寛政期における岸和田藩の七人庄屋
著者 萬代 悠
雑誌名 人文論究
巻 64
号 2
ページ 1‑27
発行年 2014‑09‑20
URL http://hdl.handle.net/10236/12440
寛 政 期 に お け る 岸 和 田 藩 の 七 人
庄 屋
萬 代
悠
は じ め に 本稿
は︑ 南泉 州︵ 和泉 国南 部︶ に位 置し た岸 和田 藩の 地方 支配 と︑ それ を支 えた 七人 庄屋 の基 本的 機能 につ いて 検 討 を加 える もの であ る︒ 南泉 州は
︑織 豊期 から 近世 初期 まで
︑戦 乱に 巻き 込ま れる こと が多 かっ た︒ 羽柴 秀吉 の根 来討 伐︑ 大坂 夏の 陣に 伴 う 樫井 合戦 は︑ その 最た る例 であ る︒ そこ で活 躍し たの は︑ 中世 以 来の 土 豪 層 であ っ た⑴
︒ 彼 らの 多 く は︑ 合戦 を 経 験 した
﹁郷 士﹂ とし ての 自覚 を持 って いた 一方 で︑ いわ ゆる 小領 主と して 在地 社会 に君 臨し てい た⑵
︒ こ の点
︑岩 城 卓 二 氏は
︑幕 府 に よる 畿 内 近国 の 軍 事 拠点 化 と いう 観 点 から
︑徳 川 系 大 名領 の 配 置を 論 じ てい る⑶
︒ そ こで は︑
①畿 内近 国に 配置 され た徳 川系 大名 には
︑小 領主 を取 り込 み︑ 在地 社会 を掌 握す るこ とが 期待 され てい た こ と︑
②元 和五 年︵ 一六 一九
︶に 松平 康重 が岸 和田 藩主 とし て配 置さ れた のは
︑幕 府が 畿内 近国 の軍 事拠 点化 を進 め る ため であ った こと が指 摘さ れて いる
︒ で は︑ 岸 和田 藩 は︑ 旧 土豪 層 が 多数 存 在 し た南 泉 州 で︑ どの よ う に在 地 社 会 を掌 握 し て い っ た の か︒ 松 平 時 代 に は
︑旧 土豪 層で ある 八人 が郷 士代 官・ 代官 庄屋
・筆 頭庄 屋と し て登 用 さ れ︑ 八 人庄 屋 制 が成 立 し た⑷
︒ その う ち︑ 郷 一
士 代官
・代 官庄 屋の 六人 が藩 領村 々を 分割 して 支配 して いた が︑ 寛永 一七 年︵ 一六 四〇
︶に 入封 した 岡部 宣勝 は︑ 八 人 庄屋 制を 廃止 した
︒そ の後
︑八 人庄 屋を つと めた 五家 に︑ 新た に二 家が 加わ る形 で七 人庄 屋制 が確 立し た︒ 七人 庄 屋 は︑ 岸和 田藩 の地 方支 配を 支え る重 要な 役職 とし て︑ 創設 以降
︑近 世を 通じ て存 続し た︒ 岸和 田藩 は︑ 旧土 豪層 を 地 方支 配機 構の なか に取 り込 み︑ 彼ら を利 用す るこ とで
︑領 内支 配を 確立
・展 開し てい った
︒ この よう に七 人庄 屋は
︑岸 和田 藩の 地方 支配 の中 核 を 担い
︑い わ ゆ る政 治 的 中間 層 と し て機 能 し てい た と され る
︒ し かし
︑そ の研 究は
︑摂 州尼 崎藩 や紀 州和 歌山 藩の 大庄 屋研 究に 比べ て︑ 大幅 に停 滞し てい ると いっ てよ い︒ 川上 雅
︵ 庄︶
氏 によ れば
︑﹁ 七 人庄 屋は
︑代 官荘 屋と はち が って
︑そ れ ぞ れの 支 配 郷村 を も た ず︑ 毎月 岸 和 田郷 会 所 につ め て︑ 郡 代 の 諮 問 に応 じ
︑農 政 全般 に 参 画﹂ して い た と さ れ る が
︑七 人 庄 屋 の 基 本 的 機 能 は 十 分 に 検 討 さ れ て い な い⑸
︒ 一 方
︑七 人庄 屋の 格式 につ いて は︑ 比較 的研 究が 積み 重ね られ てい る︒ そこ では
︑七 人庄 屋の 帯刀 をめ ぐる 大坂 町奉 行 所 の対 応︑ ある いは 七人 庄屋 の序 列や 格式 の獲 得過 程が 明ら かに さ れた
⑹
︒し か し︑ 七 人 庄屋 の 基 本的 機 能 が検 討 さ れ てい ない ため
︑七 人庄 屋に 対す る格 式付 与と 七人 庄屋 に求 めら れて いた 機能 とが どの よう にか かわ り合 うの か︑ と い う課 題が 残る
︒そ もそ も︑ 岸和 田藩 の地 方支 配の 基礎 構造
││ 中間 支配 機構 のあ り方
││ すら 現段 階に おい て十 分 に 解明 され てい ない ので ある
︒ そこ で本 稿で は︑ 七人 庄屋 の一 人で ある 要源 太夫 家を 中心 に︑ 七人 庄屋 の基 本的 機能 を検 討し
︑七 人庄 屋へ の特 権 免 許 と 七 人庄 屋 の 機能 と を 統一 的 に 把 握す る こ とを 目 的 と す る⑺
︒こ れ は
︑岸 和 田 藩 が 旧 土 豪 層 を ど の よ う に 利 用 し
︑い かに 領内 支配 を展 開し てい った のか を 解 明す る 試 みで あ る︒ な お︑ 本稿 の 対 象 時期 は
︑寛 政 期を 中 心 とし た
︒ そ の理 由と して は︑
①本 稿で 主に 検討 する 要源 太夫 家は
︑寛 政元 年︵ 一七 八九
︶に 七人 庄屋 とな るこ と︑
②寛 政元 年 以 降︑ 七人 庄屋 の格 式が 明確 化・ 序列 化さ れて いく こと が挙 げら れる
︒
寛 政 期 に お け る 岸 和 田 藩 の 七 人 庄 屋
二
一 岸 和 田藩 の 地 方支 配 本章
では
︑岸 和田 藩の 地方 支配 機構 を確 認し
︑七 人庄 屋の 存在 形態 を概 観す る︒ 岸和 田藩 は︑ 大坂 と紀 伊国 のほ ぼ中 間に 位置 し︑ 泉州 南郡
・日 根郡 にま とま った 所領 を有 して いた
︒元 和五 年︵ 一 六 一 九
︶︑ 小 出吉 英 に 代わ っ て 松平
︵松 井
︶康 重 が 丹波 国 篠 山か ら 五 万 石 で 入 封 し た︒ 寛 永 八 年
︵一 六 三 一
︶に は
︑ 所 領に 良田 が多 いこ とを 理由 に︑ 石高 二 割 増し が 認 めら れ
︑表 高 六万 石 と な った
︒寛 永 一 七年
︵一 六 四
〇︶
︑岡 部 宣 勝 が摂 津国 高槻 から 六万 石で 入封 した
︒寛 文元 年︵ 一六 六一
︶に は︑ 二代 目の 岡部 行隆 が弟 に分 知し たた め︑ 以後 岸 和 田藩 は五 万三
〇〇
〇石 とし て幕 末期 まで 続い た︒ なお
︑史 料的 制約 から
︑松 平時 代の 八人 庄屋 制の 実態 を解 明す る こ とは でき ない
︒そ のた め本 稿で は︑ 岡部 時代
︵特 に一 八世 紀以 降︶ の地 方支 配を 検討 して いく
︒ 岸和 田藩 の地 方支 配は
︑郡 代が 代官
・地 方・ 池川 方・ 宗旨 方を 統括 する 形で 行わ れて いた
︒か かる 藩役 人と
︑領 民 と の間 を媒 介す る役 職と して
︑七 人庄 屋が 置か れて いた
︒七 人庄 屋に つい ては
︑① 苗字 帯刀 を許 され
︑一 般の 庄屋 と は 異な る待 遇を 受け てい たこ と︑
②い ずれ も 各 村の 庄 屋 であ る と 同時 に
︑﹁ 大 庄 屋の 役 割﹂ を 果た し て いた こ と︑
③
﹁藩 と領 内村 々と の上 意下 達・ 下情 上申 の仲 介を する こと が第 一の 職務
﹂で あっ たこ とが 指摘 され てい る⑻
︒ また
︑岸 和田 城内 の﹁ 御勘 定所
﹂の 一角 に設 置さ れて いた 郷会 所︵ 会所
︶が
︑藩 の地 方支 配を 担う 重要 な役 割を 持 っ てい た⑼
︒ 郷会 所は
︑七 人庄 屋を 中心 に領 内の 庄屋 が必 要に 応じ て 参会 し
︑様 々 な 合議 を 行 う集 会 所 であ っ た︒ 特 に 七人 庄屋 は︑ 藩役 人か らの 諮問 に対 して 答申 を行 うた めに
︑郷 会所 で合 議を 行い
︑領 内の 村々 の意 向を 集約 して い た とさ れる
︒一 方︑ 岸和 田城 三の 曲輪 にあ った
﹁御 勘定 所﹂ の敷 地内 には
︑郷 会所 であ る別 棟と
︑様 々な 藩役 人が 詰 め る本 棟が 存在 した
︒郷 会所 は︑ 藩の 郷 中︵ 地 方︶
・町 方 へ の取 次 機 関で あ っ た︒ 他 方︑ 藩役 人 の 触は 郷 会 所を 介 し 寛 政 期 に お け る 岸 和 田 藩 の 七 人 庄 屋
三
て 伝達 され たが
︑毎 年伝 達さ れる 領内 村々 への 連絡 事項 は︑ 郷会 所の 名義 で触 が伝 達さ れる こと が多 かっ た︒ 以上 か ら 藩役 人は
︑郷 会所 を軸 に地 方支 配を 行っ て い たと い え る︒ とり わ け︑
﹁ 領内 統 治 の 民政 機 関﹂ と して の 機 能を 持 っ て いた 郷会 所は
︑藩 役人 の指 示・ 伝達 を媒 介す るだ けで なく
︑領 内の 庄屋 が合 意形 成を 図る 合議 の場 であ った
︒ しか し︑ 郷会 所に 交替 で詰 め︑ 支配
│被 支配 間の 調整 的機 能︵ 矛盾 回避 機能
︶を 果た して いた とさ れる 七人 庄屋 の 存 在形 態に つい ては
︑い まだ 不明 な点 が多 い︒ 七人 庄屋 が︑ どの よう な形 で合 議を 行い
︑藩 役人 への 上申 や意 見の 集 約 をど のよ うに 行っ てい たか は︑ ほと ん ど 解 明さ れ て いな い と いっ て よ い︒ ま た︑ 七人 庄 屋 は︑
﹁大 庄 屋﹂
・﹁ 大 庄 屋 七 人衆
﹂と 紹介 され るこ とが 多か った
⑽
︒そ のた め︑ 岸和 田藩 の七 人庄 屋 制は
︑他 藩 の 大 庄屋 制 に 相当 す る もの で あ っ たと 理解 され る傾 向に ある
︒そ こで 本稿 では
︑尼 崎藩
・和 歌山 藩の 大庄 屋制 との 対比 をし つつ
︑岸 和田 藩の 地方 支 配 と七 人庄 屋︵ 七人 庄屋 制︶ を再 検討 して いく
︒ 岸
和田 藩の 行政 単位 と地 域的 入用 岸和 田藩 領に は︑ およ そ五
〜一 六ヶ 村ご とに 郷・ 庄・ 谷の まと まり があ った
︒こ の九 つの 郷・ 庄・ 谷は
︑中 世以 来 の 郷・ 庄結 合を 継承 しつ つ
︑岸 和 田 藩の 行 政 単位 と し て機 能 し て いた
︵図 1︶
︒ 以下
︑本 稿 で は︑ 郷・ 庄・ 谷と い っ た 一つ 一つ の地 域的 結合 を﹁ 庄﹂ と表 現し
︑藩 領の 村々 全体
︵地 方︶ を﹁ 郷中
﹂と 表現 して おく
︒な お︑ 史料 用語 に し たが え ば︑ 郷・ 庄・ 谷 とい っ た 地域 的 結 合は
﹁郷
・庄
﹂と 呼 ば れ るこ と が 多い が
︑﹁ 郷 中﹂ と﹁ 郷・ 庄﹂ とで は 語 が 似て いて 煩雑 にな るた め︑ ここ では
﹁庄
﹂に 統一 する
︒ 近木 川下 流域 に位 置す る近 木庄
︵現 大阪 府貝 塚市
︶の 場合
︑一 二ヶ 村が 近木 庄に 属し てい た︒ この 一二 ヶ村 は︑ 和 泉 山脈 から 大阪 湾に 流れ る近 木川 に農 業用 水を 求め てい た一 方で
︑近 木川 を水 源と する 栄寿 池を 共同 で管 理し
︑栄 寿 池 から も農 業用 水 を確 保 し てい た⑾
︒近 木 川・ 栄 寿池 か ら 供給 さ れ る農 業 用 水 は︑ 各地 の 溜 め池 に 貯 水さ れ た⑿
︒ 一
寛 政 期 に お け る 岸 和 田 藩 の 七 人 庄 屋
四
二 ヶ村 のう ち︑ 近木 川・ 栄寿 池か ら分 水し た 溜 め池 を共 同利 用す る数 ヶ村 は︑ その 溜め 池 を 管理 する 水利 組合 を形 成し てい た︒ たと え
こ も
ば
︑今 池
・菰 池 か ら 引 水 し て い た 四 ヶ 村 は
︑ 件 番と いう 水利 組合 を形 成し
︑そ の管 理に 当 た っ て い た⒀
︒ この よ う に一 二 ヶ 村 は︑ 近 木 庄 とい う一 つの 地域 的結 合を 形成 して いた 一 方 で︑ 数 ヶ 村 単 位 で 水 利 組 合 を 形 成 し て い た
︒こ うし た重 層的 な地 域的 結合 は︑ 麻生 郷
・ 加守 郷に おい ても 見ら れた ため
︑岸 和田 藩 領 に共 通し てい たと いっ てよ い⒁
︒ 郷・ 庄 的 ま と ま り を 持 っ た 五
〜一 六 ヶ 村 は
︑諸 経 費 を 共 同 し て 支 出
・負 担 し て い た
︒ か かる 庄入 用の 地域 運営 諸経 費に は︑ 領主 御 用 関 係 費 と自 治 関 係費 と が 存 在 し て い た が
︑ 両 者は 明確 に区 別さ れて いな かっ た︒ もっ と も 近木 庄の 場合
︑用 水︵ 栄寿 池︶ 関係 費の 比 重 が 高 か った こ と が注 目 さ れる
⒂
︒近 木 庄 で は
︑各 村の 役高
││ 諸役 免除 分を 差し 引い た
図
1
岸和田藩領における郷・庄・谷の概略図註(1):「貞享元年岸和田藩検地図」(落合保『岸和田藩志』[第
2
版]東洋書 院、1977年)を参考に作成。註(2):岸和田藩領の一部や旗本領、幕府領で何度か領主の変動が見られた が、郷・庄・谷は基本的に本図の枠組みを踏襲していた。
寛 政 期 に お け る 岸 和 田 藩 の 七 人 庄 屋
五
村 高
︵古 高
︶│
│と 各 村 の水 掛 り 高︵ 大池 高
︶に 応 じ て各 村 に 負担 額 が 割り 掛 け ら れた
⒃
︒こ の よ う に︑ 庄 入 用 の な か で用 水関 係費 が大 きな 比重 を持 って いた のは
︑雨 量が 少な い泉 州地 方の 特質 によ るも ので あっ た⒄
︒ 五〜 一六 ヶ村 を単 位と した 庄入 用︑ ある いは 数ヶ 村を 単位 とし た水 利組 合入 用に つい ては
︑そ れら を構 成す る村 の 庄 屋が 一年 ごと に交 替で 算用
・割 付を 行っ た︒ 近木 庄の 庄入 用の 場合
︑毎 年一 二月 に︑ 一二 ヶ村 の庄 屋・ 年寄 が庄 入 用 の 算 用 結果 を 審 議し た⒅
︒そ し て﹁ 支配 割 帳
﹂の 算 用結 果 に 間違 い が な けれ ば
︑一 二 ヶ村 の 庄 屋︵ ある い は 年 寄
︶ 全 員が
﹁支 配割 帳﹂ に連 印し た⒆
︒ 算用
・割 付を 交替 で行 う当 番制
︑算 用結 果 の審 議 に 庄 内の 庄 屋 全員 が か かわ る と い う点 で︑ 庄入 用の 算用 は可 視化 され てい たと いえ る︒ この 点︑ 数ヶ 村で 形成 され る水 利組 合入 用の 算用 も同 様で あ っ た
︒庄 入 用・ 水 利組 合 入 用の 経 費 は︑ 各村 に 割 り 掛け ら れ︑ 最 終的 に は 村 入 用 帳 に 反 映 さ れ た︒ ま た︑ 入 用 帳 簿 は
︑岸 和田 藩の 支配 方役 所に 提出 され
︑算 用結 果に 問題 があ れば 差し 戻さ れる こと もあ った
⒇
︒ 一方
︑岸 和田 藩領 には
︑支 配領 域全 体に 共通 する 経費 であ る郷 中入 用が 存在 した
︒﹁ 郷 中万 支配
﹂な どと 称さ れる
︑ 郷 中入 用の 経費 には
︑① 会所
︵郷 会所
︶詰 役 人 の給 米
︑﹁ 会 所使
﹂で あ る 小者 二 人 分 の給 米
︑郷 会 所の 修 復 費用 と い っ た郷 会所 運営 経費 と︑
②藩 主参 勤の 際の 継馬 経費
︑﹁ 御 用﹂ の際 の寄 合経 費︑
﹁郷 中出 入之 噯之 節万 入用
﹂と いっ た 郷 中全 体に かか わる 経費 が存 在し た︒ 郷中 入用 の算 用結 果の 審議 は︑ 毎年 一一 月に 郷会 所で 行わ れた
︒延 宝七 年︵ 一 六 七九
︶の 事例 では ある が︑ 郷中 入用 帳に は﹁ 我等 立会 相改
︑支 配致 勘定 候処 実正 也﹂ と︑ 数十 名の 庄屋 が連 印し て い る
︒ 彼ら は︑ それ ぞれ の庄 から 惣代 とし て参 会し た庄 屋で ある と 考え ら れ る︒ こ こで 注 意 すべ き は︑ 惣 代と い う 形 を と っ てい る も のの
︑九 つ 全 ての 庄 が 郷 中入 用 の 算用 に か か わっ て い たこ と で ある
︒こ の 点 で︑ 郷 中 入 用 の 算 用 は
︑七 人庄 屋と いっ た一 部の 庄屋 に限 定さ れる もの では なか った
︒な お︑ 実際 の割 付を 行う のは
︑郷 会所 に常 駐し て い た会 所詰 役人 であ った
︒郷 中入 用の 経費 は︑ 郷中 村々 の役 高に 応じ て割 り掛 けら れた
︒会 所詰 役人 は︑ 会所
︵郷 会 所
︶と いう 名前 で︑ 九つ の庄 ごと に割 付額 を通 達し た
︒ その 後︑ 郷中 入 用に お け る 各村 の 負 担額 は
︑庄 入 用帳 を 媒
寛 政 期 に お け る 岸 和 田 藩 の 七 人 庄 屋
六
介 する 形で 各村 に通 達さ れ︑ 各村 の村 入用 帳に 反映 され た
︒ 以上 から
︑岸 和田 藩領 の地 域的 入用 には
︑① 郷中 入用
│庄 入用
│村 入用 とい う経 路と
︑② 水利 組合 入用
│村 入用 と い う経 路が あっ たこ とが わか る︒ この 点で 岸和 田藩 領の 地域 的入 用は
︑重 層的 構造 をな して いた 尼崎 藩領
・和 歌山 藩 領 の地 域的 入用 と︑ 類似 する 点が あっ たと 考え られ る
︒ ただ し︑ 岸和 田藩 領の 地域 的入 用と 尼崎 藩領
・和 歌山 藩領 の地 域的 入用 とで は︑ その 担い 手が 異な って いた こと に 留 意す る必 要が ある
︒尼 崎藩 領・ 和歌 山藩 領で は︑ 地域 的入 用の 算 用・ 割付 に 大 庄 屋が 大 き く関 与 し てい
た
︒し か し
︑岸 和田 藩領 では
︑七 人庄 屋が 七! 人! 庄! 屋! と! し! て! 地 域的 入用 に関 与す るこ とは なか った
︒地 域的 入用 の算 用・ 割付 も 基 本的 には 可視 化さ れ︑ 庄入 用の 算用
・割 付に は一 年交 替の 当番 制が 採用 され てい た︒ これ らを
﹁民 主的
﹂と 評価 す る こと につ いて はさ しあ たり 留保 して おく が︑ 少な くと も︑ 七人 庄屋 とい う役 職が 地域 的入 用の 算用
・割 付に 力を 及 ぼ すこ とは なか った とい える
︒ 岸
和田 藩の 地方 支配 と七 人庄 屋 では
︑七 人庄 屋の 職務 とは
︑具 体的 にど のよ うな もの であ った のか
︒七 人庄 屋の 職務 を検 討す る前 に︑ まず 大庄 屋 の 職務 につ いて 概観 して おく
︒志 村洋 氏に よれ ば︑ 大庄 屋の 基本 的職 務は
︑① 管内 への 触書 の伝 達︑
②願 書・ 届出 へ の 奥印 と取 次︑
③年 貢諸 役の 賦課
・徴 収︑
④資 材・ 人足 の調 達
︑⑤ 管内 の 争 論 訴訟 の 処 理・ 上申 に 大 別さ れ る
︒ 尼 崎 藩・ 和歌 山藩 の大 庄屋 も︑ 基本 的に
①〜
⑤の 機能 を持 って いた とい って よい
︒尼 崎藩
・和 歌山 藩の 大庄 屋は
︑数 ヶ 村 にわ たる 行政 区を 管轄 する 役職 とし て藩 に位 置づ けら れて いた
︒ とこ ろが
︑岸 和田 藩の 七人 庄屋 には
︑管 轄す る行 政区 が存 在し なか った
︒そ もそ も岸 和田 藩で は︑ 願書
・届 出の 提 出
︑国 役 銀 の 上納
︑年 貢 諸 役の 上 納 など は 一 村 ごと に 行 われ て い た
︒ 庄 とい う 行 政単 位 は︑ 御 用銀 の 賦 課
・徴 収
︑ 寛 政 期 に お け る 岸 和 田 藩 の 七 人 庄 屋
七
藩 から の拝 借米 の割 当な どを 行う 際に 利用 され たが
︑基 本的 に庄 は︑ 地域 的入 用を 算用
・割 付す るた めの 行政 単位 で あ った
︒こ のよ うに 岸和 田藩 の中 間支 配機 構は
︑一 般的 な大 庄屋 組行 政と は異 なっ てい た︒ 七人 庄屋 につ いて は後 述す るが
︑寛 政期 の七 人庄 屋は
︑熊 取谷 庄屋 中左 近・ 中︵ 降井
︶左 太夫
︑佐 野村 庄屋 藤田 十 郎 太夫
・吉 田久 左衛 門︑ 樽井 村庄 屋脇 田右 馬太 郎︑ 岸和 田村 庄屋 岸六 右衛 門︑ 畠中 村庄 屋要 源太 夫に よっ て構 成さ れ て いた
︒図 1と 照ら し合 わせ れば
︑麻 生郷
・木 島谷
・五 ヶ庄
・阿 間河 谷に は︑ 七人 庄屋 が存 在し てい ない こと がわ か る
︒仮 に︑ 岸和 田藩 が七 人庄 屋を 他藩 の大 庄屋 に相 当す る役 職と して 想定 して いた なら ば︑ 九つ の庄 それ ぞれ に︑ 七 人 庄屋 に相 当す る役 職が 置か れた はず であ る︒ すな わち
︑岸 和田 藩は
︑庄
││ 他藩 でい う組
││ を管 轄さ せる ため に 七 人庄 屋を 設置 した わけ では なか った
︒ 七人 庄屋 は︑
①〜
⑤の 機能 を持 って いな かっ た︒ たと えば
︑触 書に つい ては
︑七 人庄 屋が 村々 への 伝達 に直 接関 与 す るこ とは なく
︑村 継ぎ 方式 で伝 達さ れて いた
︒願 書・ 届出 は︑ 一 村ご と に 各 村の 庄 屋 が行 っ た︒ そ のた め か︑ 七 人 庄屋 が七! 人! 庄! 屋! と! し! て! 願書
・届 出へ の奥 印と 取次 をし た事 例は 見ら れな い︒ 願書
・届 出に
︑七 人庄 屋と いう 肩書 き で 連 印
・署 名 され る こ とは な か った
︒人 足 の 調 達に つ い ては
︑郷 会 所 が 各村 に 指 示し
︑一 村 ご と に 人 足 が 徴 発 さ れ た
︒ま た︑ 管轄 する 行政 区が 存在 しな い七 人庄 屋に は︑ 管内 の争 論訴 訟 を処 理 す る 義務 は な かっ た
︒も っ とも 七 人 庄 屋は
︑了 簡人
││ 復興 請負 人︑ 争論 の仲 裁人
││ に任 命さ れる こと が多 かっ たた め︑ 近隣 村落 の荒 廃問 題や 争論 訴 訟 を解 決す る必 要が あっ た︒ しか し︑ それ は了 簡人 とし ての 職務 であ り︑ 七! 人! 庄! 屋! と! し! て! の 職務 では なか った
︒ ただ し︑ ここ で注 意す べき は︑ 両中 家の 存在 であ る︒ 中左 近家
・中 左太 夫家 は︑ 熊取 谷! 庄! 屋! と いう よう に︑ 熊取 谷 一 五ヶ 村の 庄屋 とし て存 在し てい た︒
﹃ 熊取 町史
﹄に よ れば
︑両 中 家 は熊 取 谷 一五 ヶ 村 の 宗門 人 別 の管 理 を 行っ て い た とさ れる
︒こ の点 で︑ 両中 家は 管轄 する 行政 区が あっ たと もい える が︑ 同 じ七 人 庄 屋 であ る 要 源太 夫 家 が近 木 庄 の 宗門 人別 の管 理を 行っ てい た事 例は 見ら れな い
︒ 両中 家が 熊取 谷の 宗 門人 別 の 管 理を 行 っ てい た の は︑ 彼ら が 熊
寛 政 期 に お け る 岸 和 田 藩 の 七 人 庄 屋
八
取 谷一 五ヶ 村の 庄屋 であ った こと
︑熊 取谷 の各 村に は年 寄し か存 在し なか った こ とに 規定 され てい たの では ない か︒ すな わち
︑数 ヶ村 にわ たる 宗門 人別 の管 理 は︑ 七! 人! 庄! 屋! と! し! て! の 職務 では なく
︑熊 取谷! 庄! 屋! とし ての 職務 であ った とい え よう
︒な お︑ 両中 家は
︑軽 犯罪 の吟 味・ 処罰 権を 持ち
︑管 内の 村々 にお ける 裁 判機 能を 果た して いた とさ れる が︑ 七人 庄屋 にそ のよ うな 機能 は確 認で きな い
︒こ れも
︑両 中家 の特 権で あっ たと いえ る︒ そも そも
︑岸 和田 藩の 七人 庄屋 には
︑肥 後国 天草 郡大 庄屋 の﹁ 大庄 屋勤 方書 付
﹂に 見ら れる よう な︑ 明確 な 職 務規 定 が な かっ
た
︒換 言 すれ ば
︑七 人 庄屋 に は︑ 明文 化さ れた 権限 は与 えら れて いな かっ たの であ る︒ 先述 した
①〜
⑤の 機 能を 持た ず︑ 管轄 する 行政 区が ない 七人 庄屋 は︑ 組行 政の 担い 手と して の大 庄 屋で はな いこ とは 明ら かで あろ う︒ ただ し︑ この こと は︑ 七人 庄屋 が何 の機 能
︵あ るい は職 務︶ も有 して いな かっ たこ とを 意味 しな い︒ とい うの も︑ 彼ら の 職 務 は︑ 規 定 さ れ な い﹁ 曖 昧﹂ な 領 域 に こ そ か か わ る も の で あ っ た と 考 え る
︒次 章か らは
︑そ の様 態に つい て検 討し てい く︒ 二 岸 和 田藩 の 七 人庄 屋 本章
では
︑七 人庄 屋の 由緒
・格 式を 確認 する とと もに
︑要 源太 夫家 の日 記か ら 見え る七 人庄 屋の 動向 を検 討す るこ とで
︑七 人庄 屋の 機能 を把 握す る︒
表
1
岸和田藩の八人庄屋制と七人庄屋岡部時代
寛政元年(1789)〜
中左近 中左太夫 藤田十郎太夫 吉田久左衛門 脇田右馬太郎 岸六右衛門 要源太夫
出典:『熊取町史』本文編(熊取町、2000年)、曽我友良「岸和田藩における庄屋の格式付与」(研究代表者藤本清二郎『畿内譜 代大名岸和田藩の総合的研究』科学研究費補助金基盤研究(B)、2006年)
註:松平時代の八人庄屋制、岡部時代の七人庄屋については、役職、居村、名前の順に示した。
熊取谷 熊取谷 佐野村 佐野村 樽井村 岸和田村 畠中村 七人庄屋 18世紀初頭
中左近 中左太夫 藤田十郎太夫 吉田久左衛門 脇田右馬太郎 岸六右衛門 信左衛門 熊取谷 熊取谷 佐野村 佐野村 樽井村 岸和田村 市場村 七人庄屋 入封当初
中左近 中左太夫 俵屋次郎左衛門 岸六右衛門 木島谷の某(不詳)
「筆頭之庄屋」
松平時代 元和5年(1619)〜寛永17年(1640)
中左近 中左衛門尉 新川三郎右衛門 岸久左衛門 小門荘右衛門 佐々木久左衛門 藤田十郎太夫 吉田久左衛門 熊取谷
熊取谷 瓦屋村 岸和田村 土生村 脇浜村 佐野村 佐野村 郷士代官
代官庄屋
筆頭庄屋
寛 政 期 に お け る 岸 和 田 藩 の 七 人 庄 屋
九
八人 庄屋 制に 代わ って 設置 され た七 人庄 屋は
︑当 初﹁ 筆頭 之庄 屋﹂ と 呼ば れ る 五 家で 構 成 され て い た
︒ おそ ら く 一 八世 紀を 迎え るま でに
﹁筆 頭之 庄屋
﹂の 再編 があ り︑ 遅く とも 一八 世紀 初頭 には 七人 庄屋 が制 度的 に確 立し てい た と され る︒ 一八 世紀 初頭
︑松 平時 代に は郷 士代 官・ 代官 庄屋
・筆 頭庄 屋で あっ た五 家に 加え
︑脇 田右 馬太 郎家
・市 場 村 庄屋 信左 衛門 家が 七人 庄屋 に な っ てい た
︵表 1︶
︒そ の 後︑ 信 左衛 門 家 が 没落 し
︑寛 政 元年
︵一 七 八 九︶ に要 家 が 七 人庄 屋に 加わ った
︒こ れ以 降︑ 七人 庄屋 が変 更さ れる こと はな かっ た︒ なお
︑七 人庄 屋は
︑村 が願 い出 るの では な く
︑世 襲で 藩に よっ て任 命さ れた
︒ 七
人庄 屋の 由緒
・格 式 まず
︑七 人庄 屋の 各家 が主 張す る由 緒を 見て いこ う︒ 中 左 近家
・中 左 太 夫家 は
︑代 々﹁ 郷 士﹂ の筋 目 で 旗 本根 来 家 の本 家 筋 にあ た る
︒﹁ 御 領分 庄 屋 筆 頭﹂ で あ っ た 両 中 家 は
︑こ れ まで
﹁大 庄 屋 相勤
﹂め て き た家 柄 と し て︑ 次の よ う な由 緒 を 語 って い る
︒﹁ 大坂
・堺 御 番 所 之 触 状 ニ ハ 大庄 屋中 左近 と名 前認
︑御 請書
﹂を 提出 し て いた
︒大 坂 町 奉行 所
・堺 奉 行所 に 年 頭 御礼 を 行 う際 は
︑﹁ 泉 州日 根 郡 熊 取谷 郷士 左近
・左 太夫 と披 露﹂ して いた
︒そ の際
︑両 中家 は﹁ 町宿 迄帯 刀仕
︑若 党召 連﹂ れて いた
︒ 藤田 十郎 太夫 家・ 吉田 久左 衛門 家は
︑根 来寺 が支 配し てい た時 代に は﹁ 私共 家
!
諸事 一分 ニ取 治﹂ めて いた︒藤 田 家
・吉 田家 は︑ 羽柴 秀吉 によ る根 来 討 伐︵ 根来 合 戦︶ の 際︑ 離散 し た 百姓 を 帰 参 させ た
︒大 坂 の陣 で は︑
﹁ 御上 意 筋
︵ 小 堀 政 一
︶
之 御用 等小 堀遠 江守 様以 御指 図相 勤﹂ め︑ 大坂 への 輸送 の任 を果 たし た︒ 大坂 町奉 行所
・堺 奉行 に公 事出 入の ため 出 頭 する 際は
︑﹁ 麻 上下 を着
︑帯 刀 仕︑ 屏重 門 前 ニ而 無 刀 ニ﹂ て出 頭 し て いた
︒ま た
︑彼 ら は︑ 小堀
・松 平 時 代か ら 岡 部 時代 に至 って も﹁ 暫御 代官 役な と相 勤﹂ めて いた とさ れる
︒ 脇 田 右馬 太 郎 家は
︑根 来 合 戦で 岡 田 城 に立 て 籠 もっ た と され
る
︒貞 享 二 年︵ 一六 八 五︶ に は︑
﹁右 馬 太 郎 方 へ 御
寛 政 期 に お け る 岸 和 田 藩 の 七 人 庄 屋
一
〇
︵ 俵 屋 新 田 庄 屋 治 郎 右 衛 門
︶
揚 リ 被 為 成御 一 宿﹂ と︑ 江 戸か ら の 帰途 に あ っ た土 佐 藩 主が 脇 田 家 に一 泊 し た
︒ そ の 際︑
﹁右 馬 太 郎并 俵屋 浄祐 両 人 共致 帯刀 御案 内﹂ した
︒こ のほ かに も脇 田家 は︑
﹁ 御番 所表 并他
所江 者
帯 刀﹂ して いた こと を主 張し てい る︒ 要源 太夫 家は
︑﹁ 文 治年 中之 頃︑ 神前 日 向守 と 申 小木 之 郷 領主
﹂で あ り︑ 一 六 世紀 に は﹁ 其 末孫 神 前 要人 と 申︑ 近
︵ 畠 山 高 政
︶
木 庄長 役﹂ であ った とさ れる
︒永 禄五 年︵ 一五 六二
︶に は︑
﹁ 右要 人儀
者
三 好実 休合 戦之 節︑ 畠山 紀伊 守ニ 加 勢﹂ し た
︒神 前姓 から 要姓 に改 名し た要 家は
︑﹁ 永 禄 年中
!
慶 長・元 和 年中 迄 近 木庄 之 内 出 作村 共 十 一ヶ 村 之 庄屋
﹂を つ と
︵ 小 出 秀 政
︶
め た
︒慶 長 年 間に は
︑新 田 畑開 発 の 功績 に よ っ て︑
﹁小 出播 磨守 様 之 砌︑ 源太 夫 持 高百 石 并 捌 村之 出 作 高 役 儀 御 免
︵墨
︶
許 之 御 黒 付﹂ が与 え ら れた
︒﹁ 源 太 夫身 体 不 如 意﹂ のた め
︑元 和 年間 に 一 度﹁ 家 財 沽 却﹂ す る ま で は︑ 要 家 は﹁ 郷 士 ニ而 馬を も繋
﹂い でい たと され る︒ 宝永 七年
︵一 七一
〇︶ には
︑岡 部長 泰か ら﹁ 源太 夫手 前之 持高
﹂一 一七 石余 の 諸 役免 除が 認め られ た
︒ これ 以降
︑要 家は 藩主 の代 替り ごと に免 許状 を得 てい た︒ こ の ほか
︑岸 六 右 衛門 家 の 由緒 に つ い ては 判 然 とし な い が︑ 七人 庄 屋 は 中世 土 豪 の系 譜 を 持っ て い た と 考 え ら れ る
︒少 なく とも 両中 家・ 藤田 家・ 脇田 家・ 要家 は︑ 根来 合戦 に参 加し た 旧土 豪 層 で あっ
た
︒寛 政 期に 作 成 され た 要 家 の由 緒書 には
︑﹁ 岸 和田 領に 故有 郷士 之末 葉 有て
︑是 を 七 人衆 と 唱 ふ︑ 源太 夫 も 其 壱人 ニ し て︑ 御城 主 御 狩之 節 ハ 今 にお ゐて 年毎 に度 々御 成あ り﹂ とあ るよ うに
︑七 人庄 屋は
﹁郷 士之 末葉
﹂で ある と自 覚し てい た︒ 次に
︑七 人庄 屋の 格式 を見 てみ よう
︒七 人 庄 屋の 格 式 を簡 単 に 整理 し た も のが 表 2で あ る︒ 他所 苗 字・ 帯 刀と は
︑ 岸 和田 藩領 外で の苗 字・ 帯刀 が認 めら れる 特権 であ り︑ 領分 苗字
・帯 刀と は︑ 岸和 田藩 領内 での 苗字
・帯 刀が 認め ら れ る特 権で あっ た︒ ただ し︑ 他所 帯刀 の特 権を 持つ 者に は︑ 堺奉 行が 藩領 内を 通行 する 際に も︑ 出迎 えと して 帯刀 が 許 され るこ とが あっ た︒ この 点に つい ては 後述 する
︒こ の表 によ れば
︑七 人庄 屋の 格式 には
︑両 中家
・藤 田家
・吉 田 家 と脇 田家
・岸 家・ 要家 との 間に 格差 があ った こと がわ かる
︒他 所苗 字・ 領分 帯刀
・御 帰城 上ケ 物・ 御礼 銭は
︑そ の 最 たる 例で ある
︒七 家に は︑ 年頭 御礼
︑暑 寒御 機嫌 窺い
︑初 米御 礼︑ 御帰 城御 礼と して 藩主 と対 面す るこ とが 許さ れ 寛 政 期 に お け る 岸 和 田 藩 の 七 人 庄 屋
一 一
て い た
︒し か し︑ この 点 に つい て も︑ 献 上品
︵上 ケ 物
・ 御 礼銭
︶に はそ れぞ れ制 限│
│熊 取・ 佐野 の四 家は 割高 に 設 定│
│が 設け られ てい たよ うに
︑熊 取・ 佐野 の四 家と ほ か の 三 家 と の 格 差 は 歴 然 で あ っ た︒ と り わ け︑
﹁前 々
!
﹂ の 格 式 が 多く
︑領 分 苗 字を 唯 一 認め ら れ て いた 両 中 家 は
︑ 七 人庄 屋の なか で別 格の 位置 に存 在し た︒ 同じ く表 2を 見れ ば︑ 寛政 元年 に至 って 一斉 に格 式が 付 与 され たこ とが わか る︒ 要家 が七 人庄 屋に なっ た寛 政元 年 以 降︑ 七人 庄屋 の格 式が 明確 化・ 序列 化さ れて いっ た︒ また
︑岸 和田 藩で は︑ 領分 苗字
・領 分帯 刀が 厳し く制 限 さ れて いた こと に注 目し たい
︒一 般に
︑個 別領 主が 領内 で 許 可す る苗 字帯 刀に 比べ
︑個 別所 領を 越え た幕 府・ 国レ ベ ル での 苗字 帯 刀が 問 題 に なる こ と が多 か っ た
︒ 個別 所 領 内 レベ ルで の苗 字帯 刀は 個別 領主 の判 断で 許可 を与 える こ と がで きた が︑ たと えば 畿内 近国 では 京・ 大坂 町奉 行の 承 認 を得 る必 要が あっ たよ うに
︑幕 府・ 国レ ベル での 苗字 帯 刀 が許 可さ れ るこ と は 容 易な こ と では な か った
︒し か し 岸 和田 藩で は︑ 藩領 外の 他所 帯刀
・他 所苗 字が 先に 許可 さ れ た一 方で
︑藩 領内 の領 分帯 刀・ 領分 苗字 が厳 しく 制限 さ
表
2
文政3
年段階における七人庄屋の格式要 源太夫
(畠中村)
宝暦2年 文政3年 寛政元年 享保3年
―
― 享和2年
― 白銀1両
300文 出典:文化3年「享保十五庚戌年佐野両人帯刀之儀ニ付堺!御尋之趣岸!被仰渡候ニ付委細書付指上候留之
内書抜」(要家け−116)、文政3年「乍恐御内々口上」(要家A−42−1−1)、「御代官所行事録」(『岸和 田市史』7巻、岸和田市、1979年)。
註(1):●印は、「願ニ寄」認められた格式であることを示す。ただし、文化3年の史料に「願ニ寄」と記 載されている項目のみを示した。なお、七人庄屋には代替わり時の細かな規定(序列)があった が、さしあたり本表では除外した。
註(2):表の見方としては、たとえば中左近家は前々より他所帯刀を認められ,要源太夫家は宝暦2年に他 所帯刀を認められたことを示す。
岸 六右衛門
(岸和田村)
天明3年●
― 寛政元年 寛政元年
―
― 享和2年
― 白銀1両
300文 脇田
右馬太郎
(樽井村)
前々より 文政3年 寛政元年 寛政元年
―
― 享和2年
― 白銀1両
300文 吉田
久左衛門
(佐野村)
前々より 寛政8年●
寛政元年●
享保3年●
寛政元年●
―
―
― 南鐐1片
500文 藤田
十郎太夫
(佐野村)
前々より 寛政8年●
寛政元年●
享保3年●
寛政元年●
―
―
― 南鐐1片
500文 中
左太夫
(熊取谷)
前々より
(前々より)
享保7年 前々より 寛政元年●
寛政元年●
― 文政3年 南鐐1片 500文 中
左近
(熊取谷)
前々より
(前々より)
享保7年 前々より 寛政元年●
寛政元年●
― 文化5年 南鐐1片 500文 七人庄屋
(庄屋役)
格式 他所帯刀 他所苗字 袴勤 暑寒御機嫌窺
領分帯刀 領分苗字 領分帯刀
(御用・格別の節のみ)
他所行道具御免 御帰城上ケ物
御礼銭
寛 政 期 に お け る 岸 和 田 藩 の 七 人 庄 屋
一 二
れ てい た︒ では
︑な ぜ他 所帯 刀が 先に 許可 され てい たの か︒ それ を知 るた めの 手掛 かり とし て︑ 七人 庄屋 と堺 奉行 との 関係 に 着 目し てみ たい
︒七 人庄 屋は
︑自 家の 由緒 とし て︑ 大坂 町奉 行・ 堺奉 行に 出頭 する 際に 帯刀 して いた こと を主 張し た が
︑特 に 彼 ら が強 調 し たの は
︑堺 奉 行と の 対 面 の際 に 帯 刀し て い た こと で あ った
︒堺 奉 行 は︑ 泉 州 巡 見 の 一 環 と し
︵ 巡︶
て
︑頻 繁 に岸 和田 藩領 に来 訪し てい た︒ そ のた め彼 らは
︑﹁ 堺御 行様 泉州 御順 見之 節ハ
︑麻 上 下を 着︑ 帯刀 仕︑ 村 口江
御 出迎
﹂え てい たと され る
︒ 七人 庄屋 にと って
︑堺 奉行 が岸 和田 藩領 に 来 訪す る こ とが 重 要 であ っ た︒ 享 保 一六 年
︵一 七 三一
︶︑ 当 時 の七 人 庄
︵ 水 谷 勝 比
︶
屋 であ った 市場 村信 左衛 門と 樽井 村脇 田右 馬太 郎は
︑﹁ 堺 御奉 行水 谷信 濃守 様泉 州御 巡見 ニ付
︑帯 刀之 義相 願出 候処
︑ 両 人共 由緒 等御 吟味 被成 候処
︑両 人共 由 緒 書願 書 ニ 相認
︑差 出 ス︑ 願 之通 御 免﹂ と︑ 堺 奉 行に 直 接 帯刀 免 許 を願 い
︑ 聞 き届 けら れた
︒堺 奉行 の泉 州巡 見は
︑帯 刀︵ 他所 帯刀
︶免 許願 いを 提出 する 絶好 の機 会で もあ った
︒ 享保 一五 年︑ 堺奉 行所 より
﹁岸 和田 御領 分庄 屋之 中御 番所 帯江
刀仕 罷出 候庄 屋有 之 候︑ 右之 庄 屋 帯刀 仕 来 り候 訳 存 候 哉与
御尋
﹂が あっ た︒ 堺奉 行所 によ る由 緒の 吟味 を終 えた 結果
︑堺 奉行 所は
︑両 中家 を はじ め と する 五 家 の他 所 帯
︵ 岡 部 長 著
︶
刀 を改 めて 認め た︒ 一方
︑﹁ 右 之五 人之 庄屋 之儀 ハ古 来
!
帯刀 仕候 儀を美濃 守様 御聞 届被 成︑ 古来 之通 ニ御 座候
﹂ と
︑岸 和田 藩主 も改 めて 彼ら の他 所帯 刀 を 認 めて い る︒ 具 体的 に は︑
﹁ 他所 行
︑又 ハ
御公 儀 様 之諸 御 奉 行様 方 右 庄 屋共 支配 場御 通り 被成 候節 ハ帯 刀﹂ する こと が 許 され た
︒今 ま で曖 昧 に され て い た 堺奉 行 所 への 帯 刀︵ 他 所帯 刀
︶ が
︑こ の時 点で 岸和 田藩
・堺 奉行 所に よっ て正 式に 許可 され たと いう 解釈 も可 能で あろ う︒ いず れに して も岸 和田 藩 は
︑﹁ 乍 然 御 領分 ハ 帯 刀不 致
﹂と
︑依 然 とし て 領 分 帯刀 を 認 めな か っ た︒ 七人 庄 屋 へ の領 分 帯 刀 が 認 め ら れ る の は
︑ 寛 政元 年に 至っ てか らで あっ た︒ な お︑ 岸 和田 藩 は︑ 文 政〜 天保 期 の 一時 期 を 除 いて
︑七 人 庄 屋が 領 内 で﹁ 大庄 屋
﹂ を 名乗 るこ とを 禁止 して いた
︒こ れら の点 から
︑領 内で の特 権免 許を 制限 して いた 岸和 田藩 の姿 勢が うか がえ る︒ 寛 政 期 に お け る 岸 和 田 藩 の 七 人 庄 屋
一 三
堺 奉 行の 泉 州 巡見 は
︑堺 奉 行と 岸 和 田 藩村 役 人 層│
│と り わけ
︑七 人 庄 屋 など の 有 力 者 層
││ と の 接 触 を 多 く し た
︒七 人庄 屋は
︑堺 奉行 が藩 領に 来訪 する 際に
︑帯 刀人 であ るこ とを 誇示 し︑ とき には 帯刀 免許 願い を提 出し た︒ 他 所 帯刀 が先 に許 可さ れた 一因 は︑ この 接触 の多 さに 求め られ るの では ない か︒ その 一方 で岸 和田 藩は
︑領 分帯 刀・ 領 分 苗字 の免 許を 易々 と与 えず
︑郷 士制 度を 採用 する こと もな かっ た︒ 七人 庄屋 は︑ 少な くと も領 内に おい ては 郷士 で は なか った
︒こ の点 で岸 和田 藩の 七人 庄屋 は︑ 尼崎 藩の 大庄 屋や 和歌 山藩 の地 士と 異な って いた
︒ 七
人庄 屋の 機能 では
︑七 人庄 屋の 身分 格式 が整 理さ れた 寛 政 期︑ 七人 庄 屋 はど の よ うな 機 能︵ あ る いは 職 務︶ を 有し て い たの か
︒ こ こで は︑ 寛政 期の 七人 庄屋 の機 能を 把握 する
︒ まず
︑郷 中︵ 地方
︶の 村々 が郷 会所 に参 集す る過 程に つい て確 認し てお く︒ 郷中 で何 か議 論す べき 問題 が発 生し た 際 は
︑﹁ 郷
・庄 弐 人ツ ヽ 参 会申 来 り﹂ と いっ た 形 で︑ 郷 会所 に 参 集す る よ う各 庄 に 通 達さ れ た
︒ こ の 場 合︑ 九 つ そ れ ぞれ の庄 ごと に︑ 各庄 内の 庄屋 が二 人ず つ惣 代と して 参集 し た
︒ 彼ら は 庄 惣 代と 呼 ば れた が
︑注 意 すべ き は︑ 七 人 庄屋 も庄 惣代 の一 人で あっ たこ とで ある
︒た と え ば︑ 要家 は
︑近 木 庄の 惣 代 とし て 郷 会 所に 参 集 して い た 一方 で
︑ 七 人庄 屋︵ ある いは 郷! 中! 惣代
︶と して 藩役 人と 対峙 して いた
︒な お︑ 七人 庄屋 とし ての 機能 を検 討す るた めに
︑七 人 庄 屋と 庄惣 代と をわ けて 記述 する
︒ 召喚 状を 発行 した のは 会所 詰役 人で あっ たが
︑郷 会所 への 参集 を指 示し たの は七 人庄 屋で ある 場合 が多 かっ た︒ 七 人 庄屋 は︑ 郷中 に公 表さ れる 前に
︑藩 役人 から の内 意︵ 指示
・諮 問︶ を受 けて いた
︒藩 役人 の内 意を 受け た七 人庄 屋 は
︑﹁ 会 所 へ 申入
︑明 後 十 六日 参 会 相触 候 様 申 置 候 事
﹂と い っ た よ う に︑ 会 所 詰 役 人 に 召 喚 状 を 発 行 さ せ て い た
︒ 内 意を 受け るの は七 人庄 屋全 員と は限 らな かっ たた め︑ 内意 を受 けた 七人 庄屋 のい ずれ かが
︑七 人庄 屋を 含む 各庄 惣
寛 政 期 に お け る 岸 和 田 藩 の 七 人 庄 屋
一 四
代 を召 集し た︒ 七人 庄屋 は︑ 郷会 所に 参集 した 庄惣 代に 藩役 人の 内意 を﹁ 披露
﹂し
︑庄 惣代 とと もに その 内容 を協 議 し た︒ もっ とも
︑郷 中全 体の 問題 が発 生し た際 には
︑七 人庄 屋が 主体 的に 召集 をか ける 場合 もあ った
︒ で は 実際 に
︑郷 中 の合 意 形 成の 手 続 き につ い て︑ 干 損の 嘆 願 を事 例 に 検 討し て み たい
︒① 寛 政八 年
︵一 七 九 六
︶
︵ 議︶
九 月四 日︑ 七人 庄屋 と庄 惣代 とが 郷会 所 に 参集 し
︑﹁ 今 年干 損 之 儀評 儀
﹂が 行 わ れた
︒そ の 結 果︑ 各庄 ご と に意 見 を ま とめ
︑作 柄︵ 予想 収穫 高︶ を記 した 報告 書を
﹁来 ル八 日会 所へ 持参
﹂す るこ とが 決定 した
︒② 五日
︑庄 惣代 とし て 郷 会所 に参 集し てい た要 源太 夫・ 石才 村庄 屋武 兵 衛 は近 木 庄 の各 村 庄 屋を 召 集 し︑
﹁ 昨日 会 所 参会 之 趣︑ 今 日昼 飯 後 源 太夫
・武 兵衛
!
披 露︑庄 内 内 談﹂ が行 わ れ た︒
③七 日︑
﹁ 年寄
・組 頭 立 合 稲方 見 分﹂ が 行わ れ
︑一 村 ごと に
﹁歩 附 下 帳﹂ が作 成さ れた
︒④ 八日
︑﹁ 干 損難 義﹂ を訴 える 嘆願 書と して
︑﹁ 歩附 下帳
﹂を もと にし た﹁ 稲方 并綿 方歩 積り 書 付
﹂が 郷 会 所 に 提 出 さ れ た
︒
⑤一
〇 日
︑﹁ 七 人 庄 屋 内 々 会 所 ニ 而 参 会
﹂し
︑七 人 庄 屋 は 郷 会 所 に 集 ま っ た 嘆 願 書
︵ マ マ
︶
︵報 告 書︶ を 吟味
・集 約 し た︒ その 後
︑地 方 役所 に 出 向 いた 七 人 庄 屋 は︑
﹁今 年之 如 何 被 成 遣 候 哉︑ 御 領 分 ニ も 一 統
︵ 旱 魃
︶
︵ 者 脱ヵ
︶
少 々干 越有 之故
︑三 ヶ年 千石 ツヽ 被成 下候 去年 切ニ 候得
︑者
当年 も被 成下 度﹂ と地 方奉 行に 内申 した
︒ かか る事 例か ら︑
①各 庄ご とに 選出 され た︑ それ ぞ れ の 庄惣 代 が 郷会 所 で 参会
︑② 各 村 庄屋 が 各 庄ご と に 参集 し
︑ 庄 惣代 が① で決 定し た案 件を 各村 庄屋 に
﹁披 露
﹂︑
③各 村 庄 屋が 各 村 年寄
・組 頭 に 伝 達︑ とい う 伝 達経 路 が あっ た こ と がわ かる
︒① は︑ 各庄 ごと に庄 惣代 が一
〜二 人ず つ参 会す るた め︑ 郷中 参会 と表 現し てお く︒ 一方
︑② は︑ 庄・ 郷
・ 谷と いっ た︑ 庄内 の各 村庄 屋が 参会 する ため
︑庄 参会 と呼 ばれ て いた
︒岸 和 田 藩 領で は
︑郷 中 参会 と 庄 参会 と の 組 み合 わせ によ って
︑合 意形 成の 手続 きが 行わ れて いた とい える
︒ また
︑藩 役人 への 下意 上申 には
︑七 人庄 屋に よる
﹁内 参会
﹂が 重要 な意 味を 持っ た︵
⑤︶
︒﹁ 内 参会
﹂は
︑七 人庄 屋 の みが 郷会 所︵ ある いは 町宿
︶に 参集 する
︑文 字通 り﹁ 内々
﹂の 参会 であ った
︒庄 参会 と郷 中参 会を 経て
︑郷 中の 意 図 をく み取 った 七人 庄屋 は︑ 郷中 の願 い出 を藩 役人 に内 申し た︒ 内申 を受 けた 藩役 人は
︑そ の内 容に 応じ て七 人庄 屋 寛 政 期 に お け る 岸 和 田 藩 の 七 人 庄 屋
一 五
に 返答
・指 示し た︒ 七人 庄屋 は藩 役人 の返 答・ 指示 を庄 惣代 に﹁ 披露
﹂し
︑郷 中参 会が 再度 行わ れた
︒ 寛政 八年 一〇 月一 一日
︑﹁ 旱 損ニ 付歎 き并 去年 通 千石 被 成 下候 様 ニ 国
!
願書 相 認︑ 御 代 官前 月 番 久兵 衛 様 へ惣 代 四 五 人罷 出候﹂と
︑郷! 中! 惣 代│
│七 人庄 屋と は限 らず
︑七 人庄 屋を 含む 庄惣 代四
〜五 人│
│が 代官
・地 方奉 行に
﹁国
!
願 書﹂︵ 郷中 一統 の願 書︶ を提 出し た︒ この とき に なっ て は じめ て
︑正 式 に藩 へ の 願 書が 提 出 され た こ とに な る︒ 七 人 庄屋 は︑
﹁ 内参 会﹂ と藩 役人 への 内申 を事 前に 行う こと で︑
﹁国
!
願 書﹂ が受 理さ れる よう 下準 備と 交渉 を行 って い た︒ 以上 をふ まえ つつ
︑七 人庄 屋の 機能 を整 理し てお く︒ 七人 庄屋 は︑ 藩役 人の 内意
︵指 示︶ を郷 中︵ 庄惣 代︶ に伝 え て いた
︒た とえ ば︑
﹁ 国
!
願書﹂が 却 下さ れ た 場合
︑藩 役 人 が﹁ 国
!
願書﹂の 却 下 を 庄惣 代 に 伝え る の では な く︑ 七 人 庄屋 が藩 役人 から 却下 され たこ とを 庄惣 代に
﹁披 露﹂ して いた
︒同 年一
〇月 一二 日︑ 藩役 人は
︑七 人庄 屋に
﹁村 々 役 人末 々得 と申 聞︑ 御収 納相 励 候 様﹂ 命じ た う えで
︑﹁ 国
!
願 書﹂ を 差し 戻 し た︒ こ れを 受 け た七 人 庄 屋は︑会 所 詰 役 人を 通じ て﹁ 明日 郷・ 庄へ 壱人 ツヽ 参 会 触出 し
﹂︑ 翌 日に
﹁昨 日 被 仰付 候 干 損 歎無 御 取 上段
︑今 日 郷・ 庄 へ会 所 ニ
︵ 露
︶
而 披路
﹂し た︒ 七人 庄屋 には
︑﹁ 国
!
願 書﹂ の却 下を 庄 惣代 に 伝 え︑ 彼ら を 納 得さ せ る こ とが 藩 か ら求 め ら れて い た と いえ る︒ 一方︑郷 中︵ 庄惣 代︶ の側 から いえ ば︑ 七 人 庄屋 に は 藩役 人 へ の交 渉 能 力 も求 め ら れて い た︒
﹁ 国
!
願書﹂は 却 下 さ れた が︑ 七人 庄屋 によ る水 面下 の交 渉は 続 い てい た
︒同 年 一二 月 八 日︑ 要家 は
︑代 官 手 代源 右 衛 門の 役 宅 に赴 き
︑
⑴
﹁当 年干 損ニ 付︑ 村方
!
歎 呉候 様再 々申 出候 得共︑差 押﹂ さえ てい るこ と︑
⑵﹁ 口上 書差 上度 候得 共︑ 御上 之思 召 恐 入候 故差 扣﹂ えて いる こと を述 べた うえ で︑
﹁ 口 上書 上 候 同様 被 仰 上可 被 下 様﹂ 内 申し た
︒七 人 庄屋 で あ る要 家 に は
︑嘆 願書 の提 出を して 欲し いと 村々 から 求め られ てい たこ とが 興味 深い が︑ ここ では
︑手 代源 右衛 門へ の内 申に 注 目 した い︒ 要家 は︑ 手代 源右 衛門 に対 して
︑口 上書
││ 干損 を訴 える
﹁国
!
願 書﹂│
│ と 同じ 内 容 を上 司 で ある 代 官
寛 政 期 に お け る 岸 和 田 藩 の 七 人 庄 屋
一 六
図
2
岸和田藩の行政単位と郷会所 註(1):この概念図では、「郷中」(地方)のみを示した。註(2):水利組合には、岸和田藩領以外の村が含まれることがあった。
註(3):代官や地方奉行が、各庄ごとの庄惣代や七人庄屋を役所に呼び出す 場合があった。もっとも、「内参会」と同じように、七人庄屋だけが 内々に呼び出される場合もあった。
寛 政 期 に お け る 岸 和 田 藩 の 七 人 庄 屋
一 七
に 上申 して 欲し いと 願い 出て いる
︒要 家は
︑代 官手 代↓ 代官 とい う藩 役人 ルー トを 用い て︑ 一度 却下 され た﹁ 国
!
願 書﹂を 通そ うと した とい える
︒ こ う し た 交 渉 の 甲 斐 あ っ て か
︑同 年 一 二 月 九 日 に 再 度 提 出 さ れ た﹁ 国
!
願 書﹂ は︑ 一 二 月 一 九 日 に 受 理 さ れ た︒
﹁御 米七 百石 可被 成下 候﹂ と︑ 当初 の要 求内 容 であ っ た﹁ 千 石被 成 下 度願 出
﹂は 叶 わ なか っ た が︑ 郷中 七
〇
〇石 分 の 引 高が 行わ れる こと にな った
︒﹁ 国
!
願 書﹂ が受 理 され た 場 合は︑藩 役 人 から 庄 惣 代 に直 接 伝 えら れ た︒ 各 庄に 戻 っ た 庄惣 代は
︑各 村庄 屋を 召集 し︑ 藩役 人の 回答
︵指 示︶ を各 村庄 屋に
﹁披 露﹂ した
︒な お︑ 本節 で述 べて きた 嘆願 書 は
︑郷 中一 統が 提出 する
﹁国
!
願 書﹂ の場 合で ある こと に注 意し たい︒一 村ご との 願い 出に は︑ 七人 庄屋 が関 与す る こ とは なか った
︒ こ れ まで 述 べ てき た よ うに
︑岸 和 田 藩 領で は
︑郷 中 参会
︵│ 内 参会
︶│ 庄参 会
│各 村 とい う 重 層的 構 造 に よっ て
︑ 郷 中の 合意 形成 が行 われ てい た︵ 図2
︶︒ 七 人 庄屋 に は︑ 藩 から は 領 民へ の 説 諭・ 説 得︑ 郷中 か ら は藩 役 人 への 交 渉 や 嘆願 の実 現が 求め られ てい た︒ しか し 七 人庄 屋 は︑
﹁ 国
!
願書﹂を 七! 人! 庄! 屋! と! し! て! 提出 す る こと も な く︑ 他藩 の 大 庄 屋に 比べ
︑独 断で 処理 する 権限 をほ とん ど 持 って い な かっ た
︒そ れ だけ に
︑七 人 庄 屋に は 藩 役人 と 郷 中︵ 庄惣 代
︶ と の間 を調 整す る力 量│
│交 渉能 力と 問題 解決 能力
││ がよ り一 層求 めら れて いた とい える
︒七 人庄 屋は
︑支 配│ 被 支 配間 の調 整的 機能
︵矛 盾回 避機 能︶ を持 つ存 在と して
︑﹁ 曖 昧﹂ な形 で位 置づ けら れて いた
︒ むす び に かえ て 以上
︑第 一章 では
︑岸 和田 藩の 地方 支配 の基 礎構 造を 把握 し︑ 第二 章で は︑ 七人 庄屋 の由 緒・ 格式 と機 能を 把握 し て きた
︒細 かい 要点 は本 論に 譲る が︑ ここ では
︑天 明期 の凶 作に 伴う 借財 返済 の一 件か ら︑ 第二 章で 明ら かに した 七
寛 政 期 に お け る 岸 和 田 藩 の 七 人 庄 屋
一 八
人 庄屋 の格 式と 基本 的機 能と の関 係に つい て補 足し てお きた い︒ 天明 凶作 期か ら郷 中村 々の 借銀 高が 増加 し︑ 岸和 田藩 から の拝 借銀 の返 済を 遅滞 する 村が 多く 存在 した
︒と りわ け 藩 は︑ 郷中 村々 の借 財整 理の ため
︑天 明五 年︵ 一七 八五
︶か ら﹁ 五ヶ 年之 内都 合三 百貫 目﹂ を無 利息 で郷 中村 々に 貸 し 付け てい た
︒ 藩は 七人 庄屋 に借 銀返 済の 催促 を行 うよ う命 じた
︒し か し七 人 庄 屋 は︑ 郷中 村 々 に強 く 催 促を 行 え ず
︑﹁ 御 上
!
郷・庄 弐 人ツ ヽ 御 召之 上
︑御 催 促被 仰 付
︑左 候 へ者
少 ニ而 も 出 銀候 へ者
御 上 へ 三 百 貫 内 へ 返 上 ニ 差 上 可 申 候︑ 何と そ御 上
!
御声 被為 掛被 下候 様﹂ 地方 奉行 に願 い出 てい る︒ また
︑七 人庄 屋は 郷中
︵庄 惣代
︶に 対し て郷 会 所 への 召 集 を行 っ て いた が
︑﹁ 今 日 不参 多 〆 り不 申 候 事﹂ とい っ た 状 況が 多発 して いた
︒そ のた め︑ 七人 庄屋 が庄 惣代 に藩 役人 の内 意︵ 指示
︶を 伝え るこ とが でき ない と同 時に
︑七 人 庄 屋と 庄惣 代と の合 議が 円滑 に行 われ ない 事態 が発 生し てい た
︒ 以上 か ら︑ 七人 庄 屋 に は庄 惣 代 を強 制 的 に召 集 す る 権限 はな く︑ 七人 庄屋 が彼 らを 強制 的に 召集 する ため には
︑藩 役人 の声 掛り が必 要で あっ たと いえ る︒ しか し︑ か か る状 況下 にお いて も︑ 七人 庄屋 が支 配│ 被支 配間 の調 整的 機能
︵矛 盾回 避機 能︶ を担 って いた こと は評 価し なけ れ ば なら ない
︒七 人庄 屋の 役割 とし て評 価す べき 点は
︑支 配│ 被支 配間 の調 整的 機能
︵矛 盾回 避機 能︶ にこ そあ った と 考 えら れる
︒で は︑ 明文 化さ れた 権限 を与 えら れて いな いに もか かわ らず
︑七 人庄 屋が 政治 的中 間層 とし て一 定程 度 機 能し てい たの はな ぜな のか
︒そ れを 知る ため の手 掛か りが
︑七 人庄 屋の 格式 にほ かな らな い︒ 第二 章で 明ら かに した よう に︑ 岸和 田藩 は︑ 領内 の身 分格 式に つい て強 い制 限を 設け てい た︒ 寛政 元年 まで 領内 で の 苗字 帯刀 が認 めら れな かっ たの は︑ その 最た る例 であ る︒ 一八 世紀 以降
︑他 藩で 頻繁 に発 生す る献 金郷 士を 岸和 田 藩 は一 切認 めな かっ た︒ 少な くと も寛 政期 まで は︑ 七 人 庄屋 の 各 家の 経 済 力で は な く︑ そ の由 緒 が 重視 さ れ てい た
︒ 領 内で の特 権免 許を 制限 し︑ 郷士 制度 も採 用し なか った 岸和 田藩 が︑ 領内 の身 分秩 序に 強い 関心 を持 ち︑ 身分 秩序 の 流 動化 を回 避し よう とし てい たこ とは 明ら かで ある
︒身 分格 式の 取り 扱い につ いて は︑ 異常 なほ ど慎 重で あっ たと い 寛 政 期 に お け る 岸 和 田 藩 の 七 人 庄 屋
一 九