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姫路藩大庄屋三木家の職務について

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(1)

姫路藩大庄屋三木家の職務について

著者 山? 善弘

雑誌名 奈良教育大学紀要. 人文・社会科学

巻 64

号 1

ページ 69‑78

発行年 2015‑11‑30

その他のタイトル Administration by the chief headmen of the Himeji clan

URL http://hdl.handle.net/10105/10364

(2)

奈良教育大学紀要 第64巻 第1号(人文・社会)平成27年

69

Bull. Nara Univ. Educ., Vol. 64, No.1 (Cult. & Soc.), 2015

姫路藩大庄屋三木家の職務について

山 﨑 善 弘 

奈良教育大学社会科教育講座(歴史学)

Administration by the Chief Headmen of the Himeji Clan

Yoshihiro YAMASAKI

(Department of history, Nara University of Education)

Abstract

Because the chief headman system of the Himeji clan has a big scale, we cannot elucidate the characteristic of the system only by analyzing the administration by a chief headman in one district.

Therefore, it is necessary for us to analyze the administration by chief headmen in districts as many as possible at this stage. We must be able to elucidate the characteristic of the chief headman system of the Himeji clan in the future by doing so.

With such a thought, I took the Miki family as an example of chief headmen in this article and clarified part of the duties. In addition, I paid attention to the relations between the

chief

headman and the assistant of the

chief

headman, and mentioned that the

chief

headman system might change in quality and that it might show that the fief rule by the Himeji clan changed in quality in the later part of the early modern period.

キーワード: 姫路藩,大庄屋,支役庄屋

Key Words: Himeji clan, chief headman, assistant of

chief headman

1 .はじめに

姫路藩の大庄屋制については羽田真也による研究(1)

があり,同藩の大庄屋制の多様な側面に注目することで,

その実態が解明されつつある。その他にも,同藩の大庄 屋制については幾人かの論者による研究があるが,大庄 屋が各大庄屋組内でどのような支配を行っていたのかを 具体的に明らかにしようとした研究は,今のところ羽田 の研究に限られ,貴重な成果といえる。ただし,羽田の 研究は播磨国加古郡新野辺組での大庄屋制を対象とした もので,同藩の大庄屋制について全面的に考察したわけ ではない。

後述するように,姫路藩の大庄屋制は規模が大きく,

一つの大庄屋組での大庄屋制を例に取っただけでは,そ の全貌には迫りえない。したがって,現段階では,同藩 の大庄屋制の事例を一つでも多く掘り起こすことが必要 である。その上で,将来的に同藩の大庄屋制の全貌を明 らかにすることが期待される。

本稿では,このような問題関心から,播磨国神東郡辻 川組の大庄屋三木家を対象とし,その職務の一端を明ら かにすることを目的とする。その際,素材とするのは,

大庄屋三木家文書中の文政 6 年 1 月「諸御用日記」(以下,

「日記」と略す)である。

2 .姫路藩大庄屋制の概要

まず,姫路藩の大庄屋制の概要を示しておきたい。

姫路藩の大庄屋制は池田期にはすでに成立していたと いわれ,数カ村から二十数カ村ごとに大庄屋組を設け,

庄屋の上に大庄屋が置かれるというものであった。酒井 期には在地が28の大庄屋組に分割され,姫路にいる 4 人 の代官によって支配されていた。その状況を示したもの が図 1 である。この中の⑦辻川組を三木家が管轄してい たのである。

大庄屋の職務としては,組内における年貢米の決算・

水利普請の監督・庄屋からの領主宛願書などの取り次

(3)

ぎ・争論の調停などがあったといわれている(2)。以下で は,三木家が辻川組内でどのような職務を遂行していた のか,その実態に迫ることにしよう。

3.大庄屋三木家の職務について

「日記」は,当時,辻川組の大庄屋であった三木藤作(通 明)の手になる職務日記である。辻川組は西川辺村・東 川辺村・上瀬加村・下瀬加村・西田中村・北田中村・上 田中村・保喜村・上牛尾村・下牛尾村・西小畑村・東小 畑村・浅野村・井ノロ村・北野村・田尻村・大門村の計 17カ村(3)からなり,この日記には,これら村々を管轄す る大庄屋としての職務に関わる多様な記事が認められて いる。以下では,職務内容ごとに事例を挙げながら,そ の実際を見ていこう。

3. 1. 触の伝達

まず,藩からの触の伝達に関与する側面を見よう。

     堂町新地壱丁目播磨屋利兵衛借家天満屋代      判惣助方ニ旅宿江戸深川佐賀町

       清九郎店       弥兵衛

右弥兵衛儀実綿市立之義相願差免,右市場所天満拾 壱丁目ニ相極候間,市売望之者者作綿勝手次第右市

場処江可差出,尤帳合・延商ひ等之義者決而不致筈 ニ置段,文化七午年四月相触置候処,右市場替之 義相願,当時長堀次郎兵衛町ニおゐて市立いたし候 間,市売望之者者作綿右場処江可差出候,尤最前相 触候通,帳合・延商等之義者決而不致筈ニ候之条,

其旨可存候   午三月

右之通去午三月中,実綿市之義郡切御触有之候処,

弥兵衛出店引請人御代官所飾西郡同村芦田五郎兵衛 と申者取締之由ニ候,右五郎兵衛手先之者近頃岡組 加古新村江罷越,別紙之通引合書差出,鑑札を請候 様申之,綿拾貫目ニ付三分ツ々右弥兵衛江相渡可申,

若不承知ニ候ハヽ綿売買相成不申,猶又其旨所役人 江掛合之上,大坂御番所江相願可申と手強申聞候由 訴出候,右御触面とハ大ニ相違いたし候間,鑑札受 候義幷綿拾貫目ニ付三分ツ々弥兵衛江相渡候義一切 頓着ニ不及候,無株ニ而売買致候義も前々より仕来 之通致候段手強可申聞候,若彼是申聞候ハヽ,引合 書之裏書ニ市立不申,前々より無株ニ而売買致来候 段裏書ニ致候而も不苦候,勿論市立之義者御触之通 不相成候得共,鑑札者・を之書 損 歟請候義不相成候,此段承知 可致候,右之趣村々不洩様相触可申候,以上   未四月 文政六年癸未四月也

御代官様より御召之上,右之通相触候様被仰渡候間,

図1 酒井家時代の大庄屋組

〔注〕羽田真也「播州姫路藩の触元大庄屋と在年行事について」(『関西学院史学』30,2003年)より引用。

(4)

姫路藩大庄屋三木家の職務について

71

村々不洩様早々御触可被成候,以上

   四月廿九日     触元        大庄屋㊞

     中嶋      御立       辻川      右大庄屋所

   覚

摂河泉播之内綿市場之儀,諸方之百姓売之義者勝手 次第ニ被致候,此儀綿市場ニおゐて差構無御坐候,

尤実綿・くり綿無株ニ而売買被致義者御免株綿市場 之差構ニ相成候ニ付,無株ニ而之相止メ不申候ハヽ,

大坂御番所江御糺奉願候,依之此段御引合申上候,

已上

       但シ,其村内何兵衛   年号月日  御免綿市場主       江戸屋

      弥兵衛 印       何村

        御役人中

 大坂岩田町綿屋弥兵衛播州出店引受人飾西郡同村        芦田五郎兵衛

右之御触,文政六未年五月朔日ニ来

この触は文政 6 年(1823)4 月29日に,触元大庄屋か ら中嶋組・御立組・辻川組の大庄屋所に伝達されたもの で,播磨国へ,大坂の実綿市場主江戸屋弥兵衛が介入し ようとしたことに対して,姫路藩が村々にその対応の仕 方を示している。

播磨国への弥兵衛の介入についてはすでに拙稿(4)で述 べているので,詳細はそちらに譲るが,弥兵衛が播磨国 へ出店し,同国で綿売買に携わっている百姓を統制しよ うとしたのに対し,「鑑札受候義幷綿拾貫目ニ付三分ツ々 弥兵衛江相渡候義一切頓着ニ不及候,無株ニ而売買致候 義も前々より仕来之通致候段手強可申聞候」と,弥兵衛 の配下に入ることのないように藩は強く申し渡している。

その後,この問題は解決することなく持ち越され,文 政 9 年(1826)には, 姫路藩領のみならず, 播磨一国の 村々が弥兵衛を相手取った国訴を計画することになる。

その前段階での姫路藩領での状況が知られる注目すべき 内容である。

それはさておき,触の伝達そのもののあり方について 話を戻そう。

触元大庄屋とは,28の大庄屋組が 4 人の代官の支配地 ごとに組合を形成し,それぞれの組合内の大庄屋たちの うちの 1 人が任命された役職であり,代官の命令を組合 内の他の大庄屋たちへ通達していた。この触からは触元 大庄屋の名前などは知られないが,中嶋組・御立組・辻 川組の大庄屋へ触を伝達していたことが分かる。

さらに,傍線部を読むと,これら 3 組が触の終着点で はないことが分かる。触元大庄屋は代官から召し出され た上で,この触を大庄屋組へ伝達するよう命じられたの であるが,さらに彼は,3 組の大庄屋に対して,各組内 の村々へ触を伝達するように指示している。

普遍化を図るため,もう一例,触を示そう。

       御代官江

当年より 御帰城之節者 御鷹拝領有之,  御在 城中ニ者 御拳を以御献上も有之候事ニ付,於御鷹 場殺生停止之儀御家中江も相達候間,各支配所江左 之通不洩様可申渡候

一在中之者共殺生停止之儀兼而相触候通,猶更屹度 相慎可申候,且在中ニ而致殺生候之者見請候ハヽ,

御家中之ものたり共名前承届書付ニいたし,其筋 之役人共江早々可申立候

一万一心得違ニ而村方之者共致殺生候者在之候 ハヽ,其村々役人共屹度咎可申付候

一御鷹之儀ニ付村方之難儀ニ相成候筋も有之候 ハヽ,委細書付御代官迄可申立候,吟味之上右同 様ニも可申付候

一御他領より自然忍入致殺生候ハヽ,其村々ニ而捕 置,早々可申立候

   但,かさつニ無之,縄等掛ケ不申候之様可致    候

右之趣可被相触候,尤此触書写置,村々庄屋・組頭 共宅ニ張置,無忘却屹度相守候之様可申付候,已上   五月十六日

御代官様より御召之上,右( 之 脱 )通相触候様被 仰渡候間,

村々不洩様早々御触可被成候,已上   五月十七日        触元

       大庄屋 印     中嶋 印

    御立 印     辻川     右大庄屋所

この触は文政 6 年 5 月17日に,やはり触元大庄屋から 中嶋組・御立組・辻川組の大庄屋所に伝達されたもので,

鷹場での殺生禁止について具体的に示している。

姫路藩に鷹場があったことを明確に示す内容で,その こと自体が興味深いことであるが,ここでは触の伝達そ のもののあり方を問題にしよう。

先の触と同様,触元大庄屋から中嶋組・御立組・辻川 組の大庄屋へ触が伝達されており,この 3 組が触の伝達 における一つの単位であったことが了解される。「中嶋」

と「御立」の下に押印されているのは,すでにこれら 2 組の大庄屋が触を受け取ったことを示している。その状 態の触書を藤作が受取り,写し取っているのである。し たがって,「辻川」の下にはまだ押印されていないので

(5)

ある。この後,藤作は「辻川」の下に押印し,触書を触 元大庄屋へ返したと考えられる。触は 3 組を一つの単位 として伝達されたが,その順番は中嶋組→御立組→辻川 組となっていたわけである。

また,傍線部も先の触と同内容で,やはり 3 組が触の 終着点ではないことが分かる。

つまり,姫路藩では,代官→触元大庄屋→大庄屋→大 庄屋組内の村々というルートを経て領内村々へ藩の命令 を周知させるようになっていたのであり,村々に触を伝 達するという重要な役割を大庄屋が担っていたのである。

藤作が管轄したのは辻川組であり,彼は同組内の村々 に触を伝達していたのである。

3. 2. 願書への押(奥)印

次に,村々から藩宛の願書への押(奥)印について見 よう。

    差上申願書之事

一当村佐兵衛年三十八,右之者此度勝手ニ付同村庄 八方江同居仕度奉願上候,右願之通被 仰付被下 置候ハヽ難有奉存候,以上

  文政六未年正月    辻川組田尻村庄屋        庄右衛門㊞

       右之通奉願上候,以上       大庄屋

       三木藤作㊞

  内海藤橋様       御役所

この願書は文政 6 年 1 月に,辻川組田尻村の庄屋庄右 衛門から代官内海藤橋の役所へ提出されたもので,同村 の佐兵衛が同村の庄八方へ同居したいと願っているのを 認めてもらえるよう願っている。

しかし,田尻村の庄屋庄右衛門から代官所へ直接願書 を提出するのではなく,大庄屋三木藤作が奥印を押した 上で,代官所へ提出している。

もう一例,示そう。

   奉差上一札之事

一当村仁兵衛弟吉五郎義,当未正月与風家出仕,其 節御届奉申上候処,二月二日より三月三日迄三十 日尋被仰付,処々相尋,行衛相知不申段御届可奉 申上之処,不調法仕,蒙御察当,何共一言之申訳 無御坐奉恐入候,何卒別紙御届御受取被成下候様 奉願上候,右願之通御聞済被成下候ハヽ難有奉存 候,以上

  文政六未年      辻川組東小畑村       四月十八日        組頭        平十郎

      庄屋        庄之助

    右之通一札奉差上候,以上        大庄屋

       三木藤作     内海藤橋様

       御役処

この願書は文政 6 年 4 月18日に,辻川組東小畑村の組 頭平十郎・庄屋庄之助から代官内海藤橋の役所へ提出さ れたもので,同村仁兵衛弟吉五郎の家出について,その 捜索結果の報告を怠り,察当を受けたことにつき許しを 願うといった内容である。

しかし,この場合も東小原村の組頭平十郎・庄屋庄之 助から代官所へ直接願書を提出するのではなく,大庄屋 三木藤作が奥印を押した上で,代官所へ提出している。

このように,辻川組内の村々から代官所へ願書を提出 する際は,村々から直接提出するのではなく,同組を管 轄する大庄屋が取り次ぐ形で代官所へ提出することに なっていたのである。

3. 3. 村々の取締り

さて,これまで見てきた職務は,いわば代官と村々との 間の仲介業務であるが,次に,藤作が代官の指示を仰ぎ ながらも,組内の村々を直接支配する側面を見ていこう。

   乍恐御伺之口上書

      山崎組福田村        宿

       新 蔵        緑四郎倅        佐兵衛

      丈右衛門       吉右衛門          此勇吉義藤十郎方江

         参居候者     勇 吉        〆       神谷村       半四郎倅        亀 吉

         此次右衛門義佐十

         郎名跡為相続,田 次右衛門          野組恒屋村より参

         居候得共,未入帳          いたし不申者(之脱カ)由        〆       田口村        新 蔵

       〆

右之者共去午十二月廿九日夜,新蔵宅於而博奕仕候 由承申候,是迄ニも非人番より加異見候(由脱カ)承申候,乍 恐御内々奉申上候,以上

 文政六未正月      大庄屋

(6)

姫路藩大庄屋三木家の職務について

73

      三木藤作 印

 内海藤橋様      御役処

この口上書は文政 6 年 1 月に,大庄屋三木藤作から代 官内海藤橋の役所へ提出されたもので,昨年12月29日の 夜に,山崎組福田村・神谷村・田口村の者どもが,田口 村の新蔵宅において博奕をしていたことを報告してい る。これまでにも非人番が注意していたとあるので,常 習犯として見過ごせなかったためであろう。このように,

藤作は村々の取締りにも関与していたのである。

なお,この口上書からは,彼が辻川組に隣接する山崎 組(図 1 の⑧)の大庄屋を兼帯していたことが知られる。

山崎組は山崎村・坂戸村・甘地村・近平村・奥村・田口村・

板坂村・桜村・長野村・神谷村・福田村・西谷村・溝口 村・野田村・高橋村・西治村・福崎新村・馬田村・戸坂 村の計19カ村(5)からなる。彼は 2 組で合計36カ村を支配 していたのである。その背景としては,文化 9 年(1812)

8 月以降,姫路藩が大庄屋の削減を命じ,村々に課され る大庄屋関係費用の削減と大庄屋による恣意的な大庄屋 組支配の排除とを図っていたことがある(6)。しかし,こ れまでの研究では,この時期の山崎組をどの大庄屋が兼 帯していたのかは明らかにされておらず,藤作が同組の 大庄屋を兼帯していたというのは,今回新たに判明した 史実である。

このことを確認する意味でも,もう一例,藤作が村々 の取締りに当たっていた様子を示そう。

    奉差上候一札之事

一我々共牛博労札頂戴仕,農業之透間ニ牛売買仕罷 在候,然処兼而被仰渡之趣忘却仕,無札之者共ニ 相交下博労抔と相唱牛為致売買,別而穢多博労之 義ハ前々厳敷御法度ニ御坐候所,其差別も無御坐,

不埒之風聞達御聞,今日御召出之上蒙御察当奉恐 入候,已来兼而被仰渡之趣急度相守可申候,万一 相背候節者如何様ニ被仰付候共,其節一言之申分 無御坐候,依之為後日一札奉差上候所,少も相違 無御坐候,以上

  文政六未年    山崎組西治村

       三月四日       徳右衛門 印       福田村

      久左衛門 印       山崎村

      吉五郎  印       坂戸村

      吉太郎  印       溝口村

      惣太夫  印        右之村々役人

        辻川

      大庄屋所

この一札は文政 6 年 3 月 4 日に,博労である山崎組西 治村の徳右衛門らから辻川大庄屋所へ提出されたもの で,無札の者を下博労などと称して,彼らに牛の売買を させていたことについて,今後はそのようなことをしな いと誓っている。

ここからは,藤作が山崎組の大庄屋を兼帯し,同組内 の村々の取締りに当たっていたことが確認できる。具体 的には,姫路藩では無札の者が牛の売買に携わることが 禁止されていたが,それを守らなかった徳右衛門をはじ めとする博労たちを藤作が召喚した上で察当を加え,右 の禁止事項を遵守するよう誓わせているのである。

なお,同日に,山崎組野田村に住む,徳右衛門の倅徳 七からも辻川大庄屋所へ一札が提出されており,「私義 是迄折々牛売買仕,博労ニ似寄申候業仕候様風聞御坐候 趣達御聞,今日御召出之上,兼而御法度義被承知,右之 次第厳敷蒙御察当,一言之申訳無御坐奉恐入候」とある。

つまり,徳七は先の一札に見た無札の者の一人というわ けである。続けて一札には,「是迄之義ハ御呵之上,已来 牛売買筋へ決而不相携候様被為仰付奉畏候,已後牛博労 筋ニ相携候義御坐候節者如何様之御咎被仰付候共,其時 一言申分無御坐候」とあり,彼は今後,牛の売買に携わ らないよう藤作から命じられ,そのことを承知している。

以上のように,藤作は大庄屋として,姫路藩の政策を 乱す者に対しては厳格な態度で臨んでおり,自らの管轄 する組内で同藩の政策を下支えする役割を担っていたの である。

3. 4. 出入の吟味

最後に,藤作が出入の吟味に当たっていた様子を見よ う。

   差上申願書之事

一同組北野村地内うしろ山と申所ニ我々御運上御林 相預り居申候ニ付,長八と申者ニ為致番居申候所,

今日長八倅山見廻ニ参候処,保喜村之者一人参,

松之枝幷落葉等取居申処ニ付咎候処,荷物捨置罷帰候 処,無程大勢押寄候ニ付,早々逃帰候趣,親長八 甚心咳(外)体ニ而我々方江申参,右体保喜村之者強勢 仕候得者,中々番も難仕申出候ニ付,銘々かけ付 見候所,松之枝等荒シ,村中迄皆々帰居申候故,

保喜村庄屋江其趣届置罷帰申候,右体強勢成致方 ニ而者番いたし候者も無之様相成候而者,御林生 立不申歎敷奉存候,何卒乍恐保喜村之者共御召出 被遊,御吟味之程奉願上候,以上

  文政四年           巳十二月

      辻川組同村願人

      清太夫  印        次右衛門 印

(7)

       金兵衛  印        傳右衛門 印        多十郎  印        治兵衛  印        北野村

      文右衛門 印        辻川村庄屋       仙之助  印

       北野村庄屋       吉右衛門 印 この願書は文政 4 年(1821)12月に,辻川組北野村の 願人たちから藤作へ提出されたもので,同村地内のうし ろ山にある運上林へ同組保喜村の者が入り込んで松の枝 や落ち葉などを盗んだ件で,同村の者どもの吟味を願っ ている。

この願書を受理した藤作は,「右之通願出候ニ付改日 召呼相調候」とあり,後日,保喜村の者どもを召喚し,

吟味を開始している。しかし,「着々相分候得とも,外 御用差支ニ付差延候処,午春正月十二日立ニ而出府いた し,其後御用差支,午年中得取掛り不申,未春入ニ相調 候」とあり,御用繁多につき吟味は先延ばしになり,文 政 6 年の春に入って漸く吟味を再開している。その後の 経緯を見てみよう。

       保喜村       年三十七 傳兵衛       同三十弐 粂右衛門       同三十八 常次郎       同弐十七 惣右衛門

一其方去々巳年十二月中,北野村分御運上林江落葉 盗ニ参候節,山番之者見咎候処,却而多人数催番 之者追行可及打擲之趣ニ候所,番之者逃延候由,

盗山ニ参,剰強勢之働如何相心得右体仕業ニ有之 候哉,形合可申之

此義落葉盗取申度,粂右衛門・常次郎・惣右衛 門・藤蔵・已之助同道仕,林之際江参候所,弥 右衛門・傳兵衛先江参居,弥右衛門持参の俵等 山番ニ被取候ニ付,取返呉度弥右衛門相頼候ニ 付,弥右衛門・傳兵衛ニ引続五人共山之中程迄 追掛ケ申候得とも,山番逃去候ニ付,銘々高声 ニ雑言仕引取申候,尤落葉已之助者跡ニ残居申 義ニ御坐候

一山番之者捕候上者如何いたし候存心ニ候,多人数 追掛ケ候哉

此儀弥右衛門被取候俵等取返申度,且者少々悩 メ置候得者重而山江入込候節厳敷も申間敷哉と 相心得,無弁追掛候義ニ御坐候

一兼而留山之義乍存多人入込,剰番之者致打擲置候 得者,後々我儘ニ入込候様相成可申と相工候様

重々不届至極候,申分ケ有之候哉

此義蒙御察当,一言之申訳無御坐奉誤入候,此 義ニ付如何様之御咎被仰付候共,少も申分無御 坐候,右奉申上候通少も相違無御坐候,以上  文政六未年   辻川組保喜村

      三月        傳兵衛   印       政右衛門倅

      粂右衛門  爪印        常次郎   印        惣左(右)衛門  印   右申上口承り候処,相違無御坐候,以上        五人組頭

      清次郎   印        同

      弥次右衛門 印        庄屋

      頼之助   印          取次井ノ口村

       庄屋

      儀左衛門  印       保喜村

       年十七 藤 蔵       同十五 已之助 この文書は文政 6 年 3 月に,保喜村の傳兵衛・粂右衛 門・常次郎・惣右衛門から藤作へ提出されたもので,藤 作からの 3 つの質問に対して,それぞれ 4 人が回答して いる。

第 1 条では,文政 4 年12月に,北野村の運上林へ落ち 葉を盗みに入った時,山番の者を追いかけて打擲に及ん だことについて,その理由を藤作が問いただしている。

それに対し,傳兵衛たちは,弥右衛門なる人物が持参し ていた俵などを山番に没収され,それを取り返すために 山番を追い掛けたと回答している。

第 2 条では,山番の者を捕らえてどうするつもりで あったのか,また,なぜ多人数で追いかけたのかと藤作 が問いただしている。それに対し,傳兵衛たちは,弥右 衛門が没収された俵などを取り返すためであり,また,

少々悩ませておけば,今後,運上林へ入り込み易くなる のではないかと思い,追い掛けたと回答している。

第 3 条では,運上林へ多人数で入り込み,その上,山 番の者を打擲し,後々我儘に運上林へ入り込もうと企ん だことに対し,「重々不届至極候」といい,このことに ついて申し分があるか,と藤作が問いただしている。こ れに対し,傳兵衛たちは,一言の申し分もないといって 誤り,どのような咎めを仰せ付けられても構わないと返 答している。

このように藤作は吟味を行っているのであるが,注意 しておきたいのは,奥書に名を連ねている井ノ口村の庄 屋儀左衛門の存在である。すなわち,彼が取次として,

(8)

姫路藩大庄屋三木家の職務について

75

藤作と傳兵衛たちとの間に入ることで,この吟味が進行

しているのである。このような吟味の仕方が恒常的なも のであったのかは今のところ定かではないが,大庄屋が 広大な組内を支配していたことを考えれば,彼らのよう な存在にも注目する必要があるであろう(彼らが後述する 支役庄屋に相当する存在であったのかは判然としない)。

なお,今回の事件に加わっていた藤蔵と已之助は末尾 に名が記されているだけで,吟味は受けなかったようで ある。或いは若年ということが関係しているのかもしれ ないが,定かではない。また,弥右衛門も事件に加わっ ていたが,やはり吟味は受けなかったようである。この 点についても理由は定かではない。

さて,右の文書を受けた藤作は,いよいよ裁判を行う ことになったと考えられるが,同月,北野村の山持惣代 清太夫・傳右衛門たちが辻川大庄屋所に対して,「西野々 村庄屋佐十郎ヲ以段々手入仕,内済仕候ニ付,先達奉差 上候願書何卒御下ケ被下置奉願上候」と,願書の下げ戻 しを願ってきた。

この経緯についてもう少し詳しく知るために,この直 後に,取次の儀左衛門から辻川大庄屋所へ提出された一 札を見てみると,その中に次のようにある。

一右之者,去ル巳年十二月,各様方御所持北野村分 御運上林江立入不埒仕,其上山番之人見咎メ候得 者,却而大勢馳行打擲も可仕哉ニ強勢成振舞御坐 候ニ付,其段被成御願,其節より段々御調之上,

弥相違も無御坐候ニ付,御咎メ之程恐入,西野々 村庄屋佐十郎ヲ以段々御歎申上候所,御聞届被下 御願下ケ被成下,七人之者者不及申,村中一統難 有仕合奉存罷在

つまり,咎めを受けた七人(弥右衛門・傳兵衛・粂右 衛門・常次郎・惣左衛門・藤蔵・已之助)は,神東郡西 野々村の庄屋佐十郎に北野村との仲裁を依頼し,彼の嘆 願によって,北野村の山持惣代らが願書の下げ戻しを願 うことになったというわけである。

以上,藤作による辻川組内での出入の吟味について見 てきたが,彼が大庄屋として同組内で裁判権を持ってい たことは間違いない。ここで見た事例は,最終的には内 済によって決着が付いているが,そのことを含めて,今 後,他の史料も合わせて分析することで,三木家による 出入の吟味のあり方を,より詳細に解明する必要がある と考える。

ところで,藤作が村々を直接支配する側面の一つとし て出入の吟味を取り上げているが,既述のように,彼は 山崎組の大庄屋を兼帯しており,同組内での出入の吟味 まで行うことは困難なことであった。村々の取締り以上 に,出入の吟味は手間のかかる仕事だったからである。

では,藤作は山崎組内で発生した出入をどのように吟 味していたのであろうか。次に一例を示そう。

 松平阿波守様御領分阿州名東郡高崎村        直次郎弟        熊吉

右之者鹿万津宮町十兵衛と申者談合一札差入,甘地 村藤四郎・藤九郎と申両人之者引受,九ケ年以前甘 地村へ参,万事両人より致世話候者,藍染職相始候 処,追々致立身,当節ニ而者余程手広ニ職いたし候 様相成,然ル処,元を忘,困窮之両人厄介同前ニ相 成候義を厭,且村内ニ腰押之者も有之候ニ付,両人 江背,元来宗旨之義迄両人差図ニ相洩申間敷一札差 入有之候故,両人菩提寺同(村脱カ)光圓寺へ可付処,取工候 者有之,同村積晴寺旦那ニ元付掛候処,両人之者

(而脱カ)

不致承知候故,去午年七月頃彼是出入ケ間敷相成 居候処,積晴寺より勝手宜内意申入候と相見,旧冬 宗門御役処此方御召ニ而取治候様被仰聞,双方此方 召呼,支役山崎村庄屋儀助諸共色々致世話遣候得共,

何分紺屋強情ニ而和談相調不申候ニ付,尤其訳可相 届存心ニ候処,積晴寺より今一応取治見貰度深被相 頼候ニ付,二月十七日積晴寺・光圓寺,藤四郎・藤 九郎,光圓寺門徒惣代両人,村役人幷五人組(頭脱カ)両人召 呼,精誠理解為申候処,双方納得ニ而相済

阿波国名東郡高崎村の熊吉は,9 年前に神西郡甘地村 の藤四郎・藤九郎の世話を受けて同村に移り住んだ。そ の後も両人の世話になっていたが,藍染職で成功した熊 吉は,困窮した両人が自分の厄介同前になっていること を厭い,両人の指図で両人菩提寺光圓寺の旦那になって いたところ,手助けする者もあって積晴寺の旦那になっ たという。両人はこのことを決して認めなかったため,

文政5年(1822)7 月頃に出入の様子を呈するに至った ところ,積晴寺から内意を申し入れたと見え,宗門役所 から藤作が召し出され,取り治めるよう命じられた。そ こで彼が出入の吟味に乗り出し,支役庄屋の山崎村庄屋 儀助とともに事に当たり,紆余曲折を経て解決に至った というのである。

ここで注目したいのは支役庄屋の存在である。支役庄 屋とは,大庄屋の補佐役であった。彼らのような補佐役 が,大庄屋支配を文字通り支えていたのである。

ただし,支役庄屋はあくまで大庄屋の補佐役であって,

今回の出入の吟味においても,その主体は大庄屋であっ た。やや煩雑になるが,今回の出入が解決したことを示 す一札を 3 点掲げ,そのことを確認しておこう。

   差上申済口一札之事

      松平阿波守様御領分阿州名東郡高崎村       直次郎弟        熊吉

右之者九ケ年已前文化十二亥年以来当村藤四郎・藤 九郎両人引請ニ而,当村ニおゐて藍染職相勤罷在候,

然ル処,村方江入帳之砌者万事両人差図次第之約定

(9)

ニ有之候処,無拠訳合有之,熊吉義国元菩提寺より 拙寺江改寺一札差向候ニ付,引請両人存意ニ相背,

入帳之義取縺候処,此度山崎村庄屋儀助殿御取噯ヲ 以,其地ニおいて出生熊吉男子壱人直蔵義引請人両 人菩提寺同村浄土真宗光圓寺江元付,熊吉蒙引請両 人江一旦背合候段誤相立テ双方無迷念,右両人取持 として村方江入帳御願可申段和談仕候処相違無御坐 候,尤熊吉義ハ未入帳御願不申候者故,済印形不仕 候得共,拙僧引請聊違背為申間敷候,依之済口一札 差上申候処相違無御坐候,以上

文政六未年      山崎組甘地村曹洞宗      二月       積晴寺  印

      五人組頭

      源四郎  印       同

      宗左衛門 印       組頭

      長左衛門 印       同

      金兵衛  印       庄屋

      又 蔵  印     辻川

      大庄屋所

この一札は文政 6 年 2 月,山崎組甘地村曹洞宗積晴寺 他 5 名から辻川大庄屋所へ提出されたものであるが,支 役庄屋の山崎村庄屋儀助の取扱いによって,熊吉の息子 直蔵を光圓寺の旦那とし,熊吉が藤四郎・藤九郎に一旦 背いたことを誤ったことで「双方無迷念,右両人取持と して村方江入帳御願可申段和談仕候処相違無御坐候」と,

和談が成立したことが述べられている。

   差上申済口一札之事

      松平阿波守様御領分

      阿州名東郡高崎村直次郎弟       熊吉 右之者九ケ年以前文化十二亥年於当村藍染職仕取続 之上者,村方江入帳仕度段飾萬津宮町瀧本屋十兵衛 ヲ以,我々両人江世話相頼申候ニ付,万事我々両人 差図相洩不申旨幷熊吉身上引請候段,則十兵衛より 慥成一札受取,我々共引受内分ニ而是迄甘地村住居 罷在候処,此度同村曹洞宗積晴寺江阿州熊吉菩提寺 より我儘ニ改寺一札取寄,年来世話仕候我々共江対 重々不実之義御坐候而取縺候処,御他領之者長々内 分差置候段蒙御察当,一言之申訳無御坐奉恐入候,

然処,山崎村庄屋儀助殿御取扱ヲ以,熊吉義者積晴 寺江元付,当村ニ而出生同人男子直蔵義者,我々共 菩提寺浄土真宗光圓寺江元付,熊吉是迄不実之段誤 相立双方無迷念,則我々共取持ニ而当村江入帳御願 可申上段和談仕候処,少も相違無御坐候,向後互以

前江立戻り睦敷可仕候,尤村方同宗之者共一統聊故 障無御坐候,依之惣(代脱カ)印形相加,済口一札奉差上候処,

少も相違無御坐候,以上

 文政六未年      山崎組甘地村

      二月      藤四郎  印        藤九郎  印       光圓寺旦那惣代       伊左衛門 印

       多吉郎  印       五人組頭

      宗左衛門 印        源四郎  印       組頭

      長左衛門 印       同

      太兵衛  印       庄屋

      又 蔵  印      辻川

       大庄屋所

この一札も文政 6 年 2 月,山崎組甘地村藤四郎・藤九 郎,光圓寺旦那惣代伊左衛門・多吉郎他 5 名から辻川大 庄屋所へ提出されたものである。先の一札と内容は同様 のものであるが,ここでも支役庄屋の山崎村庄屋儀助の 取扱いによって和談に導かれたことが記されている。し かし,一札は大庄屋藤作宛に提出されていることを確認 しておきたい。

   差上申一札之事

         松平阿波守様御領分

       阿州名東郡高崎村直次郎弟       熊吉

右之者当村藤四郎・藤九郎両人引請ニ而九ケ年以前 文化十二亥年以来当村ニ住居罷在候処,両人より差 上別紙之趣ニ而一旦取縺候処,御理解ヲ以双方和談 之上,村方江入帳御願奉申上候義,村方一統少も故 障無御坐候,尤是迄内分差置候段蒙御察当,村役人 初我々共一統申訳無御坐奉恐入候,依之一札奉差上 候所,少も相違無御坐候,以上

  文政六未年    山崎組甘地村         二月     五人組頭惣代       宗左衛門 印       源四郎  印        組頭

      長左衛門 印        同

      太兵衛  印        庄屋

      又 蔵  印       辻川

        大庄屋所

(10)

姫路藩大庄屋三木家の職務について

77

最後の一札も文政 6 年 2 月に,山崎組甘地村五人組頭

惣代宗左衛門・源四郎,組頭長左衛門・太兵衛,庄屋又  蔵から辻川大庄屋所へ提出されている。この一札は済口 一札と位置づけられるものではない。「村方江入帳御願 奉申上候義,村方一統少も故障無御坐候」と,五人組頭 惣代たちが,他領の者である熊吉を村民とすることにつ き故障のないことを申し入れているのである。加えて,

他領の者である熊吉をこれまで内分に差し置いていたこ とにつき藤作から察当を受け,「村役人初我々共一統申 訳無御坐奉恐入候」と詫びを入れてもいる。今回の吟味 では当事者のみならず,他領の者である熊吉の不法な長 期滞在を黙認したことにつき,甘地村五人組頭らの責任 まで問われ,さらに,2 点の済口一札の内容からも,不 法滞在を問題視した藤作が,熊吉を正式な村民とする手 続きを促したことがうかがえる。

さて,これら 3 点の一札が全て辻川大庄屋所,つまり 藤作へ提出されていることからして,吟味の主体が大庄 屋藤作であったことは間違いない。今回の吟味は,藤作 が兼帯する山崎組でのことであり,支役庄屋の取扱い(7)

なくしては円滑に進めることができなかったと考えられ る。とはいえ,支役庄屋に任せきりにするのではなく,「支 役山崎村庄屋儀助諸共色々致世話遣」わし,解決に導い ているのであり,あくまで吟味の主体は藤作だったので ある。その意味で,支役庄屋は大庄屋支配の中に組み込 まれた存在であり,支役庄屋は大庄屋制の一部を成すも のと理解しておきたい。

4 .おわりに

最初の課題設定に従い,辻川組の大庄屋三木家の職務 の一端を明らかにしてきた。

今回は,大庄屋三木家文書中の「日記」のみを素材と したため,時期的に限定され,かつ十分な分析を展開し えていないが,近世後期の姫路藩大庄屋制のあり方の一 端に迫りえたのではないかと思う。

残された課題は多岐にわたるが,その一つに,大庄屋

―支役庄屋の関係をさらに明らかにすることがある。な ぜなら,既述の通り,文化 9 年 8 月以降,姫路藩は大庄 屋を削減し,大庄屋による恣意的な大庄屋組支配の排除 を図ったのであるが,そのことは必然的に多くの大庄屋 が他の大庄屋組の大庄屋を兼帯するという事態を生ぜし めたのである。そのことと支役庄屋が普及してくること とは密接に関係していたと考えられる。そして,羽田の 研究(8)によると,彼らは組中惣代でもある庄屋から主に 任命されていた。そのことを踏まえれば,支役庄屋は単 なる大庄屋の補佐役というに止まらず,彼らが大庄屋支 配を支えることで,従来の大庄屋支配そのものを変質さ せた可能性がある。現段階では仮説の域を出ないが,彼

らの普及は大庄屋による恣意的な大庄屋組支配の排除が 図られたこととも密接に関連していたのではないかと考 える。そうであるならば,大庄屋支配の変質は,従来の 姫路藩による地域支配自体が質的に転換したことを示し ている可能性もあるのである。大庄屋―支役庄屋の関係 を重視する所以はここにある。

なお,羽田は,支役庄屋は「おそらく大庄屋の指名で 決められていたと考えられる」「藩は支役庄屋の選出に までは関わらなかった」(9)と述べているが,「日記」には,

大庄屋藤作が代官内海藤橋の役所に対して,「何卒御役 所より支役庄屋御差向被下置候」などと願う記事も含ま れている。本稿では敢えて詳細な分析を行わなかったが,

支役庄屋の選出方法については姫路藩大庄屋制の性格に も関わる重要な問題であり,別の機会に詳細に明らかに したいと思う。

ところで,大庄屋三木家文書中には,「日記」の他に も,多様な大庄屋の職務の実態を示す史料が含まれてい る。今後も引き続き,これらの史料群を調査・分析する ことで,大庄屋三木家の職務の実態を解明し,他の史料 群の分析も併せて行うことで,姫路藩大庄屋制の全貌に 迫りたいと思う。本稿はその過程における基礎的作業の 一つである。

(1) 「播州姫路藩の触元大庄屋と在年行事について」(『関西学 院史学』30,2003年) ・ 「播州姫路藩の大庄屋制と支役庄屋」

(『ヒストリア』186,2003年)など。

(2) 橋本政次『姫路城史』下(姫路城史刊行会,1952年),198

~ 200頁。

(3) 「領内郷村高覚書」(『姫路市史』10 史料編近世Ⅰ,117号)

による。なお,同史料には辻川組が21カ村からなることが 記されているが,記されている村は17カ村である。

(4) 「国訴と大坂町奉行所・支配国─播磨国の国訴をめぐって─」

(『日本史研究』564,2009年)。

(5) 注(3)前掲史料による。

(6)羽田真也 「播州姫路藩の触元大庄屋と在年行事について」

(『関西学院史学』30,2003年)。

(7)その他にも支役庄屋は様々な職務を果たしたが,その内容 は羽田真也「播州姫路藩の大庄屋制と支役庄屋」(『ヒスト リア』186,2003年)に詳しい。辻川組や山崎組内での支 役庄屋の職務については,稿を改めて詳細に明らかにする 予定である。

(8) (9)「播州姫路藩の大庄屋制と支役庄屋」(『ヒストリア』

186,2003年)。

〔付記〕

史料調査に際して,福崎町教育委員会のご高配を賜っ た。末筆ながら改めて御礼を申し述べたい。

平成27年 5 月 7 日受付,平成27年 7 月 6 日受理

(11)

参照

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