文 政 天 保 期 に お け る 八 戸 藩 の 藩 政 改 革 と 農 民 闘 争
菊
池
勇
夫
はじめに
この論文で主な分析対象となる八戸藩は ︑寛文五年 ︑南
部藩が藩主継嗣をめぐる家中騒動の結果 ︑新たに分封され
た表高二万石の小藩である ︒北奥と呼ばれるこの地域は ︑
いわば歴史発展から取り残された最後進地域として例外祝
されてきたこともあって ︑近世史像構成に正当な位置を与
えられることは少なかったように思われる ︒最後進地とい
われるゆえんは ︑ 一般には中世的遺制と考えられている賦
役労働制に基づく家父長制的﹁地頭﹂ ︱﹁名子﹂関係 ︑す
なわち﹁百姓﹂身分内部に封鎖された農奴主︱農奴的関係
が ︑幕藩制確立以降も農村構造を規定づけるものとして存
続し ︑隷属・従属小農の自一立・成長の途が困難であったこ
とと関連している ︒なお ︑このような名子制と呼ばれる地
文政天保期における八戸藩の藩政改革と農民闘争 主経営は幕藩制下において一定度の﹁解体﹂・変質を示すものの基本的には払拭されず ︑近代以降まで残存し ︑
特﹁ ︲
殊小作慣行﹂と呼ばれながら ︑ 一部の地域では戦後農地改
革まで持ち越されてきた ︒
本稿は ︑このような北奥の地域史固有の問題を念頭にお
きつつ ︑幕藩制解体の﹁封建制の極北﹂といわれてきた
地域的特質や ︑それが克服される歴史的諸条件の解明をめ
ざすものである ︒ここでは分析対象を十九世紀前美の八戸
藩に限定し︑文政 ・天保期の﹁主法替﹂と呼ばれた藩政
改革と︑その改革が新たに創り出していく在地との矛盾・対抗関係を構造的・統一的に把握することに努め ︑そし
て ︑この矛盾・対抗関係の集約的なあらわれとして ︑天保
五年の﹁稗三合﹂一湊と通称される総百姓一奏を分析した
い ︒
こうした藩政改革と一揆をトータルに把握する作業によ
一‑ 57 ‑一
表 1 八戸蕗凶作 ・飢饉年表 (宝暦〜天保期)
│ │
登 範 登軸 者 熟務 酎 :藁 恵酎 1部 盟 高
セ子 を 投さ 社州 4Aれ
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1 軌 頭 郷 │ 文政天保期における八戸落の藩政改革と農民開争
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注 1『 天戸 藩史料 』 よ石 作成。但し,概 況は 『農民の生活史』(盛田稔著)に拠る。
2 損 毛高 (率)は 表高に対 してであ り,斗 以下 お よび少数点第 2位 以下を四拾
五入 してあ る (表高 20,000石 内 訳 口方 11,434石 畑 方 8,566石)。
3 天 保 7の 内高は 40,074石 であ る。
一‑ 58 ‑一
史 苑︵第三十六巻第一号︾
って ︑文政・天保段階における領主的危機 ・農村構造︵こ
とに農民層分解︶・農民閣争などの北奥的特徴を明らかに
することが本稿の課題である ︒
1﹁主法替﹂ ︱︱その前提と政策的特徴
文政二年 ︑八代藩主信真は﹁御国政御主法替﹂とよぶ藩政改革 ︑特に﹁国家土崩瓦一俺﹂の事態になりかねない極度の逼迫状況にあったといわれる藩財政の立直しに着手し
た ︒改革の具体的検討の前に ︑改革を必要とした領主的危機の様相や特徴を宝暦期以降の藩政の中に必要な限り︑ま
ず述べておこう ︒
北奥の宝暦︱天明期は表1に示したように
飢単饉災害天年十数回達いはなはにてるもよるるしとり ︒ 年表対損毛率過半越約三〇間に高にがをえあたのしっ︑︒ 時期上作飢鐘が間断な襲いかかたで雨冷気に凶よるくっ・ 東風﹂宗一 ︲二 十
災ではなく ︑地代収奪の強さや飢鐘対策など政治支配の領域とかかわる問題である ︒しかも北奥のように ︑劣悪な自
然的諸条件に当時の稲作技術水準が十分照応しきれぬ地域においても ︑幕藩制国家の地代収奪原則=石高制に規定さ
れて ︑稲作強制を進めていかざるを得ないという本来的な
矛盾を抱えていた ︒また ︑畑方の損毛率が田方のそれより も必ずしも低くないということは ︑稲作強制が他方で畑方
の生産力的発展に阻止的に作用していったであろうことも
予測させる ︒
なかでも ︑天明三・四年の大飢饉が以後の藩政に多大な
影響を与えた ︒盛岡藩の領民の手になる﹃飢歳凌鑑﹄に ︑
﹁八戸さまハ御分国狭けれども ︑御政事甚だ宜し︒人馬の
多く死たるをきかす ︒是を以察るに国によき杓子とりが有︵3︶るそふな﹂と記された八戸藩ではあったが ︑実際は両年の
飢饉
︵ ィぶ 御領惣人数六万人程大略有之候処三万人内の﹁ ︑
余餓死﹂したといわれる ︒天明三年の損毛率は表高に比し
九六・二%に達し ︑四年のそれも八二・三%の高率を示し
ている ︒なお四年の場合は気候不順ではなく ︑農民疲弊による耕作放棄によるものであった ︒
このような生産力破壊状況は ︑広範な一死絶地﹂二 十亡所﹂としてあらわれ ︑直接に蔵入地の年貢収取量の減少に結び
つく ︒その例証として表2に安永六年と寛政元年の地代収
奪の高構成を比較してみた一これによれば ︑蔵入地の総高は若千の減少を示しながらもほぼ維持されているが ︑その
内容は本役地高の占める割合が大幅に減少し ︑逆に揚地の
項目が新たに設定され ︑また無役地・安役地が増大して ︑
年貢収奪量が実質的に減少せざるを得ない高の構成になっ
ている ︒
史 苑︵第三十六巻第一号︶
一岬 卿 岬 判 ョ
上 鉱 4 2 0
1 9 7 0 7 8 3 7 0 8 ヤ 2 . 5
9 9
久一 ■ 2 ︐
表 2 歳 入 地 の 年 貢 地 高 構 成
免 高 揚 地
203 10.6
休 地 合計
注 1 志 和通は安永七年 の分であ る。 ( )内 数字は実際の合計を示す。
2 『 秘鑑 』(小山国家文書,八 戸図 書館蔵)よ り作成 。
﹂ユ 利劇 財抑
・ 9 ︲ 淵判
﹁ ︲ 4
・ 5 ︲︲
甲嶋
炉一
3 5 4
4
6 7
0
6 5
0
︐0 2 5 一路 ︐5 . 3
・ 0 0
︲戸︱︱︱︱︱︲rlぱ︱
2 1 2 . 4
1 1 . 1
189 611 9 ̲ 9
寛 政 一万 年︵一七八九︶
剣 制 ︲ 鋼
こうして ︑落財政の窮乏が一層の深刻な事態を迎えたといえるが ︑と所開発な
どによる年貢収奪量の回復を急速には望
めない中で ︑藩財政の補項 ・取繕いは ︑
家臣団の俸禄の削減である﹁貸上︵借︵ 6︶上ご政策などさまざまの形態をとるとし
ても ︑最も比重の大きいのは ︑城下町商
人や名子主的村落支配者層農民への財政的な寄生依存という点であろう ︒
彼等﹁御町人土企名在々分限のもの
共﹂は ︑天明飢饉時には ︑﹁救助金貸上﹂︵ 御用金︶の対象とされたばかりでな
く︑直接﹁向寄次第入穀致し︑諸人救候
様﹂命ぜられ ︑﹁江戸 ・銚子 ・平潟辺穀
物為取組罷登 ︑且秋田・仙台えも手寄︵7︶′く ヽ為取組罷越者数人有之候﹂であった
という︒彼等はたびたびの御用金賦課に
応ずる代償として ︑武士身分︵ ﹁金上
侍し ︑あるいは持地の免租地化を獲得し
ていった ︒また城下町商人の最上層部分
は﹁御用達商人﹂として ︑月々藩入用金
の仕送り業務や﹁御証判切手﹂令預切
5 5
・ 3
5 8
5 5
・ 9
0 0
役高役高役高
無地安地本地
6 0
7 5
・ 5
6 7
9 4
・ 1
7 3
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2 8
3 8
・ 0
3 0
7 .
5 3
2 9
0 0
―‑ 60 ‑―
‑ 6 1 ‑
手もの発行などにより︑藩財政に深く関与していくが ︑そ
うした特権的地位にも一 桑付一けられながら ︑領内の流通支配
を一層強めていった︵ その奥型的な例が後述の七崎屋であ
った
かなかた第余策領にて主財政特ししらこしよはうっ︑︑ ︶ ︒
権的御用達商人に深く浸潤され ︑主体性を失って硬直化し
ていくのは明白である ︒文化末年に
預切﹂手発行一 ︲による
金融混乱から紙幣処理が焦肩の課題となったことはその一
例である ︒このことが領主権力自体の主観的意図として
は ︑城下町特権商人への傾斜的な寄生・依存の体制から脱
却すべく︑目的意識的・強権的に仕法改革に奮い立つ起因
となっていった ︒
ところで ︑
主法替﹂文政初年一 ︲がに開始理れたさ由とし
て ︑単に特権的商人との関係の清算が追られたというだけ
でなく ︑新たに収奪強化策を進めていくに可能な社会経済
的背景があったといわなければならない ︒その一つには ︑
天明飢鐘後の気象条件の相対的安定のもとで土地生産力の
如乖 浄︻な帥 W車寿い れ車﹁中 毒車十毎
中ば一﹁ 申印
令作人﹂=質地小作人化︶ 度を強められながらも ︑必死に再 生産力回復 ・経営回復に努めてきた小家族経営農民の営為
文政天保期における八戸落の藩政改革と農民闘争 年夏えられていた ︒二つには ︑こうした生産力の漸次的回
復という要件の上に ︑特に寛政期以降 ︑特産物的遠隔地市
場と結合した商品生産 ・流通が ︑自然的狭鴎性の濃厚であ
った山間の主畑作経営地域にも浸透し始めており︑そこに
新たに発展基盤を置く ︑あるいはそれへの対応を計る名子
主的村落支配者層が ︑城下町特権豪商の流通支配の間隙を
ぬって登場してきていたことである ︒その突出した例とし
ては ︑森嘉兵衛氏によって経営分析が既に行われてい諄よ野の晴山・田代の三浦・軽米の淵沢などが挙げられよう︒
こうして ︑藩権力の視座からする財政立直しの成否は ︑い
わば遠隔地市場と結合した領内商品生産・流通の展開を ︑
城下町特権豪商の排除のうえに ︑在村のそうした名子主的
村落支配者層に立脚して ︑領主的に掌握し得るかどうかに
かかっていたといえょう ︒
さて ︑﹁主法替﹂と呼称される藩政改革は ︑﹁御勝手御
役一人惣座上﹂に登用された野村武一︵ 後 ︑功により中老役
となり軍記と改名︶を中心に ︑文政二年より当初五カ年計
画て開始された ︒さらに五 カ年延長され ︑文政末年鋲 は
﹁御主法年限中無滞被為済 ︑且御繰合向思召通御︵ 成城 ﹂と
いう所期の成果を上げ ︑文政十三年の﹁御金箱入目録﹂によ
れば ︑︼﹂の年一万五千両が藩庫に収蔵されている ︒その後 ︑
天保五年の百姓一揆に直面し野村が失脚するまでは ︑ほぼ
史 苑︵第二十六巻第一号︶ 唖
癖 建 開 い 抑 薙 勤確 厳
さ t ︑
市一体 ダ 崚 ル 湘
る 紫 ︵ ま
取 帥 誰 齢 範 晩 車 体 的 検 討 か ら 主﹁ 法 替
﹂ 政の 策 的 特 徴 を 述 べ て い
こう
︒ 御 用聞 和 泉 屋 喜 兵 衛 が 預 切 手 処 理 問 題 で 入年 処 分 と さ れ た の 文は 化 十 年三 の こと であ たつ
︒ 預 切 手 御は 用 達 商 人 の 私 的 信 用 依に 拠 し
︑ 領 主 財 政 に お け る 正 金 銭 不の 足 解 消
・ 吸 上 げ を 目 的
と す
る
︑ 藩 札 性の 格 を 持 たっ も の あで る
︒ 和 泉 屋 切の 手 発 行 額 約は 三万 六 七 ・ 千 買 文 多の き 達に し た
と い わ れ る
︒ 切 手 相 場 下の 落 が 進 ん で い た 正 月 二 十 一日 に
鞠 蝦 中暇
髄力 ヽ 金 姪数
嬢嘘 詢翻
態は 押焼
勝 つ る 輛わ た ﹁準
一 拙 晦換
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藩 成
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れである ︒七崎屋は天明飢饉後の藩の商業資本への傾斜的依存の過程で急速に発展した ︒その権勢のほどは ︑松橋三
嫁牧 宇助二百石・半十郎百五十石 ・甚太郎百五十石の知行市むの金上待を輩出し︑また半兵衛自身御用達仲間の一店として ︑﹁御用達仲間十二店とは申ながら ︑本店︵注︱大塚屋︶始めこの七半より︑借財のなき店はなし ︒依之 ︑急に御必要の金子御用達仲間にて御間告合兼 ︑七半一軒え被仰付 ︑暮御年貢引宛にて ︑其暮七半え上納に相成事有 ︑如斯
﹄詢 加ゲ
線が 抱 批 窮中 群斗 なば れ畔 炉﹄ ル瀬 哩府 鋼嘲 柳 つ 笑
〜難 ﹁ て 徳税 届 こ 中五 ﹁左 牧朕 雑嘩 井嘘 捜鉾 汚枠
一雅 藤犯
鋼畦 娩
れた ︒これは明らかに七崎屋の取潰しを意図したもので ︑
さらに松崎三家へも一万両を課し ︑いかに豪勢を誇るとはいえ ︑皆納は困難であつた ︒その結果 ︑半兵衛は欠所に ︑
松橋三家は改場処分となった ︒七崎屋より取揚げた物品は﹁競売に付したるに競売三カ月余に渉り中にも穀類多大にし領坊 売代金五百八十八両一歩と銭一万三千四九九貫八二八文﹂に及んだといわれる ︒こうして ︑藩財政再建には ︑
今や極格と化していた和泉屋・七崎屋の如き特権豪商との腐十朽的癒着関係を強圧的に清算し得たことにより︑領主権の絶対的主導性のもとに ︑新たな収奪強化策を本格的に追
‑ 62 ‑―
‑ 63
文 政 八 年 あ 登 惣 石 ・惣 金 銭 表 3
呈 柏 賜 苔 信 丼白 費 千 海 1 大│
文政天保期における八戸落の藩政改革と農民闘争 求していく権力的基礎が国まった ︒
ところで ︑﹁主法替﹂の最重要施策は ︑産物取扱調役所
の設置がその始点とされるように ︑国産品買上げ ・藩専売
・流通統制の強化によって ︑領内商品生産・流通の成果を
限界的なまでに収奪し尽すことにあった ︒この実際の方策
立案・実施機関たる﹁調役所﹂には ︑野村の主導下に ︑下
役町人に西町屋徳右街門・大和屋市兵衛 ︑久慈郷産物係下
役に大野村豪農晴山王二郎を参画させ ︑会所を久慈・湊の
両所に置き ︑江戸深川に蔵屋敦を設けた ︒
まず ︑﹁調役所﹂仕法による国産買上げ策であるが ︑そ
の対象品目は ︑文政八年の実績を示すと推定される﹃去西
年為御登惣石惣金銭御勘定目録﹄によれば ︑この地域の唯
一といってよい畑方商品化作物である大豆と ︑〆粕・干賜
などの海産物に限定されているところに特徴があろう︵表3じ ︒
これら国産品の買上げ方法は最重要視された大豆の例か
らすると次のようである ︒
此度御買上大豆被仰付候二付 ︑買方の者久慈 ・軽米・
八戸廻 ・名久井 ・長苗代通 ︑惣郷え御買方人被仰付候
間 ︑何れの村方二ても向寄の者誰え被仰付可然旨 ︑日
論フ以 ︑ 一郷限り直々可伸地 旨 ︑ 五御代官え可申出
旨御中老中御沙汰二付申達
7,073Z言59698 4,690俵 1,680俵 335俵 (5,189貫 300匁 )
13信i(543枚 う 6 俵 鋼 廷玖 買上代 な と)
12,257貫 056文 493両 卜4貫 949文 88両 1分 半 切 卜330文 311貫 358文
13丁雪572っモ 2 分 半切 卜3 0 0 文
1 9 両 1 分 半 切 卜3 , 5 9 8 貫9 5 2 文 /
土 布
干
骨
―諸 経
― ―
計 │
│
│ ∞ 1 両 1 分 半切 問 α蛸6 貫
習 る1 の
│ =2,748両 1分 半切 卜621貫028文 米実際の合計を示す
庄 『 去酉年為登惣石惣金銭御勘定 目録』( 文政 9 3 差 出 人 ・山本登弥大→宛先 ・
調役所) 上 杉修氏蒐蔵, 八 戸図書館依託史料。
中一 苑︵年三十六巻第一写︶ れこ に よ れ ば 惣 郷 対に し ︑ E 郷 限 上り に 一 ︲向 寄 者の
﹂
︐三 買 ︲ 方 人
﹂ に指 定 し 買て 上 げ る と いう 方 策 を 取 たっ
︒
﹁向 寄 者の
﹂ と は こ 時の 期 に お い て
︑ 商 品 生 産 流 ・ 通 進の 展 に 発 展 基の 礎 を おく
︑ あ る い は お き つ つあ 名る 子 主 的 村 落 支 配 者 層 で あ ろ う が
︑ 彼 等 家の 父 長 的 権 威 強の 国 な 共 同 体 規 制 や村 請 制 機 構 そ
のも
の を 強 制 環 と す 集る 荷 独 占 体 制 を 布
設報 いれ
弗諭 市 呼
様 寺中 章車
鍛 ﹂ル 竹﹁卸
徒わ ・ 上 .貯 て ︵tヽ文柳
妊 コ弊
ら ︑当然大豆の仕付強制に扱んだと考えられ ︑買上げにあたっても高懸りを基準とする租税的色彩の濃厚なものであ
千 っ
れギ華緋在幕諒期制擁酢宇︵ 昨
率的譲誨弾は侍新端 境師蟻壱石に付八斗積︶の内 ︑
耕 斗弐 上納﹂分九千九拾三石三買入は一 ︲
一一 火
口七句九才で ︑﹁不納﹂分が未だ約四分一を占めている ︒こうしたことから大豆強制買土げが戯烈となり︑
ことに畑方地帯農民の困窮化を急速に招来していったかを容易に察することができよう︒
海産物の場合もほぼ同様 ︑買上げ値段を公定し ︑特定の
買付人を通じて買い集めるという形態を取った ︒八戸藩に
おけるメ粕・千筋生産は ︑金肥として領内の農業生産とは
結びついておらず ︑専ら遠隔地市場を前提とした以上 ︑藩によつて安値に買い叩かれ ︑﹁浜方百姓とも日増年増困窮 にて恨みけるも道理なり﹂であった し
なお ︑このような遠隔地間商業を前提とする国産買上げ
︵ 政装 をいくらかでも有利にするため ︑野村指身﹁造船御用
︵ 接 ︲
卜 となり︑﹁是迄雇船にて格別利益も無之事故 ︑手船刷
立﹂にも乗り出し ︑これによって新造手船は﹁千石以上五
般 ︑五百石以上三般 ︑其外小廻船刷立数知れず﹂になったという︒また角力取大関四賀峰等を抱え入れ ︑その実効の
ほどはともかくとして ︑これが藩の知名度を広げ ︑﹁貿易の道大に開け藩の財政随て潤沢﹂になったともいわれてい▼つ ︒
こうした国産買上げ策と軌を同じくして ︑これまでもた
びたび採られてきた塩専売制が文政九年再び施行され ︑浦々出塩買上のために塩会所を設置し︑大坂屋吉右衛門が塩
間屋支配方となった ︒また ︑領内屈指の大野鉄山は ︑飛騨
人浜屋茂八郎の経営するところであったが ︑文政四年に藩
営化された ︒大野鉄山の支配人には西町屋が任命されたが ︑
実際には大野村豪農晴山があたり︑彼の意向が藩営化に強く働いていたと指摘されてい茄 .
それては ︑領内商品流通における統制の基本はどこに置
かれていたのであろうか ︒
町人共は諸商売物運上差出 ︑右利潤を以今日の煙を
立 ︑手廻り家内相続致しける ︒木綿・細物 ・蟻燭 ・
‑ 64 ‑―
一‑ 65 ‑一
煙車・誓油 ・椛不残取揚 ︑ 一手商売に為致 ︑御礼金高
に相成諸品高値 ︑或は会所建直 ︑支配物の出入役・酒商
売・木綿わた類 ・肴類共於会所いたしける故が判 屋の
者は只忙然と手を空くて一詠るのみ外なかりける ︒
この文章に示されているように ︑統制は日常消費物資の
多岐にわたり︑特定の商人に﹁一手商売﹂︵流通独占︶の
特権を与えて一元的に掌握し ︑流通の成果を﹁御礼金高﹂
によって吸収することにあった ︒また﹁市子宿﹂を置い
て ︑農民の米雑穀などの﹁一抑 中へ付参﹂販売にも課税する
など収奪を末端まで強化した ︒
そのような中で ︑文政末年段階ともなると ︑前述してき
たような収奪策が領内商品流通の逼塞状況を生み出し ︑そ
のことが何らかの流通促進策を必要とさせている ︒文政十
態鉾︻御顛誇鞠碗抑 Ч捕品に却柳卿競蝶離つ 町
貯靭紳醐前報
がその意味をもつものといえよう︒これは ︑城下十八日町・
十八日町・塩丁の三町に三月・九月の年二回開催し ︑諸役
免除 ︑塩・鉄類の﹁御定値よりは割合安﹂ ︑﹁郷鋼粧 物何品
たり共差出商売﹂などを一特徴とするものであった ︒
ところで ︑特産物的遠隔地市場を前提とした国産買上げ・
登せを中心とする流通独占・統制はその吸着基盤の拡大を
期待するのであり ︑ここに国産業励・殖産政策がとられ
支政天保期における八戸藩の藩政改革と農民闘争 る ︒例えば ︑文政十一年 ︑﹁御領内漆桑緒植立掛﹂が置か
れ ︑三木の植立﹁奨励﹂に乗り出している ︒漆は長苗代温・
名久井通・軽米通の出根辺を﹁専場所﹂に ︑桑 ・情は八戸
廻・久慈通と地域割し ︑植立基準は三木とも蔵入地給所
地を問わず ︑
伊狩森岡御様高﹂一 ︲同中畑に﹁高壱石拾五本 ︑
中り﹂を強制的に植樹させるというものであった ︒
このような国産奨励策を見越した動きが ︑農民層の中か
尋迅 帥瑚
韓俵 床任 い
・ ・ 一 る ギね 帥姫 繭岬 師 オ 午明
一 ぇ 毎が 帳韓 郷
ろ・ ク︒
今まで述ベイ︑きたように ︑﹁主法替﹂の基本政策は流通
支配・統制による財政立直しにあったが ︑もう一つの柱
に ︑封建地代収取基盤の再確定 ・拡大の政策が挙げられな
ければなるまい ︒検地の実施と新田開発がその主な内容
で ︑野村は﹁内高共四万石有之 ︑猶一万石も検地打出斉新
田開発申付 ︑出来候得は五万石に相成 ︑左候得は城主格に
被為成﹂と考えていたという︒
惣輔 岬酪 除脚 廟 二 文 触 一 作誰 灯雛 郵躍 詠峨 靴輸 ば 藤渤 や一ヒ 此姫
年余の積﹂を以って ︑久慈 ・軽米・名久井 ・八戸廻 ・長苗
代 通 の 順 に 検 地 を 行 う 計 画 で あ っ た ︒ 同 史 料 に 検 地 前 の 状
況が次のように記載されている ︒
史 苑︵ 第三十六巻第一向万︶
︵上略︶一妹御帳調屋舗付山付等始末方大荒目御座候て ︑天明三卯年大凶作二付死絶置去及過半候得は ︑回
地向甚渋乱仕侯て ︑屋致付出付等も難相分 ︑且当時所
持の地面地名高も不東の者多 ︑勿論揚地の場所え至候ては ︑何連の村方二ても無筆多之御国故 ︑大凡二も覚居候者無之程二御座候得は ︑後世御検地間違相成候ても分明二相成可申哉︵ 下略︶これによれば ︑天明飢饉によつて﹁死絶置去﹂の者が過半にまで及び﹁田地向甚渋乱﹂して検地帳の﹁大荒目﹂が
生じていた ︒このことは落権一カがこの時点で正確な土地掌握をしていないことを示しており︑農村での生産力回復状況を把握することと相まって ︑年貢収奪基盤の整理・再確定が抜差ならぬ重要課題になっていたといえる ︒またこの
強的 は同時に ︑開発可能な﹁出河原等御座候ハハ御竿入御数地﹂にするといった ︑新地開発策と抱合させたものであった ︒
三れ石 ヵ ︑
れ年生 均膜節鞠蔀貌却貯戸時娃炉翻紳的鵬雑難醐 洵
全く生産力的話条件を考慮することなく ︑﹁威光を以て民を恐怖せしめ ︑令 球 道の竿打 ︑新田畑返し水揚等にて在々の
医窮大方ならず﹂であつた ︒だが ︑検地の結果は﹁且増且
減る村方もあり︑御高増も格別無之候﹂と ︑藩の意志とほ ど遠いものにすぎなかった ︒
ほぼ﹁主法替﹂の政策は国産政策と増石政策の二点に集
約されるが ︑その他主要と思われる諸点を列記しておこう︒まず ︑賞役・肴五分役・山役銭倍増・諸職人定役倍増・
大豆沖ノロ・数駒八戸引出し等々 ︑課税の強化・拡大が図られたこと ︒また備荒貯蓄のための﹁囲稗﹂制の採用 ︒さらに倹約の奨励・諸役人心得の徹底・綱紀粛正など家臣団統制の強化や文武学校の設置 ︑その外に﹁孝子﹂の奨励などが挙げられよう︒
ところで ︑この期に特有の問題ではないが ︑領主 ︱農民
関係を考える上で ︑見逃し得ぬ﹁肪金﹂貸付について付け加えておこう︒肪金は﹁家中一般え百石二付工貰文宛に年々掛金登り下りの者に百石弐五買文割を以被下に相成﹂る ︑藩土の江戸勤番費用のための積立金であるが ︑﹁右肪
金家中町在々御・ 貸針 相成 ︑利金を以登り下りの御取扱相成ける﹂ものであった ︒この肪金拝借の返済不納が ︑年貢滞納と共に ︑この時期の﹃勘定所日記﹄に散見される﹁本潰≡﹁内潰﹂願の理由になっている事例がかなり多い ︒それだけに農民に広範に利用されもし︑また戯烈な収奪状況下にあったことを予測させるに十分であるが ︑そのような高利貸的利潤収奪の意図であるだけに ︑返済不納に対する処置は厳格を極めた ︒﹁内潰﹂と﹁本潰にの差はよく分らない
‑66‑―
―‑67 ‑一
が ︑潰となった場合 ︑藩の許可・立合を必要とし︑ 一切の 所持物の数代金を引当てとして上納させており︑宝暦十三 年の﹁禿の者共え被仰渡﹂では﹁身売﹂規定にまで及んで
︵増︶
い た
在地構の造稗三合﹂﹁一委2と ︒
これまで述べてきたようた﹁主法番﹂の最重要施策は ︑
腐朽的膠着関係にあった件権豪商を排除し ︑あるいは統制
下に組み込み ︑自らの商業資本化により︑特産物的遠隔地
市場を前提に ︑商品生産・流通の在地的展開を領主権の下
に直接的に掌握することであった ︒城下町特権豪商の領内
流通支配の間隙をぬって豪農的発展 ・転化を遂げようとし
ていた家父長的村落支配者層がその収奪強化策の積汗とな
った ︒彼等は典型的には依然として賦役労働 ・下人︵奉公
人︶労働に基礎を置く手作経営地を持ち ︑また高利貸機能
を通じ多くの﹁作人﹂を従属させつつぁる質地地主でもあ
り︑さらに村請制による徴税請負人として共同体再生産機
能を担わされ ︑そして﹁ 自立﹂小農・隷属小農の非自給物
資の供給者としての商人的機能を本来的に持って ︑来た ︑
﹁大家﹂・﹁地頭﹂と呼ばれる村落支配者層であった ︒確か
に藩の流通支配 ・統制は ︑ 一面ではこれらの層の利害とも
文政天保期における八戸落の落政改革と農民闘争 合致した側面 ︱例えば大野村豪農晴山など﹁調役所﹂体制
に参画し ︑のし上っていける部分 ︱があったといわなけれ
ばならないが ︑特権的地位に関与しない多くの部分にとっ
ては ︑特産物的商品生産・流通の展開に新たに発展の基盤
をおく可能性はほとんど閉じられたといっても過言ではな
い ︒むしろ彼等の村落共同体における家父長的権威・地位
が ︑領主権力による国産品の集荷独占の強制機構として利
用されただけなのであって ︑利害の賞徹性を徴塵も見るこ
とはできない ︒そのような確認の上にたって ︑藩政改革に
よる収奪強化策の矛盾表現でもある﹃御日付日記﹄に登載
された﹁駈落︵ 欠落︶訴﹂を集積・分析し︑その負担転嫁
のされ方=﹁主法替﹂を支えた在地構造を理解していきた
い ︒
ここでいう﹁駈落﹂とは ︑単身・家族ぐるみで ︑領外ヘ
逃亡した者 ︑あるいは出稼ぎ等他出のまま帰国しない者な
どの届出されたものであり︑村方農民の逃散だけでなく町
方居住者および武家奉公人の逃亡者も含んでいる ︒
まず ︑文政元︱天保八年の二〇年間に﹁駈落訴﹂された ︑
その量的な推移を見ると︵表4︶ ︑文政末年から天保初年に
かけて ︑ただ文政一二と一 年の両年は半年間の集積分である
ことを勘案してのことだが ︑確実に増加しており ︑収奪強
化のあらわれをみることができよう ︒さらに飢鐘の影響と
衰 5 村方 「欠落二 の通 (廻)別 集積表 文政天保到における八戸語の藩政改革と農民闘争
││!i五 蓄 号 札 ず ―
母 1空 !1青 1群 │・ 許 滉
十 : │ : │ ‖│ : │ : 1 2 ‐ 8 1 8 + 増
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1上 1と 二 と ̲旦 査!』 工 1盪 下 す │を │ぢ 百 「 1乾 │
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注 典 拠な どは表 4に 同 じ。
表 6 八戸落通 (廻)丹 」表高表 (元禄10〜天保 5)
│〒権赤あれ車 れ再豆:豆亜貌遡
型
1軽 米 通 (品 掛麟 │(牙 品戦;│ ど 癖拭器
│を i:号 :│を を 苦 │ 12ヶ ;告 皆 i::it l 十 :と 子 itil,it
1峯運!̲盤1軽登 │1鱗
二̲ュ̲1̲̲建 響 土 登 堅 挫 上避 難 」
注 上 段は 「郷村御内所高帳も元禄1 0 」( 『八戸藩史料』), 下段の( ) 内 は 「郷村
高辻帳 ・天保 5 」 ( 『岩手県史 ・5 』) よ り作成 した。なお下段の分は計算が
合わない が,そ の ままとした。
―‑ 69 ‑― ―‑ 68 ‑一
内 訳 表
衰 4 『駈 落 訴 』
6 1 2 4 1 9 1 1 5 1 ( 1 》
/ I Z4 1 10 1 14 1 (o)
島 1襲1造1増1総
天 保 : │ 〕 │ !: │ :: │ │;│
史
苑︵第三十六巻第一号︾
言十
肇 公 表1不 明
町 方
│
2 5 件 ︲ 2 3 ︲ 3 . ︲ 2 4 ︲
・ 6 ︲ 2 7 i E ガ 2 . ︲ 4 0 ︲ 2 5 ︲ 2 0 ︲ 州 5 4 ︲ 町 封 判弱 劉 判
いうこともあり︑七・八年と急激に増加していることが指摘される ︒総数六六三件の駈落の内訳は ︑村方七六︐①% ︑町方六・六% ︑武家奉公人一六・七% ︑不明○・六%である ︒このうち村方五〇四件について見ると ︑蔵入地四七・〇% ︑拝地五三・○%で ︑八戸藩の給地の総石高に占める割合からすると地方知行地の方に多く見られることである ︒また名子の場合が十二件あることもと日に値しよう︒なおここで武家奉公人というのは ︑
農村から徴発された小者・箱持・草履取うち江戸表および参勤中に逃亡したと明記されている者が約半数を数えている ︒また地域︵ 通・廻︶別の集計によれば ︑水田率の高い地域︵志和 ・長苗
代︶に少なく ︑畑作地帯 ︑特に久慈・軽米に欠落が多い︵表5・6︶ ︒なお付記し ておくと ︑給所地は久慈・軽米・名久井にほぼ集中している ︒
さらに逃散者の持高記載数十一七件の 階層構成を示すと︑無高・極貧層に著し
3 1 3 2 1
1 1 0 0 3
2 2 0 3 4
1 ︲ 掛 2 ︲︲ 4 ︲
頑 ̲躍 1総
504 1 237 1 267 1
八戸藩 『御 目付 日記』より作成。
文政12,13(天 保 1)両 年の 1〜 6月 分, これ以下の表には含 まれていない。
な ど で
6 . 6 %
天保 2の 1月 分 は焼 失 のた め, 注 1
2
八戸藩 概 略 図
/へ、 、 ̲/;i早 廻
子 メ 鳴東 ― f
央 苑︵第三十六巻第一号︶
│
表 7 「 欠藩」者 の持高階層表
無 高 % │ 1 石 未満 1〜 2石 2〜 3石 3〜 4石 4〜 5石 5石 以上
3 2 戸 │
│ 27 4
35,9 1 8 8 10 3 3 4 1 ̲ 7
に米 通
2
2
2
4
2
3 2 6 1
再 百
i n7 コ Dは 11
注 典 拠な どは表 4に 同 じ。
ら
く偏重し ︑例外的に二〇石を越える者が二名 ︑八!
九石層が一名いるのみである︵表7︶ ︒また他領ヘ
﹁手間取・他働︐日雇働・日用取﹂として出稼ぎ
に行ったまま帰国しない者二一名を行先別に示すと︑多い順に仙台中盛岡・北通 ・近在 ・中奥通
で ︑他に伊達通へ商売に出かけた者が一名記載さ
れている ︒
ここから特徴的なことだけ指摘すると︑﹁欠落﹂
農民が水稲経営地域よりも ︑国産買上仕法 ︑特に
大豆の強制買上げ・生産強制の影響を直接的に受
ける主畑作地域に集中的に見られたことは ︑仕法
替による矛盾のあらわれ方を如実に表現していよ
しかも﹁借上﹂などの領主財政の負担転嫁を強いられ
た給人支配下においては ︑農民窮迫化の度合が一層深刻で
あったといえる ︒こうして ︑家父長的村落支配者層に従属
せしめられている無高・貧農層︱その労働力再生産の基礎は ︑猫の額程の名請地を持ち ︑あるいは持たず ︑﹁分作﹂︵ 刈分︶小作人として ︑または労働力の一部分が日雇・出
稼ぎに依存せざるを得ない階層として析出されつつある層︱に矛盾が極端に収叙され ︑それらの中には ︑経営崩壊に
追い込まれ ︑しかも村落共同体内に滞留しうる条件すら失って ︑個別的・分散的な形態で ︑領外の労働力吸収能力の
± 7 1 ‑ 70 ‑
ある地域へ ︑はじき出されていった部分が多少とも存在し
た ︒また名子︵隷属︶農民あ欠落は ︑基本的には ︑名子経
営自体が動揺させられている証左でもあるが ︑いずれにせ
よ ︑負担転嫁の仕組みが ︑究極的にはどのような階層にい
きつくか明白であろう ︒
ところで ︑領主権力の収奪強化策が在地との緊迫関係を
徐々に深化させていくのは確実なことでぁるとしても ︑そ
のことをもって直ちに総者姓一揆的状況に短絡させること
はできない ︒村落共同体における家父長制的 ・身分制的階層
秩序の堅回なこの地域において ︑藩の収奪政策によって生
じた負担部分 ︑か潜行的により下層へと沈降させられていく
のが通常であること ︒それによって一駈落﹂に見られる小
経営離脱の危機を内包した没落賓農・小作人層が名子制を
再生産しながら広範に析出されるとしても ︑その個別分散
性は免がれず ︑家父長的村落支配者層が ︑その地位を決定
的に脅かされない限り ︑容易に総百姓一揆的状況にはなら
ないといぅことでぁる ︒
そうした意味からも ︑潜在的矛盾が顕在約矛盾に転化す
るためには ︑今まで以上の契機が与えられる必要があった
といえよう ︒天保飢饉への藩の施策のあり方がそれであっ
た ︒
天保飢饉は ︑天保四年で十年まで連年襲い ︑通例﹁七年
文政天保期における八戸藩の藩政改革と農民閑争 柿 地野﹂と呼称されている ︒四年八月 ︑領内なべて譜深 同様
の凶作と予測される状況の中で ︑
百姓共一 ︲野走蕨掘﹂いと
う動きが発生し ︑城下においても﹁穀物一円え売出不申候
故餓死卜及候者﹂も生じ︑このため藩は岩城米辞
︶ ﹁惣門丁
御会所にて壱人に付壱日白米壱升つゝ百文に御払﹂してい
る ︒また ︑藩ではこの時点で作況の把握に努めると共に ︑
﹁御徒士日付加役両人町組壱人村方乙名共先達にて ︑在々
分限者井穀物所持候者斗荒々と改被仰付 ︑在々無残相廻﹂
り︑この穀改によって領内の貯穀の実態を把握しようとし
た ︒さらに同月二十七日 ︑中老野村を筆頭に ︑徒日付調掛
り小笠原七右衛門や美濃屋安兵衛など大勢を随伴し ︑米買
付のため﹁北国筋﹂越後新発田に出立した ︒この時の米買
付の持参金は壱万八千両程といわれる ︒
当初 ︑飢饉対策 ︑なかでも村方極貧層の﹁救済﹂措置は ︑
一村限の任居の者一統親類同様に相心得 ︑互に助合相続可
致候 ︑勿論平年株式宜敷者亦は繰合宜敷者穀物貯置候は ︑
自分相続分除置其余は価を取払遺可申候﹂とぁるよぅに ︑
﹁株式宜敷者十﹁繰合宜敷者﹂といわれる ︑前述したよぅ
な名子主的村落上層農民の経済力に依存して ︑﹁村限﹂に
﹁助合相続﹂すべきものとされていた ︒しかも﹁村限﹂と
いうことであるから ︑﹁壱村﹂限りに穀留を実施し ︑﹁他
村えは仮今親類たり共一切払遣﹂わすことが禁止され ︑若
史 苑︵ 第三十六巻第一号︶
し﹁困窮の者有之共見捨置技も不致 ︑訴出も無之及死亡候
儀﹂ある場合は﹁村方一統の越度﹂とされた ︒また九月 ︑﹁藩が当年違作二付御領内所々え御救質屋三ケ年中無役ニ
て願出申度者被仰付べく 郷村株柄の者え相達﹂したことも ︑持つ意味は同じであろう︒これに対し ︑剣吉村伊勢
屋喜兵衛・明戸村重三郎・大野村吉三郎など﹁郷村株摘﹂の者が呼応し︑質屋開業が許可されている ︒いわば ︑共同
体諸規制を前提とする高利貸機能それ自体が ︑救済機能と
見られていたのである .
この時期 ︑見落せないものとして ︑預切手の問題が再び
顕在化している ︒預切手は文政五年一時引揚げられたが ︑
再び国産品強制買上げと関連して ︑天保三年に石橋徳右衛門・美濃屋安兵衛名前の一視本札預切手一 が発行され ︑翌四年に
一銭預切手﹂の通用が始められた ︒しかし四年も十一月と
なると ︑ 一似せ切手多分出来殊更十三日市日大騒にて切手
通用町中無之程﹂の状態となり︑穀相場の高値は﹁贋切手
致候者 ︑在々駈歩穀物類無法相場高値二買歩行候故日増相場引揚になったためという風閣も広まり ︑
﹂藩れ対候者が続たはに出こしし︑ ︒ 替早速述引申一 ︲
領両三年内は内一 ︲の
え金銭入候事無之必定困窮に至候儀も有之事に候間 ︑世上
振合相直候円御囲銭不差出 ︑御領内融通は相成丈預切手にて取引為致候様被仰付︲ア一ヽあくまでも正金銭は藩が独占す がきものとされたのである ︒
ところで ︑藩の飢建をめぐる方策が総百姓一揆の直接の
導火線となったのは ︑こうした﹁村限助合﹂ 策をさらに一歩越えて ︑﹁株式宜敷者﹂の村内貧窮層に対する﹁救済﹂機能にまで藩権力が介入していったことによる ︒それはその一揆
が﹁稗三合﹂一族と通称されてもいるように ︑ ゴ人え一日玄稗三合の当を以宛介 ︑共余は何程にても不残買上﹂げるという︑貯穀の在地留保を一切認めない強制買上げという強硬な態度であった ︒それに関する次の史料をみよう ︒
此節上の御囲金も沢山有之 ︑殊に諸国より御買入米有
之事故 ︑定て御数米可有之 ︑当年は諸過役免許可有之と皆々相待ける所何一つ赦面もなく︑ 一粒の施迪もなし︑却て 一人え一日玄稗三合の当を以宛介 ︑共余
は何程にても不残買上被仰付ける ︑尤当時稗直段一貫文に四斗四五升の処四斗の直段にて ︑米粟雑穀迄右の
段平均を以買上申達しける ︑話役人軒別改帳を以相廻り︑年越新年の祝を不構 ︑在々厳敦責廻りける故 ︑老
若男女漫悲路道に迷ひ責る上より御救ひなく共 ︑持合の菜大根迄御取揚 ︑手前の貯ひも自由にならぬ世の恨
めしさよと ︑百姓原野村を罵り上を恨み ︑四方に散乱し歎も理りなり︒
こうした過酪な政策は当然反発が予測せられるにもかか
十 72 ‑―
一‑ 73 ‑
わらず ︑強行した理由は判然としない点もあるが ︑
貧福一 ︲
二不抱上御数而巳二て相続可致筋も有之間敷故 ︑如何様成
品ヲもかてい︵糧力︶にいたし ︑穀物類日々倹約いたし少
々つつも廷候ハハ ︑来十月迄二御積フ以御数被成下候故行
届可申候﹂というのが落当局の言分であった ︒
こうして﹁稗三合扶持﹂策はこの上もない収奪強化とし
て ︑無高貧農層ばかりでなく ︑﹁貯穀﹂を持つ名子主的村
落上中農層を包み込み ︑在地総百姓との矛盾を一挙に炸裂
させる直接の契機となった ︒しかもそれは ︑﹁主法替﹂そ
のものの撤回にまで至る藩一峡の基本を揺振る一揆として一またたく問に全藩的規模怪展開していった ︒
天保五年正月 ︑﹁稗三合扶持﹂買上実施のため ︑係役人
が廻村しており︑在々村々は﹁郷中壱人にても餓死為致間
敷候間 ︑御買上御免被成下候様願出﹂たが ︑ ョ円御免不
被仰付上と藩の強硬な態度は不変であった ︒
一揆の経過を述べることは控えるが ︑正月七日夜中 ︑久
慈周辺の農民四五百人が久慈へ押寄せたことに始まるとい
われる ︒そして ︑落から願筋に対する回答を得 ︑藩政改革
の中心人物野村軍記の失脚が藩の処置として決定される十
五日まで ︑ 一族状況が継続した ︒ 一揆勢は一名の犠牲者 ・
捕縛者も出さず ︑ほぼ成功裡のうちに収東した ︒
この一揆は八戸藩において ︑藩政の改変を求めて城下に
文政天保期における八戸落の藩政改革と農民闘争 押出し強訴した最初の ︑そしてただ一度の全藩的規模での
総百姓一校であったが ︑この問争の特徴的な点をいくつか
指摘しておこう︒
一於勢は三方面から押し寄せた ︒浜通勢令八戸年代雑話﹂
で三千四五百人 ︑﹃御目付日記﹄で二千人 ︑以下カッコ内
数字の典拠は同じ︶の﹁至剛至暴﹂ ︑長苗代・名久井勢︵弐
千五六百人 十二千人︶の﹁臆病二て日和見﹂の態度と比較
し ︑久慈・軽米勢︵一万数千人 ︱三四千人︶は﹁惣大将に
f ︑ ︑何れも軍命厳敷乱妨ケ間致事﹂の一切ない組織的統率
のとれた規律のある関争を敢行した ︒このように久慈 ・軽
米勢が﹁総大将﹂的役割を果し得た背景には ︑この地域は
前述したように
法所主替﹂矛盾一 ︲にが最強よる出たでもく
あり ︑非特権的な名子主的村落支配者層を中心に周到な準
備があったと考えられる ︒盛岡藩の横川良介の著した﹃見
聞随筆﹄によれば ︑﹁共体紬類の衣服を着し百姓町人妹共
不見得﹂る﹁頭取十二人一の者が ︑久慈通の﹁在々を触廻
り︑ 一人たり共不参の者有らハ ︑帰りて後所存を聞届へし ︑
用意の小遣銭等は一切持参二不及 ︑何程なりとも我等より
出すべし﹂と闘争の組織工作 ・扇動にあたっていたといわ
れる ︒そして一旦緊張の緒がとけるや ︑この﹁十二人﹂の
者の呼びかけに対し ︑
百姓共大方神一 ︲是仏ハの手引なんら
と男女二眼らず村中残りなく皆立の盛 ︑用意もせず ︑誘引
の決定的矛盾関係を創り出さない限りにおいて ︑再び行わ れ得るであろうという点である ︒事実その後の政策基調も この基本線から大きく逸距することはなかった ︒また ︑領 主権力の国産商品の直接掌握が弛緩することによって ︑そ
文政天保期における八戸落の藩政改革と農民闘争 れまで権力の強大性の前に統制されてきた ︑城下町商人・
在村の家農的農民にとっては ︑富の蓄積の条件が一層拡大
したことであり ︑しかもそれを許容するような在地構造 ︑
すなわち家父長制的隷属・従属関係を容易に払拭させない
で進行する農民層分解の特質に支えられていたのである ︒
お わ り に
幕藩制解体期の南部八戸藩における藩政の改革 ︑および
それを﹁支えた﹂田有の在地構造を中心に論じてきた ︒藩
財政再建の成功は全国的な特産物的遠隔地商業の発展動向
を前提にして ︑領主権の絶対的強さの発動のもとに ︑領内
の商品生産・流通の成果を一身に奪取していくことによっ
てもたらされたものである ︒ン﹂のような収奪強化策は ︑とり
あけ名子制が堅国に残存している主畑作地域において ︑総
百姓との矛盾を拡大 ・深化させていった ︒だが村落内階層
関係が家父長制的支配 ︱隷属の身分関係として強くあらわ
れているこの地域においては ︑収奪強化策による新たな負
担部分が ︑隷属 ・従属小農に潜在的に転嫁されることによ
って ︑当面矛盾が減殺されていった ︒したがって名子主的
村落支配者層が決定的にその家父長たる地位が脅かされな
い限り︑総百姓一撲状況には直ちに展開しないことをみて
表 8 「 辞三合」一浜 の要求 と沙汰
1.科 三合積御免願 2.大 豆 買上御免願 3.塩 買上御免願 4 類 駒八戸引出御免願 5 粕 油買上御免願 6.真 役御免願 7.肴 役御免願 8 商 人宿御免願
9 他 領商人入込勝手次第願
1 ∩ 御 車 済 酒 御 存 雨
■■ ■ 「,;予0そフこ│ン」レツ及ユ五真
12 ‑石 三百文御免願 13̲大 豆沖の 口御免願 14 金 銀預切手御 引揚願 15.出 役銭倍増御免願 16 諸 職人定役倍増御免願 17.御 蔵給所立役 の外過役御免願 18 惣 て諸運上一手御免願 19 鉄 山売庄1願
20。久慈田屋別人願
21 久 慈分平太夫御竿入の場所打直 し願
と 『 藩 史料 』587〜591頁よ り作成 。 なお○ 印=許 可,△ 印 =条 件付 許可 )X印 =不 許可。
△ (融訪 日市 斗 可)
い貝 上
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―‑ 75 ‑一 一‑ 74 ‑一
史 苑︵ 第三十六巻第一号︶ に任せて ︑急ち二万人余と炭﹂り︑堰セ劫 る勢いで全領的 規模に一族が波及拡大していったという︒ ところで ︑このような一於の波及の仕方から見ても ︑特 産物的遠隔地市場に結合した藩車売制が極めて強い領主的 要請として ︑権力的に在地全体に持ち込まれていった ︑そ の領主 ︱百姓のうっ積した基本的階級矛盾の深刻な度合が
理解されよう ︒それも﹁稗三合扶持﹂の ︑飢饉対策の名目
を借りた貯穀の買上げ策が ︑村落支配者層の共同体再生産
機能にまでおよぶものである以上 ︑彼等をして一浜の前面
に立たせ ︑無高・貧農層や名子層の広範な参加に支えら
れ ︑総百姓強訴一浜という一形態を取っていったのである ︒
しかしながら ︑ 一般的にこの時期の惣百姓強訴一湊は特
権的豪農 ・商の打ちこわしを伴うのであるが ︑この一族で
は今のところ ︑それを検出することができない c勿論 ︑ 一
奏後新仕法に協力的であった者の罷面が行われたように ︑
対立・矛盾関係が一切顕在化していなかったというのでは
ないが ︒打ちこわしを伴わないことの理由は ︑ 一つには特
権的豪農の在地的性格という問題 ︑すなわち彼等はその経
営発展の基礎に名子制それ自体を解体させずに ︑手作地経
営を保持していることに象徴されるように ︑家父長的支配︱隷属・従属関係の強さに規制されて階層間矛盾が容易に
表出しにくいということ .二つにほ ︑このような豪農層が 特権的地位にあるとしても ︑藩権力のもとに統制され ︑そ
の枠組においてしか行動できない従属的﹁共生﹂関係にあ
ったことも関係している ︒そこで ︑自らの持つ在地との矛
盾を政策執行者 ︑野村軍記に責任転嫁することによって ︑
特権的豪農商が保身し得たともいえる ︒
さて ︑この一族の二十一カ条の要求項目と ︑それに対す
る藩の処置を示したのが表8である ︒これによれば︑流通
支配
制規撤廃課のおび諸役担軽減いよの負に集約れさ・ ︑
る ︒しかし実際にはその要求項目の約半分が容れられたに
すぎないが ︑主な成果は﹁神三合積﹂を含めた藩の独占的
な強制買上げ策が撤回されたことであった ︒
商品流通の自由のために ︑領主的規制 ・支配の撤廃を求
めた闘いは ︑未だ自給自足的生活形態に強く繋がれていた
としても ︑今や小商品生産者たる性格規定から逃れ得ない
小経営農民にとっては ︑その経営発展 ・流通︵ 市場︶参加
は切実な課題であったといえる ︒しかし ︑ここで藩の一定
の譲歩 ︑藩専売制の一時的後退を余儀なくさせたとして
も ︑小経営の成長・発展の途=家父長制的身分関係からの
脱却は非常に険しいものであったといわなければならな
い ︑ともかくも ︑野村による﹁主法替﹂は藩財政の好転を
もたらしたのであり︑商品流通に対する領主的統制の強化
が強制買上げ策にまで及ばないとしても︑村落支配者層と
史 苑︵第三十六巻第一号︶ きた ︒いわば名子制を存続させなければならないような在地構造が﹁主法番﹂の成功という事態の基盤になったといえよう︒
無論 ︑名子主的村落支配者層といつても ︑自然経済に縛られた旧態依然の名子主層ではなく ︑商品生産・流通過程に新たに発展の基礎をおく︑あるいは恣態転換を迫られていろ︵したがつて対応し得ないで没落していく部分を対極に生み出す︾階層である .ただ ︑名子主的本質を変えないまま豪農的発展に乗り出していくことに特徴を持っていろ ︶この階層は﹁稗三合積一﹂員上げ策を直接的要因として ︑
藩事売制下に圧迫させられていた自らの利害・要求を一挙に爆発させた ︒その結果 ︑以後の藩政は総百姓一於による打撃によつて ︑このような名子主的村落支配者層の動向に大きく規制されざるを得なくなっていつたのである ︒
最後に ︑最も重要なこととして ︑文政・天保段階の小経営農民にとつて ︑ 家父長制的身分関係からの脱却︵ ﹁名子ヌヶし ︑あるいはその払拭︵名子制を再生産させないこと︶が ︑依然として苦渋に満ちた課題であつたことを指摘しておかねばなるまい ︒
注︵1︶名子制度の参考文献 ︒有賀喜左衛門﹃日本家族制度と小作制度﹄・﹃大家族制度と名子制度﹄︵両書共﹃著作集﹄ 未来社所収︶ ︑森嘉兵衛﹃九戸地方史﹄︵のち﹃日本僻地の史的研究﹄と改題︶上下 ︑岩手県内務部﹃特殊小作慣行︱名子制度・刈分小作︱の実情﹄昭七 ︑農林省農務局﹃本邦二於ケル刈分小作﹄昭九 ︑農林省農務局﹃旧南部領二於ケル名子及之二類似ノ制度﹄昭一一など︒
︵2︶ ﹃八戸落史料﹄︵前田利見編・昭四 ︑伊吉書店より昭四八復刻 ︑以下﹃藩史料﹄と略︶五二六頁 ︒なおこの藩政改革を扱つたものには ︑﹃概説八戸の歴史﹄中2︵八
銹 雑擁 締投 制勅 陰卒 ﹂鑓 雫 扉 読 艶 謹
号︶などがある︒︵3︶ ﹃南部津軽飢饉史料﹄全同森県叢書第七巻︶八八頁 ︒
︵4︶同書所収﹁天明凶歳録﹂二七三頁 ︒
︵ 5︶故
︑脚 翻徽
妙帥 唯 ヽ
二七一頁歳録﹂ 村︵ ﹁天明凶不相成多付五一仕にし処のもたケ申るし ︑相成不仕付不三一にとのも煩村方多てケ不残相ふし廻く
衝貯 蜘は 卿納 雌確 晦静 庫病 一 印命 沖却
︶ ︒
︵6︶特に天明四年時には半知貸上を実施し︑との対象は知行取・扶持取から﹁御末女中御端女
二頁六一料﹄四藩史翁十 だおん﹂ .にでよま
︶ ︒
︵7︶ ﹁天明凶歳録﹂二六八頁 ︒
︵8︶八戸藩﹃勘定所日記﹄︵上杉修氏克蔵 ︑八戸図書館依託史料 ︑以下﹃勘﹄と略︶にはたびたびこの延納願が見られる ︒
︵9︾森氏前掲書に提示されている名子類型の ︑社会的数皿
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名子・契約的借金名子にあたる名子制の再生産状況をい 森氏前掲書参照 ︒ 八戸藩﹃御目付日記﹄︵上杉修氏蒐蔵 ︑八戸図書館依 託史料 ︑以下﹃目﹄と略︶文政2・9・
1 70
﹃目﹄文政
1 3
・45︒ 上杉氏蒐蔵 ︑八戸図書館依託史料 ︒﹁野沢ほたる﹂翁日本庶民生活史料集成﹄六巻 ︑三一 書房︶五〇頁 ︑
柏崎記﹂翁一 ︲奥南新報﹄明
4 2
・3・7
︶ ︒
﹃藩史料﹄五五二頁 ︒ 同五二九頁 ︒﹃多志南美草﹄︵みちのく双書
3 8︶一八頁 ︒ 一 ︑兼々国恩志却不心得の筋数多有之事 ︑ 一 ︑主法替 に付封印相破不軽事 ︑ 一 ︑両替迷惑に事寄せ申立上下を 難儀為致候事 ︑ 一 ︑主法替申達書他国者へ相渡不軽事 ︑ 一 ︑同断写迄是亦他国者へ相渡重罪難遁事翁藩史料﹄五
三二貝
︶ ︒
︵・ 9
︶ ﹃落史料﹄五三五頁 ︒
︵2 ︒
︶ ﹃勘﹄文政
1 3
・8・4︒
︵2 .
︶同文政8︐7・4︒なお ︑三つ役=一反歩 ︒
︵2 2
︶同天保2・8・8︒
︵2 3
︾ ﹁野沢ほたる﹂四〇頁 ︒
︵2 4
︶﹃目﹄文政8・3・1︒
︵2 5
︶ ﹁野沢ほたる﹂三七頁 ︒
︵2 6
︶ ﹁柏崎記﹂翁奥南新報﹄明
4 2
・2・
︶ ︒1 ︒
︵2 7
︶ ﹃落史料﹄五四七 一真 0
文政天保期における八戸藩の藩政改革と農民関争 ︵2 8
︾ ﹁当奉大坂屋吉右衛門御塩支配被仰付置候処 ︑勧定の 節格別引負有之上納方難相成被成御吟味 ︑八百両余御塩 代上納相滞候二付 ︑家財有品御取揚 ﹂︵ ﹃勘﹄天保4・ 6・ 2 7︶なておた説八戸歴とま﹃概の史﹄にれっりよ︑ ば ︑大坂屋は塩取り扱いの日銭を実際は一文ももらつて いなかったといわれる ︒
︵2 9
︶森﹃九戸地方史﹄下 ︑五五二頁 ︒
︵3 ︒
︶﹁野沢ほたる﹂四六頁 ︒
︵3 .
︶同 一 剛 ︒
︵3 2
︶ ﹃青森県史﹄二五八︱六二頁 ︒
︵3 3
︶西町屋文書﹃永歳覚日記﹄舎一番 ︑文政
1 3天保51
︶ ︒
︵3 4
︶ ﹃自﹄文政■・
1 0
・2 5
0
︵3 5
︶乍恐以書付願上候事 一 ︑於森岡御領近年蚕種御吟味方被仰付 ︑右支配方近江 屋兵右衛門と申者年々盛岡御領内相廻 ︑福島上々種引配 仕候間 ︑多分蚕損シ無之国産二も相成趣二御座候 ︑ 別 て御領二て江刈・葛巻通・関・川井L日ノ沢辺 ︑蚕養方 専二仕潤を以御年貢等上納相続罷在候所 ︑当年悪種入込 候て多分損シ ︑ 御百姓共甚迷惑仕候 ︵ 私え︶一手引 配被仰付被成下候得者 ︑手入方共二得と用知らせ往々御 国産同様の次第二も被成候得は ︑御百姓共一統の為二も 相成候 ︑御年貢多足二仕上納可仕奉存候 ︑尤桑植方共ニ 気フ付手入仕候儀二御座候 当年手初の事故 ︑為冥加 金弐歩御趣意の積可奉上納候 ︑乍恐願の通被仰付被成下 度奉願上候 ︑年々引配仕御国産二も相成候様二至候得 は ︑其節猶又冥加金相増可奉申上候 ︑乍恐以御慈悲願の
盆 9 盆 盆 盆 盆 の 盆 盆
史 42 41 40 39 38 37 36
︵4 3
︶ 苑︵第三十六巻一号︶
通被仰付被成下度奉願上候 ︑以上 女政五午六月 願人御蔵入葛巻村 善太郎
庄屋 又五郎 名主御用承り 万 吉 令勘﹄文政5︐8・
た﹂四七頁﹁野沢ほる︒ 1 2︶ 上杉氏蒐蔵・八戸一凶書館依託史料 ︒﹁柏崎記﹂翁奥高一新報﹄明
4 2
・3・
﹂沢た四七頁﹁野ほる︒ 1 0︶ 同前 ︒
﹁野沢ほたる﹂三六十七頁 ︒ その具体例として次の史料を示しておこう︒ 岩沢 ︑六兵衛本潰願︑岩沢村六兵衛兼て御肪金拝倍の所 ⁚上納手段も無御 座候間 ︑六兵衛本清被仰付被成下度奉願上候 ︑願の通 被仰付被成下候ハハ家財有品級払上納多足二仕度奉存 候 ︑不足の処親類共無殊繰合仕候共御大切の御肪金井 御年貢上納外二役衛一 共二相片付申度奉存候間 ︑何卒以 御慈悲願の通本潰新一仰付被成下度右の趣乍恐奉願上 候 ︑以上
是川岩沢六兵衛親類共 合勘﹄文政6・6・
2 8︶
宝暦十三未十一月禿の考え被仰渡覚︑高何石 代何拾何貫文 持高︑屋敷 代何拾貫文 士τ軒︑家財 品々 一 ︑手廻 内男何人 誰何十
右人は六拾殻抑以拾部翻卦撫売謙師離 ︑但六拾五歳罷 成候ハハ親類共被成下候事 ︑幼年の者拾五歳迄親類五 人紐え御預置十五歳罷成候ハハ訴可中知候 ︑右身売の 者年季井身代朽の儀は其節伺の上可被及御沙汰候 ︑尤 人主請人ハ親類五人組の者共相立可申候 ︑但六拾一歳 以上は親類共え以御積可被成下候 未十一月︵小笠原家文書 ︑八戸市立図書館蔵︶
︵坐︶天保一三年を例にとると ︑総高三八 ︑九八〇石の内一 四 ︑六三九石が知行高である翁岩手県史﹄第五巻一五五
三頁
︶ ︒
︵4 5
︶ ﹃勘﹄天保4・8・
1 50
︵4 6
︶ ﹁八戸年代雑話﹂︵前掲﹃飢饉史料﹄所収y九八頁 ︑ 以下断わりのない限り︑引用はこれに拠る ︒
︵4 7
︾﹃勘﹄天保4・9・
1 20
︵4 8
︶ ﹁野沢ほたる﹂五一頁 ︒
︵4 9
︶﹃勘﹄天保
1 4
・・ 2
・・ 4
0
︵5 0
︶ ﹁野沢ほたる﹂五一︱二頁 ︒
︵5 .
︶ ﹃九戸地方史﹄下一二〇二頁 ︒原本は岩手県立図書館 蔵 ︒
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