信仰現場で生成された価値・理念・形式等がインドにフィードバック されて、変容を促す力として機能するという意味での環流現象は確認 し難いように思われる」(268 頁)という慎重な結論である。 「現代インドのムスリムが求める生活空間」という副題にも拘わらず、 第 10 章(山根聡)は近現代のインド・ムスリム知識人の生み出した言 説と実践の変遷を丁寧に歴史的に辿っている。終始強調されるのは、伝 統墨守派、スーフィー教団、復興派、近代主義派に大別されるイギリ ス直接統治以降のインドのムスリム社会における、近代以降に台頭し た知識人層の重要性である。イスラーム国家パキスタンで宗派間の軋 轢による国民の分断が生じているのに対し、インドではヒンドゥーとム スリムという対立が前景化し、ムスリムは(一部プロパガンダの主張 とは異なり)国外のムスリムとの政治的な強いネットワークを持たず、 むしろ「善きインド人」像を国内向けに発信することに関心を注いで いるという議論は、本シリーズの基本的トーンとは逆に、「近代」的な 境界生成の力の強さを示している。 第 11章(サガヤラージ アントニサーミ)は、オディシャー州で2008 年に生じたコンダマル事件を事例として、インドにおいて「ヒンドゥ ー教」対「キリスト教」の「宗教対立」と一般に見做されてきた事象 を、そうした枠組に還元せずに捉える視点を提示する。現地のアーデ. 139.
(6) 南アジア研究第28号( 2016年). ィヴァーシー、ダリトの社会・政治・経済状況の変化を背景として、そ こで生じた軋轢を利用する形でサング・パリワールが扇動を行った結 果事件が生じた、という図式は判りやすいが、暴動に加わった人々は、 扇動に易々とのせられる人々としてのみ描かれることになる。結論部 が、宗教とナショナリズムを巡る込み入った問題を飛ばして、「ナショ ナリズムを伴わない文明化ミッションを現代インドにおいてモデル化 出来るか」が宗教間に和解を生み出す可能性の鍵になるとしている点 にも、ナショナリズムと「宗教」的対立を単純に直結させている点で、 違和感がある。 第 12 章(三尾稔)は、異なる宗教を架橋する宗教実践が行われる特 定の場に着目し、それをカリサーズのポリトロピー(向複性)概念を 用いて論じている。宗教的アイデンティティの曖昧さや複数性への着目 の重要性に評者は賛同するが、 「生活から生じる苦悩を解決し望みをか なえる実践こそ宗教性の根本」(330 頁)だという本質論が、それに必 要だとは思えない。また、向複性をもった宗教実践の存在と、暴力的 紛争との逆相関が示唆されるが、暴力的紛争がいとも簡単に向複性を 持った在地の実践を破壊しうることは、全ての南アジア研究者にとっ て周知の事実ではなかろうか。外川昌彦は、本シリーズ第 1巻で、「異 質な文化への寛容性の実践が、しばしば他者への無関心の態度にも結 びつ」き、 「たとえ相互に不干渉の立場が表明されたとしても、異質な 言説を排除しかねない抑圧として作用する可能性がある」、従って「異 質な文化の接触を『宗教的寛容性』や『多様性社会』と説明すること は、そこに潜む宗教的な本質をめぐる競合や対立の契機を見えなくす ることにつながる」(275 頁)と論じている。この議論は向複性の単純 な称揚への異議申し立てと読むことが出来る。 なお、グローバル化のもたらした諸条件が場の固有性を浸食する可 能性についての三尾の両論併記的な議論は、池亀彩(補論 8)の「現 代のメディア技術は、グルの神聖な超越性とグルとつながることができ るという直接性とが同時に成立することを可能にしているともいえる。 インターネットやさまざまな複製技術はグルのオーラをある意味では 復活させているのかもしれない」(279 頁)という議論と対照をなして いる。なお評者自身は、媒体は向複的な宗教実践に対して中立だと考 えている。. 140.
(7) 書評 三尾稔・杉本良男 (編) 『現代インド 6 還流する文化と宗教』. 最後に、以上の検討を踏まえて序章(三尾稔)に戻り、そこから本 書全体を振り返ってみよう。序章の主題は「環流」であり、そこで注 目されるのは、「欧米を中心とせず、地球大の人・情報・モノの流動に よってインドから移出した実践や言説が流動した先々で相互作用を起 こして変質し、再び発信地に戻ってその文化状況をも変えてゆくよう な動き」(7 頁)である。だが、この図式には極めて明白な欠落がある。 例えば「インド発のファッション」は、確かにインド出身のデザイナー によりインドの辺境的とされる地方の衣装の素材等を用いて売り出さ れたものである。だが「環流」の枠組では、それらが「インド発」の ものとして出ていく以前に、インドに「ファッション」を売り出す「デ ザイナー」が登場するに至る変化、例えば欧米の制度や概念枠組の受 容の歴史が、いとも簡単に不可視化されてしまう。してみると「環流」 とは、インドと西洋その他の間の相互交渉の長い過程のある時点を無 理矢理出発点として措定することで、何事かを無理矢理「インド発」 のものと見做すことによって初めて見出される、恣意的な事象の切り 取りではないだろうか。全てを西洋の側から説明する類のグローバル 化の議論に抗しながら、 「環流」なる語彙は、それと同形の問題を、期 せずして含み込んでしまってはいないだろうか。加えて、「インドは文 化を表象し流布させる主体となっている」(11頁)といった言い方を、 評者は全く理解出来ない。実際に表象し流通させる主体は、特定のグ ルやデザイナーからインド政府まで様々であろうが、それらを「イン ド」というあいまいな語で置換することは、実際の環流過程の詳細と、 必ずしもインド起源でないその基盤や前提条件とを、二つながらに見 えなくしてしまう。三尾はコロニアルな関係性と現代のそれの断絶を 論じることでこの点を乗り切ろうとするが、環流が生じる前提となる 「人や情報のネットワーク」自体を「インド」なるものから論じること には、時代を問わずかなりの無理が生じるように思われる。 誤解を招かないよう繰り返すが、本書の個々の論文から評者は多く を学んだ。だが、常に「インド」を出発点として「環流」を論じるこ とは、一方向的なグローバリゼーションの議論への異議という、新味 はないが繰り返す価値のある議論を再提起することは出来ても、生起 し続ける現象の一部分を恣意的に切り取ることでその諸起源を覆い隠 してしまうが故に、結果として本書が本来目指している筈の方向性に. 141.
(8) 南アジア研究第28号( 2016年). 逆行する効果を生んでしまうのではないか。こうした陥穽に落ち込むこ となく、逆に、構築された高みからのアイロニカルな論評に終わるこ となく、また「インド」という主語を必要以上に立てることなく、よ り限定されない視野から、必ずしもインド発ではないが何らかの意味 でインドにかかわって変容しつつ循環する人や事物や概念の流れとし ての「環流」現象を、より総体的に捉えることが求められている。そ して、本書に収録された論考の多くは、実質上そうした広義の「環流」 現象を論じたものとして読むことが出来る。 なわ かつお ●東京大学. 142.
(9)
関連したドキュメント
ケイ・インターナショナルスクール東京( KIST )は、 1997 年に創立された、特定の宗教を基盤としない、普通教育を提供する
インドの宗教に関して、合理主義的・人間中心主義的宗教理解がどちらかと言えば中
突然そのようなところに現れたことに驚いたので す。しかも、密教儀礼であればマンダラ制作儀礼
仏像に対する知識は、これまでの学校教育では必
の原文は“ Intellectual and religious ”となっており、キリスト教に基づく 高邁な全人教育の理想が読みとれます。.
信号を時々無視するとしている。宗教別では,仏教徒がたいてい信号を守 ると答える傾向にあった
﹁地方議会における請願権﹂と題するこの分野では非常に数の少ない貴重な論文を執筆された吉田善明教授の御教示
● 生徒のキリスト教に関する理解の向上を目的とした活動を今年度も引き続き